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イエスの血 - いのち、贖い、きよめ、契約、サタン敗北のしるし(レビ記17:10-14)
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- pastor 2016-9-8 13:00
私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる(ピリピ4:8-13)
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- pastor 2016-9-7 23:00
イザヤ書 講解説教メッセージ
荒野に道を、荒地に川を設ける主(イザヤ43:14-21)
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【概要】
神はイスラエルがバビロン捕囚に遭うことをイザヤの時代から予告されていましたが、同時にバビロンを裁き、イスラエルを救い出すことも約束されていました。神は過去の罪を赦し、荒野に道を、砂漠に川を設けて、新しいことをなさる方です。たとえダチョウやジャッカルのような者であっても、主の御霊が注がれるならば、主の栄光をほめたたえる者として新しく造り変えてくださいます。
【聖書箇所】
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イザヤ43:14-21
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詩篇137:1-9
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ヨブ39章
【慰めの言葉】
神は私たちが罰を受けている時でも、私たちを見捨てず、最終的には救い出してくださる方です。心の底から「ごめんなさい」と主に祈り、赦しを求めたなら、もう罪によって責められることはありません。主の御霊が注がれるならば、いかに冷たい心を持つ者であっても、主を知り、主を崇め、新しくされることができます。
【励ましの言葉】
神は私たちの親であり、他の者が神の子どもをいじめることを決して許されません。主は、海の中に道を設け、激しく流れる水の中に通り道を設けてくださる方です。出エジプトの時のように、追い詰められた状況からでも必ず救い出してくださいます。主は新しいことをなさいます。今もうそれが起ころうとしています。乾いている人生、敵によって揉まれている人生、囚われて苦労する人生に、主は生ける水を、命の水を川々と流してくださいます。知恵が欠けている者は、誰にでも惜しげなく知恵を与えてくださる主に求めるべきです。主は豊かに与えてくださいます。
【戒めの言葉】
神に逆らい続けると、個人には人というムチが、国全体には国というムチが来ます。
【悔い改めの促しの言葉】
自分が良くないことをやって、明らかに罪の責めを受けていることが分かったなら、心の底から主に「ごめんなさい」と祈り、赦しを求めなさい。私たちは神の御前で、野の獣がやるような卑劣なこと、ジャッカルやダチョウがやるような卑劣なことをやってきました。しかし主に求めるならば、主は新しく造り変えてくださいます。
【勧めの言葉】
私たちは主の栄誉を宣べ伝えるために造られました。主がなさったわざを見て、聞いて、味わって、そして主をほめたたえるように生きましょう。先のこと、昔のことを思い出すのをやめなさい。主がなされる新しいことに目を向けなさい。赦されたことを確信し、過去の罪にいつまでも縛られることから卒業しなさい。主に聞き従おうとするならば、主は生かしてくださいます。荒野に水を、荒れ地に川を流させてくださいます。ただ主に求め続け、主にとどまり続けるべきです。
【AIによる文字起こし】
【第1部】(冒頭〜詩篇137篇4節まで)
今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書43章14節から21節です。まず、14節と15節をお読みいたします。
「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。
『あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデア人を喜び歌っている船から突き落とす。
わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。』」
(イザヤ43:14-15)
アーメン。
それでは、主が今日、私たちに語ってくださることを、心を開いて受け取りましょう。
このバビロンに関する預言について、まず知っておきたい大切な点があります。イザヤの時代は、バビロンが覇権を握る時代よりも、はるか以前です。イザヤの頃、バビロンはまだ興り始めたばかりで、今後の歴史の中で大帝国となる姿を、まだ十分には現していませんでした。
しかしイザヤは、この預言書の中で、やがてバビロンが台頭し、イスラエルを苦しめることを告げています。当時のバビロンは小さく、力も決して強い国ではありませんでしたが、のちに勢力を増し、横暴とも言えるほどの力を振るう者たちとなっていきます。
主は、イスラエルがバビロンに捕囚されることを、すでにご存じでした。けれども同時に、主はその先に、回復と希望の御計画を備えておられるということを、すでにこのイザヤの時代に、預言を通して語ってくださったのです。
イスラエルを苦しめる者、それがバビロンです。主は、「あなたがたのために、カルデア人を、彼らが喜び歌っている船から突き落とす」と仰せになります。これは、バビロンがイスラエルを苦しめる時が来ることを、主があらかじめ知っておられた、ということでもあります。
では、神はわざわざご自分の民に試練を送り、苦しみを与えるお方なのでしょうか。
私たちと主との関係は、しばしば親と子の関係にたとえられます。子が道を踏み外し続けるなら、親はその子を正すために、時に厳しさをもって臨みます。守りの手を一時退かれ、「自分の選びの結果を学ぶ」ことを許されることもあります。
しかし、もしそこに第三者が入り込み、「言うことを聞かないから」と、親の権威を越えて子を痛めつけるなら、親はそれを決して見過ごしません。わたしが正すことと、他者が虐げることは別問題だからです。主も同じです。ご自分の民が不従順ゆえに戒めを受けることがあったとしても、主は、外部の者がその限度を越えて虐げることを、決して許されません。
主は、のちにバビロンが「むち」として用いられることを、すでにご存じでした。個人が聞き従わないときに、時に“人”がむちとなることがあります。国全体が聞き従わないときに、時に“国”がむちとなることもあります。
けれども主は、個人であれ、国であれ、ご自分を恐れ敬い、主により頼む者を、最終的に見捨てられません。むしろ、戒めののちに、主ご自身が報いてくださるお方であることが、ここに示されています。
主は、バビロンが栄える前からすべてをご存じでした。イスラエルがやがて心を頑なにし、背信へと進み、ついに捕囚となることも、そこで罰を受け、飢えや辱めを味わうことも、さらにその捕囚の地で嘲りを受けることも──主はそれらを知っておられました。しかし同時に、その後、主がバビロンを退け、イスラエルが主に顧みられた「宝の民」であることを、明らかにされることまでも、ここであらかじめ告げておられるのです。主の御計画は、はるか先まで届いています。
この捕囚の地バビロンで何が行われたかは、聖書の他の箇所からも見えてきます。バビロンは、歌を愛する民であったかのように描かれることがあります。その代表が、詩篇137篇です。捕囚の地に移された、名もなき詩人の嘆きが、そこに記されています。
詩篇137篇を見ますと、イスラエルの民が捕囚され、悲しみの中で座し、シオンを思い出して泣いている姿が描かれています。少し1節からお読みいたします。
「バビロンの川のほとり、そこで私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に、私たちはたてごとをかけた。
それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、喜びを求めて、
『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。
私たちがどうして異国の地にあって、主の歌を歌えようか。」
(詩篇137:1-4)
アーメン。
【第2部】(詩篇137篇の続き〜イザヤ43:18-19の適用の途中まで)
この詩を読むと、本来、神の民であるはずのイスラエルが、捕囚の地で辱めを受けている様子が伝わってきます。支配する側と支配される側の差は大きく、バビロンの人々は面白半分に、「シオンの歌を歌ってみよ」と迫ります。礼拝の歌が、異邦人の娯楽として求められる──それは、神を恐れる者にとって耐えがたい屈辱です。
詩人は、たてごとを柳の木に掛け、歌うことをやめます。そして、エルサレムを忘れることがないように、忘れてしまうなら自分が罰を受けてもよい、というほどの強い思いを示します。4節の「異国の地にあって、主の歌をどうして歌えようか」という言葉には、主を賛美する歌を、心のない求めに従って捧げることなどできない、という魂の叫びがあります。
もちろん、ここに至った背景には、イスラエルが主に逆らい続けたという歴史があります。人には刈り取りがあり、不従順の結果として、この辱めを味わうことになった。しかし、その中にも、主を恐れ敬う者たちがいました。彼らは異国の地で主を慕い、主の正義を求めて祈り、嘆きます。
7節から9節には、極めて強い言葉で、主の裁きを願う祈りが記されています。
「主よ、エルサレムの日に『破壊せよ、破壊せよ、その基にまでも』と言った、エドムの子らを思い出してください。
バビロンの娘よ、荒れ果てた者よ。お前の私たちへのしわざを、お前に仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
お前の子供たちを捕らえ、岩に打ち付ける者は、なんと幸いなことよ。」
(詩篇137:7-9)
この祈りは、私たちにとって重く響きます。しかし少なくとも、詩人が「自分の手で裁く」のではなく、主の正義に訴えていることも見落としてはなりません。「主よ、私たちの受けた恥を、あなたがご覧になっているなら、どうか正しく扱ってください」──そういう切実な訴えです。
そしてイザヤは、はるか昔から、このことを預言していました。イザヤ43章14節で、主はこう仰せになります。「わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデア人を喜び歌っている船から突き落とす。」バビロンの川辺で、船の上で喜び歌い、主の民を嘲った者たちを、主は必ず退けられる──そのことが、すでに語られているのです。
神の民は、主に背を向けるなら、確かに苦しみを刈り取ります。しかしその中で、主に立ち返り、「私は罪を犯しました」と悔い改め、さらに、敵が度を越えてのさばるとき、「主よ、どうかあなたの正義を現してください」と祈るなら、主はその祈りを顧みられます。主は、災いを通しても、幸いを通しても、ご自分が真実なお方であることを示されるのです。
イザヤ43章15節で主は、「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」と宣言されます。主が「聖なる方」であるとは、言葉に偽りがなく、正しく、ぶれない方であるということです。そして「創造者」であり、「王」である。王とは、民に対して責任を負う存在です。
地上の王は勝つことも負けることもあります。しかし、私たちの王である主は、決して敗北されません。私たちが自分の不従順ゆえに打ち負かされることがあっても、主ご自身が敗北することはない。主は、必ず勝利されるお方です。
さらに21節には、「この民はわたしがわたしのために造った」とあります。主は、ご自分の栄光が現されるために、民を造られました。主のわざを見、聞き、味わい、その体験を通して、主をほめたたえる者として歩むように──そのために主は私たちを召されたのです。
さて、16節と17節を読みます。
「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主は、こう仰せられる。
彼らはみな倒れて起き上がれず、灯心のように消える。」
(イザヤ43:16-17)
ここには、出エジプトの出来事が想起されます。イスラエルが追い詰められたとき、主は海を分かち、乾いた道を設け、民を渡らせて救い出されました。ところが、追撃してきた者たちが同じ道を進もうとしたとき、海は元に戻り、彼らは滅びました。主が民を救うために用いられたものが、敵にとっては裁きとなったのです。主は、このようにしてご自分の民を守られます。
しかし、18節以降で、主はまったく異なる方向のことを語り始められます。
「先のことどもを思い出すな。昔のことどもを考えるな。
見よ、わたしは新しいことをする。今もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。
確かにわたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」
(イザヤ43:18-19)
主は言われます。「先のこと、昔のことを思い出すな。考えるな。」
それは、悔い改めを否定する言葉ではありません。むしろ、悔い改めを果たした者が、いつまでも過去の罪責に縛られて生きるのではなく、赦しの恵みに立って、新しい歩みへ進めという招きです。
もし自分が罪を悟り、「主よ、私は悪かったのです。赦してください」と心から祈ったなら、次に必要なのは、赦されたことを信じることです。赦しをいただいた者が、なお自分を責め続け、過去の鎖に自らを閉じ込める必要はありません。主は「見よ、わたしは新しいことをする」と言われます。赦された者に、主は新しい道を開かれるのです。
【第3部】(イザヤ43:20〜結びの直前まで)
20節をお読みいたします。
「野の獣、ジャッカルやダチョウも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流し、
わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」
(イザヤ43:20)
ここで主は、「野の獣、ジャッカルやダチョウも、わたしをあがめる」と仰せになります。
この表現は、聖書全体を通して見ても、象徴的な意味を強く帯びた言葉です。
荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるならば、本来そこに生きることのできない存在までもが、命を得て、主をあがめるようになる。主はそのような、根本的な変化を語っておられます。
聖書において、ジャッカルは荒廃した地に住む存在として描かれ、ダチョウはヨブ記39章などにおいて、知恵を欠き、愛情に乏しい存在として描写されています。母でありながら卵を土に残し、自らの体温で温めることもせず、踏みつけられても顧みない──その姿は、無責任さや無関心の象徴とも言えるでしょう。
母と子の絆は、本来、人間関係の中でも最も深いものです。その絆が失われた姿は、聖書において「荒れ果てた状態」の一つの象徴として語られています。
しかし主は、そのような存在でさえも、「わたしをあがめるようになる」と仰せになります。それは、彼ら自身が変わるからです。荒野に水が注がれ、乾いた地に川が流れるからです。
これは、外側の環境が少し良くなる、という程度の話ではありません。主がご自身の霊を注がれ、内側から造り替えるという約束です。
私たちは時に、自分自身の中に、荒野のような部分を見いだすことがあります。冷え切った心、愛の欠け、思慮のなさ、責任から逃げようとする弱さ。そうした姿を前にして、「自分は変われないのではないか」と思うこともあるかもしれません。
しかし主は言われます。「荒野に水を、荒れ地に川を流す」と。
それは、人が自分の力で努力して変わる、という話ではありません。主がなさる新しいわざなのです。
21節を見ます。
「この民は、わたしがわたしのために造った。
彼らは、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
(イザヤ43:21)
主は、ご自分の栄光を現すために、この民を造られました。
過去がどのようなものであったとしても、主はその人を新しくし、主の栄光を証しする者とすることがおできになります。
「かつては荒れていました」「かつては知恵を欠いていました」「かつては愛に乏しい者でした」──そのような過去があったとしても、主の御霊が注がれるなら、「見よ、すべてが新しくなった」と告白できる者へと変えられるのです。
16節・17節では、主は海の中に道を設け、敵の戦車と騎兵を滅ぼされました。
しかし18節以降では、主は荒野に道を、荒れ地に川を設けると語られます。
かつては、悪しき者が裁かれ、滅びが語られました。
しかし今、主は、悔い改めて主に立ち返る者に対して、生かすことを語っておられます。
荒野に水を。
荒れ地に川を。
それは、枯れ果てた人生に、もう一度、命を流し込む主の御業です。
私たちは、自分自身を振り返り、「自分には知恵が足りない」「自分には愛が足りない」と思うことがあるかもしれません。そのようなとき、聖書はこう語ります。
「あなたがたの中に知恵の欠けた者がいるなら、
その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。
そうすれば与えられます。」
(ヤコブ1:5)
主は、求める者に、惜しげなく与えてくださいます。
分別も、知恵も、心の柔らかさも、主の霊によって与えられるのです。
【第4部】(結び)
主はなぜ、この一連の出来事をなさるのでしょうか。
なぜ海に道を造られ、敵を退けられたのでしょうか。
なぜ荒野に水を流し、荒れ地に川を設けられるのでしょうか。
それは、主が生きておられることを示すためです。
そして、私たちが主を恐れ敬い、主の栄光を宣べ伝える者として生きるためです。
どうか私たち一人ひとりが、主にあって歩み、
知恵を受け、心を新しくされ、
かつては荒れていたとしても、
今は主をあがめる者として立たされていきますように。
荒野に水を流される主が、
あなたの人生にも、生ける水を満たしてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。
アーメン。
【結論】
主は、心から悔い改めた者の罪を赦し、過去の失敗や罪を思い出すことをやめるよう命じておられます。神は私たちが罪を犯して罰を受けることを知っておられますが、同時にその後の救いも用意してくださっています。神の民を苦しめる者に対して、神ご自身が報復されます。出エジプトの時に海を割って民を救われたように、主は今も私たちのために道を開き、敵を滅ぼし、私たちを守ってくださる方です。赦されたことを信じ、主が今なそうとしている新しいことに目を向けるとき、主は荒野に道を、砂漠に川を設けてくださいます。乾いた人生、敵に揉まれる人生に、主は生ける水を川々と流してくださるのです。私たちがダチョウやジャッカルのような者であったとしても、主の御霊が注がれるならば、以前のものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。知恵が欠けている者は、惜しげなく与えてくださる主に求めるべきです。主に聞き従い、主にとどまり続けるならば、主は私たちを生かし、主の栄光をほめたたえる証人として歩ませてくださいます。この主の大いなるわざを体験し、味わい、主の御名をほめたたえていきましょう。
イスラエル最悪の王の性質は「どっちつかず」(1列王記20:1-12)
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- pastor 2016-9-7 10:30
イスラエル最悪の王の性質は「どっちつかず」(1列王記20:1-12)
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主は、それまで人々を主に立ち返らせるために、大いなる御業をイスラエルに示されたが、それにも関わらず、頑として主に立ち返らなかった。
そこで主は、立ち返らない者達を、これから「剣で殺す」事を宣言をされたが、主はすぐにはしない。
なお悔い改めて立ち返るチャンスを与えるために、主こそ力強い方、憐れみ深い方である事を、さらに示される。
この20章においては、主はエリヤ以外の預言者をアハブに遣わして取り扱われる。
アハブの預言者に対する態度は、エリヤに対してとは違い、一見好意的なもののように見える。
結局、彼は主に従いたいのか従いたくないのか、主の預言者を殺したいのかそうでないのか、はっきりしない立場を続けているが、この20章を見ると、もっと分かって来る。
アハブは誰に足してもNOを言わない、「どっちつかず」の性質であるかが。
何に対してもNOを言わない。それは一見、やさしくて平和的であるかのように、無害であるかのように見えるが、実をいうとそれは、熱いか冷たいかのどちらかより遥かに有害な性質だ。
事実、どっちつかずであった彼は、イスラエル史上最悪の王として数えられてしまっているし、また、どっちつかずだったポンテオ・ピラトも、イエス様を苦しめた者として数えられてしまっている。
誰にも反対しない、NOと言わない自分を「やさしい」「人格者だ」と自己評価している人は、実は、その煮え切らない態度が、自分の人生に多くの災いをもたらし、自分の家族や配下の人達から嫌われている原因であると、知るべきである。
シリヤの王ベン・ハダデは、大軍を率いてイスラエルを取り囲んだ時、イスラエルは干魃のため、無能な王の故に弱体化してしまっており、軍隊はほとんどいなかった。
そのような状況で、アハブ王は、シリヤの王から好き放題な事を言われる。
『スリヤの王ベネハダデはその軍勢をことごとく集めた。三十二人の王が彼と共におり、また馬と戦車もあった。彼は上ってサマリヤを囲み、これを攻めた。また彼は町に使者をつかわし、イスラエルの王アハブに言った、「ベネハダデはこう申します、『あなたの金銀はわたしのもの、またあなたの妻たちと子供たちの最も美しい者もわたしのものです』」。』(1列王記20:1-3)
神の民が、随分となめられたものであるが、アハブは、主にも、預言者にも、家来にさえも相談せずに即答してしまう。
『イスラエルの王は答えた、「王、わが主よ、仰せのとおり、わたしと、わたしの持ち物は皆あなたのものです」。』(1列王記20:4)
これは、脅して来る者に対しては最悪の答え方である。
脅して来る者、偽り者に対し、一番してはならないのは、「おおせのとおりです」と同意してしまう事だ。
悪しき者の脅しや偽り事に「同意」してしまうなら、相手はもっと図に乗って、さらに過酷な要求を突き付けて来るからだ。
自分は無理な要求を飲みました、頑張りました、そんな頑張ったわたしに免じて、優しく扱って下さい、などと考えるのは、妄想である。
脅しを仕掛けて来る者には、そんな思考パターンは、全く無い。
むしろ、もっと脅せばもっと搾り取れるだろう、と、さらに脅しの手を強めて来るのだ。
右の頬を打つ人には他の頬をも向けてやりなさい、という「主の御言葉に信仰をもって従う」事と、御言葉への信仰が全く捨て去られた人が「恐怖心から無抵抗になる」のとは、雲泥の差があるのだ。
『使者は再びきて言った、「ベネハダデはこう申します、『わたしはさきに人をつかわして、あなたの金銀、妻子を引きわたせと言いました。しかし、あすの今ごろ、しもべたちをあなたにつかわします。彼らはあなたの家と、あなたの家来の家を探って、すべて彼らの気にいる物を手に入れて奪い去るでしょう』」。』(1列王記20:5-6)
この通り、要求はもっと過酷になってしまった。
最初は、奪われるものはアハブの持ちものに限定されていたのに、今度は、アハブのみならず、家来の全部の家を自由に出入りして何でも奪い放題していい事になってしまった。
悪霊が人に入る時も、同じ原理である。
思いをガードせずに、空中に漂っているあの空想やこの空想を、両手放しで受け入れる事は、危険である。
空中は悪しき霊が座す所であり(エペソ2:2)、思いを開いて、漂っているあの霊この霊を受け入れてしまうなら、もっとたちの悪い者共に、ずかずか入り込まれてしまい、聞きたくもない霊の声が聞こえるようになり、ひどくなると、思いの中が悪霊どもの声々に圧殺され、突然笑い出したり、突然泣き出したり、意味不明な所作をいきなりし出したり、人の神経を逆撫でする絶妙なポイントをついて来たりして、どんどん人々から敬遠されてしまうのだ。
そのような人の性質は「無抵抗」「なんでも受け入れる」である。
だから、霊においても、実生活においても、ノーガードでいてはならない。
真理の帯で引き締め、正義の胸当で胸を守り、平和の福音を足に履き、信仰のたてを手に取って悪しき者の放つ火の矢を消し、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取って悪しき者を攻撃するのだ。(エペソ6:14-17)
そして、絶えず祈り、御霊によって祈り、霊において目覚めておくべきだ。(同18節)
何もかも悪霊に束縛され、奪われ、人々から疎外されてしまった人が唯一、救われる方法は、「その人自身の意志で」イエス様に助けを求めに行く事である。
レギオンという大勢の悪霊は、なぜ鎖を引きちぎる程の脚の力をもってイエス様から逃げる事をしないで、わざわざイエス様の所へと足を進め、自ら追い出されるために行ったのか。
悪霊どもとしては、追い出されたくはなかったであろう。しかし「本人自身が、意思をもってイエス様の所に行く」事の足だけは、どんなに強力な悪霊が、何千匹がかりで阻止しようとも、それを止める事は出来ないのだ。(マルコ5章)
『そこでイスラエルの王は国の長老をことごとく召して言った、「よく注意して、この人が無理な事を求めているのを知りなさい。彼は人をつかわして、わたしの妻子と金銀を求めたが、わたしはそれを拒まなかった」。』(1列王記20:7)
アハブは相手の要求が過酷になった時、イスラエルの神にではなく、家来に相談した。
あんなにも、ありありと、イスラエルの神・主のわざを見ておきながら、主に帰らず、国をこんなにも弱体化させたまま何も出来ないでいる、というのに。
『すべての長老および民は皆彼に言った、「聞いてはなりません。承諾してはなりません」。それで彼はベネハダデの使者に言った、「王、わが主に告げなさい。『あなたが初めに要求されたことは皆いたしましょう。しかし今度の事はできません』」。使者は去って復命した。』(1列王記20:8-9)
ここまでで、アハブは、シリヤの王に対しても、家来に対しても、全部「イエス」の回答しか返していない。
最初、シリヤに対して「イエス」で答えたが、家来と相談した時、シリヤに対して「ノー」をしなさいという勧めを、アハブは「イエス」し、結果、アハブはシリヤに「ノー」を突きつける事となった。
このように、複数の、相反する人達に対して全部「イエス」で返すなら、おのずと必ず誰かを裏切る事になり、激しい怒りを買って、相手からも身内からも信用されなくなって行く。
『ベネハダデは彼に人をつかわして言った、「もしサマリヤのちりが、わたしに従うすべての民の手を満たすに足りるならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記20:10)
つまり、自分の軍勢の人数は、サマリヤの砂粒の数よりも多いぞ、という脅しである。
『イスラエルの王は答えた、「『武具を帯びる者は、それを脱ぐ者のように誇ってはならない』と告げなさい」。』(1列王記20:11)
武具を帯びる者とは、これから戦いをしようとする者、それを脱ぐ者は、戦いで勝敗が決まった者の事である。つまりアハブが言いたいのは、まだ戦ってもいないのに勝ち誇ったような事を言うな、という事である。
『ベネハダデは仮小屋で、王たちと酒を飲んでいたが、この事を聞いて、その家来たちに言った、「戦いの備えをせよ」。彼らは町にむかって戦いの備えをした。』(1列王記20:12)
こうして、戦いの火蓋が切って落とされるが、アラムの軍勢は「地に満ちていた」のに対し、イスラエルの軍勢は「二つの群れのやぎのよう」であった。(27節)
軍勢の数で比べるなら、イスラエルに勝ち目は無い。
このような状態で、策も根拠も無く、ただ流されるままに戦いの火蓋が切って落とされてしまったが、主は、そんな無策・無謀・流されるまま危機に陥って行ったイスラエルに救いの手を差し伸べられる。
なぜなら、主こそ力があり憐れみ深く頼りがいのある神である事を、人々に示されるためだ。
立ち直ったエリヤのその後のミニストリー(1列王記19:14-21)
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主に反逆する時代のイスラエルにおいて、3年半を通じた、目を見張るような主のしるしが、エリヤを通して行われ、人々は「主こそ神です」と叫び、信仰のリバイバルが起きた、かのように見えたが、たった一人の女・イゼベルによって、台無しにされてしまった。
エリヤは気落ちし、死を願うまでになってしまったが、主は彼を取り扱い、再び立てるようにしてくださる。
『エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:13-14)
主は、先にしたのと全く同じ質問をし、エリヤもまた、全く同じ答えを返した。
このやり取りは、一見ちぐはぐで、会話が成り立っていないように見えるが、はっきりしている事は、エリヤはこの時、主と「心の通う交わり」をしているという事である。
エリヤはこの交わりを続ける内に、着実に癒やされている。
交わりとは、必ずしも、言葉のつじつまの合うやり取りをしなければならない、というものではない。
エリヤは主との交わりの中、主の圧倒的な臨在と、力と、そして力強き御腕の守りにかくまわれている内に、彼のあらゆる鬱憤は吐き出され、癒やされて行った。
ちょうど小さな子供が、親の胸の中で激しく感情をぶつけ、自分で何を言っているかわからない事を叫びながらぶつかって行く内に、徐々に落ち着き、やがては、圧倒的に強く大きな親の胸の中で眠りに落ち込んで行くように。
ヨブも、同じ経験をした。
主は、ヨブの激しい問いかけには一切答えず、ただ主の圧倒的な臨在と御業とを見せた。
そうしてヨブは、全能の主を悟り、全ての事が可能である主を深く知るに至った。
それでヨブが悔い改め自分を低くした、その時、あらゆる問題は、問題ではなくなり、彼は以前にも増して二倍の祝福が与えられた。
主はエリヤの心を回復させ、そして、彼が為すべき事を教えられる。
『主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。』(1列王記19:15-17)
エリヤは決して一人ではない。
エリヤはこれから、彼の後継者であるエリシャを得、そしてエリヤは地上での役割が終えると、天に挙げられていく。
ダマスコのハザエルを王とするのは、エリヤではない。エリヤが天に挙げられた後、エリシャが王としたのだ。(2列王記8章)
また、さらにその後、エリシャの「預言者のともがら」の一人が、ニムシの子エフーに油を注ぐ。(2列王記9章)
「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは、「預言者学校の生徒」と訳されている。(2列王記2:3-5章)
エリヤが最初、絶望したように、預言者は殺され断たれてしまうのではない。
エリヤはこれから、エリシャという後継者を得、預言者学校を立ち上げ、多くの預言者達が育って行くのだ。
主の真実は、人に押しとどめられるものではなく、決して途絶える事は無い。
今後、エリヤを通して油注がれる人達に与えられる役割は、「つるぎで殺す」事である。
主は今まで、人が悔い改めて立ち返るようにと、目に見えて偉大なしるしを起こされたが、それでも人々は悔い改めなかった。
エリヤはそれで絶望したものだが、主は、頑固なまでに悔い改めなかった者達に対しては、今度は「殺す」ミニストリーを働き人に与えられる。
主は既に、「憐れみ」「立ち返り」のわざを、長らく人々に示された。
ありありとしたしるしを見、憐れみを体験しておきながら、それでもなお主を拒み、立ち返らないとなれば、もはや、憐れみのわざではなく、主は「殺しのわざ」に入ってしまう。
それは、全ての人に対して、そうである。
キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、贖いを成し遂げられた。
そして将来、主が再び来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いためにであり、決して、堕落と反逆の道を楽しむ事を止めない人々をもう一度赦すためではない。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)
『また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。』(1列王記19:18)
主は確かに、主の民を残しておられる。どんなに不従順の背信の世代の中にあっても。
主の恵みの時間は、なお与えられている。
アハブもイゼベルも、すぐに殺されるわけではない。
こんなアハブやイゼベルにさえも、悔い改めて立ち返る期間が、まだまだ与えられているのだ。
主は、悪者が死ぬのを望まれない。
悪事を止めて、主に立ち返る事を望まれるけれども、人がどうしてもそれを止めないとするなら、もはや、その人には滅びしか残されていない。
こうしてエリヤは、主との交わりの内に立ち直って、早速主から命じれられた通り行うために出て行く。
『さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて外套を彼の上にかけた。
エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、「わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう」。エリヤは彼に言った、「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」。エリシャは彼を離れて帰り、ひとくびきの牛を取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、立って行ってエリヤに従い、彼に仕えた。』(1列王記19:19-21)
エリシャがエリヤから外套をかけられた時、彼は一瞬で、霊において、悟ったようである。
これは、主の働きへの召命である、と。
彼はエリヤからは一言も言われてはいなかったけれども、自分がそれまでしてきた仕事の道具を壊し、それを用いて父母に最後のもてなしをし、その後、エリヤに従って行った。
主の働きのために召しだされる時、言葉では言われなくても、霊において急き立てられるものがあり、それまでの仕事や家族は全て捨て置いてでも主に従って行かなくては、と思うものだ。
エリシャはそれまで、牛の一番後ろで働く勤勉な者であったが、その彼の勤勉さは、召し出された後もそうだった。
彼が、エリヤから離れまいとする気概は、どの預言者よりも強く、彼はエリヤが天にあげられたその瞬間まで、エリヤから離れなかった。
それで彼は将来、エリヤの2倍の霊が与えられる。
世の仕事という小さい事に忠実であるなら、主から、大きな事にも忠実であるとされ、主からさらに大きな役割が与えられるのだ。
まことの食物、まことの飲みものの頂き方(ヨハネ6:47-71)
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週報/メッセージ(説教)概要
普段の主日は、聖書人物から、特に最近はダビデからメッセージを頂いているが、本日・聖餐礼拝の日、イエス様という「まことの食物」、「まことの飲み物」に目を向けて、その頂き方を学びたい。
食べ物も飲み物も、毎日自分から摂り入れるもので、誰も、嫌々ながら無理やりする人はいない。
食欲が自然と湧いて来るのは、命を保つため、成長するためで、そこに疑いの余地は無いが、私達が毎日食べる食物、飲み物は、実は「影」で、それとは他に、まことの食物、まことの飲み物がある。
イエス様は言われた。『わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ(続け)、わたしの血を飲む(事を続ける)者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハ6:55-56)
ここのイエス様のからだを「食べる」、血を「飲む」の動詞は、現在形能動態で、「し続ける」べき事だ。
有限であるこの「肉体」には、継続的に食物が必要であるのと同じように、永遠なる「霊」にも必要な食物があり、それはイエス様の肉、また血である。『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。』(同63節) 霊の食物である御言葉も、肉体における食物と同じで、日々摂り続けるべきものであり、それをしない人の霊はどんどん干物になって行く。
霊は、神を意識し、神と交わりをする器官で、永遠のものである。人には霊の名残りがあるが(マラキ2:15)
生まれながらの人は霊が死んだ状態である。それで人は、生まれながらにして正常な神との交わりはできないものの、名残りがあるため、永遠なる神をなんとなく意識し、求め、霊的な飢え渇きを満たそうとする。
イエス様こそ真の食物、真の飲みものであり、彼に会うなら、それまで何をしても満たされなかった本質的な渇きは癒され、今まで体験した事のない潤いを得るのである。それ故、霊にあって生きる人は、好んでイエス様と交わり、祈り、御言葉を摂り入れるが、それをしない人は、霊の死んだ、肉に生きる人である。
どのようにして、イエス様の肉を食べ、その血を飲むのか。食べ物は口で摂取し、口で咀嚼し、胃で消化し、腸で吸収して、血肉となって行くが、霊の食物である御言葉は、耳で聞いて摂取し、口で宣言し、あるいは心で思い巡らして「消化」し、信仰によって自分と混ぜあわせる事によって、自分の霊となって行く。
主は最後の晩餐の時、パンを裂いて、言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」また、杯も同じようにして言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。(1コリント11:24-26)
聖餐のパンは、イエス様の裂かれた肉を覚えるものであり、杯は、イエス様が十字架で流された血を覚えるものである。私達の身代わりとなって流されたイエス様の血、彼の苦難と死の、そして、死とサタンに対する勝利のしるしである「血」を思い巡らし、口で宣言する事で、イエス様の血を「飲み」、一体化するのだ。
人は、肉体を養う食物だけによって生きる存在ではない。『主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖達も知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる事をあなたに知らせるためであった。』(申命記8:3)
主は、その事を教えるために、荒野で40年間、イスラエルの民を天から降るパン、「マナ」によって養った。
このマナの性質は、まことの食物・御言葉なるキリストをどのようにいただくべきか、その作法を教えてくれる。
マナは朝、霜のように降る。日が熱くなると、拾わないマナは溶けて無くなった。週の六日間は降り、安息日には降らなかった。人手で拾われたマナは溶けないが、拾っても食べずに翌日まで持ち越したマナは溶けないものの臭くなって虫が湧いた。しかし主の定めにより、安息日は前日拾ったマナは腐らなかった。
これを40年、毎日律儀に続ける事によって、イスラエルの民は主の御言葉によって生きる術を学んだのだ。
まことの食物、御言葉なるキリストも、主が定められた時に私達の所に降りて来る。その時、私達がその時拾わないなら、やがて無くなってしまい、後で「あの時欲しかったのに」と思っても、後の祭りである。
御言葉が天から降って目の前に来た時、それを自ら拾い、拾ったなら、それを食べる。翌日まで持ち越してはならない。自分の好きな時間、好きなやり方は捨て、働くべき時に働き、礼拝すべき時に礼拝する。
それを日ごと続けて行く事で、霊はどんどん養われ、そして、キリストの血を日々覚える事によって、日々清められ、サタンに勝利するものであり、それらを止めてしまうなら、どんどん霊は衰弱し、汚れ、サタンに好き放題されてしまう。食事を毎日食べるように御言葉を毎日食べ、イエスの血潮を毎日覚え、ますます霊が清められ成長し、キリストの姿に変えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!





