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礼拝説教メッセージ音声:祝福をロスしてしまう人(創世記27:30-46):右クリックで保存
祝福を受けたヤコブが出ていくと同時に、エサウは料理した獲物を持って意気揚々と入ってきた。
そしてイサクは、自分が祝福を与えた相手がエサウではなかった事が分かると、激しく震えた。
その祝福は、一度切りの大切な祝福で、エサウもその重要性を理解していたため、彼は大声で泣き叫び「祝福をください」と幾度も言った。
イサクとしても本心は、エサウの願い通り、祝福を授けたかっただろう。
しかし、彼の口から出た言葉は、呪いと言えるような内容だった。
このように、祝福される事が御心ではない人には、いかに力ある者や親しい人の願いがあったとしても、祝福される事は決してない。
しかし、主の祝福が御心である者たちには、どんな力ある人達の思惑があろうとも、祝福されてしまうのである。
『エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。』(創世記27:41-42)
エサウは、ヤコブを殺してやろう、と「心の中で」言ったはずなのに、その思惑はなぜか周囲に知られる所となった。
思わず口が滑ってしまったのか、それとも表情が明らかにそうであったのか分からないが、いずれにせよ、彼の憎しみと殺意は相当のものであった事が伺える。
彼には長男の権利を軽んじた事への後悔はなく、自分はどこで主の御心を損じてしまったのか、主はなぜ御顔を自分からそむけてしまったのか、そうした事を内省する心が、すっぽりと抜けてしまっている。
彼が欲しかったのは、あくまで物質的な祝福であり、それを手に入れる望みが無くなってしまった事を、涙を流して泣き叫んだものの、その涙には悔い改めの心は一切無く、憎しみに変換され、ヤコブへの殺意という方向性へと走ってしまった。
もし彼がヤコブを殺してしまったなら、一体、主の御心はどうなってしまうのか。といった、主を思う気持ちが、すっかり抜けているのだ。
エサウは結局、アブラハム以来の祝福の家系を継ぐに相応しく無い器であり、祝福の家系図から追い出されるべくして追い出された事が、はっきりしたのだ。
「不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」(ヘブル12:16)
ここで「彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」と書かれてある事に注目したい。
欽定訳聖書では「he was rejected: for he found no place of repentance」とあり、つまり、彼の心の中には一切「悔い改め」という余地が見つからなかった、そのため、涙を流して求めても拒否されたという事だ。
彼は悔い改めるべきだったのにそれをせず、ロスしてしまった祝福を泣きながら惜しみ、逆切れし、神の御心はどこかに吹っ飛び、ヤコブに殺意を抱いた。
結局彼は、祝福が与えられる余地を、自らのかたくなな心の故に、失ってしまったわけである。
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(ローマ11:22-24)
「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:6-7)
礼拝説教メッセージ音声:祝福を得るためのキーアイテム(創世記27:18-29):右クリックで保存
自分は兄エサウであると偽って父の前に出たイサクは、ついに、一家の長子が継ぐべき祝福を奪ってしまった。
父親を騙す事は罪であり、それによってヤコブは罪の刈り取りをしてしまった事を、前回見た。
今回は視点を変えて、本来祝福を受けるべきでない者は、いかにして祝福を勝ち取る事ができるのか、という視点で、見て行きたい。
本来祝福を受け継ぐべき者が祝福を受けられず、本来祝福を受継ぐべきでない者が祝福を受け継いでしまう。
人は、それを「不当だ」「ずるい」と言う。
それなら、最も「不当」な扱いを受けたのはキリストであり、祝福を受け継いだキリスト者は、皆「ずるい」。
なぜなら私達は、本来祝福を受けるべきではない罪人であったのに、祝福を受け継ぐ者とされてしまい、キリストが呪われた者とされてしまったのだから。
祝福を受ける為の重要なキーアイテムは、「動物の毛皮」と「晴れ着」、用意された「ごちそう」と「ぶどう酒」、そして、着物の「香り」である。(創世記27:18-29)
まず、ヤコブに必要だったものは、「動物の毛皮」だった。
毛皮を得るには、その動物の犠牲が必要である。
アダムとエバはエデンを追い出される時、裸のままでは追い出されず、動物の毛皮を着せられ、裸が覆われ、恥ずべき部分が覆われた。
また、アベルの捧げ物が受け入れられたのは、犠牲があったからである。
私達も、屠られた子羊キリストの犠牲によって「キリストという衣」が得られ、それを着る事によって、御父の実前に出ることができるのである。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、”キリストを着ている”からです。
・・・あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ 3:26-29)
ヤコブは動物の毛皮を着た事によって、父の疑惑を避けられ、それ故に、アブラハムの祝福を受けるべき子と認定された。
同様に私達も、キリストを着る事によって、アブラハムの子孫としての祝福を受ける者となれるのである。
もう一つの重要アイテムは、「晴れ着」である。
マタイ22章1-14節には、王子の結婚の披露宴のたとえが記されており、そこにも礼服(晴れ着)が登場する。
たとえの中で、あらかじめ招待されていた客たちは、この宴会をあなどってしまい、ある者は畑に、ある者は商売に出かけてしまい、結局彼らはその宴会にあずかる事は出来なくなってしまった。
彼らは、長子の権利をあなどったエサウに、実に良く似ている。
そして、本来招かれざる者たちが招かれ、招きに応じた者達は、たとえ良い人でも悪い人であっても、宴席に連なる事が出来た。
ただし、「礼服(晴れ着)」を着ていない者は追い出されてしまう。
当時、王が宴会に招く時は、客人に礼服(晴れ着)を支給し、「これを身に着けて宴会に来て下さい」と言ったようである。
王から「礼服」が支給されているのに、それを一蹴し、自前の好きなファッションで参加してしまうなら、追い出されてしまうのだ。
きっとヤコブも、兄の晴れ着を着ずに父の前に出ていたら、呪われて外の暗闇に追い出されていたであろう。
私達もまた、天の王の宴会に参加する時、天の王から支給された「キリストという贖いの衣」を身に着けて行かないなら、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。
ヤコブはまた、父の好みを良く知っている母リベカに父の好きな「ごちそう」を用意され、それを父に差し出し、また、「ぶどう酒」を飲ませた。
私達も、御父の思いを良く知っておられる聖霊によって用意された捧げ物、すなわち、キリストが十字架で裂かれた肉という「まことの食物」を差し出し、また、キリストの血という、「まことの飲み物」を差し出すなら、それによって御父は満足されるのだ。
そしてイサクは着物の「香り」をかぎ、それが祝福を与える決定打となった。
雅歌4章10-16節にも、香りの重要さが示されている。
雅歌に登場する花嫁は、王である花婿から支給された飾りと香油を身につけ、そうして王の前に出た時、王は花嫁のとりことなり、最高の賛辞を送った。
わたしたちは、自分のがんばりや努力という汗くささを帯びて主の御前に出てはならない。
人間的ながんばりや努力は捨て去り、王から支給された「キリストという贖いの衣」を身に着け、キリストが自らの体をもって捧げられた「なだめ香り」を放ちつつ、御前に出るべきである。
そうするならば、御父はキリストのなだめの香りによってなだめられ、祝福を与えて下さるのである。
『ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。
「ああ、わたしの子の香りは/主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」』(創世記27:27-29)
キリストの裂かれた体という贖いの衣を身に着け、キリストの体というまことの食物、キリストの血というまことの飲み物を携え、キリストが自らの体をもって捧げられた「なだめ香り」を放ちつつ、御前に出る事によって、ヤコブが父イサクから祝福を与えられたように、天の父から祝福をいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:撒いた種は必ず刈り取る(創世記27:11-17):右クリックで保存
イサク自身の歩みは、平和の人として申し分無かったものの、子育てや後継者選びの面において、諸々の間違いを犯してしまった。
長男エサウは、アブラハムの家系に入れてはならないヘテ人の女二人を妻としてしまい、また、主からは「兄は弟に仕える」と言われていたにも関わらず、イサクは自分の好むエサウの方に祝福を与えようとした。
そして、リベカとヤコブは共謀して父をだまし、兄エサウを出し抜いて長男の祝福を奪おうと計画したのだ。
一体、この平和に満ちていたはずの一家は、どうしてしまったのだろう。
いつのまに、そんなドロドロとした権謀術数の渦巻く一家になってしまったのだろう。
この時、一家全員に共通していた事は、本来なら主の御心を求め主が物事を為されるのを待つべき所を、それをせず、自分の感覚のままに身勝手に行動してしまっている事である。
いかにアブラハムの子と言えど、自分を主体とし、主を差し置いて行動するならば、すぐにこのようになってしまうのである。
「リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。」(創世記27:15-18)
ヤコブはリベカの指示の下、エサウの「晴れ着」と「山羊」の毛皮を用いて兄エサウになりすまし、「父親騙し」をして、祝福を横取りしようとしていた。
弟ヤコブが栄え、祝福を受け継ぐ事は、確かに御心であった。
しかし、親を騙して偽る事は紛れもない罪であり、後に彼は、その行いの実をそのまま刈り取る事になってしまう。
ずっと後に、ヤコブの最愛の子・ヨセフは兄達に憎まれ、結果的にエジプトへ売られてしまうのだが、その際、兄たちはヨセフの「長服(晴れ着)」と「山羊」の血を用いて「父親騙し」を実行したのである。(創世記37章)
この時、騙されたヤコブは、最愛の子ヨセフが野獣に噛み殺されたと思い込み、ヨセフと再び会える日までの膨大な日々を、涙と悲嘆の内に過ごす事となってしまった。
こうして彼は、自分が実行した「父親騙し」という報いを、そのまま自分の身に負う事となってしまったのだ。
「嘘も方便」「良い嘘もある」といった人間の感覚や言い伝え等によって、御言葉を上塗りしてはならない。
偽りはどんな些細なものでも、また、いかに「神のご計画を実行するため」だとしても、聖書に「偽ってはならない」と書いてある以上、偽りは罪である事には変わらず、悔い改めて、主に赦しを乞うべきなのである。
イサクもエサウもヤコブもリベカも、感覚による目視飛行を行なっていたために、この時一家は迷走してしまった。
私達は感覚に頼るべきではなく、御言葉に頼って生きるべきであり、常に、御言葉による計測飛行をしているかどうか、感覚による目視飛行をしていないかに、注意する必要がある。
御言葉は御言葉として尊く受け取り、災いを招くような歩みをせず、主に喜ばれる歩みをいつもしている皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
あなたは甘いりんごのよう(雅歌2:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
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雅歌は聖書の他の書とは明らかに違う。 読んでいて恥ずかしくなるほど男女の愛の悦びが生き生きと表現され、近寄りがたい崇高さも、規律的な厳しさ、難しさも、一切無い。
この書は、ユダヤでは30歳以下の者が読む事を禁じられた。 男女の愛の悦びは、成熟して結婚の契を交わした男女のみに相応しいように、キリストとの関係も成熟さを増せば増すほどに、宗教的な束縛感から開放され、自由になり、悦びに満ち、あたかも新婚夫婦のような悦びの関係に入ってくる。
キリストと弟子達は、はじめは師弟関係(ヨハネ13:14)だったのが、主が命じる事を行なう内に、友の関係となり(同15:14)、十字架の後には兄弟関係(同20:17)となり、やがては、キリストのからだなる教会に接合され、成熟する事によって、花婿と花嫁の関係となっていくのだ。(黙示録21,22章)
地上のものは全て天の写し、影であり、新婚の甘い日々もまた、我々がやがて天で味わう事の影である。
「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌2:3)
恋心の乙女は、意中の男性以外が雑木に見えるように、私達も成熟すればする程、巷の神々や権威ある者達、世の富や宝は、全てどうでも良く見えて来て、唯一頼りとしたいと思うのは、キリストのみとなっていく。
主の羊は、真の羊飼いである主の声を聞き分ける。 彼らは、いと高き全能なる神の元に身を寄せ(詩篇91)たいと心底願い、その陰に宿り、御口から出てくる御言葉を甘いりんごのように慕い求めるのである。
「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌2:4)
主は私達に、敵の面前で酒宴をもうけ、頭に香油を注いで下さり、盃を溢れさせて下さる。(詩篇23:5)
敵の面前で、私達は「主ご自身」という旗で覆われ、私達の上ではためくその旗印は、愛である。
「干しぶどうの菓子で私を力づけりんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅2:5)
干しぶどうもりんごも、他の箇所では、喜びを表している。(2サムエル6:19、イザヤ16:7-10、ヨエル1:12)
男女の愛には喜びと潤いがあるように信仰生活にも喜びと潤いが必要であり、それを主に求めるのである。
「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌2:6)
女性にとって、好きな男性の左腕の中に腕枕され、右腕で抱かれている一時は、至福の時ではなかろうか。
それは、女性は男性のあばら骨から取られたからであり、女性の居場所は元々男性の懐だったからである。
男女が並んで歩く時、男性が右側で女性が左側である事が多いのは、男性が利き腕を自由に動かしてリードし、女性は利き腕で男性を離さず、男性にリードされて行く姿が、自然だからである。
ベタニヤのマリアは、イエスの足元というりんごの木の下で、イエスの口からこぼれてくる御言葉という甘いりんごを、いつも慕い求めていた。その場所その時が、何よりの至福の場所、至福の時だったからである。
その心でイエスを慕い求め、イエスの御思いを理解したからこそ、他の弟子達が誰も出来なかった葬りの準備を、唯一、彼女だけがその時を悟り、その準備が出来たのである。
イエスと深い交わりをして御心を知る、という事が無いなら、たとえ神のために良かれと思って何かをしたとしても、それは自分の思いに過ぎず、弟子達のようにとんちんかんな、あさっての事をしてしまうものである。
マリヤは、マルタや弟子達から色々の否定的な言葉を浴びせられてもイエスご自身が直接保護して下さったように、イエスの御翼の陰に宿る私達を、主ご自身が直接的に保護し、敵を𠮟り飛ばして下さるのである。
「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌2:7)
かもしかや野の雌鹿は、繊細な動物である。自分を無理矢理恋心へと持ち込むと、すぐヘンな男に引っかかってしまうように、主に対する愛も、無理やり駆り立てようとせず、自然に湧き起こるのを待てば良い。
シャロンの花であるイエスを、甘いりんごのように慕い求め、マリヤのように、主の足元が慕わしくて仕方がなくなるまでに、繊細な主への愛を、自然な形で、大切に育み育てていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
法則の戦い(ローマ7:14-8:2):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
長血の女(マルコ5:25-34):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ1:1-11:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:見えない方が良い事もある(創世記27:1-10):右クリックで保存
「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。」(創世記27:1)
この時、イサクは100〜131歳くらいであったが、彼が人生を全うする180歳までの長い間、目はかすんで見えない状態が続いた。
イサクには多くの祝福が与えられていたのに、目が見えなくされていたのは、彼は、主の御心よりも、自分の望む事を優先させたいという思いが湧き起こり、彼の視力が、主が御心を執行する邪魔となっていたからであろう。
イサクにとっての、主の御心よりも自分の望む事を優先させたい、という思いとは、アブラハムの家系の正当な家系を、エサウに継がせたい、という願いである。
エサウは自分の望むままに、主を知る事も恐れもしないヘテ人の妻を二人召し入れた。
アブラハムの正当な子孫に、神を恐れぬカナン人は決して入れてはならないはずであり、何より、エサウとヤコブが生まれる前から、主から「兄が弟に仕える」と言われていたからには、ヤコブこそ、正当な家系を受けつぐべきであった。
それなのにイサクはエサウを愛し、自分が死ぬ前にエサウに長男としての祝福を与えようとしてしまうのだ。
リベカは憂いた。
このままではエサウとカナン人の間に生まれる子が、直系の子となってしまう。
そこでリベカは機転を聞かせて動いた。
『リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」』(創世記27:6-10)
リベカは、ヘテ人の女から生まれる子を、断じて栄えあるアブラハムの子孫にしてはならぬ、という主の御心を、彼女の機転によって、成そうとしたのである。
最終的にイサクは、目が見えない事によって、そしてリベカの機転によって、神の御心を損ねる事を免れた。
ここまでの創世記の学びをして来た方は気付かれたかもしれないが、目が良い事が、かえって災いを招く事が多い。
ロトはソドムという町の見た目の麗しさに惹かれて災いを招き、築き上げて来た財産と家族を失ってしまったし、ノアの時代、神の子達も、人の娘の美しさに心奪われ、滅ぼされる事になってしまったし、エバもまた、禁断の木の実をじっくり見入ってしまったから、人類全体に罪と死をもたらしてしまった。
自分の目の赴くまま腕力に頼り、人生を切り開いている内は、主の御心を全うできない。
肉による遣り繰りがことごとく頓挫し、自分の力に頼ることを止め、主の御手に頼ることを始める「十字架の経験」を経てこそ、主に有用な働きをなす事が出来るようになるのである。
今日は、実家の両親が交わりさせていただいている兄弟が、彼の畑で採れた新鮮なエシャレットを箱で送って下さいました。
聖書学び会の後、皆でいただいて、とても美味しく味わいました。
エシャレットは、がんの予防に役立ち、血液をサラサラにし、発汗作用があり、風の初期症状をしずめる、という事で、ちょうど私も風邪をひいており、また、ちょうどその効用を必要としている聖徒がおりました。
送って下さった兄弟とは、はじめましての関係でしたが、皆でそのように計らって下さった主に感謝し、顔も知らない私達のために贈って下さった兄弟のために、祝福をお祈りをさせていただきました。
礼拝説教メッセージ音声:祝福の安定飛行(創世記26:23-35):右クリックで保存
ペリシテ人の地ゲラルに長期間滞在していたイサクは、約束の地・カナン地方のベエル・シェバに戻ってきた。
「イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」(創世記26:25)
イサクは約束の地のこの場所に腰を落ち着け、定住する準備を始めるが、彼が成した事の順番には、私達も守るべき重要な優先順位が現れている。
彼が居を構えるに当たり、真っ先に建てたのは「祭壇」だった。
祭壇とは主を「礼拝する場」であり、それをまず建て、その後に天幕、すなわち「自分が住む家」を構築し、そして次に、「生活に必要なもの」である井戸を整えた。
この順番を誤ると、ハガイ書にてイスラエルが叱責された時のような出来事が起こる。
「今、お前たちは、この神殿を/廃虚のままにしておきながら/自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく/飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく/金をかせぐ者がかせいでも/穴のあいた袋に入れるようなものだ。
万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると/主は言われる。」(ハガイ1:4-8)
イサクはゲラルにいた時、祝福されたが故に周囲からねたまれ、追い出され、井戸を奪われたりしたが、それでも、言論で戦ったり武力で報復したりは一切せず、正しく裁いて下さる主にお委ねしていた。
誰かから理不尽な目にあわされた時に、主の御言葉の故に自分を下ろし成り行きを主に委ねる場合、「これで良かったのだろうか」と、一抹の鬱積や不満が残る事もある。
イサクももしかしたら、ゲラルで受けた理不尽な応対を思い返すに当たり、そのような鬱積があったかもしれない。
主はそんな彼に現れ、言われた。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」(創世記26:24)
イサクはその言葉に、どんなに励まされた事だろう。
主が与えて下さったは、言葉の約束ばかりではない。
イサクがゲラルで取ってきたスタンス、つまり、あたかも右の頬を打たれたら左の頬も差し出すような、人の目からは愚かに見えるまでに平和を貫き通したそのスタンスは、決して間違っていなかった、という主からの示しが、明確に、目に見える形として、向こうからやって来た。
『アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。イサクは彼らに尋ねた。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」』(創世記26:26-27)
アビメレクはイサクを追い出したも同然であった(16節)し、イサクは彼らに奪われた井戸に「争う」「敵意」という名前をつけたほど、ペリシテ人の行状には、明らかにイサクに対する憎しみが込められていた。
ところが彼らは、あたかもそんな事は無かったかのような物言いをしている。
「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。」(28節)
彼らは、主が明らかにイサクと共におられる事を、恐れたわけである。
以前は、自国の中にイサクという強い集団が居着いている事が脅威だったので、追い出す事で衰えさせようと思ったのかもしれない。
ところがイサクはますます祝福され、栄えたため、そんな彼らが敵対的な心情を持ったままでいる方が、もっと脅威だ、と思ったのだろう。
「以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り」(29節)
・・・確かに危害は加えなかったが、祝福を妬んで多くの井戸を埋め、奪ったのではなかっただろうか。
「あなたを無事に送り出しました。」(同)
・・・16節のアビメレクの言葉を見ると、とても無事に送り出したとは言えない。
「そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」(同)
実に、つっこみ所満載な言い分であるが、しかしイサクはそうした事を一切問わず、彼らのために祝宴を催し、互いに誓いを交わして、彼らを安らかに去らせたのだ。
なんともお人好しな、おおらかなイサクである。
しかし、彼のその生き方こそ、安楽な祝福の生涯を全うする生き方である。
彼について記された書面の分量は、アブラハム・イサク・ヤコブの中では最も短く、波瀾万丈さが一番無いため、第三者が彼の生涯を「ストーリー」として見る分には、最もつまらないかもしれない。
しかし、イサクは最も長生きし(アブラハム175年、イサクは180年、ヤコブは147年)、波瀾万丈な乱気流に巻き込まれる事なく、ずっと祝福の安定飛行をキープしていたため、彼について書き記す分量は当然少なく、そして彼は安泰な生涯を全うしたのである。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)
イサクのように、祝福の安定飛行をキープするコツは、この御言葉に集約される。