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槍を取るサウル、賛美を取るダビデ(1サムエル記19:9)
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無謀・無策のイスラエルに助けの手を延べられた主(1列王記20:13-21)
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イスラエル最悪の王・アハブは、シリヤという敵に「いいえ」を言えず、部下にも「いいえ」を言えず、確固とした信念なしに、ただ全部にハイハイと答えて行った結果、その煮え切らない態度は、イスラエルという国を、無謀な戦争へと導いてしまった。
試験日を忘れていた生徒が、何の対策もしないまま突然試験に臨まれてしまったように、この圧倒的不利な戦争は、勝つ算段も知恵も何もないまま突然訪れてしまった。
しかし主は、一方的に彼らに助けの手を差し伸べられる。

『この時ひとりの預言者がイスラエルの王アハブのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたはこの大軍を見たか。わたしはきょう、これをあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを、知るようになるであろう』」。』(1列王記20:13)
主は何故に、霊的怠慢と背信続きの彼らに、こんなにも憐れみをかけられるのか。
それは「あなたは、わたしが主であることを、知るようになる」ためである。
ただ、主こそ力強い神であり、憐れみ深く恵みに富んでおられる、という事を彼らにありありと示し、主に立ち返るためだ。

『アハブは言った、「だれにさせましょうか」。彼は言った、「主はこう仰せられる、『地方の代官の家来たちにさせよ』」。アハブは言った、「だれが戦いを始めましょうか」。彼は答えた、「あなたです」。そこでアハブは地方の代官の家来たちを調べたところ二百三十二人あった。次にすべての民、すなわちイスラエルのすべての人を調べたところ七千人あった。』(1列王記20:14-15)
主が示される勝利の鍵は、『地方の代官の家来たち』である。
それは、NKJVでは「By the young leaders of the provinces.」、リビングバイブルでは「外人部隊」と訳されている。
つまり、イスラエルの民の誰かではなく、外部の者達が、勝利の鍵となる。

神の声に久しく聞かず、あれだけ大きなしるしが示されてもなお立ち返らないようなイスラエル。
彼らによっては勝利はもたらされない。むしろ主は、そんなイスラエルの力は敢えて用いられず、外部の者達を用いて勝利がもたらされる。
これは、主は全ての事が可能であり、決してあなどってはならないお方である事を、彼らに示されるためかもしれない。

『地方の代官の家来たち』の数は、二百三十二人であった。それと共に、イスラエルの兵は七千人。
それに対し、相手は、十万以上はいたと推測できる。(29節)
人の目には到底勝ち目の無い、しかし、主からは勝利の約束のある戦いが、こうして始まる。

『彼らは昼ごろ出ていったが、ベネハダデは仮小屋で、味方の三十二人の王たちと共に酒を飲んで酔っていた。地方の代官の家来たちが先に出ていった。ベネハダデは斥候をつかわしたが、彼らは「サマリヤから人々が出てきた」と報告したので、彼は言った、「和解のために出てきたのであっても、生どりにせよ。また戦いのために出てきたのであっても、生どりにせよ」。』(1列王記20:16-18)
完全にイスラエルを見下げた態度である。
しかしイスラエルには、主の御言葉による後ろ盾がある。

『地方の代官の家来たちと、それに従う軍勢が町から出ていって、おのおのその相手を撃ち殺したので、スリヤびとは逃げた。イスラエルはこれを追ったが、スリヤの王ベネハダデは馬に乗り、騎兵を従えてのがれた。イスラエルの王は出ていって、馬と戦車をぶんどり、また大いにスリヤびとを撃ち殺した。』(1列王記20:19-21)
まさに、ギデオンの時のような奇跡が起きた。
なぜ、こんな最低な王・アハブの時代に、そんな奇跡が起きたのか?

いかに、アハブのような者であったとしても、主の言葉どおりに守り行うなら、主のお言葉どおり、なるのだ。
これは、誰でもそうである。

ただ、彼がこの時、主の御言葉通りに行なったのは、彼は主に悔い改めて立ち返ったからではなく、御声に聞き従おうと決心したからでもなく、今までどおり、誰にでもハイハイと言ってその場をくぐり抜けやり過ごして来た、彼の「行動パターンの一環」として、であったようだ。
なぜなら、後の彼の言動からは、この出来事から何かを学んだようなふしが見受けられず、敵に対し再び「ハイ」を言ってしまうからだ。

どういう時にハイを言うべきか、あるいはノーを言うべきか、その判別が分からない、という人がいるが、分からないなら、主に伺えば良いのである。
すなわち、聖書を開いて、御言葉には何と書いてあるのかを調べ、それが分からないなら、祈って主と相談し、祈り方も分からないなら、預言者のような、信仰の先輩に聞くのである。
あるいは、全て真実な事、尊ぶべき事、正しい事、純真な事、愛すべき事、誉れある事、また徳といわれるもの、称賛に値するものにこそ心を留め、それに即する方面を選択し、その通り行動するのが、聖書的である。
『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。』(ピリピ4:6-7)

もし私達が主の言葉どおりにして助かった時、祝福された時は、それをただ「ラッキー」で終わりにしてはならない。
その場合はしっかり主に感謝し、主に従順する事がどんなに幸いであり、従わない事がどんなにに呪いであるか、しっかりと心に留めて「学習」し、以後は主に従って歩む努力をすべきだ。
日本人は、場の空気を積極的に読んで、他人の心を害さないよう気を遣う事にかけては、世界一だが、それと同じ要領で、聖なる空気を積極的に読み、主の御心を害さないよう「聖なる気遣い」するよう心掛けるなら、誰よりも早く霊において長けた者となれるはずである。

今回、アハブは、預言者の言葉に従った故に、大勝利がもたらされた。
もし彼がそこから学び、その後は積極的に御声を求めて従って行けば、もっと良い王として歴史に名を残したであろう。
しかし彼は、そうではなかった。
アハブのようではなく、積極的に主の御声を求め、従い、祝福され、その祝福の法則をどんどん学んで体得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

どんな時にも主に向かい賛美するダビデ(1サムエル記19:1-17)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

先々週のダビデの話のつづきに戻り、私達はいかに主に喜ばれる者として整えられるべきかを学びたい。
 サウルは、自分の娘を道具にしてまでダビデを殺そうと色々企んだが、それらは全て虚しく失敗し、ダビデはことごとく守られた。サウルは、主がダビデと共におられ主が守っておられる事を、そこまで見せられても考えを改める事をせず、ダビデを殺す思いを捨てる事を選ばず、さらに殺意を燃やす方へ進んでしまう。
今までは秘かに殺意を抱いていたのに、今度は、おおっぴらに「ダビデを殺せ」と家来達に言った。(1節)
ダビデは、全ての部下達から愛されていたので、衝撃が走っただろうが、ヨナタンは和解の行動に出る。

『ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。』(4節) ヨナタンは、何の罪も犯していないダビデを殺す「罪」を犯さないで下さい、と、聖書の真理に従った嘆願をした。聖書には「殺してはならない」とあるし、また本来、罪なき人を殺そうと謀ったなら、「目には目、いのちにはいのち」として、彼がはかった通り、はかり返されるはずである。(申命記19章)
さらにヨナタンは、ダビデがイスラエルに対して為した良き実績と、サウルは実際にそれを喜んだ事実を思い出させた。少しでも霊的良心が残っている人には、切って捨てるような御言葉引用や、感情的な嘆願、責めなじる言葉よりも、愛と憐れみ、真理に基づいた執り成しの言葉のほうが、はるかに効果的だ。
サウルは、この素晴らしい「執り成し」の言葉を聞きいれて、主エホバにかけて誓った。「わたしは決して彼を殺さない」と。こうしてヨナタンはダビデをサウルの元に連れ戻し、元の平和な状態に戻った。(6-7節)
私達も、色々な権威の下にあって服さねばならないものだが、もし、上に立つ人が、御言葉に反する事をするなら、その罪に関わる事なく、ヨナタンのように知恵深く、愛と真理に基づいて対応したいものである。
ヨナタンによる和解は大成功に終わったように見えたが、サウルはいともあっさりと、主の御名によって立てた自分の誓いを破ってしまう。サウルはまたしても、ダビデに槍を投げ、突き刺そうとしたのだ!(8-10節)

サウルは、いつ悪霊が入ってしまったか。それはサウルとダビデが家にいた時、サウルは槍を手にし、ダビデは主を賛美する竪琴を手にしていた時だった。サウルは賛美よりも槍を選び、その槍のたった一投によって、自分が立てた誓いも、ヨナタンの尊い和解のわざも、全て台無しにしてしまった。
サウルに悪い霊が入るきっかけとなったのは何か。それは、ダビデがペリシテとの戦いで大活躍した事が、大いに関係ある。つまりサウルは、ダビデの活躍への「嫉妬」「恐れ」「怒り」という、悪霊が好む「エサ」を放置したままだったために、再び悪霊をおびき寄せ、その侵入をゆるしてしまったのだ。
私達も悪しき者が自分の中から出て行った時、そのまま放置し、悪霊の好むエサを取り扱わずにいるなら、もっと性質の悪いものに入り込まれてしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまう。(マタイ12:45)
私達もサウルのように、言葉のたった一投・行動のたった一投によって、神と人の前に積み上げた尊いわざを、積み上げて来た尊厳を、一瞬にして台無しにしてしまう事がある。それをしてしまう原因は、槍をいつも手元に置いて手放さない事、人を傷つける言葉を思いの中にいつも置いて手放さない事だ。
 私達には、理不尽で不可避な誘惑が「いわれ」もなくいきなり襲って来るという事は、無い。襲って来るとするなら「いわれ」があるから、すなわち日々、簡単な誘惑に対抗する心の準備を自分でしていないからだ。

 ダビデは、新妻でありサウルの娘であるミカルのいる自分の新居へと逃げたが、そこもサウルからの追っ手が迫って来る。しかし、ミカルの機転によってダビデは逃げる事が出来、命は守られた。(11-17節)
その時の心の状態と祈りを、ダビデは詩篇59篇に記し、彼はそこで切々と主に訴えている。
その時の恐怖、主から守られる願い、また、敵に対する訴えを(1-7節)。しかしやがて主に対する信頼の告白に変わり(8-15節)、そして主への賛美に終わる。(16-17節) どんな状況でも主に向かって心の内を全部主に言い、信仰の告白をし、そうして、主の平安が与えられ賛美をする。これが、ダビデの性質である。
こうしてダビデは10数年の逃亡生活が、これから始まる。この時点のダビデの状況を見るに、あまりにもアンフェアに思われる。神はなぜそんな事を許されるのか、と。しかし後に分かるが、ダビデのこの10数年の逃亡生活こそ、彼が偉大な王となるための人格形成で重要なイベントが目白押しなのだ。全ての事を益として造り変えて下さる主にあって歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
悪しき者に掴まれなくなるために(詩篇41篇)
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賛美と祈りの集会(昼) 2016年9月9日(Fri)

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望みえない時に望みを抱く信仰(ローマ4:13-25)
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イエスの血 - いのち、贖い、きよめ、契約、サタン敗北のしるし(レビ記17:10-14)
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ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる(ピリピ4:8-13)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
荒野に道を、荒地に川を設ける主(イザヤ43:14-21)
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イスラエル最悪の王の性質は「どっちつかず」(1列王記20:1-12)
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主は、それまで人々を主に立ち返らせるために、大いなる御業をイスラエルに示されたが、それにも関わらず、頑として主に立ち返らなかった。
そこで主は、立ち返らない者達を、これから「剣で殺す」事を宣言をされたが、主はすぐにはしない。
なお悔い改めて立ち返るチャンスを与えるために、主こそ力強い方、憐れみ深い方である事を、さらに示される。

この20章においては、主はエリヤ以外の預言者をアハブに遣わして取り扱われる。
アハブの預言者に対する態度は、エリヤに対してとは違い、一見好意的なもののように見える。
結局、彼は主に従いたいのか従いたくないのか、主の預言者を殺したいのかそうでないのか、はっきりしない立場を続けているが、この20章を見ると、もっと分かって来る。
アハブは誰に足してもNOを言わない、「どっちつかず」の性質であるかが。

何に対してもNOを言わない。それは一見、やさしくて平和的であるかのように、無害であるかのように見えるが、実をいうとそれは、熱いか冷たいかのどちらかより遥かに有害な性質だ。
事実、どっちつかずであった彼は、イスラエル史上最悪の王として数えられてしまっているし、また、どっちつかずだったポンテオ・ピラトも、イエス様を苦しめた者として数えられてしまっている。
誰にも反対しない、NOと言わない自分を「やさしい」「人格者だ」と自己評価している人は、実は、その煮え切らない態度が、自分の人生に多くの災いをもたらし、自分の家族や配下の人達から嫌われている原因であると、知るべきである。

シリヤの王ベン・ハダデは、大軍を率いてイスラエルを取り囲んだ時、イスラエルは干魃のため、無能な王の故に弱体化してしまっており、軍隊はほとんどいなかった。
そのような状況で、アハブ王は、シリヤの王から好き放題な事を言われる。
『スリヤの王ベネハダデはその軍勢をことごとく集めた。三十二人の王が彼と共におり、また馬と戦車もあった。彼は上ってサマリヤを囲み、これを攻めた。また彼は町に使者をつかわし、イスラエルの王アハブに言った、「ベネハダデはこう申します、『あなたの金銀はわたしのもの、またあなたの妻たちと子供たちの最も美しい者もわたしのものです』」。』(1列王記20:1-3)

神の民が、随分となめられたものであるが、アハブは、主にも、預言者にも、家来にさえも相談せずに即答してしまう。
『イスラエルの王は答えた、「王、わが主よ、仰せのとおり、わたしと、わたしの持ち物は皆あなたのものです」。』(1列王記20:4)

これは、脅して来る者に対しては最悪の答え方である。
脅して来る者、偽り者に対し、一番してはならないのは、「おおせのとおりです」と同意してしまう事だ。
悪しき者の脅しや偽り事に「同意」してしまうなら、相手はもっと図に乗って、さらに過酷な要求を突き付けて来るからだ。

自分は無理な要求を飲みました、頑張りました、そんな頑張ったわたしに免じて、優しく扱って下さい、などと考えるのは、妄想である。
脅しを仕掛けて来る者には、そんな思考パターンは、全く無い。
むしろ、もっと脅せばもっと搾り取れるだろう、と、さらに脅しの手を強めて来るのだ。
右の頬を打つ人には他の頬をも向けてやりなさい、という「主の御言葉に信仰をもって従う」事と、御言葉への信仰が全く捨て去られた人が「恐怖心から無抵抗になる」のとは、雲泥の差があるのだ。

『使者は再びきて言った、「ベネハダデはこう申します、『わたしはさきに人をつかわして、あなたの金銀、妻子を引きわたせと言いました。しかし、あすの今ごろ、しもべたちをあなたにつかわします。彼らはあなたの家と、あなたの家来の家を探って、すべて彼らの気にいる物を手に入れて奪い去るでしょう』」。』(1列王記20:5-6)
この通り、要求はもっと過酷になってしまった。
最初は、奪われるものはアハブの持ちものに限定されていたのに、今度は、アハブのみならず、家来の全部の家を自由に出入りして何でも奪い放題していい事になってしまった。

悪霊が人に入る時も、同じ原理である。
思いをガードせずに、空中に漂っているあの空想やこの空想を、両手放しで受け入れる事は、危険である。
空中は悪しき霊が座す所であり(エペソ2:2)、思いを開いて、漂っているあの霊この霊を受け入れてしまうなら、もっとたちの悪い者共に、ずかずか入り込まれてしまい、聞きたくもない霊の声が聞こえるようになり、ひどくなると、思いの中が悪霊どもの声々に圧殺され、突然笑い出したり、突然泣き出したり、意味不明な所作をいきなりし出したり、人の神経を逆撫でする絶妙なポイントをついて来たりして、どんどん人々から敬遠されてしまうのだ。
そのような人の性質は「無抵抗」「なんでも受け入れる」である。

だから、霊においても、実生活においても、ノーガードでいてはならない。
真理の帯で引き締め、正義の胸当で胸を守り、平和の福音を足に履き、信仰のたてを手に取って悪しき者の放つ火の矢を消し、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取って悪しき者を攻撃するのだ。(エペソ6:14-17)
そして、絶えず祈り、御霊によって祈り、霊において目覚めておくべきだ。(同18節)

何もかも悪霊に束縛され、奪われ、人々から疎外されてしまった人が唯一、救われる方法は、「その人自身の意志で」イエス様に助けを求めに行く事である。
レギオンという大勢の悪霊は、なぜ鎖を引きちぎる程の脚の力をもってイエス様から逃げる事をしないで、わざわざイエス様の所へと足を進め、自ら追い出されるために行ったのか。
悪霊どもとしては、追い出されたくはなかったであろう。しかし「本人自身が、意思をもってイエス様の所に行く」事の足だけは、どんなに強力な悪霊が、何千匹がかりで阻止しようとも、それを止める事は出来ないのだ。(マルコ5章)

『そこでイスラエルの王は国の長老をことごとく召して言った、「よく注意して、この人が無理な事を求めているのを知りなさい。彼は人をつかわして、わたしの妻子と金銀を求めたが、わたしはそれを拒まなかった」。』(1列王記20:7)
アハブは相手の要求が過酷になった時、イスラエルの神にではなく、家来に相談した。
あんなにも、ありありと、イスラエルの神・主のわざを見ておきながら、主に帰らず、国をこんなにも弱体化させたまま何も出来ないでいる、というのに。

『すべての長老および民は皆彼に言った、「聞いてはなりません。承諾してはなりません」。それで彼はベネハダデの使者に言った、「王、わが主に告げなさい。『あなたが初めに要求されたことは皆いたしましょう。しかし今度の事はできません』」。使者は去って復命した。』(1列王記20:8-9)
ここまでで、アハブは、シリヤの王に対しても、家来に対しても、全部「イエス」の回答しか返していない。
最初、シリヤに対して「イエス」で答えたが、家来と相談した時、シリヤに対して「ノー」をしなさいという勧めを、アハブは「イエス」し、結果、アハブはシリヤに「ノー」を突きつける事となった。
このように、複数の、相反する人達に対して全部「イエス」で返すなら、おのずと必ず誰かを裏切る事になり、激しい怒りを買って、相手からも身内からも信用されなくなって行く。

『ベネハダデは彼に人をつかわして言った、「もしサマリヤのちりが、わたしに従うすべての民の手を満たすに足りるならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記20:10)
つまり、自分の軍勢の人数は、サマリヤの砂粒の数よりも多いぞ、という脅しである。

『イスラエルの王は答えた、「『武具を帯びる者は、それを脱ぐ者のように誇ってはならない』と告げなさい」。』(1列王記20:11)
武具を帯びる者とは、これから戦いをしようとする者、それを脱ぐ者は、戦いで勝敗が決まった者の事である。つまりアハブが言いたいのは、まだ戦ってもいないのに勝ち誇ったような事を言うな、という事である。

『ベネハダデは仮小屋で、王たちと酒を飲んでいたが、この事を聞いて、その家来たちに言った、「戦いの備えをせよ」。彼らは町にむかって戦いの備えをした。』(1列王記20:12)
こうして、戦いの火蓋が切って落とされるが、アラムの軍勢は「地に満ちていた」のに対し、イスラエルの軍勢は「二つの群れのやぎのよう」であった。(27節)
軍勢の数で比べるなら、イスラエルに勝ち目は無い。

このような状態で、策も根拠も無く、ただ流されるままに戦いの火蓋が切って落とされてしまったが、主は、そんな無策・無謀・流されるまま危機に陥って行ったイスラエルに救いの手を差し伸べられる。
なぜなら、主こそ力があり憐れみ深く頼りがいのある神である事を、人々に示されるためだ。

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