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食事を一緒にする事の大切さ(使徒2:40-47)
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召し出された人達を建て上げ成長させていく聖霊(使徒2:37-47)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は聖霊降誕日(ペンテコステ)、教会すなわち召し出された人達に、聖霊が降り、力を得た日である。
この日以前の弟子達は、大した働きが出来なかったが、この日以降、強力な力に満たされ、福音が全世界へ爆発的に広がって行った。聖霊を受ける事は、私達主の弟子達にとって決して欠かせない条件である。
教会は聖霊の働きによって始められ、そして聖霊は今日も働いておられる。今回、私達・教会が何によって建て上げられ、いかに聖霊に満たされ、福音を爆発的に広められるのかを、初代教会から学びたい。

「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)
ここに、初代教会が健全であった根拠が記されている。健全に建て上げられていくための第一条件は、まず、使徒たちの教えを堅く守る事である。使徒たちの教えとは、よく考え出された人間由来の考えや教えではなく「御言葉」であり、使徒達は御言葉を主から取り次いでいたのだ。教会とは、神の御言葉が宣言されるべき所であり、御言葉と聖霊によって生まれ変わった、聖なる共同体である。
聖徒は、働き人によって宣言される御言葉によって建て上げられていくものだ。人が普段の食べ物によって成長して行くように、キリスト者も、普段摂り入れる御言葉によって養われ、変えられ、成長していく。
御言葉を蓄え、固く立っているなら、どんな困難が来ても決して壊れず揺れ動かない。真理の御言葉は、ダイヤモンドよりも硬く、宇宙よりも永遠だからだ。また、御言葉は種のようなもので、生きており、それを人という土壌に植えるなら、必ずいのちが生え、正しく育てるなら、豊かに実を結ぶものである。(マルコ4:14)
聖霊の働きの中で最も重要な働きは、人を御言葉によって新しく造り替え、成熟させて行く事だ。そして御言葉と共に働く聖霊の力は、あらゆる暗闇の力を打ち破る唯一の攻撃の武器であるとエペソ6:17に記されている。御言葉と共に働く聖霊の力が強くなればなるほどに、いのちはどんどん増えて行くのだ。
「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」(使徒6:7) この「非常にふえて行った(πληθύνω)」とは、魚の腹にぎっしり詰まった卵のように増殖する意味で、そのように聖徒の数は数多く増えて行くのだ。
正しく御言葉が入り、その信仰が成長するなら、いのちが莫大に増えていくのだ。

次に「共に交わり、パンを裂き」とある。教会とは、キリストを救い主として生まれ変わった、新しい命達である。赤ちゃんは産まれた時、自動的に家族の構成員となって、父母や祖父母、兄弟姉妹がこぞって彼の面倒を見るように、キリスト者も、イエス様を信じた瞬間、キリストにある御国の家族の構成員の一人となる。
御国の家族となったキリスト者は、共に御言葉のパンと、同じいのちを味わって行くものである。私達はそれを味わってこそ健全な歩みができるのだ。その為には、教会の集まりに「集まっている」事が必要である。
そのきよい交わりの中にいるなら、自然に健全な御言葉に親しみを覚えるようになり、成長して行くのだ。

次に、「祈りをしていた」と書いてある。初代教会の聖徒たちは、祈りの力を体験していた。祈りは神との会話であり、私達が神の御言葉によって祈るなら、神はそれに答えて下さる。『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。・・・彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。』(使徒4:29)
彼らは祈り求めると、聖霊に満たされ、大胆に御言葉を伝え出した。初代教会の聖徒たちは、自分自身の必要を満たして下さいとか、人生が有意義になるために力をください、と祈ったのではない、神の御言葉を伝え、福音を伝えるために、力をください、と祈ったのだ。祈りは働きの難題に打ち勝つ神の武器である。
私達は御旨の成る事を祈り、そして御言葉の交わりをするなら、主から力を頂き、それは武器となっていく。

そうして初代教会は、神が与えて下さった伝道の使命を忠実に果たして行く。世の中では、人を集めるために労力やお金を払うものだが、御国は、こちらが労したり媚びたりして人を集めるのではない。こちらが真理によって養われ、魅力ある者になるなら、人々のほうから自然と集まってくる。そうするなら、厳格に律法を重んじていた祭司さえ、キリスト者になったのだ。
どうか皆さんという教会が、御言葉と祈りによって聖とされ、成熟したものとなって成長して行きますように!
 

主エホバの栄光を全地に満たすために(エゼキエル40:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要

 この日本という国は、世界的には富んだ国、力ある国として認知されているかもしれないが、福音という面では、全く貧しい弱小国である。1549年、フランシスコ・ザビエルによって初めてこの地に福音が入り、当時は多くの人々が福音を受け入れたが、時の指導者達は、主キリストにある私達の兄弟姉妹を迫害し、多くの血を流し、その後も、多くの罪を国の内外に対して犯し続けて来た。
そして未だに、この国が大規模に福音を受け入れたという歴史は無い。ちょうど、エゼキエル書37章のように、はるか昔に殺された人達の枯れ果てた骨々が、谷を埋め尽くしていたような状況である。果たして、はるか昔に殺されて干からびてしまった骨々は、生き返る事が出来るだろうか?主こそ、ご存知である!
主はエゼキエルに、骨に対して主の言葉を語れ、と言った。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、と。(37:4)
彼が干からびた骨に対し、主から命じられたとおりの御言葉を宣言すると、大きな変化が起きたように、私達も、御言葉をそのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。たとえ相手が、干からびた骨のような人でも。
散り散りになってしまっていた骨と骨が組み合わされ、筋が通り、肉が生じ、主の息吹にいぶかれて、大軍団となったように(37:10)、主はそれと同じ事をなさるお方であり、私達はそるなるよう宣言する事が出来る。
神は、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救おうと定められた。だから、それをするのは、私達である。
どのようにしてそれを行うべきか。続くエゼキエル書に、そのヒントがある。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
その時代はすなわち、ソロモンが建てたあの豪華絢爛な神殿が、バビロンによって破壊され尽くした後である。神殿が破壊されてしまったのは、イスラエルが代々犯して来た罪の故であり、そしてその罪のはびこりの原因は、御言葉の伝授が、すなわち、子供たちへのテフィリン教育が為されていなかったためだった。
しかし、バビロンによって神殿が破壊されてしまって14年の後、エゼキエルは主にとらえられ、非常に高い山の上に、人の手によらない神殿と都が建っている幻を見せられた。
『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い古した測りに、一手幅、加えられたものだ。
つまり、まことの神殿であるキリストを測る際は、人が使い古して来た基準や常識という測りで測ってはならない。まことの神殿をは、十字架のキリストの手が加えられた神の御言葉によってこそ、測るべきなのだ。

エゼキエルは、この手幅が加えられたはかりを用いて、神殿を測って行くと、さらに次々と示しや預言が与えられて行く。そしてその後、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出ていた。
その水によってできた川は、測れば測るほど大きくなり、木が生え、いのちが増え、魚も群がって行く。
この水が流れこむなら、死海でさえいのちが群がる所となり、そこの魚をとるために、漁師達が住んで、網を引く場所となる、と書いてある(47章)。
そしてその水はさらに流れて行って、やがては、水が海を覆うように全地に満ちる事になるだろう。
「海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。」(ハバクク2:14)

エホバの栄光を知る「知識」によって、全地は満たされる。地の果てに至るまで。それをするのは、人の教えに教えられた者ではない。十字架のキリストの手が加えられた御言葉によって養われた人こそ、神殿を正しく測ることができる。彼らこそ、正しい「はかり」を得た人であり、彼らによって、それが可能なのだ。
イエス様は言った。全世界に出ていきなさい、と。イエス様は既に、天においても地においても、いっさいの権威が既に与えられた。もし流し出さないで留まっているなら、水は良くならず、塩のまま残ってしまう、とも書いてある(エゼキエル47:11)。だから、イエス様の権威を身に帯びて、全世界に出ていき福音を伝えるべきだ。多くのいのちを、死から救い出すために。
どんどん、まことの神殿であるキリストを計って、どんどん流し出し、海が水で覆うように、主エホバの栄光を地の隅々にまで至らせる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
神の賜物を再び燃え立たせてください(2テモテ1:3-12)
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枯れた骨は生き返るだろうか?(エゼキエル37:1-10)
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いのちが流れ出て行くために(エゼキエル37-47章)
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※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

日本には1500年代、福音が入り、多くの人々が福音に触れたが、やがて彼らは迫害され、多くの殉教者の血が流された。
果たして、切り殺され、干からびてしまった骨々は生き返る事が出来るだろうか?
主こそ、ご存知である。

37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。

干からびてしまった骨に対しても、御言葉を語ると、変化が起きる。

37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。

主は、死んだような状態から生き返らせて下さる事をされる。かつては骨のような状態から人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。
しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように死んだも同然の、「行い」の無い信仰状態である。
だから神の息、神のルアッハ、神の霊が必要である。

37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆(Force, Army)となった。

主の霊が入るなら、自分の足で立てなかった者も立ち、暗闇の王国、サタンの座をも、大胆に攻撃し勝ち取る大いなる軍隊になる事が可能なのだ。

主の息、それは、全地を覆っている。
創世記1:2の、あの暗闇と混沌の中で、主の霊はめんどりがひなを覆うように覆っていた。

ヨブ38:7 かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。
38:8 海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、/だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
38:9 あの時、わたしは雲をもって衣とし、/黒雲をもってむつきとし、

天地が創造された時、海の水が胎内から破水して出た時、それを主は乱雑に広がらないよう閉じ込め、主の霊によって覆い、むつき(ハトラー)によって守り囲っていた。
混沌の中においても、主の霊が覆い、守っておられるのだ。この日本を、世界を、切り殺された骨々を。

混沌と死の大地にいのちの潤いの水が流れだし、いのちの水が全地を覆うようになるために、どうすれば良いか。
続くエゼキエル書の箇所に、その答えがある。

40:1 われわれが捕え移されてから二十五年、都が打ち破られて後十四年、その年の初めの月の十日、その日に主の手がわたしに臨み、わたしをかの所に携えて行った。
40:2 すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
この時代、ソロモンが建てた豪華絢爛な神殿は、イスラエルが代々犯して来た罪の故に、異邦人に破壊され尽くした後だった。神殿が打ち壊されてから十四年後、彼は、主が見せられた幻の内に、非常に高い山の上に建てられた、人のものならぬ神殿へと上げられた。

『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い慣らされたはかりに、一手幅、加えられたものだ。
人手に依らない神の宮、それは、人の常識、人の習慣的な計りでは、計る事は禁じられている。それに、一手幅加えた測りを用いるように御使いに言われた。

ヘブライ語で、ユッドには、手の意味がある。
ユッド ヘー、バブ、ヘー、これがエホバの御名であるが、そこからユッド(手)を除くとハバー、息を吹き込む、成る、という意味である。
手、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、
הוה:"havah {haw-vaw'}"; a primitive root (compare 'avah, hayah) supposed to mean properly, to breathe; to be (in the sense of existence) -- be, X have.息、に、手、すなわち、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、ユッド ヘー、バブ、ヘー、エホバの御名が完成し、主のわざが完成するのだ。

エゼキエル40章以降、この、人のはかりに、手幅が加えられた、人のものならぬ測りざおを用いて、主が示された新しい神殿、すなわち罪ある人間が建てたものではない神殿を、主の測りで測って行く内に、次々と、色々な示しや預言が与えられて行く。
そして、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出していた。

47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。

人のものならぬ主の建てた神殿を、主の測りに従って測って行くなら、いのちを潤す水が流れ出して来る。
まことの神殿は、イエス様であり(ヨハネ2:21)、この神殿を、主の示す物差し、すなわち御言葉によって正しく測り、寸法もきっちり正しく調べて行くなら、行く程、いのちの水、潤す水が内から流れ出して行くのだ。

47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。

流れ出したいのちの流れを、主の測りで測る毎に、その潤す水、いのちの水は、どんどんかさが増していく。最初は足首ほどから、次にひざ程、次に腰ほどに、そして、渡る事にできない川にまで至る。
『彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。』(6節) 私達も、流したら流しっぱなしではなく、結果、どんな実を結んだか、見に戻るべきだ。

47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。

水は、神殿の聖所から流れ出ている。まことの神殿はイエスキリストであり、私達もイエス様を信じる時、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)
その”水”が入るなら、その水は良くなるため、生き物が群がるようになり、非常に多くの魚がいるようになる。
この水が流れこむなら、死海さえいのちが多くなり、海岸には漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
死海のようだったサマリヤの女も、イエス様を受けた時、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。

『ただし、その「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」とは清められないで、塩地のままで残る。』(11節)
水が流れず留まっている所、人為的に水を貯めこむような所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。どんなに良質の御言葉が流れて来ても、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで、流し出さないなら、塩のまま残り、死海のように、いのちがいなくなってしまう。
御言葉のいのちが流れこんで来たなら、それが口まで溢れているなら、留めて置いてはならない。御言葉も、ただ暗記するだけで、宛先が明確でないなら、宛先不明の手紙のように、どこぞに落ちてしまうのだ。


47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。

毎月実が成る・・・一体どれだけ多産で、いのちに溢れているのだろうか。
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、御霊の実は何も頑張らずとも、自然と、絶える事なく、実らせ続けるものである。そしてそれは自分ばかりでなく、周囲も潤し、癒やすものとなる。
人の建てた神殿を、人の物差しで測っても、ただ疲れるしか無いが、人のものならぬ、主の建てた神殿・イエス様を、主の物差しである御言葉に従って測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん流れ出して来る。
この、いのちの源・イエス様を御言葉で正しく測り、泉を湧き出させ、湧き出る水を測って、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く時、主のいのちの水を流し出す者となり、ついには全地を主のくださる潤いの水が、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)

ハバクク2:14 海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。

この言葉が成っている事を、信じるだろうか?
アーメン、今、いかに混沌に見えるような現状でも、主の霊は覆っており、そして私達が主の与えてくださったはかりで計る時、いのちの水が流れていき、いのちが実体化して行くのだ。
なぜなら、福音の伝達は、人間の、伝道の愚かさによって成就して行くようにと、主が定められたからだ。

おくびょう者は帰れ(申命記20:1-9)
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ルカによる福音書 講解説教メッセージ
人間をとる漁師としての召命(ルカ5:1-11)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
義人は安息に入るが、欲深い者は疲れ知らずに諍い続ける(イザヤ57:1-13)
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ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
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主の御言葉を伝える人が、畏れ敬う心を持って準備し、そして講壇に立つ時、主からの特別な油注ぎが与えられるのを感じるはずである。
それは、御言葉が伝えられ、主の栄光がその集いにいる一人一人に注がれるためであり、主の栄光が大いなるものとされるためだ。
講壇に立てば誰でもメッセージが与えられるというものではない。日頃、主の御前で整えられた心が必要である。
信仰は登る。恵みは降る。その二つが合う時、奇跡が起きる。もし、私達が上らせる信仰が少ないなら、恵みも少なく、上らせる信仰が多いなら、降る恵みも、多いものだ。

今回の箇所では、主の御前で、そして敵の面前で、主からの恵みをいただく人の幸いが書いてある。

詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

詩篇23篇には主エホバのご性質が8つ隠されているが、そのうちの8つ目、「ジェホバ・メカディシケム」が、この5節に込められている。
ジェホバ・メカディシケム。その意味は、「聖別する主」であり、「わたしのこうべに油をそそがれる」がそれに当たる。

主は、油を注いで下さる。それも、敵の面前で。
主を敬わない敵と、主を敬う私達の間をご覧になる時、主は、主を敬う私達のほうに御顔を向け、敵の面前で宴を設けてくださり、そして、油を注いで下さる。

この幸いを呼びこむために必要な事は、主を羊飼いとすること、主を敬う事だ。
ちょうど、主がアベルの捧げものに目を留めて、アベルとその捧げものに敬意を表したように。
主への敬いも主への正しい態度もなく、単に捧げものを持ってきただけのカインの捧げものには、主は目もくれず、一切の敬意も表さなかった事を、覚えておかなくてはならない。

このジェホバ・メカディシケムが出てくる聖書の箇所は、出エジプト記である。

出エジプト記31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが「あなたがたを聖別する主(ジェホバ・メカディシケム)」であることを、知らせるためのものである。
ジェホバ・メカディシケム。それは、安息日を守る人、すなわち、主を礼拝すべき日にしっかり礼拝し、世の事どもをしない、そのような人を、主は聖別して下さる。
そうであるからには、私達自身が、主に喜ばれる礼拝者である事の努力をし続けるべきである。
カインの性質を捨て、アベルのように最良のものを、最良の形で捧げようと、主を愛する心を持っている人にこそ、主は、目を留めて下さるのだ。
主は、全地を見渡し、その心が全く主とひとつになっている人を探しておられるからである。

続く節には、次のように記されている。
 31:14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

なんと、安息日を聖としない人は、殺されなくてはならない、とまで記されている。主が「聖とせよ」「安息せよ」と命じられたのに、聖とせず、安息しないで、世の仕事、世の飲み食いを好んで続ける限り、主の聖、主の安息には、入れてもらえないのだ。
私達には、永遠の安息の地、天国が備えられている。だから、天を覚えて日々生きるべきだ。そうでなく、世のことばかりに捕われて、礼拝するべき日を軽んじ、主を覚えないなら、どうして天国に相応しい者になれるだろう。

ジェホバ・メカディシケム、この言葉が与えられる前の所では、主は特別な任命を、名指しして、定めている。
31:1 主はモーセに言われた、
31:2 「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、
31:3 これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、
31:4 工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、
31:5 また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。
31:6 見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。
31:7 すなわち会見の幕屋、あかしの箱、その上にある贖罪所、幕屋のもろもろの器、
31:8 机とその器、純金の燭台と、そのもろもろの器、香の祭壇、
31:9 燔祭の祭壇とそのもろもろの器、洗盤とその台、
31:10 編物の服、すなわち祭司の務をするための祭司アロンの聖なる服、およびその子たちの服、
31:11 注ぎ油、聖所のための香ばしい香などを、すべてわたしがあなたに命じたように造らせるであろう」。

このように、主は人に知恵を与え、匠の技を与え、指導力や金銀や、その他必要なものを全て備える。
その特別な知恵が与えられた人には、「これをつくって欲しい」と言われた時、頭の中で「これとこれが必要だ」「ここにはこの材料を使おう」「ここはこのように組み立てよう」と、瞬時にイメージが組み上がり、そして精巧に動かす手が与えられるのだ。
その理由は、共にキリストのからだを建て上げるためであり、まさに、主が特別な油注ぎを与える故である。
ちょうど、ベザレルとアホリアブに、主を礼拝する所、幕屋建造のために知恵と啓示の霊を与えられたように。

「聖別」には、二つの意味がある。
一つは「委任する」、すなわち、主が、あなたには、これこれの事をする者として任命した、という事である。
主からの任命があるなら、知恵と力とわざが泉のように湧き上がり、疲れない。しかし、油注ぎもないのに、また任命もないのに、その仕事に勝手なあこがれをもって、しようとすると、何も思い浮かばず、また力も沸かない、ただ苦痛な日々を送るしかない。
逆に、任命が与えられたのにそれをしないとするのも、同じくただ苦痛な日々を送るしかない。

「聖別」の意味の 二つ目は、「聖とする」である。
聖別とは、簡単に言えば「分離」であり、けがれた者からきよい者へ、悪どい者から良い者へ、俗なる者から聖なる者へ、主から遠かった者が、主に近い方向性で、どんどん分離して行くのだ。

これら、「委任」と「聖とする」が合わさって、「職分」が与えられるのだ。
ちょうど、大祭司アロンに職分が与えられたように。

1コリント12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

エペソ4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

大祭司アロンには、特別に「聖」とされたしるしが与えられた。
出エジプト記28:36 あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、
28:37 これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。
28:38 これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。

主が、特別に任命されたからには、自らを聖とするのが、主に呼び出された者の分であり、もし、牧会者が「聖」という立ち位置に立っているなら、聖徒は祝福される。
「神よ、この病人に手を置けば癒やされますように」という事を願うよりも、むしろ「わたしが聖化されたものである」という事を追求するべきなのだ。

神が用いられる器は、聖潔。きよい器でなければ、聖霊は働かない。
たとえ過去どんな罪を犯していても、現在、「今、あなたは聖を歩んでいますか??」という志の内に歩む事が重要だ。
今、聖である歩みを、実行していかなくてはいけない。今を大事に生きる人にこそ、主が働くからだ。
罪は、悔い改め、常習犯的な罪を、今、やめる、それを続けて行く事の繰り返しである。

祭司がきよければ、その祈りは聞かれる。だから、きよくなるために、たゆまず努力する。それが、聖霊充満の秘訣である

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