メッセージ - 最新エントリー

金曜徹夜祈祷会

あなたがたこそ、いつもわたしについて来てくれた人たちです(ルカ22:14-34)

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他の引用箇所:
ヘブル12:18-25
箴言30:24-28
 

早天礼拝

闇の次元から光の次元へと乗り越える門(哀歌3:22-27)

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早天礼拝

私達を練り、清め、神の民として下さる主(詩篇66篇)

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詩篇66篇表題『聖歌隊の指揮者によってうたわせた歌、さんび』
 
前の詩篇のいくつかは、ダビデが作者だったが、この詩篇は、作者の名は記されていない。
 
この詩篇は,国家的な危機からの救いを感謝するものである.背景は不明であるが,13節からは1人称になっているので,王が民を代表して神に感謝をささげていると考えられる.
1節.〈全地よ〉を,神の世界支配の告白と最近の具体的な出来事において示された神の主権への言及とすれば,アッシリヤの敗退というヒゼキヤ王の時の出来事を示唆すると考えられる。(実用聖書注解)
 
詩篇66:1 全地(エレツ)よ、神にむかって喜び呼ばわれ。
 
エレツは、地、地球、世界などの広い意味があり、その、エレツの上にある全ての生き物、植物、鉱物、そして悪人も善人も含めた全人類に対し、呼びかけでこの詩は始まる。
それら全ての創造主である、神に向かって、喜び呼ばわれ!と。
 
詩篇66:2 そのみ名の栄光を歌え。栄えあるさんびをささげよ。
 
実際、全被造物の美しく調和が取れた存在によって、また、それら各々の働きと営みによって、神の栄光は表れており、誰にも弁解の余地は無い。(ローマ1:20)
しかし、全被造物の中で唯一、神の栄光をあらわす事をしない「例外」が、堕落してしまった人間である。
唯一、神に似たものとして創られた人間が、唯一、神の栄光を貶める存在となってしまったという「究極の皮肉」に、全被造物は、うめきつつ、彼らが贖われて神の子があらわれる事を、切に待ち望んでいる。(ローマ8:19-20)。
 
詩篇66:3 神に告げよ。「あなたのもろもろのみわざは恐るべきかな。大いなるみ力によって、あなたの敵はみ前に屈服し、
66:4 全地はあなたを拝み、あなたをほめうたい、み名をほめうたうであろう」と。〔セラ
 
神の御業が恐ろしい、と、ことさらに感じるのは、神に敵対する者達である。
エジプトのパロは、最初、神の言葉を伝えるモーセを侮ったが、最終的に、エジプトの軍隊は海に沈められ、神の前に屈服させられた。
また、ペリシテの神ダゴンも、当初はイスラエルの神に勝ったと思われて、ダゴン神殿に契約の箱が安置されたが、ダゴン像は、神の契約の箱を前にひれ伏せられた挙げ句、頭と胴体が切り離された状態で発見された。(1サムエル記5章)
 
5節以降は、神の民に対しての呼びかけである。
 
66:5 来て、神のみわざを見よ。人の子らにむかってなされることは恐るべきかな。
66:6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。
66:7 神は大能をもって、とこしえに統べ治め、その目はもろもろの国民を監視される。そむく者はみずからを高くしてはならない。〔セラ
 
神は、神の民イスラエルをエジプトを脱出させる際、紅海を割って、海をくぐらせた。
彼らはみな、雲と海とでモーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲んだ。彼らについて来た御霊の岩とは、キリストの事である。(1コリント10:2-4)
イスラエルの民は、モーセを通して律法が与えられ、荒野にて、主ご自身が与える食物によって養われつつ訓練を受けた。
 
その後、神は、ヨシュアを通してヨルダン川を渡らせ、ついに約束の地へと入らせた。
そのヨルダン川は、バプテスマのヨハネがそこで人々に水のバプテスマを授け、イエス・キリストへと導いた所である。
 
モーセは神の民を、エジプトという世から脱出させ、神の訓練所である荒野へ導いたものの、モーセ自身は、約束の地に入れなかった。
同様に、モーセを通して与えられた律法は、神の民を訓練する養育係ではあっても、約束の地には到達し得ない。
しかし、ヨシュアが神の民にヨルダン川を渡らせ、荒野から約束の地へと入らせる事が出来たように、まことのヨシュア(=ヘブライ語イエシュア=イエス)であるイエス・キリストを信じる信仰によって、私達は、永遠の約束の地・天国に入る事が出来るのだ。(ガラテヤ3:17-29)
 
66:8 もろもろの民(アム)よ、われらの神をほめよ。神をほめたたえる声を聞えさせよ。
66:9 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。
 
1節は「全地(エレツ)よ」の呼びかけで始まったが、8節は「もろもろの民(アム)よ」という呼びかけによって始まる。
アムは「人々」を意味するが、人々の中でも「善」に属する人々を、特に、イスラエルの人々や神の民をあらわす事が多い。
つまり1-7節は、神を敬う民も、敬わない民も、全部ひっくるめた全被造物に対するメッセージだったが、8節以降は、特に神の民に向けてのメッセージである。
それで作者は、「われらの神をほめよ。神をほめたたえる声を聞えさせよ」と呼びかけている。
神の民は、神に対し声を上げて賛美するべきだ。なぜなら神は、神の民を「生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない」からだ。
 
66:10 神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。
 
炉の中で鉱物を溶かして、かなかすを除くのと同じように、神は、神の民を試練の中で精錬して、より純化する。
神はイスラエルの民に荒野を通らせ、不従順な世代を取り除いたように、私達を試練の中を通らせ、私達の中から要らない性質、不従順な性質を取り除かれる。
そうして純化された神の民を、広い、祝福の地へと導き入れてくださる。
 
66:11 あなたはわれらを網にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、
66:12 人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。
 
神は、私達の中に、神を離れて自分勝手な所に行ってしまう性質がある時、それを取り除くために、敢えて貶め、人々が彼の頭の上を乗り越えて行くような所を、通らせる。
放蕩息子が、父の元を離れて、世に出ていって放蕩した時、人々はよってたかって彼から剥ぎ取り、彼が全てを失った時は豚の世話をさせ、しまいに彼は、豚の餌さえ食べたいと思わせる程、みじめな思いをした。(ルカ15章)
しかし、全てを支配しておられる神は、憐れみのゆえに、彼らが火の中、水の中をくぐっても助かるように、手加減をしてくださり、しかも彼らの中から要らない部分「かなかす」だけを焼き尽くして取り除いて下さる。
これは、神は私達を愛しておられ、私達がより純粋な者となるために、取り計らってくださっているのだ。(イザヤ43:2-4)
 
放蕩息子が困難の渦中で、我に返り、父の元に帰った時、父は放蕩息子が帰ってきた事を喜び、宴会を開いて祝った。
同じように、神の元を離れた罪人が、悔い改めて立ち返るなら、天において、御使い達の間に、大きな喜びと、宴会が沸き起こるのだ。
 
66:13 わたしは燔祭をもってあなたの家に行き、わたしの誓いをあなたに果します。
66:14 これはわたしが悩みにあったとき、わたしのくちびるの言い出したもの、わたしの口が約束したものです。
66:15 わたしは肥えたものの燔祭を/雄羊のいけにえの煙と共にあなたにささげ、雄牛と雄やぎとをささげます。〔セラ
 
神の民が苦しみに遭った時、思い出すのは、主の家(神殿、教会)である。
ハンナは、苦しみの時、主の宮にのぼって、言葉にならない祈りと誓いを捧げた(1サムエル記1章)。
またヨナは、神の命令とは逆方向に行った時、あらしに遭って船から放り出された挙げ句、魚に飲み込まれたが、彼はその魚の腹の中から、主に祈り、主の宮を慕い求め、かろうじて助かった。(ヨナ書1-2章)
 
人は苦しみの中で、神に誓いを立てるが、その立てた誓いは、しっかり果たすべきである。
ハンナが祈った通りに、神は彼女に男の子を与えられ、ハンナは、誓願した通りにその子を捧げた。
その結果、神はハンナを豊かに祝福し、さらに子を与えられた。彼女は大きな喜びの内に、素晴らしい賛美を主に捧げた。(1サムエル記2章)
 
ヨナのほうは、助かった後、主の言葉どおりニネベに行って宣教したものの、まだ心に苦さを覚え、主に不服を申し立てたが、主はヨナを、その苦々しさから救い出すために、東風と虫を備え、実体験を通して主の御思いを知らされた。(ヨナ書4章)
 
66:16 すべて神を恐れる者よ、来て聞け。神がわたしのためになされたことを告げよう。
66:17 わたしは声をあげて神に呼ばわり、わが舌をもって神をあがめた。
 
この詩の最後は、主をほめたたえる賛美で終わる。
 
66:18 もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。
66:19 しかし、まことに神はお聞きになり、わが祈の声にみこころをとめられた。
 
主は、心を見るお方である。
外見はうやうやしく礼拝しているかのように見えても、心が御前で純粋でないなら、主は、その祈りを聞かれない。
しかし、心が主に対してまっすぐなら、主はその祈りを聞かれる。
そうして純粋に御前で祈り、心を尽くして礼拝するなら、その祈りが聞かれた時には大きな喜びと感謝があふれる。
 
66:20 神はほむべきかな(バラク)。神はわが祈をしりぞけず、そのいつくしみをわたしから取り去られなかった。
 
バラクは元々、ひざをつくという意味である。主の前にひざをついて低くなる事こそ、人の側の分である。
 
神が人を祝福する、というのは、神が、天の高い所から下りてきて、ひざをついて低くなって便宜を図って下さるものである。
だから、究極に低くなられたイエス様の十字架こそ、祝福の真骨頂である。
高き所から降りて来られ、弱く罪を犯しがちな私達を憐れみ、救い、贖って下さった、素晴らしい神の御前に、いつも低くへりくだり、声をあげて主を賛美し、感謝を捧げるのが、私達が為すべき分である。

主日礼拝
時代の支配者・先駆者となって行くために(ヨシュア記1:1-9)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要

 世界は、新しい時代に突入している。自動化やAI化が進み、今まであった仕事がどんどんコンピュータに奪われつつあるこの時代、今までの固定概念に安住し続けて、それ以上の事をしないなら、どんどん他人やコンピュータに主導権を奪われ、ただ、与えられた仕事しか出来ない奴隷のような人生になってしまう。
このような時代でも主にあって主導権を勝ち取り、支配者となるため、今回はヨシュア記から恵みを得たい。
 
 ヨシュア記は、今までの偉大な指導者モーセが死んで、まさに新しい時代に突入した時点から始まる。
 『今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。』(ヨシュア記1:2) まず、一番先に超えなくてはならない境界は、ヨルダン川である。
それまでは、ヨシュアも、イスラエルの民も、モーセ抜きで主体的に動いた事はなかった。ヨルダンのこちら側には、既に、ある程度の良い領土を勝ち取っていた。わざわざヨルダン川を超えて、父の代が恐れ尻込みして入って行けかった、あのカナンの地へと入っていくには、未知の恐怖や躊躇はあったかもしれない。
 しかし、主が「行って、獲なさい」と言われた領域は、ヨルダン川のこちら側にとどまらず、ヘテ人の全土や大河ユーフラテス、および、日の入る大海に至るまで、という、遥かに広大で、豊潤な地だった。(4節)
 今、私達も同じチャレンジを受けている。今、私達はそこそこ快適な暮らしが与えられているかもしれない。
そこに満足して「何でわざわざ未知の領域へ踏み出さなくてはならないのか?」と思っていないだろうか?
私達は今、聖書に書かれてある全部の、どれくらいを経験しているだろうか?約束された祝福の、どのくらいを勝ち得ただろうか。約束の聖霊をいただいているだろうか。癒しやしるし、奇跡を体験しているだろうか。
イエス様のわざを、どのくらい行っているだろうか?もし得ていないなら、私達も勝ち取って行くべきである。
 主はヨシュアに保証を与えられた。「あなた方が、足の裏で踏む所は皆、わたしがモーセに約束したように、あなた方に与える」(3節) 足の裏で踏む所が自分のものとなる約束は、自分の目や判断で進もうとする、生来の性質と決別し、ただ主の約束に従って歩む事を示した時に与えられる。信仰の父・アブラハムに「足で踏みゆく所はことごとく与える」と約束が与えられたのは、そのようなロトと決別した直後だった。
ヨシュアにこの約束が与えられたのも、神の約束を退けた不従順な世代が、皆、死に絶えた後だった。
 主から言われた通り、彼らがヨルダン川の前まで来た時、契約の箱をかつぐ祭司達が水を湛えている川に、一歩足を踏み入れた時、川は堰き止められ、祭司達は契約の箱をかつぎながら、川底に留まり続けた。
それを見たイスラエルの民は、安心して、せき止められた川を渡る事ができた(3章)。私達も、私達の子供や、信仰の後続達の牽引役になるために、この祭司達にならい、「現代の契約の箱」を担いで行くのだ。
 現代の契約の箱とは、「旧契約聖書」と、「新契約聖書」、この契約の書に書かれてある内容を信じ、行い、その内容を担いだ人生を歩んで行くのだ。契約の箱の中には、?御言葉が記された石の板と、?マナが入った金の壷と、?芽をふいたアロンの杖があった。私達も?御言葉そのものと、?神がいのちを養って下さる約束と、そして、?死からいのちへの復活のしるし・永遠の祭司のしるしを握りしめて行くのである。
それらを担いで進み行くなら、たとえ死の川が横たわっていても、それを踏みつけ、進み行く事が出来る。
 
 『あなたはこの民に、わたしが彼らに与えるとその先祖達に誓った地を獲させなければならない』(5-6節) 
私達も、主が約束して下さった地を、子々孫々へと継がせなくてはならない。主が与えると約束して下さった地は、申命記11章に記されている素晴らしい地である。すなわち、そこは自分で種を蒔いたり、自分の力で水をやらなければならない地ではなく、山と谷の地で、天の雨で潤っている。そこは主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、主が絶えずその上に目を留めておられる(申命記11:11-12)。
 そのような素晴らしい地が与えられるのは、御言葉を昼も夜も口ずさむテフィリン世代にのみ、である。
なぜなら申命記の続く13節以降にそのように書いてあるし、またヨシュア記も以下のように続くからである。
 『この律法の書をあなたの口から離す事なく、昼も夜もそれを思い、その内に記されている事を、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(8節)
 この困難な時代、勝利者・支配者の側になるため必要な事は、自分の目や判断で進む生来の性質と決別し、御言葉を昼も夜も口ずさみ、神の約束をしっかり握りしめる「テフィリン世代」となる事だ。世の固定概念に縛られず、大胆に御言葉を実行し、大胆に支配権を獲得し、多くを得ていく皆さんでありますように!
 

 

金曜徹夜祈祷会

主の御旨に忠実な人には、眠っている間に備えが来る!(使徒11:19-12:11)

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他の引用箇所:
マタイ18:18-20
詩篇127:1-2
 

ホセア書 講解説教 水曜夕礼拝

姦淫の霊(ホセア5章)

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エゼキエル書 講解説教 水曜昼礼拝

聞き従わなかった故に何倍も重くされた罰(エゼキエル5章)

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早天礼拝

主に聞き従う者に与えられる、豊かな喜びの収穫(詩篇65篇)

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詩篇65篇表題『聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、さんび』
65:1 神よ、シオンにて、あなたをほめたたえる(テヒラー)ことは/ふさわしいことである。人はあなたに誓いを果すであろう。
65:2 祈(テフィラー)を聞かれる方よ、すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。われらのとががわれらに打ち勝つとき、あなたはこれをゆるされる(カーファル)。
 
神は、罪を犯してしまう弱い人間を憐れみ、主に泣きついて来る人を赦して(カーファル)くださるからこそ、人々は賛美(テヒラー)と祈り(テフィラー)をもって御前に集う。
 
カーファルは元々、「覆う」が原意で、「無かったことにする」事である。
人はただ、主の一方的な恵みにより、罪を覆われ、義とされるのだ。
だからもし、自分は正しい事を行って来た・悪を行わなかった、などと主張して、自分を正しいと見なす事には何の意味も無く、むしろ、神の義から遠ざかってしまう。
 
パリサイ人は自分と取税人を比較し、自分があれをした、これをした、と、神の前でとうとうと自慢話をしたが、取税人は、遠く離れ、顔を天に向けようともせず、ただ自分の胸を叩いて、ただ「罪人のわたしをお赦し下さい」と祈った。ここで義とされたのは、取税人のほうだった。(ルカ18:9-14)
主は、自分で自分を義とする人ではなく、主に泣きついて来る人をこそ憐れみ、その人の罪を覆って下さるのだ。
 
結局、私達・人間は、自分の罪を覆い隠す事は、できない。
エデンでアダムとエバが、いちじくの葉で裸を覆ったが、それは何の役にも立たなかった。ただ、主が動物の血を流して得た皮の衣こそ、彼らの裸を覆う事ができた。
 
65:4 あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、あなたの大庭に住む人はさいわいである。われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の/恵みによって飽くことができる。
 
なぜ聖徒は、主の宮に集うのか。
それは、主に泣きついて行く人に、罪の贖いが与えられ、それによって、赦された事の開放感が与えられ、また、永遠なる主との関係を取り戻し、そして、受け入れられている事の安心感と、主に愛されている事の甘い感覚と、また、実際的な問題解決と、セキュリティが与えられているからだ。
 
65:5 われらの救の神よ、地のもろもろのはてと、遠き海の望みであるあなたは/恐るべきわざにより、救をもってわれらに答えられる。(新共同訳:)遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに「依り頼みます(ミブタハ:避難所、拠り所)」。
 
罪を自覚し、御前に泣きついて礼拝に来る人には、主は、祝福で答えられるが、神を恐れず、神の民を苦しめる者に、主は、恐ろしさをもって、その栄光を表される。
かつてエジプトは、イスラエルの民を430年もの間、奴隷として扱い、それでいて、自分が犯した悪のわざを一切悔い改めなかったが、神はエジプトに対し、恐ろしい災いで御力を表した。
しかし、イスラエルに対しては、救いと贖いの神としてあらわされた。
 
65:6 あなたは大能を帯び、そのみ力によって、もろもろの山を堅く立たせられる。
65:7 あなたは海の響き、大波の響き、もろもろの民の騒ぎを静められる。
 
海は、定まりのない恐ろしい所を、または、不信仰の世界を象徴する。
そのような、主を敬わない国民には、「騒ぎ」がある。
しかし主は、その大能の御力によって、それら全ての騒ぎを鎮められ、そして諸々の山を堅く立たせるお方。
 
65:8 それゆえ、地のはてに住む人々も、あなたのもろもろのしるしを見て恐れる。あなたは朝と夕の出る所をして/喜び歌わせられる。
 
朝と夕の出る所とは、すなわち、一日の初めから終わりまで、そして東の果てから西の果てまで、すなわち世界の隅から隅までをあらわす。
すなわち主は、世界の隅々までを支配し、人々を恐れ敬うようにさせ、また喜び歌うようにさせてくださる。
 
9節以降は、罪を悔い改め神の民とされた人々に与えられる、収穫の祝福が記されている。
 
65:9 あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして/彼らに穀物を与えられる。
 
人が主に立ち返り、その罪が覆われると、主は、その地を豊かに実らせるための、下ごしらえをされる。
 
65:10 あなたはその田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、そのもえ出るのを祝福し、
 
夕立と訳された語は、申命記11:14の「先の雨」である。
『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。』(申命記11:14)
 
この先の雨は、ユダヤの地で10-11月に降り、土地を柔らかにし、種から芽を出させ、その年に萌え出る苗の量を左右する、重要な雨である。
 
65:11 またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。
 
あぶらと訳された語「デシェン」は、豊かさや脂肪を意味する。
せっかくたくさんの芽が萌え出たとしても、その後の雨がなければ、枯れてしまう。
その後の実りをさらに豊かにしてくれるのが、申命記11:14に出てきた「後の雨」である。
 
この「後の雨」は、3-4月に降って、根付いた苗の実りを豊かにする、いわば木々に果実という「冠」を与える雨である。
この、先の雨と後の雨の両方が主から送られる事によって、その年の実りが豊かになるのだ。
これによって地が潤されると、家畜が食べる草も豊かに生え出て、家畜たちも命がみなぎるようになる。
 
65:12 野の牧場はしたたり、小山は喜びをまとい、
65:13 牧場は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をもっておおわれ、彼らは喜び呼ばわって共に歌う。
 
主を敬う民は、確かに、このように祝福される。
しかし、イスラエルが主を無視して別の神々を拝んでいた時代には、例えば、アハブやイゼベルの時代には、先の雨も後の雨も一切降らず、地につゆさえ降らなかった。
主はそれでも、悔い改めて立ち返る人には、豊かに雨を返してくださる。
 
レビ記26:3 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、
26:4 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。
26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。
26:6 わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。
26:7 あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。
26:8 あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。
26:9 わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。
26:10 あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。
 
主に聞き従い、その言葉を守り行い、御言葉に約束された祝福に、豊かなあずかっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

助け主が来るなら、私達も癒しの奇跡ができる!(マルコ9:23)

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週報/メッセージ(説教)概要

 ペンテコステ前、マルコの部屋に集った聖徒達は、イエス様が約束して下さった助け主・聖霊がすぐ来る事を期待し、来たなら、自分達もイエス様がしたわざをする事ができる、いや、それ以上の事ができる!と、ありありと思い巡らし、待ち望み続けた結果、実際にペンテコステの日に与えられ、実際にわざを行った。
これは今の私達にも起きる事である。むしろ、今の時代の日本こそ、聖霊によるしるしや奇跡が必要である。
なぜなら、そのわざによって、神を知らなかった人が、神を知るようになり、信じなかった人が信じて、救われるようになるためである。だから今、私達も、あの時代の使徒にならい、イエス様の奇跡をありありと自分のものとするため、聖書を開いて、イエス様がなされた奇跡を一つ一つ確認し、助け主が来るならば、これらは2020年を生きる今のわたしにも起きる!と、信仰を混ぜつつ思い巡らし、自分のものとして行きたい。
 
 福音書でイエス様がなされた奇跡の内、最も多かったのが、癒しの奇跡である。イエス様が行かれた所では大勢の病や、悪霊憑きや、てんかんが、癒された。(マタイ4:23、8:14、マルコ1:29、ルカ4:38、6:17)
らい病を患っている人は、それが清められ(マルコ1:40、ルカ17:11)、皮膚の病は癒された。 (ルカ14:1)
また、手や足が萎えた人など、完全でなかった体が、完全にされた。 (マタイ12:9、マルコ3:1、ルカ6:6)。
また、弟子が勝手に切り落としてしまった耳を癒やし、弟子の不始末の責任を取られた(ルカ 22:50)。
 また主は、御言葉の宣言によって遠隔地の人を癒された。主は、「お言葉さえ頂ければ(たとえ面と面を向かっていなくても)癒やされる」、という百人隊長の信仰通り、彼のしもべを癒され(マタイ8:5、ルカ7:1)、また、王室の役人の息子も、遠隔地から癒しを宣言したちょうどその時、息子は癒やされた。(ヨハネ4:43)
 また、第三者の執り成しを聞き入れて癒やされた事も多々あった。(マタイ14:34、9:1、マルコ6:53)
 主は個人個人に、その癒す相手に応じ、それぞれ個別の対応をされた。主は、ベテスダの池で38年、病で苦しんでいる人を癒し(ヨハネ5:1)、耳が聞こえず舌の回らない人の耳には、指を差し入れ、唾をつけて舌に触れ、「エパタ」と言って耳を開き、舌のもつれを解かれた(マルコ7:32)。また、見えない人の目に唾をつけて癒し、さらに人が木のように見えてしまう目を、はっきり見える目へと癒した (マルコ8:22)
 生まれつきの盲人の目に泥を塗って、シロアムの池で洗うようにと指示し、彼がその通りすると、見えるようになった(ヨハネ9:1)。また、盲人バルティマイの「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びに応じ、癒して下さった(マタイ20:29、マルコ10:46、ルカ18:35)。このケースのように、主は癒やされた時、「あなたの信仰があなたを救った」と、よく言われた(マタイ9:22、マルコ5:34、ルカ7:50、8:48)。
 また、自分自身の信仰一つで、主から癒しを引き出してしまったケースもあった。十二年間長血を患っていた女は後ろから主の衣の房に触れて癒しを引き出し(マタイ9:18、マルコ5:25、ルカ8:40)、また、ツロ・フェニキヤの女は、主の言葉を掴んだ信仰告白によって、娘の癒しを主から引き出した。(マルコ7:26)
 
 私達も助け主が来て、聖霊に満たされるなら、これら全てのわざを行い、またそれ以上の事をするのだ!
悪霊やてんかんによって悩まされているだろうか?助け主が来るなら、それらをイエスの名によって癒す事ができる! 皮膚の病や、人から「汚れている」と言われる病を持っているだろうか?助け主が来るなら、それらを清められる! 手足など肢体の完全さを失ってしまっているだろうか?それらも癒す事ができる!
 目がはっきり見えないだろうか?人が人として見えず、木が歩いているかのように見えてしまうだろうか?助け主が来るなら、そのような人を癒やす事ができる! 助け主が来るなら、12年来でも38年来の病でも、長年治らなかった病が癒せる! 助け主が来るなら、耳や目が塞がれている人に「エパタ!」と言って開く事ができる! 舌がもつれてうまく言えない舌も、解ける! 弟子が犯した不始末の責任を、癒しによって補償できる!そうして癒しのわざを人々が見るなら、主が確かに生きて働かれる事を知り、衣の房を触れるだけで癒しを引き出したり、あるいはパウロのように、前掛け布をかざすだけで、癒やす事も、起こるだろう。
 
 今まで、こう言うのは「おこがましい」、癒しはイエス様の専売特許で、イエス様なら出来ても自分には出来ない、と言って来たのは、私達・信じる者にも与えられていた特権を制限する事だったと反省しなくてはならない。聖書に書いてある内容で、「まさかここまではできないだろう」と思えていた事は、どんどん「聖霊が来るなら自分にもできる!」と塗りつぶして行き、主のわざを実際に行っていく皆さんでありますように!

早天礼拝

自分の罪の報いを受けている最中でも、何度でも主に泣きついたダビデ(詩篇61-62篇)

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詩篇63篇表題『ユダの野にあったときによんだダビデの歌』
 
これは、アブシャロムがダビデにクーデターを起こし、ダビデがユダの荒野へ逃げざるを得なくなった時に詠んだ詩である(2サムエル記16:2)。
 
ダビデは、彼自身が犯した姦淫と殺人の罪の故、彼の子たちもまた、子供たち同士で姦淫や殺人を犯すようになり、父ダビデの煮え切らない態度の結果、息子アブシャロムはクーデターを起こしてしまった。
いわば、自分の身から出た錆である。
 
しかし、ダビデは、「自分はもう罪を犯したので、主に合わせる顔がない」などと、主から離れる事はせず、かえって、熱烈に主に泣きつき、主に助けを求めた。
あたかも、泥だらけになって汚れた子供が、親に泣きつくように。
親を慕っている子は、自分が泥だらけになった時、「自分はもう汚れてしまったから、親に合わせる顔が無い」などとは言わず、逆に、親に泣きついて行くものだ。
まことの父なる神様も、それを願っておられる。
だから私達は、どんな罪を犯し裏切ったとしても、何度でも神に立ち返るべきなのだ。
 
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
 
ダビデは、は、岩砂漠の荒野にて、水に渇く以上に、主に対して渇いており、神に「あなたはわたしの神」と呼んだ。
主は、それほどまでに主を慕い求め、積極的に関って行こうとする人を、ご自身のものとし助けてくださる。
 
詩篇63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
 
彼は、ユダの荒野にいるはずで、そこには聖所は無いはずである。
ではなぜ、彼は「聖所にあって目をあなたに注いだ。」と言ったのか?
もし、主を「わたしの主」とし、砂漠で水を求めるように、主を慕い求めるなら、そこが聖所と化すのである。
ダビデは、この荒野の聖所で、素晴らしい賛美を捧げる。
 
詩篇63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
 
心の底からの賛美は、「あなたのいつくしみは、いのちにもまさる」という実感から出て来る。
そして、その慕い求める心からの賛美を捧げる時、主は、甘く麗しい感覚をもって答えてくださる。
 
賛美や礼拝が「お勤め」になっている人にとっては、永遠に賛美をささげる天国は、つまらない所に思えるかもしれない。
しかし、こんなにも罪深い自分を、こんなにも素晴らしい天国へ入れてくれたという心の底からの感謝と賛美を、永遠に捧げられる天国は、じつに甘く麗しい、喜びに満ちた所なのだ。
天国にて、24人の長老たちが、冠を自分の頭から外して、主の御前に投げ出したのは、自分の頭なんかに冠があるなど、とてももったいない、一刻も早く、主こそが冠を受けるに相応しいお方だ、と表現したいのではないだろうか。(黙示録4:10)
 
天国でも、自分は罪を犯して生きてきた、という記憶がある。
なぜなら、
罪を犯した記憶、そして、そんな自分さえ赦されたという記憶なしには、感謝は生まれないからである。
だから、今私達の罪の記憶が消えていない理由は、自分は罪深いのだと自分に言い聞かせて苦しむためではなく、むしろ、こんな自分を赦して下さった事を、主に感謝するためである。
 
詩篇63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
 
ダビデは、息子アブシャロムが起こしたクーデターのゆえに、逃げている最中である。
状況からして、到底眠るどころではないはずなのに、彼は床の上で横にり、しかも魂は豊かにもてなされるかのように満ち足りていて、彼の口は、喜びをもって主をほめたたえている。
 
それは、彼が主を思い、主の御言葉を思い巡らした故に、そこが御翼の陰、平安に満ちた所となり、いかに荒野で敵に追い回されている最中であっても、安らかな眠りが与えられたからだ。
もし私達が、過去や現在、将来起こるであろうあの事この事や、あるいはあの人・この人の言葉を思い巡らすなら、どんなにそこがセキュリティの確保されたホテルであっても、不眠症になってしまう。
 
63:9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は/地の深き所に行き、
63:10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじき(メナート:分前、相続)となる。
 
この時、ダビデの魂を滅ぼそうとする者はアブシャロムであったが、彼はダビデはずかしめるために、公然と父ダビデの側女と寝たり、策略を巡らして父親を殺そうと追い回したり、と、律法では死に値する事を平気で行った。
その結果、彼は木に吊るされた状態、すなわち、呪われた状態のまま、なぶり殺されてしまった。
主に憎まれる事をあえてするような者は、山犬のえじき(相続分)となってしまうのだ。
 
63:11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。
 
神からの約束に従って忠実に歩もうとする人は、真理の内に歩み、つまづく事なく、その道は確かである。
しかし、偽りを言う者は、その口が塞がれてしまうのだ。
 
続く詩篇64篇は、口達者な悪者に対抗する詩篇である。
もし自分は言葉巧みではない、けれども相手は悪辣な言葉を朗々と操るのに長けていて、言葉では勝ち目がない、という場合は、この詩篇を宣言すると良い。
 
詩篇64篇表題『指揮者のために。ダビデの賛歌』
64:1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。
64:2 悪を行なう者どものはかりごとから、不法を行なう者らの騒ぎから、私をかくまってください。
 
この詩も、神への訴えで始まる。
 
64:3 彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。
64:4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。
 
ダビデを攻める者達は、舌が達者で、苦い言葉をダビデにめぐらして、彼を苦しめている。
実際、アブシャロムは口達者な者だった。
彼は長年、ダビデを貶めるうわさ話を周到に巡らす事によって人々をダビデに敵対させ、また、甘い言葉で人心を買い、そうして長年の準備が整った時、彼はクーデターを起こした。
 
64:5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう。」と言っています。
64:6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。
 
彼らは、悪において長けている。
互いに談合し合意の上で、ひそかに罠を仕掛け、それを「だれに、見破ることができよう。」「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っている、いわば、確信犯である。
意図して悪いたくらみをし、そうして成り上がって行こうとする事において、長けた者達である。
 
そのような者が、悪い力を駆使して攻め寄せて来る時、私達も、詩篇64篇の内容で、主に訴えるのだ。
特に、相手が主に忌み嫌われるような偽りや不正で立ち向かって来るなら、主の軍配は私達の側に上がり、以下のように扱って下さる。
 
64:7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。
 
そう、彼らが不正をする時、その不正が、彼らを攻め立てる口実となる。
偽りを言うなら、その偽りを言った口が、彼らを攻め立てる材料となる。
だから私達は、悪者の道に足を踏み入れるべきではない。
 
箴言1:19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
 
詩篇64:9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
64:10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。
 
主は、悪者が報いを受ける事によっても、栄光を受けられる。
その報いを人々が見る時、義なる神が生きておられ、悪人は必ず滅びるのだ、と、世界は知るようになる。
事実、ダビデをあなどったアブシャロムは、誰が見ても呪われた死に方をして、主がダビデに軍配を上げて下さった事を、全国民は知った。
 
確かに私達も、罪を犯した者達で、主から守られるに値しないように見えるかもしれない。
しかしたとえ罪を犯した者であったとしても、悔い改めて何度でも主に立ち返り、主に泣きつき、主により頼む人を、主は弁護し、保護してくださる。
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