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黙示録は恐るべき書であるか?(黙示録1:4-8)
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この書・黙示録の出所元は、神であり、この書が与えられた目的は、キリストのしもべ達(すなわち、私達も含めたイエスキリストを信じる全時代・全民族・全国語の聖徒達)に対して、すぐにでも起こるべき事を開示するために書かれたものであり、そしてまた、この書は集会の中で朗読されるのを前提とした書かれ方である事が、1章1節から3節までの所で分かる。
主はこの書の中で、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と、7回も言われた。
そうであるからには、黙示録という書は、全時代・全人類の人が耳を傾けるべき書であるのだ。
『ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、』(黙示録1:4)
『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。』(黙示録1:8)
アルファは、ギリシヤ語アルファベットの最初の語であり、オメガは最後の語である。
つまり主イエスキリストは、昔も今も、これから後も、全「時」を超越しておられる御方であり、また、空間も超越しておられる御方である事が宣言されている。
全てのものは「ことば」によって造られており、そして主キリストは「ことば」のはじめなる御方、終わりなる御方、そして、永遠なる御方である。
この書の最初期の段階で、キリストの時空超越性が宣言されているが、同じように、この書を読んで行くに際しても、時間的・空間的概念に囚われてはならないのだ。
もしこの書を、普通の書のように、順番どおり時系列そのままで読み解いていこうとするなら、途中で混乱を来してしまう事は必至だろう。
なにしろ、ある時は太古の事が記されているかと思えば、突然、未来起こるであろう事に話が移ったり、また、ある時所では地上の事が記されているかと思えば、突然、天上の事に話題が移ったりするのだから。
だからこの書を読み進めて行く場合は、この記事は昔の事を言っているのか、今の事を言っているのか、未来の事なのか、あるいは、地上の事を言っているのか、それとも天上の事を言っているのか、といった事を、常に注意しておく必要がある。
『また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。』(黙示録1:5-6)
ヨハネはここで、最初の祝祷をしているが、祝福の源なる御方は、誰であるか。
それは、「忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリスト」である。
そう、イエス・キリストは、忠実な証人である。
彼は、父のふところにおられたひとり子なる神であり、その彼が、地上に降りて来られ、神を証したのだ。(ヨハネ1:18)
また彼は、死人の中から最初に生まれたお方、いわば長男である。
最初の人はアダムであるが、彼は死を全人類にもたらしたゆえ、彼の子孫である人は皆、死と呪いの「負債」の中に生きる以外にない。
しかし、最後のアダムであるキリストは、生かす霊となられた。(1コリント15:45)
キリストは私達をこよなく愛され、罪の中に死んでいた私達を生かすために、十字架上で血を流して下さり、『その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さった。』(黙示録1:6)
私達は、キリストにあって、王とされ、祭司とされた・・・なんという素晴らしい特権であろう!
この事は、次の御言葉をもっても保証されている。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(1ペテロ2:9-10)
確かに私達には、キリストにあって、王族の祭司としての素晴らしい特権が与えられてはいるが、同時に、そのための務めや責任、そして、それに相応しい立ち居振る舞いも求められている事を、忘れてはならない。
『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。』(黙示録1:7)
日本語は「雲に乗って来る」と訳されているが、正確には「雲と共に」、あるいは、「雲に囲まれて」である。
つまり、孫悟空のように筋斗雲のような雲に乗って来るという意味ではなく、栄光の雲、すなわち、圧倒的栄光の内に降臨されるのだ。
その時、「ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見る」と書いてあるが、彼を突き刺した者とは、何も、あのゴルゴダの丘でイエス様を突き刺したローマ兵に限定されるものではない。
イエス様を十字架に突き刺す者とは一体どういう人か、ヘブル書に書いてある。
『いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。』(ヘブル6:4-6)
イエス様はゴルゴダの丘で、執り成しの祈りをして下さった
『そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。』(ルカ23:34a)
ここの「言われた」は直接法未完了形であり、すなわちイエス様は、そのとき、ずっと「言い続けて」おられたのだ。
イエス様は今も、「知らずに」イエス様を突き刺しているような人のために、執り成し続けておられ、そして全ての人がイエス様に立ち返る事を、望んでおられる。
無知のため、知らないがために、イエス様を十字架につけたり、キリスト者を迫害する人であるなら、あわれみを受けるチャンスがある。
パウロは言っている。
『わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。』(1テモテ1:13-14)
しかし、「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった」のに、その後、敢えてイエス様の尊い贖いを脇に押しのけ、好きこのんで堕落の方向に行くとするなら、その者は、キリストを再び十字架に突き刺し、キリストの尊い贖いの血を汚す者である。
そのような者は、キリストが栄光を帯びて来られる時、胸を打って嘆く者達の側となってしまう。
キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、そして贖いを成し遂げられた。
そして二度目、将来来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いために来られるのであって、好きこのんで堕落の道を楽しむ人々のために再び十字架にかかるためではないのだ。次のように書いてある通りである。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)
黙示録は怖い書、というイメージがあるかもしれない。
しかし、黙示録を怖がるべきは「さばきに値する人」、すなわち、キリストに敢えて反抗する者達であって、神を愛する人、その名を信じる人は、怖がる事は一切ない。
確かにキリストにあって歩む人は、迫害を受けたり、試練を受けたり、忍耐しなくてはならない事はあるだろう。
しかし、主の御名の中にある人は、誰一人、永遠の滅びに至る者はない。(ヨハネ17:12)
また私達は、耐えられないような試練に遭うのではないか、酷い迫害に耐えられるだろうか、と恐れたり心配したりする必要も、一切ない。
次の言葉にある通りである。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:34)
この書は、キリストに贖われて尚、好き好んで罪を犯し続けている者達には、恐れるべき書物であろ。
しかし、主イエス様を愛し、救いを待ち望んでいる人にとって、恐れるべき書ではない。
むしろ、主の来られる時のために、自らを整えるための書であり、約束されている栄光の報いを望み見て、楽しみにしつつ今を整える書とすべきである。
先週は、Cohen大学院博士過程の学びのため、韓国に出張しておりました事は、既にお知らせしました通りですが、今回は特に黙示録を学び、また、今世界で起きている事柄について多く学んで来ました。
そして今回学びました事は、早急に、多くの人達にもお分かちすべき事と感じましたため、急ではありますが、第一列王記の講解説教は一時停止して、今一度、この黙示録の講解説教を始めたいと思います。
突然黙示録に?と、驚かれる方も、おられると思います。しかし、何か幻を示されたとか、不可思議な啓示を教えられたとかいった、根拠不明な突拍子もない事を広めるような事は、一切ありません。
Cohen大学院博士過程のスタンスは、ただ御言葉のみから、それも、ギリシヤ語・ヘブライ語の原典から忠実に、そして、ユダヤ式の聖書読解法(キアズム構造解析)を用い、神様が人に対し、世界に対し、未来に対し、そして、現在の私達に対して、どのような意図を持っておられるのかを、正確に解いて行こうとするものです。
あくまで今までのように(あるいは、今まで以上に)、御言葉に記されている事は御言葉から解き、原典の意味や、時代背景などから正しく読み解いて行こうというスタンスには、変わりはありません。
黙示録は唯一、新約において主から「心に刻む事(テフィリン)」をするよう命じられた書であり、また、牧師達からは最もメッセージする事を嫌煙されている書でありますが、同時に、黙示録に記されております事は、今まさに世界で起きている事に、とても関係があり、そして、私達キリスト者がこれから備えて行かなくてはならない事もまた、多く記されている書です。
そういうわけで、イレギュラーではありますが、今回から黙示録をお分かちしてていこうと、決心しました次第です。
主は言われます。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」(黙示録1:3)
私達は主から教えられた通り、これを読み、また聞いて、そして記されている事を守り行う「幸いな者」を目指していきたいと思います。
黙示録は誰に対して書かれ、どのように接するべきか(黙示録1:1-3)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-3-16 23:00
黙示録は誰に対して書かれ、どのように接するべきか(黙示録1:1-3)
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『イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。』(黙示録1:1-2)
この書の出所元を、原文の順番どおりに辿っていくなら、ヨハネ←キリスト←神、である。
すなわち、この書の啓示(隠された事柄の公開)は、まず、神がキリストへと与えられた。すなわち、すぐにでも起こるべき事を、「その(キリストの)しもべ達」に示すために。
そしてキリストは、彼の御使いをキリストの僕・ヨハネへと使わし、ヨハネはそのキリストから与えられた啓示を、この書に書き記したのである。
この書は、ヨハネが書き記した「手紙」である。
何について書かれた手紙であるか。それは、すぐにも起こるべき事を「キリストのしもべ達」に示すために、だ。
宛先はアジアにある諸教会で、実際、アジアの諸教会で回覧されたが、しかしこの書の出所元は「神」であり、そして神の目的は、「すぐにも起るべきことをその(キリストの)僕たちに示すため」である。
そうであるからには、この手紙は何も、エペソやスミルナと言った当時のアジア地方にある教会にだけ向けられたものとは言わず、全てのキリストのしもべ達、すなわち、私達を含む、全てのキリスト者に向けても書かれたものである。
主はこの書で、7度も言っている。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と(2:7,11,17,29,3:6,13,22)
だから、耳がついている人は全て、聞くべきなのだ。(当然、これを読んでいる皆さんも)
全て、主にあるエクレシア(教会)である私達は、聖霊が、諸々のエクレシア達に対して言われたこれらの言葉に、耳を傾けるべきである。
だから啓示録(黙示録)は、私達から遠く離してはならない書物だ。
これを書いたヨハネは、自分を「(キリストの)しもべ」と告白している。
そして、ヨハネに諸々の啓示を明かした主の使いも、自分はキリストのしもべであると告白した。
『そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。』(19:10)
この啓示を証した主の使いも、これを書き記したヨハネも、皆、イエス様をあかしする「しもべ仲間」であり、「イエスのあかしこそ預言の霊」なのだ。
だから私達も彼らと同じように、イエスキリストをあかしする者、それ以上でも以下でもない、ただ、キリストのしもべである事に留意しているべきである。
そう、私達はいつも、イエスのあかしを保つべきなのだ。
『この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。』(黙示録1:3)
この書を学ぶ事がなぜ重要か。それは、「時(カイロス)」が近いからだと記してある。
カイロスとは一定の期間、時機、シーズンを表す言葉であり、これからこの書で明らかにされていく、諸々のシーズンが近いのだ。
すなわち、敵が活躍する事が許される期間、苦難の期間、その敵がさばかれる時機、そして、それらの後に来る聖徒達に栄光が与えられる時。
それらが「近い」から、この書を朗読し、それに聞き、守り行う人達は、幸いなのだ。
この3節には、3つの動詞が出てくる。
すなわち、「朗読し」「聞き」「(書かれてある事を)守り行う」事。
「朗読する」は単数形であり、「聞く」「守り行う」は、複数形である。
つまり、僕者など単数の「語る人」が朗読する、それを会衆が聞く、そして会衆も語る人も、共に「守り行う」。その事を念頭に置いて、ヨハネは書いているのである。
だから、これは教会向けの書なのだ。
啓示録(黙示録)は、「朗読される(読まれる)」べきであり、それに余計な解釈を加えてはならない。
パウロは言っている。
『この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。』(コロサイ4:16)
ただ、読むだけ。
それが当時の説教スタイルでありメッセージなのだ。
ヨシヤ王の時代、祭司ヒルキヤが神殿の掃除をしていた時、神殿の中で見つかった律法の書、すなわち、御言葉を「読み上げる」と、人々はただそれだけで恐れおののき、悔い改めた。(2列王記22章)
また、預言者ヨナも、主から与えられたシンプルなメッセージ、「四十日を経たらニネベは滅びる」と、ただ言って回っただけで、王から奴隷まで12万以上の人々が、40日も経ずして、ことごとく悔い改めた。
ただ神の御言葉を読むだけ。口から語り出すだけ。それだけの所に、大きな力が発せられるのだ。
黙示録に限らず、聖書は、余計な解釈を加えずに、単に読む書物であり、口からそのまま言葉として発すべきものである。
だから、黙示録も「読」めば、御霊が教えて下さるものであり、如何なる時代の如何なる状況の下にある人に対しても、時に応じた示唆や諭し、叱責や慰めなどが、与えられるものである。
私達は難しく考えず、ただ、御言葉を書かれてある通りに受け止めていきたい。
黙示録と向き合うにあたり(黙示録1:1-3)
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ヨハネの黙示録。
聖書の一番最後の書物であり、最も「難解」と言われて来た書であり、おそらく最も議論や解釈の分裂などがなされて来たであろう、色々な意味で特別な書である。
黙示録は、ギリシア語では「アポカルプシス」、この言葉がこの書の一番最初に登場する単語、なおかつ、その言葉は全黙示録22章を端的に表現している言葉でもある。
この言葉を分解すると、
「アポ」(はがす)+「カルプシス(覆っている)」
すなわち、「覆われていたものを露わにする」意味がある。
なお、黙示録の英語「Revelation」は、ラテン語の「revelatio(暴露、すっぱ抜き)」に由来する。
日本語の「黙示録」という訳し方は、あまり良い訳し方ではない。
なぜなら、日本語の「黙示」は、「?はっきりと言わず、暗黙のうちに意志や考えを示すこと」と、「?ユダヤ教・キリスト教で、神が人に隠されていた真理や神の意志を啓示すること」の、互いに相反する、2つの意味を持っており(大辞林 第三版)、そして一般的に黙示録を言う場合、特に?の意味合いが強く打ち出されてしまっているからである。
だから「啓示録」と訳す方がむしろ正しいのだが、いかんせん、一部の異端が既に「啓示」「啓示録」の言葉を採用してしまっているため、この言葉を用いると、誤解されてしまうきらいが無きにしもあらずであるのが、悩ましい所だ。
確かに多くの人々は、黙示録について、何か難しそうで、怖そうな、そして、迂闊にタッチできないようなイメージを持っている。
現に、何十年も存続している教会であっても、黙示録からは一度もメッセージした事が無いケースも多いようだ。
黙示録が難しい、と思う理由の一つとして、黙示録には、暗喩(シンボル)が多い事があげられるだろう。例えば、7つの封印やラッパや鉢による裁き、あるいは14万4千の聖徒達や、象徴的な数字666など。
そして、それらの記事を巡って、多くの解釈が生まれ、「自分達こそ、あの14万4千人である」「自分達こそ、あの二人の証人である」などと主張する異端も、多く生まれてきた。
これらの多くの議論や騒動、分裂や戦いなどの故に、歴史上、何度も煙たがられ、避けられて来た黙示録ではあるが、主は次のように言っておられる。
『この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。』(黙示録22:10)
主がそう言われたからには、この書は封じて置くべきではない。
もし上記のような理由によって、黙示録を否定的に考え、封じられてしまっているとしたら、それは、サタンの企みが、成功してしまっている事になる。
もし私達の中に、この書についてメッセージしたり読み解いたり「しないほうが無難だ」という考えがあるとするなら、それをこそ払拭すべきだ。
主が『この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。』と言われたのだから。
アポカルプシスは、覆いが剥がされた、隠されていたものが暴露されてすっぱ抜かれた、という意味があり、世の初めから隠され封印されていた事を、主が、一つ一つ剥がし、明らかにして行く書である。
実際、主はヨハネに直接的に見せて下さった幻や象徴の意味を、直接的に解き明かして下さった箇所は、この書の中に多くある。(1:20、17:7,11など)
主が明示して下さった事については、根拠なき解釈を加えたりはせず(例えば、14万4千は私達を意味するとか、主の御前に立つ二人の証人は何処どこの教団である、等)、主が直接説明された事、書かれてある事は、そのまま受け止めていきたい。
また、その場で直接的な説明がされていない場合は、今までして来た通り「聖書の解釈は聖書から」のスタンスに立ち、主が何をそこで言われているのかを、探って行きたい。
御言葉は、全て「連れ合い」があるもので、その互いの御言葉を知る事によって、旧約の預言が新約で成就した事の確証を得たり、あるいはその逆をも知る事が出来るのだ。
『あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。』(イザヤ34:16)
神の似姿の回復(創世記1:26-28)
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週報/メッセージ(説教)概要
天声教会設立の節目である今年に入り、設立当初与えられたビジョン「礼拝の再建」について学んでいる。
人は元々、神である主を、「礼拝」する存在だった。なぜなら人は元々、神の形に創られているからである。
だから、神と人との「関係」の回復、すなわち、礼拝の回復は、本来、全人類が取り組むべき課題だ。
礼拝とは、私達のからだ(ソーマ:思い・意志・感情、肉体も含めた全部)を聖なる生きた捧げものとして「捧げる(原意:傍に立つ=差し出す)」事であり、それこそロジコスな(理に適った)礼拝である。(ロマ12:1)
そして、父なる神は、真の礼拝者たちが霊と真理によって礼拝する事を、求めておられる。(ヨハネ4:23)
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。』(創世記1:26)
神は元々、人を神に「似る:ツェレム:影、像(属:男)」ように、神の「かたち:デムース:似ている、類似した(属:女)」に、創造された。人は神の像であり、似姿である。だから、人が神の「像」(偶像)を別個に造るとするなら、それは、自分自身が「神の像」である事、「神の似姿」である事を、破棄する事であり、大きな罪だ。
宇宙がどんなに広いと言えど、また、地球にどんなに多い種類の生物が生きているとしても、神の像、神に似た者として造られたのは、私達人間だ。しかし私達はいかに、その本来の姿から離れてしまっているだろう。その、本来の「人間性」を建て直すべく、神は降りてこられ、その建て直しに入られたのだ。
人は神のかたちとして創られたからには、神のように、「自由意志」が与えられた。そして、海の魚も、天の鳥も、地の家畜も、そして全地を「治めるように」、と。また、全ての地の上を這っているものを。(原語順)
そして神は祝福して、命令して言われた。「産めよ、また増えよ、また満ちよ、地に。」(28節、原語順)
神の祝福であり、神の命令の第一は、産んで増える事、また、満ちる事。だから、地は、神の似姿である人間によって満ちて行かなくてはならない。神は人を、第6日に創られたが、同じ日に、獣や地を這うものも創られた。人は、神の言葉を捨ててしまうなら、いとも簡単に、獣や這う者に似た者に成り下がってしまう。
『そしてそれを「征服せよ(カバッシュ:踏みにじる、征服する)」、また「治めよ(ラダ:支配する、踏む)」』(28節、原語順) つまりここは、足の下にある者が、調子に乗って、あたながたよりも上に上がって来たり、あなた方を支配して来ないようにしなさい、という意味である。天のもの・地のもの、地を這うもの全て、あなたが自由意志をもって従わせなさい、そうでないと、その者達は逆に従わせようとして襲ってくるから、と。
残念な事に、人は、3章で、蛇(サタン)の言葉に従い、神の言葉に背いてしまった。
故に人は、サタンに支配されるものとなってしまった。だから、全て神の言葉を知らない人、神の言葉に従わない人は、自動的にサタンに支配された者となり、罪と死の呪いの下にある者となってしまっている。
しかし、主イエス・キリストが、十字架に至るまでの完全な従順によってサタンに勝利した故に、彼に繋がる人は、神の子とされ、世に対し、サタンに対して勝利者となり、地を正統に支配するべき者とされたのだ。
私達は、神の言葉に服し、地を踏み、その地を支配すべきである。主は御言葉に従ったアブラハムに、東西南北を歩きなさい、と命じられた。その踏み歩いた地を、あなたに与える、と。ヨシュアにも命じられた。
あなたがたが足の裏で踏む所は、モーセに約束したように、あなたがたに与える、と。
私達も、神の子とされたからには、踏んで支配するべきである。キリストを信じる信仰により、神の姿形である事を取り戻した「神の子」は、もはや、海のもの、天のもの、地のもの、地を這うもの、サタンとそれに属する者達を、支配するべきであって、支配されるべきではない。
私達が支配するのは、地の「全ての」ものだ。例えば、キリスト者がお金に平服し、お金がキリスト者支配する、それは本来ではない。それはお金に支配されお金に頭が上がらない、神の似姿から離れた、惨めな生き方だ。キリスト者は神に服従する者であり、結果、お金の側から平服され、お金が従われて来る者だ。
主は私達に、正しい関係の回復を求めておられる。すなわち、私達の全てを主なる御言葉に「捧げる(原意:傍に立つ=差し出す)」事によって、神との正しい関係を回復し、そして真の礼拝者たちが産んで、増えて、地を満たし、地を従える事を。神に従い、神の子として、地の全ての物事を足の下にし、正しく支配する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
御言葉により再建される能力と品性(詩篇19:7-14)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年に入って以来、当教会設立のビジョンである「礼拝の再建」についてネヘミヤ記から特に学んでいるが、今回は久しぶりに、テフィリンやユダヤ式教育、すなわち、御言葉教育がどんなに優れているか、御言葉が人に入るなら、いかに人となりが改善され、人生の再建にいかに有用であるか、を今一度確認したい。
御言葉がどれ程素晴らしいものであるか、まさしく以下の詩篇に記されている通りである。
『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。』(詩篇19:7-9)
主の言葉とはそのようなものであり、人に主の言葉が入るなら、その人はより完全なものへと変えられ、魂は生きかえり、無学な者も賢くなる。また、心は喜びに溢れ、眼も明るくなる。主を恐れる道を歩むなら、決して間違える事が無いばかりか、どんどん清らかになって行く。まさしく、良い事づくしである。
そもそも、なぜ神の似姿として創られた人間の成り立ちは、破壊され崩されてしまったのか。
それは、人が主の言葉から離れ、蛇(サタン)の言葉を信じ、それに従い、騙されるままに「善悪の知識の木」から取って食べてしまったからだ。 このエデンの園の失敗以来、人は神から離れ、自分で善悪判断し、サタンの言葉と混じってしまった故に、妬み、怒り、騙し合い、殺しあったりするようになってしまった。
信仰(サンスクリット語:ビヒド)の元々の意味は、「連合する、結ぶ」の意味があり、人はどの言葉と結び合うかによってその人となりが決定して行く。誰かが何気なく口から出た良くない言葉を、ぐるぐると思い巡らすなら、必ず病んでしまうように、私達はどの言葉と混じり合うべきか、それによくよく気をつけたほうが良い。
だからこそ主は、サタンによって壊されてしまった本来の人間性を回復するために、次のように命じられたのだ。『私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。』(申命記6:6)
ユダヤのハカダ(反復)教育の本質は、この申命記6:6にある。彼らは徹底的に御言葉を反復して心の板刻みつけている。それによって、人に本来与えられていた能力や性質の回復が、進んで行くのだ。
聖書を暗唱する時、性格と品性、脳の3つが開発される。ある人はIQ124の人が164になり、性格も素晴らしくなった。聖書暗唱によって、どんなに曲がった人でも変えられるのだ。
なぜなら、神の言葉がその人に入り、混じり、そうして神の子としての品性が戻って行くからだ。
ユダヤ人の伝統的な教育法に「ハブルタ」というものがある。それは二人がペアになって、ある主題について会話し合う事だ。互いに議論し合う事で、相手の言葉を聞いて理解する能力、会話し意思疎通する能力、人を説得する理論を、向上させるのだ。これらをユダヤ人達は、小さい頃から学んでいるのだ。
人が効果的に物事を覚え、学習するために、有効な方法を、NTL国際訓練研究所が研究した。
それによると、人は講義を「聞く」だけでは、5%しか覚えない。だから100%覚えるには20回聞かなくてならない訳である。しかし「読む」なら、10%覚える。また、目、耳を用いる視聴覚教育は、20%覚えるようだ。
また、ある課題について講壇に出て講義をしたり、集団議論をするなら、50%記憶するようである。
もっと有効なのは、教えられた通りに、実際に自分が実践してみる事である。これは75%覚えるそうである。
そしてハブルタ教育、すなわち、二人が向かい合って、同じ主題を説明し合うなら、90%覚えるそうである。
確かにユダヤ人の教育法は優れているが、完全ではない。なぜなら彼らにはイエス・キリストを信じる信仰が無く、また彼らが心に刻みつけているのは旧約聖書のみで、福音も、救いも、永遠の命も無いからだ。
御言葉教育を、単に頭脳や能力を開発する事に目的を置くなら「有害な天才」を生み出してしまう危険性があり、本人自身を破滅へと導いてしまうものだ。あのソロモンのように。彼は誰よりも頭が良く、金や名誉、女を誰より多く手に入れたが、信仰が破綻してしまった故に、人生の終わりは全てが虚しくなってしまった。
だから教育の本質は、天才や金持ちを生み出す事ではなく、神を恐れ敬う信仰のしっかりした、神の子を育て上げる事である。神は元々、罪なき神の似姿である人に対し、産んで増えて地に満ちていく祝福を与えられた。御言葉によって教育し、教育され、神の子として産んで増えていく皆さんでありますように!