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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ユダと弟子の違い(マタイ26:20-25):右クリックで保存
韓国語通訳有
第一礼拝音声:いのちを選べ(ヨハネ13:21-30) :右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
『一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」』(マタイ26:21)イエス様は全ての人の思いをご存知であり、時にそれを喜び、時にそれを悲しみ、時には激情に駆られて、叫ぶ。(ヨハネ13:21)
弟子達はこれを聞いた時「きっとあいつだ」とは誰も言わず「主よ、まさか私のことでは」と言って悲しんだ。
イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」このイエス様の応えは厳密に訳すと、「君がそう言うなら、そうかもしれない。」つまり、裏切り者であるかの白黒判断はイエス様がするのではなく、ユダに投げ返し、ユダに判断を委ねている。
実はこれ以前に、ユダの心にイエス様を裏切ろうとする思いを、予めサタンが入れていた。(ヨハ13:2)
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものであり(エペソ6:12)、その戦いが展開される領域は、思い(はかりごと)である。
皆さんも誰かに対して、あるいは過ぎ去った事に関して、どうしようもなく苦々しい思いが沸き起こり、その思いの中の状況と一人で対話したり、空想の中でその憎たらしい奴を叩きのめしたり、詮索しても仕方の無い過去を、堂々巡りに思い巡らしたりして、眠れぬ夜を過ごした事は無いだろうか。
そのような時はほぼ、サタンが自らの汚れた思いを吹き込んでいると見て間違い無い。ユダは「イエスに仕えてメリットはあったか?」「あの時のイエスの行動はお前をばかにしているぞ」など、サタンが吹き込んだ思いと対話し、それを思い巡らせ、熟成させ、イエス様を裏切ろうとする決心を固めて行ってしまった。
サタンが私達に、悪しき思いを吹き込む時、それと会話せず、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリ10:5)、戸口で待ち伏せている罪に支配されるのではなく、支配せねばならない。(創4:7)
弟子達はイエス様を「主」と呼び、ユダは「先生」と呼んだが、これは弟子とユダの違いを端的に表している。
イエス様が主であるなら、主の思いが自分の思いと異なる場合、主に従うが、福音を何か自分から着脱可能な「教え」とし、イエス様を「先生」としている者は、いざという時、ユダのようにイエス様を捨ててしまう。
イエス様が主従関係の「主」であり、私達が「従」であるなら、主がその人を牧し、導き、守って下さる。
イエス様はユダの所に歩いて行き、浸したパン切れを渡したが、実に不思議な事に、弟子達はそれを見て、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人に何か施すように」とイエスが言われたのだと思っていた。言葉と所作の前後関係からして、ユダが裏切り者だと示しているのは明白であるはずなのに、弟子たちはなぜ分からなかったのか。
パン切れを浸して渡すという行為は、特別な親しみを示す行為であり(ルツ2:14)、イエス様の所作は、裏切り者を示す行為だとは到底思えない程、優雅な品性に満ち、ユダへの愛情が込められていたのである。
ユダはパンを受け取った時、イエス様は全てをご存知で、今悔い改めても遅くはないと気付くべきだった。
しかしユダは逆に、それまで思いの中でサタンと対話し、熟成して来たイエス様への渦巻く思いを、取り返しのつかない爆発へと発展させる事を、許してしまった。
イエス様はそんなユダに「しようとする事を今すぐしなさい」と言い、ここでもユダの自由意志に委ねた。
主は、人の自由意志を束縛するお方ではなく、アダムやカイン、ユダの「裏切る自由意志」さえ尊重した。
神は人を、神の似姿として創られた以上、その自由意志を尊重し、そして人が誤った選択をし、死と罪へと落ち込んでしまったのに対しても、一人子の命を捨ててまで救い出す程、人を愛し尽くしているのである。
人は神さえ犯せない自由意志があるが、蒔いた種は必ず刈り取らねばならない事も覚えておくべきである。
自由意志を使って、イエス様の下に立ち返る事ができるし、ユダのように立ち帰らない自由もある。
「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)
今は恵みの時、救いの時。ユダのように、自分の思いを取ってイエスを売るのではなく、自分をイエスに明け渡し、いのちを得る事を選ぶ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:行いによらず信仰によって(ガラテヤ3:6-9):右クリックで保存
韓国語通訳有
アブラハムはイスラエル民族の父、イスラエルのアイデンティティの根源であるが、そのアブラハムが神に選ばれ、義とされたのは、律法の行いなどではなく、実に、信仰によってであった。
「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(ガラテヤ3:6、創世記15:6)
アブラハムに子が与えられたのは、人間の力によっただろうか。否、100%神の力による。
神は「全能の神」として現れ、人としての生殖機能が完全に死んだ89歳の不妊の女サラに、来年の今頃、あなたには子が生まれている、と仰せられた時、サラは力なく笑うしか無かったが、神に不可能は無かったのである。
人間は神の御業に何か付け加えて、御業の完成をさせる事ができるのだろうか。
それも否、神のなさろうとする御業は元々完全であり、人間が何かの行いや頑張りによって、それに何か付け加えようとすると、逆に災いしかもたらさない。
アブラハムさえ、中々成就されない神の約束を、人間的な力や頑張りによって成就しようとして、後々にも災いの根を残すような失敗をしてしまった。
「サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。」(創世記16:2)
サライが「主はわたしに子供を授けてくださいません。」と言ったからには、子を生ませないのは「主」だと知っていた。
だから主に祈ってお願いしよう、という発想に行き着かず、では私たちで出来る事を頑張りましょう、という発想になってしまった。
その結果、主は13年も沈黙され、人間的な頑張りによって奴隷女ハガルとの間に生んだイシュマエルは、後のアブラハム一家に争いと分裂を引き起こし、今日においても、イサクの子孫イスラエル人とイシュマエルの子孫アラブ人は、骨肉の争いをし、今日の世界全体に、大きな災いをもたらす事になってしまった。
人間が自分の力で足掻くなら、神はその人が力果ててあきらめるまで沈黙して待たれる。
いよいよ肉的な力が尽き果てた時、神は「全能の神(エル・シャダイ)」として現れ、99歳と98歳の夫婦に「来年の今頃、あなたには子が生まれている」と仰せられ、しかもアブラムにはアブラハムという新しい名を、サライにはサラという新しい名を与え、この夫婦から国々が生まれ、王たちが生まれる事を宣言される。
それは人の耳には実にばかげており、サラも笑ってしまったほどだが、実際にその次の年、その通り神の約束された事が成就し、何世紀か後には子孫は多くなり、数々の王達が生まれた。
イスラエル民族の父祖アブラハムが救われたのは、彼が格別善人で、行状が良かったからだろうか?否、神の一方的な選びによった。
彼が義とされたのは、彼が律法の行いをしたからだろうか?否、彼が信じたからである。
私達の救いも同じであり、人間の身勝手な頑張りは、有害しか生み出さない。
神の御業はあたかも不完全であるとして、神抜きの人間の力で足掻こうとするのは、罪である。
神は救って下さるお方であるという信仰により救いを得て、大いに栄える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ああ愚かな!(ガラテヤ3:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有
たとえば、あなたが記憶に残っていない程の小さい時、父親が道路に飛び出したあなたを助けるために、身を挺して身代わとなり、車に轢かれ、死んでしまったとする。
後にあなたが「私は、かけっこが早いから、あの時、自分の足でがんばって走って救われた」と言うとしたら、母親は叫んで「ああ、なんて愚かな子。お父さんが目の前であんなにはっきり命を挺して守ってくれたのに、誰がそんな風に惑わしたの!」と嘆くだろう。
「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」(ガラテヤ3:1)
もし、自分のかけっこのお陰で救われたと、あくまで主張するなら、それこそ父親の死は無駄であり、父に対して失礼である。
同じように、私たちも行いによって救いを完成しようとするのなら、それこそキリストの死は無駄であり、命を投げ出して下さったキリストに失礼である。
私達がアダムの腰の中にいた時の記憶は残っていないが、確かにその時、私達もアダムと共に不従順へと飛び出し、それ以来、神から離れた善悪判断によって生きるよう、生まれながらの罪の性質がインプットされてしまった。
しかし、そのような罪へと飛び出してしまった私達を、キリストが身代わりになって死んでくださり、そして、よみがえって下さった事を、信じる信仰によって救いが与えられ、御霊が与えられ、奇跡的な救いの喜びの日々へと入れられた。
救いは決して、私達の行いや努力によるものではない。
キリスト者は救われた当初、限りない喜びを体験し、健やかな救いの自由に喜びをもって浸り、どんどん魅力的になっていくものだが、なぜか、日を追うごとに疲れ、くたびれ、魅力も無くなって行き、中には病んでいく人もいる。
そのような人は、ガラテヤ人ような罠に陥っているからだ。
そっと忍び込んだサタンの使いが、私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込み、あたかもキリストの十字架の死だけでは不十分であるかのように吹き込み、私達に罪の呵責へと追いたて、良い行いを強いさせ、そのようにして罠に陥れられて行くのだ。
騙されてはならない。
キリストが言われたのは「あなた方にさらに重荷を負わせて疲れさせてあげよう」ではなく「重荷を降ろさせ休ませてあげよう」であり(マタイ11:28-30)、「真理はあなたを束縛する」ではなく「自由にする」である(ヨハネ8:32)。
福音は、勝利の良い知らせであり、敗北の悪い知らせではない。
もしキリスト者になった事で束縛を感じたり、病んだり、重荷をさらに負わされたのであれば、ガラテヤ人の罠に陥ったのではと疑い、再び御言葉を点検し、人にではなくキリストに聞き、再び真理へと戻るべきである。
私達に救いを、自由を、解放を、命を投げ出してまで提供して下さったキリストの愛をますます知り、罪と死から解放された自由を満喫し、喜びをもってキリスト者として生活していく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ピスティス・クリストゥ(ガラテヤ2:15-21):右クリックで保存
韓国語通訳有
律法の実行によって、義とされる者はいるのだろうか?
答えは否である。
「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」(16節)
万引きをして捕まったとして、「私は母の肩を叩きました」とか「学校の雑草を抜きました」とか、良い行いをして来た事をいくら並べた所で万引きの罪は消えないように、人は生まれながらアダム以来抱えている罪を抱えている限り、律法の行いをいくら守ったところで、罪が消えるわけではない。
万引きしたら、それなりの罰を受けたり償いをしなくては罪は消えないように、人類が抱えている罪も、それなりの罰を受けるか、償いをしなくては、罪は消えない。
その罪の罰を身代わりに受け、償いを払って下さった方が、イエス様であり、このイエス様を信じる信仰によって私達は義とされるのである。
かつての私達は、律法が示されると、自分の内に罪があることが示され、かと言ってその罪をどうしようもできずに、苦しんでいた。
しかし「キリストを信じる」という、芥子種ほどの信仰を働かせた事によって、そのような以前の、罪vs律法の終わり無き葛藤の人生に対して、死んだ。
何によってか?それは、キリストの十字架につけられた事によって、である。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(19,20節)
16節の口語訳/新改訳は「キリスト・イエスを信じる信仰によって」とされているが、ここはピスティス・クリストゥ、すなわち「"キリストの信仰"によって」が正しい。(KJV:by the faith of Jesus Christ)
生まれながらにして持つ人間の性質に対して、十字架にあって死んだ私達は、もはや以前のような宗教的な頑張りによって生きるのではなく「キリストの信仰」によって生きている。
キリストの信仰とは、わずかのパンと魚で何千人もの必要を満たし、病や悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、魚の口から税金を払える銀貨さえ出したような、あの信仰である。
人間由来の信仰では、そのような事はありえない。
ただ、キリストの信仰によって生きるから、そのような事がありえるのである。
結局、自分の頑張りや信仰ではなく、「イエス様を信じた」(believe in Jesus)事によって以前の自分は死に、死んで甦ったキリストが私達の肢体の内で生き、その"キリストの信仰"によって(by the faith of Jesus Christ)私達は生き、このキリストにあって、全ての事は可能なのである。
このキリストの信仰によって生きる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:人を恐れると罠にかかる(ガラテヤ2:11-14):右クリックで保存
韓国語通訳有
「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。」(ガラテヤ2:11-12)
ケファとはペテロの事であり、全教会から尊敬を置かれている牧師長のようなものだったが、彼は割礼を受けている者達(ユダヤ人改宗者)の目を見て恐れ、今まで異邦人と食事をしていのに、異邦人から段々と身を引いて行くようになってしまった。
それを見た他の人たちも引き込まれ、それまで何のわだかまりも無く異邦人と食事をしていたのに、引け目を感じ出し、ペテロに習って異邦人を避けるようになり、そして、パウロをクリスチャンの集まりへと導いたバルナバさえも、そのような心へと引き込まれてしまった。
「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」(ヤコブ3:1)
異邦人を避けるような空気を作ってしまったペテロを戒めたのは、いわば新参者であり、エルサレムの偉い指導者達とはあまり関わりの無かった、パウロであった。
なぜ古参の指導者達にそれが出来ず、新参者の彼にそれが出来たのか。
それは、彼は人ではなく、神を恐れていたからであり、エルサレムの偉い人たちに導かれたのではなく、直接キリストに導かれていたからである。
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
牧師長などの指導者も含め「主だった人」や他人の目を気にし出すと、人は罠にかかるが、主にのみ信頼し、御言葉を拠り所とする者は、決して過ちに陥る事は無い。
ペテロはそのパウロに、皆の前で、面と向かって前でたしなめられた時、きっと、ものすごく恥ずかしい思いをしただろう。
しかし彼は、それによって、本心と異なった行動を改めた事だろう。
彼が本心と偽った行動をした時、恥じ入って悔い改める理由は十分にあった。
なぜなら彼は、まだ異邦人伝道が無かった頃、主から幻によって「主がきよめた物をきよくないと言ってはならない」と3度も示され、ためらわず異邦人の中に入って行き、異邦人に聖霊が与えられたのを見て、異邦人に洗礼を授け、異邦人と食卓を共にし、異邦人への救いの道を主イエスにあって開いた経歴の持ち主である。(使徒10章)
そのペテロが人間を恐れて、良心に背いた行動をした時、また、人々がペテロに見習って同じように異邦人を避け出した時、きっと「しまった」と思ったのではなかろうか。
そしてパウロに皆の前でたしなめられた時、心は恥ずかしく痛くても、きっと救われた思いがしたのではなかろうか。
私達も人目を恐れ、権威ある人を恐れる時、同様の罠に陥る事がある。
もし教会の指導者たる者が、自ら進んで人を差別したり、うそをついたり、争いやねたみ、陰口、党派心などといった、御霊の実に反する事を率先して行ったり、人に勧めるのであれば、その仲間入りするのではなく、パウロのように、恐れず御言葉をもって諭すべきである。
(私も極力、御言葉の真理を貫くよう務める所存であるが、もし私が、御言葉の真理から離れてしまったり、人目を恐れたりするのを見た暁には、遠慮なく指摘していただきたい。)
人の目を気にするのではなく、キリストを気にし、キリストにある秩序を保ち続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:主は誰か?(ガラテヤ2:6-10):右クリックで保存
韓国語通訳有
「そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。」(6節)
この「おもだった者」「と見られていた」「人たち」という短い言葉から分かるのは、主(おも)たる者は、人間の誰かでも組織でもなく、主イエスキリストである、という事だ。
パウロがエルサレムに行った時、ペテロ達がパウロに唯一指示した事といえば、貧しい人たちをいつも省みるように、という事だけで(10節)、半年に一度はエルサレムの牧師会に参加しなさい、といった事は、一切無かった。
ヤコブやペテロが交わりのしるしとしてパウロに右手を差し伸べ、パウロ達が行っているミニストリーにあれこれ指示する事が無かったのは、アンテオケの聖徒達の内にキリストが生きて働かれておられるのを認め、そのキリストに全面的に安心して委ねられたからである。
人間組織には必ず「おもだった人」がおり、会議などで上意を下達したり、集団としての意識を合わせたり、調整したりするが、初代教会においては、キリスト者それぞれの内に生きておられるキリストに聞き、支配していただき、キリストの意向に沿って物事が為されていた。
しかし、クリスチャンと呼ばれる人が、誰しも、キリストに支配されて働いているわけではなく、その場合は、人間の知恵によってではなく、キリストにあって注意深く取り扱われなくてはならない。
エルサレム使徒会議において、律法を押し付けるよう者達の意向は、キリストの為された業に照らし出された結果、退けられ、キリストを信じる信仰によって救われるという、主の意向が勝利したように、私達も、キリストの意向を中心にいつも据えるべきである。
教会(エクレシア)とは元々、キリストに召しだされた者達の集まりであり、キリスト抜きの組織や会議といった、人間だけの思惑によって運営されるものではない。
ペテロやパウロといった「人間という器」が重要なのではなく、信じる者を成長させ、働き人に使徒としての権限や力を与え、教会を建て上げて下さる「主イエス」こそ、重要である。
それだから教会には、与えられた賜物を存分に発揮できる自由さと、いのちの躍動があるのだ。
人に支配されるのではなく、キリストに支配され、キリストにある自由の中を存分に生き、働ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
今日も礼拝や学び会の後、10人ほどが残り、皆で夕食を作って食べました。
主日礼拝の後、大勢で食べる夕食は、本当に楽しくおいしいです。
夕食の後、静岡のある夫婦の誕生日サプライズのために、CDを録音しました。
彼らはアクラとプリスキラのような夫婦で、静岡の教会だけでなく天声教会も色々な面でお世話になり、主のために忠実に仕えておられた夫婦です。
バースデーソングを歌いながら、また、御言葉メッセージを伝えながら、彼らの祝福を祈り、また、この主にある交わりはなんて祝福されているのだろう、こんなに幸いな交わりの中にいていいのだろうか、と思いました。
300デナリを捧げるか、銀30枚を取るか(ヨハネ12:1-8)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
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イエス様は、苦難を受けられるかの過越祭の6日前、ベタニヤにて晩餐にあずかった。
食卓にはイエス様に甦らせて頂いたラザロも共に着座し、マルタは喜びをもって給仕していた。
マルタはかつて、色々な事を気遣う事に頭が一杯で、主の足元で御言葉を聞き入っているマリヤも働くよう主に指示したが、ラザロを甦らせて頂き、イエスこそ命の君であると知ったため、自分に与えられている賜物をいかんなく発揮し、喜びをもって主に捧げていた。
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)
彼女はいつも主の足元に座って、じっと見言葉に聞き入っていたため、他の弟子達は気付かなかった主の心の機微を察知し、6日前という、早すぎず遅すぎないベストな時期に、主の葬りの用意を実行した。
彼女はその時、大切な物を惜しげなく主の御前で割り、主が働き歩んできた「足」に塗り、女の冠である髪でぬぐったからこそ、香ばしい香りがいっぱい広がり、永遠に残る記念として語り継がれるようになった。
信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉による(ローマ10:17)とある通り、私達も主の御足元で御言葉を聞き入っているなら、そのタイミングでしか出来ない事を見分ける事ができ、その時、自分の大切なものを主の御前に割って捧げつくし、自分の冠を、主の「足ぬぐい」にさえ喜んで差し出すなら、主の喜ばれる香りが溢れ満ち、それは永遠に語り継がれる記念として、御前に残るのである。
私達は主のために、どんな「香油」を割れるだろうか。また、どんな「髪」で、主の御足を拭えるだろうか。
さて、この高貴な香り漂う麗しい調和を破って、しゃしゃり出る者があった。イスカリオテ・ユダである。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がそう言ったのは、貧しい人の事を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物を自分のものとして、好きにしたいからである。
マリヤにとっては値段はどうでも良く、イエス様がもうじき葬られる事を悟り、止むに止まれぬ思いで捧げただけなのに、ユダは主の御思いを量るどころか、主ではなく人を見て、「私だったら300デナリをこうする」と言って、自分の定める礼拝形式を押し付けたり、その通りにしない者は間違っている、と裁いたりした。
彼の特徴は、聖徒の礼拝や交わりを分析し、値定めし、口出しする事である。そのような者は、要注意だ。
また、麗しい調和をぶち壊して、人々の注目を自分に向けさせ、アピールし、栄光も横取りしたりする。
このような者はイエス様が好きなのではなく、イエス様にひっついて大活躍している自分が好きなのであり、イエス様が自分の思い通りに動かないとなると、銀貨30枚で売り飛ばしさえする。
私達はさまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリ10:5)、欲望や一時の感情という「銀貨三十枚」と引き換えに、イエス様を見積もって売りたい性質、裏切りたいようなユダの性質を、取り扱わなくてはならない。
あの人の捧げ物は間違っていると陰口を叩いたり、兄弟姉妹の麗しい交わりを、自分の気に食わないと言ってぶち壊したりする時、高貴な香り漂う場は一転して汚れた欲望の臭いニオイに満ちてしまうからだ。
イエス様は、ユダの下心も、あさましい動機も、当然知っていたが、その事は一切触れず、平和で麗しい交わりを掻き乱さないように、それとなくユダに諭した。「わたしはいつも一緒にいるわでではない」(8節)
それが私達も習うべきイエス様の品性であり、ユダに対処する時の模範である。
私達はいつまでも地上で生き長らえている保障はなく、いつまでも赦してもらえる、という保障は無い。
私達はマリヤのように、捧げるべき時機にいつでも300デナリを捧げる準備は出来ているだろうか。
それとも、いつでもイエス様を売って、自分の好き勝手という銀30枚を得たい心を、野放しにするだろうか。
今しか出来ない悔い改めも、今しか出来ない礼拝も、先延ばしするのではなく、今、為すべきである!
マリヤのように主に香ばしい捧げ物をする皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!