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まことの食物をいただく時の作法(出エジプト記16:13-30)
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立ち直ったエリヤのその後のミニストリー(1列王記19:14-21)
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主に反逆する時代のイスラエルにおいて、3年半を通じた、目を見張るような主のしるしが、エリヤを通して行われ、人々は「主こそ神です」と叫び、信仰のリバイバルが起きた、かのように見えたが、たった一人の女・イゼベルによって、台無しにされてしまった。
エリヤは気落ちし、死を願うまでになってしまったが、主は彼を取り扱い、再び立てるようにしてくださる。

『エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:13-14)
主は、先にしたのと全く同じ質問をし、エリヤもまた、全く同じ答えを返した。
このやり取りは、一見ちぐはぐで、会話が成り立っていないように見えるが、はっきりしている事は、エリヤはこの時、主と「心の通う交わり」をしているという事である。
エリヤはこの交わりを続ける内に、着実に癒やされている。

交わりとは、必ずしも、言葉のつじつまの合うやり取りをしなければならない、というものではない。
エリヤは主との交わりの中、主の圧倒的な臨在と、力と、そして力強き御腕の守りにかくまわれている内に、彼のあらゆる鬱憤は吐き出され、癒やされて行った。
ちょうど小さな子供が、親の胸の中で激しく感情をぶつけ、自分で何を言っているかわからない事を叫びながらぶつかって行く内に、徐々に落ち着き、やがては、圧倒的に強く大きな親の胸の中で眠りに落ち込んで行くように。

ヨブも、同じ経験をした。
主は、ヨブの激しい問いかけには一切答えず、ただ主の圧倒的な臨在と御業とを見せた。
そうしてヨブは、全能の主を悟り、全ての事が可能である主を深く知るに至った。
それでヨブが悔い改め自分を低くした、その時、あらゆる問題は、問題ではなくなり、彼は以前にも増して二倍の祝福が与えられた。

主はエリヤの心を回復させ、そして、彼が為すべき事を教えられる。
『主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。』(1列王記19:15-17)

エリヤは決して一人ではない。
エリヤはこれから、彼の後継者であるエリシャを得、そしてエリヤは地上での役割が終えると、天に挙げられていく。
ダマスコのハザエルを王とするのは、エリヤではない。エリヤが天に挙げられた後、エリシャが王としたのだ。(2列王記8章)
また、さらにその後、エリシャの「預言者のともがら」の一人が、ニムシの子エフーに油を注ぐ。(2列王記9章)

「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは、「預言者学校の生徒」と訳されている。(2列王記2:3-5章)
エリヤが最初、絶望したように、預言者は殺され断たれてしまうのではない。
エリヤはこれから、エリシャという後継者を得、預言者学校を立ち上げ、多くの預言者達が育って行くのだ。
主の真実は、人に押しとどめられるものではなく、決して途絶える事は無い。

今後、エリヤを通して油注がれる人達に与えられる役割は、「つるぎで殺す」事である。
主は今まで、人が悔い改めて立ち返るようにと、目に見えて偉大なしるしを起こされたが、それでも人々は悔い改めなかった。
エリヤはそれで絶望したものだが、主は、頑固なまでに悔い改めなかった者達に対しては、今度は「殺す」ミニストリーを働き人に与えられる。

主は既に、「憐れみ」「立ち返り」のわざを、長らく人々に示された。
ありありとしたしるしを見、憐れみを体験しておきながら、それでもなお主を拒み、立ち返らないとなれば、もはや、憐れみのわざではなく、主は「殺しのわざ」に入ってしまう。
それは、全ての人に対して、そうである。
キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、贖いを成し遂げられた。
そして将来、主が再び来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いためにであり、決して、堕落と反逆の道を楽しむ事を止めない人々をもう一度赦すためではない。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)

『また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。』(1列王記19:18)
主は確かに、主の民を残しておられる。どんなに不従順の背信の世代の中にあっても。
主の恵みの時間は、なお与えられている。
アハブもイゼベルも、すぐに殺されるわけではない。
こんなアハブやイゼベルにさえも、悔い改めて立ち返る期間が、まだまだ与えられているのだ。
主は、悪者が死ぬのを望まれない。
悪事を止めて、主に立ち返る事を望まれるけれども、人がどうしてもそれを止めないとするなら、もはや、その人には滅びしか残されていない。

こうしてエリヤは、主との交わりの内に立ち直って、早速主から命じれられた通り行うために出て行く。
『さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて外套を彼の上にかけた。
エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、「わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう」。エリヤは彼に言った、「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」。エリシャは彼を離れて帰り、ひとくびきの牛を取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、立って行ってエリヤに従い、彼に仕えた。』(1列王記19:19-21)

エリシャがエリヤから外套をかけられた時、彼は一瞬で、霊において、悟ったようである。
これは、主の働きへの召命である、と。

彼はエリヤからは一言も言われてはいなかったけれども、自分がそれまでしてきた仕事の道具を壊し、それを用いて父母に最後のもてなしをし、その後、エリヤに従って行った。
主の働きのために召しだされる時、言葉では言われなくても、霊において急き立てられるものがあり、それまでの仕事や家族は全て捨て置いてでも主に従って行かなくては、と思うものだ。

エリシャはそれまで、牛の一番後ろで働く勤勉な者であったが、その彼の勤勉さは、召し出された後もそうだった。
彼が、エリヤから離れまいとする気概は、どの預言者よりも強く、彼はエリヤが天にあげられたその瞬間まで、エリヤから離れなかった。
それで彼は将来、エリヤの2倍の霊が与えられる。
世の仕事という小さい事に忠実であるなら、主から、大きな事にも忠実であるとされ、主からさらに大きな役割が与えられるのだ。

まことの食物、まことの飲みものの頂き方(ヨハネ6:47-71)
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週報/メッセージ(説教)概要

 普段の主日は、聖書人物から、特に最近はダビデからメッセージを頂いているが、本日・聖餐礼拝の日、イエス様という「まことの食物」、「まことの飲み物」に目を向けて、その頂き方を学びたい。
食べ物も飲み物も、毎日自分から摂り入れるもので、誰も、嫌々ながら無理やりする人はいない。
食欲が自然と湧いて来るのは、命を保つため、成長するためで、そこに疑いの余地は無いが、私達が毎日食べる食物、飲み物は、実は「影」で、それとは他に、まことの食物、まことの飲み物がある。
イエス様は言われた。『わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ(続け)、わたしの血を飲む(事を続ける)者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハ6:55-56)
ここのイエス様のからだを「食べる」、血を「飲む」の動詞は、現在形能動態で、「し続ける」べき事だ。
有限であるこの「肉体」には、継続的に食物が必要であるのと同じように、永遠なる「霊」にも必要な食物があり、それはイエス様の肉、また血である。『人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。』(同63節) 霊の食物である御言葉も、肉体における食物と同じで、日々摂り続けるべきものであり、それをしない人の霊はどんどん干物になって行く。
霊は、神を意識し、神と交わりをする器官で、永遠のものである。人には霊の名残りがあるが(マラキ2:15)
生まれながらの人は霊が死んだ状態である。それで人は、生まれながらにして正常な神との交わりはできないものの、名残りがあるため、永遠なる神をなんとなく意識し、求め、霊的な飢え渇きを満たそうとする。
イエス様こそ真の食物、真の飲みものであり、彼に会うなら、それまで何をしても満たされなかった本質的な渇きは癒され、今まで体験した事のない潤いを得るのである。それ故、霊にあって生きる人は、好んでイエス様と交わり、祈り、御言葉を摂り入れるが、それをしない人は、霊の死んだ、肉に生きる人である。

どのようにして、イエス様の肉を食べ、その血を飲むのか。食べ物は口で摂取し、口で咀嚼し、胃で消化し、腸で吸収して、血肉となって行くが、霊の食物である御言葉は、耳で聞いて摂取し、口で宣言し、あるいは心で思い巡らして「消化」し、信仰によって自分と混ぜあわせる事によって、自分の霊となって行く。
主は最後の晩餐の時、パンを裂いて、言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」また、杯も同じようにして言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。(1コリント11:24-26)
聖餐のパンは、イエス様の裂かれた肉を覚えるものであり、杯は、イエス様が十字架で流された血を覚えるものである。私達の身代わりとなって流されたイエス様の血、彼の苦難と死の、そして、死とサタンに対する勝利のしるしである「血」を思い巡らし、口で宣言する事で、イエス様の血を「飲み」、一体化するのだ。
人は、肉体を養う食物だけによって生きる存在ではない。『主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖達も知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる事をあなたに知らせるためであった。』(申命記8:3)
主は、その事を教えるために、荒野で40年間、イスラエルの民を天から降るパン、「マナ」によって養った。
このマナの性質は、まことの食物・御言葉なるキリストをどのようにいただくべきか、その作法を教えてくれる。
マナは朝、霜のように降る。日が熱くなると、拾わないマナは溶けて無くなった。週の六日間は降り、安息日には降らなかった。人手で拾われたマナは溶けないが、拾っても食べずに翌日まで持ち越したマナは溶けないものの臭くなって虫が湧いた。しかし主の定めにより、安息日は前日拾ったマナは腐らなかった。
これを40年、毎日律儀に続ける事によって、イスラエルの民は主の御言葉によって生きる術を学んだのだ。
まことの食物、御言葉なるキリストも、主が定められた時に私達の所に降りて来る。その時、私達がその時拾わないなら、やがて無くなってしまい、後で「あの時欲しかったのに」と思っても、後の祭りである。
御言葉が天から降って目の前に来た時、それを自ら拾い、拾ったなら、それを食べる。翌日まで持ち越してはならない。自分の好きな時間、好きなやり方は捨て、働くべき時に働き、礼拝すべき時に礼拝する。
それを日ごと続けて行く事で、霊はどんどん養われ、そして、キリストの血を日々覚える事によって、日々清められ、サタンに勝利するものであり、それらを止めてしまうなら、どんどん霊は衰弱し、汚れ、サタンに好き放題されてしまう。食事を毎日食べるように御言葉を毎日食べ、イエスの血潮を毎日覚え、ますます霊が清められ成長し、キリストの姿に変えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
イゼベルを為すがままにするなかれ(黙示録2:18-29)
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イエスの肉を食べ続け、その血を飲み続ける者こそ生きる(ヨハネ6:53-71)
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主へのホットライン通話ボタンを押せ(詩篇34:1-10)
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ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4:1-7)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
主こそ神、主こそ救い。他にはいない。(イザヤ43:8-13)
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エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(1列王記19:9-13)
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傷心のエリヤは、個人的に主と向き合う必要があった。
彼の心は、あまりに落ち込み過ぎて、もはや、働く事どころか、主の前に行く事すらできなくなっていた。
そこで主は、彼に御使いを送り、焼いたパンと水を与えて元気づけて、彼を主の御前に進み出る事ができるようにさせて下さった。

『その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。』(1列王記19:9)
主は、エリヤが何をしているのかご存知であったが、敢えて聞かれた。
それは、その人自身の口から、今の自分の状態や考えを表明させ、主と交わりをさせるためである。

『彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:10)
「ただわたしだけが残りました」というのは、正しくはない。
オバデヤは主の預言者百人をかくまっていたし、イゼベルの言葉に習わず信仰を保ち続けている信仰者は、何人か残っていたはずだ。

エリヤはきっと、言葉どおりではなく、感じている「気持ち」を言ったのだろう。
確かにエリヤがして来た事、また負ってきた苦労を考えるに、そして、それら全てをイゼベルに覆えらされてしまった様を見るに、彼が絶望感を感じるのは無理もない。

イエス様もまた、ずっと一人ぼっちで絶望状態の人を訪ね、声をかけられた。
『そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。』(ヨハネ5:5-8)
彼は、イエス様から「よくなりたいか」と声をかけられた時、よくなりたい、と答えるのではなく、「わたしを***してくれる人がいません」と、さびしさを打ち明けた。

彼の周りにいた人々は、彼を差し置いてどんどん病気が治ってその場所を卒業して行く。
でも自分には、自分を助けてくれる人が誰もいないまま、38年もずっとこのまま。
イエス様は、彼の切々とした言葉に対し、「ああ、大変でしたね」といった、同情の言葉は、一切かけない。
その代わりにイエス様は、非常に単純明快な、彼の全てを癒やすために為すべき具体的な「御言葉」をかけられる。
『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。』(ヨハネ5:8-9)
この人の解決は、あっという間だった。
それは、御言葉の通りに行なった時だった。
御言葉の通り行う時、どんなに根強くしぶとい問題でも、解決するパワーが生まれる。

結局、主イエス様の言葉どおりに行う事こそ、全ての問題の解決の源なのだが、それを抜きにして感傷に浸り続けたり、イエス様でないものに解決や同情を求め続けても、解決は何年経っても見えない。
イエス様は、何を為すべきかを、御言葉をもって告げられる。
そして人は、その主から言われた事を、実行するのかどうか。そこが大事である。

 『主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。』(1列王記19:11-13)
主が通り過ぎられた時、とても激しい出来事が起きた。岩や山をも砕く風は、どれほど激しいものだろう。
もし、か弱い人間がそこにいたなら、岩とともに砕かれていただろうし、火に焼かれてしまっていただろう。
しかしエリヤは、岩のほら穴の中に匿われ、守られていた。

主は元々、激しく力強いお方である。
主がそこを通られただけで、岩も山も砕かれてしまう風が起こるのだから、不信仰で頑なな者共をたちまちにして滅ぼす事は、いともたやすいはずである。
しかし主は、憐れみにより、すぐに滅ぼし尽くすという事は、されない。
むしろ主は、邪悪な時代の中で、人を害する滅びの風が吹きつけないよう、御使いを遣わして守っておられる。(黙示録7:1-3)
悪い時代は、あざける者達が、自分の欲望に従って好き勝手な事をしている。
しかし今の天と地は、主の「ことば」によって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれている。(2ペテロ3:1-7)
なぜ、主はすぐにさばきをなされないか。それは、主は忍耐深くあられ、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからだ。(同9節)
『しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。・・・しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。』(2ペテロ3:10-14)

人は、遅い、と思う。
なぜこんな邪悪な人々の、放埒なふるまいを、主は許しておられるのだろう、と。
もし主が号令をかけられるなら、たちまちにして悪者共を滅ぼし、全世界・全宇宙を刷新する事がお出来になる。
しかし主は、一人も滅びることを望まれず、一人でも立ち返る事を望まれ、忍耐して待っておられ、さばきを先延ばしにしておられるのだ。
そして主は、主に忠実な働き人をあらゆる攻撃や災いから守り、かくまい、折れてしまった心をやさしく包み、癒やし、立ち直らせて下さる。

エリヤが見た時、主は風の中におられず、地震の中にも、その後の火の中にも、主はおられなかった。
ただ、火の後、静かな、細い、主のことばを聞いた。
その時、彼は外套で顔を覆った。
主の働き人を建て上げるのも、癒やすのも、そして、新天新地を創るのも、結局全て「主のことば」によるのだ。

主は、声をかけられる。
エリヤよ、ここで何をしているのか、と。

主は、私達にも促しを与えられる。
今、どこにいるのか。
そこで、何をしているのか。
よくなりたいか。

私達は主の言葉を受け、そのことばを信じてその通りにするなら、天地を創られた主のことばが癒やし、立て直し、働きへ再び召し出されて行くのだ。

羊の飼い方 - 信仰の中・上級者編(1ペテロ5章)
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