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イザヤ書 講解説教メッセージ
背中を踏みつけられてしまう人の性質とそこからの脱出(イザヤ51:17-23)
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御言葉を宣言したなら、すぐに立ち去れ。とどまってはなたない。(2列王記9:1-13)
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9:1 時に預言者エリシャは預言者のともがらのひとりを呼んで言った、「腰をひきからげ、この油のびんを携えて、ラモテ・ギレアデへ行きなさい。
9:2 そこに着いたならば、ニムシの子ヨシャパテの子であるエヒウを尋ね出し、内にはいって彼をその同僚たちのうちから立たせて、奥の間に連れて行き、
9:3 油のびんを取って、その頭に注ぎ、『主はこう仰せられる、わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とする』と言い、そして戸をあけて逃げ去りなさい。とどまってはならない」。

エリシャがこのタイミングで一人の若者にこの命令をしたのは、主の時だからである。

この事の直前、8章の最後は、南ユダと北イスラエルの主の目に悪とされた王がイズレエルといういわくつきの土地に集っている状況である。イズレエルはかつて、ナボテという無実の人がアハブとイゼベルに罪を着せられ、無実の血が流された場所である。主の預言では、その場所でアハブとイゼベルに血の報復が為される、とかつて言われていた。主のタイミングの時、人にはぐずぐずしないでその通り従順する事が求められる。

 

9:4 そこで預言者であるその若者はラモテ・ギレアデへ行ったが、
9:5 来て見ると、軍勢の長たちが会議中であったので、彼は「将軍よ、わたしはあなたに申しあげる事があります」と言うと、エヒウが答えて、「われわれすべてのうちの、だれにですか」と言ったので、彼は「将軍よ、あなたにです」と言った。

英語の聖書を見ると分かるが、この会議の席は全員がキャプテンと呼ばれる人達の集いである。そこに「隊長」と呼ばれても、どの隊長なのか分からないので、このようなやり取りが為された。だから、この場では、この預言者である若者が一番身分が低い者ではあり、彼こそ震えおののくような状況であったかもしれないが、しかし彼は、主の御言葉を帯びて来ている。彼が主の御言葉をそのまま伝える限りでは、彼の言葉が最も権威を帯びる事が、後の出来事を見ると分かる。


9:6 するとエヒウが立ちあがって家にはいったので、若者はその頭に油を注いで彼に言った、「イスラエルの神、主はこう仰せられます、『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。

彼はエリシャから伝えるよう言われていたのは、ここまでであった。しかし、彼はこの時、さらに主からの直接的な示しが与えられ、その場で主からの直接の言葉を、そのまま流し出す。

 

9:7 あなたは主君アハブの家を撃ち滅ぼさなければならない。それによってわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血と、主のすべてのしもべたちの血をイゼベルに報いる。
9:8 アハブの全家は滅びるであろう。アハブに属する男は、イスラエルにいて、つながれた者も、自由な者も、ことごとくわたしは断ち、
9:9 アハブの家をネバテの子ヤラベアムのようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにする。
9:10 犬がイズレルの地域でイゼベルを食い、彼女を葬る者はないであろう』」。そして彼は戸をあけて逃げ去った。

この事は、もっと以前の、エリヤの時から既に主から示されていた通りである。それが、この時、このタイミングで、エフーを通して成就する事が示されたのだ。

以上の主から示された事を伝え尽くすと、彼はその場から立ち去り、逃げた。

 

9:11 やがてエヒウが主君の家来たちの所へ出て来ると、彼らはエヒウに言った、「変った事はありませんか。あの気が変な人は、なんのためにあなたの所にきたのですか」。エヒウは彼らに言った、「あなたがたは、あの人を知っています。またその言う事も知っています」。

そこにいた人々は、預言者を「気が変な人」と見なしていた。

主の言葉を躊躇せず伝えたら、すぐに立ち去る事も躊躇しない。これはとても大事である。もし、彼が、ぐずぐずとそこに残ったならどうなっていたか、容易に想像がつく。

その場は将校達の会議の場であり、そこに一人の社会的地位の低い若造が残る、なら当然、将校達から「あなたは何者か」「どういう経緯で主の言葉を語るのか」と、彼自身が示されていない知らない事や、答えようがない追求をされ、物怖じする彼の様を見て、ついには、「気が変な人」の戯れ言として片付けられてしまうだろう。

御言葉を伝えたなら、いつまでも居残っている必要はない。むしろ、伝えるべき事を伝えてそこに居残り、別の人間の言葉を話し出し、御言葉の権威を犯す言葉をはびこらせてしまうなら、以前よりももっと悪い事になってしまう。しかし、宣言すべき御言葉を宣言して去るなら、その場に残った御言葉が、あとはその場を支配する事になる。私たちは、自分のの力で御言葉の権威づけを建て上げようなどと、考えない事である。

9:12 彼らは言った、「それは違います。どうぞわれわれに話してください」。そこでエヒウは言った、「彼はこうこう、わたしに告げて言いました、『主はこう仰せられる、わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』」。

9:13 すると彼らは急いで、おのおの衣服をとり、それを階段の上のエヒウの下に敷き、ラッパを吹いて「エヒウは王である」と言った。

奇跡が起こった。気違いと思われていた人の言葉が、主の権威を帯び、そこの人々の心を支配したのだ。

このように、御言葉をそのまま語り、そこに残すなら、あとは御言葉がその人、その場を支配するのだ。

金持ちでも犬以下になっている人とは(ルカ16:19-31)
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邪悪な女を迎え入れて以来、災い続きのイスラエル(2列王記8:16-29)
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8:16 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第五年に、ユダの王ヨシャパテの子ヨラムが位についた。
8:17 彼は王となったとき三十二歳で、八年の間エルサレムで世を治めた。
8:18 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪をおこなったが、
8:19 主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。

ヨシャパテは素晴らしい信仰の持ち主であったのに、悪と手を組んでしまったゆえに、イスラエルに災いをもたらしてしまう。

彼は自分の息子の嫁として、アハブとイゼベルの間に生まれた娘、アタルヤを迎え、息子に嫁がせてしまった。これが後に、イスラエルにとんでもない災いをもたらしてしまう。

このアタルヤは、後に、ダビデの子孫を根絶やしにしようと、一人を除いて皆殺しにしてしまう。そして彼女自ら女王となって、暫くイスラエルを治める事になる。

とにかくこの時点、彼女は、夫であるヨラム王をそそのかし、主の目に悪と見られる事を行い、また彼女の息子も悪の道に歩むように育ててしまう。

8:18 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。

イスラエルの王達の道、それは偶像礼拝の道であるが、異邦の女をめとった事によって自分の国に災いをもたらしてしまった、という点でも同じであろう。

神の宮と偶像とに、何の一致も無いはず。友達づきあいが悪ければ本人も悪くなり、ひとつとなるべき伴侶が悪いと、自分自身のみならず自分の子々孫々に至るまで災いをもたらしてしまうのである。

 

8:20 ヨラムの世にエドムがそむいてユダの支配を脱し、みずから王を立てたので、
8:21 ヨラムはすべての戦車を従えてザイルにわたって行き、その戦車の指揮官たちと共に、夜のうちに立ちあがって、彼を包囲しているエドムびとを撃った。しかしヨラムの軍隊は天幕に逃げ帰った。
8:22 エドムはこのようにそむいてユダの支配を脱し、今日に至っている。リブナもまた同時にそむいた。

主から離れると、自分自身から権威がなくなり、自分の配下にいた者が力を持つようになり、敵が力を持つようになる。事は、申命記28章に書いてある通りである。

8:23 ヨラムのその他の事績および彼がしたすべての事は、ユダの歴代志の書にしるされているではないか。
8:24 ヨラムはその先祖たちと共に眠って、ダビデの町にその先祖たちと共に葬られ、その子アハジヤが代って王となった。
8:25 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第十二年にユダの王ヨラムの子アハジヤが位についた。
8:26 アハジヤは王となったとき二十二歳で、エルサレムで一年世を治めた。その母は名をアタリヤと言って、イスラエルの王オムリの孫娘であった。
8:27 アハジヤはまたアハブの家の道に歩み、アハブの家がしたように主の目の前に悪をおこなった。彼はアハブの家の婿であったからである。

ヨラムの子アハズヤの治世は、わずか一年であった。主を敬わない世代がはびこりその勢いを増し加えようとするなら、主が許されない。なぜなら、主は主を敬わず偶像に走る者には呪いを3第4代に、しかし主を恐れ敬う者には恵みを千代に施されるお方だからである。

この時、南ユダ王国は、ただ主のダビデに対する恵みの故に首がつながっている状態だった。

8:28 彼はアハブの子ヨラムと共に行って、スリヤの王ハザエルとラモテ・ギレアデで戦ったが、スリヤびとらはヨラムに傷を負わせた。
8:29 ヨラム王はそのスリヤの王ハザエルと戦うときにラマでスリヤびとに負わされた傷をいやすため、エズレルに帰ったが、ユダの王ヨラムの子アハジヤはアハブの子ヨラムが病んでいたので、エズレルに下って彼をおとずれた。

ユダの王アハズヤが北イスラエル王国に下っていったのは、主が懲らしめの杖を振り下ろすためである。主は、立ち返らせようとして、懲らしめを送られる事があるが、それは正しい道に立ち返らせるためである。

結局、南ユダ王国は、このイゼベルの娘、異邦の女を王家の嫁として迎えてしまって以来、ただ災いにつぐ災いの時代に突入してしまう。北イスラエル王国も、イゼベルを迎えて以来、そうだった。ノアの洪水も、神を知らない女との結婚が原因でもたらされてしまった。ソロモンも、そうだった。

彼らがもたらした偶像礼拝は、その後ずっとイスラエルの歴史に尾を引き、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。それでも主の憐みにより、70年の後に帰って来たというのに、すぐまた異邦の女をめとって、同じ過ちを繰り返しそうになった。そこをエズラが改革を断行し、異邦の女や御言葉を知らない子供を国から追い出した。それは身を切るような辛さであったろうが、そこから暫くの平和な時代が始まった。
主は、私達が滅びに至らないよう、「災い」という囲いを用意して、祝福への門を開いておられる。

私達は本当に、結婚したり連合したりすべき相手には気をつけるべきである。

「ですから」あなたがたの労苦が無駄になることはない(1コリント15:58)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週のコーエン大学日本公開セミナーは沢山の恵みの内に終った。今回は、コーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も忙しい間を縫って来られ、水曜夜の集会ではメッセージもされた。カン先生は今まで多大な労苦と責任を負って来られたが、彼が今に至るまで支えとなって来た言葉が、本日の御言葉である。
『だから(ὥστε(ホステー)、愛する兄弟達よ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦(κόπος:コポス)がむだになることはない…。』(1コリント15:58)

この御言葉は、接続詞「ὥστε(ホステー:ですから、そういうわけで、therefore)」で始まる。これは、直前までの物事を束ね、「そういうわけで」こうなる、と、後に続ける言葉である。物事には原因と結果があり、その両者を「ホステー」が繋げる。今の私達は、良しにつけ悪しきにつけ過去に成した一つ一つの「原因」を積み上げた結果がある。そして、今私達が為す一つ一つの行いは、将来生み出される結果の「原因」となる。
だから、1コリント15章の最後の節の「ですから」は、1節から57節までを包括し、58節に繋げているのだ。
第一コリント15章といえば、復活と希望の章である。人は死んだら終わりではない。死んだ後、必ずよみがえらされ、そしてそれぞれのの行いに応じて審判を受ける。天国も、地獄も、確実に存在する。
パウロは、次の事を「最もたいせつな事」としている(3節)。すなわち、キリストは私達の罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられ、ケパに現れ、それから12弟子にもあらわれ、そして最後に、最も小さなこの自分にも現れて下さり、そして、神の恵みによって今のわたしになった(3-11)。これは私達にも同じである。
「ですから」、固く立って主のわざに励む必要がある。そして、その労は一つも無駄に落ちる事は無い。
主にあって労苦した事(コポス)は、決して無駄になる事は無い。キリストに敵対する世の諸々の事柄が、群れをなして、自分へと襲いかかって来た時。あの時流した汗や涙も、主にあって忍耐し続けた一瞬一瞬も、決して無駄に落ちる事は、無い。「ですから」今、目の前に置かれた善を行う事に、疲れてはならない。
たゆまないで働いているなら、時が来れば、必ず刈り取るようになるからだ(ガラテヤ6:7−9)。
「ですから」、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい、とパウロは続ける。海がどんな暗くても、灯台の光を目指し、進み続けるなら、必ず目的の港に入る事が出来るように、キリスト者にはそれぞれ、暗闇に輝く灯台のような、目指して行くべき御言葉が必要である。もし、そのキリスト者に、それを「見続ける力」があり、それに向かって「進んで行く事を止めない」なら、必ず主の栄光の領域へと到達して報われる。

「ここに、聖徒たちの忍耐(ヒュポモネー)と信仰とがある。」(黙示録13:10) この忍耐(ヒュポモネー)は、農夫が、「下に(ヒュポ)」+「ひざまづいて(モネー)」、蒔いた種の実りを待つものであり、「嫌々ながら」のような消極的な色合いは無く、むしろ希望をもって楽しみに待つような、積極的な色合いのある言葉である。
忍耐と希望は、必ずセットである。ヘブライ思考的には、「希望」には、未来を目の前の今へと引っ張る力のあるものとしている。だから、種を蒔いたら「5年後には、もしかしたら実がなるかなあ?」ではない。
蒔いたら、5年後には実がなって、喜んで刈り入れをし、おいしく味わって食べている事を、「今日のように見て待つ」のだ。時間を先取りし、引っ張てきて、今ここにあるかのように見えるから、期待して待てるのだ。
信仰とは、見えないことの「保証」である。未来に起きるか起きないか定かでないような、おぼろげな事柄ではなく、未来に確実にある事柄を、まだ見てはいないけれども今、手元に引っ張って来る事なのだ。
それは、預金通帳に何千億円も入っていると記帳されている事に似ている。もしそうなら、日々食べる事について心配する必要は無いし、ビルを購入する事にさえも、何の躊躇もいらない。同じように「御言葉」の明細を見るなら、私達は何を食べようか何を着ようかと心配する必要は一切ないはずであり、その富を引き出すために、「信仰」という印鑑を持って、「行い」という銀行へ足を運んで行くのみである。
世の銀行、世のマネーは、何百年後には破綻しているとしても、神の言葉は、永遠に破綻しないからだ。
原因には、必ず結果がつきまとう。それは、良しにつけ、悪しきにつけ。労苦(コポス)には必ず良い報酬が返って来るのと同じように、労苦の逆である「なまける事」にも、必ず悪い報酬が返って来る。
「ですから」主が与えて下さる莫大な報いが将来に待っている事を、あたかも今、それを受けているかのように望み見、喜んで、今日与えられている一つ一つの事を、気落ちする事なく、希望をもって成していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

暗闇の地に照り渡る光(イザヤ9:1-7)
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私たちが食べる御言葉の性質(出エジプト記16:15-21)
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御言葉を食べて養いを受けなさい(黙示録10:8-11)
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キリスト・イエスのりっぱな兵士として(2テモテ2:1-7)
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ヘブライ思考とは(ローマ12:1-2)
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週報/メッセージ(説教)概要

 明日よりコーエン大学日本公開セミナーが始まる。今回はコーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も教鞭を執られる。そこで今日、講義に先んじて、博士が繰り返し強調して来られた「ヘブルシンキング」と、ユダヤ的聖書へのアプローチ方法を学びたい。まず前提知識として知っておかなくてはならないのは、「ヘブライ思考」と、それと対極に位置する「ギリシア思考(ヘレニズム思考)」の概念と性質である。

ユダヤ人は代々「ヘブライ思考」で生き、聖書もヘブライ思考に基いて読まれて来たが、聖書執筆時代以降のキリスト教会は「ギリシア思考」によって歩み、福音に混ぜ物がされ、分裂の歴史を辿ってしまった。
ヘブライ思考の一番の特徴は、「神中心」である。対し、ギリシア思考は「人間中心」である。ユダヤ人は神を価値の最高位に位置づけ、自分を神の御言葉へと合わせて生きるが、対してギリシア思考では、人が構築した論理や科学を土台とし、あるいは神とキリストを除外した宗教や、無神論や汎神論を台頭させた。
第二のヘブライ思考の特徴は「関係中心」であり、神との関係・親子関係・共同体との関係を重視する。
ユダヤでは、「父と子」という深い関係が、神に、親に、共同体に対してある。対しギリシア思考は「個人主義」であり、親子関係・社会関係は崩壊し、孤立、引き籠もりが起こり、人を破壊行為や自殺へ追い込む。
第三のヘブライ思考の特徴は「直感的思考」だが、対してギリシア思考は「理知的・論理的思考」で「納得」を求める。ギリシア思考が聖書を理知的に分類し、分析して考察した結果、キリスト教会は幾つも分裂したが、対してユダヤ人は2500年も離散していたのに、1948年に帰還すると、いとも簡単に一致できた。それは彼らは聖書に自分の解釈を交えず、ただ繰り返し読んで、暗記し、直感的に体得していたからだ。
第四のヘブライ思考の特徴は「動的思考」である。ヘブライ語は動詞中心の原語である。ヘブライ語動詞は、基本的に三つの文字からなる「語根」で成っており、その語根の前後に他の語を付与する事によって、様々な意味へと変化する。ユダヤ人は、御言葉は生きているものとして動的に解釈し、同じ御言葉でも朝ごとに新しいが、対してギリシヤ思考は「静的思考」で、対象を分析・分類し、標本箱の中へ磔にして納めたら、もう動かさない。一つの御言葉に「これこれの解釈」と決め付けたなら、それ以外を排斥するのだ。
第五のヘブライ思考の特徴は「意味中心」である。ヘブライ語は人の名前にも地名にも、そして一字一句にさえ、全てに意味がある。それは昨年12月にベレシートを学んだ時によく味わった。文字と文字が組み合わさて意味が生まれ、個々の意味に配置された神の秩序の完全さに人は感動し、喜びを覚えるのである。ギリシア思考は一見、意味を追求しているように見えても、行き着く先は「無意味」である。

以上、5つの組み合わせを、カン博士は「ヘブライ思考のエバディング(embodying:具現、体現)」と呼んでいる。そして、ヘブルシンキングによる聖書へのアプローチは、3つの核によって成り立つ。
一つ目は「統全(wholeness)」と言う。これは全体を一つとして見る事である。つまり、聖書を開く時にはまず全体を見る。一語一語を細かく分析せず、分からなくても、まず最後までそのまま読むのだ。
二つ目の核は「統合(unity)」、すなわち異なる幾つかの断片を一つに集め調和させる事である。聖書は律法や預言、詩歌など異なる断片の集合だが、一つ一つを別者としてではなく調和したものとして捉える。
そして三つ目の核が「統摂(consilience)」で、それは、複数の個々は互いに溶け合い、第三の新しいものを生み出す事(シナジー)である。「統合」は個々が調和していても互いに別者だったが、「統摂」は、個々はもはや無くなり、別の新創造が生まれるのだ。元々、consilienceの原意は、異なる二つのものが互いに手を取り合って境界線を飛び越え、新しい領域に着地する「ジャンピング・トゥゲザー」の意味である。
以上のように、聖書全体を行ったり来たりして部分部分を集め、互いを融合し、自分自身に融合させる事によって、全く新しいいのちが生まれるのである。例えば「贖い」という言葉は、聖書の一箇所だけ見ても分からないが、創世記やレビ記、ルツ記など、あちらこちらを行ったり来たりする内に、神の意図が感覚的に分かって来て、自分自身の人生に組み込まれた「贖い」を感じ、感動し、自分のものとなって行くのだ。
『あなたがたの「からだ(ソーマ:霊・魂・肢体の全集合体)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1) 自分を主張するのでなく、自分自身の全てを生きた供え物として御言葉へ混ぜあわせる事、これが私たちの為すべき礼拝である。
ギリシア思考は捨て、ただ御言葉を自分と混ぜあわせ、真理の喜びが沸き起こる皆さんでありますように!

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