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私はひげを生やしているのですが、髭トリマーなるものを注文したのが今日届きました。
今日から髭を簡単に整えられるかと思いきや、初期不良だったので返送しました。
ネットショップで仕入れたものが初期不良で返品したのは、今年で2度目です。
ネットで仕入れたものは初期不良率が高いと思うのは私だけでしょうか。
礼拝説教メッセージ音声:マケドニアの模範達(使徒17:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロ達はピリピを離れてテサロニケまで行き、ユダヤ人の会堂で3週間に渡って聖書に基づいて論じ合い、ある者はイエス様を信じ、別の者は反発して暴動を起こした。
反発したユダヤ人達は、パウロ達を「カエサルの勅令に背いて『イエスという別の王がいる』と言っています」と訴えた。
しかし、そう言う自分達も、王とすべきまことの神を差し置いて「カエサルを王」と告白する事によって自己矛盾に陥っている。
彼らの行動の動機は嫉妬であり、訴え内容も矛盾しているが、彼らのやかましい主張のお陰で、パウロ達はまたしても別の町へ行かなくてはならなくなってしまった。
そんな中で、福音の種が撒かれたテサロニケの聖徒達はとても優れた信仰の持ち主であった。
彼らはやがてマケドニア・アカイア全体に聖徒としての模範となり、彼らを通して主の言葉がマケドニアやアカイアへと広まった事が、テサロニケへの手紙から分かる。(1テサロニケ1:6-8)
さらに彼ら自身、神様から直接に互いに愛し合うよう教えられ、実際にそのことをマケドニア州全地にいるすべての兄弟たちに対して実行している。(4:9-10)
パウロの最初の訪問の時は、ヤソンが捕らえられ、パウロもわずか3週間にして他の町へと散らされる艱難は確かにあった。
しかし例えパウロと一緒にいた期間がわずか3週間であっても、「多くの患難の中で、聖霊のもたらす喜びをもって福音の言葉を受け容れることによって、私たちと主とに倣う者になった」(1テサロニケ1:6)ため、多くの実を結ぶ事となったのである。
テサロニケの人達の、目を見張るような成長の秘訣は何だろうか。
「あなたがたは私たちから聞くことによって神の言葉を伝えられた時、それを人間の言葉としてではなく、むしろ ――真実にそうであるのだが ――神の言葉として受け容れたからである。その神は、あなたがた信ずる者たちのうちにあって、まさに働いておられる。」(1テサロニケ2:13)
預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、義人を義人として受け入れる人は、義人と同じ報いを受ける。(マタイ10:41)
御言葉を語る者の口から出た言葉を、人間の言葉としてではなく、神の言葉として受けるなら、御言葉がその人の信仰どおりになって生きて働き、このテサロニケ人のように他の聖徒達の模範となり、兄弟愛に満ち溢れるのである。
御言葉を伝える者の御言葉を、そのまま神の言葉として信じ、テサロニケの聖徒達のように、御言葉からの報いと実を沢山いただく皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:もし生きるならキリストのため(使徒16:35-40):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」」(16:37)
パウロ達が鞭打たれ投獄されたのは、女奴隷から占いの霊を追い出し、その主人達が金儲けの望みが無くなった事で逆恨みされ、濡れ衣を着せられたためだ。
訴えた者達も政務官も、自分達はピリピのローマ市民で彼らはユダヤの野蛮人、だから何しても良い、といった考え方だったかもしれない。
パウロ達もローマ市民であったのに、その事を確かめずにさっさと鞭打って牢に入れてしまったのは、明らかに政務官の怠慢だった。
パウロは「ローマ市民権都市」であるタルソスに生まれ、生まれながらのローマ市民だった。
ローマ市民には諸々の特権があり、例えば被支配民とは違って裁判無しにいきなり鞭打ちにされる事は許されていないし、訴訟事件の際には皇帝にまで上訴する事も出来る。
もしパウロ達が、解放されてそのまま何も言わず去って行っていたなら、パウロ達の側に何らかの非があった、という疑念が、福音を伝えた看守長や牢の中の人達、紫布商人のリディア達など兄弟姉妹に残ったままになってしまい、せっかく伝えたキリストの名が廃ってしまう。
人からの虐げを無条件に受け入れてニコニコするのがキリスト者の態度だと思ったら間違いで、人間の薄汚い欲望によって不当がまかり通って、そのままではキリストの名が潰れるといった場合は、看過してはならない。
パウロのように毅然とした態度で不当な扱いには不当だと主張すべきである。
しかしパウロにとって、キリストの名の故に苦難を受ける、という場合なら話は別だったようである。
彼は後に、エルサレムに行けばユダヤ人達に捕まる事が明らかに示されていたのに、敢えて行って縛られ、牢に入れられる事を甘んじた。
それは、彼が法廷で弁明する事によって、キリストの名をローマの総督や王達、最終的には皇帝にまで、広くあかしするためであった。
パウロは自分の立場、すなわちパリサイ人でありローマ市民である立場を、キリストのために最大限に利用した。
生きるにしても死ぬにしても、全てはイエス様のため(ピリピ1:20,21)であり、たとえ、ピリピの兄弟姉妹が捧げる礼拝で自分の血が供え物となってもそれを喜ぶ、とまで言っている。(ピリピ2:17)
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)
ピリピ書簡も牢の中から書かれたものだが、投獄されてなお喜んだり賛美したりできるのは、キリストの名が前進するのであれば大きな喜びとなるからで(ピリピ1:17)、その喜びば自分が投獄された事さえネタと思える程小さな事になってしまうものだ。
全ての事の動機はキリストのためと、パウロのように喜んで言う事の出来る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
朝と昼の聖書メッセージをした後すぐにバイブルスタディに入り、それから、亀を売っている所を苦労して探し回った後やっと入手し、教会に帰ったらそのまま夜の礼拝メッセージをし、その後このバイブルメッセージのテキスト起こしをしたら、すっかり遅くなってしまいました。
そうです。カメです。
教会の女の子(小5)が、その日中に銭亀(♀)を手に入れなくてはならない事情が起きまして、長老とパスターが苦労して探し回りました。
長老は魚屋を探し回ったのですが見つからず、私は近所のペットショップを3軒回ってもどこも見つからず、結局はるばるマイカル本牧まで自転車で行きました。
この子は以前も「大変、すぐに来て」と言われたので、家まで行ってみると、おたまじゃくしを台所から流してしまったから助けて欲しい、という事だったので、排水トラップにひっかかっているおたまじゃくしを救い出した事もありました。
そういう事もパスターの仕事のようです。
携帯各社では、どんなにメールやネットを使っても4千円ほどで済むプランがありますが、最近私は携帯でネットを使わないように極力しています。
それでも天声教会メルマガやその他広告メールを受信していると、どうしても料金は3千円ほどになってしまうみたいです。
私はじきiphoneを入手して、外出先でのネット接続は全てWifiで統一する事によって料金節約しようと考えております。
携帯からのメール受信料金が月5千円を超えてしまうという方は、月4千円ほどのメールし放題のプランに入る事をお勧めします(やり方はそれぞれの携帯ショップへお問い合わせ下さい)。
もうこのメールを携帯に送って欲しくない、という方は、以下のアドレスをクリックして下さい。
d0001242611@mobile.mag2.com
メールが起動しますので、そのまま「送信」すれば、メールを届かなくする事が出来ます。
礼拝説教メッセージ音声:獄中の賛美(使徒16:25-34):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
本日の箇所は、普通に読んで行けば「あれ?どうして?」と思える所が沢山ある。
まずパウロとシラスはその時、着物を剥がれ、鞭打たれ、ひどく傷を負い、獄屋の一番奥へ入れられ、足枷まではめられているというのに、賛美しつつ祈っているのだ。
その賛美と祈りを、他の囚人達は、真夜中なのに文句も言わず、聞き入っているのだ。
しかもなんと大地震が起きて、獄舎の全ての扉が開いたばかりでなく、鎖も全て解けてしまったという。
監視長は扉が開いているのを見て、自殺しようとするが、パウロは、「皆ここにいるのだから自害してはならない」と言う。
そう、牢の扉が開かれ足枷も全て解けてしまったというのに、囚人達は誰一人逃げなかったのだ。
そして、見張っている側の看守長が、見張られている側の二人にひれ伏し、真っ先に発する言葉が「主よ」「救われるにはどうしたらいいでしょうか」である。
普通に読めば「なんでそうなる?」の連続である。
あたかもこの二人には、神から特別に使わされた聖なる者達であるかのような刷り込みが、真夜中までに為されていたかのようである。
パウロとシラスは、牢屋にぶち込まれた時から真夜中になるまでに、囚人や看守長を問わず、福音を伝えていたのではなかろうか。
囚人達は福音を聞き、罪人であった自分を悔い改め、監視長も、牢の向こうから漂ってくる声から「主」「救われるには」という言葉を何となく聞いていたのだろう。
そうして賛美している内に、なんと地震が起き、扉も鎖も全て解けてしまったわけである。
囚人一同はこれら一連の事を見、この二人を前にして、とても逃げるどころではない、この二人はまことに神に守られ愛されている者達だ、と改めて驚いたのではなかろうか。
当時、牢獄を見張っている者は、見張られている者が逃げたなら、その者と同じ罰を受けなくてはならない事になっていた。
看守長は囚人を見張っているようで、実は、ローマの制度という「牢獄」の囚人だったわけである。
そういうわけで看守長は、囚人全員が逃げていたとしたらどんな恐ろしい罰が待っているだろうと悲観して自殺しようとしたのだが、しかしなんと誰も逃げておらず、パウロは大声で「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と叫んだ。
牢内で話していたパウロ達の「福音」は決して絵空事ではなく、信じる者は確かに神に愛され、このような不思議を起こし、そればかりでなく牢に入れられている罪人をも造り変えるのだ、と、おののき平伏したのではなかろうか。
看守長はこの二人に「主よ」と呼びかけた。
もしかしたら二人を神の人、あるいは神そのものと思ったのかもしれないが、パウロはまことの主、イエスを紹介した。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
この言葉は、私達が大いに適用すべき事である。
家族がああなればいいのに、こうすればいいのに、と、他人を何とかしようとするのではなく、この看守長のように、まず自分が主イエスを信じる事。その上で家族の所に行って、主イエスを紹介するのである。
看守長はまだ夜であったのに、二人を引き取って打ち傷を洗い、パウロ達は、看守長と家族を水のバプテスマによって罪を洗った。
そして共に食卓で交わり「神様を信じる者となった事を、家族全員で喜んだ。」(34節)
24節までの話だけであれば、パウロ達は何とついていない、運が無いと思えるのだけれど、この一晩だけで劇的な不思議と救いが起こり、人々の解放と喜びが沸き起こったのである。
私達に何か困難が起きる時、それは祝福が備えられているというしるしである。
困難があった時、がまんして無理やり賛美すれば、牢屋が開いて逃げられる、という短絡的なものではない。
主は、牢に繋がれている者、監視している者の双方を縛る肉体的・精神的・制度的な「牢獄」から開放するため、敢えて、私達もその牢獄へと導く事があるのだ。
主のなさる事には何一つ無駄は無く、いかなる事も最善へと導いてくださるお方として信頼する者なら、どのような暗闇の牢獄でも、賛美は止められないのである。
そして信頼して賛美する時、牢は開き、足枷は解けるが、それでも敢えてその中に留まり、縛られている者・縛る者双方を救いへと導くのだ。
私達もこの暗闇のご時勢において、日々、肉体的・精神的・制度的な「牢獄」に縛られている。
それら全ての中にあっても、信頼して賛美し、目を覚まして祈り続ける皆さんでありますように。
そうして皆さん自身の鎖を解いていただくだけでなく、その場で苦しんでいる縛られている者・縛る者の双方を救いへと導く皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:弱いときにも強い(使徒16:19-24):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロ達は今までユダヤ人から苦難を受けていたが、今回は異邦人からの苦難である。
彼らは「ローマ人が受け入れることも、実行することも許されない慣習を宣伝して」町をかき乱したかどで逮捕され、牢に入れられ、鞭打たれた。
その口実は明らかに腹いせであり、本心は利益を得る望みが無くなってしまったからである。
彼らを訴えた者達は、どうやって利益を得ていたかというと、彼ら自身が働いてではなく、女奴隷に働かせて、である。
女奴隷は何をして働いていたかというと、占いの霊に引き摺り回され、占いをしながら、である。
その女は、霊による束縛の他、主人達にも搾取されていたのだ。
現代のわが国民も、時代の霊に引き摺り回され、多くの中間マージンを国や会社から搾取されている者は多い。
搾取する側は、儲ける望みが無くなるとあれば、パウロ達にやったように、あらぬ言いがかりをつけて攻撃する。
福音が伝えられて不利益をこうむる商売というのは、大体穢れた商売である。
ゲラサ地方の住人がイエス様を追い出したのは、穢れた商売である豚飼いが損失を被ったのを見て、自分達もそうなるかもしれないと恐れたからであるし、アルテミスの偶像を作る職人達も、パウロ達が伝える福音に反対して民衆を扇動し、大声で2時間も叫び続けるよう仕向けた。
しかしそのような諸々の苦難を経たからこそ、それらを忘れさせるに余りある喜びと栄光を受ける事ができるのだ。
「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:17)
パウロ達はスーパーマンのように強靭だから石を投げられても鞭打たれても痛くない、と思うだろうか。
そんなことは無い。
パウロはそうした外側からの災いばかりでなく、信徒達を心つかう内側からの心配にも日々悩まされている。(2コリント11:24-30)
きっと捕らえられた時、リュデヤの家族はどうしてるだろう、自分達が捕まったことによって福音から離れたりしていないだろうか、など、信徒のために心配したに違いない。
私達も同じく弱い存在で、実際に鞭打たれれば痛いし、信徒に何か躓きになりそうな事が起これば心が痛い。
パウロはそんな弱い自分の「弱さ」を誇った。
『「私の恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである」。そこで私は、むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう。それは、キリストの力が私の上に宿るためである。
それだから私は、もろもろの弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まりとを、キリストのために喜ぶ。なぜならば、私が弱い時、その時にこそ私は力ある者なのだからである。』(2コリント12:9,10)
私達も日々、外からの困難や内部からの困難があるかもしれない。
しかし弱さの内にこそ働く、キリストの絶大な力を体験し、圧倒的な勝利をいただく皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:イエスの名によって(使徒3:1-10)
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我々は祈る時、「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」と締めくくる。
なぜか。それは、イエス様の名前によらない祈りは、日本銀行券と書いていない万札は使えないように、権威の裏づけが無いからだ。
万札という紙が価値を持つのは、日本銀行という権威ある機関が、これには価値がありますよ、というハンコを押しているからで、それが無ければ、ただのキレイな模様が書いてある紙切れに過ぎない。
和紙にどんな綺麗な模様や偉大な人物像を描いて、精巧なすかしを入れて、千万円とか壱億万円とか、桁を大きくしてみせても、日本銀行のハンコがなければ「ニセ札」であり、そんなものを使えば逮捕されるのと同様、祈りに「イエス様の名前」が無ければ、どんなに一晩中祈っても、体を傷つけても、夕暮れまで踊っても、そんなものは「ニセ祈り」であり、神の御前に差し出せば、罰を免れない。(1列王記18:21-40)
教会に何年通っても、イエスの名によって祈るのを忘れてしまう人がいるが、それには理由がある。
それは、イエス様の名前がホンモノで、この世でも来る世でも力があり、真に人を救うものであるのだが、そのホンモノを妬んで反逆した奴・サタンがいて、そいつらがホンモノを隠そうと、常に見張っているからだ。
ただの紙であるはずの札束も、手に入れるために裏切ったり、殺したりするのは、そこに価値があるからだ。
ホンモノであるイエス様の名は、どれほど妬まれるものだろう。
ホンモノを隠す奴が頭に入り込んでくるのは、つけ込まれる土壌があるからで、不平不満や怒り、つぶやきは奴らが付け入る格好の土壌となる。
このイエスの名に、いかに力があるか。使徒3:1-10を見てみたい。
ペテロとヨハネが神殿の門に入ろうとすると、生まれつき足が利かない物乞いに施しを求められた。
彼は40歳を越えており、施しは頂いていても門の向こう側に入って礼拝する事は許されていなかった。
二人はその人をじっと見た所、二人はきっと感じ取ったのであろう。その人が切実に礼拝する事を求めており、イエスを知っており、イエスは癒して下さるお方であると信じている事を、恐らく感じ取ったのだろう。
ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って手を取って彼を立ち上がらせると、自分の足で立ち上がった。
イエスこそ救ってくださるお方だと信じる者には、仰々しい祈り文句も多くのパフォーマンスもいらず、イエスの名によって瞬時に束縛から解放されるのである。
当時はイエス様の名前を使ったら逮捕されてしまうご時世で、ペテロ達はイエス様の名前を使ったかどで逮捕され、祭司長や議員達、法律家などの偉い人達に尋問されたが、ペテロは聖霊に満たされて言った。
「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:10-12)
40年足が不自由だった人が癒されたのも、ペテロ達が大胆に告白できたのも、イエス様の名前による。
私達は世の中で色々なものを土台とし、救いを求めるが、唯一土台となり得て救われるのはイエス様のみ。
その土台石は捨てられたが、このお方以外に救われるべき名は、他には無い。
「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」(コロサイ3:17)
主は私達に、イエス様の名前によって「祈ります」「求めます」「祝福します」「悪い者は出け」と、イエス様から与えられた御名の権威を大胆に行使する事を望んでおられる。
なぜなら、この世は主に贖われた者達が支配するよう創られているからである。(創1:28,ロマ8:19-22)
主から与えられた大いなる御名の権威を大胆に行使し、分捕り、立ち取る皆さんでありますように。
罪にまみれて行き倒れているような人達を、主ははらわたがちぎれる思いで呻き、その人をケアして下さる。
私達キリスト者は主と同じうめきを持ってとりなし、ケアしなくてはならない、と川合姉妹が言った時、私はとてもじゃないけれどムリ!と即答してしまいました。
でもパスターはあの時、あの人にこれこれの問題があった時、心から呻いてケアをしたじゃない?
この人の時もそうだったでしょ?と言われた時、自分でも「あれ?そういえばそうだった」と思い出した。
主が私達の内に住んでおられるなら、自分でも気付かないうちに、主のわざを為してしまうんですね。
自分の中の、雀の涙もない愛を振り絞る事も無く、ただ100%主がなさる事に委ねている道は、なんとラクでしょうか。
礼拝説教メッセージ音声:関係無いと思うなかれ(ヘブル6:19-7:10):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。」(ヘブル7:1)
メルキゼデクとかアブラハムとか、私達とは関係ない昔の外国人と思うだろうか。
実は彼らは、現代を生きる私達と非常に関係が深い。
アブラハムはユダヤ民族の父親中の父親だが、信仰による者こそアブラハムの子孫であると書いてある故(ガラテヤ3:7-9)イエスを信じた私達こそアブラハムの子孫であり、アブラハムは私達にとって父である。
メルキゼデクはかの偉大なアブラハムを祝福した。
彼には系図も無ければ父母も無く、生涯の初めもなければ終わりも無く、創世記のある箇所で突然現れてアブラハムを祝福し、アブラハムは十分の一を捧げた。
「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこ(真の至聖所)へ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。」(ヘブル6:20)
レビ族はユダヤ民族の中で祭司の役割だが、その族長レビでさえ、アブラハムの腰の中でメルキゼデクに祝福を頂いて十分の一を捧げた。(10節)
ここに一つの原理が見出せる。
すなわち、アブラハムが祝福を受けた時、レビはまだ生まれていなくても、神様の法則では、レビもその時祖先であるアブラハムの腰の中で祝福を受け、十分の一を捧げた、という原理である。
私達は全て、アダムから生まれているが故に、アダムが罪を犯したその時、彼の腰の中にいた私達も同じように罪を犯し、呪いを受けてしまった。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
現代においても罪と呪いは現実的にリアルに力を持ち、その支配下に呻いているが、神様はそんな私達を救うために、恵みを備えて下さった。
「恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。」(ローマ5:15,16)
私達も、イエス様を信じる信仰の原理により、2000年前にイエスと共に十字架につけられたとみなされ、罰され済みとみなされ、これ以上罰を負う事は無くなるのだ。
主イエスは贖い主であると同時に、大祭司でもある。
彼が天において私達のために執り成し、私達も先に義とされた王族の祭司として、世の罪の為に執り成すのである。
2011年世界を生きている私達も、イエスキリストやアブラハム、アダムと大いに関係があるのだ。
全てはイエスから始まり、イエスにあって成就し、イエスに帰するのである。
このお方に栄光が豊かにあり、このお方からの恵みと祝福が皆さんに豊かにありますように!