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父・子・御霊がひとつとなり、私達とひとつとなる(ヨハネ14:6-21)
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父・子・御霊なる、三位一体の神の性質と役割が、ヨハネ14章に示されている。
御子なるイエス様があかしされた。

14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
14:7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

イエス様こそ、私達を父の元へと導く事の出来る、唯一の道である。イエス様こそ、真理、命である。
そしてイエス様を知った者は、父を知った、とイエス様は宣言された。
しかし人は、見なければ満足しない。

14:8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。

ピリポは父を、まだ見ていない、と思い込んでいた。
しかし、そうではない。「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と、イエス様が言われた通り、「イエス様とは別者なる父」ではないのだ。
イエス様を見たものは、父なる神様を見たのであり、イエス様を知った者は、父なる神様を知ったのである。

14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。

イエス様を信じる者は、わざが、実体となって来る。
イエス様のわざを見て多くの人が信じたように、私達も、イエス様のわざ、それも、もっと大きな業を行う。
なぜなら、イエス様が、父なる神のもとに行くからである。

14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

 父は、御子キリストによって、助け主聖霊をつかわされる。
15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

そして、助け主聖霊は、イエスキリストをあかしする。
14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

キリストは御父におり、御父から聞くままを為す。キリストを見た者は、御父を見たのである。
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

そして私達も、あかしするのである。
Joh 15:27  あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
こうして、父子御霊の三位一体の主と、私達がひとつとなり、この地上において主のわざを行い、広めて行くのである。

14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
14:21 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。
 

イエス様の名前によって父なる神に祈る(ヨハネ16:23-27)
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週報/メッセージ(説教)概要

 人は「願う」「求める」という事をする。人にはそれぞれ欲しいものがあり、必要なものがあるからだ。しかし、その動機と相手は必ずしも正しいとは限らず、たとえ願っている事が叶えられたからと言って、本人や周囲が必ずしも祝福されるわけでもない。間違えた動機・間違えた相手に祈り求めるなら、かえって、呪われた結果になってしまう。私達は誰に対し、どのような事を願い求めるのが良いのかを、本日探って行きたい。

人はよく「神様」に願い祈る。ではその「神様」とは、一体誰だろう。この世に「神々」と言われるものはあるにしても、私達には、唯一なる天の神がおられるのみである。(1コリント8:5-6) 多くの人々は偶像に願い求め、供え物を捧げているが、偶像は、何か崇高な神ではなく、何か意味のあるのでもない。
実は、偶像に祈り、願い求め、犠牲を供えるのは、悪霊達に願い求め、供えているのだ。(同10:19-20)
悪霊に願って、何かが叶えられたとするなら、それは所詮、闇からのものであり、必ず呪われた結果となる。
私達が祈るべき相手、それは全てを創造された、父なるまことの神である。その神は元々、私達を創造する前から、御前できよく、傷のない者にしようと、キリストにあってあらかじめ定めておられた。すなわち神の似姿として、キリストの花嫁として、神と「父子関係」となるように創造された。(創世記1章、エペソ1:3-5)
ところが人は、父なる神から離れ、自分勝手に歩んで行った。神から離れた人の願う事は、身勝手で破壊的で、自堕落なものである。それで世界は、誰か力ある者達の、欲しいままの欲望の圧政下にあるのだ。

人の本来あるべき姿は、まことの神と「父と子」の関係を保ち続ける事である。父子関係は愛の関係であり、子は、父の言葉に服するものである。父に服している子が「お父さん」と呼ぶなら、父は答えざるを得ない。
しかし一体、罪のある欠けだらけの人間が、どうしてこの聖なる神と、父子関係を結ぶ事が出来るのだろう。
人が神の子になる・・・そのような途方も無いように思える手続きと認可は、万物を創造し、かつ成り立たせておられるお方の権威によって、すなわち、神のひとり子、イエス・キリストの御名によってこそ、実現する。
『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた…』(ヨハネ1:12)
彼、それは、神のひとり子・イエスキリストである。天地万物の源であられる彼の名、それこそ全てに勝る権威ある名である。神のひとり子・イエス様が御父に祈った祈りは、必ず聞き届けられた。(ヨハネ11:41-15)
私達も、このイエス様の御名を信じる事によって、神様と親密な「父子の関係」に入り、そうしてイエス様の名前によって祈るなら、その祈りは何でも聞き届けられる。(ヨハネ14:14、16: 23-26)
『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』(ヨハネ15:7-8) 「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(同15:16) 

聖書では、神様が「父」なるお方であると、何度も何度も繰り返されている。だから、私達が何かを願い、祈り求める相手は、全てを所有し支配しておられる神様であり、この神様と「イエス様の御名によって」父子関係を結んだ上で、求めるのが、祈り求める事の正しい手順である。イエス様が「こう祈りなさい」と言って示された「主の祈り」は、「天にましますわれらの父よ」という呼びかけから始まる。求める相手は、父なのだ。
確かに子供は親に何でも求めるものであるが、全てが全て、願った通りにかなえられるものではない。
イエス様もゲツセマネで、「父よ、この杯を過ぎ去らせて下さい」と願ったが、それでも「あなたの御心の通りになさって下さい」と祈った。父子関係は「愛の関係」であると同時に、子は、父の言葉に服すものである。
確かに私達は、イエス様にあって何でも祈り願う事は出来るが、最終決定権は父なる神にあり、彼のなさる事は全て最善である事を認める時、全能の神と親密な関係にある事の、絶大な平安の中に憩うのである。
だから主の祈りでは、「御国(神の支配)を来たらせたまえ」と、神の統治が全てに及ぶ事を求めるのであり、「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈る事で、自分の願いより、御父の御心が優先的に成就するように、と祈るのだ。天地を創造し、全てを見通し、私達の全てを知っておられる神様の御心が成る。それこそ私達も計り知れない最善が、自分の人生に、家庭に、仕事に、そして世界に成就する秘訣である。
イエス様の御名によって、神様と親密な父子関係に入り、全てにおいて平安となる皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
主が伝授して下さった祈り方(マタイ6:5-15)
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御前にきよさを保とうとする働き人を祝福される主(1歴代誌15:1-24)
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ダビデは前のウザの事件について、その失敗原因を総チェックした。
何を基準としてチェックしたのか。それは、御言葉によってである。
私達も、主のミニストリーを行う時、失敗したり災いが起こったり、栄えないままであるとするなら、御言葉を元にした総点検を行うべきである。

15:1 ダビデはダビデの町のうちに自分のために家を建て、また神の箱のために所を備え、これがために幕屋を張った。
15:2 ダビデは言った、「神の箱をかくべき者はただレビびとのみである。主が主の箱をかかせ、また主に長く仕えさせるために彼らを選ばれたからである」。
15:3 ダビデは主の箱をこれがために備えた所にかき上るため、イスラエルをことごとくエルサレムに集めた。
15:4 ダビデはまたアロンの子孫とレビびとを集めた。

ダビデは民数記4:15から、神の箱の正しい運び方を知った。
すなわち、まず祭司が神の箱を梱包し、その後にレビ人の、ケハテ族が来て、担ぎ棒で担いでそれを運ぶという方法である。
それで祭司とレビ人を呼び寄せた。

「神の箱をかくべき者はただレビびとのみである。主が主の箱をかかせ、また主に長く仕えさせるために彼らを選ばれたからである」
神の箱とは、神と人との契約のしるしであり、その中に入っているものは、主の命令が記された石の板、マナの入った金の壷、アーモンドの芽と花が吹いたアロンの杖である。
石の板は、御言葉そのものであり、マナは、神様が天から与えて下さった食物、すなわち、全て人に必要なものを満たして下さるしるしであり、芽を吹いたアロンの杖は、永遠の祭司のしるしであり、かつ、死からいのちを息吹いて下さる、いのちの源なる主のしるしである。
これを運ぶ人間は、神によって任職された人間でなくてはならず、また、御言葉にかなった方法でなくてはならない。
そしてその上で、その人は常に、そのつとめに当たる際には自らを清め、聖別された状態を保ち続けなくてはならない。

15:11 ダビデは祭司ザドクとアビヤタル、およびレビびとウリエル、アサヤ、ヨエル、シマヤ、エリエル、アミナダブを召し、
15:12 彼らに言った、「あなたがたはレビびとの氏族の長である。あなたがたとあなたがたの兄弟はともに身を清め、イスラエルの神、主の箱をわたしがそのために備えた所にかき上りなさい。
15:13 さきにこれをかいた者があなたがたでなかったので、われわれの神、主はわれわれを撃たれました。これはわれわれがその定めにしたがってそれを扱わなかったからです」。

ダビデは、奉仕のために神に選ばれた人達・すなわち祭司とレビ人を呼び寄せ、言った。
身を清めなさい、と。
そして、先に神の箱を運んだ者が「あなたがたでなかったので、われわれの神、主はわれわれを撃たれました」、と言った。
本当に私達も、主の働きをする奉仕者をよくよく選別すべきである。
そして選別したら、次にする事は、彼らの身を清める(聖別する)事である。

15:14 そこで祭司たちとレビびとたちはイスラエルの神、主の箱をかき上るために身を清め、
15:15 レビびとたちはモーセが主の言葉にしたがって命じたように、神の箱をさおをもって肩にになった。

レビ人達は、身を清めてから、神の箱を担った。
奉仕者は、常に、自分自身をきよい状態へと保ち続ける努力をすべきである。
ある職種は毎年それに相応しい技量が落ちていないかチェックするためにオーディションを受けなくてはならず、それに落ちてしまったなら、いかに何年それに勤めていたとしても、その勤めに入れない。
主の働きをする人も、同じである。
常に自らが主の御前にきよい状態であるかどうか。それを怠り、きよくないままで御前に仕えようとするなら、恐ろしい事が起きる。

レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
 10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。

アロンの子でさえ、主の命令である御言葉に反する捧げ方をした時、主の火によって焼き滅ぼされ、死んだ。
この事の直後、主がアロンに命じられた事は、奉仕する時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない、という事であった。(同9節)

 10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒(シェカール)を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。

もしかすると、アロンの子達は酒気を帯びた状態で、正当な判断できない状態で、奉仕に当たろうとしたのかもしれない。
濃い酒(シェカール)は、うきうきさせるもの、高揚させるもの、という意味がある。
主の奉仕者は、主のものではないもの、世のもので高揚した状態で奉仕に当たるとするなら、それはとても危険な状態なのだ。
次のように書いてある。
 10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
 10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。

もし、世の何かに酔った状態で主の勤めに入るなら、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができず、また主が語られたすべての定めを、人々に教えることができないのだ。

10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。

もし、主に近づく奉仕者が、相応しくないままで出たとしたら、災いがその者に降る事によって、主は栄光をあらわし、奉仕者がきよくして出るなら、主は大いなる喜びと幸いをもって、その栄光をあらわしてくださる。
主は、御前にへりくだり御言葉どおりに行おうとしたダビデを祝福された。
主は、誠実な心をもって御言葉を守り行う者を祝福し、大きな喜びをもたらしてくださるのだ。

主が敵を私達の手に渡して下さる時(1歴代誌14:1-17)
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前回の箇所では、ダビデは主に伺わずに御言葉を違反した事をして災いと見れるような事を被った。しかし主は、自信を失っているダビデを力づけられる。

14:1 ツロの王ヒラムはダビデに使者をつかわし、彼のために家を建てさせようと香柏および石工と木工を送った。
14:2 ダビデは主が自分を堅く立ててイスラエルの王とされたことと、その民イスラエルのために彼の国を大いに興されたことを悟った。

主はダビデに、ヒラムの王を通して、彼の王国を確たるものにしておられる事を悟らせた。
主がダビデを王として固く立たせられたのは、ダビデという一人の個人を喜ばせるためでなく、「その民イスラエルのために」、彼の国を大いに興されたのである。
私達も、主に用いられ富においても名声においても祝福されるとするならば、私達個人をを喜ばせるためでなく、神の国がこの地に満ちるためであり、神の民のためである。

14:3 ダビデはエルサレムでまた妻たちをめとった。そしてダビデにまたむすこ、娘が生れた。
14:4 彼がエルサレムで得た子たちの名は次のとおりである。すなわちシャンマ、ショバブ、、ナタン、ソロモン、
14:5 イブハル、エリシュア、エルペレテ、
14:6 ノガ、ネペグ、ヤピア、
14:7 エリシャマ、ベエリアダ、エリペレテである。

子どもたちが多く産まれるのは祝福であるが、妻を多く持つ事は、災いの元である。
事実、ダビデは後に、妻の故に、そしてその子供達のゆえに、多くの苦しい体験をしてしまう事になる事は第二サムエル記で学んだ通りである。

14:8 さてペリシテびとはダビデが油を注がれて全イスラエルの王になったことを聞いたので、ペリシテびとはみな上ってきてダビデを捜した。ダビデはこれを聞いてこれに当ろうと出ていったが、
14:9 ペリシテびとはすでに来て、レパイムの谷を侵した。

神の民・イスラエルにおける戦いにおいて、勝利する事は神の御胸である事は変わり無いのだが、しかし、どのように戦いに出るべきであるのか、そこは自分で勝手に考えて行動するなら、前回の事件のように、散々な目に遭ってしまう。
そこで、私達・神の民にとって重要な事は、主に伺う事だ。

14:10 ダビデは神に問うて言った、「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手にわたされるでしょうか」。主はダビデに言われた、「上りなさい。わたしは彼らをあなたの手にわたそう」。

彼が主に伺ったところ、主は「わたしは彼らをあなたの手にわたそう(ナタン)」と言って下さった。
この、敵を「あなたの手に渡す」という主の言葉を引き出す事、それが、神の民が戦う時の勝利の保証である。
ヨシュアの時代も、この宣言を主からいただいた時、イスラエルは戦いに出かけた。

ヨシュア記6:1 さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。
 6:2 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている(I have given into thine hand : ナタティ)。

このナタティの宣言、これが主の御口から宣言される時、その戦いは100%勝利し、そして敵のものは神の民の手に渡る。
その戦いの仕方は、世の方法とは全く違う。エリコの町の周囲を周りなさい、とか、バルサム樹の林の上で行進の音が聞こえたなら出て行って戦いなさい、とか、世の考え方で見るならあまりに無意味な、愚かな方法に見えるが、しかしそれを人の側が従順する時、目に見えない神の軍勢が進み行き、霊において既に勝利してくださり、結果、人が従順して出て行くときに、実体として勝利がもたらされる。

ダビデはいつも、主に伺い、出て行く事を旨としていた。それは、かなり初期の段階からそうだった。
ダビデがサウル王に追われていた時、彼の所に祭司エブヤタルが逃げて来た時から、早速主に伺う事をはじめた。

1サムエル記23:1 さて人々はダビデに告げて言った、「ペリシテびとがケイラを攻めて、打ち場の穀物をかすめています」。
23:2 そこでダビデは主に問うて言った、「わたしが行って、このペリシテびとを撃ちましょうか」。主はダビデに言われた、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」。
23:3 しかしダビデの従者たちは彼に言った、「われわれは、ユダのここにおってさえ、恐れているのに、ましてケイラへ行って、ペリシテびとの軍に当ることができましょうか」。

この時、ダビデはまず主に伺った。結果、その言葉は人の常識では考えられない事であり、人をおじけさせる事だった。
神にまず伺い、その言葉が人をおじけさせる事であり、それを聞いた人がそれに反する事を進めて来る時、神の言葉を優先させるべきである。
ダビデは、それをする人だったからこそ、神の民のために大いに用いられたのだ。

23:4 ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。
23:5 ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。


14:11 そこで彼はバアル・ペラジムへ上っていった。その所でダビデは彼らを打ち敗り、そして言った、「神は破り出る水のように、わたしの手で敵を破られた」。それゆえ、その所の名はバアル・ペラジムと呼ばれている。

14:12 彼らが自分たちの神をそこに残して退いたので、ダビデは命じてこれを火で焼かせた。
14:13 ペリシテびとは再び谷を侵した。
14:14 ダビデが再び神に問うたので神は言われた、「あなたは彼らを追って上ってはならない。遠回りしてバルサムの木の前から彼らを襲いなさい。
14:15 バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは行って戦いなさい。神があなたの前に出てペリシテびとの軍勢を撃たれるからです」。
14:16 ダビデは神が命じられたようにして、ペリシテびとの軍勢を撃ち破り、ギベオンからゲゼルに及んだ。
14:17 そこでダビデの名はすべての国々に聞えわたり、主はすべての国びとに彼を恐れさせられた。

 

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
たねまきのたとえの解釈(ルカ8:4-18)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
主の救いが明確におとずれるまで為し続けておくべき事(イザヤ62:6-12)
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御言葉ぬきの間違った熱心によって起きてしまった事件 - ペレツ・ウザ(1歴代誌13:1-14)
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前章まではダビデに多くの勇士たち、軍人達がともどもダビデの元に集まって、イスラエルという国の建て上げに必要な人・モノが集まって来た事を見た。
神の国は、ダビデが主人公ではなく、主である。歴代誌にはもろもろの王達が登場するが、全て、主に御胸にかなった事を求めた王は栄え、御胸にではなく自分の好き勝手に行った王達は廃れて行った。
今回、ダビデ王がその王国のはじめに、御言葉にかなわない事を行って、主に戒められた記事が記されている。

13:1 ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、
13:2 そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。
13:3 また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。
13:4 会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。

ダビデの前のサウル王の時代、神の箱はおろそかにされ、神の箱は、長い間、放置状態だった。

この時からさかのぼる事数十年前、サムエルがまだ若かった時、イスラエルは主を軽んじた故に、神の箱がペリシテに奪われてしまう、という事件があった。(2サムエル記4章)
しかし箱は、どの人間の手も借りず、ペリシテの地で多くの災いをもたらし、御者のいない牛車によってひとりでにイスラエルへと戻されたが、その戻された所のイスラエルの人々は、箱の中を見てしまうという「不敬」の故に、大勢の人々が倒れた。(同5-6章)
それ以来、神の箱はずっとアビナダブの家に安置され、そのまま何十年かが経過していた。

それを顧みて、エルサレムへ携え上って来よう、というのは、ダビデの主に対する熱心ゆえにその事を為そうという、正しい動機からである。
しかし、いかに主に対する熱心を動機としていても、正しい方法に基づかないなら、災いしてしまう事がある。

13:5 そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。
13:6 そしてダビデとすべてのイスラエルはバアラすなわちユダのキリアテ・ヤリムに上り、ケルビムの上に座しておられる主の名をもって呼ばれている神の箱をそこからかき上ろうと、
13:7 神の箱を新しい車にのせて、アビナダブの家からひきだし、ウザとアヒヨがその車を御した。
13:8 ダビデおよびすべてのイスラエルは歌と琴と立琴と、手鼓と、シンバルと、ラッパをもって、力をきわめて神の前に踊った。

ダビデは、今までにないアイデアを駆使し、盛大に神の箱を運んだ。
新しい牛車に神の箱を載せ、アビナダブの子達にその車を御させ、何万もの選り抜きの兵士と共に、色々な楽器を用いた洗練された賛美とダンスをもって主をほめたたえつつ運んだのだ。
かなり大掛かりで華やかなイベントが進行していたが、その盛り上がりが頂点に達した時、バケツで水をかけられてしまうような、その全部を覆してしまうような事が起こって、イベントは中止に追い込まれてしまう。

13:9 彼らがキドンの打ち場に来た時、ウザは手を伸べて箱を押えた。牛がつまずいたからである。
13:10 ウザが手を箱につけたことによって、主は彼に向かって怒りを発し、彼を撃たれたので、彼はその所で神の前に死んだ。
13:11 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。

なんと、運んでいた牛が、神の箱をひっくり返そうとし、それをウザが手をもって支えようとして神の箱に触れた途端、打たれて死んでしまったのだ。
「いい事」をしたはずのウザが、主に撃たれ死んでしまう・・・なぜこのような事が起きるのだろう。
かつて、主の箱が、御者のいない牛車に載せられて、ひとりでにイスラエルへと戻るように仕向けて下さった主は、今回、牛がひっくり返さないようにする事など、当然出来たはずである。
それなのになぜ、主は、大勢の人達が集っているイベントの真っ最中、しかも、その熱狂が最高潮に盛り上がっている時に、この事をおこされたのか。
現代の私達は、ここから、重要な主の警告を読み取るべきである。。

なぜこの事が起きたのか。
御言葉を探ってみると、実は、ダビデ達の側に、過ちがいくつもあった事に気づく。
再び1節からじっくりおさらいしたい。

『ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。』(1歴代誌13:1-3)

ダビデはここで「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば」と言っている。
つまり、「あなたがた」千人隊長や百人隊長が「先」で、「われわれの神、主」が「後」になっている。
人が先で、主の御名が後。この志が、まず一つである。

『会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。』(1歴代誌13:4-5)
この一大イベント企画は、社会的ステータスの高い軍人たちの賛同が得られ、多くの人達が動員された様子は記されている。

しかし、ダビデが主に伺ったとか、祭司やレビ人に相談を求めた、といった記述は見いだせない。もしも祭司やレビ人に相談していたら、絶対、牛車で運ぶような指示はしないはずである。(後述)
いかに多くの人達の賛同が得られても、また、何万人を動員するイベントが企画され実行されてしまっていても、主の御心を外して突き進んでしまうのは、危険だ。なぜなら、御言葉は「法則」であり、「これをすれば死ぬ」と言われている事をするならば、死んでしまうからだ。

彼らは、神の箱を運ぶ場合、どうするべきだったのだろうか。その場合の作法が、民数記4章に記されている。
『宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。』(民数記4:15)
つまり、神の箱は、大祭司の子孫によって梱包された上、レビ人のコハテ族が担ぎ棒で担いで運ぶものであり、この取り扱いを万一間違えるなら死人が出る恐れさえある事が記されている。
つまり、神の箱を、コハテ族以外の者に、それも牛車で運ばせるなど、とんでもない事だったのだ。

ダビデはこの度、主を第一とせず人間やイベント第一にするという間違いをし、祭司やレビ人など御言葉のエキスパートに聞かず、社会ステータスのある人々と合議し、その結果、御言葉ぬきの間違った熱心により、奉仕にアサインされてはならない奉仕者をアサインし、してはならない手段で主の契約の箱を運び、その結果、「ペレツ・ウザ」の事件が起きたのだ。
現代の私達も、よくよく注意すべきである。
イベント第一にしたり、御言葉のエキスパートより社会的ステータスのある人の意見を優先させたりして、御言葉を超えた事をもって、神の国の事業を進めようとするなら、主は何かしらの「ペレツ・ウザ」を起こされるだろう。
ダビデは、それを素直に受け止めて、省みた。

13:12 その日ダビデは神を恐れて言った、「どうして神の箱を、わたしの所へかいて行けようか」。
13:13 それでダビデはその箱を自分の所ダビデの町へは移さず、これを転じてガテびとオベデ・エドムの家に運ばせた。
13:14 神の箱は三か月の間、オベデ・エドムの家に、その家族とともにとどまった。主はオベデ・エドムの家族とそのすべての持ち物を祝福された。

ダビデは手段を間違えたが、しかし神の箱が急遽運び込まれたガテ人オベデ・エドムの家は、祝福を受けた。
つまり神の箱を運び入れる事は正しい事、祝福される事であると、主はサインを送られた。
ダビデの主を思う志は正しかったのだが、しかし、仕方が人間中心の、御言葉を侵犯したやり方だったのだ。

もしもダビデのこの度のイベントが、何の落ち度もなく進んで行っていたとしたら、どうだっただろう。
ダビデ達は確実に、御言葉に聞かない方向へと進んで行っただろう。
「なんとなく主に従っているつもり」と思い込みながら、実は御言葉を知らず、企画したイベントの成功や、人々の盛り上がりにばかり苦心して、突き進んで行く内に、御言葉が「してはならない」と警告している領域を侵犯するなら、滅びへと突き進んでしまうのだ。
これは、現代を生きる神の民である私達がよくよく留意すべき事である。
現代の私達が、クリスチャンイベント、礼拝イベント、伝道イベント、諸々の事を興すとするなら、それは主から出たもの・主を中心とするべきものである。
もし私達も、主が、そして御言葉が置き去りにされたまま、人の祭りに酔いしれるなら、何かしらの犠牲を伴う警告が与えられるものである。

王国を成就するために必要な人、事、モノを次々に備えてくださった主(1歴代誌12:1-40)
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12章は、ダビデが王になる前、まだサウルの勢力が活発だった時にもかかわらず、ダビデについた人達の目録である。
主は、ダビデにとって必要が迫られ時に、彼にとって必要な事、モノ、人を備えられた事が、はっきりと記されている。
集ってきた人達はみな、主の御心を知り、主の時をはかり、主に促されて、ダビデを助けに来た人達である。

12:1 ダビデがキシの子サウルにしりぞけられて、なおチクラグにいた時、次の人々が彼のもとに来た。彼らはダビデを助けて戦った勇士たちのうちにあり、
12:2 弓をよくする者、左右いずれの手をもってもよく矢を射、石を投げる者で、ともにベニヤミンびとで、サウルの同族である。

ダビデがチクラグ(ツィケラグ)にいた時といえば、ダビデがサウルを恐れてペリシテ人の地に逃れていた時である。
そのように、ダビデが最も恐れていた時期に、ダビデのもとに、サウルと同族のベニヤミン族の精鋭たちが、ダビデを助けるために来た。

続いて、時期的に少し遡って、ガド族の精鋭たちが、要害にいるダビデの元に来た人達が記されている。

12:8 ガドびとのうちから荒野の要害に来て、ダビデについた者は皆勇士で、よく戦う軍人、よく盾とやりをつかう者、その顔はししの顔のようで、その速いことは山にいるしかのようであった。
・・・
12:14 これらはガドの子孫で軍勢の長たる者、その最も小さい者でも百人に当り、その最も大いなる者は千人に当った。
12:15 正月、ヨルダンがその全岸にあふれたとき、彼らはこれを渡って、谷々にいる者をことごとく東に西に逃げ走らせた。

本当に頼もしい戦士達である。彼らはダビデが要害にいた時、すなわち、ダビデがサウル王に追われているという、情勢的にダビデが圧倒的不利、サウルが圧倒的有利な時期に、ダビデのほうについた。それはまさに、彼らは主の御心と、主がこれからなさる事をわきまえていたからである。

12:16 ベニヤミンとユダの子孫のうちの人々が要害に来て、ダビデについた。
12:17 ダビデは出て彼らを迎えて言った、「あなたがたが好意をもって、わたしを助けるために来たのならば、わたしの心もあなたがたと、ひとつになりましょう。しかし、わたしの手になんの悪事もないのに、もしあなたがたが、わたしを欺いて、敵に渡すためであるならば、われわれの先祖の神がどうぞみそなわして、あなたがたを責められますように」。

サウルに追われて要害にいた時期のダビデとしては、サウルと同族の者達が来た、となると、当然心配しただろう。
普通なら門前払いするか、あるいはサウルのような疑心暗鬼に駆られるとするなら、厳しい追求をするであろうが、ダビデは「われわれの先祖の神」に委ねた。
すると、主が答えてくださる。

12:18 時に霊が三十人の長アマサイに臨み、アマサイは言った、/「ダビデよ、われわれはあなたのもの。エッサイの子よ、われわれはあなたと共にある。平安あれ、あなたに平安あれ。あなたを助ける者に平安あれ。あなたの神があなたを助けられる」。そこでダビデは彼らを受けいれて部隊の長とした。

ダビデは主により頼む者であり、主の霊に導かれる者である。だからアマサイの言葉が、真実であられる主から来たものであり、そして彼らが真実な心をもって来た事を、一瞬で悟った。そこで彼らを受け入れ、要職に就かせる。
霊に導かれる人は、霊によって悟るのだ。

12:19 さきにダビデがペリシテびとと共にサウルと戦おうと攻めて来たとき、マナセびと数人がダビデについた。(ただしダビデはついにペリシテびとを助けなかった。それはペリシテびとの君たちが相はかって、「彼はわれわれの首をとって、その主君サウルのもとに帰るであろう」と言って、彼を去らせたからである。)
12:20 ダビデがチクラグへ行ったとき、マナセびとアデナ、ヨザバデ、エデアエル、ミカエル、ヨザバデ、エリウ、ヂルタイが彼についた。皆マナセびとの千人の長であった。
12:21 彼らはダビデを助けて敵軍に当った。彼らは皆大勇士で軍勢の長であった。

この、マナセ出身の勇士たちが来たタイミングは、ちょうどダビデが流されるままにペリシテ人に味方してイスラエルのサウル王に戦いを仕掛けようとしていた時である。
しかしペリシテ人たちは、このようなダビデ達を信頼できず、一緒にサウル王に対する戦いに出すことをさせなかった。
そのお陰でダビデは、主に油注がれたサウル王に手をかける事から免れ、主の民イスラエルに刃を向ける事をしないで済んだ。
もしかすると、このタイミングでマナセ族の勇士達が来た事もまた、ペリシテ人たちの心にダビデを信頼できなくさせた一因になったのかもしれない。
まことに主のタイミングは、美しいものである。

そうして、ダビデを助ける人達は続々と加えられていく。

12:22 ダビデを助ける者が日に日に加わって、ついに大軍となり、神の軍勢のようになった。
12:23 主の言葉に従い、サウルの国をダビデに与えようとして、ヘブロンにいるダビデのもとに来た武装した軍隊の数は、次のとおりである。
12:24 ユダの子孫で盾とやりをとり、武装した者六千八百人、
12:25 シメオンの子孫で、よく戦う勇士七千百人、
12:26 レビの子孫からは四千六百人。
・・・

この、大勢の勇士たちは「主エホバの言葉に従って」来た。
彼らは主の御胸は何であるのかをわきまえ、今この時、何をすべきかを悟ったから、ある人は時勢的にサウル王が栄えていた時からダビデに仕えるために来た。

12:29 サウルの同族、ベニヤミンの子孫からは三千人、ベニヤミンびとの多くはなおサウルの家に忠義をつくしていた。

ベニヤミン族の中からでも、主の御胸を離れて暴走するサウル王を見限って、ダビデについた人達もまたいた。
最後には口寄せに頼ったサウル王に最後まで一緒にいたベニヤミン族の戦士達は皆、サウル王と共に打たれ死んだが、主エホバの言葉を重んじてダビデの元へ来た勇士たちは、ダビデと共に後の時代を栄光の内に生きた。

12:32 イッサカルの子孫からはよく時勢に通じ、イスラエルのなすべきことをわきまえた人々が来た。その長たる者が二百人あって、その兄弟たちは皆その指揮に従った。

彼らは「よく時勢に通じ、イスラエルのなすべきことをわきまえた人々」と賞賛されている。
私達も、このイッサカルの子孫にならい、今この時、何が主の御胸であるのかを探り、見極め、神の民として今、何を為すべきかをわきまえ知る洞察力が与えられるよう求めるべきである。

12:33 ゼブルンからは五万人、皆訓練を経た軍隊で、もろもろの武具で身をよろい、一心にダビデを助けた者である。
12:34 ナフタリからは将たる者一千人および盾とやりをとってこれに従う者三万七千人。
12:35 ダンびとからは武装した者二万八千六百人。
12:36 アセルからは戦いの備えをした熟練の者四万人。
12:37 またヨルダンのかなたルベンびと、ガドびと、マナセの半部族からはもろもろの武具で身をよろった者十二万人であった。

このように、非常に大勢の軍勢が、ダビデを王にするためにヘブロンのダビデの元に来た。
こうしてダビデが王になるという神の御心は、満を持して成就する。

12:38 すべてこれらの戦いの備えをしたいくさびとらは真心をもってヘブロンに来て、ダビデを全イスラエルの王にしようとした。このほかのイスラエルびともまた、心をひとつにしてダビデを王にしようとした。
12:39 彼らはヘブロンにダビデとともに三日いて、食い飲みした。その兄弟たちは彼らのために備えをしたからである。
12:40 また彼らに近い人々はイッサカル、ゼブルン、ナフタリなどの遠い所の者まで、ろば、らくだ、騾馬、牛などに食物を負わせて来た。すなわち麦粉の食物、干いちじく、干ぶどう、ぶどう酒、油、牛、羊などを多く携えて来た。これはイスラエルに喜びがあったからである。

彼ら勇士たちは「真心をもって」「心をひとつにして」ダビデを王にしようとした、と記されている。
私達も、まことの王、ダビデの子孫であるイエス様を、真心をもって、心をひとつに共に集い、与えられたもろもろの賜物を活用し、時をわきまえ、御心を求めて、王の王であられる主イエス様に仕えるべきである。

もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら(申命記30:11-20)
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