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ラオデキヤ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:14-22)
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七つの教会の内の第七番目、ラオデキヤ教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:14)

2,語られるキリストの姿
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。』(3:14)

3,賞賛と激励
なし

4,叱責と警告
『あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。』(3:17)

5,勧めの宣言
『このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。』(3:16-18)

6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』(3:21)

7,二次受信者への命令22
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:22)


主は、ヨハネに7つの教会のメッセンジャー達に対して手紙を送りなさい、と命じられたが、その最後・7つ目の教会が、ラオデキヤ教会である。
この教会には、主からの賞賛は一切無く、ただ、叱責しか無い。
それは7教会中、このラオデキヤだけである。

ラオデキヤは当時、金融都市で、医療を学ぶ所もあり、フルギヤの目薬工場を直営する富裕な地域だった。
また、ラオデキヤから8キロ離れたヒエラポリスという都市には、パムッカレ(トルコ語で「綿の宮殿」の意味)という有名な温泉があり、各地から多くの人が治療目的で訪れて、温泉を楽しむ所だった。

ここの教会に対し、主はご自身を「アァメンたる者、忠実な、まことの証人」と紹介される。
アーメンも、忠実も、まこと(真実)も、いずれも同じ意味である。
ヘブル語のアマン(アーメン)には、忠実、真実の意味があり、「アーメン」は全てのクリスチャンの信仰告白の言葉となった。
イエス様はまことに、全ての聖徒達が「アーメン」と信仰告白する対象であられるお方、忠実また真実なるお方、神に造られた全ての根源なるお方である。

『わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。』(黙示録3:15-16)
物質的に恵まれ、自分の事を「富んだ者」と言ってはいるが、主は「なまぬるい」と評価された。
そして主は言われる。なまぬるいよりは、むしろ、冷たいか熱いかであってほしい、と。

なお、ヒエラポリスからラオデキヤへと流れてくる温泉水は、ラオデキヤに到達する頃にはなまぬるくなっており、この水で体を洗うと、皮膚病になった、と言われている。
熱いでもなく、冷たいでもない。それは逆に、体をむしばんでしまうのだ。

熱い事、熱心な事は、結構である。
冷たい事も、「なまぬるい」よりはまだましだ。
「愛」の反対言葉は「憎しみ」ではなく、「無関心」だと言われている。
親子関係や男女関係において、憎しみがある内は、まだ良い。それは、相手に対して関心がある、という事の裏返しだからだ。
しかしもし、相手に対して何の感情も関心も抱かないとするなら、その親子関係・男女関係は、致命的な段階に来ている。
ましてや主との関係なら、なおさらだ。

信仰者にとって致命的なのは、主に対する無感覚、無関心、距離を置いた「事なかれ」的ななまぬさであり、そのような人は、主から遠く離れた者である。
日本には現在、キリスト教への迫害は無く、あらゆる宗教に対して寛容で、経済的にもある程度富んだ国である。
一見すると、迫害下にある国々よりはましに見えるが、霊的に見るなら致命的だ。
事実、過去多くの宣教師たちがこの国に派遣されているにも関わらず、日本のクリスチャン人口は、今だに1%にも満たない。
この、真理に対する熱さも冷たさもない「なまぬるさ」が、重要な原因の一つであろう。

『あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。』(黙示録3:17)
彼らは確かに物質的には富んでいたかもしれない。
それで「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない」と自分で自分を評価しているが、主は逆に、彼らに5つのマイナスな事柄を、すなわち、「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」と指摘している。
そして、それを脱却するために、3つのものを「買いなさい」と指示されている。

『そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。』(黙示録3:18)
この「買う(アゴラゾー)」は、買い戻す事の意味もあり、十字架上で主が血の値をもって私達を「買い戻し」て下さった単語であり(1コリント7:23,30)、買い戻されて赦された私達・信仰者には重要かつ基本的な事をあらわす単語でもある。
ここでは「買い戻し」を3度並行させているが、この、同意的な言葉を並行的に繰り返す事によって強調するのは、ヘブル的キアズム構造の強調表現である。
主は、強調される。
なまぬるさからの脱却は「値をもって、買い戻す」事によるものだ、と。

まず買い戻すべきは、「火で精錬された金」であるが、火で精錬された金について、1ペテロに書いてある。
『そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。』(1ペテロ1:6)
ここでは、様々な試練によってためされた信仰が、「火で精錬された金」と平行して書かれているが、まず買い戻すべきは「信仰」、それも、試練によって試され純化された信仰である。

また、次に買い戻すべきは、「裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣」だ。
この白い衣については、長老の一人がヨハネに説明している。
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」(黙示録7:14)
また、主は言われた。
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。」(黙示録16:15)
主はいつ来られるか、分からない。
しかし主のしもべが、罪を犯しても、主の贖いの血潮で洗わないままに、あい変わらず罪の飲み食いのどんちゃん騒ぎをし続けているなら、その者は裸の恥をさらしたままである
主のしもべは、罪のけがれがついたなら、その日が暮れない内に小羊の血潮で洗い、きよい状態を保ち続けるべきなのだ。

3つめの買い戻すべきものは、「見えるようになるため、目にぬる目薬」である。
イエス様ご自身が目薬を塗って下さった記事が、ヨハネ9章に記されている。
『イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。』(ヨハネ9:6-7)
「顔にドロを塗る」「顔につばきをかける」、いずれも屈辱を受ける事の表現だが、「見える」ためには敢えてそのような経験を「買い求める」事も、必要だろう。
主から直接、目にドロを塗られる時、その人が「遣わされた者」の所に行って、洗うなら、目からウロコが落ち、それまで見えなかったものが見えるようになり、働き人として整えられるのだ。(使徒9:18)

『すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。』(黙示録3:19)
主は、愛すれば愛するほどに、しかったり、懲らしめたりする。(申命記8:5、ヘブル12:5-11)
主は、ラオデキヤの人を愛しておられるからこそ、このような厳しい事を言われる。
だからメッセンジャーは、このラオデキヤの箇所を、憎い人を裁断するための道具として用いてはならない。
むしろ過ちに陥っている人には、その人が倒れてしまわないように、愛をもって戒め、諭し、立ち返らせるべきだ。

『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし(デイプネオー:夕食あるいは宴会をする)、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』(黙示録3:20)
なんとラオデキヤでは、イエス様は、扉の外におられる。
「ラオデキヤ」は「ラオス+ディケー:民衆の義、民衆の判決」の意味があるが、人が裁き、人が自分の義を主張するなら、イエス様は戸の外に追いやられてしまっている。

イエス様は、彼らの中に入ろうとして、戸を叩く。
もしイエス様が叩くのを聞いて、扉を開き、彼を受け入れるなら、イエス様は入ってきて、共に食事(デイプネオー:夕食あるいは宴会)ができる。
しかしもし、民衆の議論や義の中で喧々諤々したまま、イエス様の叩く音を無視するなら、イエス様は去って行ってしまう。(雅歌5:6)

『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』(黙示録3:21)
主は「わたしと共にわたしの座につかせよう。」と言われた。
だから、イエス様抜きにして、勝利を得てもいないのに、自分が勝手に王の座・裁きの座に着こうとするのは不当であり、そこから引きずり降ろされてしまう。
主が座に招いてくださり、そしてそこに主が着かせて下さる。それを待つべきなのだ。

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(黙示録3:22)
主は、これらの事を、私達にも語っておられる。
もし私達の中に、ラオデキヤに対して主が叱責されたような事があるなら悔い改め、買い戻すべきものを、主から買うべきである。

自分が呪われても子に祝福を継がせたい母の愛 - リベカ(創世記27:1-17)
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フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:7-13)
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七つの教会の内の第六番目、フィラデルフィア教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:7)

2,語られるキリストの姿
『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。』(3:7)

3,賞賛と激励
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(3:8-10)

4,叱責と警告
なし

5,勧めの宣言
『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。』(3:11)

6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(3:12)

7,二次受信者への命令13
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:13)


フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対しては、スミルナ教会と同様、主からの叱責が無い。
そして今回の箇所には、キリスト者であるなら必読とも言える事が、すなわち、全世界に来るべき試練の時でも主から守られるための秘訣が、書いてある。

主はご自身を「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者」(7節)と紹介された。
実に主は、死とハデスの鍵を持っておられ(1:18)、また「ダビデの鍵」をもっておられる。

かつてヒゼキヤ王の時代、主は、主人に恥をもたらす宮廷執事シェブナを権威の座から降ろし、その代わりに、宮内長官エルヤキムをその座に据え、彼の肩に「ダビデの鍵」を与える、と言われた。(イザヤ22:22)
しかし、ダビデの子孫の「人間」の統治は不完全であり、やがては引き抜かれてしまう事も、主はその時預言しておられた。(同25節)
事実、バビロン捕囚以降、ソロモン以降に続く血筋は、イスラエルの王権から絶たれてしまった。(エレミヤ22:30)
ソロモン以降、歴代の王たちは、主を怒らせ続けて来たからだ。

イエス様は、”処女”マリヤから生まれた故に、ソロモン以降の血を継ぐマリヤの夫・ヨセフの血は、受け継いでいない。(マタイ1章)
しかし、イエス様を産んだ処女マリヤは、ダビデの血を受け継いでおり、なおかつ、ソロモン以降の血は、受け継いでいない。(ルカ3章)
彼女は歴代の王族の血筋ではなくとも、ヨセフに嫁いだ事によって、法的には王族へと迎え入れられた形になる。
つまり、イエス様は法的に王族であり、かつ、歴代の王族のいわば”汚れた”血筋ではない、いわば、完全で純血なる王族ダビデの子孫なのである。

彼が開くなら、それは誰にも閉じる事は出来ず、また、彼が閉じるなら、それは誰にも決して開ける事が出来ないのだ。
主はその約束を、フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対して為された。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。』(黙示録3:8)

彼らには、少ししか力がない、という。
つまり、主からの賞賛と保護を受けるには、力の大小は関係無い、という事であり、むしろ、「主の言葉を守り」「主の御名を否まない」事こそ大事である。
門を開いて下さるのも、閉ざして下さるのも、主であり、自分の力で開けたり閉めたりするものではない。
ただ、主の言葉を守り、主の御名を否まない聖徒達に、主が彼らの歩むべき道を、くぐるべき門を、開いたり、閉ざしたりして、導いて下さるのだ。

『見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。』(黙示録3:9)
自称ユダヤ人、すなわち、自分達は神に属する、神に選ばれた者達だ、と言いつつも、実はサタンの会堂に属しているような「偽兄弟」「偽クリスチャン」は、どの時代にもいる。
力が無い人であるなら、そのような者達に、自力で対抗したり、論破したりは、できないかもしれない。
しかし主ご自身が、弱い彼らを弁護し、主ご自身がそのサタンの会衆の者達を、彼らの前にひれ伏させ、その者達に「わたしが愛しているのは彼らだ」と知らしめて下さるというのだ。

『忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に「住む(カトイケオー)」者たちをためすために、全「世界(オイコウメネー)」に臨もうとしている「試錬(パイラスモス)」の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:10)
ここの「住む(カトイケオー)」とは、一時的に住む事の意味ではなく、「永住する、定住する」の意味であり、また、「世界」(オイコウメネー)は、特に人が居住している地、つまり、人の支配(特にローマの)が及ぶ所の意味である。

つまり、行政が高度に発達し、人による支配が行き届いた都市などを目指して、永住・定住しようとしている人は、要注意である。
そこには、「試錬(パイラスモス:試験のための誘惑)」が臨もうとしているからだ。

人の栄えを目指して、人の上に成り上がろうとする者は、所詮、バベルの塔を構築する一員となっている過ぎず、最終的には、築きあげて来たものは皆、崩されてしまう事になる。
信仰の父・アブラハムが、この地上では、自分の墓地以外は何も土地を得ず、ずっと天幕生活を貫いたように、私達もこの地上では旅人、寄留者として歩み、天の故郷を目指して歩む者である。
『信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。・・・
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。』(ヘブル11:8-16)

そのような聖徒達には、主からの密かな養いと喜びがある。
イエス様がお生まれになった時、羊飼い達は、皇帝アウグストの住民登録を受ける価値も無い、いわば、オイコウメネーの外の人達だったが、彼らには、救い主キリストがお生まれになった事を天の軍勢の賛美と共に告げ知らされ、その現場を見に行けるという、密かな、そしてとてつもない幸いを得る事ができた。

終わりの時代、誰も耐えられないような試練の時代でも、主から守られる秘訣がある事は、私達キリスト者には大きな慰めである。
その秘訣とは、「わたし(イエス様)の言葉を守り、わたし(イエス様)の名を否まな」い事である(8節)。そして、力は少しばかりしか無くても良いのだ。

『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における「柱(ストゥーロス)」にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:11-12)
柱(ストゥーロス)には、「最重要人物」の意味もある。
神の聖所において、重要人物として立てられる事も名誉であるが、何よりも、主の聖所の主の臨在の中で、永遠に主の御そば近くで生きられる事は、どれ程の幸いであろう。

勝利を得る者達の上に、主は「名を書き記そう」と約束しておられる。
その名とは、「神の名」と、「神の都すなわち天から下ってくる新しいエルサレムの名」と、「主の新しい名」である。(12節)

自分の持ち物に、自分の名前を書く事によって「これは自分のもの」と周り宣言するように、主は私達の上に、ご自身の名を書きつけて、私達は「主に属するもの」「主のものだ」と明記して下さる。
21章には、天から下ってくる新しいエルサレム、すなわち、小羊キリストの妻である花嫁の記述があるが、勝利者には、その「新しいエルサレム(小羊キリストの妻)」の名も、記されるというのだ。
勝利を得る者は、なんと幸いな事だろうか!
「勝利者」とは、この地上で最後までイエス様のわざを”継続的に”守り続ける人である。(黙示録2:26)

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録3:13)
これらの事は、現代を生きる私達に対しても語っている。
私達も、勝利者として、これらの素晴らしい特権にあずかれる者でありたい。

子が死んでも守って王の心を動かした一人の母(2サムエル21:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今日は母の日である。母は、赤ちゃんを身ごもると、10月と10日その子と命を共有し、新しい命を世へと送り出す。産んだ後もその子を徹底的に愛し、守り、慈しむ。今回、リツパという一人の母を見ていきたい。
リツパは、イスラエルの初代王・サウルのそばめであり、二人の子を産んだ。サウル王は主の御言葉に従わず、諸々の身勝手な振る舞いを止めなかった故に呪われた最後を遂げた。そのサウルの死後、彼の将軍だったアブネルが実権を握り、アブネルは彼女と「寝る」事によって、威勢を内外にアピールした。
サウル王家という、主に不従順な家に入ったが故に、不幸な運命を辿った彼女だったが、それでも彼女の二人の子は、彼女には慰めであったろう。しかし、そのささやかな慰めも奪われてしまう時が来る。

『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである」』(2サム21:1)
ギブオン人とは、本来聖絶されるはずのカナン人だったが、イスラエルを”だます”形で和平の誓いを引き出させた人達であった。彼らは神の家のために奉仕をして行く内に、以前の滅ぼされるべき性質は捨て去り、主を愛する心が芽生えて行ったのだが、サウルは勝手な熱心によって彼らを殺し、追い払おうとした。
それにしても、なぜサウルの代にではなく、ダビデの代に災いが起きたのか。もしかすると、サウルが始めたギブオン人への弾圧は、時代と共に陰湿化し、差別と偏見が強化され、ギブオン人のうめきがいよいよ切になって主に叫びが届いたからかもしれない。ダビデ王はなぜ、ギブオン人の「イスラエルを呪いたい心境」を恐れ、気にしたか。それは、主はイスラエルにではなく、ギブオン人に軍配を上げたからだ。
現代も、不純な動機から教会に入ってくる人達はいるが、以前はどうあれ、主のため教会のために奉仕していく内、ギブオン人のように主を愛するようになり、救われる人も多い。主は、彼らの祈りを聞かれる。
ギブオン人はサウルを「我々を滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人」と言った。主を愛する人にとって、主を礼拝する所から閉めだされる以上の苦痛は無い。彼らが主に訴える時、主は、神の家全部を飢饉に陥れても、彼らの訴えを聞かれる。ギブオン人は、この問題は金銭や仕返し等の問題ではなく「主の問題」であるとし、主のために、張本人の子孫七人を晒し者にする事を促した。
主との約束を軽んじ、手前勝手な熱心を振りかざして聖徒達を弾圧する者は、自身と子孫に災いが及ぶ。

こうしてサウルの子孫の内、七人が引き出される事になり、リツパの二人の息子たちも、そこに入っていた。
『アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。』(10節)
彼女は息子達が殺された日以来、神が天の雨を降らせる時まで、その場を離れず、猛禽や獣から息子達の遺体を守り続けた。そこまで徹底した愛、子が死体となって晒されてもなお守ろうとする「母の愛」以上の愛は、人には無い。子がぐれて、悪くなり、誰もがその子を「死んだ」かのように見捨てても、それでもその子をあきらめず守り、執り成す。母とはそういうものである。しかし、それよりももっとすごい愛が存在する。
主は、たとえ女達が、その子を忘れようとも、決して私達・神の民を忘れる事は無い。(イザヤ49:15-16)
今、私達を言いようもない深いうめきによって、執り成しておられる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊は、いつまでも、どこまでも私達を探り、追い迫る。たとえ私達が罪にまみれ、誰からも「死んだ」ように扱われ見捨てられても、なお深く憐れみ、弁護し、御前にきよく立てるまで、あきらめずに執り成す。

リツパのこの行動は、ダビデ王の心を動かし、サウルとその子の骨を、父の墓に葬るようにさせた。人々は、さらし者にされた人達の骨も集め、ついに神は、イスラエルの祈りに心を動かされるに至った。
彼女が若い時に産んだ子達は、父の罪の故に犠牲にされてしまった。しかし彼女がその遺体を守り続けた行動により、神はなだめられ、ギブオン人もなだめられ、遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ごしの雨が降り注いだ。その雨はイスラエル全体を潤し、パンをもたらしたのだ。
身勝手な正義の振り回しは、自身と子孫を呪いへと導く。しかし愛は多くの罪を覆い、人々を建て上げる。
今、聖霊様は、死んだような私達をも深いうめきと共に執り成し、主の御前で弁護し、恵みの雨を降り注がせようと、待っておられる。この母の日、私達は母の愛を覚え、主の愛を覚え、聖霊様を覚える時としたい。

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