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黙示録2-3章概要(黙示録2:1-7)
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黙示録の最初には「アジヤにある七つの教会へ」と記されているが(1:4,11)、2章と3章は、7つの教会の使いに対する個々のメッセージであり、それぞれ、およそ次の構造に従って語られている。

1,一次受信者の指定
例:「エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。」(2:1a)

2,語られるキリストの姿
例:「『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。」(2:1b)

3,賞賛と激励
例:『わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。』(2:2-3)

4,叱責と警告
例:『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。』(2:4)

5,勧めの宣言
例:『そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。』(2:5)

6,勝利者に約束されている報い
例:『勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。』(2:7b)

7,二次受信者への命令
例:『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(2:7a)

なお、必ずこの番号順になるとは限らないし、また、賞賛だけあって叱責が無い場合や(スミルナ、フィラデルフィア)、その逆で、叱責だけあって賞賛が無い場合もある。(ラオデキヤ)

この、黙示録という手紙の宛先は、各教会の牧者や説教者、メッセンジャーである事は、以前見た。
この手紙を受け取った各教会の聖徒達は、礼拝の時間、説教者がこの預言のことばを単に朗読し、会衆達は、単に耳を傾けた。

原初の教会の礼拝形式は、主イエスを信じる人々が主日、一つ所に集い、この巻物の書簡を神の言葉として、そのまま朗読し、人々はそれに耳を傾けてアーメンするというとても単純明快なもので、いわゆる「説教」は無いため、言葉の解釈の違いから来る分裂などは無く、各教会の聖徒達は、朗読された御言葉を聞いて、記されていた内容を守り行う歩みを主に捧げるという「礼拝」によって、祝福の実体を経験していた。(「読むだけで開かれるヨハネの啓示録」キム・ヒョンジュン博士著)
まさに「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。」と記されてある通りである。(1:3)

さて、この手紙の第一の受信者は、エペソ、スミルナなど、アジヤ地方の7つの教会の牧者やメッセンジャー達であったが(2:1,8,12,18,3:1,7,14)、彼ら以外にも、この手紙が読み聞かされるべき人、すなわち、”二次受信者”が存在する、という事は、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と、7度も繰り返されている事からもわかる。(2:7, 11,17,29,3:6,13,22)
それら二次受信者とは「耳のある者(原意:聞くための耳(単数形))」の全てであり、すなわち、現代を生きるエクレシアである私達・キリスト者達も、この手紙が宛てられた「二次受信者」に含まれているのである。

手紙の一次受信者であるアジヤ地方の教会の牧者達に対しては、彼らそれぞれの生き方や状況、信仰の状態を直接的に評価し、賞賛し、叱責する内容の手紙であったわけだから、彼らはその内容が最も染み渡り、最も適用された事は、事実であろう。
しかし現在、私達がこの手紙の二次受信者へと加えられているからには、私達も、各々置かれた時代や環境、それぞれの信仰や状態に応じた、主からの賞賛や叱責、勧めや報いの言葉を頂くものである。
どんな国、時代、状況の兄弟姉妹であれ、主の言葉を守り御名を否まなかった聖徒達には、フィラデルフィア教会への賞賛があるであろうし、生ぬるい信仰の人には、ラオデキヤ教会への叱責や訓戒があるだろうし、迫害下にある兄弟姉妹には、スミルナ教会への励ましと力づけの言葉を、聖霊より、それぞれいただくであろう。
それはまったく「”御霊が”諸教会に言うことを聞くがよい」と、繰り返し命令されている通りである。

私達は御言葉を読む時、読んだ一人ひとりの心を聖霊様が照らして下さる、その光によってこそ導かれるべきであり、決して、人間が構築した「解釈」という縛りに、御言葉を閉じ込めてはならないのだ。
たとえその解釈が、何世紀に渡る伝統的なものであっても、あるいは、今が旬の有名な先生由来のものであっても。
なぜなら、次のように書かれてあるからだ。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、「人々が聖霊に感じ、神によって語ったもの」だからである。』(2ペテロ1:19-21)
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)

私達がこの預言の言葉を読み上げる時、聖霊様が直接、おのおのに御言葉を悟らせ、理解させる働きをして下さる、という約束がある。
それならば、御言葉が宣言される時、牧者も信徒たちも、宣言している人も、聞いている人も、今、聖霊様が働き、悟らせて下さる事を信じて、聖霊様のわざが豊かに為される事を祈り求めた上で朗読し、また聞くべきなのだ。

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この黙示録メッセージは、無断複写・転載を禁じます。

主に召し出されても、何をして良いのか分からない時(ヨハネ21:1-8)
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週報/メッセージ(説教)概要

 復活祭の後、およそ7週間後の聖霊降誕日までの間を、教会の暦は「復活祭期」「主の復活の第*週」と呼んでいるが、この期間、私達は聖霊に満たされる事を祈り求める時としたい。
弟子達は、いつ、聖霊を受けたか。それは実は、ペンテコステの日ではなく、イエス様の復活の日である。
『イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』(20:21-22) イエス様はこの時、「あなた方を遣わす」と言われ、そして、息を吹きかけた。
聖霊を受ける理由は、「遣わされるため」である。私達はイエス様の御元で座って聞き入って居たいかもしれない。しかしそこを立って、世へと出て行き、イエス様を伝える者となるべきだ。世に働きは多いからだ。
しかし弟子達は、復活の主からせっかく聖霊の息吹を吹きかけられても、以前と全く変わっていなかった。

『シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「私達も一緒に行こう」と言った。」(3節)
シモンがここで言った「行く(フパゴー)」には、「徐々に退いて離れて行く、去って行く」の意味がある。
つまり彼らは、せっかくイエス様から「遣わされる」ために聖霊の息吹を吹きかけられたのに、弟子としての働きは徐々に退き、元々していた漁へ戻って行こう、と表明したのだ。私達もそういう所があるかもしれない。
イエス様を信じ、イエス様から「あなたを遣わします」と、聖霊の息を吹きかけられたのに、特に変わり映えが無く、むしろ今までいつも目の前で先頭に立ってリードしてくれていた指導者や、牧師がいなくなったら何も出来ず、何も思い浮かばず、手をこまねいて、以前の状態に戻ろうとしてしまうのは、ありがちである。
しかし私達は既に、イエス様を主と告白する事によって、聖霊の息吹は受けている。(1コリント12:3)
世から引き抜かれ、神の国の者とされている。というのに、今まで頼りにして来たものが目の前からいなくなってしまって、何が出来るだろう、と思う働き人は多い。しかし主を信じて行くなら、大きな働きをするのだ。
『よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。』(14:12)
実際、弟子達はペンテコステ以降、イエス様のわざをなし、とても偉大なわざをして行った。
そこに至るまでは、まだ、色々なステップを踏んでいかなくてはならなかったが。

弟子達は、その夜、何も獲れなかった。ひと度、主から聖霊を息吹かれ、任職を受けたなら、以前していた世の事どもに戻ろうとしても、何も獲れないし、また、世に留まり続けてもひたすら虚しく、何の実りも無いのだ。その時、イエス様は岸辺に立たれたのに、弟子達には、それがイエス様だとは分からなかった。
『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。』(21:5)
イエス様は、分からないから聞いたのではない。任職と聖霊を受けたのだから、人間をとる漁師に出るべきはずなのに、今までの世の魚を取ろうとするのだから、収穫が虚しいのは当然だろう、と確認したのだ。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(21:6)
イエス様の御旨でない所に闇雲に網を投げても、ひたすら虚しいのだ。伝道であれ、奉仕であれ、御旨でない所に「ここだ」と思って投げても、同じく虚しいのである。しかし、イエス様の御声に従順し、彼が指示される所に網を降ろすなら、人の能力や経験を遥かに超えた、何日分もの養いを得る事が出来る。
そして、それをして下さったのは、人ではなく主であると知り、主はそのような御方であると改めて確認するのだ。ヨハネは「余りある必要を満たされる」というイエス様のご性質を思い出し、「あれは主だ」と叫んだ。
前の仕事・前の状態に戻ろうと言った張本人のペテロは、主であると聞き、衣で裸を覆い海にとびこんだ。
私達も、ペテロのように、イエス様だと気づいたなら、イエス様に敬意を表し、すぐ飛び込んで戻るべきだ。

私達は、イエス様を信じて以降、彼の素晴らしさ、御言葉の甘さを味わっていながら、伝えていなかったり、恐れて戸を閉ざして閉じこもっていたり、前の状態に戻ろうとしたりしていないだろうか。ぬくぬくと現状の心地よさに留まっていないだろうか。もしそうだとするなら、もはやそこを離れて働きに出られるよう、聖霊充満を求めるべきだ。キリストの復活と新しいいのちに生き、永遠の働きをして行く皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
私達の罪の償いのために罪過のいけにえとなって下さった主(レビ記5章)
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祈祷会礼拝説教メッセージ

主の復活から昇天までの弟子達の整え(ヨハネ21章)
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祈祷会礼拝説教メッセージ

御心とは(1テサロニケ4:1-8)
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エペソ人への手紙 講解説教メッセージ
主の引き抜きによって御国の捕虜とされた私達に相応しい歩み(エペソ4:1-10)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
踏みにじられなかったのに踏みにじり、裏切られなかったのに裏切る者(イザヤ33:1-6)
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火曜早天祈祷会

主の復活の息吹に息吹かれて世に遣わされる私達(ヨハネ20:19-29)
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秘められたサインを解き明かして下さる主(黙示録1:17-20)
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ヨハネは、主の日(主日:日曜日)に、霊にあって主の御声を聞き、主が開示して下さった幻を見せられた。
その中に現れた主の有様は、圧倒的「聖」であり、圧倒的に清くあられた。
『わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。』(黙示録1:17-18a)

自分の内に、罪ややましい所がある人は、権威のある人、正しく聖なる人と相対する時、恐れおののくものである。
主は圧倒的に聖であられ、何の過ちも無いお方であり、その聖なる御顔を向けられるなら、その人は、はなはだ恐れ、倒れ伏すしか無い。
あの屈強なローマ兵もそうであったし(マタイ28:4)、使徒ヨハネも、預言者イザヤも、エゼキエルやダニエルも、皆、そうであった。

しかし主は、主のしもべヨハネに右の手を置き、「恐れるな」と言って下さった。
ヨハネは、自分のことを「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネ」と言った。(1:9)
私達も、ヨハネと同じような、主にある兄弟姉妹であり、イエスの苦難と御国と忍耐とに共にあずかっている者であるなら、恐れる事は無い。主が右の手を置いて、恐れるな、と語りかけて下さるから。
それは、何と幸いな事だろう。

「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。』(黙示録1:17-18a)
主は、この世が始まる以前から、この世の終わりの後さえ、永遠に生きておられる方だ。
そのような永遠なるお方が、私達の主であり、王であり、そして「恐れるな」と言葉をかけて下さる。これこそ、私達がどんな事にも恐れる必要が無い根拠である。

『わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。』(黙示録1:18b)
原文テキスト(Textus Receptus)には、この直後に「アーメン」が挿入されている。
イエス様は確かに、一度、死んだ。しかし、よみがえって、永遠に生きておられる。イエス様はこの事を「アーメン」と言って、「これは確かな事である」という印を押されたのだ。

『そして、死と黄泉とのかぎを持っている。』(黙示録1:18c)
イエス様は、死をも、支配しておられる。
主は、私達のこの肉体のいのちが終わる日も、雀の一羽が地に落ちる日時さえ、支配しておられる。
そして主は、やがて、最後の敵である死をも滅ぼされる。(1コリント15:26)
だから、キリスト者は、死を恐れる必要が無いのだ。

今、この地上で、私達はまだしばし「死」と付き合わなくてはならない。
それは、死とは一切関わりが無いはずのイエス様さえ、人として降りて来られ、人間の死にわざわざ”付き合って”くださったからだ。
この世には、まだまだ救われるべき多くの命たち、死に束縛されながら、そこから解放されたいと切望している人達がまだ多くおり、彼らを救い出すべき務め、すなわち、死に勝利されたイエス・キリストの福音を伝える務めが、まだ残されているからだ。
それを私達が、完遂した後、終わりの日が来る。

『そこで、あなたの「見たこと(エイドー)」、「現在のこと(エイスィ)」、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。』(1:19)
「エイドー」には、「見た」の他に、知った、分かった、という意味があり、また「エイスィ」はBE動詞で、すなわち「在る」という意味だ。
主はヨハネに、あなたは幻で見せられた事、すなわち、今真理として在る事、そして、将来必定的に起こるべき事を、見たままを記せ、と命じられた。
だから、この啓示録、すなわち、ヨハネが主から示され、見た事をそのまま書き留めたこの書は、完成された預言の言葉であり、これに付け加えたり、減らしたりしてはならないのだ。(22:19)

黙示録は、誰かに解釈してもらわなければ理解できないサインが多くある。
そしてそれは、人には解釈できないし、解釈する事は、許されてもいない。

『ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。』(ダニエル2:27-28)
ダニエルが仕えたバビロンの王・ネブカデネザル王に、主が見せられた秘密は、どんな呪法者も、知恵者も解き明かせなかったばかりか、王自身さえ、その夢の内容を自分で言えなかった。
同じように、神である主が見せられた謎を解き明かせるのは、ただ、ほふられた小羊、神の御子、キリストのみである。
黙示録においては、主はサインを与えられられる。しかし、そのサインの秘密を明かす「啓示」も、主はセットで与えて下さるのだ。
そして、その主が与えて下さった解釈こそ正しいものであり、それに対して付け加えたり減らしたりしてはならない。
主はこの啓示録の最初に、サインと、その解釈を、ペアで示された。

主はまず、ヨハネに、7つの金の燭台を見せられそしてその燭台の真ん中を歩まれるお方は、7つの星を右手に握っておられた。
この事は、いったいどういう事か。
それを、主ご自身が、20節で明確に解き明かして下さっている。
『あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:20)

ここで、主の右手に「握りしめられた」(2:1)星は、7つの教会の御使である、と、主は明かしている。
「御使い」の原語アンゲロス(エンジェルの元)には、確かに、あの翼がはえた、神々しい天的な使いを意味する事もあるにはあるが、元々は、メッセージを運ぶ者としてのメッセンジャー、頼りを届ける者の意味だ。
つまり、牧師や宣教師、その他、主の意図を取り次いで人に伝える人も、立派にアンゲロスなのだ。

2章以降では、アジヤの7つの教会に、「**にある教会の御使いに書き送れ」と記されているが、ここのアンゲロスは、あの天的な存在の天使ではなく、各教会に遣わされる僕者や説教者、メッセンジャーの事である。
なぜなら、この手紙は、アジアの各教会に、人間の説教者、指導者がもたらし、それぞれの教会で朗読したのであって、天使が各教会に現れてメッセージを伝えたのではないからだ。

黙示録の最初には、この預言の言葉を朗読する者(単数)と、それを聞く人々、守り行う人々は幸いだ、と、記されている。(3節)
つまり、牧師や指導者など、この言葉を朗読する「アンゲロス」を、主は、星として、右の手の中にクラット(しっかり掴んで)して下さるのだ。
私達が御言葉を伝えるアンゲロスとなる時、主が握りしめておられ、離さない。
それは何と心強い事であろうか。
だから私達は、御言葉を伝える時、忠実である事が求められるのだ。

今のこの終わりの時代、私達はこの書を閉じるべきでなく、むしろ朗読し、またそれを聞き、心に留めるべきだ。
これを伝え、主からクラットされる幸いの内に、働いて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

復活の後のイエス様のあらわれ(ルカ24:13-35)
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イエス様の十字架と復活以降、イエス様に属する人々に対する現れ方や挙動は、十字架前とは一転する。
『この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。』(ルカ24:13-15)

二人の弟子達は、道すがら話しあったり論じ合ったりしていた。
イエス様の十字架の死と葬りについて、そして、この朝、よみがえったという話を女達から聞いて、その事について。
しかしその内に、なんと、話題の張本人であるイエス様が二人に近づいて、一緒に歩かれた。
それなのに弟子たちには、その彼がイエス様だとは、分からなかった、というのだ。
マグダラのマリヤもその朝、イエス様ご自身が目の前にあらわれたのに、園の番人だと思いこんで、気づかなかった。(ヨハネ20:15)
また、鍵がかかっている弟子たちのいる部屋に突然現れたり、あるいは突然見えなくなったり、あるいは、遠いところにいる弟子たちの所に、瞬時に移動したりと、とにかく、復活以降のイエス様は、そのような不思議な現れ方が多い。

この、イエス様の復活以降の不思議な現れ方は、現代を生きる私達に対しての現れ方と同じではなかろうか。
二人でも三人でも、イエスの名の元に集まる所に、主が来て下さる。
そこが、いかに鍵がかかっていても、いかに遠くにいても、主がそこに、密かに来て下さる。
それに対し、その人が気づかなかったり、あるいは、後になってから「あれは主だった」と気づいたりするのではなかろうか。

「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」
かの弟子たちも、イエス様が一緒に歩まれているとは気づかなかったのだが、ここで「目がさえぎられて」と訳されている言葉の原文は「クラテオー」、握りしめる、という意味である。
私達も、自分の思い込み、したい事、固定概念などを「握りしめて」いると、イエス様を見逃してしまったり、あるいは大切な隣人の思いが分かっていなかったりするものだ。

『イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。』(ルカ24:17-19)
彼らの思いは、悲しい思い込み、暗い思い込みで満ちていて、それを握りしめている状態だった。

彼らはイエス様に教えた。
エルサレムで最近起きた事を、すなわち、わざにも言葉にも力ある聖なるお方・イエス様がおられたのに、あろうことか国の指導者達は彼を十字架につけて殺してしまった、さらに三日目の今日、仲間の女達が、墓に行ったのだが、イエスの遺体は無く、しれも御使が現れて『イエスは生きておられる』と告げたというのだ、という事を、目の前に当のイエス様を前にして、暗い顔・悲しい顔をして、言っているのである。
なんと滑稽な事だろう。
しかし私達は、この滑稽な場面を、笑ってはいられない。
なぜなら、私達こそ同じように、イエス様がすぐ隣におられるというのに、暗い顔をして、要らない心配事をして、つらつらと祈り文句で述べたりする者だから。

『そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。』(ルカ24:25-27)
これもまた、実に不思議である。
この二人に対して「私がイエスだ」「この釘跡を見よ」と言えば、簡単に済むだろうに、なぜ、イエス様はそうされないのだろう。
実はそれもまた、現代を生きる私達に対してのイエス様の対応と同じである。

私達は、目で見たり手で触れたりできる「人間」よりも、むしろ、「御言葉」にこそ、拠りすがるべきなのだ。
今、私達は、イエス様が目の前に、見える形で現れてくださって、見たり触りたいと願うだろうか。
いや、そんな事を求めるより先に、気づくべきだ。イエス様は、まさにイエス様を呼び求める人のすぐそばにいる、という事を。

私達の目の前におられるキリストは、御言葉であり、御言葉は目に見えなくても、私達の口に、また心にあるなら、イエス様は確かに内におられ、働いておられるのだ。
ただ私達は、目に見える事や現実に囚われてしまって、それがわからないだけだ。
『では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。』(ローマ10:8)

イエス様が彼らに語った内容は、「モーセおよび全ての預言者から始まって、全聖書の中で自分自身について書かれてあること」だった。(27節)
私達は何かと、目で見たり手で触れたりできる人間に求め、頼りがちだが、頼るべきはイエス様ご自身たる「聖書」なのだ。
だからイエス様は、ご自身をあらわすのではなく、聖書を語られたのだ。

弟子達は目的地に近づいたが、主はその先へ行こうとしていたので、彼らは強いて一緒にいるようにと押し留めた。
それは、このお方の語る聖書に、心が燃えていたからである。

今を生きる私達の時代も、世の中に、騒動があるだろう。
私達の指導者達が、神に逆らうような、平和から遠ざかってしまうような事をしてしまい、その事で互いに論じたり、思いが捕らわれたりしてしまっているかもしれない。
しかし、イエス様の御言葉に心を向け、耳を傾ける時、御言葉に心は燃やされ、問題は問題ではなくなって行くのだ。

『一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。』(ルカ24:30-31)
パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さる。それは、主のご性質である。
この、主のご性質が、彼らのイエス様との記憶と一致した時、彼らは判ったのだ。
実は今まで、ずっと一緒に、イエス様が共に歩んできて下さった事を。
私達も、必要な糧を、イエス様が祝福して裂いて手渡してくださった時、気づくものだ。
主が確かに共におられたという事を。

聖書が解き明かされる時、私達の心は内側で燃やされ、そして、確かに主ご自身がこの旅路に共にいてくださったと、知るのである。
この弟子達は、一緒におられたのは主だと知ると、夜だったのに、また、せっかくここまで歩いてきたにもかかわらず、11.5キロの道を再び戻り、そして集まっている弟子達に起きた出来事を伝えた。
疲れていても、また夜であっても、主が素晴らしい事をして下さった事は、伝えずにはおれないのだ。

そして、イエス様が祝福して裂いて下さった御言葉のパンを、人々の中に持って出て行くなら、それは決してなくならず、それを渡された人々をことごとく潤し、満腹させるのである。
ちょうど、イエス様が5つのパンと2匹の魚をもって大勢の人々を養った時のように。

日常の内に隠れているイエス様に気付き、御言葉によって日々養われ、イエス様から祝福していただいたパンを受け取り、それを人々へと配り、さらに多くの人々をイエス様にあって潤し、満腹させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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