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証(音声のみ)
「臭さの凶器のような人でも」:右クリックで保存
昨日は結局、あの配信のあと、深夜の横浜散策に出ました。
教会を出て、横浜スタジアム→中華街→山下公園→大桟橋を周り、そして教会へ戻りました。
その間、歩いた歩数は4千歩以上。教会からは、その程度の歩数で有名どころを歩いて回れるようです。
深夜の中華街は初めて歩きましたが、昼間とは打って変わって、誰もいなくて、静かで暗くて、不気味な象や建物が独特の威圧感を醸していました。
栃木から来られた姉妹も、多くの喜びと恵みを、主からいただいて帰りました。かの地においても主の祝福が追いかけて行きますように!
礼拝説教メッセージ音声:イシュマエル - 神は聞かれる(創世記16:7-16):右クリックで保存
アブラムの子を宿しているハガルは、サライにいじめられ、逃げた。
もはやサライにとって、ハガルは憎むべき相手、いなくなって欲しい相手となってしまったが、アブラムはまさかここまで発展するとは思っていなかっただろう。
ハガルは、シュルへの道にある泉のほとりで、主の使いに声をかけられた。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
主の使いはハガルに、彼女の本来の立場である「サライの女奴隷ハガル」と呼んだのに対し、彼女は「”女主人サライ”のもとから逃げているところです」と答えた。
彼女は「自分はアブラムの子を宿した」「アブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張せず、”女主人サライ”と言って、自分の正しい立ち位置を答えた。
もし彼女が、自分のよかれを主張していたら、どうなっていたか? それは創世記3章、4章でアダム、エバ、カインが主張した結果を見れば、大体想像できる。
そこで主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と言い、本来あるべき姿、あるべき所へと帰るよう諭し、そればかりでなく、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束さえ与えられた。
仕えるべき方は誰か、立つべき立ち位置はどこか、為すべきことは何かを正しく見極め、受け入れ、それを告白するなら、祝福をいただく事ができる。
私達も、自分のよかれを主張せず、自分が主イエスの下僕であり、妻である立ち位置を告白するなら、主は、主人として保護して下さり、養って下さる。
主は、生まれて来るる子に、イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)という名をつけるよう、命じられ、ハガルは主を「あなたはエル・ロイ(神は見ておられる)」と呼び、そこにある井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ(生きて、見ておられるお方の井戸)」と呼んだ。
主は生きて、見ておられ聞いて下さるお方であると信仰告白したのだ。
ハガルが一人、身重の身で荒野の道を逃げている時、とてつもなく心細く、やるせなかったろう。
しかし主は憐れみ深く、彼女の元に現れ、彼女は、主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方であると、信仰によって知ったのだ。
彼女が戻るのには勇気が要ったであろうが、荒野で学んだ彼女は、主の言葉どおり本来あるべき立場・本来あるべき女奴隷としての態度に戻った。
その時、この荒野での出来事を、アブラムとサライに報告しただろう。
そして夫婦ともども「イシュマエル(神は聞かれる)」という名を聞いて、自分の身勝手さに恥じ入っただろう。
結局のところ、今回の騒動は、サライやアブラムの身勝手な判断と行動から出たのだが、その全てを超えて、主は生きているお方、見ておられ、聞いておられるお方だと、ハガルを通して教えられたのだ。
イシュマエルは野生のろばのようになる、と主は言われた。
この時生まれたイシュマエルは、アラブ民族の父祖だと言われており、アラブ民族とイスラエル民族がたどってきた歴史を見るに、その通りになっている。
しかし、歴史とは、神の側の提示に人がどう受け答えたかによって織りなされているものであり、今日あるまでに争いが激化してしまったのは、人の側が神の御言葉に不従順を積み重ねて来たからである。
イシュマエルの子孫の中にも、命の危険を賭してまでキリストを信じる信仰を守り通している立派な兄弟姉妹がいるように、私達自身も、野生のロバのような暴れる罪の性質をとりこにしてキリストに服従させるなら、聖霊により、要塞をも打ち破るいのちの力が発揮され、ますます神の子とされて行くのである。(2コリント10:4-6)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の一人勝ち(1サムエル4:1-3):右クリックで保存
今日は朝、昼、夕、夜と、4回礼拝があり、さっき、夜の礼拝が終わった所です。
また、教会の友人の姉妹が、栃木からはるばる来られ、昼から交わりに加わっております。
これからまだ交わりが続きますが、御言葉も祈りも賛美も交わりも、楽しいから止められないですね。
礼拝説教メッセージ音声:苦々しさがはびこる原因(創世記16:1-6):右クリックで保存
アブラムは再び失敗する。
前回の失敗は、ききんで食料が無い事に焦って神に頼る事無く独断でエジプトへ行ってしまったことだったが、今回は、サライが子が中々与えられない事に焦り、独断で解決方法を考案し、それをアブラムに勧め、アブラムは神に聞かず、妻の声にそのまま聞きしたがってしまった事だ。
彼女の考案した解決法とは、自分の女奴隷が代わりとなって、自分の子の代わりを得よう、というものである。
当時、そのように女奴隷を通して代理で子を産んでもらう風習があり、サライは、神の約束で未だ成就されていない分を、世で行われている風習に則って果たそうと考えたわけである。
頼るべき主に頼らず、信頼すべき御言葉に自分なりの解釈を施して身勝手に行動してしまうと、必ず、苦々しい結果がつきまとう。
サライは「たぶん」それで自分は子を得られるだろう、と軽く考えていただけで、もし実際にハガルが身ごもったら、どんな自分がみじめになるかまでは考えていなかったのだろう。
サライは、世の解決法によって行動してしまった結果、世の価値基準から、世そのものから嘲られ、見下げられてしまった。
彼女は、女として子を宿す力においても、若さ、美しさにおいても、多くの点でハガルに劣っている自分が浮き彫りにされ、惨めになった。
自分由来の何かに頼る事を「肉のわざ」と言うが、彼女がそれに頼った結果、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」という肉の実(ガラテヤ5:19-21)を見事に結んでしまったわけである。
ハガルは自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。(4節)
御言葉を身勝手に解釈し、肉にの方法に頼るなら、やがて、それによって見下げられ、嘲られるのである。
例えば、たばこを吸ってはならないとは聖書には無いが、だからと言ってイライラする都度それに頼っていたら、後には、そのたばこによって嘲られ、たばこによって支配されるようになってしまう。
たばこに限らず、身勝手な御言葉解釈や自分で考案した方法によって、自分の必要を満たそうとするなら、必ず苦い結果がついて回る。
『サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。。。』(5節)
自分で考案し勧めておきながらその言葉は無い、と思うかもしれないが、確かに、アブラムにも責任がある。
妻が御言葉を「超」解釈して薦めてきた場合、夫たるアブラムが、御言葉を根拠に、妻をたしなめなくてはならない。
エバの時も、御言葉に反した事を薦めてきたのであれば、御言葉に基づいてたしなめるべきであったが、アダムはそうせず、妻の声に聞きしたがって、自分の一家だけでなく人類全体に呪いを招いてしまった。
世のならわしや妻の考案した方法に安易に飛びつくのではなく、祈りつつ忍耐して待つべきであった。
『アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。』
アブラムにとって、せっかく自分の子を身篭ったハガルにそのように決断を下すのは辛かっただろう。
アブラムが受胎を聞いた時は喜びだったかもしれないが、肉に由来する幸いは、ほんのつかの間である。
結局、3人ともども、苦々しい思いをする事になってしまった。
私達が学ぶべきは、身勝手に御言葉を解釈して行動するべきでない事、もしそのように肉にしたがって行動するなら、束の間の幸いは得ても、苦々しさがはびこり、その行動の生成物によって、嘲られてしまう、という事である。
忍耐して御言葉に信頼し、いつでも主に祈って求める皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:闇を通り過ぎる炉と松明(創世記15:7-21):右クリックで保存
『その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで』(18節)
イスラエル民族が、エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまでの広大な土地を所有した歴史は、今に至るまで、無い。
この約束は今もまだ、成就へと向かっている真っ最中という事である。
アブラムは、出生の地・ユーフラテスの地から、エジプトに至るまで足で踏み歩いた。
神はかつて「その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」(13:17)と言われた通り、彼が踏み入った土地すべてを、彼と彼の子孫のものとするわけである。
アブラムは主に、この土地を継げるという事を、何によって知ることができましょうか、と尋ねた所、主は「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」と言われた。
アブラムは言われたとおりの動物を用意し、神が何かをなされるのを待ったが、待っていてまず来たのは、禿鷹だった。(創世記15:8-11)
神が「用意せよ」と言われたものを用意すれば、すぐに何かが示されるわけではない。
主に示された捧げものを用意して主を待ち望む時、汚れた者がその尊いものを狙って来る事は、大いにありうる事で、その時、私達もそれを追い払わなくてはならない。
『日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。
しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。』(12-14節)
神の民であれば何の苦労もなくそのまま自動的に約束の地へと入れる訳ではなく、必ず試練の時、暗黒の時を通らされる。
「それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(16節)
約束の地は、悪しき者の支配下にあり、その悪しき者達の悪が、神の秤の目分を満たすまで、裁きは執行されないからである。
ノアの時代やアブラハムの時代と同じように、この世の悪も、極みに満ちるまでは裁きは為されない。
神は義なるお方で、人が何も悪い事をしない内に「お前は悪しき者だ」と言って裁くことはせず、中々裁きが実行されない事がある人の目には遅いと感じるかもしれないが、その者達の邪悪さが誰の目にも明らかとされるその時まで、神は裁きはなされない。(黙示6:9-11)
「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(17節)
主は、煙を吐く炉と燃える松明という形で現れ、二つに裂かれた動物の間を通り過ぎる事によって、アブラムとの契約に調印をされた。
詩篇18編によると、立ち上る煙と燃える火による顕現は、神の怒り、さばきのしるしである。
事実、後の時代に、主はエジプトで苦しんでいるアブラハムの子孫達のさけび声を聞き、火と雲を従えて降りてこられ、エジプトをさばき、アブラハムの子孫達を助けられた。
現在、この世は邪悪な者達が好き放題しているが、やがて主イエスは雲に乗って来られ、火によって裁かれ、そうして世は改まり、永遠なる主の支配が来るのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
交わりから落ちても(使徒20:7-12):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ3:8-14:右クリックで保存
韓国語通訳有
礼拝説教メッセージ音声:闇に輝く星々のように(創世記15:1-6):右クリックで保存
主の御言葉は、足のともしびのように近くを照らすだけで、遠い先は見えない。
神の導き方は、次に為すべき事だけが告げられ、人がそれを信じて服従したなら、さらに次の行き先が示され、それを繰り返して行く内に、主が用意されている祝福の全容がより明確に、具体的になっていく。
それ故、御言葉が与えられたら、人の側が応答し服従しないと、いつまで経っても、沈黙の暗闇に閉ざされたままである。
14章にて、アブラムは信仰の試練を見事に克服し、メルキゼデクからの祝福を頂き、ソドムの王の汚れた富を辞退した。
そのため、本日の箇所で神は、アブラムへの祝福の約束を、より具体的に告げられた。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
神はまず、自らを「盾」であると言われた。
神が盾であるからには、神はすぐ前におられ、敵の放つ火矢を全て防ぎ、罵声からも悪意からも、全て守って下さる。
続く日本語は「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」だが、原文のニュアンスとは、かなり違う。
KJVでは「I (am) thy shield, (and) thy exceeding great reward. 」、つまり神は、「私があなたの盾、飛び抜けて素晴らしいあなたの報酬である。」と言っておられる。
詩篇15:5でもダビデが言っているように、主ご自身こそ、私達の報いであり、報酬であり、身を守る盾である。
私達が主を信頼したら、その報酬として莫大な富や地所が手に入る、という事ではなく、主ご自身こそが、莫大な富や地所よりはるかに勝る、私達の報酬なのである。
アブラムは答えた。
「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
このエリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味、新約で言う「助け主」と同じ言葉で、彼は後に、その名前の通りの事をする。
しかし、アブラムの跡取りは、彼のような「助け主」ではなく、彼自身から生まれる「子」である。
神はそのことを示すために、彼を外に連れ出して言われた。
『「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」』(5節)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
ここで使われている「子孫(ゼラ:子、子孫、種)」は単数形であり、そ単数形の「子孫」が、すなわちキリストの事である。(ガラテヤ3:16)
アダムとエバも、ノアの父レメクも、神が預言された人類を救う「子孫」に望みを託した。
アブラムも同じように約束を信じ、彼の子孫・キリストに望みを託したのである。
旧約の偉人たちは、まだキリストは生まれていなくとも、将来生まれて来る人類すべての救い主に望みを託し、義と認められたのだ。
アブラムは、闇に塗られた夜空に、数え切れないほどの星々が、ちりばめられた宝のように輝いているのを、見たことだろう。
都会にいると分からないが、人の作った灯の無い大自然の夜空は、実に暗く、幾万と輝く星々のその輝きは、実に美しい。
暗闇の中に輝くきれいな星、、、大きな星もあれば小さな星もあり、色とりどりの星がある。
キリストにあって皆さんも、この暗闇の世代の中にあって、キリストのいのちを灯す星として輝いている。
アブラムが空を見上げた時、その星の中に、皆さんも見えたのではないだろうか。
この真っ暗な闇の世界にあって、光の子としてますます輝く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!