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主に捧げるべき分を正しく捧げ、速やかに祝福が戻ってきたヒゼキヤの治世(2歴代誌31章)
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- pastor 2018-2-26 7:10
主に捧げるべき分を正しく捧げ、速やかに祝福が戻ってきたヒゼキヤの治世(2歴代誌31章)
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31:1 この事がすべて終った時、そこにいたイスラエルびとは皆、ユダの町々に出て行って、石柱を砕き、アシラ像を切り倒し、ユダとベニヤミンの全地、およびエフライムとマナセにある高き所と祭壇とを取りこわし、ついにこれをことごとく破壊した。そしてイスラエルの人々はおのおのその町々、その所領に帰った。
前章において二百年以上ぶりの盛大な過越祭が行われてから、人々の中に、自国の中から偶像を取り除かなくては、という思いが与えられ、彼らは、王から指示されてでなく自分みずからこれらの事を行った。
主を敬う事には大きな喜びが伴い、それを味わってしまったなら、主に繋がり続けたいと思うものであり、主に忌み嫌われるものは除かなくては、と思うようになるものだ。
31:2 ヒゼキヤは祭司およびレビびとの班を定め、班ごとにおのおのその勤めに従って、祭司とレビびとに燔祭と酬恩祭をささげさせ、主の営の門で勤めをし、感謝をし、さんびをさせた。
31:3 また燔祭のために自分の財産のうちから王の分を出した。すなわち朝夕の燔祭および安息日、新月、定めの祭などの燔祭のために出して、主の律法にしるされているとおりにした。
こうしてヒゼキヤは、日ごと、週ごと、月ごと、また、定められた祭りごとの主への捧げものを正しく復帰させた。
31:4 またエルサレムに住む民に、祭司とレビびとにその分を与えることを命じた。これは彼らをして主の律法に身をゆだねさせるためである。
31:5 その命令が伝わるやいなや、イスラエルの人々は穀物、酒、油、蜜ならびに畑のもろもろの産物の初物を多くささげ、またすべての物の十分の一をおびただしく携えて来た。
祭司やレビ人は、民がささげる初物や十分の一から日々の養いを受け、彼らが主の奉仕に専念できるようにする事が民数記に定められている。
民数記18:8 主はまたアロンに言われた、「わたしはイスラエルの人々の、すべての聖なる供え物で、わたしにささげる物の一部をあなたに与える。すなわち、わたしはこれをあなたと、あなたの子たちに、その分け前として与え、永久に受くべき分とする。
18:9 いと聖なる供え物のうち、火で焼かずに、あなたに帰すべきものは次のとおりである。すなわち、わたしにささげるすべての供え物、素祭、罪祭、愆祭はみな、いと聖なる物であって、あなたとあなたの子たちに帰するであろう。
18:10 いと聖なる所で、それを食べなければならない。男子はみな、それを食べることができる。それはあなたに帰すべき聖なる物である。
18:11 またあなたに帰すべきものはこれである。すなわち、イスラエルの人々のささげる供え物のうち、すべて揺祭とするものであって、これをあなたとあなたのむすこ娘に与えて、永久に受くべき分とする。あなたの家の者のうち、清い者はみな、これを食べることができる。
18:12 すべて油の最もよい物、およびすべて新しいぶどう酒と、穀物の最も良い物など、人々が主にささげる初穂をあなたに与える。
18:13 国のすべての産物の初物で、人々が主のもとに携えてきたものは、あなたに帰するであろう。あなたの家の者のうち、清い者はみな、これを食べることができる。
18:14 イスラエルのうちの奉納物はみな、あなたに帰する。
・・・
18:21 わたしはレビの子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一を嗣業として与え、その働き、すなわち、会見の幕屋の働きに報いる。
以上のように、祭司やレビ人には、それぞれ分が与えられているが、その中でも「清い者」が食べることができる、と、定められている。(11,13節)
『しかし、祭司が金をもって人を買った時は、その者はこれを食べることができる。またその家に生れた者も祭司の食物を食べることができる。』(レビ記22:11)
金を払って祭司の所有とされた「奴隷」は、祭司の食卓にあずかる事が出来る。つまり、祭司に「贖われた人」は、聖なる食卓を食べて良いのだ。
ここに、まことの大祭司キリストによる贖いの法則を見る事が出来る。
キリストの血の代価によって贖われ、神の所有とされた者は、天の聖なる食卓に、共に与ることができるのだ。
このように、主に捧げるべき分をしっかり捧げ、主の奉仕者が奉仕に専念できるように彼らを養うと、大きな祝福が返ってくる。
31:6 ユダの町々に住んでいたイスラエルとユダの人々もまた牛、羊の十分の一ならびにその神、主にささげられた奉納物を携えて来て、これを積み重ねた。
31:7 三月にこれを積み重ねることを始め、七月にこれを終った。
31:8 ヒゼキヤおよびつかさたちは来て、その積み重ねた物を見、主とその民イスラエルを祝福した。
31:9 そしてヒゼキヤがその積み重ねた物について祭司およびレビびとに問い尋ねた時、
31:10 ザドクの家から出た祭司の長アザリヤは彼に答えて言った、「民が主の宮に供え物を携えて来ることを始めてからこのかた、われわれは飽きるほど食べたが、たくさん残りました。主がその民を恵まれたからです。それでわれわれは、このように多くの残った物をもっているのです」。
祝福が返って来たのは、すぐだった。
その年のうちから、人々は飽きるほど食べてもなおたくさん残り、十分の一として捧げるものが増し加わった。
次のように書いてある通りである。
箴言3:9 あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。
3:10 そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。
31:11 そこでヒゼキヤは主の宮のうちに室を設けることを命じたので、彼らはこれを設け、
31:12 その供え物の十分の一および奉納物を忠実に携え入れた。これをつかさどる者のかしらはレビびとコナニヤで、その兄弟シメイは彼に次ぐ者となり、
31:13 エヒエル、アザジヤ、ナハテ、アサヘル、エレモテ、ヨザバデ、エリエル、イスマキヤ、マハテ、ベナヤらは、ヒゼキヤ王および神の宮のつかさアザリヤの任命によって、コナニヤおよびその兄弟シメイを助けて、その監督者となった。
主の宮の部屋は、人々が捧げた捧げものを保管するためのものであり、そこに一旦蓄えられたものは、担当の者によって祭司やレビ人として系図で登録された人達に分配された様が、11節から19節までに記されている。
バビロン捕囚以降の時代、それがなおざりにされてしまっていた。
ネヘミヤ13:4 これより先、われわれの神の宮のへやをつかさどっていた祭司エリアシブは、トビヤと縁組したので、
13:5 トビヤのために大きなへやを備えた。そのへやはもと、素祭の物、乳香、器物および規定によってレビびと、歌うたう者および門を守る者たちに与える穀物、ぶどう酒、油の十分の一、ならびに祭司のためのささげ物を置いた所である。
13:6 その当時、わたしはエルサレムにいなかった。わたしはバビロンの王アルタシャスタの三十二年に王の所へ行ったが、しばらくたって王にいとまを請い、
13:7 エルサレムに来て、エリアシブがトビヤのためにした悪事、すなわち彼のために神の宮の庭に一つのへやを備えたことを発見した。
13:8 わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、
13:9 命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。
トビヤはアモン人で、ネヘミヤが城壁を再建しようとした時、あざけった者である。
そのような汚れた者と当時の祭司が手を組み、祭司はトビヤのために神殿の一室をあてがって、トビヤはそこに私物を置いた。
聖なる宮の部屋は本来、人々が捧げた捧げものを保管・再分配するための聖なるものであり、決して汚れた者の私物化してはならない。
私達は神の宮である。
私達も、この身と心は主のために用いるべきであり、決して汚らわしい事に用いるような「私物化」はしてはならない。
ネヘミヤ13:10 わたしはまたレビびとがその受くべき分を与えられていなかったことを知った。これがためにその務をなすレビびとおよび歌うたう者たちは、おのおの自分の畑に逃げ帰った。
13:11 それでわたしはつかさたちを責めて言った、「なぜ神の宮を捨てさせたのか」。そしてレビびとを招き集めて、その持ち場に復帰させた。
13:12 そこでユダの人々は皆、穀物、ぶどう酒、油の十分の一を倉に携えてきた。
13:13 わたしは祭司シレミヤ、学者ザドクおよびレビびとペダヤを倉のつかさとし、またマッタニヤの子ザックルの子ハナンをその助手として倉をつかさどらせた。彼らは忠実な者と思われたからである。彼らの任務は兄弟たちに分配する事であった。
13:14 わが神よ、この事のためにわたしを覚えてください。わが神の宮とその勤めのためにわたしが行った良きわざをぬぐい去らないでください。
ネヘミヤはさらに、レビ人の受けるべき分が与えられていなかったため、レビ人が神の仕事から逃げてしまい、世の中の仕事をしていた事を収拾させ、彼らが主の奉仕に専念できるようにした。
このようにしたから、ネヘミヤの時代は祝福され、また、ヒゼキヤの時代も祝福されたのだ。
2歴代誌31:20 ヒゼキヤはユダ全国にこのようにし、良い事、正しい事、忠実な事をその神、主の前に行った。
31:21 彼がその神を求めるために神の宮の務につき、律法につき、戒めについて始めたわざは、ことごとく心をつくして行い、これをなし遂げた。
主に対する誠実が為され、それが満たされた時、主は、祝福を注いでくださる。
極上のものを主から備えていただくために(ヨハネ2:1-11)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
ヨハネによる福音書は、当教会では1日1節づつ反復宣言し暗唱 (テフィリン)している箇所であるが、御言葉は1節をじっくり掘れば掘る程、次々と宝が掘り起こされる。今日また新たに掘り出された宝を見たい。
イエス様が最初に奇跡を行われたのはガリラヤ・カナの結婚式においてだった。人は日常生活の色々なイベントで諸々の準備をするが、この度、結婚式という重要なイベントにおいて、非常に重要なミスが発覚する。ぶどう酒が尽きてしまったのだ。イエス様の母は「ぶどう酒がありません」と言ったが、イエス様は言う。
『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません。』(4節)
母に向かって「婦人よ」「何の係わりがありますか」と、ずいぶん不思議な言い方をしたものだが、なぜこの言い方をしたのだろう。母マリヤとしては、イエス様を親子関係の「子」として見、何かの手伝いをイエス様にさせたいと思ったのであろうが、イエス様はこう言う事によって、彼我の立場表明をしているのだ。
婦人よ、もしあなたが、メシヤであるわたしに何か必要を満たして欲しいなら、親子としてでなく、わたしを「主」という立ち位置に置き、あなたは主従関係における「しもべ」の立場に立たなくてはならないですよ、と。
多くの人々が「神」という存在を、勘違いしている。神を敬っているかのように見えて、実は、困った時だけ助けてくれる便利な「僕」のような位置に神を置いている。そういう人は困った事から救われたとたん、神を忘れてしまう。「敬い」が無いからだ。主を敬う人は、困っていない時でも、いつでも主を礼拝し敬うものだ。
『母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。』(5節)
彼女は、母という立ち位置を降り、イエス様を「上」とし、指示をするお方という正当な立ち位置に戻った。
『そこには、ユダヤ人の”きよめのならわし(カサリスモス)”に従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。』(6節) このカサリスモスは、ユダヤにおける清め礼であり、もし律法上で「汚れた」状態になってしまったら、夕方までに水を浴びて、主の御前に自分をきよくするための器である。
イエス様が満たされるのは、人が飲み干したワインボトルなどではない。人が欲望を飲み食いして空っぽになった汚らわしい器をイエス様は満たさない。金銭欲を満たそうとしてイエス様を利用しに来た者には、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」と言われた。(ルカ12:14)
主が私達の必要を満たすための奇跡を起こして下さるための土台作りは、私達は主従関係の「従」となる事であり、自らを「きよめる」事である。清められていない金銭感覚の人の財布に、新しい金銭を増し加える奇跡は、主は、絶対にしない。その人は新しく増し加わったお金で、さらに罪を増し加えるだけだからだ。
だから言われている、『だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。』(マタイ9:17)。 私達が新しい皮袋になる必要がある。
そのためにはまず私達が自分をきよめるための水を、全部使い果たす必要がある。すなわち、悔い改めて、「改まった行い」を、私達の側が「し尽くした時」、主は「やっと満たせる」と安堵し、満たして下さるのだ。
『そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。』(8節) 主が「今しなさい」と声をかけて下さる時がある。今、舟の右に網を降ろしなさい、今、鬨の声を上げなさい、と。その「今」という御声に聞き従う時、主の奇跡が起きる。料理がしらは、良いぶどう酒に変わった水を味わうと、言った。『どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました。』(10節)
この料理頭、すなわち、宴会の世話役は、世の中の宴会ごとについては経験も知識も豊富な人だ。
そんな彼が、このぶどう酒は良いぶどう酒だと認定した。きよめを実行した人に対して主が満たされるのは、世の事に熟知した人さえ、極上のものだと認めるものである! 世で経験豊富な人は、よりオトクな方法を熟知しており、時には”せこい”、”ちまちました”方法もアドバイスして来るが、自らを清めたしもべに主が与えて下さるのは、せこい、ちまちましたものではなく、上等な、混ざり気の無い、極上の喜びである!
イエス様の言葉には、条件があった。縁まで満たしなさい、と。だから主の僕がしなくてはならない事は、祝福の器が、縁まで満たされるまで、ずっと水くみをし続ける事である。祈りの水くみ、従順の水くみを。そうして上等の喜び・上等の祝福に与かる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
二百年以上も途絶えていた過越祭の回復(2歴代誌30章)
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ヒゼキヤは王に就任した最初の月から、早速、閉ざされていた主の宮を開き、宮をきよめ、主への礼拝と賛美を回復させた。
そしてさらに彼が回復させた重要な祭りがある。過越祭である。
30:1 ヒゼキヤはイスラエルとユダにあまねく人をつかわし、また手紙をエフライムとマナセに書き送り、エルサレムにある主の宮に来て、イスラエルの神、主に過越の祭を行うように勧めた。
30:2 王はすでにつかさたちおよびエルサレムにおる全会衆に計って、二月に過越の祭を行うことを定めた。
30:3 ――これは身を清めた祭司の数が足らず、民もまた、エルサレムに集まらなかったので、正月にこれを行うことができなかったからである――
彼らは第一の月は宮をきよめる事で忙しく、また祭司も人々も整えがなかったため、第二の月に行う事に決めた。
律法でも、第一の月に捧げられなかった場合は、第二の月に捧げるように示されている。
それ程、過越祭は重要な祭りだ。
過越祭は、永遠のおきてとして定められている。それは、イスラエルの民が、主がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放し、ほふられた小羊の血潮によって死の災いから救い出され、神の民として贖われた事を、年ごとに思い起こさせるために重要な祭りである。(出エジプト記12章)
この重要な祭りが、イスラエルでは、ソロモンの時代からこのかた、何世紀にも渡って忘れ去られていたのだ。(26節)
30:4 この事が、王にも全会衆にも良かったので、
30:5 この事を定めて、ベエルシバからダンまでイスラエルにあまねくふれ示し、エルサレムに来て、イスラエルの神、主に過越の祭を行うことを勧めた。これはしるされているように、これを行う者が多くなかったゆえである。
ダンからベエル・シェバまで。この表現はすなわち、イスラエルの最北端から最南端まで、すなわち、イスラエル全土から、という意味である。
ヒゼキヤが過越祭へと招待した相手は、南ユダ王国のみならず、北イスラエル王国からも、である。
ヒゼキヤが王になったのは紀元前715年〜716年ごろ、北イスラエル王国がアッシリヤによって首都サマリアが占領されたのは紀元前722年であるので、ヒゼキヤが王になる直前に北イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされた。
その、滅ぼされた直後、ヒゼキヤは過越祭を捧げて主に立ち返るよう、北イスラエル王国にもおふれを出したのだ。
30:6 そこで飛脚たちは、王とそのつかさたちから受けた手紙をもって、イスラエルとユダをあまねく行き巡り、王の命を伝えて言った、「イスラエルの人々よ、あなたがたはアブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば主は、アッスリヤの王たちの手からのがれた残りのあなたがたに、帰られるでしょう。
30:7 あなたがたの父たちおよび兄弟たちのようになってはならない。彼らはその先祖たちの神、主にむかって罪を犯したので、あなたがたの見るように主は彼らを滅びに渡されたのです。
30:8 あなたがたの父たちのように強情にならないで、主に帰服し、主がとこしえに聖別された聖所に入り、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、その激しい怒りがあなたがたを離れるでしょう。
30:9 もしあなたがたが主に立ち返るならば、あなたがたの兄弟および子供は、これを捕えていった者の前にあわれみを得て、この国に帰ることができるでしょう。あなたがたの神、主は恵みあり、あわれみある方であられるゆえ、あなたがたが彼に立ち返るならば、顔をあなたがたにそむけられることはありません」。
これは北イスラエル王国にとって、まさにおりにかなったメッセージだっただろう。
実際ソロモンは、もし不信の罪を犯した故に、遠国にとらわれて行った先で、悔い改めて主に立ち返り、神殿に向かって祈るなら、返して下さるように、と主に祈り、その祈りは聞き届けられた。(2歴代誌6:36-39)
ところが、である。
30:10 このように飛脚たちは、エフライムとマナセの国にはいって、町から町に行き巡り、ついに、ゼブルンまで行ったが、人々はこれをあざけり笑った。
北イスラエル王国の、残された多くの人々は、ヒゼキヤからの招待を、あざ笑った。
ルカによる福音書14章に、宴会に招く王のたとえ話があるが、まさにその事がヒゼキヤの時代に起きたのである。
ルカ14:15 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。
北イスラエル王国は、アッシリヤ捕囚が行われた直後、ヒゼキヤから悔い改めと贖いの祭りである過越祭に招かれた、にもかかわらず、大部分はそれを嘲り、その招きを蹴ってしまった。
それ故、北イスラエル王国は、なお、離散したままとなってしまっている。
しかし、少数ながら、ヒゼキヤの呼びかけに応じる者もあった。
30:11 ただしアセル、マナセ、ゼブルンのうちには身を低くして、エルサレムにきた人々もあった。
30:12 またユダにおいては神の手が人々に一つ心を与えて、王とつかさたちが主の言葉によって命じたことを行わせた。
30:13 こうして二月になって、多くの民は、種入れぬパンの祭を行うためエルサレムに集まったが、非常に大きな会衆であった。
30:14 彼らは立ってエルサレムにあるもろもろの祭壇を取り除き、またすべての香をたく祭壇を取り除いてキデロン川に投げすて、
30:15 二月の十四日に過越の小羊をほふった。そこで祭司たちおよびレビびとはみずから恥じ、身を清めて主の宮に燔祭を携えて来た。
30:16 彼らは神の人モーセの律法に従い、いつものようにその所に立ち、祭司たちは、レビびとの手から血を受けて注いだ。
こうして、二百年以上も途絶えていた過越祭が、盛大に行われた。
祭司やレビ人は自分の身を清めたが、何しろ二百年以上ぶりの祭りである。多くの人々、特に、北イスラエル王国の人々は、規定通りに行う事を知らなかった。
30:17 時に、会衆のうちにまだ身を清めていない者が多かったので、レビびとはその清くないすべての人々に代って過越の小羊をほふり、主に清めてささげた。
30:18 多くの民すなわちエフライム、マナセ、イッサカル、ゼブルンからきた多くの者はまだ身を清めていないのに、書きしるされたとおりにしないで過越の物を食べた。それでヒゼキヤは、彼らのために祈って言った、「恵みふかき主よ、彼らをゆるしてください。
30:19 彼らは聖所の清めの規定どおりにしなかったけれども、その心を傾けて神を求め、その先祖の神、主を求めたのです」。
30:20 主はヒゼキヤに聞いて、民をいやされた。
人々は規定通りに捧げなかった。本来なら主に受け入れられないが、しかし王の執り成しにより、主の恵みによって、主は民をいやして下さった。
主は、霊とまことを尽くした礼拝をこそ、喜ばれるのである。
ヨハネ4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
30:21 そこでエルサレムに来ていたイスラエルの人々は大いなる喜びをいだいて、七日のあいだ種入れぬパンの祭を行った。またレビびとと祭司たちは日々に主をさんびし、力をつくして主をたたえた。
30:22 そしてヒゼキヤは主の勤めによく通じているすべてのレビびとを深くねぎらった。こうして人々は酬恩祭の犠牲をささげ、その先祖の神、主に感謝して、七日のあいだ祭の供え物を食べた。
霊とまことを尽くした礼拝には、この世のものならぬ喜びがついてくる。
色々なでこぼこはあったものの、真剣に主に立ち返ろうとした二百年以上ぶりの過越祭である。
大きな喜びが沸き起こった。
30:23 なお全会衆は相はかって、さらに七日のあいだ祭を守ることを定め、喜びをもってまた七日のあいだ守った。
30:24 時にユダの王ヒゼキヤは雄牛一千頭、羊七千頭を会衆に贈り、また、つかさたちは雄牛一千頭、羊一万頭を会衆に贈った。祭司もまた多く身を清めた。
30:25 ユダの全会衆および祭司、レビびと、ならびにイスラエルからきた全会衆、およびイスラエルの地からきた他国人と、ユダに住む他国人は皆喜んだ。
30:26 このようにエルサレムに大いなる喜びがあった。イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時からこのかた、このような事はエルサレムになかった。
30:27 このとき祭司たちとレビびとは立って、民を祝福したが、その声は聞かれ、その祈は主の聖なるすみかである天に達した。
会衆は、もっと主の喜びを共に喜びたいと、さらに七日、祭りを行い、さらに捧げものが捧げられた。
こうして大きな喜びが沸き起こり、祭司の祝福の声を主は天において聞かれ、人々を祝福してくださった。
私達もヒゼキヤのように、何世紀にも渡って途絶えてしまっていた礼拝、御言葉と聖霊による礼拝を回復すべきである。
ヒゼキヤが真っ先に行った礼拝の回復(2歴代誌29章)
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29:1 ヒゼキヤは王となった時二十五歳で、二十九年の間エルサレムで世を治めた。その母はアビヤと言って、ゼカリヤの娘である。
29:2 ヒゼキヤは父ダビデがすべてなしたように主の良しと見られることをした。
29:3 彼はその治世の第一年の一月に主の宮の戸を開き、かつこれを繕った。
主に忌み嫌われる事をし、主の宮を断ったアハズ王であったが、その子ヒゼキヤは、その父とは反対に、主の目にかなった事をする。
彼が真っ先にした事は、主の宮をきよめる事だった。
29:4 彼は祭司とレビびとを連れていって、東の広場に集め、
29:5 彼らに言った、「レビびとよ、聞きなさい。あなたがたは今、身を清めて、あなたがたの先祖の神、主の宮を清め、聖所から汚れを除き去りなさい。
29:6 われわれの先祖は罪を犯し、われわれの神、主の悪と見られることを行って、主を捨て、主のすまいに顔をそむけ、うしろを向けた。
29:7 また廊の戸を閉じ、ともしびを消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、燔祭をささげなかった。
29:8 それゆえ、主の怒りはユダとエルサレムに臨み、あなたがたが目に見るように、主は彼らを恐れと驚きと物笑いにされた。
29:9 見よ、われわれの父たちはつるぎにたおれ、われわれのむすこたち、むすめたち、妻たちはこれがために捕虜となった。
主に忌み嫌われるものが、主の宮にある状態であり続けるなら、主の妬みが引き起こされた状態となり、災いが絶えない。
ヒゼキヤのこの言葉は、他人事ではない。私達もまた神の神殿であるからだ。
1コリント3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
私達という「神の宮」を汚し、主に忌み嫌われるものを入れたままであるなら、私達に対し、主の妬みが引き起こされ、災いが続いていしまう。
だから私達も、主に忌み嫌われる習慣や行い、あるいは思考パターンを取り除き、悔い改め、イエス様の血潮をもって清められた状態を保ち続けるべきである。
29:10 今わたしは、イスラエルの神、主と契約を結ぶ志をもっている。そうすればその激しい怒りは、われわれを離れるであろう。
29:11 わが子らよ、今は怠ってはならない。主はあなたがたを選んで、主の前に立って仕えさせ、ご自分に仕える者となし、また香をたく者とされたからである」。
・・・
29:15 彼らはその兄弟たちを集めて身を清め、主の言葉による王の命令に従って、主の宮を清めるためにはいって来た。
29:16 祭司たちが主の宮の奥にはいってこれを清め、主の宮にあった汚れた物をことごとく主の宮の庭に運び出すと、レビびとはそれを受けて外に出し、キデロン川に持って行った。
29:17 彼らは正月の元日に清めることを始めて、その月の八日に主の宮の廊に達した。それから主の宮を清めるのに八日を費し、正月の十六日にこれを終った。
こうして、ヒゼキヤに命じられた事を実行に移した。
宮が清められたという報告を受けたヒゼキヤが、早速その神殿でした事は、罪のためのいけにえを捧げさせた事である。
29:20 そこでヒゼキヤ王は朝早く起きいで、町のつかさたちを集めて、主の宮に上って行き、
29:21 雄牛七頭、雄羊七頭、小羊七頭、雄やぎ七頭を引いてこさせ、国と聖所とユダのためにこれを罪祭とし、アロンの子孫である祭司たちに命じてこれを主の祭壇の上にささげさせた。
29:22 すなわち、雄牛をほふると、祭司たちはその血を受けて祭壇にふりかけ、また雄羊をほふると、その血を祭壇にふりかけ、また小羊をほふると、その血を祭壇にふりかけた。
29:23 そして罪祭の雄やぎを王と会衆の前に引いて来たので、彼らはその上に手を置いた。
29:24 そして祭司たちはこれをほふり、その血を罪祭として祭壇の上にささげてイスラエル全国のためにあがないをした。これは王がイスラエル全国のために燔祭および罪祭をささげることを命じたためである。
私達も、主に忌み嫌われるものを取り除いたなら、自らをイエスの血潮で清めるのである。
そうして次にヒゼキヤが回復したのは、賛美のいけにえであった。
29:25 王はまたレビびとを主の宮に置き、ダビデおよび王の先見者ガドと預言者ナタンの命令に従って、これにシンバル、立琴および琴をとらせた。これは主がその預言者によって命じられたところである。
29:26 こうしてレビびとはダビデの楽器をとり、祭司はラッパをとって立った。
29:27 そこでヒゼキヤは燔祭を祭壇の上にささげることを命じた。燔祭をささげ始めた時、主の歌をうたい、ラッパを吹き、イスラエルの王ダビデの楽器をならし始めた。
・・・
29:30 またヒゼキヤ王およびつかさたちはレビびとに命じて、ダビデと先見者アサフの言葉をもって主をさんびさせた。彼らは喜んでさんびし、頭をさげて礼拝した。
29:31 その時、ヒゼキヤは言った、「あなたがたはすでに主に仕えるために身を清めたのであるから、進みよって、主の宮に犠牲と感謝の供え物を携えて来なさい」と。そこで会衆は犠牲と感謝の供え物を携えて来た。また志ある者は皆燔祭を携えて来た。
私達自身、生きた神への供え物とし、賛美と祈りの香を主の前に立ち上らせ、全てを尽くして主に捧げるなら、大きな喜びが沸き起こる。
29:35 このほかおびただしい燔祭があり、また、酬恩祭の脂肪および燔祭の灌祭もあった。こうして、主の宮の勤めは回復された。
29:36 この事は、にわかになされたけれども、神がこのように民のために備えをされたので、ヒゼキヤおよびすべての民は喜んだ。
ヒゼキヤが礼拝を回復したように、もし、私達も罪の行いを悔い改め、御前に捧げるなら、天において大きな喜びが御使いたちの間で沸き起こり、その喜びが地上の私達にも移って行くのである。
ルカ15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
15:7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
バラム - 異端をもたらす者 - の性質と、その最後(民数記22-25章)
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民数記22:6 どうぞ今きてわたしのためにこの民をのろってください。彼らはわたしよりも強いのです。そうしてくだされば、われわれは彼らを撃って、この国から追い払うことができるかもしれません。あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることをわたしは知っています」。
バラムはユーフラテス河畔の著名な預言者で、彼が祝福する者は祝福され、呪う者は呪われると言われている程だった。
彼はモアブの王から、エジプトから出てきたイスラエルの民を呪うようにと、金銀を積まれる。
民数記22:7 モアブの長老たちとミデアンの長老たちは占いの礼物を手にして出発し、バラムのもとへ行って、バラクの言葉を告げた。
22:8 バラムは彼らに言った、「今夜ここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたがたに返答しましょう」。それでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。
・・・
22:12 神はバラムに言われた、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。
主の答えは、イスラエルの民は祝福されている、だから呪ってはならない、彼らと一緒に行ってはならない、であった。
それでバラムは彼らを帰らせ、一緒には行かなかった。
しかしである。
22:15 バラクはまた前の者よりも身分の高いつかさたちを前よりも多くつかわした。
22:16 彼らはバラムのところへ行って言った、「チッポルの子バラクはこう申します、『どんな妨げをも顧みず、どうぞわたしのところへおいでください。
22:17 わたしはあなたを大いに優遇します。そしてあなたがわたしに言われる事はなんでもいたします。どうぞきてわたしのためにこの民をのろってください』」。
バラクから再度、より高い地位の人々が遣わされ、さらに好条件・好待遇が約束された。
これに対し、バラムの心に、富に対する迷いが生じる。
22:18 しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。
22:19 それで、どうぞ、あなたがたも今夜ここにとどまって、主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」。
彼は「その家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。」と一見美しい事を言って置きながら、「主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」と、筋が通らない事を言っている。
既に主の御心は、最初に示されている。
「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。と。
彼の心に、迷いが生じたのだ。
2ペテロ2:15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、
2:16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。
バラムは、バラクから示された不義の報酬に、目がくらんだのだ。
神に聞き従っている「祝福された人」を呪う、その引き換えに得る報酬は、不義の報酬であり、新約では、そのような不義の報酬を愛したバラムを、狂気の預言者と呼んでいる。
民数記22:20 夜になり、神はバラムに臨んで言われた、「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。
神はバラムに「行きなさい」と言われた。
人があくまで汚れた欲望へ行こう行こうとするなら、神は敢えてその人をそのまま汚れへと引き渡される。
神は、好きこのんで人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするお方ではない(エゼ18:23)。
むしろ神は、人を救おうとする故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の愛をもって憐れまれたのだ。
その尊い愛さえ退け、あくまで欲望のままに歩む事によって、キリストを、あるいはキリスト者を、十字架につけようとする者は、神は、そのままその人を汚れへと「引き渡し」、滅びへと導かれるのだ。
22:21 明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。
22:22 しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。
バラムがろばに乗ってイスラエルを呪いに行く途上、目の前に御使いが抜き身の剣を手に待ち構えていたのだが、バラムには見えなかった。
「金への欲望」で目が塞がれていたためだ。
彼を乗せたろばは、剣を持った御使いを見てその場にうずくまってしまったが、バラムはあくまで進めさせようと、ろばを打った。
その時、主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を持って道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。
『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32)
御使いは、ろばを擁護した。結局この著名な預言者は、ろばの信仰によって命拾いしたのだ。
情けない話だが、お金への欲望は、どんな有力な預言者といえど、ろばさえ分かるような滅びへの道さえ分からなくしてしまうのだ。
民数記22:34 バラムは主の使に言った、「わたしは罪を犯しました。あなたがわたしをとどめようとして、道に立ちふさがっておられるのを、わたしは知りませんでした。それで今、もし、お気に召さないのであれば、わたしは帰りましょう」。
22:35 主の使はバラムに言った、「この人々と一緒に行きなさい。ただし、わたしが告げることのみを述べなければならない」。こうしてバラムはバラクのつかさたちと一緒に行った。
バラムは行くのだが、バラクの意とは反し、バラムはイスラエルを呪うのではなく、三度も祝福した様が、民数記23-24章に書いてある。
民数記24:10 そこでバラクはバラムにむかって怒りを発し、手を打ち鳴らした。そしてバラクはバラムに言った、「敵をのろうために招いたのに、あなたはかえって三度までも彼らを祝福した。
24:11 それで今あなたは急いで自分のところへ帰ってください。わたしはあなたを大いに優遇しようと思った。しかし、主はその優遇をあなたに得させないようにされました」。
24:12 バラムはバラクに言った、「わたしはあなたがつかわされた使者たちに言ったではありませんか、
24:13 『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
24:14 わたしは今わたしの民のところへ帰って行きます。それでわたしはこの民が後の日にあなたの民にどんなことをするかをお知らせしましょう」。
新約では狂気の預言者と呼ばれたバラムは、この後、なんと、遠い将来イスラエルから出るキリストの預言をする。
24:17 わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。
24:18 敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。
24:19 権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を町から断ち滅ぼすであろう」。
・・・
24:25 こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。
このまま読むなら、バラムはバラクと喧嘩別れしたかのように見える。
バラムは御心の通りに、そして、主から戒められていた通りに、イスラエルを呪わず、祝福した。
この時点、バラムには何ら問題は見いだせず、むしろ、立派に役割を果たしたように見える。
では、彼はなぜ新約では「気違い預言者」として記されたのか。
それは、イスラエルの陣営の素晴らしさを見、神の霊に促されて、イスラエルの神の力強さ、麗しさを語り、主の偉大な御力を経験しておきながら、それでもなお不義な報酬を愛し、堕落へと走ったからだ。
民数記25章は、イスラエルの民が異邦の女と不品行の罪を犯したために主の罰を受ける事が記されているのだが、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導いたのが、この、バラムである。
『あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。』(黙示録2:14)
バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなかった。
イスラエルが主と良好な関係を結んでいる限りは、呪えないから、その代替として、イスラエルを不品行へと導き、神の怒りを引き起こさせて、イスラエルに災いをもたらすように仕向けて、そうして、バラクから報酬を受け取ったのだ。
バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
主には、そのような詭弁は、通用しない。
彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に、であるから、彼が得た不正な報酬を楽しんだ期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。
バラムのように、多くの人々に偽りをそそのかす偽預言者には、剣が待ち受けている。
バラムについて黙示録に記されている箇所は、ペルガモの教会に対しての言葉であったが、ペルガモの教会に対して現れた主は、「鋭いもろ刃のつるぎを持っているかた」だった。
不義の報酬を愛するゆえに、無垢な信徒を異端に導き、滅びへと導く者を待ち受けているものは、剣である。
私達はバラクのように、不義の報酬を愛する者ではなく、純粋に主を愛し、神の民に汚れを導入するような者を取り除くピネハスのような者(民数記25章)でありたい。
主に立ち返るべき時に、ついに立ち返らなかったアハズ王(2歴代誌28:22-27)
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- pastor 2018-2-20 7:14
主に立ち返るべき時に、ついに立ち返らなかったアハズ王(2歴代誌28:22-27)
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暴力と卑怯な力で名を馳せている暴走族の力を利用して自分の望みを成し遂げようとすると、逆に暴力的な事と卑怯な事に常に悩まされる事になる。
アハズ王はまさにその状態だった。
2歴代誌28:22 このアハズ王はその悩みの時にあたって、ますます主に罪を犯した。
28:23 すなわち、彼は自分を撃ったダマスコの神々に、犠牲をささげて言った、「スリヤの王たちの神々はその王たちを助けるから、わたしもそれに犠牲をささげよう。そうすれば彼らはわたしを助けるであろう」と。しかし、彼らはかえってアハズとイスラエル全国とを倒す者となった。
暴力と卑怯に悩まされたのだったら、憐れみと義であられる主に立ち返ればよかったものを、彼は全く逆の道を行ってしまった。
2列王記16:10 アハズ王はアッスリヤの王テグラテピレセルに会おうとダマスコへ行ったが、ダマスコにある祭壇を見たので、アハズ王はその祭壇の作りにしたがって、その詳しい図面と、ひな型とを作って、祭司ウリヤに送った。
16:11 そこで祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送ったものにしたがって祭壇を建てた。すなわち祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから帰るまでにそのとおりに作った。
16:12 王はダマスコから帰ってきて、その祭壇を見、祭壇に近づいてその上に登り、
16:13 燔祭と素祭を焼き、灌祭を注ぎ、酬恩祭の血を祭壇にそそぎかけた。
16:14 彼はまた主の前にあった青銅の祭壇を宮の前から移した。すなわちそれを新しい祭壇と主の宮の間から移して、新しい祭壇の北の方にすえた。
16:15 そしてアハズ王は祭司ウリヤに命じて言った、「朝の燔祭と夕の素祭および王の燔祭とその素祭、ならびに国中の民の燔祭とその素祭および灌祭は、この大きな祭壇(KJV: "great altar")の上で焼きなさい。また燔祭の血と犠牲の血はすべてこれにそそぎかけなさい。あの青銅の祭壇をわたしは伺いを立てるのに用いよう」。
16:16 祭司ウリヤはアハズ王がすべて命じたとおりにおこなった。
彼は主を捨て、自分がこしらえたものを「大きな祭壇(KJV: "グレート・オルター")」と呼び、主がモーセを通して与えて下さった礼拝規定を曲げ、祭司はその言うことを聞いてしまった。
教会で礼拝するよりも、暴走族と一緒に走るほうがカッコ良くて栄えているかのように思っている子が、自分も彼らのようにバイクをキラキラ飾って”グレート・バイク”を乗り回せば栄えるだろう、と勘違いしているかのように。
彼がこんな事をするのは、どの神でも良かったからだ。自分の思い通りになるのならば。
日本には学業の神、安産の神、恋愛成就の神などいるとされるが、いずれも、自分の願望通りになる事を願って、人間がそのような神々を身勝手に作ったのに過ぎない。
イザヤ8:5 主はまた重ねてわたしに言われた、
8:6 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける。
8:7 それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支流にはびこり、すべての岸を越え、
8:8 ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。
8:9 もろもろの民よ、打ち破られて、驚きあわてよ。遠き国々のものよ、耳を傾けよ。腰に帯して、驚きあわてよ。腰に帯して、驚きあわてよ。
8:10 ともに計れ、しかし、成らない。言葉を出せ、しかし、行われない。「神がわれわれと共におられる(インマヌエル)」からである。
イザヤ書のこのわずかな節に「インマヌエル」という言葉が二回でてくる。
インマヌエル、主は共におられる、という意味であるが、それは主を敬う人々にとっては慰めに満ちた名前だが、主を捨て去る者には逆に災いをもたらす名となってしまう。
シロアの水は、ソロモンが王になった所である。王を立て、王を廃らせる力のある主を捨てて、アッシリヤに助けを求めてしまったアハズ王に対しては、インマヌエルの翼は慰めに溢れる翼ではなく、災いの水が喉元まで溢れる翼となってしまうのだ。
そこで主は言われる。
イザヤ8:11 主は強いみ手をもって、わたしを捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、さとして言われた、
8:12 「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。
8:13 あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。
私達は、アハズ王の道に習わず、主を聖とし、彼を恐れ敬わなくてはならない。
そうでない者には、夜明けがない。(20節)
アハズ王は主を敬わず、災いに遭ってもなお立ち返らず、さらに罪を犯し、16年という短い統治で、栄えることなく終わってしまう。
2歴代誌28:24 アハズは神の宮の器物を集めて、神の宮の器物を切り破り、主の宮の戸を閉じ、エルサレムのすべてのすみずみに祭壇を造り、
28:25 ユダのすべての町々に高き所を造って、他の神々に香をたきなどして、先祖の神、主の怒りを引き起した。
28:26 アハズのその他の始終の行為およびそのすべての行動は、ユダとイスラエルの列王の書にしるされている。
28:27 アハズはその先祖たちと共に眠ったので、エルサレムの町にこれを葬った。しかし、イスラエルの王たちの墓には持って行かなかった。その子ヒゼキヤが彼に代って王となった。
アハズ王は、罪に罪を重ね、信仰の先人の列に加えられる事なく、イスラエルの歴史に恥として残ってしまった。
主に従わない者は、正しい者の集いに立てない。
私達は主を敬い、その教えを喜びとし、御言葉に従って歩み、アハズ王のような災いとは無縁の人生を全うしたい。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
暴力的な強さを頼もしく思ってより頼む者は、暴力によって悩まされる(2歴代誌28:16-21)
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- pastor 2018-2-19 7:03
暴力的な強さを頼もしく思ってより頼む者は、暴力によって悩まされる(2歴代誌28:16-21)
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アハズ王は主を捨て去り、自分の子達を邪教の神に捧げる事までして主に忌み嫌われる事を行った。
その結果、王国に諸々の災いをもたらす事となり、アラムや北イスラエル王国の二つの王国によって1日に12万の兵士が殺されるという大損害を負い、さらには20万の女子供向が生け捕りにされ連れて行かれるという事が起こった。
しかし主の憐れみにより、一人の預言者の北イスラエル王国に対する言葉によって、その20万は無事帰された。
そのような大きな恵みを主から受けたにもかかわらず、アハズ王は主により頼むという事をしない。
この時、主からどのような言葉を頂き、そしてアハズ王はどれほど主に対して失礼を犯したか、イザヤ書を見れば分かる。
イザヤ7:1 ユダの王、ウジヤの子ヨタム、その子アハズの時、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが上ってきて、エルサレムを攻めたが勝つことができなかった。
7:2 時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。
7:3 その時、主はイザヤに言われた、「今、あなたとあなたの子シャル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会い、
7:4 彼に言いなさい、『気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。
主は預言者イザヤに、子供をつれて、どこどこでアハズに出会いなさい、と、細やかな指示をされた。
そうして伝えるべき主の御言葉は、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」「心を弱くしてはならない」だった。
7:5 スリヤはエフライムおよびレマリヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、
7:6 「われわれはユダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう」と。
7:7 主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない。
7:8 スリヤのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレヂンである。(六十五年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる。)
7:9 エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマリヤの子である。もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない』」。
実際この預言の通り、北イスラエル王国は65年の内にアッシリヤによって滅ぼされ、国の体裁を失ってしまう。
主に不信の罪を犯して来たアハズ王と南ユダ王国には、有り余るほどの恵みの預言が与えられた。
そして、その救いを自分のものにするための条件は、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」「心を弱くしてはならない」であった。
さらに主は言われる。
7:10 主は再びアハズに告げて言われた、
7:11 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。
主はなんと憐れみ深いお方だろう。
あんなにも主に忌み嫌われる事を行ったにもかかわらず、主はアハズに、あなたは確かに助かる、証拠として何でもしるしを求めなさい、とまで言って下さった。
7:12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。
彼が今までしてきた事を見るなら、「主を試みることをいたしません」などと言える立場ではない。
彼は今まで主に依り頼んで来なかったというのに、主の側が、そこまで降りて来てくださり、譲歩して下さったのだから、主に何でも求めて、主が為してくださる素晴らしい御業を体験するべきなのに、なおも「主に求めません」と言うとは、なんと失礼な事だろう。
それは、主を煩わせる事であった。
7:13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。
7:14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
驚く事に、ここに処女がみごもる預言、インマヌエル預言、すなわちイエス様が生まれる預言がなされる。
最も不信仰な王が、主に期待しない事の告白をした時に与えられた預言、それは、インマヌエルなる主が、処女を通して与えられる預言である。
頑として主に求めない不信仰な人間に、主は一方的に降りて来て、一方的に救おうとされたのだ。
これらの預言が為されたにもかかわらず、アハズは、落ち着いて静かに信頼できず、身勝手な行動に出てしまう。
28:16 その時アハズ王は人をアッスリヤの王につかわして助けを求めさせた。
アハズ王は、主から与えられた言葉を早速無視し、アッシリヤに助けを求めにいく。
2列王記16:7 そこでアハズは使者をアッスリヤの王テグラテピレセルにつかわして言わせた、「わたしはあなたのしもべ、あなたの子です。スリヤの王とイスラエルの王がわたしを攻め囲んでいます。どうぞ上ってきて、彼らの手からわたしを救い出してください」。
16:8 そしてアハズは主の宮と王の家の倉にある金と銀をとり、これを贈り物としてアッスリヤの王におくったので、
16:9 アッスリヤの王は彼の願いを聞きいれた。すなわちアッスリヤの王はダマスコに攻め上って、これを取り、その民をキルに捕え移し、またレヂンを殺した。
アハズ王がアッシリヤの暴力的な悪の強さが圧倒的だったから、それが頼もしく見えたのだろう。
しかし、暴力的で強いいじめっ子に、母の財布からくすねたお金を持って行って「あのいじめっ子を襲ってください」などと言うとしたら、その後どうなるだろうか。大体予想はつく。
彼は外交儀礼上、「わたしはあなたのしもべ、あなたの子です」と口先で言ったのかもしれないが、発した言葉は、力を持つものである。このことばによって、南ユダ王国は、アッシリヤに好き放題つけこまれる足がかりをつくってしまった。
一見すると、アッシリヤによって問題解決したかのように見えたが、アッシリヤとの因縁をつくってしまった故、南ユダ王国はその後、アッシリヤから執拗にゆすりたかられる事となる。
2歴代誌28:20 アッスリヤの王テルガデ・ピルネセルは彼の所に来たが、彼に力を添えないで、かえって彼を悩ました。
28:21 アハズは主の宮と王の家、およびつかさたちの家の物を取ってアッスリヤの王に与えたが、それはアハズの助けにはならなかった。
アハズ王は母の財布からくすねるどころの話ではなく、主の宮から宝を取ってアッシリヤをなだめても無駄だった。
暴力的なことで名を馳せる者には、なけなしのお金を出して誠意を見せれば脅しを辞めてくれる、と思ってはならない。
彼らはむしろ「こいつは脅せば、もっとゆすり取れる」と思うものなのだ。
こうしてアハズ王は、アッシリヤから因縁をつけられ、脅され、ゆすり取られる行動パターンをつくってしまった。
主からの最初の助言は何だっただろうか。
「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」「心を弱くしてはならない」だった。
しかしそれを好まず、恵み深い主に信頼する道を捨て、アッシリヤの暴力に頼ってしまった故に、アッシリヤから逆に悩まされる事になってしまった。
イザヤ30:15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。
30:16 かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。
30:17 ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。
主を信頼する所に力がある。
しかし、自分勝手な者は、いたずらに力を浪費し、労に労を重ねた挙句、干からびてしまうものだ。
祝福の地を見えなくさせるもの(創世記21:9-21)
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週報/メッセージ(説教)概要
ベエル・シェバとはどういう所かを前回学んだ。そこは、よく潤った広くて良い地、私達が目指すべき地であるが、その素晴らしい良き地がせっかく示されても、入れない人・入れても祝福を得られない人がいる。
今回、そのようなベエル・シェバの祝福を受けられない人の特徴と、その対処法を学びたい。
ベエル・シェバが聖書で最初に登場するのは創世記21章だが、その箇所には只ならぬ事が起きている。
『翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。』(創世記21:14) この母子がパンと水だけを持たされて送り出されてしまったのは、自分の立場をわきまえずに、高慢になったからだ。
イシュマエルは歳の差のある弟のイサクを軽んじ、ばかにし、母ハガルも彼を止めなかった。神の国に弱者をばかにして戯れる性質は、無い。争いを好み、弱い人をばかにして笑う人は、切り離されてしまう。
アブラハムはイシュマエルも自分の子なので、非常に悩んだが、主は言われた。この少年も一つの大きな国民としよう、と。それはハガルにも与えられていた約束であるので、アブラハムは安心して「送り出した」。
ところがハガルはわざわざベエル・シェバの「荒野」へ向かって行く。道沿いに行けば町や井戸がある土地なのに。しかも目の前に井戸があるのに、彼女は気づかなかった。自暴自棄になったのかもしれない。
せっかくベエル・シェバに送り出されても、神様の約束の言葉ではなく、自分の負の感情をじっと見つめ、沸き立たせ、不平不満や争いの心を高じさせる人は、祝福の井戸には、ありつけないのだ。
「イシュマエル」の名は「神は聞かれる」という意味で、主がつけて下さった名前だ。彼女は「神は聞かれる」という子を手放して感情に任せて泣いていた所、神は「少年の声を」聞かれた。それでハガルに声をかけ、約束を思い起こさせ、『神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。』(19節)
肝心のものがそこにあるのに気づかず、神様が目を開いて下さる場面は、聖書には幾つかある。
バラムはモーセの時代の有力な預言者であったが、彼が大金で雇われ、ろばに乗ってイスラエルを呪いに行く途上、目の前に御使いが抜き身の剣を手に待ち構えているのが、見えなかった。彼は「金への欲望」で目が塞がれていたためだ。(民数記22章) 彼を乗せたろばは、剣を持った御使いを見てその場にうずくまってしまったが、バラムは「進め、進め、なんで自分の思い通りに行かないのだ」、と、ろばを打った。
その時、主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を持って道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32) 御使いは、ろばを擁護した。結局この著名な預言者は、ろばの信仰によって命拾いしたのだ。情けない話だが、お金への欲望は、どんな有力な預言者といえど、ろばさえ分かるような滅びへの道さえ分からなくしてしまうのだ。
もう一つ、見えなかった目が開かれる事で有名な場面が、使徒9章にある。『するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。』(使徒9:18) ここは迫害者サウロが使徒パウロになった場面である。
彼が見えていなかった理由は、「自分は正しい」という思い込みに満たされていたからだ。自分がしていることは正しい、相手が間違っている、だから何しても良いのだ、という思いにくらまされ、神の御心に反する事を逆にしてしまっていた所を、主はアナニヤという人を通して彼の目を開いて下さった。
このように、ハガルは鬱憤に、バラムは金銭欲に、サウロは自己義によって見えなくなっていたが、私達もそれらによって目がくらまされ、神様が用意して下さった祝福が見えなくなってしまう事がある。もし祝福があるはずなのに見えない、と自覚をしたなら、それらから目を逸らし、思いと心を主に向け、御霊に歩むよう軌道修正すべきだ。そうすれば、見えなくしている覆いは取り除かれ、自由になる。(2コリント3:12-16)
主は、ハガルにはイシュマエルを、バラムにはろばを、サウロにはアナニヤを遣わして目を開いて下さったが、私達も霊的盲目に陥って突き進んでいる兄弟姉妹に気づいたなら、助けてあげるべきだ。
進んではならない滅びの道がよく見えるようになり、さらみ祝福の地ベエル・シェバもよく見えるようになって、何をしても栄える幸いを勝ち得ていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
忌み嫌われる事を行ったアハズと南ユダ王国と、彼らに示された主の憐れみ(2歴代誌28:1-15)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2歴代誌
- 執筆 :
- pastor 2018-2-16 7:18
忌み嫌われる事を行ったアハズと南ユダ王国と、彼らに示された主の憐れみ(2歴代誌28:1-15)
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ヨタムは信仰を子供に、その民に受け継がせる事に失敗し、その恐ろしい”つけ”が、後代において刈り取ってしまうことになる。
それまでの王達は、最初は主の目に良い事を行い、それで祝福されると高ぶってしまい、晩節を汚すという事が数代続いたが、アハズは最初から主の目に忌み嫌われる事を行った。
28:1 アハズは王となった時二十歳で、十六年の間エルサレムで世を治めたが、その父ダビデとは違って、主の良しと見られることを行わず、
28:2 イスラエルの王たちの道に歩み、またもろもろのバアルのために鋳た像を造り、
28:3 ベンヒンノムの谷で香をたき、その子らを火に焼いて供え物とするなど、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行いにならい、
28:4 また高き所の上、丘の上、すべての青木の下で犠牲をささげ、香をたいた。
アハズは偶像礼拝をもたらしてしまった。その結果どうなるか、十戒で真っ先に書いてある。
20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
偶像礼拝は、主に忌み嫌われ、それを行う者は3代4代に呪いが及ぶ。
しかしアハズの子ヒゼキヤは主の目にかなった行いをした故に祝福されたように、もし親の代の偶像礼拝を忌み嫌うものとして自分の中から投げ捨てるなら、その人はその行い故に祝福される。
アハズはなんと、自分の子達を火で焼いていけにえとする邪教の教えにも習ってしまった。
そのような者はイスラエルの中でどうすべきか、主はあらかじめ示しておられる。
レビ記20:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。
20:3 わたしは顔をその人に向け、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。
20:4 その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、
20:5 わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。
つまり、自分の子を犠牲に捧げるような者は、本来、殺さなければならない。
そしてそれを見て見ぬふりをし、あるいは同意する者も同様である。
それなのに、アハズの時代は国がこぞってそうなってしまった。
律法に照らすなら、本来、すぐにでも滅ぼされても仕方がない事を彼らはしていたのだが、すぐに皆が殺されるという事を主はしない。
本来殺されるはずの罪人が、すぐに殺されず、立ち返る道が与えられる。これを、恵みという。
主は恵みの時、悔い改めて立ち返る事ができる時間を与えられた。
2歴代誌28:5 それゆえ、その神、主は彼をスリヤの王の手に渡されたので、スリヤびとは彼を撃ち破り、その民を多く捕虜として、ダマスコに引いて行った。彼はまたイスラエルの王の手にも渡されたので、イスラエルの王も彼を撃ち破って大いに殺した。
28:6 すなわちレマリヤの子ペカはユダで一日のうちに十二万人を殺した。皆勇士であった。これは彼らがその先祖の神、主を捨てたためである。
28:7 その時、エフライムの勇士ジクリという者が王の子マアセヤ、宮内大臣アズリカムおよび王に次ぐ人エルカナを殺した。
28:8 イスラエルの人々はついにその兄弟のうちから婦人ならびに男子、女子など二十万人を捕虜にし、また多くのぶんどり物をとり、そのぶんどり物をサマリヤに持って行った。
たった一日で戦士が十二万人も殺されたばかりでなく、王の子や側近の者達が殺されてしまった。
そればかりでなく、婦人や男女二十万人もの人々が、捕虜にされ、連れて行かれ、また財産も多くぶんどり物として持って行かれてしまった。
その理由は明らかで「これは彼らがその先祖の神、主を捨てたためである。」(28:6)
神の民が、主に忌み嫌われるものを抱えたままでは、敵の前に立つことは出来ない。
その戦いは、必ず散々な目に遭うものだ。次のように書いてある。
ヨシュア記7:10 主はヨシュアに言われた、「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。
7:11 イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。
7:12 それでイスラエルの人々は敵に当ることができず、敵に背をむけた。彼らも滅ぼされるべきものとなったからである。あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。
7:13 立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる、「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」。
7:14 それゆえ、あすの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。そして主がくじを当てられる部族は、氏族ごとに進みいで、主がくじを当てられる氏族は、家族ごとに進みいで、主がくじを当てられる家族は、男ひとりびとり進み出なければならない。
7:15 そしてその滅ぼされるべきものを持っていて、くじを当てられた者は、その持ち物全部と共に、火で焼かれなければならない。主の契約を破りイスラエルのうちに愚かなことを行ったからである』」。
本来滅ぼされて仕方のないイスラエルの前に、さらに主の憐れみが注がれる。
28:9 その時そこに名をオデデという主の預言者があって、サマリヤに帰って来た軍勢の前に進み出て言った、「見よ、あなたがたの先祖の神、主はユダを怒って、これをあなたがたの手に渡されたが、あなたがたは天に達するほどの怒りをもってこれを殺した。
28:10 そればかりでなく、あなたがたは今、ユダとエルサレムの人々を従わせて、自分の男女の奴隷にしようと思っている。しかしあなたがた自身もまた、あなたがたの神、主に罪を犯しているではないか。
28:11 いまわたしに聞き、あなたがたがその兄弟のうちから捕えて来た捕虜を放ち帰らせなさい。主の激しい怒りがあなたがたの上に臨んでいるからです」。
南ユダ王国は確かに滅ぼされて仕方ない事を行った故に、たった一日で合計32万が取り去られてしまうような、甚大な災いを被ったが、しかし主は南ユダ王国のみならず、北イスラエル王国にも憐れみのわざをするチャンスを、預言者を通して与えられた。
主は北イスラエル王国の人々に対し、南ユダ王国の捕虜20万を「兄弟たち」と呼んだ。彼らに憐れみを施しなさい、と。
果たして北イスラエル王国は、その憐れみのわざを行った。
28:12 そこでエフライムびとのおもなる人々、すなわちヨハナンの子アザリヤ、メシレモテの子ベレキヤ、シャルムの子ヒゼキヤ、ハデライの子アマサらもまた、戦争から帰った者どもに向かって立ちあがり、
28:13 彼らに言った、「捕虜をここに引き入れてはならない。あなたがたはわたしどもに主に対するとがを得させて、さらにわれわれの罪とがを増し加えようとしている。われわれのとがは大きく、激しい怒りがイスラエルの上に臨んでいるからです」。
28:14 そこで兵卒どもがその捕虜とぶんどり物をつかさたちと全会衆の前に捨てておいたので、
28:15 前に名をあげた人々が立って捕虜を受け取り、ぶんどり物のうちから衣服をとって、裸の者に着せ、また、くつをはかせ、食い飲みさせ、油を注ぎなどし、その弱い者を皆ろばに乗せ、こうして彼らをしゅろの町エリコに連れて行って、その兄弟たちに渡し、そしてサマリヤに帰って来た。
このサマリヤの人たちが示した憐れみの行動、何か新約の、良きサマリヤ人のたとえを思い起こさせるキーワードが、たくさんある。
ルカ10:29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
10:30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
10:37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
北イスラエル王国は、アハズという強盗によって散々な目に遭った南ユダ王国の人々に対し、裸の者には着させ、くつをはかせ、飲み食いさせ、油を塗り、弱っている人を動物に乗せてはこび、エリコへと導いて、「隣人」となり、よきサマリヤ人になった。
これによって、どれほど主の憐れみが北イスラエル王国に、南ユダ王国に示された事だろう。
しかし南ユダ王国のアハズは、その主が示してくださった憐れみをもって悔い改めるのではなく、かえって、なにをしても赦されるのだと思ったのか、より主に忌み嫌われる方面へと進んでしまう事になる。