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信じる人に働くイエスの御名の爆発的な力(使徒3:1-4:4)
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週報/メッセージ(説教)概要
弟子達は、聖霊様のご支配に満たされて以降、力強く大胆にイエス・キリストを証するようになり、多くの人々をキリストにある救いへと、永遠の命へと導いて来た。今回も、聖霊様のご支配に満たされた人はどのような事を為し、人々にどのような影響を与えるのか、使徒行伝から学びたい。
ある生まれつき足の萎えた男がいた。彼は毎日、宮の「美しの門」の入り口に運んでもらって、そこで施しを求める日々を送っていた。足萎えの人は美しの門から入って礼拝する事は禁じられている。来る日も来る日も、ただ宮の門まで運んでもらって、人々の施しを求めるだけ。そうして40歳を過ぎるまでに至った。
ある日、礼拝に来た二人の男達に、いつものように施しを求めた所、彼らはじっとこちらを見つめ、「私達を見なさい」と言う。今まで無かった言葉をかけられ、期待して彼らを見た。男は言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(6節) そして、右手を取って立たされたると、たちまち足とくるぶしが強くなり、歩き、おどり上がる事が出来るようになった。
彼は大きな喜びと共に、この二人 −使徒ペテロと使徒ヨハネ− と一緒に、一度もくぐった事の無かった「美しの門」から入り、宮の中に入って、誰よりも大声で神を誉めたたえ賛美しながら歩いた。
神を賛美しながら…癒やされたとたんに神への賛美が出てくる点こそ、彼の癒される素地であった。彼はイエスを知っており、信じており、弟子達の口を通して語られたその「イエスの名」によって癒やされたのだ。
40年、彼の足が萎えていた事、その40年の苦しんできた日々は、一転して、神の栄光を、イエスの栄光を現す日々と化した。主に望みを置く人は全てこうなる。「その時、足の不自由な人は鹿のように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、砂漠に川が流れるからである。」(イザ35:6)
多くの人々が驚き、集まって来た。なにしろ、宮に行く度に美しの門の所で何十年も必ず見て来た、あの、施しを求めていた足萎えの男が、足が丈夫になって宮に入り、踊り上がりながら賛美しているのだから。
ペテロは人々の有様を見て、メッセージする。「イスラエルの人達よ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜ私達を見つめているのか。」
彼が強くされ癒されたのは、ペテロ達の信仰や力ではない。あなたがたが十字架につけ、死なせ、しかしよみがえられた「イエスの名が、それを信じる信仰の故に、あなたがたのいま見て知っているこの人を強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前でこの通り完全に癒やしたのである。」(16節)
ペテロがメッセージで言わんとしている事は、前回と全く同じである。すなわちイエスというお方について。
神はこのイエスを、預言者を通し、また奇跡やしるしを通して、救い主として認証された。しかし「あなたがた」は彼を十字架につけ、殺した。しかし神はこのイエスを死者の中からよみがえらせた。自分達はその証人であり、そしてこのイエスの御名を信じる信仰によって、この、素晴らしきわざが起きたのだ、と。
「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に(神に)立ちかえりなさい。」(19節)
これら一連の事こそペテロがいつも語っている事であり、私達も宣教において語るべき事柄である。
一方、この素晴らしい出来事を見て、歯ぎしりする者もいた。それは、神の御子イエス・キリストが生きていては困る人達、自分が王の座に座り続けていたい者達である。彼らは、ペテロとヨハネを捕らえ、留置した。
それでも今回のこの出来事で、多くの人々が信じ、男の数だけでも五千人になった。(4:1-4)
このように、主イエスの復活のいのちは爆発的な力を持っており、福音は聖霊充満の人を通して、すなわち聖霊様がその人の支配の王座に座し、聖霊様に支配され、突き動かされ、聖霊様から見せられ、思わせられ、語らせるまま行動する人たちを通して、力としるしをもって爆発的に広がって行くのである。
いかに自立出来ないまま40を過ぎてしまった人でも、自分の足で立って強く耐えらるよう癒され、長年の苦しみと恥を嘗めて来た日々は、一転して神の栄光を、イエス様の栄光を現す日々へと転換する。しかし、イエス様に望みを置かないなら、いつまでも人のやっかいになって、礼拝者から施しを求め続ける人生から離れられない。「彼に聞き従わない者は、みな民の中から滅ぼし去られる(23節)」と書いてあるからだ。
私達も、肉のわざと価値観で生きる事を捨て、聖霊様の支配下に服する事を日々選んで行くべきだ。聖霊様に満たされ、イエス様を大胆に証する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
口を閉ざしているなら敵はどんどん罠にはまって行く(イザヤ36:13-22)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2016-5-25 22:00
格闘の相手は血肉に対するものではなく(エペソ6:10-12)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
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- pastor 2016-5-25 21:10
天権授与式(黙示録5:6-14)
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『わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。』(黙示録5:6)
なぜ「ほふられた」小羊が「立つ」事ができるのか。それは、よみがえって、生きているからだ。
この小羊は、一切の罪や汚れの無い、世の罪を取り除く神の小羊であり(ヨハネ1章)、七つの目すなわち七つの霊によって、全世界の物事をくまなく見ておられる。
神の霊は、私達の立つのも伏すのも見ておられ、心の内も、私達の出生も生い立ちも、全部探り尽くしておられる。(詩篇139篇)
彼がここで立っている「立ち位置」は重要だ。
そこは、御座と長老たちの間、すなわち、神と人との間である。
彼はひと度、完全なるいけにえとなって、十字架上でほふられ、なだめのそなえものとして神に捧げられた。
だからこそ神はなだめられ、彼の後ろにつく全ての人々は、神との間に和解が成立しているのだ。
このまことの小羊キリストを自分自身の救い主とし、神と自分との間に彼を置く人はすべて、彼の故に神との間に和解が成立し、神の子とされ、天国の民とされるのだ。
人は本来、天国という聖なる、あまりにも素晴らしい所に到底入る事のできない、入ってはならない、罪を犯した存在だ。それなのに、入ることができている。
だから天国に入った全ての人は、いや、人間のみならず、全被造物は、ほふられてなだめの供え物となって下さった小羊に感謝してもし尽くせず、賛美してもし尽くせないのだ。
『小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を「受けとった(ランバノー)」。』(黙示録5:7)
ランバノーの意味は、「受ける」「引き継ぐ」などの意味もある。
この場面は、ほふられた小羊が、全能の父なる神から全ての権威が委譲された「天権授与式」とも言える。
彼は、全宇宙・全被造物に対してとても重要な、その巻物を受け取る事によって、全能なる神の権威を行使する事が委ねられ、そして彼はその巻物の封印を次々に解いていく。
そして、原初より隠されていた全被造物の重要な秘密が、一つまた一つと解き明かされて行き、ずっと滞っていた全被造物の深刻な問題の一つ一つが、解決へと向けて流れ出して行く。
『巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。』(黙示録5:8)
金の鉢の中に入っているもの、それは「聖徒達の祈りである」と書いてある。
つまり、キリストにあって聖徒とされた人達の「祈り」は、香として天に立ち昇り、それらは御使の手によって金の鉢の中に蓄えられている。
『また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。』(黙示録8:3-4)
神様を知らない人が「祈り」の姿を見るなら、目を閉じた人の、独り言のつぶやきのように見えるかもしれない。
しかし、キリストにあって聖なる者とされた私達・一人ひとりの祈りは、御使いの手を通し、天の神の御座の前へと、御使の手を通して立ち上って行き、積み重ねれられ、力を発揮するものだと認識すべきである。
世においては、税金を払っても、全然民意が反映されないまま、不正な者の懐へと消えて行くような事は、ある。
しかし天において、祈りにおいては、そのような事は一切無い。王であられる主は、義なるお方であり、天には不正な者が入れないからだ。
『御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。』(黙示録8:5-6)
祈りが金の鉢を満たした時、御心の成就が遂行されて行く。
祈りとは、天の神の御胸の遂行に参加するものであり、天権行使に、私達も関わる事ができる手段であるのだ。
小羊が巻物を受け取った瞬間、全礼拝者の礼拝の対象は、小羊へと集中する。
『彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。』(黙示録5:9-10)
彼ら(四つの生き物と長老たち)は、「新しい歌」を歌った。
彼らは前章でも、全能の神様に冠を投げ出して賛美したが、今度は、「新しい歌」を、小羊に向かって賛美している。
イエス様は、ほふられて下さった。そして、その流された血によって、私達・キリストにある聖徒達を「買い戻して」下さった。
そして贖われた聖徒達は天国民となり、祭司となり、地上を支配するのである。
人が支配者となる事。この事は、神様が世を創られ人間を創られた当初から、神様が意図されていた。
その事への、正統な復帰である。
なぜなら聖書の最初の書、最初の章に書かれている。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
人は堕落して以来、全被造物は、神の荷姿から離れた人間たちの、恐怖政治にうめいている状態だった。
本来、人が罪を犯したから、人が断絶されるべきであるはずが、小羊が、神と人との間に立ち、身代わりにほふられた。
そして、贖われた聖徒達は王となり、祭司となり、神に属する民としての、正統な支配が戻ってきたのだ。
もはや、神の荷姿からかけはなれてしまった人間による不当な支配、恐怖政治に、悩まされる事は無い。
だから、全被造物は、その全ての解決をして下さった小羊に賛美するのだ。
幾万幾千の御使い達も、賛美を捧げているる。
『さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。』(黙示録5:11-14)
このように天上では、贖われた人々、4つの生き物、そして、幾千万もの御使い達がおり、彼らは皆、小羊を賛美し、礼拝している。
ダビデが詩篇150で書いたように、全て造られし者が、色々な楽器を用いて賛美を捧げている。
ダビデはまさに、天上の礼拝の「型」を、地上で演じていたのだ。
小羊に賛美が集中する時、父なる神は、栄光をお受けになる。
ちょうど子供が運動会で一等賞を取った時、それを見ている親も栄光を受けるように。
『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)
キリストにあって聖徒とされた私達は、天においてどのような王国を治めるのかは分からない。
しかし私達は天を目指し、地上で任されている日々の「小さなこと」を、忠実に守り行うべきである。
太古より封じられてきた秘密を解くお方(黙示録5:1-5)
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ヨハネはまたさらに、天で隠されていた秘密を見せられる。
『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。』(黙示録5:1-4)
太古より、全能の父なる神によって計画され、人知れず、長らく封じられて来た秘密がある。
ヨハネに、この天上の幻が見せられた時点で、人類史上初めて、その封じられてきた秘密が「あった」という事が、明らかにされたのだ。
終わりの時代になれば、なる程、多くの人々は、知識を求め、色々と探り調べる事になる。(ダニエル12:4)
事実、今も聖書の秘密について、多くの人々が色々な説を起こし、諸説や議論が咲き乱れているが、私達はそうした事どもに参加する必要は無いし、してはならない。
私達は主がダニエルに言った言葉に注目すべきである。
『わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。・・・しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。』(ダニエル12:8-13)
あの、主から愛されたダニエル、知恵深いダニエルさえ悟れずに主に聞いた秘密に対し、主は「それは封じておかれる」「あなたの道を行きなさい」と答えられた。
私達もダニエルのように、「いつ」とか「どんな時」とか、知る必要はない。(使徒1:7)
それよりも、主から与えられた道のりを、イエス様が来られる日まで、走り尽くすべきなのだ。そうして、走るべき道のりを終えた後に、受けるべき報いがある。
ヨハネは、この巻物を開いて封印を解ける者が誰もいない事で、激しく泣いた。
それは、この巻物を解く事は、とても切実な事だったからである。
天上の、地上の、地の下の全存在にとって、とても切実な。
もし、これが解かれないままであるなら、天上・地上・地下において封じられていた諸々の問題は、解決されないまま置かれ、神が定めた「完成」には至らないままになってしまう。
ところが、ダニエルの時には明かされなかった諸々の秘密は、黙示録で次々と明らかにされて行く。
なぜなら、「勝利され、封印を解く事ができるお方」があらわれたからだ。
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』(黙示録5:1-5)
ここの「勝利(ニカオ)」のギリシア語は、直接法アオリスト形能動態という、特殊な時制が使われている。
それはすなわち、この「勝利」は、過去のある時点において「完結」され、全問題は「解決済み」となり、その勝利以降、その効力は今に至るまでのみならず、これから後もずっと続いていく事だ。
その、決定的勝利をした時点は、「ほふられた時」、すなわち、十字架である。
ユダ族から出たしし(ライオン)、勝利された「ダビデの根」、それはまさしく、イエス・キリストである。
勝利した彼には、全能の父なる神から全権が委譲され、次々と封印を解いて行くのだが、その都度、はるか昔に神によって用意されていたスケジュールが動き出し、隠されていた秘密が露わにされていく。
アダム以降、人類が抱え持ってしまった深刻な問題、天においても地においても、地の下においても、誰にも解決できなかった諸々の問題は、この、ほふられて勝利した小羊キリストによって、どんどん解決されて行くのだ。
聖霊に満たされた人のありさま(使徒2章)
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週報/メッセージ(説教)概要
五旬節の日、弟子達は主が約束しておられた通り、聖霊に満たされ、他国の言葉(異なる舌)が与えられた。
聖霊充満された人、すなわち、聖霊の支配に服しその支配が行き届いた人には、どのような特徴が現れるだろう。そして私達は何を目指すべきだろう。聖霊充満されたペテロの言葉と行動から、それを学びたい。
この日、天からの激しい風のような響きと、弟子達が他国の言葉で「神の大きなみわざ」を語るのを聞いて集まって来た多くの人々は、驚き惑い、「一体これは何を”セロー(意味する、したいと思う)”のだろう」と言っていたが、ある人々はあざ笑い、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と(繰り返し)言っていた。
そこでペテロは立って(押し出されて)説教を開始するのだが、彼の説教は、御言葉に裏付けられ、人々の心を刺し、悔い改めと救いへ導くものだった。ペテロはまず、彼らが知りたがっていたこの「しるし」について説明する(14-21節)。「今は朝だから、彼らは酒に酔っているものではない・・・」。ペテロは悪意ある人のあざけりに対しては、この一言で終わらせ、この不思議は、預言者ヨエルの書の成就である事を語った。
続く22-35節は「ナザレ人イエス」についてであり、イエス様こそが説教の中心かつ大部分を占めている。
聖霊はイエス・キリストを証しする霊であり、罪について、義について、裁きについて世にその過ちを認めさせる。だから、イエス無き説教、御言葉なき説教、聖霊の「押し出され」無き説教は、力が無い。
「ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示された」(22節) この事は既に全イスラエルが知っている事だったが、彼らの中で広まっている事は、イエス様はよみがえられたのではなく、弟子達が遺体を盗んだ、という偽の情報だった。しかし、彼がよみがえる事、死に縛られていない御方である事は、前もって聖書に書かれてある通りだと、ペテロは、詩篇16篇を引用してあかししている。(25-28節)
もう一つ、彼が引用した聖書は詩篇110篇である。ダビデはキリストの復活を予め知ったため、彼の主キリストについて『彼は黄泉に捨ておかれる事がなく、またその肉体が朽ち果てる事もない』と言った。
『このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。』(32-33節) イエスこそ神と預言者に認証された救い主メシヤである事を、彼は聖書から証したが、では、その事は今の私達に何か関係あるのだろうか?大ありである!
『だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。』(36節)
イエス様を十字架につけたのは、誰だろう? 実際に手を降したのはローマ兵であり、それを指揮したのはイスラエルの指導者達だ。この、五旬節の日に集まった彼らが手を降したりした訳ではない。ここは私達も知らなければならない。罪なき神の御子キリストを十字架につけたのは、まごうことなき、私達全人類だと。
私達も、それを伝えなくてはならない。すなわち、ナザレ人イエスについて。彼は私達の罪のために十字架で死なれ、そしてよみがえられられ、神の右に上げられ、聖霊を与えて下さる事を。
人々はこれを聞いて心刺されたが、心を刺して終わりではない。ちゃんと救いの道を示さなくてはならない。
「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(38節)
こうしてこの日、三千人が仲間に加えられた。何と大胆に、立派になったペテロであろう。五十日前、人々の前でイエス様を「知らない」と誓った人物とは到底思えない。主が予め言っていた通り、聖霊に縛られ導かれるなら、本人の思いのままではなく聖霊に導かれるまま進まされるのである。(ヨハネ21:18)
救われた彼らは、使徒達の教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈り、全ての物を共有にしていた。
心を一つにして毎日礼拝する所に集い、賛美し、一同の心に恐れが生じて、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれ、全ての民に好意を持たれ、主もまた、毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
これが、初代の教会(エクレシア)である。聖霊に満たされる事なしには、この事は有り得なかった。
私達もまさに聖霊を求めるべきだ。聖霊に満たされ、イエス様を大胆に証する皆さんでありますように!