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恩を仇で返したヨアシュに速やかに降された神の正しい審判(2列王記12:17-21)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2列王記
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- pastor 2017-3-9 6:40
恩を仇で返したヨアシュに速やかに降された神の正しい審判(2列王記12:17-21)
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12:17 そのころ、スリヤの王ハザエルが上ってきて、ガテを攻めてこれを取った。そしてハザエルがエルサレムに攻め上ろうとして、その顔を向けたとき、
12:18 ユダの王ヨアシはその先祖、ユダの王ヨシャパテ、ヨラム、アハジヤが聖別してささげたすべての物、およびヨアシ自身が聖別してささげた物、ならびに主の宮の倉と、主の宮にある金をことごとく取って、スリヤ王のハザエルに贈ったので、ハザエルはエルサレムを離れ去った。
12:19 ヨアシのその他の事績および彼がしたすべての事は、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。
12:20 ヨアシの家来たちは立って徒党を結び、シラに下る道にあるミロの家でヨアシを殺した。
12:21 すなわちその家来シメアテの子ヨザカルと、ショメルの子ヨザバデが彼を撃って殺し、彼をその先祖と同じく、ダビデの町に葬った。その子アマジヤが代って王となった。
前回までのヨアシュの功績が記されたにもかかわらず、どうしていきなり、このように呪われた有様が展開されるのか、と、疑問を持たれる方もいるかもしれない。
なぜこのような事が起きたのか、その理由は列王記を見るだけでは分からない。並行箇所である第二歴代誌24章を見るならば、ああ、こんなに呪われてしまっても仕方がない、と、知る事ができる。
事の発端は、全イスラエルを霊的に指導し、ヨアシュが生まれた時からずっと導いてくれた偉大な祭司、エホヤダの死であった。
2歴代誌24:15 しかしエホヤダは年老い、日が満ちて死んだ。その死んだ時は百三十歳であった。
24:16 人々は彼をダビデの町で王たちの中に葬った。彼はイスラエルにおいて神とその宮とに良い事を行ったからである。
エホヤダは百三十歳という長寿を全うし、王の墓に葬られるという栄誉を受けた。それはまさに彼に相応しい。
このエホヤダに対しヨアシュは、そして全イスラエルは、どんなにお礼をしてもし足りないものであるが、しかし残念ながら、ヨアシュも全イスラエルも、エホヤダに対して恩を仇で返す事になってしまう。
2歴代誌24:17 エホヤダの死んだ後、ユダのつかさたちが来て、うやうやしく王に敬意を表した。王は彼らに聞き従った。
24:18 彼らはその先祖の神、主の宮を捨てて、アシラ像および偶像に仕えたので、そのとがのために、怒りがユダとエルサレムに臨んだ。
24:19 主は彼らをご自分に引き返そうとして、預言者たちをつかわし、彼らにむかってあかしをさせられたが、耳を傾けなかった。
素晴らしい霊的指導者がいなくなった途端に、それまでずっと抑えてきた罪と肉の欲望を発散させ、せっかく長年霊的な指導を受けて来たにもかかわらず、それら全てを覆すような事をする人はいる。
彼らに対しては、主からの災いによる報いが待っているが、次のような人は要注意である。すなわち、表向きは善良な礼拝者を装ってはいても、普段から霊的指導者をうるさく思い、その指導する人が遠出したり、忙しくしたりしていると、なまけぐせが顔を出して、手抜きをしたり、威張り散らしたり、仲間を打ち叩いたりしてしまう人は。
24:20 そこで神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤに臨んだので、彼は民の前に立ち上がって言った、「神はこう仰せられる、『あなたがたが主の戒めを犯して、災を招くのはどういうわけであるか。あなたがたが主を捨てたために、主もあなたがたを捨てられたのである』」。
24:21 しかし人々は彼を害しようと計り、王の命によって、石をもって彼を主の宮の庭で撃ち殺した。
あろうことか、あの大きな恩のあるエホヤダの子、ザカリヤさえも、ヨアシュ王は石で撃ち殺す命令をくだしてしまったのだ。
ヨアシュはおよそ40年もの間、表向き偽りの礼拝生活を送って来ていたのだ。
24:22 このようにヨアシ王はゼカリヤの父エホヤダが自分に施した恵みを思わず、その子を殺した。ゼカリヤは死ぬ時、「どうぞ主がこれをみそなわして罰せられるように」と言った。
主は、全て義人が流してきた血がそのまま虚しく地に落ちるような事はされない。必ず報いをされるお方である。(黙示録14:4-7)
当時の南ユダ王国とヨアシュ王に対するさばきは、速やかに来た。
24:23 年の終りになって、スリヤの軍勢はヨアシにむかって攻め上り、ユダとエルサレムに来て、民のつかさたちをことごとく民のうちから滅ぼし、そのぶんどり物を皆ダマスコの王に送った。
24:24 この時スリヤの軍勢は少数で来たのであるが、主は大軍を彼らの手に渡された。これは彼らがその先祖の神、主を捨てたためである。このように彼らはヨアシを罰した。
わずかな軍勢により、ユダは大損害を受けた。そして、ゼカリヤを殺した民のつかさ達はことごとく滅ぼされ、また、ヨアシュ自身も大怪我を負わされた。
24:25 スリヤ軍はヨアシに大傷を負わせて捨て去ったが、ヨアシの家来たちは祭司エホヤダの子の血のために、党を結んで彼にそむき、彼を床の上に殺して、死なせた。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王の墓には葬らなかった。
イスラエルに大きな功労を立てた大祭司エホヤダは王の墓に葬られたが、ヨアシュはそこから外された。神の国は、そういうものである。
南ユダ王国において、謀反が起こり、しかも病の床の上で殺される、という事は前代未聞である。
それは彼が、恩を仇で返したからである。
ヨアシュにはアハブとイゼベルの血も流れているが、やはり血は争えないのだろうか。しかし、私たちには希望がある。
血筋によってでなく、肉の欲求や人の意欲によってでなく、ただ、神によって新しく生まれ変わらせてくださるイエス様に、私たちは望みを持つことができる。
イエス様の少年時代から公生涯に至るまでの隠された日々(ルカ2:41-52)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ルカによる福音書
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- pastor 2017-3-8 23:30
主の器をになう者達が為すべき事 - そこを出よ、汚れたものに触れるな、身をきよめよ(イザヤ52:7-12)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2017-3-8 14:30
礼拝の再建から始まる祝福(2列王記12:1-16)
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12:1 ヨアシはエヒウの第七年に位につき、エルサレムで四十年の間、世を治めた。その母はベエルシバの出身で、名をヂビアといった。
12:2 ヨアシは一生の間、主の目にかなう事をおこなった。祭司エホヤダが彼を教えたからである。
ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間、主の目に叶う事を行った。しかし、エホヤダが死んだ後は、そうでなかった。
優れた霊的指導者が生きている間は、良き指導者、良き礼拝者になっているとしても、もし、主を恐れずに人を恐れ、ただ習慣から礼拝している「ふり」を何十年も行っているとしたなら、その指導者がいなくなったとたん、誠実をもって礼拝する事を止めてしまう者もいる。
私達は、人を恐れるのでなく主をおそれ、また、礼拝を捧げる事においても、主を敬う心をいつももって礼拝をささげるべきである。
12:3 しかし高き所は除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた。
高き所では、主を礼拝する所もあったが、異教の祭儀もまた行われ、その区別がつきにくくなっていた。いずれにせよ、御言葉によると、当時、主を礼拝する所は、エルサレムの神殿である事には、かわりは無い。
高き所が取り除かれるのは、ヒゼキヤの時代まで待たなくてはならない。
12:4 ヨアシは祭司たちに言った、「すべて主の宮に聖別してささげる銀、すなわちおのおのが課せられて、割当にしたがって人々の出す銀、および人々が心から願って主の宮の持ってくる銀は、
12:5 これを祭司たちがおのおのその知る人から受け取り、どこでも主の宮に破れの見える時は、それをもってその破れを繕わなければならない」。
ヨアシュは、祭司たちが人々から受ける銀を用いて主の神殿を補修するように命じた。
主の宮は、ずっと荒らされたままだったのだ。なぜなら、ヨアシュの祖母アタルヤが女王の座についていた時、アタルヤとその子たちが主の宮を打ち壊し、主の宮の聖なるものをバアルのために用いていたからである。(2歴代誌24:7)
これは、良い事である。
おそらく、ヨアシュの背後で祭司エホヤダの指導があったものと思われる。(2歴代誌24:16)
12:6 ところがヨアシ王の二十三年に至るまで、祭司たちは主の宮の破れを繕わなかった。
12:7 それで、ヨアシ王は祭司エホヤダおよび他の祭司たちを召して言った、「なぜ、あなたがたは主の宮の破れを繕わないのか。あなたがたはもはや知人から銀を受けてはならない。主の宮の破れを繕うためにそれを渡しなさい」。
12:8 祭司たちは重ねて民から銀を受けない事と、主の宮の破れを繕わない事とに同意した。
祭司たちは、受け取るお金を、主の宮を補修する事に用いないでいた。
そこでヨアシュは、祭司たちがお金を人々から受け取る事を禁じ、彼らを主の宮の工事の責任から外した。
12:9 そこで祭司エホヤダは一つの箱を取り、そのふたに穴をあけて、それを主の宮の入口の右側、祭壇のかたわらに置いた。そして門を守る祭司たちは主の宮にはいってくる銀をことごとくその中に入れた。
12:10 こうしてその箱の中に銀が多くなったのを見ると、王の書記官と大祭司が上ってきて、主の宮にある銀を数えて袋に詰めた。
12:11 そしてその数えた銀を、工事をつかさどる主の宮の監督者の手にわたしたので、彼らはそれを主の宮に働く木工と建築師に払い、
12:12 石工および石切りに払い、またそれをもって主の宮の破れを繕う材木と切り石を買い、主の宮を繕うために用いるすべての物のために費した。
祭司エホヤダは、献金箱をつくり、その中に納められる銀をもって、主の宮の工事のために用いた。
こうして、ヨシャパテ以来、おろそかになっていた主の宮の建て直しが行われた。
主の宮が、すなわち、礼拝が破綻したままの状態では、何をしても栄えない。
ハガイ書で次のように書いてある通りである。
ハガイ1:4 「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。
1:5 それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。
1:6 あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
1:7 万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。
1:8 山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
1:9 あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
1:10 それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。
1:11 また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。
私たちの中の、主を礼拝する心は破綻していないだろうか。破綻したままで、板張りの家に住もうとしていないだろうか。
それでは、稼いでも稼いでも、穴のあいた財布に入れるかのように出費がかさみ、満足いく衣食住が備えられず、何をしても栄えないのだ。
しかし、主を敬う心をもって礼拝を建てなおすなら、主はその時以来、祝福を命じられる。
ハガイ2:15 今、あなたがたはこの日から、後の事を思うがよい。主の宮で石の上に石が積まれなかった前、あなたがたは、どんなであったか。
2:16 あの時には、二十枡の麦の積まれる所に行ったが、わずかに十枡を得、また五十桶をくもうとして、酒ぶねに行ったが、二十桶を得たのみであった。
2:17 わたしは立ち枯れと、腐り穂と、ひょうをもってあなたがたと、あなたがたのすべての手のわざを撃った。しかし、あなたがたは、わたしに帰らなかったと主は言われる。
2:18 あなたがたはこの日より後、すなわち、九月二十四日よりの事を思うがよい。また主の宮の基をすえた日から後の事を心にとめるがよい。
2:19 種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。
取り除かれた悪い世代、しかし再び湧き起こる悪の世代(2列王記11:13-21)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2列王記
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- pastor 2017-3-7 6:48
取り除かれた悪い世代、しかし再び湧き起こる悪の世代(2列王記11:13-21)
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11:13 アタリヤは近衛兵と民の声を聞いて、主の宮に入り、民のところへ行って、
11:14 見ると、王は慣例にしたがって柱のかたわらに立ち、王のかたわらには大将たちとラッパ手たちが立ち、また国の民は皆喜んでラッパを吹いていたので、アタリヤはその衣を裂いて、「反逆です、反逆です」と叫んだ。
彼女は「反逆」だと叫んだが、元々、反逆したのは彼女の側だった。
イスラエルにおいてはダビデの家でない者が、それも女が王の座に座す事は不当な事であるが、ダビデの血筋をひいたヨアシュが慣例に従って王の座に座す事は実に正統な事だ。
11:15 その時祭司エホヤダは軍勢を指揮していた大将たちに命じて、「彼女を列の間をとおって出て行かせ、彼女に従う者をつるぎをもって殺しなさい」と言った。これは祭司がさきに「彼女を主の宮で殺してはならない」と言ったからである。
11:16 そこで彼らは彼女を捕え、王の家の馬道へ連れて行ったが、彼女はついにそこで殺された。
こうして、南ユダ王国からダビデの血を絶やそうとたくらみ、自ら女王の座に6年間ついたアタルヤは殺された。
邪悪な手段によって得た富、権力は、結局呪われたものであり、反逆によって得た座は、反逆によって奪い去られるのである。
11:17 かくてエホヤダは主と王および民との間に、皆主の民となるという契約を立てさせ、また王と民との間にもそれを立てさせた。
11:18 そこで国の民は皆バアルの宮に行って、これをこわし、その祭壇とその像を打ち砕き、バアルの祭司マッタンをその祭壇の前で殺した。そして祭司は主の宮に管理人を置いた。
11:19 次いでエホヤダは大将たちと、カリびとと、近衛兵と国のすべての民を率いて、主の宮から王を導き下り、近衛兵の門の道から王の家に入り、王の位に座せしめた。
11:20 こうして国の民は皆喜び、町はアタリヤが王の家でつるぎをもって殺されてのち、おだやかになった。
11:21 ヨアシは位についた時七歳であった。
平穏が戻ってきた。悪人が死に、良い王が建てられると人々は喜ぶのである。
ヨシャパテが彼の子・ヨラムを、アハブとイゼベルの間に生まれた娘アタルヤと、政略結婚させた時以来、はびこってしまった南ユダ王国の悪の習慣は、こうして取り除かれた。
神殿で6年間養われたヨアシュという7歳の、悪の習慣を全く知らない王によって、これから南ユダ王国は主に従って忠実に歩んで行くようにと、主がすべてお膳立てして下さったのだ。
しかし、残念な事に、ヨアシュは祭司エホヤダが死んでからは、悪の道に入ってしまう。
ヨアシュの父はアヤズヤであり、アヤズヤの母やアタルヤ、そしてその父母はアハブ・イゼベルである。
結局、南ユダ王国にはこの時以来、邪悪な者の血が混じってしまい、その血は争えない、という事だろうか。
主は、人の中に悪がはびこり、人の力ではどうしようもなくなってしまった時に悪の世代を刷新し、全く新しい主に従う世代を起こされる事を、たびたび人類歴史で起こされたが、その都度、人の側はその主が建ててくださったお膳立てをひっくり返し、主を悲しませて来た。
『ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。』(ルカ13:34-35)
しかしそのような中でも、主に立ち返り主に忠実に仕える人は残されており、彼らは永遠に変わらない栄光を受けるのである。
イエス、彼こそ、全て呪われた血筋から勝利する源である。
ヨハネ1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
愛の大牧者であるキリストに従って(ヨハネ21:1-19)
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21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行く(フパゴー)のだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
主は弟子達に聖霊の息吹を吹きかけられ、「あなた方を遣わします」と言われたにもかかわらず、世の仕事に戻った。
「漁に行く(フパゴー)」このフパゴーは戻る、降りる、退く、の意味である。
ペテロは弟子達を主の仕事に導くのではなく、世の仕事に戻ろうと他の弟子達に率先して言って、弟子達も一緒に漁に行こう、と言ったのだ。
明らかにイエス様から叱責されても仕方ない行動である。しかし主は、叱責によってでなく、愛によって導いて下さる。
この時、弟子達は一切、魚を捕る事ができなかった。それは、主の主権である。
本来なら人を捕る漁師としてテベリヤ湖でなく世に出ていき人々に福音の網を降ろすべき、なのに、主の御旨でないところに網をいくらおろしても、主の主権により、結局何もとれないのだ。そして、何も獲れない事は、愛であられるイエス様の導きである。
21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
イエス様は「何もないだろう(原意)と聞いた。それはそうである。獲れないように主権をもって導いたのは、イエス様だから。
弟子達は、何もありません、と答える以外に無かった。
21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。
このご性質、イエス様以外の何者でもない。ようやくヨハネは、主であると分かった。
ペテロもはっとした。自分はイエス様を前に、恥ずかしい裸だ、と。
恥ずかしい自分。
イエス様の弟子達に、世の仕事へ戻らせ、世の苦労をさせ、自分の意見に従わせ、彼らを一晩中働かせ、疲れ果てさせて、そして何も取れない状態。
それにひきかえ、イエス様のちょっとした声に聞き従ったなら、自分達が一晩中かかっても獲れなかった魚が、大漁に取れた。
そしていざ、自分見るなら、裸で弟子達を指示して、裸の恥を演じてきた。とてもイエス様の前に立てる自分ではない。
それでペテロは、服をまとって湖に飛び込んでイエス様の元に泳いでいったのだ。
ペテロのここの行動で良かった事は、彼はイエス様から離れて行くのでなく、イエス様に「向かって」泳いでいった事だ。
私たちも、こういった時、イエス様に向かって、泳いでいくべきなのだ。
21:7 シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
これが、イエス様のご性質である。愛、憐れみ、赦しに富み、優雅に、美しく、柔和に、その愛で頑なな人の心を溶かして、強制力でなく群れの模範として行動して下さる。
このご性質が、後のペテロを変えていった。
ペテロは生涯の最後、主の聖徒達が閉じ込められているローマの牢獄へ自ら進み出て、その中に捕らえられている聖徒達を励ましつつ、最後は、十字架刑が言い渡されたものの、自分がイエス様と同じ十字架で死ぬのは余りにも申し訳が無い、だから、逆さ十字架にして欲しい、と願いでた、と伝えられている。
その殉教の直前に書かれたと言われているペテロの手紙で、彼は次のように手紙を書いている。
1ペテロ5:2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
5:3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。
5:4 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。
彼はイエス様の愛の指導を得て、群れの模範となるように、また、権力を振るうのではなく、むしろ群れの模範となるよう、長老たちに勧めている。
これは、イエス様の次の指導を得たからだ。
21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛する(アガパオー)か」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛する(フィレオー)ことは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する(アガパオー)か」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛する(フィレオー)ことは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する(フィレオー)か」。ペテロは「わたしを愛する(フィレオー)か」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
ペテロには、イエス様を愛し尽くす愛は無い、けれどもイエス様を慕っている事を、あなたはご存知です、と、イエス様に訴える以外には出来なかった。
そうである。私達も、イエス様を愛し尽くすような愛(アガペー)は無い。
ただ、イエス様をフィレオーの愛で愛する以外にはできない。不完全な愛でしか。
しかし、その不完全な愛であっても、イエス様を慕う志のある人を、主は「わたしの羊を飼いなさい」と言って下さる。
それでいいのである。
イエス様を慕い、愛し、イエス様から託された羊を養って行く内に、ペテロのように、たとえ最初は幼い霊的状態であったとしても、立派な愛の牧者へと成長して行く事ができるのである。
わたしはとぼしい事がありません - ジェホバ・イルエ(詩篇23:1)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデが作った詩篇23篇の中には、その中でも代表的な8つのご性質が練り込められている。前回は1節の「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)」を見たが、今回は「わたしは乏しい事がありません」という言葉に込められた2つ目の御名「ジェホバ・イルエ」の意味を探って行きたい。なお国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」または「ヤーウェ」に、「イルエ」が「エレ」または「ジレ」等になっているが、いずれも、呼び名や発音が違うだけで、意味は同じである。
この詩篇23篇1節に練り込められた御名「ジェホバ・イルエ」が登場する場面は、アブラハムがイサクを捧げる場面である(創世記22章)。彼がイサクを捧げようとしたその時、主が制止した。彼の主に対する従順が、行いによって証明されたのだ。それで主は、イサクに代わる犠牲として、角をやぶにひっかけた羊を備え、アブラハムは羊を身代わりに捧げた。そこでアブラハムは、そこをジェホバ・イルエと名付けた。
この「ジェホバ・イルエ」は「主の山には備えあり」という意味として有名だが、正しい意味は、別にある。
この言葉を分解すると「ジェホバ(主)+ラアー(見つめる)」、「ラアー」は未完成形であるので、ここの原意は「主は今なおずっと見つめ続けておられる」である。(KJV: In the mount of the LORD it shall be seen.)
主は、今なお見続けておられる。アブラハムがジェホバ・イルエと名付けたモリヤの山には、後の時代、ソロモン神殿が建って、バビロン捕囚の時に破壊されたが、主は今なお、そこを見つめ続け、待っておられる。
アブラハムの子孫達が、茨の冠を頭にひっかけたまことの小羊キリストを身代わりの犠牲として捧げるのを。
主は見続けておられ、備えて下さる。だから、わたしには乏しい事が無い、と、ダビデは信仰告白した。
主は確かに、全て必要なものを備えて下さるが、それは、人の欲するものを何でも、という意味ではない。
主が備えてくださるものは「主の最善」である。だからもし、人が欲するものの方向が、主の最善と真逆の方向なら、主は、その人のやる事なす事何もかもうまくいかなくさせる事もある。ペテロがそうだった。
ペテロはイエス様が復活された後、聖霊の息吹を吹きかけられ、「わたしもあなたがたを遣わします」と召命されたのに、漁師に戻って生活して行こうとした。しかも他の弟子達をも伴って。しかし、そうは問屋が卸さない。彼は湖に出かけて行くのだが、その夜は何もとれなかった(ヨハネ21章)。その内、仲間も疲れと苛立ちが沸き起こって来る。なんで何も獲れないのか、なんで貧しいままで、疲れてばかりいるのだ、と。
例えば株で、上がると思って買っても下がり、下がると思って売っても上がり、損失ばかりのような時は、「ジェホバ・イルエ」なる主が見つめておられる、その眼差しに気づくべきだ、というサインなのだ。
良くない事をするとすぐにバレてしまう人は、主に愛されている人であり、バレないで成功する人は、サタンから愛されている人である。どうして他の皆は成功しているのに自分だけこんなに思った通りに行かないのか、果たして呪われているのだろうか、と思うのはお門違いで、むしろ、祝福されているのだ。なぜならその人は、主から片時も離れず見つめられ、守られ、愛され、主の最善へ導かれているのだから。
主は、備えて下さるお方だ。自分の願った通り何もかもうまく行くという「備え」をされる事も、確かにあるが、やる事なす事全部うまく行かず、ことごとく失敗する、という「備え」をされる事もあるのを、忘れてはならない。
それはその人を、全能であられる主に目を向けさせ、「主の最善」だけを求めるようにさせるためである。
イエス様は言われた。子たちよ、食べるものは、無いだろう?と。イエス様は、無い事を前提に聞かれた。
それはそうだ。御旨でない所に網を投げても、主がその道に歩ませないように、主が散らすのだから。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(ヨハネ21:6)
結局人は、自分で稼ぐ事も、また、稼いだものを自分で引き揚げる事さえ、主の主権なしに出来ないのだ。
主はペテロに教えられた。あなたは湖の魚に向かって網を投げるのではなく、人を捕らえる「福音」という網を、人の耳に投じるべきだ、と。主はペテロを、じっと見つめておられたように、私達をもじっと見つめておられる。私達に必要な「最善」を、主は備えて下さる。私達はただ、主が備えて下さる道に歩み、備えて下さるものをいただく以外には何もなく、それで「わたしは乏しい事がありません」と宣言できるのだ。
主が備えて下さる最善に頼って生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
切り倒された邪悪な者の大木、そして、エッサイの根株から生え出た新芽(2列王記11:1-12)
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- 執筆 :
- pastor 2017-3-3 7:55
切り倒された邪悪な者の大木、そして、エッサイの根株から生え出た新芽(2列王記11:1-12)
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11:1 さてアハジヤの母アタリヤはその子の死んだのを見て、立って王の一族をことごとく滅ぼしたが、
南ユダ王国の歴史の中で、7年間、ダビデ王家でない者、それも、女が、ダビデの家をほぼ根絶やしにして王座に立ち、支配した事があった。
それはこの、イゼベルとアハブの娘・アタリヤによってであった。
主を恐れ敬う人ば見るなら、絶望の7年間であったかもしれないが、主は、ダビデ王家を全滅から守って下さった。
11:2 ヨラム王の娘で、アハジヤの姉妹であるエホシバはアハジヤの子ヨアシを、殺されようとしている王の子たちのうちから盗み取り、彼とそのうばとを寝室に入れて、アタリヤに隠したので、彼はついに殺されなかった。
11:3 ヨアシはうばと共に六年の間、主の宮に隠れていたが、その間アタリヤが国を治めた。
主の憐れみにより、生まれたばかりの乳飲み子ヨアシュが守られ、主の宮の中に匿われ、こうしてダビデの王家は立たれる事は無かった。
一見すると、なんと邪悪な事が沸き起こっているのだろう、と思える時代ではあるが、しかしこれは、実に、主の導きである。
南ユダ王国は、ヨシャパテ王が彼の子を北イスラエル王国と政略結婚によって連合さた時以降、南ユダ王国は堕落の道を辿りはじめていた。
結婚相手には気をつけるべきである事を常日頃メッセージしている。
ノアの時代は、神の子達が人の娘の美しいのを見て、純潔な血筋が失われ、そうしてネフィリムが生まれ、暴虐が全人類に増し加わり、もはや純潔を保っているのはノア一家だけになってしまった時、神は洪水を起こし、こうして世界はひと度リセットされた。
この列王記の時代、一見するとアタルヤの好き勝手により南ユダ王国が虐殺して悪が勝利しているかのように見えても、実はこれによって、主を敬わない邪悪な世代が増えていく事を阻止し、ひと度リセットされたのだ。
こうして一人の、まだ右も左もわきまえな赤ちゃんが主の宮で7年間養われ、不遜な思想に基づいた教えを一切受けない、ただ主の教えを主の宮で7年間受けた幼子が次期の王として用意される。これはまさに主の手による事だ。
イザヤ 11:1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
11:2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
これはエッサイの子ダビデの子孫からキリストが誕生する事の預言であるが、不遜に大きく育ってしまった大木は切り倒され、その残った切り株、そこから若枝が生え出て、全く新しく、主の御目に適った成長をして行くのである。
11:4 第七年になってエホヤダは人をつかわして、カリびとと近衛兵との大将たちを招きよせ、主の宮にいる自分のもとにこさせ、彼らと契約を結び、主の宮で彼らに誓いをさせて王の子を見せ、
11:5 命じて言った、「あなたがたのする事はこれです、すなわち、安息日に非番となって王の家を守るあなたがたの三分の一は、
11:6 宮殿を守らなければならない。(他の三分の一はスルの門におり、三分の一は近衛兵のうしろの門におる)。
11:7 すべて安息日に当番で主の宮を守るあなたがたの二つの部隊は、
11:8 おのおのの武器を手に取って王のまわりに立たなければならない。すべて列に近よる者は殺されなければならない。あなたがたは王が出る時にも、はいる時にも王と共にいなければならない」。
祭司エホヤダは、この正統なダビデの子孫が王座につけるように、6年間、着実に準備を整え、王につく人をあらかじめ定めて行った。
11:9 そこでその大将たちは祭司エホヤダがすべて命じたとおりにおこなった。すなわち彼らはおのおの安息日に非番となる者と、安息日に当番となる者とを率いて祭司エホヤダのもとにきたので、
11:10 祭司は主の宮にあるダビデ王のやりと盾を大将たちに渡した。
11:11 近衛兵はおのおの手に武器をとって主の宮の南側から北側まで、祭壇と宮を取り巻いて立った。
11:12 そこでエホヤダは王の子をつれ出して冠をいただかせ、律法の書を渡し、彼を王と宣言して油を注いだので、人々は手を打って「王万歳」と言った。
こうして、以前の不当な者共は邪悪な者達は、同士討ちによって滅び去り、不当な女による7年間の支配は終わり、主の宮で育てられた新しい王が誕生した。
これはまさしく主の導きによるものである。
この終わりの時代においても、主はこのような若枝を残しておられる。