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教会では最近、「あなたの趣味は?」と聞くことが流行っています。

その質問を受けた時、ある人は「イエス様の御言葉を聞く事が趣味です」と、

別の人は「主にあって自分に死ぬ事が趣味です」と告白しています。

誰かが突然「あなたの趣味は?」と聞くたびに、答えるべき自分の「趣味」を忘れないようにいつも思い出しますので、覚えるし、唇で告白しますし、すばらしく変えられています。

皆さんも信仰にある自分の「趣味」を持ってみてはいかがでしょうか?

礼拝説教メッセージ音声:むなしい年寄り女を王女へと変える主(創世記18:1-15):右クリックで保存

前回主がアブラハムに現れてから、まださほと経っていない時、主は、三人の旅人に身をやつして現れた。
『目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。』(18:2-3)
アブラハムは彼らの所に走って行ってひれ伏し、彼らの足を洗い、ひとりにつき7.6リットルの上等の小麦粉でパンを作るようサラに指示し、また、柔らかくておいしそうな子牛でもてなし、彼自身は給仕した。
見ず知らずの旅人にかなりの接待をするものだと思うかもしれない。

パレスチナ地方では、この時代から既に、旅人をもてなす事が当然為すべき美徳として行われており、それをしない事は、その人の、その家の品格を疑われる事であった。
アブラハムは最初、彼らを「主(アドナイ)」ではなく「お客様(アドン)」と呼んだ事から、また、彼らは疲れた様子だった(5節)事から、アブラハムは彼らが主であったと最初から悟っていたのではなく、単に、世の美徳に習って旅人をもてなすつもりで歓待したのであろう。

「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブル13:2)
私達も、日常を侮ってはならず、世の中で通っている徳と言われるものを、ないがしろにしてはならない。(ピリピ4:8)
主は、夢や幻、しるしや奇跡といった「非日常」にしか現れない、と思ったら間違いである。
むしろ主は「日常」の内に、ある時は盗人のように思いがけず現れる。

アブラハムが給仕していた時、彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
主は、主が名付けられた名前「サラ」を呼ばれ、アブラハムは「はい、天幕の中におります」と答えると、彼らの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。

前章で、サラには来年の今頃、男の子が生まれる、という約束がアブラハムに与えられ、サラはそれを既にアブラハムから聞いていたであろうが、信じきれていなかったため、この、客のただならぬ言葉を聞いても、笑ってしまったのである。

『主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」』(創世記18:13-15)

主が旅人の姿で現れ、同じことを言われたのは、恐らくサラに、主が名付けて下さった新しい名に相応しく、王女として、信仰者として、整えるためだったのではなかろうか。
この時点、サラは、彼女の子ではないイシュマエルもすくすく育ち、それにひきかえ自分は老いてしまったため、子を産む事についてはもはやあきらめ、王女とは言えないような、卑屈な信仰になっていた事だろう。
しかし主は、アブラハムに現れ彼の信仰を再び奮い立たせて下さったように、サラにも直接現れて、彼女の弱っていた弱い信仰を奮い立たせて下さった。
こうして彼女は信じ、もはや年齢が盛りを過ぎていたのに、子をもうける力を得、神の約束どおり、彼女から多くの子孫が生まれるようになったのである。(ヘブル11:11-12)

12-15節の間に「笑い」という言葉が4回出てくる。この、笑いという言葉がキーワードである。
将来、彼女が産む子は「イサク(意味:彼は笑う)」という名前であり、彼女がイサクの名を呼ぶ度に、この時の出来事を思い起こしたことだろう。
あの時、弱々しく笑うしか無かった自分に、主は現れてくださり、心底、いのちの喜びの笑いを提供して下さった、と。

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。と主は仰せられる。」(イザヤ54:1)
「主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。とあなたの神は仰せられる。」(同6節)
「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(同11-13節)

サラのように、弱っている信仰が主によって強められ、卑屈な信仰から、王女のような信仰へと変えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ3:15-22:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
足を洗う主(ヨハネ13:1-20):右クリックで保存

証(音声のみ)
イエス様と出会って変わる人と変わらない人」:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:有り得な過ぎて笑ってしまう事も、為さる神(創世記17:15-27):右クリックで保存

サライにも新しい名、サラという名が与えられた。
「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創世記17:15-16)

サライもサラも共に「王女」という意味で、父親テラは、おそらく彼女に、王女のような、お姫様のような子になって欲しいと、ある種の願いを込めてつけたであろう。
しかし、人の呼び名、人が決めつけたアイデンティティは捨てて、まことの天の父がつけた名、造り主によって定められたアイデンティティを、新しくい生きる事が大切である。

アブラハムにとって、この約束は、思わず笑ってしまう程、突拍子も無い内容だった。
奴隷女ハガルからイシュマエルが生まれ、もう13年もの間、神は沈黙されていたのだから、イシュマエルがこれから祝福されていくのだろう、と、彼は暗黙的に思っていたであろうが、なんと、不妊の女で89歳の、生理も止まってしまったサライが、これから子供を産み、国々の母となり、諸族の王たちが出る、というのだ。
神は明確に言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(創世記17:19)

不妊で子を産まないまま89歳になってしまった女に、もはや産む望みは持てない、と、人は思う。
しかし神は、有り得なさ過ぎて笑ってしまう程の事であろうとも、成してしまう。それ程、全能なるお方である。

アブラハムは最初聞いて信じきれず、笑ってしまったが、神が明確にサラを通して子が生まれる事を信じた。

『彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。』(ローマ4:18-21)

アブラハムは信じた証拠として、信仰に裏打ちされた行いを実行した。
「アブラハムは、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や買い取った奴隷など、自分の家にいる人々のうち、男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。」(創世記17:23)
アブラハムの家には、奴隷や使用人も含め、少なくとも300人以上の男性がいたが、約束が与えられたその日の内に、自分も含めた男性全員の包皮を切り取ったのである。
神様の約束は確かであるという確信が無くて、どうしてそんな突拍子もない事を、実行できただろう。

『だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。』(ローマ4:22)

アブラハムの導かれ方は、75歳で呼び出されて以来、主から道が示され、示された通りに実行して、さらに具体的に次の道が示されて、という事の繰り返しであった。
呼び出された当初、おぼろげだった祝福も、今やかなり具体的になった。
私達の信仰のあゆみも、それと全く同じである。

神様から示された道を、信仰の行いをもって応え、さらにステップアップした祝福を勝ち取りつつ、信仰のあゆみを続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:割礼のしるし(創世記17:9-14):右クリックで保存

契約を取り交わす際、契約書にサインを記してから初めて契約は有効化されるように、アブラハムも、契約に同意したというしるしを残さなくてはならなかった。
この、契約のサインに相当するものが割礼であり、そのしるしは自らの体に記すものである。
「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。・・・それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。」(創世記17:10-13)
それ故、割礼無しには、神の祝福の約束は、有効化されないのだ。

割礼とは、男性器の包皮を切り取る行為である。
男は支配し治める者であるが、その、男性のシンボルたる部位の肉を切り捨てる事が、神の民なって世から分離した事のしるしとなる。
それは実に、私達を含めた神の民にとって、象徴的である。

私達も信仰によってアブラハムの子孫とされたからには、割礼は避けて通れない。
もっとも私達キリスト者が受けるべき割礼は、刃物による肉の割礼ではなく、御言葉の剣による心の割礼である。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって「心」に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28)
ここの「心」とはカルディア、すなわち、心、感覚、思いである。

割礼は、感覚の敏感な所を切り取るからには、痛みを伴う。
私達も、肉的な心、感覚、思いが切り取られる際には、覚悟と痛みを伴うが、聖霊がその痛みを和らげて下さる。
それを通り越した先には、祝福が待っており、私達を責め立てていた債務証書は全て無効化され、真にアブラハムの子孫としての祝福にあずかるようになるのである。

私達にとって、目に見える割礼のしるしに相当するものが、洗礼(バプテスマ)であり、それは、これからは肉に頼らず、御霊に従って歩む事を約束する事のしるしである。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:11-12)
そのように、肉に対して死に、キリストと共に復活させられたからには、色々な定めを通して責め立てている債務証書は無効にされ、神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされたのである。(コロサイ2:14)

「主はモーセとアロンに言われた。「過越祭の掟は次のとおりである。外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる。」(出エジプト12:43-44)

ここにある通り、外国人は単に奴隷として買われただけでは過越の子羊を食べることはできない。
割礼を施されて、はじめて過ぎ越の子羊を食べる事が出来るようになる。
私達も異邦人であったが、キリストの流された血潮の代価によって買い戻され、キリストの奴隷とされた。(1コリント7:22)

あとは、私達自身が、支配欲という男性的な心の包皮を御言葉の剣の前に差し出し、肉の思いをキリストの故に切り落とす「心の割礼」を施す事によって、祝福の約束を有効化するのみである。
そうして子羊の血潮の守りに預かり、いのちを産んで増えて地に満たすアブラハムの祝福を、自分のものとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:全能の神 エル・シャダイ(創世記17:1-8):右クリックで保存

前回の時点から13年が過ぎ、アブラムは99歳になった。
アブラムが75歳で召されて10年、神と共に歩み、実に様々な体験をして来た記録が、創世記12章から16章の間に記されているが、この16章の最後から17章1節まで間、一切の記録が無い空白の13年がある。

『アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」』(創世記17:1)
アブラムは前回、肉の力でイシュマエルを産んでしまい、それ以来、神は13年も沈黙されたが、いよいよアブラムの肉体が死んだも同然の99歳になった時、神は「全能の神(エル・シャダイ)」という名で現れた。

「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と言われたが、人間はアブラムのように間違いを犯すし、罪を犯す。
人はとうてい完全になる事は出来ず、その事は神も当然ご存知であるが、ここで重要な事は、「あなたはわたしに従って歩み」なさい、という事である。
人は神に従って歩んでこそ、神の目に全き者となって行くのである。

ダビデは言っている。
「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、”私は全き者となり”、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」(詩篇19:13)

私達が気をつけるべきは、傲慢の罪に陥らぬよう神に依り頼みつつ生きる事である。
アブラムはかつて、神の言葉を超える傲慢の罪を犯し、失敗をした。アダムやエバの失敗もまた同じである。
神の御前に全き者になるとは、罪も間違いも無い完全な者となる事ではない。それは不可能である。むしろ、神の御前にへりくだり、神に従って歩む事によって、全き者へと、造り替えられていくのである。

アブラム99歳、サライ89歳。もはや人間的に子を生むことは絶望的になった時、神は新しい事を命じられ、約束された。
「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」(創世記17:5-6)
アブラムという名は単に「父」という意味だが、もはやその名は捨て今度はアブラハムすなわち「多くの父」という名を名乗るように、という事である。

これから子を産み「多くの父」となる、という約束は、99歳の者に対しては余りに手遅れ、絶望的な約束かもしれないが、神は「全能の神」である。
単に多くの子が生まれるばかりでなく、子達の中からは王たちが生まれる、というのである。
そして事実、後の歴史を見ると、その通りになった事がわかる。

神の言われる事は、その時には人の目に絶望的、不可能に見えるかもしれないが、神に不可能は無い。
むしろ、人の目には絶望的に見え、もはやあきらめるしか無いような時にこそ、神は「全能の神」として現れて下さり、全てを成して下さるのである。

結局昨日は礼拝の後、17時まで通読会、その後皆で食材を買うために横浜橋商店街へ繰り出しました。

私は教会の近所に住んでおられるご婦人の家具を運ぶお手伝いをしてから教会に戻り、皆でごちそうを頂き、サプライズの誕生会があり、皆おなかいっぱい食べたので、また夜の散歩に行こうという事になり、夜の横浜へ繰り出しました。

散歩コースは、教会→横浜スタジアム→山手トンネル→麦田を経由して、港の見える丘公園へ行きました。

夜のバラ園は神秘的で、良い芳香を醸していました。

それから徒歩で帰ってきて休みましたが、、、それにしても皆さん、仕事があるというのに、交わりが楽しくて楽しくて仕方ないのでしょう。

主を主としているか?(1サムエル4章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「イスラエルびとは出てペリシテびとと戦おうとして、エベネゼルのほとりに陣をしき、ペリシテびとはアペクに陣をしいた。ペリシテびとはイスラエルびとにむかって陣備えをしたが、戦うに及んで、イスラエルびとはペリシテびとの前に敗れ、ペリシテびとは戦場において、おおよそ四千人を殺した。」(1サムエル4:1-2)
この時、彼らは異国の神々にも仕え(7:4)、心から主に従っておらず、戦いに出る大義も名分も無かった。
イスラエルが勝利するのは、神を主としている時であり、主が「行け」と命じられた時、信じて行けば、必ず勝てた。ギデオンの時は13万5千人に300人で勝利したし、ヨナタンの時は、戦車3万、歩兵は数え切れない程であっても、信仰ある二人が立ち向かって、勝利へと導いた。(1サム13-14章)
しかし、イスラエルが不信仰の時は、いかに大軍で戦いに行っても、負ける事は確定している。
出エジプトの民が不信仰によって、荒野で40年さ迷う事が確定してしまった時、民の一部は、主が命じられていないのに戦いに行こうとし、モーセは「主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない・・・主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。」(民14:41-43)と言ったのに、聞かずに出て行き、惨敗して多くの犠牲を出してしまった。

『イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。』(1サムエル4:3) 彼らは、敗北の原因が自分たちの側にあるとはつゆ思わず、我々が欲しい勝利を得るために、主の契約の箱を我々の側に運んで来れば勝利するだろう、と考えた。
つまり、我々が神に従おう、というのではなく、神が我々に従ってもらおう、という心である。
そのような心で望んだ結果、イスラエルは三万人が倒れる大打撃に遭い、契約の箱は奪われ、時の祭司エリ息子、ホフニとピネハスは死んだ。
祭司が、戒めるべき人達を戒めず、神である主より人を重んじ、主が受け取るべき聖徒の捧げものを横領し続け、主から2度も警告が与えられて久しいのに、改めなかったからである。(1サム2:27-36、3:11-14)
教会の熟練牧師が全て奪われ、自分たちの信仰の置き所も奪われてしまったような出来事で、その時、彼らには絶望のように見えたが、実はこの時、イスラエルにとっては悔い改めるチャンスの時であった。
「卑しめられたのはわたしのために良い事でした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩119:71)

あなたは人生の諸々の戦いにおいて、勝ち、負け、どちらにあるだろうか?神の民と一緒にいるから勝てる、というものではなく、口先で神を担ぎだしているから勝てるというものでもない。
契約の箱を持って行けば安易に勝てるというものではないし、十字架を持って悪霊の館に行けば悪霊が安易に逃げるというものでもない。大切なのは、契約の板 に書かれてある内容を守り行なっているかどうかであり、日々、十字架を負って自分には死に、キリストに生きて頂いているか。それが重要である。
どなたを「主」に据えているか。勝利はそこにかかっている。
「主」。つまり自分の人生の主人公、自分の主人、持ち主。あなたが服従しようとしている主は、誰だろうか。
「主」を「自分」に据えているなら、自分の限界以上の事は出来ず、自分より強いものには勝てない。
サライは、約束が中々成就されないという信仰の試練の時、主に聞く事をせず、焦って、身勝手な解決方法を考案し、世の解決法に従って行動した結果、自分よりも、若さにおいて、美しさにおいて、女として子を宿す力において、ハガルよりも劣っている自分が浮き彫りにされ、見下げられ、惨めになった。(創16章)
「主」を「自分」に据え、世の価値基準で肉の判断で生きるなら、主の助けは自分の側には無く、そればかりか、世の価値基準から嘲られ、肉的に強い者に負け、見下げられてしまうのである。
しかし、いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人には、主はいかなる災いや罠、言葉からも救い出し、飛び交う矢も、暗黒を歩く病魔も恐れる事は無く、たとい傍らに千の人、右手に万の人が倒れようとも、災いがふりかかる事は無い。(詩篇91編)主は御使いに命じて運ばせ、足が石に当たらないよう、どこにおいても守らせ、また、獅子と毒蛇を踏みにじらせ、獅子の子と大蛇をも、踏み行かせて下さる。
主イエスを信頼して進み、あらゆる領域で守られ、サタンを踏み砕き、主とともに勝利の凱旋へと連なる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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