メッセージ - 死の法則に対し王に執り成す花嫁(エステル記8:1-6)
死の法則に対し王に執り成す花嫁(エステル記8:1-6)
メッセージ音声
【概要】
ハマンが滅び、モルデカイとエステルが権威を得ましたが、ユダヤ人絶滅の法令はまだ生きていました。エステルは再び命がけで王にとりなし、自分の民の救いを涙ながらに懇願しました。私たちも、エステルのようにとりなしの祈りを捧げる者となりましょう。
【聖書箇所】
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エステル8:1-6
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伝道者の書2:26
【慰めの言葉】
神様は、神の民が祈り、心を注ぎ出してきたことを決して無駄にはされません。人生の局面は、神様が動かれるときに大きく変わるものです。
【励ましの言葉】
悪人の財産は正しい者のために蓄えられます。私たちは自ら復讐する必要はなく、主の正しい裁きに任せれば、主が正しい時に正しい方法で物事をひっくり返してくださいます。
【勧めの言葉】
私たちに与えられている権威があるなら、それを神様のために、神の民を救うために用いるべきです。また、エステルのように、迫害されているクリスチャンやまだ救われていない人々のために、とりなし祈るべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
神様の御前に進み出る時、馴れ馴れしい態度ではなく、慎みと尊敬の念をもって祈るべきです。私たちの鈍着な思いと心を憐れんでいただき、他者の魂のために心痛める者となれるように祈りましょう。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記8章1節から6節です。
最初に1節と2節を宣言します。「その日、アハシュエロス王は王妃エステルに、ユダヤ人を迫害する者ハマンの家を与えた。モルデカイは王の前に出た。エステルが自分と彼との関係を明かしたからである。王は、ハマンから取り返した自分の指輪をはずして、それをモルデカイに与え、エステルはモルデカイにハマンの家の管理を任せた。」(エステル8:1-2)
愛するイエス様、王の王であられるあなたの御前に私たちは来ております。どうか私たちの思い、心、まずあなたの十字架の上で苦しまれ、流されたその血潮をもって私たちを清めてください。思いの中にある諸々の罪、汚れ、苦々しさ、それらすべてを取り除き、ただ真っ白になって、雪よりも白くなって、そして御前に進み出る私たちとならせてください。今、取り次ぐ僕の唇を血潮をもって清め、また聴く一人一人の耳を清めてください。これからのすべては、ただあなたの栄光でありますように。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ!素晴らしい主イエス・キリストの御名をほめたたえ賛美いたします。このエステル記は本当に、神の民がそれまで祈ってきたこと、御前において本当に心を注ぎ出してきたこと、それはすべて決して無駄にはならないということと、また神様は時を備えておられ、正しい者には報いを、また悪人で神様を知らず、神様に逆らう者に対しては、時にかなった裁きを行う主であるということが、このエステル記から分かります。エステル記には「神」また「主」という文字が一つもありませんが、しかし神様が確かにそのことをなされるということが分かるんですね。
今日の箇所、8章1節では「その日、アハシュエロス王は王妃エステルに、ユダヤ人を迫害する者ハマンの家を与えた」とあります。「その日」、何も変わらなかった状況が、その日のうちに、一日のうちに大きく変わりました。その日の朝までハマンの家だったその家は、その日、エステルのものになりました。そしてエステルはそれをモルデカイに管理を任せるようになりました。人生の局面というものは、神様が動かれるとき大きく変わるものです。冒頭で宣言しましたし、また箴言にも書いてある通り、悪人の財産は正しい者のために蓄えられていくものです。奪い取らなくていいんです。私たちが積極的に責めなくても、主がすべての物事をひっくり返されるお方であり、すべての復讐は主のものです。私たち自身の手で復讐するものではありません。主の正しい裁きに任せていれば、主は正しい時に正しい方法で、誰も文句を言えない形で、主がそれを正しく裁いてくださるんです。
モルデカイは長らく王の門のところにいましたが、しかしこの日、モルデカイは王の前に出ました。主ご自身が人を低くし、また高くしてくださるんです、ちょうど良い時に。そして、エステルはついにモルデカイと自分との関係を明かしました。この隠されていた関係は長らく隠れていましたが、それが明かされて、今度はこのモルデカイが王の前に正しく導かれてきました。
2節の方では、「王は、ハマンから取り返した自分の指輪をはずして、それをモルデカイに与え」とあります。この指輪は、ただ単なる装飾品ではありません。これはハンコです。王の印です。王の権威の象徴です。これをもともとハマンの指にはめられていたものを王が取り返して、今度はそれをモルデカイに与えました。ハマンはそれまでユダヤ人を滅ぼすため、神の民を滅ぼすため、そのような悪いことのために用いていた権威でしたが、今やハマンはもう死んで、そして今度はこれがモルデカイに、今度はユダヤ人を救う側、神の民を救う側に権威が手渡されました。
確かに世の中を見ていると、神の民を殺そうとする者たちが力を振るっているかのように見えるかもしれませんが、しかし本当に主は、主をより頼む者に対して、その祈りをしっかりと聞いておられます。「主を仰ぐ者は昇る」と先ほど賛美しました。神様はこのことを長らく放置しておかれるお方ではありません。ただ、恵みのゆえに一人でも多く救われるために裁きを遅くしておられますが、しかし神様はしっかりと主の時に神の民を高く引き上げてくださいます。このもともとハマンの手にあった指輪が、今度は神の民を救う側、モルデカイの手に渡されたのと同じことが、やがて起こるでしょう。
私たちは本当にこの与えられている権威、力があるのであるならば、それを何のために用いるか、これがとても重要です。ハマンは与えられた権威を、神の民を滅ぼすことに用いました。けれども、モルデカイはそれを神の民を救う側に用います。私たちも今、権威が与えられているとするのであるならば、それを一体何のために用いるのか。当然、神様のために用い、また神の民を救うものとして用いるべきです。
このようにしてアハシュエロス王は王妃エステルにこのハマンの家を与え、そしてエステルはモルデカイにハマンの家の管理を任せました。「神は、罪人には、神がよしとされる人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられる。」(伝道者の書2:26)まさにそのようになされたのが、これが成就したのが今日のこの箇所です。
ハマンはこうして死んで、一見すると問題が解決されたかのように見えますが、しかし、まだ解決されていないんです。というのは、まだハマンがつけた火が燃え盛っているからです。敵本人はいなくなったんですけど、しかし、敵が残した命令がまだ残っているんです。このメディア・ペルシアの法令というものは、一度発布されたら、それは誰も取り消すことはできません。王様でさえそれは取り消すことはできません。
そこでエステルが王様に懇願するんですね。3節です。「エステルは、足もとにひれ伏して、アガグ人ハマンがユダヤ人に対して企んだわざわいと、そのたくらみを取り除いてくれるように、泣きながら懇願した。」と書いてあります。エステルは一度、王の前に命がけで出ましたが、もう一度命がけで王の前に出て、王様がもしその王の笏を差し伸ばしてくれなかったら死ぬ、という命がけの懇願を再びしました。これは別に、エステルが王様を軽んじて、「私だったら過去に一度許されたから、また進み出られるだろう、いつでも進み出られるだろう」という、そういった思い上がりではなく、今度はとりなしのために、自分の民、神の民を救うために命がけで出たのです。
実際にエステルはとても言葉を慎重に選んでいます。5節を見ますと、「もしも、王様、よろしくてお許しが得られ、このことを王様が最善とおぼしめされ、私をお受け入れくださるなら、アガグ人ハムダタの子ハマンが、王のすべての州にいるユダヤ人を滅ぼしてしまえと書いた、あのたくらみの書簡を取り消すように、詔書を出してください。」エステルは感情的にはいきませんでした。泣いてはいました。エステルは泣いてこのことを言ったというふうに書いてあるんですけども、けれども感情で怒涛のように言葉をまくしたてたわけではなかったんですね。本当に言葉を慎重に慎重に選びながら、そしてその上で、本当にもう心の中では泣きながら、「どうかこのユダヤ人を抹殺する命令を取り消してください」と、そういうふうに語りかけております。私たちも正しいことを語る時こそ、言葉を慎重に選ぶべきです。「柔らかな答えは憤りを静める」と箴言に書いてあります。エステルは本当にこの自分の言葉をよくよく慎重に選んで王様に訴え出ました。
6節、「どうして私は、私の民族にふりかかるわざわいを見て、がまんしておられましょう。また、私の同族の滅びるのを見て、がまんしておられましょうか。」「どうして見ることができるでしょうか」という言葉を繰り返して、本当にエステルの思いが反復して強調されております。この自分の民の救いのためにとりなして祈ること、これは本当に私たちもするべきことです。モーセもしました。モーセはこの自分の民が金の子牛の像を作って、踊り騒いでいたのを、とりなして、「どうかこの罪を犯した民を許してください」と神様にとりなし祈りました。またパウロもローマ人への手紙で、自分の同族ユダヤ人が救われることを本当に願っている、自分がたとえ地獄に行ったとしても、それでもユダヤ人が救われるのであるならば、私はそれもまた本望だとまで言ったんですね。
エステルも同じです。自分は安全な立ち位置にいる、自分は救われたけれども、私の民は一体どうなるのか、その本当に腸がちぎれる思いで自分の家族、自分の同胞の救いのためにこのようにとりなして進み出ました。命がけで進み出ました。私たちも本当に自分の同胞、今迫害を受けているクリスチャンのために祈るべきであり、そしてまだ神様を知らないこの土地の人々のためにも、本当にこのようにとりなして祈っていくべきです。エステルは「主よ、私だけでなく、あの人も救ってください」その志を持って、泣きながら進み出ました。そして王様にお願いする時は本当に慎重に言葉を選びました。私たちも本当にこの神様の御前に進み出る時、エステルのように神様に対して馴れ馴れしい態度ではなく、本当にこの慎ましく主の御前に、尊敬の念を込めて進み出て、そして祈るべきです。「あの人を救ってください。あの人を癒してください。また、今この神様を知らない土地の人々に本当に届いてください。救ってください。」私たちはどのようにすればよいか、本当に祈り求めていくべきです。
今日の箇所においてわかること。まず1節2節の方を見ますと、本当にそれまでハマンが持っていた権威の象徴は、モルデカイに移りました。神様はいつまでも悪人が権威を持って栄えているのを見過ごしにはしておられません。ただ、祈り求めるということを私たちはするべきです。エステルは王の前に嘆願して進み出ました。私たちも人の救いのために、また神の民の守りのために、癒されるために、必要が満たされるために、本当に日ごと祈り求めていくべきです。
私たちに対しても、神様は今日も、金の笏が差し伸べられております。私たちは大胆に恵みの御座に進み出て、折にかなった助けを得るために、主に祈り求める特権が与えられております。今日も祈っていきましょう。そして皆さんお一人お一人、今与えられている権威、特権があるとするならば、それを本当に神様の御国のために行使し用い、また私たち自身も本当にこの神の民のために、また救いのために祈り求めていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
ハマンの死によって問題が解決したかに見えましたが、ユダヤ人絶滅の法令はまだ有効でした。エステルは再び命をかけて王にとりなし、慎重な言葉と涙をもって同胞の救いを懇願しました。私たちも、エステルのように自分の安全だけでなく、他者の救いのために、とりなし祈る者でありたいと願います。神は祈り求める者に耳を傾け、悪の権威を打ち砕き、正しい者にその力を与えられます。私たちに与えられた権威や特権を神の栄光のために用い、救いを必要とする人々のために祈り続けましょう。
