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今週は主日を皮切りに、初めてこの教会に訪ねて来て下さる兄弟姉妹たちが続々起こされています。 彼らがこの教会で感じた第一印象として共通している事は、なんだか初めて会った気がしない、アットホームな雰囲気で落ち着ける、という事でした。 それは私達はキリストにあって文字通り「兄弟姉妹」であり、同じ主を主としているからですね。 人が一つになれるのは、誰か人間の主義主張でも、人間の作った組織でも、教理教派でもなく、唯一、イエスキリストによってのみです。 この唯一の天からの声、イエスキリストに聞く教会、というスタンスから決して離れぬよう、いきたいです。
礼拝説教メッセージ音声:さばかれた過酷な支配者(創世記31:36-42):右クリックで保存
ヤコブは、自分や妻たちの天幕に次から次へと入り、持ち物を物色しているラバン達に、ついに怒りが爆発した。
怒りのきっかけは、我が物顔で物色したからだったが(36-37節)、そのうち、ラバンから20年間受けてきた不当な扱いに対する責めへと変わって行く。(38-42節)
「この二十年間というもの、わたしはあなたのもとにいましたが、あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはありません。わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。」(38節)
20年間、ヤコブが面倒見た家畜に流産が無かったのは奇跡的だが、それは主に祝福されていたからである。
なお、主人に雇われている羊飼いであるなら、遠方まで羊を導いて食料が無くなってしまった場合、特権として、羊の群れの中から食べても良い事になっていたが、ヤコブは、その特権を用いなかった。
パウロはコリントで伝道していた時、御言葉の奉仕者として当然受けるべき報酬を受け取らず、自らの手で働いて収入を得ていた(2コリント12:13)が、同じように、ヤコブもまた、ラバンの所有から羊を食べる事はしなかった。
それは、少しでも主人ラバンに躓きとならないように、という心遣からであろうが、ところがラバンはその尊い思い遣りを踏みにじり、もっとヤコブからふんだくろう、という方向性になって、その良心を利用した。
「野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。」(39節)
そこ、メソポタミアの法律・ハンムラビ法典では、野獣や病気、天災など、羊飼いの過失でない理由で羊が失われた場合、それは羊飼いの責ではなく、所有者の損失であるとされていた。
それなのにラバンは、それらも全て、自分の損失ではなくヤコブの損失とし、弁償するようにさせていたのだ。
「しかも、わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。」(40節)
砂漠気候のこの地方は、一日の温度差が非常に大きいため、羊の夜番をする時はかなり辛かっただろう。
そのような所で、眠ることもままならない程の過酷な労働条件を、ラバンは20年もヤコブに強要し続けて来たわけである。
しかも、ヤコブにとって不利になるように、報酬を十度も変えたのである。
「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。」(42節)
まさしく、その通りだったろう。
神が守って下っていなければ、過労死やうつ病になってもおかしくない。
しかし主は、不当な労働条件で働かされている者の叫び声を聞かれる。
「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」(ヤコブ5:4)
そして、そのような人々の祈りに主は耳を傾け、その劣悪な状態から開放し、乳と蜜の流れる所へと導いて下さる。(出エジプト3:7-12)
「神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」(42節)
過酷な支配者・ラバンは、さばかれたのだ。
同じように、イスラエルを奴隷にし過酷に支配したエジプトもさばかれ、そして、この世の支配者・サタンも、裁かれる。
たとい自分の力や権威、知恵がその者よりも劣っていても、主に拠り頼むのであれば、主が、その者を裁いて下さり、その者に自分の罪深さを認めさせるのである。
『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』(ヨハネ16:8-11)
礼拝説教メッセージ音声:ラバンの家からのエクソダス(創世記31:25-35):右クリックで保存
『ラバンはヤコブに言った。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは。』(創世記31:26)
ラバンの娘達は、ヤコブに無理やり駆り立てられたのではない。
父ラバンに7年の奉仕でヤコブへ売られ、父からは「よそ者」(姦通の女とも訳せる)と見なされ、売った事で得た富を父は食いつぶしたので、娘達のほうが父に愛想を尽かした、と言うのが、実情である。(15節)
『ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。』(27節)
彼の30章25節から36節までに記されたラバンの前歴を見ると、とてもそうは思えない。
『孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ。わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。」』(創世記31:28-29)
武装した身内を大勢連れて来ておいて、別れの口づけ、などと言えるような立場では無い気もするが、主は、ラバンがヤコブにしてきた仕打ちを残らず見ておられた。
だから主は、ヤコブを弁護して下さったのだ。(12節)
ラバンの言動へのヤコブの応えは、「わたしは、あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと思って恐れただけです。」この一言に尽きる。
ラバンの発言の端々から、ヤコブが娘達や家畜のために20年働いてきた事は全く度外視し、娘達や家畜たちは自分のものだと言うような、非常に自己本意な勘違いをしている節がある。
そのようなごうつくばりで、それでいて権威的に上で、強くて対抗できないような者には、主が指揮者となり、盾となって、相対して下さる。
「父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか。」
ラケルが守り神(テラフィム)を盗んでいたなど、つゆ知らなかったヤコブは、言った。
「もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください。」
そこで、ラバンはヤコブの天幕に入り、更にレアの天幕や二人の召し使いの天幕にも入って捜してみたが、見つからなかった。
ラバンがレアの天幕を出てラケルの天幕に入ると、ラケルは既に守り神の像を取って、らくだの鞍の下に入れ、その上に座っていたので、ラバンは天幕の中をくまなく調べたが見つけることはできなかった。
ラケルは父に言った。「お父さん、どうか悪く思わないでください。わたしは今、月のものがあるので立てません。」ラバンはなおも捜したが、守り神の像を見つけることはできなかった。
神はなぜこの時、ラケルの所からテラフィムが見つかるようにされず、敢えて、ラケルの良くない行動が明るみにされないまま、放っておかれたのか。
元々ヤコブは、ラケルが勝手にそんな事をしていたとは知らなかったのだし、もしこの時、ラケルの所からテラフィムが見つけ出されていたら、ラバンの心に大いに嘲る心を興させ、ヤコブにとって大きな災いとなっていただろう。
主はそれを防がれたのだが、しかし、ラケルのこの行動は明らかに主の御心を損なう行動である。
ラケルは、先祖崇拝・子孫繁栄のご利益物であるテラフィムを、父の所から盗み、自分のものとした結果、彼女は、先祖崇拝・子孫繁栄がらみの災いを、その身に刈り取ってしまう。
彼女に次回子供が生まれた時、彼女自身はそれでいのちを落としてしまい、さらにその後、ラケルの女奴隷ビルハは、レアの長男ルベンによって辱められてしまった。(創世記35章)
キリスト者たるもの、まことの花婿であるキリストに嫁ぎに行く時は、生来頼りとしていた偶像の神は、捨て去らなくてはならない。
『ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。』(ルツ1:15-16)
ルツは生来住んできた国、生来仕えてきた神を捨て、あくまで、イスラエルの神を自分の神とし、ナオミについて行きイスラエルに入ったからこそ、後にボアズと出会うようにされ、祝福された。
『ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」』(ルツ2:11-12)
ヤコブはラバンから真剣にエクソダスしようとし、それは大成功するが、ラケルはラバンの家からエクソダスし切れていなかったため、途中で葬られてしまった。
以前の国、以前の神を捨て去り、真の神、真の花婿であるキリストに嫁ぐのであれば、復活のいのちが芽生え、新しいいのちを生き、栄光の家系に加えられるのである。
しかし、真の神を知ってその民に加えられたのに、なお、以前の神に仕え偶像を拝むなら、災が下ってしまうのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヨナ(ヨナ書):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ2:9-12:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主のバックアップの下で(創世記31:17-24):右クリックで保存
ヤコブは意を決し、与えられていた御言葉をいよいよ行動に移した。
「ヤコブは直ちに、子供たちと妻たちをらくだに乗せ、パダン・アラムで得たすべての財産である家畜を駆り立てて、父イサクのいるカナン地方へ向かって出発した。」(創世記31:17-18)
2人の妻と2人の妾、11人の息子たち、また、膨大に増えた家畜たちと使用人たち、奴隷たちも含めた、大移動である。
そのリスクや労力を考えるとかなり大変だったであろうが、何より、ラバンに対する恐れ、エサウに対する恐れなど、この脱出は、彼にとっておそれるべき要素は色々あった。
しかし、彼は御言葉の約束を信じ、実行した。
「そのとき、ラバンは羊の毛を刈りに出かけていたので、ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。」(創世記31:19)
この守り神の像「テラフィム」は、厄除けや先祖崇拝のために用いる偶像としての役割の他、家督権を主張できる置物だったのではないかと言われている。
彼女がこの時、これを盗み出した動機は分からないが、この事は後に、彼女自身に災いを招いた。
サウルの娘・ミカルの家にもテラフィムがあった。(1サムエル19章)
ミカルとラケルに共通している事といえば、子を産まない事である。
テラフィムは、異教徒にとって先祖供養や子孫繁栄などにご利益があるかもしれないが、神の民が偶像に望みを置く場合、ご利益どころか、災いが振りかかる。
ミカルは生涯子を産まなかったし、ラケルは後に新しい命を生み出す段に当たり、自分の命を落としてしまう。
まことの神を知る者が、神以外のものに心の拠り所を置く時、災いがもたらされてしまうのだ。
「ヤコブもアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げ去ることを悟られないようにした。」(創世記31:20)
確かにラバンは俗悪な雇用主だったかもしれないが、曲がりなりにも、20年もお世話になった義理の父親に、何も言わずに出ていってしまうのは、道理に反する事である。
そのようにしてしまったのは、ヤコブの弱さからだったかもしれないが、神は、そうせざるを得なかった彼を憐れみ、物事を根回しして下さる。
ラバンは、ヤコブが逃げた事を三日目に知り、すぐに追いかけ、7日の道のりを追って行った。
すぐに武器を持った手勢を連れて出て、たった7日で追いついたのだから、相当の行動力である。
怒りに燃え、あわよくばヤコブを殺してしまおう、という勢だったのかもしれない。
しかし主は、直接ラバンの夢に現れて、言われた。
「あなたは心してヤコブに、よしあしを言ってはなりません」(創世記31:24)
アブラハムの妻サラが、ペリシテの王アビメレクに召しいれられてしまった時、夢に現れ、この王を震え上がらせてしまった主である。
ラバンも、相当恐れた事だろう。
こうしてヤコブとラバンとの対話が始まるのだが、それは全て、主の守りの下に行われるのである。
私達は弱さの故、非常識な、道理に反する事も、してしまうかもしれない。
しかし主は、ご自身に拠り頼む者の弱さを憐れみ、徹底して守って下さる。
そして、私達の中に道理に叶っていない性質があるなら、時にはラバンのような者をも用いて、義の道へと修正させ、導いて下さるお方である。
礼拝説教メッセージ音声:決して見捨てない主(創世記31:1-16):右クリックで保存
『ヤコブは、ラバンの息子たちが、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言っているのを耳にした。』(創世記31:1)
果たして、そうだっただろうか??
30章35節を見ると、むしろ逆で、ヤコブの受け取るべき報酬は、ラバンの息子たちが受け取って遠くに行ってしまっていた事が、記されている。
世の中には、誠実に働いて富を増やした人を妬み、有ること無い事を言いふらして陥れようとする者も多い。
また、過酷な要求をしたり、騙し取ったり、契約をころころ自分の有利なように変える雇い主も多い。
しかし主は、悪者の道に歩まず誠実に働く人をこそ祝福し、そのような所から出して、さらに優れた地へと導いて下さるが、悪者は、風に吹き飛ばされるもみがらのように散らされる。(詩篇1篇)
『主はヤコブに言われた。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」』(創世記31:3)
彼は、そのパダン・アラムの地から出て行くにあたり、2つの心配事があった。
ひとつは、自分が仕えている、ずる賢いラバンから、どうやってうまく出て行けるのか。
もう一つは、故郷にいる兄エサウが、今だ殺意を抱いているかどうか。
しかし主は、「わたしはあなたと共にいる。」と勇気づけ、明確に「帰りなさい」と導きを与えられたのだ。
『お父さんが、『ぶちのものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみなぶちのものを産むし、『縞のものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみな縞のものを産んだ。神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。』(創世記31:8-9)
これは奇跡的な事であるが、主は、いのちを支配する主であり、全てを益として最善へと導いて下さる主である。
たとえ意地悪な雇用主が、過酷で納得行かない事を命令しても、それに従った結果、いのちや財産や地位がそれによって助かったり、以前を上回る報酬が与えられるようになったり、という証は、キリスト者の間でよく聞かれる。
主は、主に信頼し御翼の陰に助けを求めて来る人を守り、祝福して富を増し加えて下さるのだ。
「ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。」(創世記31:12)
状況が中々変わらない時、主は見ておられないのでは、自分の事を忘れられているのでは、と、思う時があるかもしれない。
しかし、主は確かに見ておられ、主への叫びをしっかり聞き、時が来ればそこから導き出して下さるのである。
出エジプトの時も、主はエジプトにいるご自分の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の怒号も、労苦している彼らの叫び声も聞き、その痛みを知られたゆえ、主は降ってエジプト人の手から彼らを救い出し、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へと、彼らを導き上った。(出エジプト3:7-9)
『わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。』」』(創世記31:13
ヤコブが故郷を出てきた時は、たった一人で、持ち物といえば杖一本で出て来た。
そのような心細さの極みの時、主はベテルで現れ、天から地に向けてはしご架け、約束して下さった。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28:15)
この御言葉が、ヤコブの信仰の原点である。
そんな彼も、今や、妻たちを得、息子も11人生まれ、多くの家畜の群れや奴隷、らくだ等を持つまでに至り、主はそれに至るまでも約束をずっと果たして来て下さった。
『ラケルとレアはヤコブに答えた。「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。ラバンは、二人の娘達にも冷たくあしらい、言ってみれば売り渡し、見捨ててしまったようなものだ。わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか。父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。』(創世記31:14)
彼女たちは、肉親である父親に、売られ、捨てられてしまったようなあしらいを受け、悲しかったであろう。
しかし彼女たちは、決して捨てる事のない、真の父なる神に望みを置くようになり、ヤコブに、神様の言うとおりにして下さい、と勧めた。(16節)
「父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩篇27:10)
世の親は、その娘や息子を、捨てるかもしれない。
しかし、たとい親が私達を見捨てたとしても、主は決して見捨てないし、忘れない。
なぜなら主は、十字架上で、手のひらに私達を刻みつけられたからである。
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、
わ た し は あ な た を / わ た し の 手 の ひ ら に 刻 み つ け る。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(イザヤ49:14-16)
ベツレヘム祈祷院での泊まりがけの集会は本当に楽しく祝福されました。
いただいた恵みは多くあるのですが、中々書き記す時間がありません。
一言だけ言うとしたら、主イエス様は本当に真実なお方で、主に依り頼む人、主に依り頼む教会は、これでもか、と言える程愛され、祝福されるのだ、と、実感した事です。
礼拝説教メッセージ音声:水溜に十字架の木を入れよ(創世記30:35-43):右クリックで保存
「ところが、その日、ラバンは縞やまだらの雄山羊とぶちやまだらの雌山羊全部、つまり白いところが混じっているもの全部とそれに黒みがかった羊をみな取り出して自分の息子たちの手に渡し、ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた。」(創世記30:35-36)
この時、ラバンが取り出した家畜たちは、本来、ヤコブに与えるべき報酬であったはずである。(創世記30:32)
それなのにラバンは、ヤコブの手に少しでも自分の資産を「渡すまい」と、息子たちに持って行かせてしまい、ヤコブは仕方なく、その残りの群れを飼っていた。
このように、正直者が馬鹿を見る弱肉強食の世界がパダン・アラムであり、サタンの流儀がはびこるこの世の有様でもある。
ラバンは、このような神の国からはかけ離れた世でうまく渡り合い、それなりの富を築いた、ずる賢い者であった。
果たしてヤコブは、そんな世界で栄え、富を増し加えて行けたのだろうか? 行けたのである!
果たしてキリスト者は、こんな世界で栄え、富を増し加えて行けるのだろうか? 行けるのである!
その条件は、全てを超えておられる主・イエスキリストを助けとし、より頼んでいるなら、である。
ヤコブは不利な状況の中で、実に不思議な方法で、家畜を増し加えて行った。
「ヤコブは、ポプラとアーモンドとプラタナスの木の若枝を取って来て、皮をはぎ、枝に白い木肌の縞を作り、家畜の群れがやって来たときに群れの目につくように、皮をはいだ枝を家畜の水飲み場の水槽の中に入れた。そして、家畜の群れが水を飲みにやって来たとき、さかりがつくようにした」(創世記30:37-38)
この行動で家畜にさかりがつくような科学的根拠は無いし、彼の取った行動には、果たしてどのような意味があるのか、についても、色々な異論が別れる。
しかし結論から言える事は、彼がそのようにしたら家畜にはさかりがついて、彼の持ち物は祝福され、増えて行った、という事である。
論理や科学で証明されない事を、人は疑うものだが、主がなさる事と、主の祝福は、人間の論理や科学を超えている。
もしあなたが、論理や科学を超えた祝福を求めるのなら、まず、論理や科学の裏付け無しには納得しない自分、納得しないと動かない自分を、主に取り扱ってもらわなくてはならない。
モーセの時代、エジプトを出た民は、三日間荒野を歩いても水を得ることができず、ようやく見つけた泉の水は、苦かった。
そのままでは大勢の人達が渇いて死んでしまう。そのような時、神はモーセに一本の木を示され、その木を水に投げ入れると、その水は甘くなった。(出エジプト記15:22-25)
その一本の木とは、イエス・キリストの十字架の型である。
ヤコブもモーセも、いのちをつなぐために必要な水溜、水の源に、木を入れた結果、その水は、いのちがあふれるようになり、苦かった水は甘くされた。
ヤコブは当初、僅かな元手しか無く、実に不利な条件でのスタートであったが、後には、ヤコブの資産はますます祝福され、ラバンの資産は先細りになっていった。
ずる賢い世の権力者の、不当な圧迫に対抗し、勝利するコツは、十字架である。
私達キリスト者も、最初はぶんどられているようでも、十字架に望みを置いている限り、世から、サタンから多くを分捕り、持ちもいのちも、ますます増えていくのである。
私達にとって、いのちをつないでいる水溜とは何だろうか?
そこは、いのちを生み出さないままだろうか。苦々しさを放っているだろうか。
主は、行き詰まってどうしようもなく渇きを覚える私達に、一本の木、すなわち、十字架を示される。
十字架をそこに投げ込むなら、いのちを生み出すようになり、苦さは甘さへと変えられるのである。
今日はこれから、教会の皆と、ベツレヘム祈祷院へ泊まりがけの修養会に行ってきます。
当教会では毎週のように泊まりこみの交わりはしていますが、教会外へ、自然豊かな所へ兄弟姉妹たちと共に行き、賛美したりバーベキューしたりしに行くのは、とても久しぶりで、楽しみです。