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真実を伝える預言者を憎んで、耳障りの良い事を言ってくれる人達を大勢囲ったアハブ(1列王記22:1-9)
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- pastor 2016-9-26 22:30
真実を伝える預言者を憎んで、耳障りの良い事を言ってくれる人達を大勢囲ったアハブ(1列王記22:1-9)
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1列王記の最終章は、イスラエル最悪の王、アハブの死で終わる。
『スリヤとイスラエルの間に戦争がなくて三年を経た。しかし三年目にユダの王ヨシャパテがイスラエルの王の所へ下っていったので、イスラエルの王はその家来たちに言った、「あなたがたは、ラモテ・ギレアデがわれわれの所有であることを知っていますか。しかもなおわれわれはスリヤの王の手からそれを取らずに黙っているのです」。』(1列王記22:1-3)
20章では、シリヤが圧倒的な大軍を率いて攻めて来た事が二度あったにもかかわらず、二度とも、主の一方的な憐れみ故に勝利できた。
それなのにアハブは、主に感謝せず、主に聞き従おうともせず、勝手にシリヤと契約を結んで、みすみす王を逃してしまった経緯がある。(1列王記20:34)
それ以来、シリヤはイスラエルに攻めてくる事はしなかったものの、シリヤは、イスラエルに返還すると約束していた町々を、約束どおり返していなかった。
アハブはシリヤと「契約」を結んだのだから、本来、外交的に使者を遣わして申し出るのが筋であるはずだが、いきなり「奪い返す」という暴力的な手段に訴えようとしている。
それも、ヨシャパテ王が、友好的な関係を結ぼうとして来たタイミングで。
『彼はヨシャパテに言った、「ラモテ・ギレアデで戦うためにわたしと一緒に行かれませんか」。ヨシャパテはイスラエルの王に言った、「わたしはあなたと一つです。わたしの民はあなたの民と一つです。わたしの馬はあなたの馬と一つです」。ヨシャパテはまたイスラエルの王に言った、「まず、主の言葉を伺いなさい」。』(1列王記22:4-5)
アハブはまたしても、主にも伺わないまま、戦いに出ようとした。
ヨシャパテが友好的な態度で来た、という、たったそれだけで、自分でシリヤと結んだ契約を破棄し、ヨシャパテと一緒にシリヤに戦い挑もう、としたのだ。
全く行き当たりばったりで、思慮に欠けている。
そこでヨシャパテは、まず「主(エホバ)」に伺って下さい、とアドバイスする。
ヨシャパテが南ユダ王国の良い王として数えられているのは、主に聞くたしなみがあったからである。
彼は良い王ではあったが、この時、アハブに「わたしとあなたは一つです」と言ってしまい、そしてアハブと一緒になって、この欲望と偽りの争いごとに加担した故、その報いを受ける事になってしまう。(2歴代誌19-20章)
主は、悪い交わりとは関わりを持ってはならない、と戒められる。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)
主は、私達の内に住まわれる。
それ故、もし私達の内に汚れたものがあるとするなら、聖であられる主は、共にいてくださらない。
だから、汚れた行いや汚れた交友関係からは出ていくべきであり、もし既に出ているのであれば、悪者同士が裏切りあったり騙しあったり、争いあったりする中へと入っていってはならない。
ヨシャパテ王は自ら入って行ってしまった故に、災いをその身に招いてしまう事になるが、その時、主に依り頼み、主に助けを求めた故に彼は助かり、勝利し、彼の治世は栄える事となった。(2歴代誌20章)
『そこでイスラエルの王は預言者四百人ばかりを集めて、彼らに言った、「わたしはラモテ・ギレアデに戦いに行くべきでしょうか、あるいは控えるべきでしょうか」。彼らは言った、「上っていきなさい。主(アドン:ご主人)はそれを王の手にわたされるでしょう」。』(1列王記22:6)
アハブには、400人ほどの預言者がいた。
エリヤは、バアルの預言者400人と、アシェラの預言者450人と戦ったが、アハブは、預言者をたくさん集めるのが好きなようである。
しかし、預言者は、頭数が多ければ良いというものではない事はエリヤの時に証明されたはずだ。
神の国の運営は、多数決の原理ではない。
60%の預言者がイエスで、40%がノーなら、60%で行こう、というようなものでは決して無い。
主はただ、100%間違いの無い、真実な御言葉によって示されるものであるからだ。
船頭多くして船山に登る、ということわざもある通り、不完全な人間による指導の声が多いのは、逆に、害悪でしかない。
パウロは言う。
『神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:1-4)
アハブはまさに、「健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれて」いる状態だ。
これらの大勢の預言者達は、「”主”は敵を王の手に渡される」と口をそろえて言っているが、この”主”は、エホバではなく、アドン(主人)である。
「主よ、主よ、」と連発する人が、その品性や結ぶ実において、あまりにキリストから離れているようであるなら、その人の「主」が一体どなたで、どのようなお方であるのか、確認した方が良い。
ヨシャパテ王は、400人皆が皆こぞってアハブに都合の良い事を告げるのを見て、何か非常に胡散臭いものを感じたのだろう。
『ヨシャパテは言った、「ここには、われわれの問うべき主(エホバ)の預言者がほかにいませんか」。イスラエルの王はヨシャパテに言った、「われわれが主(エホバ)に問うことのできる人が、まだひとりいます。イムラの子ミカヤです。彼はわたしについて良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言するので、わたしは彼を憎んでいます」。ヨシャパテは言った、「王よ、そう言わないでください」。』(1列王記22:7-8)
アハブは、主エホバの御心を伺うことのできる預言者が、いる、と答えた。
いたのに、その預言者はそこには呼ばず、彼以外の、しかも主エホバの御心を伺う事をしない400人を連れてきて、こぞってアハブに都合の良い事を言わせ続けていた。
アハブはその預言者を憎んでいるとヨシャパテに言ったが、その憎んでいる理由は、彼はアハブに良い事を預言せず、悪いことばかり預言するからだ、と言った。
自分が気に入る・気に入らないの基準で、主の言葉を伝える人を受け入れたり拒否したりする。
そのような人は、アハブの道、滅んでしまう人の道を歩んでいるのだ。
『そこでイスラエルの王は役人(サリィス:宦官)を呼んで、「急いでイムラの子ミカヤを連れてきなさい」と言った。』(1列王記22:9)
イスラエルの民の中に、宦官はいてはならないはずである。(申命記23:1)
しかしイゼベルは、宦官を囲っていた。そしてイゼベルは、その宦官に突き落とされ、殺される事となる。(2列王記9:33)
このように、イスラエルの大勢の人達は、アハブ王の悪しき慣習の報いと”とばっちり”を被っていた。
それで主は、もはやアハブに憐れみを投げかけるのはもう止めて、アハブの悪政で苦しめられている大勢の人達を救うために、アハブに災いを定められたのだ。
アハブは次々と教師を寄せ集め、空想へとそれて行き、その身を滅ぼすに至ってしまう。
私達は、無益な空想話ではなく、永遠に存続する真理の御言葉に心を留め、御言葉を伝える人の教えや戒めを真摯に受け止めつつ、歩むべきである。
たとえそれが、自分の耳に良くても痛くても、また、自分に都合が良くても悪くても。
御言葉が正しく語られる健全な交わりの中で、健やかに成長していく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデとヨナタンから見る穏やかな者の幸い(1サムエル記20:1-23)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
苦難の内にある聖徒を主が助けられる時、主ご自身が奇跡でもって直接助けられる事はあるが、主にある兄弟姉妹の手を通して助けられる事が多い。それは助ける側も、助けられる側も、共に主のものであり、互いが愛し合う事によって、全ての人が、彼らが主の弟子である事を知るためである。(ヨハネ13:34-35)
前回、聖霊の直接介入によってサウル王から助けられたダビデは、信仰の友でありサウルの子でもあるヨナタンの所に行って訴える。自分にはどんな罪があって、あなたの父は私を追いかけるのか、と。(1)
この状況で知っておくべき前提知識は、この時ダビデは、ヨナタンさえも信頼していいのか分からない状態だった事だ。ヨナタンから聞いていた所では、自分はサウルを執り成し、もう安全だから戻って来なさい、だったのに、全然安全ではなく、ヨナタンに会う間もなく逃げた状態だった。情報交換する間も無いまま時間が経ち、もしや彼は父と共謀していたのでは、という疑心暗鬼が生まれ育っても仕方ない状況である。
サウルがなおダビデの命を狙う事について、ヨナタンはどういう立場にあるのか、探りを入れるためにそう言ったのであろうが、ヨナタンは答える。そんな事は絶対無い、父は必ず自分の耳に入れる筈だ、と。(2)
ヨナタンはどうしてこう、ちぐはぐな、脳天気な返事を返すのか。信仰の兄弟姉妹が、ちぐはぐな返事を返した時、相手を「人でなし」と決めつけて怒ったり責めたりするべきでない。ヨナタンの言葉を冷静に見ると、彼は、父サウルがダビデに槍を投げた事さえも知らなかった様子である。命の危険に晒され続けたダビデからすれば「なんでそんな事も知らないのか」と激昂しても無理はない状況だが、ヨナタンからすれば、父はずっとダビデに手をかけないという誓いを今まで守り続けてくれていた、と信じていたのではなかろうか。
もし二人のうち、どちらかが怒りをぶちまけ、「自分はこうだと言っているだろう」「いや私は和解させた、けちをつけるあなたが違う」と、自分の義を主張し、怒りの感情に心を注ぐなら、誤解したまま喧嘩別れしていただろう。それではせっかくの信仰の麗しい交わりが破壊されサタンの思う壺である。どれ程多くの信仰の交わりが、冷静になる事を怠り、サタンの罠にかかり、友情関係、夫婦関係、信頼関係が破壊されただろう。
『怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。』(箴言14:29 -30) 幸い二人には、怒りを遅くする「たしなみ」があった。
ダビデはヨナタンの父サウルを悪く言わず、むしろ擁護しつつ事実を伝え(3)、ヨナタンも短絡的なアドバイスはせず「あなたの言われる事は、何でもあなたのためにしましょう。」(4)と、ダビデに今必要な助けとなるよう申し出た。柔和な心と穏やかな言葉は、悪魔サタンの罠を砕く最善の武器である。神経を逆撫でするような、感情を害する状況や言葉に、穏やかに応対できる程の心のゆとりが与えられるよう、祈るべきだ。
サウルの王宮では月毎の例祭(民数記28:11-15)が守られていたが、ダビデはそれに出席しない事で、サウルに殺意があるかどうかを計ろうと提案し(5)、ヨナタンもまた、ダビデをかくまう事を主の前で誓った。
サウルが心配している通り、ダビデの存在は、ヨナタンが王になる事を脅かしているかもしれないが、ヨナタンはそんな事より、ダビデをかくまう事と、主の御旨が成る事とを選んだ。主にある兄弟姉妹というものは、世の栄華や地位、富よりも神の国のことを、兄弟姉妹を守る事を優先させるものであるが、ヨナタンの、主の御旨に従順する思いは、とても偉大なものであった事がこれら一連の事を通して明らかにされる。
『もしわたしがなお生きながらえているならば、主のいつくしみをわたしに施し、死を免れさせてください。またわたしの家をも、長くあなたのいつくしみにあずからせてください。主がダビデの敵をことごとく地のおもてから断ち滅ぼされる時、ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。』(14-16)
なんとヨナタンは、この時、ダビデに命乞いをしているような言葉をかけている。国家から追われ、命の危険が迫っているのは、ダビデのほうで、王子ヨナタンのほうが圧倒的に強い立場であるはずなのに。
ヨナタンは、信仰によって知っていたのだ。今のままでは必ずサウル家は没落し、ダビデが王になる、と。
今、ダビデはどんなに立場が弱く、風前の灯のように見えても主の御旨を行っており、サウルはいかに栄えているようでも主の御旨を損ねているからだ。実際、ダビデは王となり、ヨナタンの家に慈しみが施される。
ダビデとヨナタンの穏やかな受け答えは、破壊を締め出し、麗しい友情と、将来と、いのちを生み出した。
今、まことのダビデであるイエス様は、今の世でどんな風に見えたとしても、やがては世を裁く永遠の王として来られる。今、私達はヨナタンのように、信仰によって知るべきである。来るべきイエス様の王国に備え、信仰の兄弟姉妹を助け合うのだ。それによって私達が主に属する者達であると、明らかにされるためだ。
神の子の性質 - 罪を犯しても罪に留まり続ける事ができない(1ヨハネ3:1-12)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
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- pastor 2016-9-23 21:30
悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1列王記
- 執筆 :
- pastor 2016-9-21 17:50
悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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アハブは再びエリヤと会合する。
『そのとき、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「立って、下って行き、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いなさい。彼はナボテのぶどう畑を取ろうとしてそこへ下っている。あなたは彼に言わなければならない、『主はこう仰せられる、あなたは殺したのか、また取ったのか』と。また彼に言いなさい、『主はこう仰せられる、犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう』」。』(1列王記21:17-19)
エリヤが主から呼ばれ、アハブと会うように言われたのは、アハブとイゼベルが共謀して義人ナボテを殺し、彼のぶどう畑を取り上げるために出かけるタイミングであった。
アハブはそれまで、主から、その身に見合わないほどの憐れみが与えられていたにもかかわらず、主に立ち返らず、また、警告を受けてもなお潔白な人の血を流し、その血塗られた地所を手に入れようとして出たその時、彼に与えられていた「主の憐れみの分量」は尽きてしまったのである。
『アハブはエリヤに言った、「わが敵よ、ついに、わたしを見つけたのか」。』(1列王記21:20a)
アハブ王はエリヤを見た時、会いたくない者に出くわしてしまったかのように、「敵」と評した。
しかしエリヤは別に、アハブに不当に危害を加えようとした訳ではなかった。
エリヤはただ、主の前で悪を行なってきたアハブに、何度も何度も警告して来ただけであったが、アハブは、言われても言われても聞かず、その故に諸々の天的な災難がアハブに起きて来ただけなのだ。
アハブはそんなエリヤを煙たがり、口うるさい男、不思議な奇跡を起こしてまでして自分を悩ます者、と、勝手な評価を下していたのだ。
『彼は言った、「見つけました。あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、』(1列王記21:20b)
原文的には、「あなたは、主の目に悪と見られるわざへと、あなた自身を売り渡したゆえ、あなたを見つけました。」となる。
悪のわざへと、自分自身を売り渡す・・・そう、彼はまさに自分自身を、そしてイスラエルの王権とを、イゼベルへと売り渡していた。
彼はイゼベルのアドバイスに従い、卑怯な手を用いてでも得られる「恩恵」に預かるために、彼女に言われるまま実行し続けて来たのだ。
私達も、サタン由来の悪しき意図のほうが御言葉よりも「得」だと思い、その体を売り渡し続けるなら、アハブと同じようなさばきを受ける者となってしまう。
アハブは、イゼベルを拒絶して、主に悔い改める機会は何度もあったのに、彼は結局、不当な利益を得たいがために、イゼベルに自分自身を売り渡してしまったのだ。
エリヤはそれで、主の言葉を伝えに行った。
『あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、わたしはあなたに災を下し、あなたを全く滅ぼし、アハブに属する男は、イスラエルにいてつながれた者も、自由な者もことごとく断ち、またあなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにするでしょう。これはあなたがわたしを怒らせた怒りのゆえ、またイスラエルに罪を犯させたゆえです。
イゼベルについて、主はまた言われました、『犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう』と。アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」。』(1列王記21:20b-24)
いよいよアハブに対し、彼の一族郎党は、ヤロブアムやバシャの家同様、皆殺しにされてしまう宣告が下された。
アハブは、預言者に対してもイゼベルに対しても、神に対しても悪魔に対しても、全部「イエス」と言って肯定するような、どっちつかずの態度を続けていた故に、結局、あっちに迷惑をかけ、こっちに迷惑をかけ、主の裁きを先延ばしにし、そうして多くの人々に長時間迷惑をかけた末に、イゼベルに加担して、ようやく滅びの裁きが確定してしまった。
本来なら、もっと前にその宣告が降されても不思議ではなかった。
彼がイゼベルに従った罪ゆえ、全イスラエルに3年半のききんを呼んだ時、彼は立ち返らなかった。
エリヤを通して大いなるしるしが起きた時も、シリヤが攻めて来て到底勝ち目が無かったというのにそれでも主の憐れみによって勝利した時も、アハブは主に立ち返らなかった。
主は本当に憐れみ深く、忍耐深い。
しかし、それら全ての主に良くしていただいた事をことごとく無視し、なお、主の目に悪を行なったのだ。
『アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。』(1列王記21:25)
アハブの心は、イゼベルよりは悪くなかったかもしれない。自分から進んで悪を行う性質ではなかったかもしれない。
なにしろ、ナボテに語りかけた言い方には、やさしい気配りがみられる。
けれども彼は、イゼベルに選択権や裁量を明け渡した故に、イゼベルの悪の報いはアハブが刈り取る事になってしまった。
「悪を行うことに身を委ねる」、それこそ災いな性質である。
『彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリびとがしたように偶像に従って、はなはだ憎むべき事を行った。』(1列王記21:26)
偶像礼拝を導入するアイデアが思いついたのは、アハブではなくイゼベルだったかもしれない。それでも結局、アハブの罪になってしまう。
歴代の王で、アハブより悪辣な者は、他に幾らでもいたかもしれない。
また、アハブには、民草を気遣う心遣いや、敵をゆるす寛容さも見られた。
しかし、どんなに心遣いや寛容さを為した記憶が、本人自身に沢山あったとしても、また、悪い事を実行した記憶は自身に無いとしても、悪い者に選択権を渡し続け、悪しき意図に同意し続けるなら、その悪辣な者の受けるべき報いは、自分自身に受け、その評判は「最悪」となってしまうのだ。
たとえ、心の中で「自分は悪くない」と思っていたとしても、自分のハンコを、悪用する人に委ねてしまうなら、そのハンコを用いて引き起こされたあらゆる不利な契約や負債は、委ねた本人の責となってしまうのは、この世の常である。
もし「なんで自分は悪い事をした記憶は無いのに、むしろ善良な心を貫いているのに、こんなにも人生、災い続きなのだろう」と感じるなら、自分の人生のハンコを、すなわち、本来自分が持つべき裁量権や選択権を「何者か」に委ねていないかをチェックすべきである。
もしかすると、その「何者か」は、何度も同じ過ちを犯す伴侶かもしれないし、もしかすると、それが「常識」と思っていた程に、無意識に浸透している事柄かもしれない。
たとえ本人自身の記憶に、悪い契約をした、という記憶が無かったとしても、「その者」にハンコを渡し、彼に取引や契約ごとを委ねるなら、悪いわざの報いを受ける事となってしまう。どんなに本人の心や体に、悪い事をした記憶が無いとしても。
『アハブはこれらの言葉を聞いた時、衣を裂き、荒布を身にまとい、食を断ち、荒布に伏し、打ちしおれて歩いた。』(1列王記21:27)
アハブは、エリヤが気に食わない事を言ったから彼を殺せと部下に命じるような事はせず、すぐに自らを低くする姿勢、悲しみを表す姿勢を取った。
彼は、エリヤの言葉を本気で受け止めたのだ。
そして主は、彼が食を断って打ちしおれて歩いた、その、わずかな悔いる行いを見逃さなかった。
『この時、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下さない。その子の世に災をその家に下すであろう」。』(1列王記21:28-29)
ああ、主は何と憐れみ深いお方だろう。
ほんのわずかでも、悔いる姿勢を見せただけで、アハブの生きている時にその災いを見るのを免れた。
実際、アハブ一族にそのさばきが行われたのは、アハブの孫の代だった。
結局、アハブのように、誰に対してもイエスしか言わず、ノーを言わない、その「どっちつかず」の性質の持ち主は、長い間周囲の人々に迷惑をかけ続け、最後には「あの人、なんとなく優しくて、特段悪い事はしなかったけれど、結局、最低だったね。」と評価されてしまうのだ。
私達の中から、アハブのような性質を取り除くべきである。
そして主に対してはいつも熱い思いで仕え、たとえ罪を犯したとしても、ダビデのようにすぐに、悔い改める心を持ち、いつも主に直接伺い、何をしても栄える皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
いにしえの昔から私達の事を分かりきっておられた主(イザヤ44:1-8)
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- pastor 2016-9-21 17:40
世の価値観と神の価値観が相対する時(1列王記21:1-16)
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なぜアハブはイスラエル最悪の王と評されるのか。
その主な原因は、誰に対しても「イエス」と答えるけれど「ノー」を言えない、どっちつかずの性質ゆえであるが、そればかりでない。
彼は主から、見合わないほどの憐れみと助けを、何度も頂いておきながら、その時その時で「ラッキー」で終わらせ、学ぶ所が無く、主に恩を報いようとも、誠実に歩んで行こうともしない「恩知らず」であり、それでいて、主から叱責と警告をもらったら不機嫌になってふさぎ込む。
そのように、恩知らずでいい所どりの信仰、行き当たりばったりの信仰の彼であるが、その性質は21章において、ますますはっきりする。
『さてエズレルびとナボテはエズレルにぶどう畑をもっていたが、サマリヤの王アハブの宮殿のかたわらにあったので、アハブはナボテに言った、「あなたのぶどう畑はわたしの家の近くにあるので、わたしに譲って青物畑にさせてください。その代り、わたしはそれよりも良いぶどう畑をあなたにあげましょう。もしお望みならば、その価を金でさしあげましょう」。ナボテはアハブに言った、「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲ることを断じて(主エホバにあって)いたしません」。』(1列王記21:1-3)
アハブは一見、何の変哲もない不動産売買を持ちかけているようである。
しかもアハブは、ナボテという平民に、好条件と気遣いを示したのに、それをナボテは断った。
ナボテのほうが不親切で偏屈者に見えるが、実は、御言葉に照らすなら、アハブのほうが悪く、ナボテのほうが正しい。
世の中の常識では、Aのほうが良くてBのほうが悪い、と見える事柄でも、実は神の国においては、Aのほうが悪くBのほうが正しかった、というような事は多々ある。
今回もまた、そうである。
御言葉には、次のように書いてある。
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
『君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである。』(エゼキエル46:18)
ナボテは、主エホバの御名によって、アハブの申し出を拒否した。
彼は主エホバへの熱心ゆえに、主に対し悪を行なってばかりいるアハブが気に食わなかったという事も、あったかもしれない。
ともかく、御言葉に照らすなら、ナボテのほうが御言葉に適う事をしたのであり、アハブは違った事を行なったのは事実である。
『アハブはエズレルびとナボテが言った言葉を聞いて、悲しみ、かつ怒って家にはいった。ナボテが「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲りません」と言ったからである。アハブは床に伏し、顔をそむけて食事をしなかった。』(1列王記21:3-4)
アハブはナボテを王に逆らった科でいきなり死刑にする事はせず、悲しみ怒って、ふて寝した。
もしナボテが、超独裁国に生まれていたなら、すぐに殺され、財産没収されていた事だろうが、それに比べるならアハブは、まだましなようにも見える。
そこをもってしても、なぜ彼は「最悪な王」と評されているのか。
その疑問を持ち、なぜなのかを考え、御言葉から調べる習慣こそ、私達が霊的成長する上で非常に大事である。
『妻イゼベルは彼の所にきて、言った、「あなたは何をそんなに悲しんで、食事をなさらないのですか」。彼は彼女に言った、「わたしはエズレルびとナボテに『あなたのぶどう畑を金で譲ってください。もし望むならば、その代りに、ほかのぶどう畑をあげよう』と言ったが、彼は答えて『わたしはぶどう畑を譲りません』と言ったからだ」。妻イゼベルは彼に言った、「あなたが今イスラエルを治めているのですか。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがエズレルびとナボテのぶどう畑をあなたにあげます」。
彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印をおして、ナボテと同じように、その町に住んでいる長老たちと身分の尊い人々に、その手紙を送った。彼女はその手紙に書きしるした、「断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせ、またふたりのよこしまな者を彼の前にすわらせ、そして彼を訴えて、『あなたは神と王とをのろった』と言わせなさい。こうして彼を引き出し、石で撃ち殺しなさい」。』(1列王記21:5-9)
権威のある者が、気に食わない無実の人に濡衣を着せ、抹殺し、その財産を取り上げる事は、確かに邪悪であるが、この世では珍しくはないように思えるかもしれない。
しかし十戒に書いてある。
偶像礼拝してはならない、主の御名をみだりに唱えてはならない、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人について偽証してはならない、隣人のものを欲しがってはならない、と。
イゼベルの行おうとする事は、それら全てを破る事であるが、アハブは自分が欲しいものを手に入れられるなら、手段が邪悪であっても、御言葉に背いていても、目をつぶろう、と、権威の実印を彼女にわたしてしまう。
本来、神の民であるなら、御言葉に反する事を勧められた来た時には、「御言葉にこう書いてある」と言って、きっぱり退けるべきだが、アハブは、イゼベルという女をなすがままにした。
『あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:20-22)
私達は、神の民を惑わすイゼベルを、なすがままにさせたり、ましてや、大切な実印を邪悪な者に明け渡してはならない。
イゼベルがアハブの印鑑を用いて成した事は、世の中では珍しくなくても、神の国では邪悪な事だった。
『その町の人々、すなわち、その町に住んでいる長老たちおよび身分の尊い人々は、イゼベルが言いつかわしたようにした。彼女が彼らに送った手紙に書きしるされていたように、彼らは断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせた。そしてふたりのよこしまな者がはいってきて、その前にすわり、そのよこしまな者たちが民の前でナボテを訴えて、「ナボテは神と王とをのろった」と言った。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石で撃ち殺した。』(1列王記21:11-13)
彼らは、二人以上の証人の証言とか(申命記17:6)、断食を布告するとか、一見聖書的な事を言ってはいるが、結局、彼らがした事は偽証であり、殺人である。
彼らは、二人のよこしまな者を連れてきて、偽りの証言をさせ、ナボテを死刑にしたが、それも明らかに律法に反している事である。
彼らはなまじ御言葉を知っている故に、知らないで犯す罪より、重い。
申命記19章に書いてある。偽りの証人を立てて相手を陥れる事が発覚した場合、手には手、歯には歯、いのちにはいのちで返さなくてはならない、と。
そして彼らは、それに従って裁かれてしまう事になる
アハブは思うかもしれない。
自分は邪悪な心は持っていませんでした、むしろナボテに親切にしました、自分は善良です、と。
しかし、この世の契約ごとにおいても、もし第三者に印鑑を託したなら、彼がその印鑑を用いて為した事、イコール本人の意思決定と見做され、責任がつきまとうのと同じように、アハブがイゼベルに印を渡して委託したのなら、イゼベルがした事は、アハブ本人自身がした事となる。
これは、私達についても全く同じであり、もし私達が、主を知らない者にアドバイスされた通り実行したり、その者に自分の支配権や行動権を託したりするなら、その者の邪悪な価値観に基いて受けるべきさばきを負ってしまう。
こうして、ナボテという義人は、殺された。
義人の血が流されるなら、その血はその土地から主に向かって叫ぶ。
そしてその土地は、血を流した者に対して「不作」を返し、その者は、働いても種を蒔いても実りが無く、呪われた者となってしまう。(創世記4章)
無実ゆえに流されてきた血は、決して虚しく消える事は無い。
その血は主の御前で叫ぶ。主はその人達のたましいに安息を与えられ、そして主の時が来た時、血を流した者達は必ず、その血を飲まされる事となる。(黙示録6:9-11,16:6)
『イゼベルはナボテが石で撃ち殺されたのを聞くとすぐ、アハブに言った、「立って、あのエズレルびとナボテが、あなたに金で譲ることを拒んだぶどう畑を取りなさい。ナボテは生きていません。死んだのです」。アハブはナボテの死んだのを聞くとすぐ、立って、エズレルびとナボテのぶどう畑を取るために、そこへ下っていった。』(1列王記21:15)
こうしてアハブとイゼベルは、せっかく主の憐れみが示されて、悔い改めるべき時期が与えられていたのに、それを無視し、あたかも主がいないかのように、何をしても許されるかのようにふるまい、しまいには、偽証をして無実の血を流し、その持ち物を奪った。
このような、主を敬わない態度を取り続ける者には、やがて滅びが追いついてしまう。
私達は、この世の常識や慣習と神の国の真理との間で、板挟みになる事はある。
しかしその都度、私達御言葉に従う道を選択し、歩んで行くべきである。





