メッセージ - 悪人が滅びる法則 − 主に信頼して善を行う(エステル記7:7-10)
悪人が滅びる法則 − 主に信頼して善を行う(エステル記7:7-10)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エステル記
- 執筆 :
- pastor 2026-7-24 6:10
悪人が滅びる法則 − 主に信頼して善を行う(エステル記7:7-10)
メッセージ音声
【概要】
花嫁である私たちは、夫であるイエス様を第一に立て、慎ましくあるべきです。悪を行うハマンは自らが立てた柱にかけられましたが、神は正しい者を必ず輝かせてくださるので、悪に腹を立てず、主に信頼して善を行いましょう。
【聖書箇所】
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エステル7:7-10
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詩篇37:1-6
【慰めの言葉】
皆さんが今している主のための働きは、必ず主が見ておられ、主が時と場所を備えて輝かせてくださいます。どのようにかは分かりませんが、主は必ず皆さんを輝かしてくださいます。
【励ましの言葉】
私たちは、悪魔サタンの攻撃に対して自分の言葉や力で対応するのではなく、いつでも主人である王の王イエス様により頼み、「悪魔サタンがこういうことをしました」と訴えればよいのです。
【戒めの言葉】
人の顔色を伺いつつ、神様の顔を伺わないと、本当に決定的なところを見落としてしまいがちになります。私たちは間違った対応をしてはなりません。
【勧めの言葉】
私たちは、イエス・キリストに召し出されたからには、夫であられるイエス様を喜ぶ、イエス様を待ち望む花嫁となるべきです。エステルのように、いつでも王様を第一に立て、慎ましい態度でイエス様に望むべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
何か罪を犯したのであるならば、ただ「許してください」と言うだけでなく、「私はこれこれの悪いことをしました。もうしません。悔い改めます」と、自分の罪を認めて告白すべきです。
***詳細***
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記の7章7節から10節です。
エステル7:7 王は憤って酒宴の席を立ち、宮殿の園に出て行った。ハマンは、王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王が彼に災いを下す決心をしたことが分かったからである。
私たちはイエス様の花嫁であり、王妃の立場を得ています。しかし、その立場を訴える者がおり、また私たち自身も、花嫁と言いつつ油を用意していなかったり、居眠りをしたりする弱さがあります。花嫁は夫を愛するものです。今、私たちはイエス様を愛するものとして、ここに臨ませていただきたいと思います。
イエス様は私たちにとっての花婿ですね。夫を喜ばない花嫁がいるでしょうか。残念ながら、世の中にはいるのです。しかし、私たちはイエス・キリストに召し出されたからには、夫であるイエス様を喜び、待ち望む花嫁となるべきです。
聖書には十人のおとめ(花嫁)のたとえが出てきますが、そのうち五人は賢く、五人は愚かでした。愚かな五人は油を用意していませんでした。夫である方が来られる時の備えができていなかったのです。「夫はまだ来ないだろうから油は要らない」と思っていたのかもしれません。しかし、私たちは夫であるイエス様を第一に考え、たとえ夜中に来られてもいいように、ご自身の目から見てピカピカに光る灯火を掲げてお迎えできる、万全の態勢でありたいものです。
エステルは、この王様に対して常に「王様第一」でした。自分と自分の民族を救うためのお願いでさえも、「王様、もしもあなたがよろしければ」と、いつでも王様を第一に立てました。自分の主張ではなく、王様を立てたのです。真の妻たる者は、このように「もしあなたがよろしければ」という態度で、いつもイエス様に対して臨むべきです。
このエステルの訴えと願い事を聞いたハマンは震え上がり、王様は怒り、憤って酒宴の席を立ち、宮殿の園に出て行きました。王様は、怒りのあまり性急に判決を下さないように、クールダウンするために出て行ったのかもしれません。何しろハマンは王国のナンバー2であり、彼を突然処刑すれば実務的に困ることがあるでしょう。また、それまで王様とハマンは何度も酒を酌み交わす仲だったはずです。王様はある程度考えるため、あるいはどのように判決を下そうかと考えに行ったのかもしれません。
一方ハマンは、王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまりました。王が彼に災いを下す決心をしたことが分かったからです。王様の顔色をうかがうことにかけて、ハマンはピカイチでした。「ああ、この王様の表情は、自分に災いを下すと決心した顔だ」と分かったのです。人の顔色をうかがうのが上手い人が出世しやすい世の中ですが、人の顔色をうかがいつつも、神様の御顔をうかがわなければ、決定的なことを見落としてしまいます。
ハマンはエステルに命乞いをしようとしました。本来、命乞いは王様にするべきです。もっと聖書的に言うなら、王様のもとへ行き「私が悪かったです」と自分の罪を認めて告白するべきでした。しかしハマンは、王様ではなくエステルに、そして悔い改めではなく命乞いのためにとどまりました。彼は様々な間違った対応をしています。私たちは間違った対応をしてはなりません。
もし罪を犯したなら、イエス様ではなく誰か人に「私が悪かったです」と悔い改めるのではなく、「どうか命を助けてください」と、自分のしたことはさておき、罪には一切言及せず、ただ助けを求めるようなことをしてはいけません。
例えば、私が誰かに悪いことをしたとして、「許してください、許してください」とだけ言うのと、「これこれの悪いことをしました。もう今後しません」と言うのと、どちらを受け入れてもらえるでしょうか。後者ですね。神様に対しても同じです。ただ「許してください」ではなく、「私はこれこれの悪いことをしました。もうしません。悔い改めます」と告白すべきです。「もうしません」という言葉に自信がなくても、「どうかこの決心を聖霊様助けてください」と祈ればよいのです。
ハマンはそうせず、本来王にするべきことを妻であるエステルにしました。あくどい者は、いつも強い者ではなく、弱い者に取り入ろうとします。悪魔サタンは、創世記の時から、夫ではなく妻に攻撃を仕掛けるのが常套手段です。悪魔サタンはイエス様には攻撃できないので、私たち花嫁に攻撃を仕掛けてきます。しかし、私たちはその攻撃に自分の言葉や力で対応してはいけません。いつでも主人である王の王、イエス様により頼んで、「イエス様、悪魔サタンがこんなことをしましたよ」と訴えればよいのです。
エステル7:8 王が宮殿の園から酒宴の広間に戻って来ると、エステルのいた長椅子の上にハマンがひれ伏していたので、王は言った。「私の前で、この家の中で、王妃までも辱めようとするのか。」このことばが王の口から出るやいなや、人々はハマンの顔をおおった。(新改訳2017)
ハマンは命乞いのためにひれ伏していたのですが、その場所が問題でした。彼はエステルのいた長椅子、つまりベッドのようなものの上にひれ伏していたのです。時も場所もわきまえないハマンです。命乞いをしていたつもりのその行動が、彼を弁護するどころか、逆に彼を滅ぼす決定的な証拠となってしまいました。エステル記においては、いつもこのような逆転が起こります。そして、時と場所をわきまえることの大切さがよく分かります。私たちは自分のやりたい時、やりたい場所を強引に主張しがちですが、そうではなく、神様の時、神様の場所を求めるべきなのです。
王様は「王妃までも辱めようとするのか」と言いました。この「辱める」と訳された言葉は、「征服する」「押さえつける」「力ずくで屈服させる」という強い意味を持つ単語です。王様には、この危機的な場面でハマンがエステルに性的な暴行を加えようとした、と見えたかもしれません。あるいは、この期に及んでなお、エステルを力で屈服させ、支配下に置こうとしているように見えたのかもしれません。ハマンがこれまで多くの人にしてきたように、ナンバー2の地位をかさに着て、力ある言葉で押さえつけようとしている、と。結局、王様の目に映ったハマンの姿は、さらなる「押さえつけ」だったのです。
自分の罪を悔い改めず、認めない者は、永遠に赦されることがありません。イエス様の十字架の左右にいた強盗のうち、右側の強盗は「イエス様、私は罪を犯しました。この刑罰は当然です」と言い、「あなたの御国の王座に着くときには、私のことを思い出してください」とイエス様に願いました。そして彼はパラダイスへ行くことになりました。しかし、左側の強盗は最後まで自分の罪を告白せず、むしろイエス様に「お前はメシアではないか。自分と私たちを救え」と指図しました。自分の罪を認めず、受けるべき刑罰から逃れようとしたのです。ハマンも同じ性質です。最後の最後まで自分の罪を告白せず、悔い改めもせず、力で屈服させようとしました。これは、パラダイスを逃してしまう人の特徴です。私たちはそうであってはなりません。
王様の言葉が出ると、ハマンの顔は覆われました。新改訳2017年版では「ハマンの顔は青ざめた」となっていますが、直訳的には「覆われた」です。かつてモルデカイの顔を曇らせようとしたハマン自身が、今や顔を上げられなくなり、人々に顔を覆われるような、王の前で青ざめる者となりました。箴言にある通り、「穴を掘る者は、その穴に自分が落ち込む」のです。
エステル7:9 そのとき、王の前にいた宦官の一人ハルボナが言った。「ちょうど王に良い知らせを告げたモルデカイのために、ハマンが用意した高さ五十キュビトの柱が、ハマンの家に立っています。」すると王は命じた。「彼をそれにかけよ。」
エステル7:10 こうして、ハマンがモルデカイのために用意したあの柱に、ハマンがかけられた。それで王の憤りは収まった。
王様は、ハマンをもっと穏便に扱おうとして戻ってきたのかもしれません。しかし、戻ってきた時のハマンの態度を見て、「彼をそれにかけよ」と命じました。宦官の一人ハルボナが、ずっと見ていたことを告げます。ハマンが50キュビトもの高い柱を立てたこと、そしてその動機が、王に良い知らせを告げたモルデカイを処刑するためであったことを。モルデカイにとっては危機的な状況でしたが、実はこの柱こそが、さらに王の怒りを買い、ハマンの破滅を決定的にする材料となったのです。王は、自分の命を救ってくれたモルデカイを殺害しようと企んでいたハマンの悪意に満ちた計画を知り、「彼をそれにかけよ」と命じたのです。
悪い計画は、秘密裏に行われ、悪意を企む者の方が正直者より強いように見える時があります。しかし、神様の前では隠されていることは何もありません。神様は、正しい人を立て、その良い行いに報いるために、時を備え、人を備えて待っておられます。神様はハルボナという人を備え、ハマンの悪事を逆転させる時を備えておられました。
そしてハマンは、その50キュビトの柱にかけられます。この異常な高さは、単にモルデカイを処刑するだけでなく、見せしめにするためでした。しかし結局、その高さこそが、ハマン自身の悪意の高さを多くの人々に知らしめることになったのです。人を辱めるために立てた看板が高ければ高いほど、あるいは人を非難する声が大きければ大きいほど、実は自分自身の悪を宣伝し、自分のお里を知らせているだけなのです。私たちは、人を訴え、あげつらい、あざける声を高くしてはなりません。そうすればするほど、自分自身の悪意を宣伝することになってしまうからです。人は種を蒔けば、その実を刈り取ることになります。
だから私たちは日々、エステルのように慎ましい花嫁として、声を荒げるのではなく、イエス様に対して「王様、もしもあなたがよろしければ」とへりくだるべきです。エステルは「この悪だくみをしたのは、この悪いハマンです」と一度告げた後、何も語っていません。私たちは唇で主張するのではなく、王妃として、花嫁としての立ち居振る舞い、優雅で、おしとやかで、イエス様の前に慎ましい姿を態度で示すべきです。そして、訴えてくる悪魔サタンに対しては、エステルのように「この悪どい者がこれをしました」と、はっきりと王様に訴えるべきです。王様以外の者に訴えても、それはただの愚痴になるだけです。しかし、神様に訴えるなら、それは祈りとなり、王であるイエス様が正しく事をなしてくださいます。
最後に、詩篇37篇1節から6節を宣言します。
詩篇37:1-6 悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだから。主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように、あなたの正しさを真昼のように輝かされる。
悪を行っている者は、雑草が生い茂るように栄えているように見えますが、主にあってその滅びは一瞬です。しかし、主に信頼して善を行う者は、鷲のように高く上り、若々しくなっていきます。「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」モルデカイの義は、それまでずっと覆われていましたが、ここぞというタイミングで、光のように、真昼のように輝かされました。
皆さんも同じです。皆さんが今している主のための働き、礼拝の備え、御言葉の働きは、必ず主が見ておられ、主が時と場所を備えて、本当に輝かせてくださいます。どのようにかは分かりませんが、主は必ず皆さんを輝かしてくださいます。この望みに立ち、エステルのように、日々、王の王なるイエス様の前に慎ましく、そして悪に対しては力強く、凛々しく、この世で栄えていく皆さんでありますように。
【結論】
悪を行うハマンは、自らが用意した滅びの道具によって滅びました。私たちは、人の顔色ではなく神の御顔を仰ぎ、悪に腹を立てることなく、ただ主に信頼し、善を行うべきです。そうすれば、主が私たちの義を真昼のように輝かせ、全てのことを成し遂げてくださいます。エステルのように、夫であるイエス様を第一に立てる慎ましい花嫁として歩みましょう。
