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イザヤ書 講解説教メッセージ
偶像礼拝の虚しさと3つの害悪(イザヤ44:9-20)
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偽預言者と真の預言者の違いと特徴(1列王記22:10-14)
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『さてイスラエルの王およびユダの王ヨシャパテは王の服を着て、サマリヤの門の入口の広場に、おのおのその王座にすわり、預言者たちは皆その前で預言していた。ケナアナの子ゼデキヤは鉄の角を造って言った、「主はこう仰せられます、『あなたはこれらの角をもってスリヤびとを突いて彼らを滅ぼしなさい』」。預言者たちは皆そのように預言して言った、「ラモテ・ギレアデに上っていって勝利を得なさい。主はそれを王の手にわたされるでしょう」。』(1列王記22:10-12)
アハブが召し出した400人ほどの預言者達は、皆が皆、主エホバの名をかたって、勝利の預言をした。
しかもゼデキヤという預言者は、鉄の角までこしらえて、勝利のパフォーマンスをした。
アハブはさぞかし気分が良かっただろうが、その実はどうだったか。
アハブがこの戦いに行った結果、アハブは戦いに負け、そして命を落とす事になる。

彼らは、主エホバの御名を用い、勝利の「預言」してはいるが、それは真実ではない。
このような預言は「偽預言」というが、なぜ偽預言者が現れるのか。
そして偽預言には、どんな特徴があるのか。

偽預言の特徴は、やたら「平安」を乱発し、耳ざわりの良い、人受けし易い言葉を多様する事だ。
『万軍の主はこう言われる、「あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、『あなたがたは平安を得る』と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、『あなたがたに災はこない』と言う」。』(エレミヤ23:16)

偽預言者の目的は、自分の思いついた言葉に、主の御名を付けることによって権威付けし、自分に注目を集めさせ、自分が利益を得る事である。
アハブの所にいた400人は、アハブから利益を得たいがために、大勢で彼に取り巻き、耳障りの良い事を言って、彼を気分良くさせ、そうしてアハブから食い扶持を得ているのだ。
だから偽預言者は、ゼデキヤのように鉄の角を造ったり、剣で傷つけ合いながら踊り狂ったり、そういった派手なパフォーマンスをよくするのだ。

それはちょうど、ホステスに大金をつぎ込む男性と、ホステスとの関係に、良く似ている。
偽預言を囲う側は「自分を持ち上げてもらいたい」「心地良い言葉をもらいたい」という心がある故に、また、偽預言者の側は、お金や食を得たいが為に、需要供給関係が成り立ち、相ともに集まるのだが、そこには、真実も主を敬う心も何も無い。
まさに、パウロがテモテに警告している通りである。
『人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。』(2テモテ4:3-4)

私達は、知るべきである。
聖書の預言は、耳に心地良い預言よりも、耳に痛い預言のほうが圧倒的に多い事を。
また、預言者たる者は、人受けするよりも煙たがられる事のほうが多く、もてはやされる事よりも、迫害される事のほうが多い事を。
そして預言者達は、世の富や栄誉には一切見向きせず、ただ、主の御心が正しく成就する事を望み、たとえ自分が語る事によって、不利益が被ろうとも、たとえ殺されてしまう事になろうとも、それでも、主の真実を語らざるを得ない、のである。

『さてミカヤを呼びにいった使者は彼に言った、「預言者たちは”一致して(一つの口で)”王に良い事を言いました。どうぞ、あなたも、彼らのひとりの言葉のようにして、良い事を言ってください」。』(1列王記22:13)
ようするに、彼ら「預言者の取り巻き」の第一目的は、神の言葉を正しく取り次ぐ事ではなく、アハブ王の喜ぶ言葉を言って気分を良くしてあげる事だ。
現代の預言者に相当する牧師達・教師達は、気をつけるべきである。
人受けする言葉やパフォーマンスを駆使して人の気を引こうとしたり、人に媚びても神を恐れないような者に堕する事が無いように。

この時、彼らは”一致して(一つの口で)”王に良い事を言っているが、実はこれは、主の許された事であった。
主はなぜ、このような事が許可されたのか。
それは今まで長らく見てきた通り、アハブは、主から何度警告されても聞かず、正しい道に立ち返らず、呪われるべき悪しき行いを改めない事を続けた故に、彼の心の赴くまま、滅びに行かせるためだ。
そして、アハブによって多大な”とばっちり”を被っている大勢のイスラエルの民をアハブから救うためである。

主は、主の警告を何度も無視する人、一向に悔い改めずに我が道を行くのが好きな人は、ついに、彼をその好きな道に行かせるようにし、そのまま滅びへ通じる道を行くに任せる。
『なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。』(ローマ1:21-25)
預言者ミカヤは、アハブの「預言者の取り巻き」達とは、一線を画していた。
『ミカヤは言った、「主(エホバ)は生きておられます。主(エホバ)がわたしに言われる事を申しましょう」。』(1列王記22:14)
彼はただ、「主エホバがわたしに言われる事」のみを言うと宣言した。
この姿勢こそ、正しい預言者の姿勢である。

彼は、たとえアハブが気に食わない事であっても、真実を語った。それ故、彼はアハブから嫌われてしまった。
しかし、私達も彼と同じ姿勢を貫くべきである。
パウロも勧めている。
『神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:1-5)

また、ペテロとヨハネも、指導者達・権威ある人達を前に、同じ姿勢を取った。
『そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。』(使徒4:18-21

この終わりの時代、クリスチャン達の中から、健全な教えから離れ、互いに気持ち良くする事を言ったり、言ってもらったりしながら、真理からますます逸れていく人々が、多く出てくる事は言われている。
そのような仲間に加わる事がないように、むしろ、真理の御言葉をまっすぐに語り、きよい器として主に用いられて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

聖徒の交わり - 互いの重荷を負い合い、全て良いものを分け合う事(ガラテヤ6:1-10)
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真実を伝える預言者を憎んで、耳障りの良い事を言ってくれる人達を大勢囲ったアハブ(1列王記22:1-9)
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1列王記の最終章は、イスラエル最悪の王、アハブの死で終わる。

『スリヤとイスラエルの間に戦争がなくて三年を経た。しかし三年目にユダの王ヨシャパテがイスラエルの王の所へ下っていったので、イスラエルの王はその家来たちに言った、「あなたがたは、ラモテ・ギレアデがわれわれの所有であることを知っていますか。しかもなおわれわれはスリヤの王の手からそれを取らずに黙っているのです」。』(1列王記22:1-3)
20章では、シリヤが圧倒的な大軍を率いて攻めて来た事が二度あったにもかかわらず、二度とも、主の一方的な憐れみ故に勝利できた。
それなのにアハブは、主に感謝せず、主に聞き従おうともせず、勝手にシリヤと契約を結んで、みすみす王を逃してしまった経緯がある。(1列王記20:34)

それ以来、シリヤはイスラエルに攻めてくる事はしなかったものの、シリヤは、イスラエルに返還すると約束していた町々を、約束どおり返していなかった。
アハブはシリヤと「契約」を結んだのだから、本来、外交的に使者を遣わして申し出るのが筋であるはずだが、いきなり「奪い返す」という暴力的な手段に訴えようとしている。
それも、ヨシャパテ王が、友好的な関係を結ぼうとして来たタイミングで。

『彼はヨシャパテに言った、「ラモテ・ギレアデで戦うためにわたしと一緒に行かれませんか」。ヨシャパテはイスラエルの王に言った、「わたしはあなたと一つです。わたしの民はあなたの民と一つです。わたしの馬はあなたの馬と一つです」。ヨシャパテはまたイスラエルの王に言った、「まず、主の言葉を伺いなさい」。』(1列王記22:4-5)
アハブはまたしても、主にも伺わないまま、戦いに出ようとした。
ヨシャパテが友好的な態度で来た、という、たったそれだけで、自分でシリヤと結んだ契約を破棄し、ヨシャパテと一緒にシリヤに戦い挑もう、としたのだ。
全く行き当たりばったりで、思慮に欠けている。

そこでヨシャパテは、まず「主(エホバ)」に伺って下さい、とアドバイスする。
ヨシャパテが南ユダ王国の良い王として数えられているのは、主に聞くたしなみがあったからである。
彼は良い王ではあったが、この時、アハブに「わたしとあなたは一つです」と言ってしまい、そしてアハブと一緒になって、この欲望と偽りの争いごとに加担した故、その報いを受ける事になってしまう。(2歴代誌19-20章)

主は、悪い交わりとは関わりを持ってはならない、と戒められる。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)

主は、私達の内に住まわれる。
それ故、もし私達の内に汚れたものがあるとするなら、聖であられる主は、共にいてくださらない。
だから、汚れた行いや汚れた交友関係からは出ていくべきであり、もし既に出ているのであれば、悪者同士が裏切りあったり騙しあったり、争いあったりする中へと入っていってはならない。
ヨシャパテ王は自ら入って行ってしまった故に、災いをその身に招いてしまう事になるが、その時、主に依り頼み、主に助けを求めた故に彼は助かり、勝利し、彼の治世は栄える事となった。(2歴代誌20章)

『そこでイスラエルの王は預言者四百人ばかりを集めて、彼らに言った、「わたしはラモテ・ギレアデに戦いに行くべきでしょうか、あるいは控えるべきでしょうか」。彼らは言った、「上っていきなさい。主(アドン:ご主人)はそれを王の手にわたされるでしょう」。』(1列王記22:6)
アハブには、400人ほどの預言者がいた。
エリヤは、バアルの預言者400人と、アシェラの預言者450人と戦ったが、アハブは、預言者をたくさん集めるのが好きなようである。
しかし、預言者は、頭数が多ければ良いというものではない事はエリヤの時に証明されたはずだ。

神の国の運営は、多数決の原理ではない。
60%の預言者がイエスで、40%がノーなら、60%で行こう、というようなものでは決して無い。
主はただ、100%間違いの無い、真実な御言葉によって示されるものであるからだ。
船頭多くして船山に登る、ということわざもある通り、不完全な人間による指導の声が多いのは、逆に、害悪でしかない。

パウロは言う。
『神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:1-4)
アハブはまさに、「健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれて」いる状態だ。

これらの大勢の預言者達は、「”主”は敵を王の手に渡される」と口をそろえて言っているが、この”主”は、エホバではなく、アドン(主人)である。
「主よ、主よ、」と連発する人が、その品性や結ぶ実において、あまりにキリストから離れているようであるなら、その人の「主」が一体どなたで、どのようなお方であるのか、確認した方が良い。
ヨシャパテ王は、400人皆が皆こぞってアハブに都合の良い事を告げるのを見て、何か非常に胡散臭いものを感じたのだろう。

『ヨシャパテは言った、「ここには、われわれの問うべき主(エホバ)の預言者がほかにいませんか」。イスラエルの王はヨシャパテに言った、「われわれが主(エホバ)に問うことのできる人が、まだひとりいます。イムラの子ミカヤです。彼はわたしについて良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言するので、わたしは彼を憎んでいます」。ヨシャパテは言った、「王よ、そう言わないでください」。』(1列王記22:7-8)
アハブは、主エホバの御心を伺うことのできる預言者が、いる、と答えた。
いたのに、その預言者はそこには呼ばず、彼以外の、しかも主エホバの御心を伺う事をしない400人を連れてきて、こぞってアハブに都合の良い事を言わせ続けていた。
アハブはその預言者を憎んでいるとヨシャパテに言ったが、その憎んでいる理由は、彼はアハブに良い事を預言せず、悪いことばかり預言するからだ、と言った。
自分が気に入る・気に入らないの基準で、主の言葉を伝える人を受け入れたり拒否したりする。
そのような人は、アハブの道、滅んでしまう人の道を歩んでいるのだ。

『そこでイスラエルの王は役人(サリィス:宦官)を呼んで、「急いでイムラの子ミカヤを連れてきなさい」と言った。』(1列王記22:9)
イスラエルの民の中に、宦官はいてはならないはずである。(申命記23:1)
しかしイゼベルは、宦官を囲っていた。そしてイゼベルは、その宦官に突き落とされ、殺される事となる。(2列王記9:33)

このように、イスラエルの大勢の人達は、アハブ王の悪しき慣習の報いと”とばっちり”を被っていた。
それで主は、もはやアハブに憐れみを投げかけるのはもう止めて、アハブの悪政で苦しめられている大勢の人達を救うために、アハブに災いを定められたのだ。

アハブは次々と教師を寄せ集め、空想へとそれて行き、その身を滅ぼすに至ってしまう。
私達は、無益な空想話ではなく、永遠に存続する真理の御言葉に心を留め、御言葉を伝える人の教えや戒めを真摯に受け止めつつ、歩むべきである。
たとえそれが、自分の耳に良くても痛くても、また、自分に都合が良くても悪くても。

御言葉が正しく語られる健全な交わりの中で、健やかに成長していく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデとヨナタンから見る穏やかな者の幸い(1サムエル記20:1-23)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 苦難の内にある聖徒を主が助けられる時、主ご自身が奇跡でもって直接助けられる事はあるが、主にある兄弟姉妹の手を通して助けられる事が多い。それは助ける側も、助けられる側も、共に主のものであり、互いが愛し合う事によって、全ての人が、彼らが主の弟子である事を知るためである。(ヨハネ13:34-35)
前回、聖霊の直接介入によってサウル王から助けられたダビデは、信仰の友でありサウルの子でもあるヨナタンの所に行って訴える。自分にはどんな罪があって、あなたの父は私を追いかけるのか、と。(1)
この状況で知っておくべき前提知識は、この時ダビデは、ヨナタンさえも信頼していいのか分からない状態だった事だ。ヨナタンから聞いていた所では、自分はサウルを執り成し、もう安全だから戻って来なさい、だったのに、全然安全ではなく、ヨナタンに会う間もなく逃げた状態だった。情報交換する間も無いまま時間が経ち、もしや彼は父と共謀していたのでは、という疑心暗鬼が生まれ育っても仕方ない状況である。
サウルがなおダビデの命を狙う事について、ヨナタンはどういう立場にあるのか、探りを入れるためにそう言ったのであろうが、ヨナタンは答える。そんな事は絶対無い、父は必ず自分の耳に入れる筈だ、と。(2)
ヨナタンはどうしてこう、ちぐはぐな、脳天気な返事を返すのか。信仰の兄弟姉妹が、ちぐはぐな返事を返した時、相手を「人でなし」と決めつけて怒ったり責めたりするべきでない。ヨナタンの言葉を冷静に見ると、彼は、父サウルがダビデに槍を投げた事さえも知らなかった様子である。命の危険に晒され続けたダビデからすれば「なんでそんな事も知らないのか」と激昂しても無理はない状況だが、ヨナタンからすれば、父はずっとダビデに手をかけないという誓いを今まで守り続けてくれていた、と信じていたのではなかろうか。
もし二人のうち、どちらかが怒りをぶちまけ、「自分はこうだと言っているだろう」「いや私は和解させた、けちをつけるあなたが違う」と、自分の義を主張し、怒りの感情に心を注ぐなら、誤解したまま喧嘩別れしていただろう。それではせっかくの信仰の麗しい交わりが破壊されサタンの思う壺である。どれ程多くの信仰の交わりが、冷静になる事を怠り、サタンの罠にかかり、友情関係、夫婦関係、信頼関係が破壊されただろう。
『怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。』(箴言14:29 -30) 幸い二人には、怒りを遅くする「たしなみ」があった。
ダビデはヨナタンの父サウルを悪く言わず、むしろ擁護しつつ事実を伝え(3)、ヨナタンも短絡的なアドバイスはせず「あなたの言われる事は、何でもあなたのためにしましょう。」(4)と、ダビデに今必要な助けとなるよう申し出た。柔和な心と穏やかな言葉は、悪魔サタンの罠を砕く最善の武器である。神経を逆撫でするような、感情を害する状況や言葉に、穏やかに応対できる程の心のゆとりが与えられるよう、祈るべきだ。

サウルの王宮では月毎の例祭(民数記28:11-15)が守られていたが、ダビデはそれに出席しない事で、サウルに殺意があるかどうかを計ろうと提案し(5)、ヨナタンもまた、ダビデをかくまう事を主の前で誓った。
サウルが心配している通り、ダビデの存在は、ヨナタンが王になる事を脅かしているかもしれないが、ヨナタンはそんな事より、ダビデをかくまう事と、主の御旨が成る事とを選んだ。主にある兄弟姉妹というものは、世の栄華や地位、富よりも神の国のことを、兄弟姉妹を守る事を優先させるものであるが、ヨナタンの、主の御旨に従順する思いは、とても偉大なものであった事がこれら一連の事を通して明らかにされる。
『もしわたしがなお生きながらえているならば、主のいつくしみをわたしに施し、死を免れさせてください。またわたしの家をも、長くあなたのいつくしみにあずからせてください。主がダビデの敵をことごとく地のおもてから断ち滅ぼされる時、ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。』(14-16)
なんとヨナタンは、この時、ダビデに命乞いをしているような言葉をかけている。国家から追われ、命の危険が迫っているのは、ダビデのほうで、王子ヨナタンのほうが圧倒的に強い立場であるはずなのに。
ヨナタンは、信仰によって知っていたのだ。今のままでは必ずサウル家は没落し、ダビデが王になる、と。
今、ダビデはどんなに立場が弱く、風前の灯のように見えても主の御旨を行っており、サウルはいかに栄えているようでも主の御旨を損ねているからだ。実際、ダビデは王となり、ヨナタンの家に慈しみが施される。
ダビデとヨナタンの穏やかな受け答えは、破壊を締め出し、麗しい友情と、将来と、いのちを生み出した。
今、まことのダビデであるイエス様は、今の世でどんな風に見えたとしても、やがては世を裁く永遠の王として来られる。今、私達はヨナタンのように、信仰によって知るべきである。来るべきイエス様の王国に備え、信仰の兄弟姉妹を助け合うのだ。それによって私達が主に属する者達であると、明らかにされるためだ。

世の過ぎ去るものに心を留め過ぎるなかれ(1ヨハネ2:14-17)
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金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
神の子の性質 - 罪を犯しても罪に留まり続ける事ができない(1ヨハネ3:1-12)
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結婚を殊のほか祝福されたイエス様(ヨハネ2:1-11)
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コロサイ人への手紙 講解説教メッセージ
コロサイ人への手紙概要(コロサイ1:1-2)
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悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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アハブは再びエリヤと会合する。

『そのとき、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「立って、下って行き、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いなさい。彼はナボテのぶどう畑を取ろうとしてそこへ下っている。あなたは彼に言わなければならない、『主はこう仰せられる、あなたは殺したのか、また取ったのか』と。また彼に言いなさい、『主はこう仰せられる、犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう』」。』(1列王記21:17-19)
エリヤが主から呼ばれ、アハブと会うように言われたのは、アハブとイゼベルが共謀して義人ナボテを殺し、彼のぶどう畑を取り上げるために出かけるタイミングであった。
アハブはそれまで、主から、その身に見合わないほどの憐れみが与えられていたにもかかわらず、主に立ち返らず、また、警告を受けてもなお潔白な人の血を流し、その血塗られた地所を手に入れようとして出たその時、彼に与えられていた「主の憐れみの分量」は尽きてしまったのである。

『アハブはエリヤに言った、「わが敵よ、ついに、わたしを見つけたのか」。』(1列王記21:20a)
アハブ王はエリヤを見た時、会いたくない者に出くわしてしまったかのように、「敵」と評した。
しかしエリヤは別に、アハブに不当に危害を加えようとした訳ではなかった。
エリヤはただ、主の前で悪を行なってきたアハブに、何度も何度も警告して来ただけであったが、アハブは、言われても言われても聞かず、その故に諸々の天的な災難がアハブに起きて来ただけなのだ。
アハブはそんなエリヤを煙たがり、口うるさい男、不思議な奇跡を起こしてまでして自分を悩ます者、と、勝手な評価を下していたのだ。

『彼は言った、「見つけました。あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、』(1列王記21:20b)
原文的には、「あなたは、主の目に悪と見られるわざへと、あなた自身を売り渡したゆえ、あなたを見つけました。」となる。

悪のわざへと、自分自身を売り渡す・・・そう、彼はまさに自分自身を、そしてイスラエルの王権とを、イゼベルへと売り渡していた。
彼はイゼベルのアドバイスに従い、卑怯な手を用いてでも得られる「恩恵」に預かるために、彼女に言われるまま実行し続けて来たのだ。

私達も、サタン由来の悪しき意図のほうが御言葉よりも「得」だと思い、その体を売り渡し続けるなら、アハブと同じようなさばきを受ける者となってしまう。
アハブは、イゼベルを拒絶して、主に悔い改める機会は何度もあったのに、彼は結局、不当な利益を得たいがために、イゼベルに自分自身を売り渡してしまったのだ。
エリヤはそれで、主の言葉を伝えに行った。

『あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、わたしはあなたに災を下し、あなたを全く滅ぼし、アハブに属する男は、イスラエルにいてつながれた者も、自由な者もことごとく断ち、またあなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにするでしょう。これはあなたがわたしを怒らせた怒りのゆえ、またイスラエルに罪を犯させたゆえです。
イゼベルについて、主はまた言われました、『犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう』と。アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」。』(1列王記21:20b-24)
いよいよアハブに対し、彼の一族郎党は、ヤロブアムやバシャの家同様、皆殺しにされてしまう宣告が下された。
アハブは、預言者に対してもイゼベルに対しても、神に対しても悪魔に対しても、全部「イエス」と言って肯定するような、どっちつかずの態度を続けていた故に、結局、あっちに迷惑をかけ、こっちに迷惑をかけ、主の裁きを先延ばしにし、そうして多くの人々に長時間迷惑をかけた末に、イゼベルに加担して、ようやく滅びの裁きが確定してしまった。

本来なら、もっと前にその宣告が降されても不思議ではなかった。
彼がイゼベルに従った罪ゆえ、全イスラエルに3年半のききんを呼んだ時、彼は立ち返らなかった。
エリヤを通して大いなるしるしが起きた時も、シリヤが攻めて来て到底勝ち目が無かったというのにそれでも主の憐れみによって勝利した時も、アハブは主に立ち返らなかった。
主は本当に憐れみ深く、忍耐深い。
しかし、それら全ての主に良くしていただいた事をことごとく無視し、なお、主の目に悪を行なったのだ。

『アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。』(1列王記21:25)
アハブの心は、イゼベルよりは悪くなかったかもしれない。自分から進んで悪を行う性質ではなかったかもしれない。
なにしろ、ナボテに語りかけた言い方には、やさしい気配りがみられる。
けれども彼は、イゼベルに選択権や裁量を明け渡した故に、イゼベルの悪の報いはアハブが刈り取る事になってしまった。
「悪を行うことに身を委ねる」、それこそ災いな性質である。

『彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリびとがしたように偶像に従って、はなはだ憎むべき事を行った。』(1列王記21:26)
偶像礼拝を導入するアイデアが思いついたのは、アハブではなくイゼベルだったかもしれない。それでも結局、アハブの罪になってしまう。

歴代の王で、アハブより悪辣な者は、他に幾らでもいたかもしれない。
また、アハブには、民草を気遣う心遣いや、敵をゆるす寛容さも見られた。
しかし、どんなに心遣いや寛容さを為した記憶が、本人自身に沢山あったとしても、また、悪い事を実行した記憶は自身に無いとしても、悪い者に選択権を渡し続け、悪しき意図に同意し続けるなら、その悪辣な者の受けるべき報いは、自分自身に受け、その評判は「最悪」となってしまうのだ。

たとえ、心の中で「自分は悪くない」と思っていたとしても、自分のハンコを、悪用する人に委ねてしまうなら、そのハンコを用いて引き起こされたあらゆる不利な契約や負債は、委ねた本人の責となってしまうのは、この世の常である。
もし「なんで自分は悪い事をした記憶は無いのに、むしろ善良な心を貫いているのに、こんなにも人生、災い続きなのだろう」と感じるなら、自分の人生のハンコを、すなわち、本来自分が持つべき裁量権や選択権を「何者か」に委ねていないかをチェックすべきである。

もしかすると、その「何者か」は、何度も同じ過ちを犯す伴侶かもしれないし、もしかすると、それが「常識」と思っていた程に、無意識に浸透している事柄かもしれない。
たとえ本人自身の記憶に、悪い契約をした、という記憶が無かったとしても、「その者」にハンコを渡し、彼に取引や契約ごとを委ねるなら、悪いわざの報いを受ける事となってしまう。どんなに本人の心や体に、悪い事をした記憶が無いとしても。

『アハブはこれらの言葉を聞いた時、衣を裂き、荒布を身にまとい、食を断ち、荒布に伏し、打ちしおれて歩いた。』(1列王記21:27)
アハブは、エリヤが気に食わない事を言ったから彼を殺せと部下に命じるような事はせず、すぐに自らを低くする姿勢、悲しみを表す姿勢を取った。
彼は、エリヤの言葉を本気で受け止めたのだ。
そして主は、彼が食を断って打ちしおれて歩いた、その、わずかな悔いる行いを見逃さなかった。

『この時、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下さない。その子の世に災をその家に下すであろう」。』(1列王記21:28-29)
ああ、主は何と憐れみ深いお方だろう。
ほんのわずかでも、悔いる姿勢を見せただけで、アハブの生きている時にその災いを見るのを免れた。
実際、アハブ一族にそのさばきが行われたのは、アハブの孫の代だった。
結局、アハブのように、誰に対してもイエスしか言わず、ノーを言わない、その「どっちつかず」の性質の持ち主は、長い間周囲の人々に迷惑をかけ続け、最後には「あの人、なんとなく優しくて、特段悪い事はしなかったけれど、結局、最低だったね。」と評価されてしまうのだ。

私達の中から、アハブのような性質を取り除くべきである。
そして主に対してはいつも熱い思いで仕え、たとえ罪を犯したとしても、ダビデのようにすぐに、悔い改める心を持ち、いつも主に直接伺い、何をしても栄える皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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