メッセージ - 極限的な悲劇のどん底で主を最高にほめたたえたヨブ(ヨブ1:13-22)
極限的な悲劇のどん底で主を最高にほめたたえたヨブ(ヨブ1:13-22)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2026-8-17 12:50
極限的な悲劇のどん底で主を最高にほめたたえたヨブ(ヨブ1:13-22)
メッセージ音声
【概要】
ヨブは一日にして財産と十人の子供すべてを失うという悲劇に見舞われます。しかし、その絶望的な状況下で彼は神を呪うどころか、地にひれ伏して「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と礼拝しました。
【聖書箇所】
ヨブ1:13-22
黙示録13:13
ヨハネ14:27
【慰めの言葉】
イエス様を信じているなら、この世の何物にも揺るがされない平安を得ることができます。どんな災いが起ころうとも、決して平安を失うことはありません。
【励ましの言葉】
私たちの本性が礼拝者であるならば、悪魔サタンの試練は、私たちの本性を明らかにし、神の栄光を現す機会となります。主ご自身が私たちの財産であるなら、何が起ころうとも決して失われない祝福の源を持ち続けることができます。
【勧めの言葉】
人生のハイライトをこの世の飲み食いではなく、主と共に歩み、主を礼拝することに置きましょう。そして、子供たちが自分自身の信仰でしっかりと立てるように、信仰において自立するよう育てていきましょう。
【***詳細***】
ハレルヤ、素晴らしい主の御名を褒め称え、賛美いたします。ヨブ記の学びを続けます。前回、私たちは天の裏舞台、天上での会議を見ました。そこに神の子らと共にサタンも来て、神様にこう言いました。「ヨブがあなたを恐れるのは、あなたが祝福を与えているからだ。その囲いを取り上げてごらんなさい。そうすれば彼は本性を現してあなたを呪うでしょう」。サタンは理由もなくヨブを試そうとしたのです。もちろん、ヨブ自身はこの天上での会話を一切知りません。
しかし、今日の箇所でヨブは、このサタンの告発に対して明確な答えを出します。神様が祝福の囲いを取り去ったとしても、それでもなお神様を礼拝するという答えです。天上の会議で決まったことが、地上において現実となり、ヨブに降りかかってきます。
ヨブにとっては、いつもと変わらない一日が始まりました。しかし、その一日のうちに、嵐のような災いが次々と彼を襲います。
13節から見ていきましょう。「ある日、彼の息子、娘たちが一番上の兄の家で食べたり、ぶどう酒を飲んだりしていた時、一人の使者がヨブのところにやって来て言った。『牛が耕し、そのそばでロバが草を食べていると、シェバ人が襲いかかってこれを奪い取り、若い者たちを剣の刃で撃ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。』」
最初の災いはシェバ人という、人間の悪意によるものでした。人の欲望や悪意を、サタンは利用して人に災いを下すことがあります。私たちは悪意を持ってはなりません。悪意を持つとき、そこにサタンが働き、悪魔に加担することになってしまいます。サタンは天上会議から出て行くと、早速この人の悪意に手をつけてヨブを打ったのです。
「この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。『神の火が天から下って、羊と若い者たちを焼き滅ぼしました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。』」(ヨブ1:16)。
二番目の災いは「神の火」です。「神」と訳されているヘブライ語は「エロヒム」ですが、これは唯一の神様を指すこともあれば、天使たちのような崇高なる存在を指すこともあります。天上会議に集まった「神の子ら(ベン・ハ・エロヒム)」の中にはサタンも紛れ込んでいました。つまり、この火はサタン由来の火です。黙示録13章13節にも、獣が天から火を降らすしるしを行うと書かれているように、サタンは神を装って人を惑わすことがあるのです。
「この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。『カルデア人が三組になってラクダを襲い、これを奪い取り、若い者たちを剣の刃で撃ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。』」(ヨブ1:17)。
ここでもカルデア人という、人の悪意が用いられました。そして、最も辛い一撃がヨブに下されます。
「この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。『あなたのご子息ご令嬢たちは、一番上のお兄さんの家で食べたり、ぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野の方から大風が吹いてきて、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、皆様亡くなられました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。』」(ヨブ1:18-19)。
なんと、ヨブは十人の息子と三人の娘たちを、一日にして、一度に失ってしまったのです。しかも、子どもたちが長男の家で宴会を開き、食べたり飲んだりしている、その真っ最中の出来事でした。これはヨブにとって、あまりにも辛い知らせでした。
この子供たちは、父親であるヨブの守り、つまり「主の囲い」の外側にいたのかもしれません。彼らの人生のハイライトは、互いに行き来して食事をし、ぶどう酒を飲むことでした。私たちの人生のハイライトは何でしょうか。この世の飲み食いではなく、「主に仕えた」という一行が刻まれる者でありたいものです。主の囲いの内側にいる人は、主と共に歩むことを喜びとします。
サタンは神様に「あなたが(ヨブの)周りに囲いを設けたではありませんか」と言いました。そして神様はサタンに「彼のものには手を出してよいが、彼自身にだけは手を触れてはならない」と言われました。ヨブ自身にはまだ主の囲いがあったのです。しかし、残念ながら、彼の子供たちにはそれがありませんでした。北王国のヤロブアム王の物語を思い出します。彼は偶像礼拝に走りましたが、息子のアビアだけは「良いものがあった」と認められ、父の王国が滅びる前に天に召され、王の子としてきちんと葬られました。しかし他の子供たちは悲惨な死を遂げました。私たちは、子どもたちがダニエルやその友人たちのように、またルツやエステルのように、自分自身の信仰でしっかりと立てるように育てていく責任があります。
さて、すべてを失ったその瞬間、ヨブはどうしたでしょうか。
「この時、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、」(ヨブ1:20)。
上着を引き裂き、頭を剃ることは、当時、最も深い悲しみを表す行為でした。ヨブは本気で悲しんだのです。悲しむことは不信仰ではありません。イエス様もラザロが死んだ時、涙を流されました。信仰とは、悲しまないふりをすることではなく、悲しみのただ中にあっても、神様に心を向け続けることです。
しかし、ヨブは悲しみだけで終わりませんでした。彼は悲しみの底で、「地にひれ伏して礼拝した」のです。ここに、ヨブの最も深い本能が、呪いではなく「礼拝」であったことが現れています。人は、いざという時に本性が現れます。ヨブの本性は礼拝者でした。悪魔サタンの試練は、私たちの本性を明らかにします。いざという時、呪いやつぶやきではなく、礼拝が出てくる者でありましょう。
さらに彼はこう言いました。「『私は裸で母の胎から出てきた。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」(ヨブ1:21)。
ヨブは、自分は何も所有していなかったこと、財産も健康も家族も、すべては神様からの預かり物に過ぎなかったことを告白しました。だから、主がその囲いを取り上げたとしても、つぶやくことなく、「主の御名はほむべきかな」と賛美したのです。ヘブライ語の原文では「メボラク」という、祝福するという意味の言葉の最も強い強調形が使われています。これは、口先だけの言葉ではなく、心の底からの絶叫としての賛美でした。サタンは「囲いを取れば、彼はあなたを呪うでしょう」と軽々しく言いましたが、ヨブの本気の賛美は、サタンの面目を完全に失わせたのです。
「これらすべてのことにおいても、ヨブは罪を犯すことなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。」(ヨブ1:22)。ヨブにとって本当の財産は、牛や羊ではなく、主ご自身だったのです。私たちも、主ご自身を自分の財産とするなら、たとえ地上のものを失ったとしても、祝福の源であるお方ご自身を失うことは決してありません。
今日賛美した「静けき川の岸辺を」の作詞者、ホレイショ・スパフォードも、ヨブのような経験をした人です。19世紀アメリカの成功した弁護士で、熱心なクリスチャンでしたが、一人息子を病で失い、シカゴの大火で全財産を失いました。心を癒すためのヨーロッパ旅行の直前、仕事で家族を先に行かせたところ、妻と4人の娘たちが乗った船が大西洋で沈没。娘たちは全員亡くなり、妻だけが助かりました。妻からの「私だけが助かりました」という電報を受け、彼はすぐに後を追います。その航海の途中、船長が彼を呼び、「今、あなたの娘さんたちが沈んだ海域の真上を通過しています」と告げました。彼は暗い海を見つめ悲しみますが、不思議と心は平安でした。彼は「いや、娘たちは下にいるのではない、上にいるのだ」と感じ、その平安の中で、あの有名な賛美歌の歌詞 "It is well with my soul" (わが魂には幸あれ) を書いたのです。たとえサタンが群がり襲ってきても、心は安らかである、と。
スパフォードもヨブも、すべてを失ったように見えましたが、キリストご自身、主ご自身を持っていました。だからこそ、すべてを失ってもなお、主を礼拝できたのです。これは彼らだけの特権ではありません。イエス様を信じている皆さん自身の特権でもあります。イエス様を持っているなら、この世の何ものにも揺るがされない平安を得ることができるのです。
イエス様は言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのと同じようではありません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れひるんではなりません。」(ヨハネ14:27)。
イエス様こそが、決して失われることのない平安の源です。このお方をしっかりと握りしめているなら、どんな災いが来ようとも、平安を失うことはありません。
【結論】
ヨブの試練は、彼の信仰が神からの祝福という見返り目当てのものではなく、神ご自身に向けられた本物のものであることを証明しました。彼はすべてを失った悲しみのどん底で、呪いではなく礼拝を選び、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白しました。これは、彼の本当の財産が主ご自身であったからです。私たちも、イエス・キリストという決して失われない平安の源を持つ者として、どんな状況でも主を礼拝し、その御名をほめたたえる者でありましょう。
