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迫害によって散らされる(ディアスパイロー):神による種の拡散(使徒8:1-4)

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サウロは迫害の意をさらに燃え立たせていた。ステパノの殉教の様があまりにも尊かったから。
世の中で最も厳格に律法を守り行っているはずのパリサイ人さえも達し得ていない、きよく、聖なる趣を、彼が身につけていたから。
そんなはずはない、この「ナザレ派」と呼ばれる新興宗教集団、絶対に何かボロが出るはずだ、と思い、サウロは、クリスチャンと名のつく者達を、男も女も、次々と牢にぶち込んで行ったのだが、彼らの趣も、立ち居振る舞いも、あまり不正が無く、きよい有様だ。
 
この時のサウロの心情を、使徒26:12-15 の主の言葉から垣間見る事が出来る。
そう、彼は、クリスチャンを迫害する度に、とげのついた棒を蹴るような痛さを感じていたのだ。
 
クリスチャンを傷つけると、尊い主を傷つけるような痛さを感じる。
しかし他方、散らされたクリスチャン達はどうなったか。
 
彼らは、イエス様の故にひどい目に遭って、全世界へと散って行かざるを得なかった、というのに、行った先々で、イエス様を伝えて、逆に福音が大いに広がって行ったのだ。
伝えずにはいられないのである。
目の前に、病人、悪霊につかれて苦しんでいる人がいる。そして自分には、ナザレのイエスの御名によって、それらを追い出す事が出来る。
それなら、自然と、病を癒やし、悪霊を追い出すわざをしてしまうのだ。
それで、行った先々で、なんの苦労もなく、無理矢理感も無く、福音が広げられて行ったのだ。
 
散らされる・・・この原文ギリシア語は、ディアスパイローという。
それは、ディア(あちこちに)+スパイロー(種が蒔かれる)、つまり、人の目から見たら、絶望的な”散らされ”に見えても、実は神による意図的な、種の拡散だったのだ。
4節はディアスパランティス、ディアスパイローの受動態で、一見すると迫害者による「散らされ」であるが、実は、神の主導による「種まき」であり、クリスチャン達は種として蒔かれた、という、偉大なる受動態である。
 
イエス様は、神の国はどのように育っていくかについて、以下のたとえで私達に教えている。
 
マルコ4:26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
4:27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。
4:29 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。
 
蒔かれた状態の種を、スポロスという。
種としては死んでいるが、その本人自身の「死」において、神が大いに働く事が出来る。
成長させて下さるのは、実に、神である。
 
神のわざが働く種は、いかなるものであるか。
申命記11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
 
世の人は、種まきも、水やりも、自分の力や努力でしなくてはならない。
世の宗教は、地図を広げ、リストを作って、しらみつぶし的に家を訪問して布教して行くが、神の国では、神が種まくべき相手を示し、種をまいたなら、成長させて下さるのは、神である。
そこに神が目を留められ、神がケアしてくださり、大いに実りに実らせて行くのだ。
 
1コリント3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
 
初代教会は、エルサレムから散らされ、スポロスとなった故に、大いに拡散して行った。
パウロは、まだサウロだった時期から、無意識的に、主の働き人を、全世界へと大いに送り出し、福音を大いに拡散させていたのである。これもまた、人間わざではなく神のわざである。
 
どんな時、どんな状態でも、絶望する事なく、神が働かれている事を覚えて、神の国をますます広げていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
未体験の莫大な恵みをいよいよ得るにあたって(エステル記5:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要

 自分で努力して建てなかった素晴らしい町々や家々、自分で努力して植えなかった、素晴らしくて良い畑を与えるために、主の側は、いつでも準備が整っている。ただ私達の側が、それを受ける体制を整えなくてはならない。果たして私達は、今まで見た事も聞いた事も、手にした事も経験した事も無いような、素晴らしくて大きな栄誉を、また富を、力を、いよいよ得る準備は整っているだろうか? 今回、このような莫大な恵みを頂く性質とは何かを、エステル記を開いて、共に恵みを頂きたい。エステルは見事、王の心を射止め、王妃の座を獲得し、王から三度も「望むなら、王国の半分でも願いをかなえてあげよう」と言われた。
 
A,エステルの一番際立った性質は、「従順さ」である。彼女は霊的な育ての親・モルデカイに従順であったし、また、王の嗜好を熟知している宦官・ヘガイの言う事に従順であった。王妃の候補であった女性には、願うものはみな与えられ、それを持って王宮に行く事が出来たが、彼女は、ヘガイが勧めたもの以外は、何も求めなかった。それでエステルは、全て彼女を見る者に喜ばれた。(エステル記2:15)
 願うものはみな与えられる、という場面であっても、自分の好むものは何も求めない。ただ、従うべき人の助言に従って、それを身に着け、王の喜びとなるものだけを求めた。私達も、自分の願望ではなく、霊的な助言に従って求め、王の王であるキリストの喜びとなる事だけを求めるなら、やがて莫大な恵みを頂ける。
B,『わたしがもし死なねばならないのなら、死にます』(4:16) この言葉は、王の次の権力者・ハマンが、ユダヤ人を絶滅させるための法律を、王に成り代わって発令した時、モルデカイが「王に直訴するように」とエステルへ求めた時の、彼女の言葉である。王からは呼び出されていない状態で、王の元へ行く事は、死ななければならないが、王の好意を得、王が笏を差し伸べるなら、その時は助かる。彼女は、それでも行った。彼女は、自分が王妃だという身分である事に安んじる事なく、神の民のために死ぬ覚悟を示したのだ。
C,『三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。』(5:1)
 エステルは死の覚悟の断食をし、三日目になった時、王妃としての権威を着て、王の居る方へと立った。
 夫は、妻が従順を示し、夫の喜びとなる事をつとめ、「わたしはあなたのものです」と、その瞳でじっと見つめられると、夫は彼女を、ティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしく、そして、旗を掲げた軍勢のように「恐ろしい」と感じるようになる(雅歌6:1-10)。
 エステルは、死を覚悟して、王妃の衣装を着、王の前に出て行った。その時のエステルは、どれほど王の目に美しく、愛らしく、そして、恐ろしく見えただろう。ここまでされると、王は、行動せざるを得ない。
D,王はエステルに好意を示し、金の笏を彼女へ差し伸べ、彼女は笏の頭に触れた。そして王は言った。
E,「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。
 
 以上が、エステル流の、手にした事も、経験した事も無いような、素晴らしく大きな栄光を頂く性質である。
王の王であられる主イエスと、聖霊のアドバイスに「A'.従順」であり、自分自身の欲求は、十字架の「B'.死へと明け渡し」、「C'.三日目に、王なるキリストから与えられている衣を着て、王の前に進み出る」のだ。
 本来、聖なる聖なる王、主イエスの前にそのまま進み出るなら、死ぬ以外には何も無い。しかし、私達がA'-C'を保って進み出るなら、「D'.主は私達に好意を示し、その支配の象徴である、鉄の杖を差し伸べて下さる。」私達もその杖の頭に触れ、そうして、私達にも諸国を支配する権威が与えられる。(黙示録2:26-27)
 そうすると、王は言われる。「E'.あなたが望むなら、王国の半分でも、願いをかなえてあげよう」、と。
 しかし、国の半分でも与える、という言葉を頂いた時、有頂天になって、さっさと調子に乗ってはならない!
エステルはさらに奥ゆかしく、「もしも王様がよろしければ、宴会に、ハマンと一緒に起こし下さい」と言った。
彼女の中では、心底、王の喜びとなる事が、優先なのだ。いかに、自分の民族を滅ぼし尽くそうと企んだ、あの汚らわしいハマンを一緒に招かなくてはならない、としても。それほど、エステルの心は、王を喜ばせたい、という一心だった。全く見せかけではない、その「美しい性質」こそ、真に自分のものとすべきだ。
そのためには、日頃から、この王として、また王妃としての、優雅な美しい素養を培っていなくてはならない。
 見た目にも、心の中も、立ち居振る舞いにも、言葉遣いも、タイミングも、気品においても、全てにおいて美しいエステルのように、柔和な、穏やかな、心の中の隠れた人柄を飾りにする皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝
キリストにあって新しくされた人の特権(マルコ1:9-11)
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 新しい年が始まった。この記念すべき2020年最初の主日、かねてから天声の養いを受けていたMajid兄弟が、洗礼を受ける事になった。天声では例年、過ぎ行く年の最後の数時間は、悔い改めの祈りで罪の垢を落とし、年が改まった瞬間から、主への礼拝によって年を初める。洗礼も全く同様で、過去の自分を、水の中に沈めて死へと渡し、一切を精算し、キリストにある新しいいのちで生き始める新たな出発である。
 洗礼を受けて主に繋がった人には何が起きるのか。それを学ぶ事は、この新たな始まりの日に相応しい。
本日、主イエス様が洗礼を受けられた場面から、洗礼を受けた私達はどんな恵みを受けるのかを知りたい。
 
 『その頃、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊が鳩のように自分に下って来るのをご覧になった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。』(マルコ1:9-11)
 イエス様が洗礼を受けられた時、3つの経験をした。すなわち「1,天が裂ける」、「2,聖霊が鳩のように自分へ降って来る」、「3,天からの声があった。その内容は、あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」 これら3つは、洗礼を受けて主に繋がった私達も、経験する事である。
 洗礼は、罪に対して死に、神に対して新たに生きる誓いである。罪が元々無いイエス様は、洗礼を受ける必要は無かったのに、敢えて受けられた理由は、私達全ての代理として、また長子として、模範を示されたのだ。私達も彼に倣うように、と。全く同じ理由で、イエス様は十字架で処罰を受けられ、また死なれた。
 だから、イエス様が洗礼を受けられた時、彼が経験された全ての事は、私達・キリストに繋がった全ての兄弟姉妹も経験する「特権」である。だから、私達も洗礼を受けた時、次の事が起きる。
 
 1,天が裂ける(スキゾー): この非常に特殊な出来事は、イエス様が十字架にかかって息を引き取られた時にも起きた。神殿の幕が真っ二つに「裂け(スキゾー)」、神殿の最も聖なる領域である「至聖所」を隔てる幕が、破かれたのだ。キリストを通して、聖なる天国への道が、開通したのだ。だから十字架以降、誰でもキリストの御名を呼ぶなら、天国が裂けて、私達に向かって開かれるのである。イエス様は「わたしの名によって祈れ」と言った。なぜなら、イエス様の御名によって、天が開かれるからだ。これは全て、洗礼を受けてキリストに繋がった人々に与えられる特権の第一号である。
 2,聖霊が鳩のように自分へ降って来る: イエス様は言われた。『よくよくあなたに言っておく。誰でも、水と霊とから生れなければ、神の国には入る事はできない。』(ヨハネ3:5) すなわち、水のバプテスマを受けると、今までの、古い、罪に従って歩んできた自分は死に、霊によって新しく生まれ、キリストと共に永遠の神の国へと入って行く生き方になってゆく。聖霊は、人には見えないが、霊によって生まれた人は、聖霊の声がわかり、それを感じ、それに導かれ、神の支配領域(神の国)へと入っていく。しかし、生まれながらの肉に従って生きる人には、聖霊は決して分からない。このように、バプテスマを受けた人は、賜物として聖霊をいただくので、霊に導かれ、最善の道を歩んで行くようになる。
 3,天からの声を聞く: 洗礼を受けて霊が開かれて来ると、聖書を読む時、 あたかも天国が開け、神の言葉が自分に目がけて降りてくるような心地がする。そして、その、天からの言葉の最たる内容は、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」というものである。世は私達を拒絶しようとも、またたとえ親に見捨てられたような経験を持っていたとしても、天の父なる神から受け入れられ、喜ばれている実感を持つ。
この、絶対的な平安の土台に立って、新しい人生をやり直して行くのだ。そして洗礼を受けた人は、神に愛される「神の子」として、また、神に似た者・神にならう者となって行く。
 
 この新しい年、私達も初心に帰り、天国に繋がった者として、新しい出発をするべきである。神の子が世から従わされたり、世からリードされたりする事は、本質ではない。私達は神に愛され、神に受け入れられた「神の子」として、与えられている祝福の命令、すなわち、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)という、Lordship, Kingship(ロードシップ、キングシップ)命令に従って歩む者達だ。世を統治する者として、また、悪しき者に対しては勝利者として進んで行く今年でありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
 

早天礼拝
シェバשׁבע:完成、安息、誓い、七(レビ記23:23-25)
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創世記26章

2019-2020年 ニューイヤーズ・イブ礼拝

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主日礼拝
神と人とで共同で織りなしていく人生という織物(黙示録19:6-9)
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 綾織物という織り物がある。違う種類の縦糸と横糸とを交差させ、色々な模様を浮き出す事ができる織り物だ。私達の人生は綾織物のようなもので、自分自身という糸を、周囲の人や、物、事と、そしてイエス様と交錯しつつ、人生の模様を織りなして行く。私達はこの2019年、何を織りなし、どんな模様が浮かび上がっただろうか。私達はどうすれば、この人生に、永遠の、素晴らしい紋様を織っていく事ができるだろう。
 
 聖書を見ると、信仰の先人たちの、永遠に残る素晴らしい人生の模様が記されているが、同時に、神の言葉に従順せず、あくまで自分勝手な道を貫いて、ついには滅んでしまった人達の模様も、記されている。
 人は不完全で、罪があり、やがて死ぬべき存在だが、主は完全で、聖く、永遠なるお方である。もし人が神の言葉に従い、自身の行いや思考を主の言葉へと織り込んで行くなら、その人は完全で、きよい、神の国へと、織り込まれて行く。神を知らない人は、罪を重ね、世界に悪い影響を及ぼして行くが、主は、人のした悪も、サタンがした全ての破壊のわざさえも、全てを逆転し、益として下さる事が、可能なお方である。
 12月、アドベントからクリスマスに至る時期、色々な人間模様を見て来た。マリヤが御使いの言葉に「おことばどおり、この身になりますように」と言って、自分自身に御言葉を織り込んだ事によって、キリストがこの世に来られるきっかけを、彼女は構築した。ザカリヤは最初、神の言葉を自分自身に織り込まず、自分の理解を求めた結果、彼には口がきけなくなるという「災い」のような体験をしたが、かえって多くの人々が神のわざを恐れ、神が栄光を受けられるという「益」へと変えられ、彼自身も最後には、主の栄光を称えた。
 このように人の人生は、主へと「織り込まれる」事によって、最悪から最善へと変えられて行く。そして後になって、主と共に織りなされた自分の人生を振り返って、その出来上がっている人生の絵柄を見る時、その美しさ、主の完璧さに、ただ圧倒され、感動するのである。 祭司が身につけるあや織りの帯は、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で作られる。(出エジプト記28:8) 私達も主に繋がるなら、人生に尊い糸が織り込まれ、最終的に、永遠の大祭司・キリストのからだへと、織り込まれて行くのだ。
 
 キリストは、天から地上へと向けられた梯子として、私達へ降りて来て、乙女マリヤより生まれ、人となって私達の間に住まわれた。この、天から地へと差し伸べられた”縦糸”と、私達・人間という”横糸”とが交差する究極の点が、十字架である。こうして十字架という木を、私達の苦い人生の中に投げ入れ、私達の人生へと織り込んでいくなら、今までの苦い人生はことごとく甘く造り変えられるのだ。(出エジプト記15:22-27)
 私達キリスト者の人生は、神とのコラボレーションにより、永遠の美しい綾織物を織っていくようなもので、聖徒たちの正しい行いが、永遠の王の中の王・キリストへと嫁ぐ際の花嫁衣装となって行く。(黙示録19:8)
 私達が日毎、主キリストと交わり、あらかじめ用意されていた良い行いを為して行く都度、永遠に残る織物の一縫い一縫いが、織りなされて行く。そして礼拝こそが、神と最も親密に交わる機会である。
 真の礼拝とは何か。パウロは言う。『あなた方の「からだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)
 すなわち、全身全霊をもって、自らを神の言葉へと織り込んで行く。それによって神は、その人の人生に働く機会を得るのである。神はどういうわけか、神の国の建てあげは、神ご自身お一人では進めず、人の同意の上で、コラボレーションして建てあげていくようにしておられる。乙女マリヤのように、人が神の言葉にアーメンし、その通り実行すると、そこに神が働く機会を得て、神の国が築き上げられていくのだ。
 しかしもし、神の御言葉と自分を混ぜ合わせないなら、その人は神の国の歴史から抹消されてしまう。
 マタイ1章の系図では、旧約には「いた」はずの王が記録から抹消されていて、また、系図には本来載らないはずの異邦人の女が、なぜか系図に記されている。系図から抹消された王は、神の言葉に服従しなかった王であり、系図に載せられた女は、神の言葉に忠実で従順だったからである。神の国の記録とは、そういうものだ。神と一切関わりがなかった人は、いのちの書に名が記されないまま、永遠の滅びへ至る。
 
 今年一年、どんな紋様の織物を織ってきただろうか。どれほど真に礼拝を捧げて来ただろうか。どれほど、神とのコラボレーションをして来ただろうか。私達は来年も主の言葉に従順し、主から恵みが与えられ、そうして永遠の織物を主と共に織って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

早天礼拝
御言葉に従順する人を、悪しき者のたくらみから徹底して守られる主(マタイ2:13-23)
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黙示録12章
黙示録3:8-13

早天礼拝
御言葉に従順する人を、悪しき者のたくらみから徹底して守られる主(マタイ2:13-23)
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黙示録12章
黙示録3:8-13

どんな人々でも食べられるように来てくださったイエス様(ルカ2:8-14)
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哀歌1:1 ヨハネ21:16

早天礼拝
神と人との永遠の綾織物(マタイ2:9-12)
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マタイ2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。

乙女マリヤとヨセフをはじめ、クリスマスの主人公たちはすべて、主の言葉への従順を持っていた。
もし彼らに御言葉への従順が無かったら、キリストの誕生は無かった。
博士たちは黄金、乳香、没薬を捧げたが、主への従順、それこそ、何よりの捧げもの、真の礼拝である。羊飼い達は、それを捧げた。

1サムエル記15:22 サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。

礼拝とは、神と人とのコラボレーションである。人の側は捧げものをし、神の側は御言葉の恵みをくださる。
真の礼拝とは何か。博士たちのように、何か物や金銀を捧げる事も礼拝だが、真の礼拝とは以下に記されている。

ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な(ロギコス:理に適った)礼拝である。

自分自身のからだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)を、神に捧げる、という事。
自らの思い、意思、感情、そして体、霊の全部を、主の御言葉に従順する。それが、霊的な(ロギコス:理に適った)礼拝である。

この、神の御言葉への従順によって、自分自身を神の御言葉と織りなす事、その綾織物が、神の王国を建てあげて、神の国の歴史が動かされていく。
神の御言葉と自分を混ぜ合わせない人間歴史は、御前から消されてしまう。マタイ1章の系図は、まさにそうだ。
モーセは言った、

出エジプト記32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。
32:33 主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した(ハター)者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。

罪を犯す(ハター)とは、神の秩序を割る事。神の創造した永遠に変わらぬ秩序を破壊する者は、永遠から除外されてしまう。

人の人生は、一つの巻物のロールのようだ。その人が一瞬一瞬した事が神の前にレコードされ続けていく。
時間に縛られている人間は、過去に戻ってやり直したり、発した言葉や行った行いを「やっぱり今の、無し」と言って、そのレコードを編集したりする事は出来ない。

黙示録20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物(ビブリオン:巻物、書)が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

私達は、手紙であるとパウロは言った。死人は、上書き禁止されたビデオテープのようなもので、その行いの記録は、既に固まってしまって変更不能である。人は、そのしてきたしわざに応じ、また主の基準にしたがって、さばかれる。
しかし、キリストにつながった人、永遠へと綾織りされた人は、いのちの書に名が書き記され、その人は天国に入る事が出来る。

主に捧げる事、それは永遠への仲間入りをする事である。天国は神と人とが共に住み、もはや離れる事は無い。
私達は日毎、主に捧げ、主から恵みがほどこされ、そうして一日一日、主と共に歩む綾織物を織りなす人生を送って行きたい。
 

 

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