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御座の前にいる四つの生き物(黙示録4:6-11)
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前回、御座の周りに、二十四人の長老が座についていた事を見たが、さらに御座のそば近くには、特別な生き物がいた。
『御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。』(黙示録4:6-8a)
「御座のそば近くそのまわり」を直訳するなら「御座の真ん中には、また、御座の周り」である。
御座の四辺のそれぞれ真ん中に、彼らが位置した、という事であろうか。
いずれにせよ、この生き物達は、主の御座からとても近い位置にいるようである。
ここに登場する四つの生き物と似たものが、旧約エゼキエル書にも登場する。
『顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。・・・四つの輪には輪縁と輻とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。』(エゼキエル1:10)
エゼキエルはさらに、「位(キセェ:御座)のようなもの」を見たが、それも、ヨハネが見た御座の特徴とよく共通している。
『生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。・・・彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。・・・
そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。』(エゼキエル1:22-28)
御座、水晶、にじ、宝石、いずれもヨハネが見たものと一致している。
それにしても、彼らの表現を元に「この情景の絵を書きなさい」と言われるなら、百人百様の絵が完成するであろう。
人の日常では到底無いような、普通の言葉ではとても表現できないような天的な有様を見せられた事には間違いないが、とにかく、両方に共通している事は、この4つの生き物は御座のすぐ近くにいるものであり、それらは「人、しし、牛、わし」の性質が現れており、翼があり、目でいっぱい満ちており、また、彼らがいる御座の周囲には、水晶に似たガラスの海のようなものがあって、宝石のような輝きがあり、虹のような栄光の輝きがある、という点は、共通している。
エゼキエルは最初、この4つの生き物が何であるのかを知らなかったが、後に、それが「ケルビム」である事を知った。(エゼキエル10:20)
ではケルビムとは何者で、どういう生き物なのか。
ケルビムが、聖書で最初に登場するのは、かなり初期で、創世記3章に現れる。
アダムとエバが、禁断の実を取って食べてしまった故に、楽園(エデン)から追い出されてしまった時、もはや人が楽園の中から「いのちの木」を食べて永遠に生きないようにするために、”(全方向に)回転する炎の剣”をもって楽園をガードする者として登場する。(創世記3:24)
その次に出て来るのは、出エジプト記である。
イスラエル民族が主から与えられた最も聖なる「契約の箱」を、その翼で覆う者として「ケルビム」を造るよう、主はモーセに命じられた。
また、契約の箱が安置された聖所の幕屋の、最も内側は、ケルビムが織り込まれた幕によって覆われていた。
『その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。』(出エジプト記25:22)
主は、ケルビムの間から命じ、語られると言われた。
この、ケルビムに覆われたあかしの箱は、いわば、主の命令が発せられる「御座」のようである。
実際、主は「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神」と表現され(詩篇80:1、99:1、イザヤ37:16)、また、ケルブ(ケルビムの単数形)は、主の乗り物としての役割もあるようである。(詩篇18:10)
以上の事から、ケルビムは、常に主のすぐそばに常に侍り、聖と俗とを区切る者として、聖なる所を守る者として、また、主を運ぶ者としての共通点がある。
ケルビムは、創世記では回転する炎の剣を持っており、エゼキエル書でも、車輪と呼ばれる輪の間に火を持っていた。(エゼキエル10:6)
しかし、黙示録に登場する彼らには、それは無い。
ヨハネが見ている「天」は、もはや「楽園(パラダイス)の中」であるため、回転する炎の剣も必要ないのであろう。
エゼキエルとヨハネは、それぞれ、立ち位置も視点も、主から託された働きも違う。
エゼキエルの場合、「彼に霊が入った」のだが、ヨハネの場合、「彼が霊の中に入れられた」のだ。(エゼキエル2:1-2、黙示録4:1)
エゼキエルは、地上からはるか上方を見上げて幻を見ていたのに対し、ヨハネは天に「上って」、天そのものから、これらの幻を見せられている。
エゼキエルは「御座のようなもの」と表現したが、ヨハネは、はっきり「御座」と言った。
エゼキエルは、反逆の家にさばきを伝えるために、これらを見せられたのに対し、ヨハネは、天上の隠されていた事、神がこれからご計画しておられる事を、公に示すために、これらの事を見せられ、それを書き記すように命じられた。
だからヨハネは、今までの預言者には無かったような経験をしており、彼は天をはっきり見せられているのである。
黙示録においては、その生き物は主の御座のすぐ近くで、絶え間なく主を誉め讃えている。
『この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」』(黙示録4:8)
彼らの賛美の内容は、客観的な主のご性質そのものを叫んで賛美している。
それに対し長老たちは、より人間味ある、気持ちが篭められた賛美を捧げている。
『二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。』(黙示録4:9-11)
長老たちは「平伏す」「自分の冠を御座の前に投げ出す」という行為と共に、「われらの主なる神」と、自分と主との関係を明白にして、気持ちを込めて主をほめ讃えている。
冠を自分の頭から外して、主の御前に投げるのは、自分は罪を犯したという記憶があり、決してこんなに素晴らしい天国にいるに値しない者である、との自覚があり、そして、赦された記憶があるゆえである。
だから天国では、永遠に感謝が絶えない。
私達は、罪の記憶など、すぐに消してしまいたい、あんな記憶、なくしてしまいたい、と思っても、それでも消されずに残っている理由は、こんなに惨めになってしまっていた自分を、主は愛してくださり、良くしてくださり、救って天国に入れて下さる事を、永遠に感謝するためであって、決して、自分は罪深いと自分に言い聞かせて苦しむためではない!
罪を犯した記憶なしには、感謝は生まれない。
もう一度言う。
罪の記憶が消えていない理由は、自分は罪深いのだと自分に言い聞かせて苦しむためでは、決してない。
そんな自分をも救い、赦して下さった主を、永遠に感謝し、賛美するためである。
罪の責めをするのはサタンであり、もし自分から進んで過去の自分を罪定めするとするなら、主の完全なる贖いと赦しをないがしろにする「傲慢」である。
天上で生息しているものは、全て「賛美」する。人も、生き物も、御使も。
ダビデはイエス・キリストの雛形であるが、彼は命じている。
「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」(詩篇150:6)
「主が造られたすべての物よ、そのまつりごとの下にあるすべての所で、主をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。」(詩篇103:21)
特に、詩篇148篇では、人や生き物のみならず、天使も、日も、月も、星も、天も、天上の水も、その他、ありとあらゆるものに対して「主をほめたたえよ」と命じている。
全て造られたものは、本来、主をほめたたえるものであるはずが、人間の罪の結果、虚無に服してしまった。それで被造物は、うめきつつ、神の子のあらわれを待っている。(ローマ8章)
私達、キリストにあって贖われた聖徒は、神の子であり、神に賛美と栄光を捧げる者である。
全被造物は、そのあらわれを待っていたのだ。
賛美は、聖徒達の口にふさわしい。大いに主をほめたたえて「天の前味わい」をし、地上において神の子としての使命を全うする皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
イエス様から癒やしを引き出せる人と、引き出せない”その他大勢”との違い(マルコ5:25-34)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-5-20 13:00
公開された天国 - 天上公開メッセージ(黙示録4:1-5)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-5-18 21:48
公開された天国 - 天上公開メッセージ(黙示録4:1-5)
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前章までは、アジアにある7つの教会のメッセンジャーに対し、それぞれへの賞賛や叱責、勧めなどが送られたが、この章から、新たな展開となる。
4−5章では、天という所はどのような所で、誰が存在し、何が為されているのかが記されている。
ここはいわば、「天上公開メッセージ」である。
『その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。』(黙示録4:1)
ヨハネは、開いた天の門を見せられ、「上って来なさい」と主から招かれた。
この「開いた(アノイゴー)」は、完了形受動態が使われており、すなわち、それまで開かれていなかった所が開かれ、それまでは未公開だった事が初めて公開された、という事である。
その後、黙示録では、天の情景が次々と公開されて行くが、天がここまでおおっぴらに公開された記事は、旧新約聖書を通しも、かつて無かった。
まさに、天の「すっぱ抜き(ラテン語:revelatio、英語:Revelation)」である。
天が全ての人に公開されたからには、天国は、もはや秘密の国ではない。
『すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。』(黙示録4:2)
ここで、「(御霊に)感じた」と訳された言葉は、ギリシア語で「エゲノメーン(ギノーマイの直接法アオリスト形)」、すなわち「生成する、(今まで無かった所に)生じる」の意味であり、直訳的には「霊の中に生じた」である。
ヨハネは「上って来なさい」とは言われたものの、自分の足で上って行ったのではなく、かの声に呼びかけられた次の瞬間、霊の中にあって、見せられている幻の中に”いた”のだ。
『その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。』(黙示録4:3)
御座は、全能なる神が、全宇宙を統治する場であり、世の全ての事共をさばき、摂理する所である。
この「御座(スロノス)」という語は、新約聖書全部で61回登場するが、その内、46回は黙示録で登場する、「天」という場において、とても重要な語である。
主の座される所には、宝石のような輝きがある。
『また、モーセに言われた、「あなたはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共に、主のもとにのぼってきなさい。そしてあなたがたは遠く離れて礼拝しなさい。ただモーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。』(出エジプト記24:1-2)
出エジプトの時代は、ただモーセだけが、主のもとに登って行く事が許された。
しかし、モーセが主の元にのぼって行き、主から告げられた言葉を伝え、そして犠牲の血を彼らに注ぎかけたところ、彼らも主の元にのぼって行く事ができた。(同3-9節)
『そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。』(出エジプト記24:10-11)
主の足もとには、サファイアの敷石のごときものがあったのは、エゼキエル書1章や、黙示録の記述に似ている。
主の、その宝石の輝きのような栄光は、そのあまりに「聖なる」様に恐れをなすものであるが、主の御前出た長老七十人は、大丈夫だった。
しかも、神を見て飲み食いしたというのだ。なぜか。それは、「血の注ぎかけ」を受けていたからである。
私達も、神と人との唯一の執り成し手であられるイエス様が、その血を携えて御父の元に登り、犠牲となって下さった事によって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来、天の食卓において飲み食いする事が許されるのだ。
『また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。』(出エジプト記4:4-5)
この二十四人の長老は、誰であるのか。
21章において、新しいエルサレムを取り囲む城壁の12の門には、イスラエル十二部族の名前が書いてあり、12の土台石には小羊の十二使徒の十二の名が書いてあるため、主の御座を囲んでいるこの二十四人は、彼らであろう。
黙示録(啓示録)においては、天が次々と開かれていく。
私達はそれを、自分とは関係のない空想話を解釈しようとするかのようではなく、将来、私達が実際に入る新居を楽しみながら見るように読んでいきたい。
聖霊充満とは(使徒2:1-4)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
本日はペンテコステ(聖霊降誕日)、すなわち主イエスを信じて約束を待ち望んでいた弟子達が聖霊に満たされた日であり、この日を境に、彼らは大胆に力強く変えられ、死をも恐れない強力な働き人となった。
キリスト者の生活と働きの根源は、聖霊である。キリスト者は、イエスが主であるとした時、既に聖霊を受けている(1コリ12:3)。弟子達も、復活の主から息を吹きかけられた時、聖霊を受けたが、聖霊に満たされてはいなかったし、聖霊に満たされるというのが、よく分からなかった。そこで彼らは、主から約束された指示に従い、聖霊を受ける事を待ち望みつつ、共に一つ所に集まり、心合わせ、祈りに専念していた。
聖霊に満たされる事が、よく分からないだろうか。今日、ペンテコステでの出来事を原語的に詳しく見る事によって、「聖霊充満」とはいかなる事か、また、どうすれば聖霊に満たされるかを学びたい。
弟子達が大胆に力強く変えられる、その境となった日、起きた事は、次の事だった。
『五旬節(ペンテコステー)の日がきて、皆の者が一緒に(ホモスダモン:心一つに)集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音(エイコス:騒音、ニュース)が天から起ってきて、一同が(ずっと)座っていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが炎のように分れて現れ、一人一人の上に留まった(カスィゾー:座す、位につく)。すると、一同は聖霊に満たされ(プレソー:吹きこまれる、感化する、充満する)、御霊が語らせるままに、色々の他国の言葉(ヘテロス グロッサ:異なった 舌)で語り出した。』(使徒2:1-5)
つまり、この日起きた事を詳細に見るなら、主の復活から「7週+1=50日」が満了した時、イエス様の指示に従い約束を望む「志ある」聖徒達が心一つにし、一つ所に集まっていると、天から(持ち運ばれている)激しい風のような響き(ニュース)」が、彼らがずっと座っていた家の全体を満たした、という事だ。
そして彼らに、火のような、分けられた数々の舌が現れ、それが一人ひとりの上に座した(位についた)。
すると彼らは、聖霊に吹きこまれ(英influence: 感化され、突き動かされ)、その霊が、彼らに(次々と)語らせて下さるままに異なる舌(言語)で、(大声で/大胆に)言明し出した。
つまり、キリストの弟子達が力強く大胆に変えられた根源、「聖霊充満」とは、聖霊様が、その人の支配の王座に座し、聖霊に支配され突き動かされる事を言い、その人は聖霊様から見せられ、思わせられ、語らせるまま行動するものであり、それは以前生きていた時の考え方や言葉・行動とは全く異なったものとなる。
「聖霊充満」は、何かを強く念じたり眉間に力を込めたりして成るものではない。聖霊様は三位一体なる神の一つの位格であり、その、人格あるお方へと自分の支配権を明け渡す事によって、彼の支配がその人の隅々まで行き届き(充満し)、彼に感化され、突き動かされ、導かれるままを話し、行動している様を言う。
だから、自分の思い込みや「よかれ」を頑なに握りしめている内は、決して聖霊様の支配下には入れない。
聖霊に満たされるためには、かの時代の弟子達のように、自らを準備する必要がある。
まずは、主イエス様の十字架と復活を信じ、体験し、「7という完全数」が7に満了するまで、主の指示に従い、聖徒達と心を一つにして、主の御約束が成る事を期待し積極的に祈り求める事である。
そして、天的な激しい音(ニュース)によって、それまでずっと座していた家(オイコス:居住地)が揺さぶられた時、すなわち、聖霊が激しく心揺さぶっているのを感じたなら、それを拒否せず、その支配の御手に委ねる事である。間違った霊に委ねてはならない。聖霊様は、イエス様を証し、栄光化する霊である。
聖霊様はどういう御方か。それは、次の良き実を実らせる御方であって、悲しみや絶望、暗い不安を募らせるような御方ではない。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」である。
聖霊様に突き動かされている人は、不品行や好色、偶像礼拝、争い、怒り、憤り、党派心、分裂、嫉妬といった「肉の行い」を忌み嫌い、以はそれを好んでいたとしても、出来なくなって行く。(ガラテヤ5:19-23)
聖霊様に支配されている人は、唇が変えられ、人間的な汚れた言葉を言わなくなって行く。だから、聖霊に満たされているかどうかを見分けるには、口から発せられる言葉と、その実を見れば、判別できる。
人の歩む道は、二つに一つである。御霊に従って生きるか、それとも肉に従って生きるか。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である。自らを聖霊に支配されるに相応しく整え、聖霊様に支配され、感化され、突き動かされるままにイエス様を大胆に証する、力強い働き人である皆さんでありますように!