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栄光の家系の女達 - マリヤ4 皇帝アウグスト vs 乙女マリヤ(ルカ2:1-7)
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『そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。』(ルカ2:1)
この皇帝アウグストは、ローマ帝国の初代皇帝で、強大な権力と強力な軍隊を持ち、莫大な富を貯え、人々から「神の子、救い主」と呼ばれ、彼が赦免を告知することを人々は福音と言った。
とは言っても、それは武力による支配、十字架刑に象徴される恐れと刑罰を伴った強制的な支配であった。
それはキリストの支配、すなわち、平和と自由、愛による喜びの支配とは、全く逆の支配である。
そのアウグストが、人口調査せよとの勅令を出した場合、属国であるイスラエルの人は皆、それに従う以外には無かった。いかに、臨月に差し掛かっているマリヤと言えども。
マリヤ達が住んでいたナザレからベツレヘムまでは、百キロ以上ある。車も無い当時、妊娠し臨月になっていたマリヤにとって、かなり過酷な旅だった事は、容易に想像がつく。
思えば、マリヤにとってのクリスマスは、一番嫌なタイミングの時に、大変な思いばかりしている。
婚約中という最もセンシティブなタイミングに身ごもり、もうすぐ生まれるというタイミングで皇帝から勅令が出て、臨月中に長旅をしなくてはならなくなった。また、イエス様が生まれてまだ間もない時に、御使いのヨセフへのお告げで、着の身着のままでエジプトへ逃げなくてはならなかった。
これは、よほど御言葉に対する「従順力」が無ければ出来ない事だ。だからこそ、マリヤは選ばれたのだ。
マリヤのような栄誉と幸いに与れる人とは、どんな時でも主の御言葉に従順する人だと私達は学んでいる。
人は思うかもしれない。自分はマリヤのような特別な栄誉はいらない、マリヤのような試練にあうくらいなら、もっと凡人の、普通でささやかな人生を送れるなら、それでいい、と。そのような心配は、無用である。
主は私達に耐えられないような試練に遭わせたり、負いきれないような重荷を負わせるお方ではない。
私達の分に応じた役割と、ご計画を立てておられるのだ。いずれにせよ、御言葉に対する従順こそが、何よりの幸いの秘訣であり、御言葉への不従順こそ、何よりの不幸の元である。
私達は、日々の小さな従順を積み重ねていけば良い。それは積もり積もって大きな栄誉へと育って行く。
そして主は、誰もが目を見張って憧れるローマ皇帝よりも、主に対するつつましやかな従順を積み重ねる無名な信仰者にこそ、目を留められ、彼らを守り、導き、後には栄光の内に受け入れて下さるのだ。
皇帝アウグストとマリヤ、この二人を比べるなら、当時のマリヤは、無きも同然の弱く無名な者だったが、今、全世界に対し、また全歴史に対して、より影響力を与えた人は、どちらだろうか?
きっと、キリスト教を信じていない人でも、多くはマリヤだと答えるだろう。
事実、世界史は、マリヤが御言葉に従順した結果、生まれたイエス・キリストによって、大転換を迎える。
キリストの生まれる前はB.C.で「キリストの前」の意味、生まれた後はA.D.で「主の年に」の意味である。
そしてイエスを信じた人の一体、何十億の人生が、また社会が、そして国々が、光へと変えられただろうか。
同じように、無名な私達が、主に対して従順し服従する事によって、世界が、時代が動くのである。
マリヤのこの従順によって、およそ八百年前の預言、「イスラエルの支配者になる者ベツレヘムから出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)が成就し、そして「彼は大いなる者となって、(支配は)地の果にまで及ぶ」(同4節)という預言は、これからも成就して行くのである。
主は、永遠の昔から定められた事を成就させるために、アウグストを立て、動かし、聖徒のためには星をさえ動かす。主のなさる事は、時に、人の目には「どうしてこんなタイミングで?」と思う事もあるかもしれない。
しかしそれは、主が永遠の昔から私達に立てている将来と希望のご計画を成就されるためのものなのだ。
そして、主に対する聖徒の祈りと、その従順な行動は、世界を動かし、歴史を動かすのである。
どういう訳か主は、主を信じ御言葉に従順する人の祈りや行動を通して、世に関与され働かれる。
人は、この世においてアウグストのように強く、有名で、金持ちで、権力者になりたがる欲求が、少なからずあるが、主が現れ力を働かされるのは、その正反対にいる人達である。
支配権を主に明け渡して、主の前にへりくだる人達にこそ、主は現れ、力を働かれるのである。
そういう人は、真理と永遠の観点から見れば、世間の支配者よりも、より大きな影響力を持っているのだ!
礼拝説教メッセージ音声:見えるものによらず、御言葉によって(申命記4:9-19):右クリックで保存
モーセは、民がホレブで見た事を思い起こさせている。
イスラエルの民は、そこで大いなる光景を見た。
『あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう。」そこであなたがたは近づいて、山のふもとに立ったが、山は火で焼けて、その炎は中天に達し、暗黒と雲と濃い雲とがあった。』(申命記4:10-11)
モーセは、あのホレブで見たことを忘れるな、その事を子や孫に教えよ、と言っている。(申命記4:9)
あの時、火が山の上にあって、炎は中天に達し、山全体は黒雲に包まれて震え動き、雷鳴と角笛の響きが高く鳴り響く中で、主は降りて来られたのだが、その大いなる現象の中で、モーセが最も強調している事は、主はその中に見える形では見い出せなかった事だ。
「主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。」(12節)
後の時代の預言者エリヤも、同じ場所で、同じ体験をしている。(1列王記19:11-13)
イスラエルの民と、エリヤの二者が共通して体験した事は、主は大いなる現象を起こされたものの、主を見る事は出来なかった事、そして、主が御声をもって語られた、その内容のほうが、現象よりも重要である事だ。
『主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。その時、主はわたしに命じて、あなたがたに定めと、おきてとを教えさせられた。あなたがたが渡って行って自分のものとする地で、行わせるためであった。』(申命記4:13-14)
人々は何かと、主から石版をもらったとか、大いなる現象を見て体験したとか、そういった事を誇りやすい。
しかし大切なのは、その石板に記されている中身であり、その内容を、自分達の生活ステージのただ中で実行する事である。
いかに牧師が奇跡を行ったり感動的なメッセージをしたとしても、集っていた人達が、その与えられた御言葉を自分の生活の場に持ち帰り、それを守り行わないとしたら、何の益も無いのだ。
『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。』(申命記4:15)
主はここで再度、主について「なんの形も見なかった」と繰り返している。
私達も、目に見えるものにではなく、目で見えない御言葉にこそ、目を留めるべきなのだ。
『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:18)
そして主は、神といわれるものに関して、目に見える像を作る事を禁じている。(申命記4:16-19)
すなわち、自然界で目に見えるものは何でも、それが男であれ女であれ、動物であれ、天体であり、自分のためにそうした像を作って、それを拝んだりする事を禁じている。
『あなたはまた目を上げて天を望み、日、月、星すなわちすべて天の万象を見、誘惑されてそれを拝み、それに仕えてはならない。それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。』(申命記4:16-19)
昔の人は、地球が全ての中心で、太陽や月、星々は地球の周りを回っていると思っていたが、実のところ、それら星々のほうが、地球よりもはるかに大きかったのだ。
宇宙は、私達の目(地球から観測できる光)の届く範囲だけでも、137億光年もの広さがあり、そのさらに先はもっともっと広大な宇宙が広がっていると言われている。
その広大な宇宙に点在している星々も、太陽も月も、なんと、「それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。」
あの宇宙に浮かぶ巨大な星々は、このちっぽけな地球に住む万民に分け与えられたものなのだ!その事は、人の想像できる範囲を、遥かに超えている。
それ程に、主は、人の小さな頭では収まりきらないお方なのだ。
だから私達は、神に似せて何物も偶像(イメージ)を作ってはならない。
それはあまりにも愚かな事だ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪魔 - 日夜兄弟姉妹を訴える者(ゼカリヤ3:1-5):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 誓いについて(マタイ5:33-37):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
贅沢三昧の都の最後(黙示録18:14-24):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主の言葉に対して取るべき姿勢(申命記4:1-8):右クリックで保存
『イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを「聞いて」、これを「行い」なさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。』(申命記4:1)
主の御言葉を「聞いて」「行う」事、これはキリスト者がいつでも保つべき重要な姿勢である。
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようである。(ヤコブ1:23)
御言葉を聞いて行うなら、その人は、その行いによって祝福され、主が与えて下さる「良き地」で長く生き、生涯、良きもので満たされるのだ。
『完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:25) と、記されている通りである。
また、御言葉の権威に対し、人がつけ加えたり、減らしたりしてはならない。
『わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。』(申命記4:2)
黙示録にも、同じことが記されている。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)
御言葉を聞いたなら、それをそのままいただく事、それが、御言葉に対する正しい対応である。
しかしパリサイ人は、純粋な御言葉に多くの人間的解釈という「混ぜ物」を加えた事によって、自分自身だけでなく、多くの人々も、がんじがらめにして神の国から遠ざけてしまった。
御言葉は、主の息吹(霊)が込められており、主のご性質そのものが現れている。
そして御言葉は、世が滅んでも決して滅びる事なく、永遠に残る、決して変わらぬ真実である。
それを人間ごときが、自分の好き勝手によって加えたり減らしたりはできない。
もし、人が「御言葉を超える真理を編み出した」と思っても、その人はやがて消えていくだけである。
主は何のために、イスラエルに定めとおきてとを与えられたか。
それは、イスラエルの民が、その生活ステージのただ中で、「守って」「行う」ためである。
『しかし、あなたがたの神、主につき従ったあなたがたは皆、きょう、生きながらえている。わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。あなたがたは、これを「守」って「行」わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。』(申命記4:4-6)
この、御言葉を「守る」事と「行う」事、これもキリスト者がいつも目を留めておくべき重要なキーワードである。
もし私達が、御言葉を守り、行うなら、主が力強き御手でもって働かれ、それを見た周囲の人々は驚き、主の栄光は大いに広がるのである。
『われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。』(申命記4:7-8)
主は、インマヌエルなるお方、すなわち、共におられる神。
私達が寝ている時も、起きている時も、家にいる時も、仕事場にいても、また、若い時も、年老いた時でも、主は、主を恐れ敬う聖徒といつも共におられる神である。
白髪頭になっても、主は私達をおぶって運んで下さる。(イザヤ46:4)
この主にあって、私達はまさに特権階級である。
地上においても、永遠においても、主にあって幸いと祝福を得ていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:断られてしまったモーセの願い(申命記3:23-29):右クリックで保存
モーセは、荒野放浪の最後の年に犯してしまったあのメリバでの過ちの故に、約束の地には入れないと宣告されていた。(民数記20章)
あれだけの実績を残したモーセが、なぜ、ただ一度の失敗の故に、約束の地に入れなくなってしまったのか。
それは、荒野で40年もイスラエルと共に歩んできた「岩なるキリスト」に、尊敬と信頼をもって「語りかけ」、水を出していただくべきだった所を、民を怒る怒りに身を任せ、御言葉を無視し、岩なるキリストを二度「打って」しまったからだ。
「打つ」のヘブル語「ナーカー」には、他にも「罰する」「殺す」などの意味がある。十字架上で一度打たれ罰されたキリストを、二度も打つような事は、いかにモーセのような実績を残した人と言えども、許されないのだ。
(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1649&cid=35 )
彼らが約束の地に近づくにつれ、主は次々と輝かしい勝利をイスラエルに与えて下さっている様を見たモーセは、ああ、やっぱり自分も約束の地に入りたい、と思ったのだろう。
彼は「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしてみたが、主の返事は、とてもつれなかった。
『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。しかし、おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう。』(申命記3:26-28)
私はかつて、この箇所を読んだ時、すごい切なさを覚えた。
それは、長い間ある事を主に願い求めて来たのに、主からは何の返事も無く、また与えられる兆候も無く、ただ延々と断られ続けているかのように感じていた時だった。
イスラエルを約束の地に入れようと、長い年月、多くの苦労をしながら、主のために働いて来たあのモーセが願ったのに、主がすげなく断ってしまう様を見て、やるせない気持ちになったものだが、後になって思い返すと、あの時の私は、モーセと自分を連ねるなど、全くもっておこがましく自分勝手な状態だった事に気づいた。
モーセの場合は、主が示された約束の地に入れなくて切ない思いをしている、というのに、あの時の私は、全く逆だった。
つまり私は、神の国の事よりも、世の幸いや栄えを求めていて、それが与えられないからと悲しんでいたのだ。
私はずっと主にあって世から守られ、神の国の中で主と共にいたというのに、そんな素晴らしい状態に気づかず、むしろ、世のスタンダードに従って生きようとし、世間的に「幸せ」とされている事が満たされるほうを、願い求めていたのだ。
それまで、自分はまっとうなクリスチャンとして歩み、主が約束された国を望み見て歩むヨシュアとカレブの側の生活をしていた、と、思っていたら、実は全く逆で、むしろ世(エジプト)をなつかしみ、荒野でマナしか無い事を「みじめだ」と言って嘆いている、あの、荒野で滅ぼされてしまったイスラエル人のパターンに陥っていたのだ。
私は今や、主にとても感謝している。
主が私に計画されていた事は、世間一般の人たちが得ている普通の楽しみより遥かにまさる者として召しだされ、人々を永遠のいのちへと導き救うようにと、永遠の栄光をもたらす務めに任じられており、御言葉という、決して変わらぬ愛の法則を伝える栄光にあずかっているのだから。
よくぞ主は、私を世の中に安住する事を留め、自分で思っても見なかった程の栄光と幸いを与えて下さった、と、本当に感謝している。
皆さんも、かつての私のように、神の国の事ではなく、世の栄えや世の楽しみが与えられない事で、切なくなっていないだろうか。
私達が目指し、近づいているのは、世の栄華よりはるかに優れた、天の故郷である。
『また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。・・・
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。』(ヘブル12:16-25)
礼拝説教メッセージ音声:戦いも報酬も共に受ける(申命記3:12-22):右クリックで保存
続いてモーセは、ヨルダン川の東側で既に獲得した土地の分与をする。
『その時われわれは、この地を獲た。そしてわたしはアルノン川のほとりのアロエルから始まる地と、ギレアデの山地の半ばと、その町々とは、ルベンびとと、ガドびととに与えた。わたしはまたギレアデの残りの地と、オグの国であったバシャンの全地とは、マナセの半部族に与えた。すなわちアルゴブの全地方である。(そのバシャンの全地はレパイムの国と唱えられる。』(申命記3:12-13)
民数記32章を見ると、ヨルダン川の東側の領土を下さい、と、モーセに願い出たのは、ルベン族とガド族からだった。
彼らの当初の願いは、「もし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:4)という、自己中心的なものだったが、モーセに咎められ、要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地を先に受ける代わりに、他の部族が戦いに出る時は、一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)
主からの幸いを、ある兄弟姉妹は先に、ある兄弟姉妹は後に与えられる事がある。
その時、先に与えられた兄弟姉妹は、そこに安住し、まだ与えられていない兄弟姉妹をないがしろにしてはならない。
ルベン・ガド族、マナセの半部族は、先に領地が与えられたが、モーセは、イスラエルの全部族が領地を勝ち取る時まで、彼らは共に戦わなくてはならない、と命じた。(申命記3:18-20)
これはキリスト者全員にも言える事である。
他の兄弟姉妹が皆、一致して信仰の戦いをしているのに、自分達が先に幸いを得たからと言って、戦いを降りて安住するのは、神の民のする事ではない。
なぜなら、主にある兄弟姉妹は皆、キリストの体の各器官であり、互いが互いを助け合い、いたわり合い、共に喜び、共に悲しみ、そうしてキリストにある「一つ」を実現するように、召されているからである。
『それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。』(1コリント12:25-27)
だから、もし他の兄弟姉妹より先に幸いを得たとするならば、まだ得ていない兄弟姉妹が得る時まで、一緒になって戦うべきである。
『マナセの子ヤイルは、アルゴブの全地方を取って、ゲシュルびとと、マアカびとの境にまで達し、自分の名にしたがって、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけた。この名は今日にまでおよんでいる。)またわたしはマキルにはギレアデを与えた。』(申命記3:14-15)
民数記を見ると、当初、ヨルダン川の東側の領土を下さいとモーセに願い出たのは、ルベン族とガド族だけだったはずだが、途中からマナセの半部族も、それに加わっている。
もしかしたら、ルベン、ガドの申し出が通ったのを見て、「自分も」と進み出たのかもしれない。
しかも、マナセ族は積極的にエモリ人を攻撃し、勝ち得た土地に堂々と自分達の名をつけている。(民数記32:39-42)
このように、ある人が幸いを先取りして与えられたのを見て、信仰を奮い立たせ、積極的に進み出て大胆に勝ち取っていく兄弟姉妹もいるのだ。
またモーセは、次期イスラエルの指導者となるヨシュアに、特別に教えた。
『あなたの目はあなたがたの神、主がこのふたりの王に行われたすべてのことを見た。主はまたあなたが渡って行くもろもろの国にも、同じように行われるであろう。彼らを恐れてはならない。あなたがたの神、主があなたがたのために戦われるからである。』(申命記3:21-22)
ヨシュアは、主が戦われ、主が圧倒的に勝利を与えて下さるのを、モーセの近くでつぶさに見、神が活き活きと働かれるのを体験した。
そしてモーセ亡き後も、主は必ず同じように働かれ、共に戦って下さる、だから、恐れるな、とモーセは力づけた。
私達も、主からいただいた恵みを数えて見ると良い。
人生のあの時もこの時も、主があのように働いて下さった、だから今目の前に起きているこの問題も、必ず主と共に乗り越えて行ける、と、勇気が湧いてくるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:巨人をも打ち倒す(申命記3:1-11):右クリックで保存
主はシホンに続き、オグの治めるバシャンと戦うように命じられた。
『そしてわれわれは身をめぐらして、バシャンの道を上って行ったが、バシャンの王オグは、われわれを迎え撃とうとして、その民をことごとく率い、出てきてエデレイで戦った。時に主はわたしに言われた、『彼を恐れてはならない。わたしは彼と、そのすべての民と、その地をおまえの手に渡している。おまえはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように、彼にするであろう』。』(申命記3:1-2)
今回の敵は、さらに強敵である。
城壁のある町が六十あり、城壁のない町もまた数多くある。
城壁の町がそれだけ多い、という事は、この地方には争いが多くあり、野蛮な性質で戦い慣れしている、という事だ。
もしかしたらイスラエルには、バシャンの国に対する恐れがあったのかもしれない。
しかし主は、恐れるな、と言われた。
四十年前、彼らの親の世代のイスラエルは、城壁の町々や先住民に恐れをなして不信仰に陥り、主に逆らったが、主はその不信仰な世代を荒野で滅ぼし、子の世代の信仰を荒野で徐々に鍛えられた。
そして彼らは、実際に主の命令どおり進んで行き、勝利した。
『こうしてわれわれの神、主はバシャンの王オグと、そのすべての民を、われわれの手に渡されたので、われわれはこれを撃ち殺して、ひとりをも残さなかった。その時、われわれは彼の町々を、ことごとく取った。われわれが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十。アルゴブの全地方であって、バシャンにおけるオグの国である。これらは皆、高い石がきがあり、門があり、貫の木のある堅固な町であった。このほかに石がきのない町は、非常に多かった。』(申命記3:3-5)
これは、実に圧倒的な、そして、あっけない勝利だった。
ヘシュボンやバシャンの平定は、出エジプトから第40年目の、わずか一年以内に行われたはずである。
その一年以内で、このバシャンの戦いだけでも城壁の堅固な町を六十も攻め落としたのだから、戦績としては素晴らし過ぎるものがある。
それが、主が共におられ、主が戦われる時の戦績である。
『バシャンの王オグはレパイムのただひとりの生存者であった。彼の寝台は鉄の寝台であった。これは今なおアンモンびとのラバにあるではないか。これは普通のキュビト尺で、長さ九キュビト、幅四キュビトである。』(申命記3:11)
つまり、長さ4メートル、幅180センチ程である。その大きさから察するに、バシャンの王オグは、3メートルを超す巨体だったのだろう。
親の世代はたじろいだが、しかし今やイスラエルは、主にあって、彼らを打ち負かした。
この巨大な鉄のベッドは、主に信頼し主の御心に叶った戦いをするなら、こんな巨大な敵さえ打ち破る事が出来る、という、自信につながる記念品となった事だろう。
およそ40年前、ヨシュアとカレブは、知っていた。
敵がいかに強大であっても、主が共にいるなら、簡単に打ち破る事が出来る事を。
『ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」』(民数記14:6-9)
たといヨシュアとカレブのような、見ないでも信じられる信仰の持ち主でなくても、主は徐々に、耐えられるように、信仰を鍛えさせて下さる。
『あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。』(1コリント10:13)
今、皆さんが進むべき未来の前に、勝ち得ていくべき土地の前に、邪魔な巨人が立ちはだかっているだろうか。
もし皆さんが、主の御言葉に聞き従ってその通りに行うなら、相手が人間であれ、霊的存在であれ、何か制度的な問題であれ、主が祝福を約束され、いかに巨大な敵であろうと、主にあってあっけなく勝利できるのだ。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。・・・あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。 』(レビ記26:3-8)
栄光の家系の女達 - マリヤ3 マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)
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崔執事の証:右クリックで保存
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『わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救主なる神を「たたえ(大いに喜び)」ます。 この卑しい女をさえ心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしを幸いな女と言うでしょう。』(ルカ1:46-48)
ルカ1:46〜55の箇所は「マリヤの賛歌」と呼ばれる有名な歌である。マリヤは自分を、「どの時代の人々もうらやむ幸いな女」と言う程、喜びに喜んだ。彼女のように大いなる幸いを得るための秘訣を探りたい。
彼女が主を「あがめる」と言った言葉は、ギリシャ語で「メガリュオー」、「大きくする」という意味であり、また「卑しい(タペイノシス)」と自分を呼んだ言葉は、「低い」「陽のあたらない」等の意味がある。
つまり、マリヤの魂は主を大きくし、自分を低く、卑しくしたのだ。
バプテスマのヨハネも、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったように、主を大きくし、自分を小さくする姿勢こそ、聖書で成功している聖徒達の性質であり、私達もならうべき姿勢であり、そして、世の何者にも勝る平安と喜びに満たされるコツである。
逆に、神を「小さく」して、自分を「大きく」する事、それは神の力を自ら制限する事に他ならない。
私達が心配したり、自分の事で頭がいっぱいになっている時、神を小さくし、働けなくしてしまっているが、自分を下ろし、神を大きくするなら、無限なる神が主体性を持って働かれ、大きな事を為して下さる。
私達は、主に対しては清純な乙女として低くへりくだるべきであるが、世に対しては、王族の祭司として主イエスの名によって大胆に神の子としての主権を行使し、サタンに対しては、イエスの名によって強く雄々しく立ち向かい、大いに勝利し分捕るべきである。
マリヤは続いて、傲慢な者がたどる道についても歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いの奢り高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』
自分を大きくし、主たるお方を小さくするのは、聖書では失敗する典型であり、強制的に低くされてしまう。
例えば、アブラハムの妻・サラの女奴隷であったハガルは、自分が身篭ったのを知ると、アブラハムの家の「はしため」である地位を忘れ、傲慢になり、女主人であるサラを軽んじるようになった。(創世記16章)
マリヤは、神の子を身篭った事を聞いた時、自分を卑しく低くしたが、ハガルはその全く逆だった。
それ故ハガルは追い出され、道を行く途中、主の使いに声をかけられた。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」 主の使いはハガルの本来の立場である「サライの女奴隷」と呼び、彼女はそれに対し、自分は「”女主人”サライのもとから逃げているところです」と答えた。
彼女がもし「自分はアブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張していたら、どうなっていただろうか?それは、アダムやエバ、カインが自己主張した結果を見れば、大体想像できる。
彼女が正しい立ち位置を宣言したので、主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と、本来あるべき姿、あるべき所へ帰るよう諭し、そして、「あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束も与えられた。主従関係において、正しい立ち位置に戻るなら、主は祝福を戻して下さるのである。
キリストは、神であられるのに自分を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
このように、神の力強い御手の下にへりくだるなら、神はちょうど良い時に高くして下さるのだ。(1ペテ5:6)
マリヤは、霊においては「救い主」なる神を、大いに喜び楽しんだ(47節)。
皆さんは、若い花嫁が花婿を喜び楽しむように、主を喜び楽しんでいるだろうか?
私達を再建して下さる主もまた、私達を喜びとされる。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
マリヤが大いに喜んだ根拠は「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったから」だった。
万物はキリストのために存在し、キリストにあって成り立っている。その偉大な主が、私達の所に下りて来られ、私達と実際に関わり、しかも、私達の内に宿って下さる。それはどんなに莫大な喜びであろうか。
「そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」(ルカ1:49-50)
マリヤに与えられた、途方も無い幸いと祝福は、主を大きくし、自分を低くする人のものなのだ。
万物の存在の根拠なる主を喜び楽しみ、そして、その主からも喜び楽しまれる皆さんでありますように!