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探す父・御子・御霊、そして悔い改めた者だけがあずかれる喜びの宴会(ルカ15章)
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- pastor 2021-10-8 21:33
詩篇講解説教
「あなたがたは神々(エローヒム)である。」これいかに?(詩篇82篇)
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この詩篇は、不正や悪を行っている権威者や指導者たちに対する警告であり、真の裁判官であられる神が真のさばきを行う事を示す内容である。
しかしこの箇所は、異端が「人も神になる」という強引な解釈をするための裏付けとするために引用される事も多々あるため、詳しく見て行きたい。
82:1a 「神(1)」は「神(2)」の会議のなかに立たれる。「神(3)」は「神々(4)」のなかで、さばきを行われる。
(1)の「神」の原語は、エロヒーム(אֱלֹהִים)である。
あの天地を創造した三位一体のまことの神、として用いられるのがメインだが、崇高な者達の意味があり、時には、行政を行う人に対し尊敬を込めて「エローヒム」と呼ぶ事もある。(ストロング辞書)
つまり、ユダヤでは、裁判する人が「エローヒム」(いわば「神々」)と呼ばれる事があるのだ。
なお、KJVでは、エローヒムをジャッジ(士師、裁判官)と訳した箇所は、5回ある。(Exo_21:6, Exo_22:8, Exo_22:9, Exo_22:9, 1Sa_2:25)
(2)の「神」の原語は、エル(אֵל)。元々は、力、強さ、という意味だが、そこから天地を創造した三位一体のまことの神と訳される。
(3)の「神」は、原文には無くて、日本語聖書の補助的意訳である。
(4)の「神々」は、エロヒームである。
つまり、ここで用いられているエローヒムという語は、全能の神の事をあらわすものではないし、天使たちや神に似た霊的存在の事でもない。
もしここのエロヒームが、そうした超人間的・霊的崇高な存在なら、7節の内容と矛盾する事になる。
そもそも、そのような存在は、3−4節に書かれてあるような、人の間で裁判なぞ、していない。今までの歴史で、人の裁判に、超人間的・霊的崇高な存在が裁判したなぞ、聞いた事は無い。
だから、1節のエローヒムは、必然的に「人間の裁判官」の事を言っており、1節は、次のように訳す事が妥当であろう。
「崇高な者達は、力強き集会の中に立ち、裁判官たちの間で裁判を行う。」
2節以降では、そのような「エロヒーム(裁判官)」と呼ばれている人間達が、不正な裁判をしている現状を、詩篇の作者が責めているのだ。
82:2 「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ
82:3 弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。
82:4 弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。
ここでは「さばき(シャファット)」が頻出している。
すなわち、ここはエロヒーム(裁判官達)と呼ばれる者達に対する指摘である。
あなた方は、いつまで不正な裁判をしているのか、神の民をさばく裁判官たる者は、むしろ、公平な裁判をし、弱い人達を救い出すのが仕事ではないか、と。
82:5 彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。地のもろもろの基はゆり動いた。
彼らは、自分が悟りがなく、暗闇の中をさまよっている事さえ知らない。
しかし、彼らがしている不正な裁判によって、地は、揺れ動いているのだ。
82:6 わたしは言う、「あなたがたは「神(5)」だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。
82:7 しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。
(5)の「神」もエローヒムであるが、前後の内容から、人間の裁判官たちが自分たちはエロヒーム、いと高き者たちであるかのように振る舞ってはいても、結局は人のように死んで倒れる、という事を言っている事がわかる。
イエス様は、この7節を引用された事があり、その事も、異端がよく勝手な解釈している箇所である。
その箇所は、ヨハネ10章である。
ヨハネ10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
10:34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
10:35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
10:36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
上記、34,35節で「神々」と訳されたギリシア語は、セオス(神)の複数形であるが、セオスの複数形の特殊用法として、「神の代理者、神を代表して裁きを行うさばきびと」と訳す事がある。(織田昭著 新約聖書ギリシア語小辞典)
この箇所は、イエス様の痛烈な皮肉が込められている。
そしてその皮肉の内容は、ヘブライ語・ギリシア語ではわかるが、日本語ではわかりにくく、訳し方によっては、多くの人の誤解を招きかねない内容である。
その「皮肉」とは、「エロヒーム」や「セオス」には、「神」と「裁判官」という二つの意味があるヘブライ語・ギリシア語圏の人にしか分からない「当て字的皮肉」であり、それ以外の原語では、その皮肉は通じにくい。
紐解いていこう。
イエス様は、まごう事なき、全能の父なる神の御子であり、「わたしと父は一つです」と、30節で示された。
そう、私達クリスチャンは、イエス様は生ける神の御子、キリストであると認め、信じている。
しかし、ユダヤ人の主だった人たちは、イエス様をキリストとは認めず、「自称」神の御子だと言って冒涜している、と言った。
そんな彼らに対し、イエス様は、くだんの詩篇82篇を引用して、痛烈に批判したのである。
すなわち。
あなたたちの「裁判官」でさえ、エローヒム(神々)と言われて、神扱いもされもしているが、それでいてあなたたちは、裁判の中においては、不正も働いている。
そんな現状なのに、あなたたちは、彼らエロヒームと呼ばれている裁判官には、「冒涜している」とは言わずに、かえって、何も悪い事をしていないわたしに、さらには、キリストである証拠のしるしや奇跡を示した、このわたしに対しては「冒涜」と言っている、と。
事実、イエス様は石打にされるような悪い事は何一つ行っていない事を、彼らは認めているし(33節)、またイエス様は、キリストである事を示すために、多くの証拠のしるしや奇跡を起こし、多くのよいわざを為した。
そういうわけで、イエス様は、まさに今この場面において、彼らが行っている「不当な裁判」について、
そのまんまの事が書かれてある詩篇82篇を引用し、彼らの欺瞞を暴いたのだ。
彼ら自身は、神に代わって正当な裁判をしなくてはならない、というのに、自分たちの不正には目をつぶっていて、それでいて、真に神の御子・キリスト・イエスには、冒涜罪を着せようとしている!と。
ところで、今までの歴史で、多くの異端は、これらの記事を自由に解釈し、人は神になる、と言って来たが、果たして聖書は、人間は、神と同等、あるいは同質になれる、という事が、言いたいのだろうか?
全く逆である!
聖書が、より多くの分量を割いて、命じている事は、そのように高ぶってはならない、という事だ。
むしろ、自分を低くし、神の御前にへりくだるように、という趣旨のほうが、多く書かれてある。
そのような中から、このような、わずかな箇所をフォーカスし、つまみ上げて、「人は神になる」と高々に言う者は、どこから来た者達であるのか。
聖書は指摘している。
自分を高く上げ、自分を神のようにしようとする者、賛美と栄光を自分に集めようとする者は、サタンに類する者である事を。
エデンにおいて、蛇(サタン)がエバを誘惑した内容は、「あなたは神のようになれる」だった。
サタンはまた、「自分は天に登ろう、はるか上に王座をもうけ、いと高き方のようになろう」と、心の中で言った故に、投げ落とされた。(イザヤ14:13-15)
パウロも言っている。
終わりの日には、背教を起こす者が起こり、その者は自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言するから、誰も騙されないようにしなさい、と。(2テサロニケ2:3-4)
私達は確かに、イエス様を信じて神の子とされた。
それは、私達が神のように高くなって、ふんぞりかえって、栄光と賛美を自分へ集めるため、では決してない。
むしろ、神の代理として、正しいお方から権威が与えられ、それを行使して、正しく世をさばき、弱い人達を救い出すのが、私達の仕事である。
神の子になる、とは、きよさにおいても、誠実においても、柔和さにおいても、キリストらしくなる、という事である事を、忘れてはならない。
ルカ6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
エペソ5:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
5:2 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
5:3 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
5:4 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――
講解説教
主に聞き従いさえすれば(詩篇81)
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聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたアサフの歌
この詩篇は、3節に「新月と満月とわれらの祭の日とに/ラッパを吹きならせ」、とあるので、第7月の新年の祭りの時に宣言されていた事が考えられる。
「祭り(モエド)」とは、主が約束された時間、主が約束された場所における、約束された会合の事、である。
レビ記は祭りに関する定めが詳細に示されており、そこから分かる事は、主が定められた時間、場所、定められた仕方に従って、主と出会うなら、主の祝福や罪のゆるしを正当に受けられる。
しかし、主の定められた時間や場所、やり方を蹴って、自分勝手な時間、場所、仕方を貫くなら、その人は主の保証は受けられず、あらゆる面で負け続ける人生となってしまう。
詩篇81:1 われらの力なる神にむかって高らかに歌え。ヤコブの神にむかって喜びの声をあげよ。
詩篇81:2 歌をうたい、鼓を打て。良い音の琴と立琴とをかきならせ。
詩篇81:3 新月と満月とわれらの祭の日とに/ラッパを吹きならせ。
詩篇81:4 これはイスラエルの定め、ヤコブの神のおきてである。
主の祭りや礼拝、すなわち、「主の前」という場におけるマナーは、「喜ばしく」ある事であり、主はそれを「おきて」として定めた、と4節にある。
主と出会う場においては、あらゆる歌や楽器、テクニックを駆使し、喜びつつ、主を褒め称えるべきなのだ。
私達には、主を喜ぶべき相当な理由がある。
続く節で示されている。
詩篇81:5 神が出てエジプトの国を攻められたとき、ヨセフのなかにこれを立てて、あかしとされた。わたしはかしこでまだ知らなかった言葉を聞いた、
ヨセフが、兄の暴虐によってエジプトに奴隷として売られ、ポテファルの妻の嘘によって牢に入れられた物語を見るに、多くの人は思う。
なんて運がなかったのだろう、まるで、かろうじて首がつながっている様子だ、と。
しかし、5節を読むと、全くそんな事ではないことが分かる。
実は、なんと、神があらかじめヨセフよりも先んじてエジプトへ行って、ヨセフの進むべき道を、用意しておられた、というのだ!
彼は奴隷として売られ、牢獄に入れ、しかしその後、エジプトの総理大臣となって、ヤコブの一家をイスラエル民族へと建てあげるシステムづくりをするために、彼を用いるために。
確かに、彼が奴隷になったのも、牢に入れられたのも、人の悪意によるものだった。
それは100%、悪い事である。
しかし主は、人が打ったあらゆる悪手も、あらゆる悪意も、最善へと変えて下さるお方なのだ!
もし私達も、ヨセフのように、人のした悪を思わず、主を信じ、日々、誠実を養うなら、主はヨセフのように用いて下さるのだ。
詩篇81:6 「わたしはあなたの肩から重荷をのぞき、あなたの手をかごから免れさせた。
ヨセフは最初、奴隷仕事で、他人の重荷を置い、他人の荷かごを運んでいた。
しかし主は、彼をそこから離させ、むしろ神の国の建てあげのために、人々に命令するものとされた。
主は彼をパロの父とし、エジプトの支配者として、主に用いられて、ヤコブの一家を、イスラエル民族として建てあげる者としてくださった。
主はヨセフだけでなく、イスラエルをも、奴隷仕事から開放し、他人の重荷を負う者から、主の重荷を負う者へと変え、エジプト人の荷かごを運ぶ者から、主の御言葉を運ぶ者としてくださった。
奴隷から総理大臣の地位になれば、すごいサクセスストーリーだと思うかもしれない。
しかし、総理大臣になる事がサクセスではない。
総理大臣になったとたん、好き勝手をして、主の御心を損ねる総理大臣になってしまっては、サクセスの「真逆」極まりない。
彼は、主から総理という地位に入れられた時、主の御旨を成す者となって、神の国を建てる事に、与えられた権威を用いてこそ、本当にサクセスである。
詩篇81:7 あなたが悩んだとき、呼ばわったので/わたしはあなたを救った。わたしは雷の隠れた所で、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたを試みた。〔セラ
イスラエルが出エジプトした後、主は荒野で、彼らをためされた。
その荒野は、岩砂漠地帯で水が全く無い所、そこで1週間もさまよえば、確実に死んでしまいかねないような所である。
そこにおいて、彼らはためされたが、結局、主は彼らを助け、主の栄光をあらわして下さった。
詩篇8節は、これでもか、というくらいの強調宣言である。
詩篇81:8 わが民よ、聞け、わたしはあなたに勧告する。イスラエルよ、あなたがわたしに聞き従うことを望む。
「聞け(シェマー:シャーマアの命令形)」で始まり、「聞け(シャーマアの未完了態:継続して聞き続ける)」で終わる。
主のことばに「聞く」事、それは、神の民にとって最重要のたしなみである。
その、「聞け(シャーマア)」でサンドイッチされた中身は、「勧告する(オド:繰り返す:証する)」である。
だから8節は、
「聞け。明かしする。聞け。
であり、これから命じられる言葉は、最重要事項として心せよ、という事である。
詩篇81:9 あなたのうちに他の神があってはならない。あなたは外国の神を拝んではならない。
主の他に、他の神々があってはならない。
それは、十戒で真っ先に命じられている禁止事項であるが、この節に2回出てくる「神」のヘブライ語は「エル」、それは「力」「崇高なもの」という意味である。
つまり、あなたは、主なる神を置いて、他に力あるものや崇高なものを、主なる神以上のものとして存在させてはならない、という意味である。
今まで無かった、目新しい力や、テクノロジーなどを、神以上に、頼りどころとしてはならない、という事である。
なぜなら、私達を救って、永遠のいのちへと招き入れたのは、最新テクノロジーではなく、イエス様だからだ。
詩篇81:10 わたしはエジプトの国から、あなたをつれ出したあなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。
十戒本文も、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」という言葉で始まった。(出エジプト記20:2)
そうである。
私達を、世というエジプト、サタンというパロの奴隷状態から救い出して下さったのは、まことに主である。
それを忘れてはならない。
主は言われる。
口を大きく開けよ、と。
私達が、主を賛美するために、また御言葉を口ずさむために、口を大きく開けるなら、主はそこに最良の甘いもので、満たして下さる。
しかし。
続く節に「しかし」、とある。
詩篇81:11 「しかし」わが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
詩篇81:12 それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
彼らは、主を、好まなかった。
「好む」のヘブライ語アーバーは、同意する、意欲的に、喜んで、従う事の意味である。
彼らは、主の言葉に同意せず、意欲的に喜んで従わず、むしろ退け、ただ、自分の好む道に、行きたがった。
ちょうど、ナバルのように(1サムエル記25章)。
ナバルは、頑なさを捨てず、自分が進みたい愚かな道を貫き通した、ゆえに、彼の心臓は石になって、死んでしまった。
1Sa 25:37 his heart died within him, and he became as a stone. (KJV)
主の言葉に聞かず、従わず、自分の道に進む事を頑として止めない頑なな心の行き着く先は、石のように固くなって、滅びる事だ。
主は、人の自由意志を徹底して尊重しておられ、それを手出しする事はなさらない。
どこまで尊重されたか。
それは、神の御子キリストを、殺す自由意思さえも、尊重されたほどだった。
しかし、その与えられた自由を用いて、神の御子を受け入れ、自分の主とする人は、永遠のいのちが与えられる。
逆に、その自由意志を用いて、神の御子を突き刺すような人は、永遠の滅びに定められる。
ただ主は、人が滅びの道、負け組の道に歩む事を、嘆かれる。
主の意図としては、彼らをすぐにでも助けたいのに、意図して主の言葉を捨てるようでは、助けようがないからだ。
詩篇81:13 わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
主が願っておられる事、それは、主の言葉に聞き従う事、主の道を歩む事である。
礼拝をして、教会から一歩外に出たとたん、心から主のことばをポーンと投げ去って、主と共に歩まないなら、その行く所々で、敵に、良いように打ち負かされてしまう。
詩篇81:14 わたしはすみやかに彼らの敵を従え、わが手を彼らのあだに向けよう。
詩篇81:15 主を憎む者も彼らに恐れ従い、彼らの時はとこしえに続くであろう。
主に従うなら、主はすみやかに、敵の手から救い出してくださる。
私達は、敵に、負かされ続けたりして、いないだろうか。罪という敵、欲望という敵に。
「負け続け」「負け組」になっている根拠は、聞き従わず、主とともに歩まない事であることが、本日の節から分かる。
なお、14節の 「わたしはすみやかに彼らの敵を”従え(カーナー)”」とあるが、「カーナー」は、ひざをつく、謙遜になる、という意味である。
だから、私達が主の御言葉に聞き従い、主と共に歩むなら、主は速やかに、敵のひざをつかせ、謙遜にさせて下さる。
のみならず、主は、良いものを食べさせてくださるのだ。
詩篇81:16 わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い、岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう」。
主に聞き従い、岩であられるキリストから流れ滴る御言葉の蜜で満ち足りて、最上のもので満ち溢れた、皆さんの人生でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主が仕込まれた布石として用いられる人(イザヤ45:1-3)
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週報/メッセージ(説教)概要
聖書には、主が御旨を成就するために据えた「布石」が、あちこち散りばめられている。布石とは、囲碁の序盤、より多くの陣地を獲得するために、先を読んで要所要所に石を配置する事であるが、私達は、主が置かれた布石を、聖書から見出す事ができる。その主の置かれた布石が有効に発動するために、御言葉を元に「霊的先読み」をし、私達の将来の計画を立てて行くべきである。今回、クロス王という歴史の人物から、時間と空間を支配しておられる主の布石の完璧さ・美しさを学び、私達も用いられるコツを得たい。
BC539年、クロス王(キュロス2世)がバビロンへ進軍した時、彼は最初、その城塞を見て弱気になった。
その強大な城壁や、青銅の扉、鉄の閂に。また、大きな船さえ行き来できる巨大な堀、そして、ふんだんに蓄えられた食料を前にして。「これほど巨大で、これほど高い防壁に囲まれた都市を強襲して陥落させる事など、誰にできよう。」(キュロスの教育7章7節) ところがバビロンは、彼によって、たった一晩で陥落し、バビロンの王は殺害され、各地の要塞の兵達は、翌朝、クロスに投降した(キュロスの教育7章33節)。
実は、バビロンが陥落する様は、その200年前、預言者イザヤを通して正確に預言されていた。クロスが取った戦法は、その城塞の堀に流れ込む川々を干上がらせ、乾いた川底を通って城内に侵入する、というものだったが、その手段は、イザヤ書44:26-28に正確に預言されていたのだ。そのような戦法は危険極まりないのに、その晩だけ、バビロンの見張り達は酔って眠りこけていた。それも、預言者エレミヤによって60年前に預言されていた。『わたしはその君達と知者達、長達、司達、および勇士達を酔わせる。彼らは、ながい眠りにいり、目をさます事はない。万軍の主と呼ばれる王がこれを言わせる。』(エレミヤ51:57)
その晩、バビロンの王ベルシャツァルの宮殿内で何があったのか。ダニエル5章に詳細に記されている。
その日、バビロンの王は、不遜にもイスラエル神殿の聖なる器を敢えて用いて、酒を飲み、上から下まで大宴会を開いていたのだ。彼の父ネブカデネザル王は、イスラエルの神が為された事に思い知り、神を畏れ敬っていたのに、ベルシャツァルはそれを知りながら、不遜な事をしたのだ。彼が酒を飲みながら、偶像の神々を賛美しているその時、ベルシャツァルの前に、突如、人間の手の指が現れ、壁に文字を書き出した。
王は大いに恐れ、「この文字を解き明かす者は、この国の第三の権力を持たせよう。」と言ったが、バビロンの智者には、誰も読めなかった。しかしダニエルは、その文字を解き明かす。その文字は『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』、意味は、「神はあなたの治世を数えて終わらせた。あなたは量られ足りない事がわかった。あなたの国は分割され、メディヤとペルシヤとに与えられる。」である。それでダニエルは第三の権力が与えられたが、その直後、クロスの軍隊がバビロン内に侵入し、ベルシャツァル王は殺された。。。
預言者エレミヤは、その60年前に預言していた。『バビロンの勇士達は戦いをやめて、砦の中に座り込み、彼らの力も干からびて、女のようになる。その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。』(エレミヤ51:30)
クロスは、このバビロンという強大な城塞都市を、あまりにたやすく制圧できて、町々も財宝も、人々も、その繁栄も、一切戦争で破壊される事なく、きれいな状態で、そのまま自分のものとなった事に驚いただろう。
そして、ダニエルから聞かされたであろう、イザヤやエレミヤの預言を聞いて、もっと驚愕しただろう。なにしろ、200年も前に、クロスという自分の名が名指しされ、バビロンを攻め落とすために取った戦法も、その時のバビロンの様子も、そのまま預言されていたのだから。そこでクロスは、翌年、BC538年に勅令を出す。
天の神、主は、地のすべての王国を自分に賜わり、エルサレムに、ご自分のために宮を建てる事を私に委ねられた。それ故、主の民はエルサレムに戻って、主の宮を再建するようにせよ、と。(エズラ1:2-3)
私達は知るべきだ。私達の神は全能で、時間(タイム)と空間(スペース)を完璧に配剤されるお方である。
クロス王は、労せずに栄光や富が与えられたが、その理由は、破壊された礼拝を、再建するためだった。
どんなに悪が増大し、主を冒涜する者達が権力を得ても、主は、その日数を数えておられる。そして、主の御旨を成し、御国を来たらせようと意欲のある人を用い、富も、栄光も、町々も、そっくりそのまま渡し、礼拝再建のために用いるようにされる。だからもし、主が、物事をうまく行かせ、富や権威、栄光が与えられたなら、それは欲しいままに用いるのではなく、主の御旨を成すために用いるべきだ。主はそういう人に、ますます、仕込んでおかれた布石を発動されるからだ。この時代、破壊された礼拝を復興し、散らされた神の民を集め、御言葉教育を再建する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
ことばによる親密な関係づくり(雅歌4:1-8)
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雅歌書は、愛し合う男女の、一切の気兼ねなしに相手を褒めそやす言葉で、満ちている。
男女の麗しい関係のコツは、この雅歌書の男女のように、愛の告白を言い合う事!
ことばで表現して、関係づくりをする事。
それが無いカップルや夫婦は、味気ない。暗い。
相手がわかってくれる時まで耐え忍ぼう、とするなら、それはつらい関係。
堪忍袋が切れたら、倒れてしまうような関係になってしまう。
ことばによって、親密な関係づくりしなくてはならない。
それは、まことの花婿であるキリストに対しても、同じ。
夫と妻は、お互いのことばをもって、神様に対しては、祈りというツールを通して、関係づくりする。
もし、教会の交わりにおいて、言葉のやりとりがとぼしいとするなら、関係づくりが、築けない。
どんどん疎遠になって行き、相手が何を考えているのか分からないので、どんどん相手が怖く映っていき、攻撃的になって行く。
だから、何でも言い合える関係を保持するべき。
関係づくりは、ことばによってつくっていくから。
しかし、妻の側も、夫の側も、一方だけが一方的にがんばるのではない。
一方が、相手のために祈ったら、当然、もう一方も、相手のために祈る。祝福のために。
悪霊が好んで住みたがる「物件」とならないために(ルカ11:24-26)
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ルカ11:24 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、
11:25 帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
11:26 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。
悪霊は人から出ていった。しかし「自分の家」に帰ろう、と言った。
悪霊にとって「家(オイコス:住処、住む場所)」とされてしまう人がいる。
どういう人が、悪霊にとって好まれる”物件”なのか?
以下に、悪霊が好む2つの分詞がある。
ルカ11:25 帰って見ると、その家は「そうじ(1,サラオー)」がしてある上、「2,飾りつけ(コスメオー)」がしてあった。
1,サラオー:ほうき等で掃いて、きれいにする事の意味。
家の中に、きたないものが、あちこち散乱していると、普通の人は不快と思う。
コンビニ弁当のプラスチックや、着てから洗濯せずに放置した服が溜まった部屋、使わなくなった家具が散乱しているような様を。
もしも、そういう状態がむしろ心地よい、という人は、悪霊に憑かれている事を、疑ったほうが良い。
なぜなら、聖霊はきよい霊であり、神は秩序の神であるのに対し、悪魔サタンは散らす者、無秩序にする者であるからだ。
悪霊には、むしろ、きたないもののほうが、好きである。
それでは、悪霊が好む「そうじ」された状態とは、どういう状態か。
何が「サラオー(掃かれて)」、きれいになってしまっているのか。
悪霊が嫌いなものとは、イエス様の御名であり、御言葉であり、聖徒たちの集いである。
つまり、悪霊から好まれる人というのは、
イエス様の御名がサラオーされて、イエス様の御名が、きれいさっぱり、無い人であり、
御言葉がサラオーされて、御言葉が、きれいさっぱり、無い人であり、
聖徒の交わりがサラオーされて、聖徒の交わりが、きれいさっぱり、無い人である。
そういう人は、悪霊にとって、住み心地よい物件、という事である。
私達はむしろ、イエス様の御名と、御言葉と、聖徒の交わりで満たし、聖霊が住みやすい物件となるべきである。
2,コスメオー:コスメの元で、飾る、整える、化粧する、といった意味。
化粧した女性は、魅力的に映るが、悪霊にとって魅力的にコスメされた人とは、どういう人か。
それは、悪霊が追い出された後、思いも心も、空白のままにして、ぼーっとしている人である。
すると、以前の、けんかしたり、酒を飲んだり、仕事せずに引きこもってゲームや動画三昧したり、不品行三昧に耽っていた、ある種の「ラク」だった頃が、むらむらと思い返されてくる。
それが、悪霊にとってコスメされた状態。
そこに悪霊が戻ってくると、悪霊にとって居心地良い物件として映り、さらに、たちの悪いのを7つ呼び寄せて来て、みんな住んでしまうので、ある日ある瞬間、突然に、以前よりもはるかに悪い状態になってしまう。
だから、悪いくせが追い出されたなら、そこを、御言葉で満たし、健全なことばで満たし、健全な働きと、健全な交わりで、満たすべきなのだ。
ヘブル10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
10:23 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
10:24 愛と善行とを励むように互に努め、
10:25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
澄んだ見方から来る明るい人生と、悪辣な見方から来る暗い人生(ルカ11:33-36)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2021-9-28 6:44
澄んだ見方から来る明るい人生と、悪辣な見方から来る暗い人生(ルカ11:33-36)
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11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
33節の、目が「澄んで」おれば、とは、目がシンプル、単純明快という意味。
つまり、ものの見方がシンプル、単純明快であるなら、その人のからだ(原文:ソーマ:霊、肉、たましい、を含めた「からだ」の全体)は、明るい。
明るい人生の源は、シンプルな見方である。
ヤコブの子ヨセフは、正直で、誠実で、そして、彼の。
ヨセフは、真理という光を、覆い隠さなかった。
彼が見た夢は、皆に隠さず、そのままを正直に伝えた。
また、兄達がした悪事には、一切加担せず、むしろ、その悪事を、そのまま正直に父に告げた。
兄たちはどうか。
自分が悪いことしたのに、悔い改めず、それを告げたヨセフを憎んだ。
イエス様は言われた。
「目が悪いと、からだも暗くなります。」
ここの「悪い」はギリシア語でポネーロス、近視とか白内障といった「悪さ」ではなく、「邪悪」「悪辣」、といった「悪さ」である。
つまり、物事を見る見方が邪悪、悪辣であるなら、その人のからだ(原文:ソーマ:霊、肉、たましい、を含めた「からだ」の全体)は、暗い。
人生の全部が暗くなるコツは、人、物、事について、邪悪な、悪辣な見方で、見る事である。
もし、人のした悪を思い続けるなら、次々と、その悪に関連する事が起きてくる。
そういう人は、どんどん人生が暗くなっていく。
しかしヨセフは、物事をシンプルに見、シンプルに言って、シンプルに行動した。
その結果、悪辣な目で見る人からひどい目にあっても、それを気にかけなかった。
彼の言葉には、「兄のせいで」「あの女のせいで」といった言葉は、一つも見いだせず、ただ「神は」という言葉だけが目立った。
だから彼という光を、奴隷仕事や牢屋という穴蔵や枡の下に止め置く事を、主が許さなかった。
11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
多くの人は、真理が示されても、覆い隠す。
しかし彼は、隠さなかった。それで、祝福された。
それで、ますます愛されるべき善い人からは愛され、
悪を行う者達からは、ますます憎まれるようになった。
そういう人は、どんどん光を放ち、燭台へと置かれていく。
たとえ、自分が、正直に真理を言った事によって、何かを言われても、何かされても、
後悔しない。
悪い事をされても、人のした悪を、悪く思わない。
そして、自分が置かれた場所で、誠実を養う。
自分がいる場所で、与えられた仕事の、最善を尽くす。
そうするなら、それまで尽くして来た物事の報いが、積もりに積もって行き、
さらにレベルアップした報いが与えられる。
11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
神はまさに、ヨセフを、全く明るくした。
彼の人生は、17才から30才までは苦難続きだったかもしれないが、30才から110才までの長い間、明るく照らす者だった。
彼は、エジプトにおいては、総理大臣として、乱れた世を変える救済者、指導者とならせ、
霊的には、神の家族を大いに増やす事に、用いられた。
その当時は、70名ほどであったアブラハムの子孫を、生んで、増えて、地に満たしていくためのシステムを、ゴシェンの地につくり、アブラハムの家族を、イスラエル国家へと成長させるリーダーとした。
まさに詩篇1篇の通りである。
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
エゼキエル書講解説教
わたしが聖であるように、あなたも聖であれ(エゼキエル43章)
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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
エゼキエル43:1 その後、彼はわたしを門に導いた。門は東に面していた。
43:2 その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた。
43:3 わたしが見た幻の様は、彼がこの町を滅ぼしに来た時に、わたしが見た幻と同様で、これはまたわたしがケバル川のほとりで見た幻のようであった。それでわたしは顔を伏せた。
43:4 主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、
43:5 霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。
エゼキエルに再び、主の栄光の幻が示された。
エゼキエルが、最初にその幻を見た時の有様は、1章に記されている。
彼はその時、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら来たのを見た。
その火の中央には、青銅の輝きのようなものがあり、4つの生き物と、そのそばに車輪があるのを見た。
その火からは、いなずまが出ていて、一つの輪が、他の輪の中にあるようで、輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。
最初の幻の時、このような圧倒的な臨在の幻の中から語られた内容は、イスラエルの罪を指摘するものであり、そして、警告であった。
エゼキエルは、その他にも、多くの警告が主から与えられ、それを伝え続けたが、結局、イスラエルはそれらを無視し、罪を離れず、好き放題の事をし続けた。
そのため、ついに、主の栄光が神殿から離れ、その後、エルサレム神殿は、悲惨なまでに、徹底的に破壊されてしまった。
それは、彼らの汚れが徹底的に拭い去られ、きよめられるためであった。
主の栄光が無い神殿は全く無意味であるのと同様に、私達という神の宮も、主の霊が宿っていないとするなら、全く無意味である。
だから私達は、聖霊を求めて祈るべきである。
しかし、彼らの汚れが、徹底して打ち砕かれ、清められた後、新しい神殿の幻が示され、そこに、主の栄光が戻って来た。
エゼキエル43:6 その人がわたしのかたわらに立った時、わたしはひとりの人が、宮の中からわたしに語るのを聞いた。
それまでは、手に、はかりざおを持った「ある人」が、この神殿の”ツアーガイド”をしていたが、それ以降、彼ではなく、主ご自身がツアーガイドとなって下さる。
エゼキエル43:7 彼はわたしに言った、「人の子よ、これはわたしの位のある所、わたしの足の裏の踏む所、わたしが永久にイスラエルの人々の中に住む所である。またイスラエルの家は、民もその王たちも、再び姦淫と、王たちの死体とをもって、わが聖なる名を汚さない。
主に聞き従わないで、偶像礼拝や不正を持ち込んだ汚れた王たちの死体が、エルサレムに葬られたことによって、そこは汚されてしまった。
ここに記されている通り、神殿は、栄光の主の玉座がある所であり、そこは、主の足の踏む所であり、そして、主が永遠に住むべき所、である。
私達という神の宮も、そうである、という自覚を持つべきであり、淫行や、死んだ行いによって汚されないように、気をつけるべきである。
かつての神殿は、淫行や高き所の王たちの死体で汚され、その汚れをきよめず、むしろ、淫行と汚れに留まり続けたため、主の栄光が離れ、神殿は破壊し尽くされてしまったからだ。
汚れた者達の汚れた行いによって汚されてしまったそれらは、一度、徹底的に破壊されてから、清められる必要があった。
エゼキエル43:8 彼らはその敷居を、わが敷居のかたわらに設け、その門柱を、わが門柱のかたわらに設けたので、わたしと彼らとの間には、わずかに壁があるのみである。そして彼らは、その犯した憎むべき事をもって、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって、これを滅ぼした。
ここに記されている具体的な内容、すなわち、イスラエルの民や長たちが、いかにして神の御住まいを汚したかの詳細が、8章で示されている。
8章で示された幻の中で、彼らは、北の祭壇の門の入口に、ねたみの偶像を置き、そこで女たちは、タンムズのために、泣きながら座っていた。
また、庭の入口の壁の中に入って行くと、そこには、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が回りの壁一面に彫られていて、イスラエルの七十人の長老が、その暗い所で礼拝していた。
さらには、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間にいた人々は、主の宮の本堂に対して背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。
それで主は言われた。
エゼキエル8:18 それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」。
神殿が徹底的に破壊された理由は、これだけではなく、さらに多くの、汚れた事を彼らが行ったゆえだった。
エゼキエル43:9 今彼らに命じて姦淫と、その王たちの死体を、わたしから遠く取り除かせよ。そうしたら、わたしは永久に彼らの中に住む。
淫行と、死体を、取り除かなければならない、と言われたように、私達の中からも、死んだ行いと、主の御前における淫行を、取り除かなくてはならない。
取り除くなら、「わたしは永遠に彼らの中に住もう」と、9節で言われている。
エゼキエル43:10 人の子よ、宮と、その外形と、設計とをイスラエルの家に示せ。彼らはその悪を恥じるであろう。
43:11 彼らがその犯したすべての事を恥じたら、彼らに、この宮の建て方、設備、出口、入口、すべての形式、すべてのおきて、すべての規定を示せ。これを彼らの目の前に書き、彼らにそのすべての規定と、おきてとを守り行わせよ。
主が神殿を計らせ、その正確な寸法を示された理由が、ここに示された。
すなわち、彼らが、自分たちの不義を恥じ入るようになるためである、と。
実際、神殿の構造は、あらゆる点において、主の聖さが示されており、また、汚れた者は入れない事、そのガードがとても固い事が、示されていた。
私達も、きよく聖である主の宮を示されて、それに引き換え、自分自身の汚れた様も示され、恥じ入るとしたなら、それは、主の御心である。
それは、主の宮と神の臨在から、ますます離れさせるためではなく、むしろ、そこに近づくため、自分自身の不義を捨てさせるため、である。
43:12 「宮(ベイト)」の「規定(トーラー)」はこれである。山の頂の四方の地域はみな最も聖である。見よ、これは宮の「規定(トーラー)」である。
12節という節は、何気に、とても重要な事が書いてある。
『「宮(ベイト)」の「規定(トーラー)」はこれである』という宣言でサンドイッチされた、その中身は、「山の頂の四方の地域はみな最も聖である」。
「最も神聖」とは、「コデシュ(聖)」という語の反復強調である。
「宮」と訳された語ベイトは、元々の意味は「家」、あるいは「住む所」であり、すなわち、主の家、主のすみかである。
私達も、主が住まわれる宮であり、また、私達が住んでいる家やマンションについても、その場所やその周囲も、「聖」であるべき事が、強調されている。
13節以降には、祭壇のデザインと寸法が記されている。
祭壇は、神に受け入れられるべき犠牲を捧げる所であり、そこは、人の罪が清められ、神に受け入れられる者とされる所である。
また18節以降には、祭壇が建てられた際に、祭壇が「機能」するために、最初に為すべき7日間に渡るきよめの規定が、示されている。
そして、きよめのために必要なものは、傷のない動物の、犠牲の血である。
今、新約の時代における祭壇は、イエス様がかかられた十字架である。
罪や傷のないイエス様が、十字架の上で犠牲の血を流された事によって、私達は罪が清められ、神に受け入れられる者とされた。
43:27 彼らがこれらの日を満たしたとき、八日目から後は、祭司たちは、あなたがたの燔祭と、酬恩祭とを祭壇の上に供える。そうすれば、わたしは、あなたがたを受けいれると、主なる神は言われる」。
祭壇の贖いが済んだ後には、全焼のいけにえと、和解のいけにえが捧げるべきである事が示されている。
私達も、イエス様の十字架上での贖いを受けた後には、神との和解が成立し、その故に感謝をささげ、そして、私達自身を、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物として捧げるべきである。
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
以上、神殿の構成が示されたのは、それまでの罪や汚れを犯してきた私達が恥じ入り、イエス様の贖いと和解を受け入れ、私達自身が、聖となり、聖なる民として、聖なる道を歩み続けるためである事がわかる。





