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金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

お金の使い所に心が見える(ルカ12:13-34)

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12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
 
私達は、お金の運用方法について、非常に関心がある。
一体、どうするのが、ベストなお金の運用方法だろう。
 
せっかく稼ぐだけ、稼いでも、自分の有意義と思える事に使えないまま、死んでしまうなら、稼いだ事がそもそも、無駄な労苦であるし、
また、せっかく稼いで、たとえ自由に使えた、としても、使い先が自分や家族を子孫を悪くして、世を悪くする方向性であったとしたら、ただ有害性をもたらしただけで、まだ稼がないほうが良かった、という事である。
 
その最たる例が、ソロモンである。
 
伝道者の書2:18 わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。
2:19 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。
2:20 それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。
2:21 今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。
2:22 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。
2:23 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。
2:24 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。
2:25 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。
2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 
イエス様は言われる。
 
ルカ12:16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして
12:18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。
12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
 
結局、重要なのは、
生まれてから死ぬまで、得たものを、どれだけ「有意義に使ったか」、である。
主から与えられたものを、「有効に」、活用する事。
 
ロックフェラーの年間件金額の表をみると、彼は本当に、有意義に使った事がわかる。
イエス様が言っておられる。
 
ルカ12:33 自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。
12:34 あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。
 
まさに、ロックフェラーは、それをした。
しかし多くの人は、お金について、明日について心配する。
 
12:29 あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。
12:30 これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。
12:31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
12:32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
 
「神の国(バシレイア・トゥー・テウー)」とは、神の統治領域である。
私達が、何はさておきして、最優先で求めるべきは、職場も、家庭も、自分のデスクも、神の統治が行き渡る事、である。
 
どうやって、神の国に宝を蓄えられるか。
 
ルカ12:33 持ち物を売って、施しをしなさい。
自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。
そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。
12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
 
結局、私達が残せるものは、愛である。
この世において、妻を、夫を、子供を、愛し、親切したその心は、妻の、夫の、子供の心に、ずっと残り継がれていく。
また、信仰による心によって残したものは、今も健在する。
 
1コリント13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

花婿をとりこにする性質(雅歌4:9-16)

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詩篇講解説教

心底、主を慕い、あえぎ求めた、コラの子による詩篇(詩篇84篇)

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聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
 
コラといえば、荒野で人々を扇動してモーセに逆らい、クーデターまがいの事をした者だった。
彼は巧みに多くの有力者を味方につけ、多くの人々が彼になびいた。
しかし、コラの天幕の下の地面は避け、彼は、天幕や持ち物もろとも、生きたまま地の底に下ってしまった。
結局、神ご自身が直接、彼らを退けた事を明らかにされたのだ。
 
しかし、コラの子たちは、生き残った。
なぜ、生き残れたのか?
いかに父親が、人々をそそのかす者であったとしても、彼らは心底、主を慕い求める心を持っていたため、その天幕に近づかなかったからである。
 
それで、コラの子の子孫からは、あの有名な預言者であり、キングメーカーであるサムエルが生まれた。
さらにコラの子たちは、素晴らしい数々の詩篇を生み出す。
鹿が水の流れを慕うごとく、私のたましいは主を慕います、という詩篇42篇や、
この舌は麗しき主をなめらかに語り告げる「巧みな書記の筆」です、という詩篇45篇、
また、「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と、ガールズ・ソプラノに歌わせた、力強い信仰告白の詩篇46篇など。
彼らが作った詩篇には、心の底から主をあえぎ、慕い求める事を歌ったものが多い。
 
この84篇も、彼の主を慕いあえぐ心が、ふんだんに表されている。
 
詩篇84:1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
詩篇84:2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
 
彼は、魂、心、身をもって、すなわち、全身全霊で、主を慕い、喜び、賛美する志を持っている。
パウロは、これこそ私達も為すべき「理に適った礼拝」だ、と言っている。
 
ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な(ロギコス:理に適った)礼拝である。
 
私達も、主の宮・教会に行く時、自分の思い・心・からだ・意思・感情、全てを、聖なる捧げものとして、携えて行く時、主はその礼拝者を、喜んで受け取ってくださる。
 
詩篇84:3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに/わがすまいを得させてください。
詩篇84:4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。〔セラ
 
彼は、雀やつばめが、主の家に巣を作っている様子を、うらやんでいる。
今も、嘆きの壁に行くと、アマツバメや鳥たちが巣を作っているのを見る事ができる。
嘆きの壁は、かつての神殿の壁の一部であった。
現在も、ユダヤ人は、その壁の修復工事において、アマツバメの巣の位置を損なわないよう考慮して、修復するようにしている。
 
つばめは、神殿の壁の隙間に巣作りして、卵を産み、子育てし、やがて成長すると、南国へと旅立って行き、そして、季節が巡って来ると、彼らが育った神殿に再び戻ってきて、巣作りし、卵を産み、、、という営みを、数千年も繰り返して来た。
コラの子たちは、そんなつばめを心底、羨ましい、と思った。
私達も、主の宮に巣作りし、子を産んだら、主の宮で育て上げ、そして成長したなら、遠くで身を立たせ、成功し、そして再び主の宮に戻ってきて、いのちの育みをする、そのような営みを、世々限りなく続けて行くべきなのだ。
 
詩篇84:5 その力があなたにあり、その心がシオン(צִיּוֹן)の大路にある人はさいわいです。
 
シオン(צִיּוֹן)とは、エルサレムの別名であり、特に神殿のある町を意識する事が多い。
 
なお、ヘブライ語から導き出される霊的意味は、私達・イエス様を信じる者である。
A צִיּוֹןのツァディצは「釣り針」、ユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、ヌンןは「魚」を意味する。
A’ すなわち、イエス様の十字架の「釘」づけられた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、イエス様を信じる者と言う。
 
心にシオンへの大路がある人は、主の宮に礼拝に行こう、主の宮に戻りたい、と切望する思いが開通している。
すなわち、力の源を主に置いている人で、そのような人は、どんな時代になっても、どんな状況に置かれたとしても、大丈夫である。
 
詩篇84:6 彼らはバカ(בָּכָא)の谷を通っても、そこを泉のある所とします。また前の雨(モーレ:秋の雨)は池をもってそこをおおいます。
詩篇84:7 彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。
 
バカ(בָּכָא)の元の意味は「バルサムの木(バーカー)」であるが、樹脂や水分をしたたらせる性質があるので、「泣く者」とも呼ばれるため、文語訳や古代訳(70人訳、シリヤ語訳)は、涙と訳している。
 
私達の人生も、涙の谷を通るような、つらい時期があるかもしれない。
しかし、心の中に、主の宮への、すなわち礼拝への直通通路がある人は、涙の谷さえ、泉が湧く所とし、そこを主が雨で潤して下さり、そして、力から力へと進まされ、ついには、シオンにおいて神とまみえるようになるのだ。
 
詩篇84:8 万軍の神、主よ、わが祈をおききください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ
詩篇84:9 神よ、われらの盾をみそなわし、あなたの油そそがれた者の顔をかえりみてください。
 
「われらの盾」「油そそがれた者」とは、王の事であり、ユダヤにおける王とは、神から権威を代行して行う者として、油注がれた者である。
その自分たちを統治する王が、神様の御心にかなった、祝福された統治をしますように、という願いがある。
 
私達にとって王とは、イエス様であり、私達の王であるイエス様の名前によって祈る祈りを、主は、聞いてくださる。
 
詩篇84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。
 
コラの子たちの主な奉仕は、門衛であるが、門衛は神殿の中にではなく、ずっと外に立ち続ける奉仕ではある。
しかし、少なくとも主の近くにおり、そして、主の宮と礼拝者を守る役に立っている。
そうであるからには、世のいかなる所にいるよりも、遥かに有意義である。
 
彼は、「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさる」と言った。
つまり、主を慕い焦がれる心をもって、主の宮・教会にいる一時間は、世にいる千時間にまさるのだ。
私達は、どれくらい、主を慕い焦がれ、どれくらい、教会で過ごして来ただろうか。
 
ちなみに私は、10年以上、教会に入り浸って奉仕をして来たので、私は既に、一万年にまさる充実した日々を生きている、と、自負している。
 
彼は言った。
「わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。」
そう、悪の天幕には、災いがつきものである。
コラの天幕は、彼もろとも地面が裂け、落ちていってしまった。 
しかしコラの子たちは、父の悪に加担せず、その天幕から離れていたから、生き残った、という事を、忘れてはならない。
 
詩篇84:11 主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。
 
日は、全ての生き物に恩恵をもたらしており、私達は、太陽が無ければ、生きられない。
主は太陽のように、私達を光で照らし、暖かさで照らし、必要を満たし、健やかにして下さるお方である。
 
そして主は、私達の盾である。
盾が無いなら、敵の攻撃をすぐに受けて、やられやすい。
しかし、主は完全な盾で、この御方に依り頼むなら、決してやられる事は無い。
 
詩篇84:12 万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。
 
主の民、主の奉仕者である事の「幸い」とは、何だろう。
確かに、主の民・主の奉仕者は、世において成功し、物質的・経済的にも祝福を受けるが、それにまさる幸いがある。
それは、主の御側近くにいる事、主ご自身がわたしの相続である事である。

詩篇講解説教

主の救いが来るまで黙っていてはならない(詩篇83篇)

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歌。アサフの賛歌
83:1 神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください。
 
状況としては、イスラエルに敵する者たちが、共に連合してイスラエルを包囲している状況である。(5-8節)
最も助けが必要な状況なのに、神様はあたかも「沈黙」を続けているような。
 
もしも、神が沈黙しているかのように感じるとしたら、ます私達の側に何か過ちは無かったかを探るべき時である。
神を慕い求めていない、という事が、ずっと続いていなかったか?
私達の中に、神との隔てとなっている罪が無かったか?
もし「罪」だと示されている事があるにもかかわらず、それをそのまま放置したままであるなら、どんなに「下さい、下さい」と連発しても、無駄である。
しかし、もし思いあたる罪は何もなく、御前で何ら”やましさ”が無いのに、突然、攻撃する者が襲って来たような時は、黙っていてはならない。
そのような時は、神様に、しきりに祈り求めるのだ。
イザヤも言った。
 
イザヤ62:1 シオンの義が/朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。
・・・
62:6 エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。主に思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。
62:7 主がエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられるまで、お休みにならぬようにせよ。
 
イザヤが主に祈り続けると、主からんお答えがあって、その答えは、とても素晴らしい内容だった。
すなわち、もはや彼らが労して得た産物は、敵によって、決して奪われる事はなく(同8節)、確かに主の救いが来て、そして今までの働きの報いが確かに報われ(11節)、彼らは『聖なる民、主に贖われた者』ととなえられ、『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられるようになる(12節)。
 
人は、何か、危機的な状況に陥った時、条件反射的に、人や事、物に、頼りどころを探すものだが、私達・神の民は、そうあるべきではない。
真っ先に、主に求め、主の前で誠実であるべきだ。
 
アサフもまた、この危機敵状況を、主に訴えた。
 
83:2 見よ、あなたの敵は騒ぎたち、あなたを憎む者は頭をあげました。
83:3 彼らはあなたの民にむかって巧みなはかりごとをめぐらし、あなたの保護される者にむかって相ともに計ります。
83:4 彼らは言います、「さあ、彼らを断ち滅ぼして国を立てさせず、イスラエルの名を/ふたたび思い出させないようにしよう」。
 
主の民に敵対する者達は、悪賢いはかりごとを巡らし、主の民を消し去ろうとしている。
5-8節に、その色々な民族の名が出て来るが、それらに記されている者達は、まさに、イスラエルの東、西、南、北に位置する者達であり、彼らは心ひとつにしてイスラエルを破壊しようと、たくらんでいる。
まさに、四面楚歌の状態である。
なお、8節をみると、ロトの子ら(モアブとアモン)が、指揮を取っていたようである。
 
ヨシャパテ王の時代も、ロトの子らが共謀し、海の砂のような大軍を率いて攻め込んできた。
ヨシャパテ王は、当初、主の目に適う政治を行っていた。(2歴代誌17章)
しかし、北イスラエル王国と和を結ぶことを急ぐあまり、主の目にはなはだ悪を行っていたアハブ王の娘と、自分の子とを、結婚させてしまった。
 
神の民は、悪辣な者と、決して婚姻関係を結んではならない。
なぜなら婚姻とは、相手とひとつになる事であり、そして息子、娘、子孫たちは皆、その相手の血を半分いただいていく事になるからだ。
 
結局ヨシャパテは、アハブの身勝手な思惑に利用されて、散々目にあった後(同18章)、おびただしい大軍が彼の王国に攻め寄せて来る事になる。(20章)
彼はその時、断食の集会を開いて、信仰告白し、そして御言葉を盾にして祈った結果、主は救って下さり、しかも、ぶんどりに3日もかかる程、多くのものを得て、彼の名声は周辺諸国に鳴り響いた。
 
確かに、自分の罪ゆえに、災いに遭う事はある。
しかしその時、悔い改めて、主に切に祈り続けるなら、主はその災いを、幸いへと転じてくださった事例が、聖書には多々ある。
 
詩篇83:9 あなたがミデアンにされたように、キション川でシセラとヤビンにされたように、彼らにしてください。
83:10 彼らはエンドルで滅ぼされ、地のために肥料となりました。
83:11 彼らの貴人をオレブとゼエブのように、そのすべての君たちを/ゼバとザルムンナのようにしてください。
 
これらの出来事は、いずれも、士師記4‐8章に記された出来事である。
アサフは、かつての士師記の時代、主がなさったわざに思いを馳せ、その出来事をイメージしつつ、祈ったのだ。
私達も、聖書の出来事に、思いを馳せ、その御言葉と自分とを信仰によって結びつけて、祈るなら、その時代に起きた主のわざを、救いを、信仰によって今の私達へと引っ張ってくる事ができるのだ。
 
詩篇83:12 彼らは言いました、「われらは神の牧場を獲て、われらの所有にしよう」と。
 
昔も今も、「神の牧場」に汚い手を伸ばし、わがものにしようとする者たちは、確かに存在する。
神の民は、祝福される故に、妬まれて、その祝福を奪おうとして、企む者たちが。
そのような時、私達も、信仰の先人にならって、主が救いをもたらして下さるまで、黙ることなく、主を呼び続けるのである。
 
詩篇83:13 わが神よ、彼らを巻きあげられるちりのように、風の前のもみがらのようにしてください。
83:14 林を焼く火のように、山を燃やす炎のように、
83:15 あなたのはやてをもって彼らを追い、つむじかぜをもって彼らを恐れさせてください。
 
アサフは、風や火、炎、疾風などの、自然を支配される神が、敵にさばきを下してくださるように、と祈っている。
しかし、単に「敵を滅ぼして下さい」という事で、祈るべきではない。
 
詩篇83:16 彼らの顔に恥を満たしてください。主よ、そうすれば彼らはあなたの名を求めるでしょう。
 
確かに、神の民を蹂躙し、神の民の畑を奪おうとするような者達は、恥に満たされ、打たれて、然るべきである。
しかし主は、彼らが打たれた後、悔い改めて、主に立ち返る事をこそ、望んでおられる。
 
ヨシュアの時代も、滅ぼされるべきギブオン人が、主に立ち返った時、主は、彼らを救われた。
むしろ主は、彼らを救うために、太陽や月さえも止めて、敵を滅ぼし、そうして主の栄光が、大いにあらわれた。(ヨシュア記9-10章)
 
詩篇83:17 彼らをとこしえに恥じ恐れさせ、あわて惑って滅びうせさせてください。
83:18 主という名をおもちになるあなたのみ、全地をしろしめすいと高き者であることを/彼らに知らせてください。
 
今の時代も、主を恐れない者たちや、まことの神に敵対する国、王たちは、多い。
私達は、主の御名が侮られないために、また、神の民を蹂躙する罪を犯させないために、彼らが主の前で恥を見、懲らしめを受け、そうして、主はあなどられるようなお方ではない、という事を思い知り、そして、救いに導かれるように、と、祈る事も、また必要である。

主日礼拝

アメリカ史上一番の富豪から学ぶ祝福のコツ(マラキ3:10-12)

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週報/メッセージ(説教)概要

参考資料:ロックフェラーの年ごと献金額合計と、彼の母の遺言

 神の国を建て上げるために、世界的に用いられる「時代の主人公」となるには、どうすればいいか。最近、ヨセフやクロス王から学んだが、今回、石油ビジネスを通じてアメリカ史上一番の富豪となったジョン・ロックフェラーから学びたい。彼の資産は、現在の価値に換算すると約28兆円以上にもなると推定される(ビル・ゲイツは約6兆)。ロックフェラー財閥や、彼の一族については、今日、色々言われる所はあるものの、初代のロックフェラーは素晴らしいクリスチャンで、多くの人に恩恵をもたらし、多くの社会貢献をして来た。
 彼の父は真面目に働かず、いつも遊び歩いて、何か一山当てようとする人だったが、母イライザは信仰熱心なクリスチャンで、夫がほぼ不在の家を守るために奮闘した。彼はその母から、大いに影響を受けた。
 彼の経済が祝福された秘訣は、ずばり、母から受け継がれた「信仰」であり、特に、「十分の一献金」を捧げる事にあった。母は、幼き日のロックフェラーに、「3 つの約束」を守るよう教えていた。すなわち、第 1 に什一献金をささげる事。第 2に教会で一番前の席に着いて礼拝を捧げる事。第 3は教会の指示に従い、牧師を悲しませない事。 彼は幼い時から、それら全てを忠実に守った。彼は若い時から収支を帳簿につける習慣を身に付けており、事業が祝福された後には、40名もの職員を雇って収入と献金額を正確に計算させた。それ以外も、彼は、多大な寄付をしていたが、彼自身は倹約を努め、質素な生活をしていた。
 母は、息子が世界で最も裕福な男になるのを見てから、天に召されるが、彼女は、彼の信仰をまだ心配していたため、死ぬ前に、十の戒めを彼に残した。すなわち、1,神を実の父以上に敬う。 2,神を尊重するごとく牧師を尊重する。 3,常に右ポケットを、十分の一を入れるために確保し、主日に捧げる。 4,誰とも敵対しない。 5,礼拝に出席する時、最前列に座る。 6,毎朝その日の目標を決定し、祈りを捧げる。 7,寝る前にその日を振り返って祈る。 8,人を助ける事ができるなら、助けるために最善を尽くす。 9,主日礼拝を、自分の所属する教会で捧げる。 10,朝目覚めたら、まず神の言葉・聖書を読む。
 これらが彼の家訓となり、生涯、忠実に守った。彼の息子は、1962年、タイム誌のインタビューで言った。
「ロックフェラー家の富は、神のものであり、私たちはただ、(神の)執事です。」
 
 彼はそのようにしたため、経済的感覚が祝福され、20歳で事業を立ち上げた時、これから旬のビジネスは石油である、と早期に見抜いた。彼は、周囲の反対を押し切って石油関連事業に邁進して行った結果、大成功を収めた。彼は、競合他社を買収し、市場の90%以上を占有するに至ったが、あらゆる方面から非難され、彼の会社は30以上の会社に分割されてしまった。しかし皮肉にも、それでかえって株価は急騰し、彼の資産は、5倍以上に増え、彼はさらに富む者となった。祝福の法則に立つ者は、みな、こうなのだ。
 そんな中、彼は55歳の時、病に侵され、余命1年と宣告されてしまう。彼は必死に祈り、もし助かるなら、これから後の人生は「莫大な財産を貯める事」ではなく、「莫大な財産を使う事」を使命とした。結果、彼は98歳まで生き、安らかに息を引き取った。彼は90歳を過ぎても、毎日ゴルフをする程、健康だった。
 彼の病後の後半生は、世界一の慈善事業家となり、数々の事業を立ち上げた。彼は数千もの教会を建設し、シカゴ大学をはじめ、全米24の総合大学を創立・支援し、ニューヨークに様々な文化施設を建てた。
 
 結局重要なのは、どれだけ貯めるか、という事より、与えられたものをどれだけ有意義に用いるか、である。
御言葉に従って、神の御心を行い、泥棒や虫、さびなどの手が届かない、天に宝を積み上げる事である。
せっかく稼いでも、有意義に使わないまま、死んでしまうなら、稼いだ事自体、無駄な労苦となってしまう。
また、たとえ沢山稼いで、自由にお金を使えた、としても、その使い道が、自分や家族や子孫を悪い方へと導く結果になってしまったり、また、世の中を悪くする方向へと導いてしまったとしたなら、ただこの世に「害悪」をもたらしただけで、むしろ稼がないほうがまだ良かった、という事になってしまう。(ルカ12:16-21)
 結局、最高の投資方法とは、まず、神様に十分の一を捧げ、神の国を前進させる事。そうするなら、神様は祝福するために天の窓を開き、資産を蝕む”いなご”を叱り、投資した先が、不作とならないように守り、そうして主は祝福し、全ての国民は「幸せ者」と言うようになり、その地は喜びの地となる(マラキ3:10-12)。
 また、大いに人に与え、施しをする事である。そうするなら、押し入れ揺すり入れして溢れるばかりに与えられる(ルカ6:38)。ヨセフやクロス、ロックフェラーのように、与えられたものを神の国のために捧げ、時代の主人公として、大いに用いられて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

探す父・御子・御霊、そして悔い改めた者だけがあずかれる喜びの宴会(ルカ15章)

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詩篇講解説教

「あなたがたは神々(エローヒム)である。」これいかに?(詩篇82篇)

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この詩篇は、不正や悪を行っている権威者や指導者たちに対する警告であり、真の裁判官であられる神が真のさばきを行う事を示す内容である。
しかしこの箇所は、異端が「人も神になる」という強引な解釈をするための裏付けとするために引用される事も多々あるため、詳しく見て行きたい。
 
82:1a 「神(1)」は「神(2)」の会議のなかに立たれる。「神(3)」は「神々(4)」のなかで、さばきを行われる。
 
(1)の「神」の原語は、エロヒーム(אֱלֹהִים)である。
あの天地を創造した三位一体のまことの神、として用いられるのがメインだが、崇高な者達の意味があり、時には、行政を行う人に対し尊敬を込めて「エローヒム」と呼ぶ事もある。(ストロング辞書)
つまり、ユダヤでは、裁判する人が「エローヒム」(いわば「神々」)と呼ばれる事があるのだ。
 
なお、KJVでは、エローヒムをジャッジ(士師、裁判官)と訳した箇所は、5回ある。(Exo_21:6, Exo_22:8, Exo_22:9, Exo_22:9, 1Sa_2:25)
 
(2)の「神」の原語は、エル(אֵל)。元々は、力、強さ、という意味だが、そこから天地を創造した三位一体のまことの神と訳される。
(3)の「神」は、原文には無くて、日本語聖書の補助的意訳である。
(4)の「神々」は、エロヒームである。
 
つまり、ここで用いられているエローヒムという語は、全能の神の事をあらわすものではないし、天使たちや神に似た霊的存在の事でもない。
 
もしここのエロヒームが、そうした超人間的・霊的崇高な存在なら、7節の内容と矛盾する事になる。
そもそも、そのような存在は、3−4節に書かれてあるような、人の間で裁判なぞ、していない。今までの歴史で、人の裁判に、超人間的・霊的崇高な存在が裁判したなぞ、聞いた事は無い。
 
だから、1節のエローヒムは、必然的に「人間の裁判官」の事を言っており、1節は、次のように訳す事が妥当であろう。
「崇高な者達は、力強き集会の中に立ち、裁判官たちの間で裁判を行う。」
 
2節以降では、そのような「エロヒーム(裁判官)」と呼ばれている人間達が、不正な裁判をしている現状を、詩篇の作者が責めているのだ。
 
82:2 「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ
82:3 弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。
82:4 弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。
 
ここでは「さばき(シャファット)」が頻出している。
すなわち、ここはエロヒーム(裁判官達)と呼ばれる者達に対する指摘である。
 
あなた方は、いつまで不正な裁判をしているのか、神の民をさばく裁判官たる者は、むしろ、公平な裁判をし、弱い人達を救い出すのが仕事ではないか、と。
 
82:5 彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。地のもろもろの基はゆり動いた。
 
彼らは、自分が悟りがなく、暗闇の中をさまよっている事さえ知らない。
しかし、彼らがしている不正な裁判によって、地は、揺れ動いているのだ。
 
 
82:6 わたしは言う、「あなたがたは「神(5)」だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。
82:7 しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。
 
(5)の「神」もエローヒムであるが、前後の内容から、人間の裁判官たちが自分たちはエロヒーム、いと高き者たちであるかのように振る舞ってはいても、結局は人のように死んで倒れる、という事を言っている事がわかる。
 
イエス様は、この7節を引用された事があり、その事も、異端がよく勝手な解釈している箇所である。
その箇所は、ヨハネ10章である。
 
ヨハネ10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
10:34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
10:35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
10:36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
 
上記、34,35節で「神々」と訳されたギリシア語は、セオス(神)の複数形であるが、セオスの複数形の特殊用法として、「神の代理者、神を代表して裁きを行うさばきびと」と訳す事がある。(織田昭著 新約聖書ギリシア語小辞典)
 
この箇所は、イエス様の痛烈な皮肉が込められている。
そしてその皮肉の内容は、ヘブライ語・ギリシア語ではわかるが、日本語ではわかりにくく、訳し方によっては、多くの人の誤解を招きかねない内容である。
その「皮肉」とは、「エロヒーム」や「セオス」には、「神」と「裁判官」という二つの意味があるヘブライ語・ギリシア語圏の人にしか分からない「当て字的皮肉」であり、それ以外の原語では、その皮肉は通じにくい。
 
紐解いていこう。
 
イエス様は、まごう事なき、全能の父なる神の御子であり、「わたしと父は一つです」と、30節で示された。
そう、私達クリスチャンは、イエス様は生ける神の御子、キリストであると認め、信じている。
 
しかし、ユダヤ人の主だった人たちは、イエス様をキリストとは認めず、「自称」神の御子だと言って冒涜している、と言った。
 
そんな彼らに対し、イエス様は、くだんの詩篇82篇を引用して、痛烈に批判したのである。
すなわち。
 
あなたたちの「裁判官」でさえ、エローヒム(神々)と言われて、神扱いもされもしているが、それでいてあなたたちは、裁判の中においては、不正も働いている。
そんな現状なのに、あなたたちは、彼らエロヒームと呼ばれている裁判官には、「冒涜している」とは言わずに、かえって、何も悪い事をしていないわたしに、さらには、キリストである証拠のしるしや奇跡を示した、このわたしに対しては「冒涜」と言っている、と。
 
事実、イエス様は石打にされるような悪い事は何一つ行っていない事を、彼らは認めているし(33節)、またイエス様は、キリストである事を示すために、多くの証拠のしるしや奇跡を起こし、多くのよいわざを為した。
 
そういうわけで、イエス様は、まさに今この場面において、彼らが行っている「不当な裁判」について、
そのまんまの事が書かれてある詩篇82篇を引用し、彼らの欺瞞を暴いたのだ。
 
彼ら自身は、神に代わって正当な裁判をしなくてはならない、というのに、自分たちの不正には目をつぶっていて、それでいて、真に神の御子・キリスト・イエスには、冒涜罪を着せようとしている!と。
 
 
ところで、今までの歴史で、多くの異端は、これらの記事を自由に解釈し、人は神になる、と言って来たが、果たして聖書は、人間は、神と同等、あるいは同質になれる、という事が、言いたいのだろうか?
全く逆である!
 
聖書が、より多くの分量を割いて、命じている事は、そのように高ぶってはならない、という事だ。
むしろ、自分を低くし、神の御前にへりくだるように、という趣旨のほうが、多く書かれてある。
 
そのような中から、このような、わずかな箇所をフォーカスし、つまみ上げて、「人は神になる」と高々に言う者は、どこから来た者達であるのか。
聖書は指摘している。
自分を高く上げ、自分を神のようにしようとする者、賛美と栄光を自分に集めようとする者は、サタンに類する者である事を。
 
エデンにおいて、蛇(サタン)がエバを誘惑した内容は、「あなたは神のようになれる」だった。
サタンはまた、「自分は天に登ろう、はるか上に王座をもうけ、いと高き方のようになろう」と、心の中で言った故に、投げ落とされた。(イザヤ14:13-15)
パウロも言っている。
終わりの日には、背教を起こす者が起こり、その者は自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言するから、誰も騙されないようにしなさい、と。(2テサロニケ2:3-4)
 
私達は確かに、イエス様を信じて神の子とされた。
それは、私達が神のように高くなって、ふんぞりかえって、栄光と賛美を自分へ集めるため、では決してない。
 
むしろ、神の代理として、正しいお方から権威が与えられ、それを行使して、正しく世をさばき、弱い人達を救い出すのが、私達の仕事である。
神の子になる、とは、きよさにおいても、誠実においても、柔和さにおいても、キリストらしくなる、という事である事を、忘れてはならない。
 
ルカ6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
 
エペソ5:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
5:2 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
5:3 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
5:4 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――

 講解説教

主に聞き従いさえすれば(詩篇81)

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聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたアサフの歌
 
この詩篇は、3節に「新月と満月とわれらの祭の日とに/ラッパを吹きならせ」、とあるので、第7月の新年の祭りの時に宣言されていた事が考えられる。
 
「祭り(モエド)」とは、主が約束された時間、主が約束された場所における、約束された会合の事、である。
レビ記は祭りに関する定めが詳細に示されており、そこから分かる事は、主が定められた時間、場所、定められた仕方に従って、主と出会うなら、主の祝福や罪のゆるしを正当に受けられる。
しかし、主の定められた時間や場所、やり方を蹴って、自分勝手な時間、場所、仕方を貫くなら、その人は主の保証は受けられず、あらゆる面で負け続ける人生となってしまう。
 
詩篇81:1 われらの力なる神にむかって高らかに歌え。ヤコブの神にむかって喜びの声をあげよ。
詩篇81:2 歌をうたい、鼓を打て。良い音の琴と立琴とをかきならせ。
詩篇81:3 新月と満月とわれらの祭の日とに/ラッパを吹きならせ。
詩篇81:4 これはイスラエルの定め、ヤコブの神のおきてである。
 
主の祭りや礼拝、すなわち、「主の前」という場におけるマナーは、「喜ばしく」ある事であり、主はそれを「おきて」として定めた、と4節にある。
主と出会う場においては、あらゆる歌や楽器、テクニックを駆使し、喜びつつ、主を褒め称えるべきなのだ。
 
私達には、主を喜ぶべき相当な理由がある。
続く節で示されている。
 
詩篇81:5 神が出てエジプトの国を攻められたとき、ヨセフのなかにこれを立てて、あかしとされた。わたしはかしこでまだ知らなかった言葉を聞いた、
 
ヨセフが、兄の暴虐によってエジプトに奴隷として売られ、ポテファルの妻の嘘によって牢に入れられた物語を見るに、多くの人は思う。
なんて運がなかったのだろう、まるで、かろうじて首がつながっている様子だ、と。
 
しかし、5節を読むと、全くそんな事ではないことが分かる。
 
実は、なんと、神があらかじめヨセフよりも先んじてエジプトへ行って、ヨセフの進むべき道を、用意しておられた、というのだ!
 
彼は奴隷として売られ、牢獄に入れ、しかしその後、エジプトの総理大臣となって、ヤコブの一家をイスラエル民族へと建てあげるシステムづくりをするために、彼を用いるために。
 
確かに、彼が奴隷になったのも、牢に入れられたのも、人の悪意によるものだった。
それは100%、悪い事である。
しかし主は、人が打ったあらゆる悪手も、あらゆる悪意も、最善へと変えて下さるお方なのだ!
もし私達も、ヨセフのように、人のした悪を思わず、主を信じ、日々、誠実を養うなら、主はヨセフのように用いて下さるのだ。
 
詩篇81:6 「わたしはあなたの肩から重荷をのぞき、あなたの手をかごから免れさせた。
 
ヨセフは最初、奴隷仕事で、他人の重荷を置い、他人の荷かごを運んでいた。
しかし主は、彼をそこから離させ、むしろ神の国の建てあげのために、人々に命令するものとされた。
主は彼をパロの父とし、エジプトの支配者として、主に用いられて、ヤコブの一家を、イスラエル民族として建てあげる者としてくださった。
 
主はヨセフだけでなく、イスラエルをも、奴隷仕事から開放し、他人の重荷を負う者から、主の重荷を負う者へと変え、エジプト人の荷かごを運ぶ者から、主の御言葉を運ぶ者としてくださった。
 
奴隷から総理大臣の地位になれば、すごいサクセスストーリーだと思うかもしれない。
しかし、総理大臣になる事がサクセスではない。
総理大臣になったとたん、好き勝手をして、主の御心を損ねる総理大臣になってしまっては、サクセスの「真逆」極まりない。
彼は、主から総理という地位に入れられた時、主の御旨を成す者となって、神の国を建てる事に、与えられた権威を用いてこそ、本当にサクセスである。
 
 
詩篇81:7 あなたが悩んだとき、呼ばわったので/わたしはあなたを救った。わたしは雷の隠れた所で、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたを試みた。〔セラ
 
イスラエルが出エジプトした後、主は荒野で、彼らをためされた。
その荒野は、岩砂漠地帯で水が全く無い所、そこで1週間もさまよえば、確実に死んでしまいかねないような所である。
そこにおいて、彼らはためされたが、結局、主は彼らを助け、主の栄光をあらわして下さった。
 
詩篇8節は、これでもか、というくらいの強調宣言である。
 
詩篇81:8 わが民よ、聞け、わたしはあなたに勧告する。イスラエルよ、あなたがわたしに聞き従うことを望む。
 
「聞け(シェマー:シャーマアの命令形)」で始まり、「聞け(シャーマアの未完了態:継続して聞き続ける)」で終わる。
主のことばに「聞く」事、それは、神の民にとって最重要のたしなみである。
 
その、「聞け(シャーマア)」でサンドイッチされた中身は、「勧告する(オド:繰り返す:証する)」である。
だから8節は、
「聞け。明かしする。聞け。
であり、これから命じられる言葉は、最重要事項として心せよ、という事である。
 
詩篇81:9 あなたのうちに他の神があってはならない。あなたは外国の神を拝んではならない。
 
主の他に、他の神々があってはならない。
それは、十戒で真っ先に命じられている禁止事項であるが、この節に2回出てくる「神」のヘブライ語は「エル」、それは「力」「崇高なもの」という意味である。
 
つまり、あなたは、主なる神を置いて、他に力あるものや崇高なものを、主なる神以上のものとして存在させてはならない、という意味である。
今まで無かった、目新しい力や、テクノロジーなどを、神以上に、頼りどころとしてはならない、という事である。
 
なぜなら、私達を救って、永遠のいのちへと招き入れたのは、最新テクノロジーではなく、イエス様だからだ。
 
詩篇81:10 わたしはエジプトの国から、あなたをつれ出したあなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。
 
十戒本文も、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」という言葉で始まった。(出エジプト記20:2)
そうである。
私達を、世というエジプト、サタンというパロの奴隷状態から救い出して下さったのは、まことに主である。
それを忘れてはならない。
 
主は言われる。
口を大きく開けよ、と。
私達が、主を賛美するために、また御言葉を口ずさむために、口を大きく開けるなら、主はそこに最良の甘いもので、満たして下さる。
 
しかし。
続く節に「しかし」、とある。
 
詩篇81:11 「しかし」わが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
詩篇81:12 それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
 
彼らは、主を、好まなかった。
「好む」のヘブライ語アーバーは、同意する、意欲的に、喜んで、従う事の意味である。
 
彼らは、主の言葉に同意せず、意欲的に喜んで従わず、むしろ退け、ただ、自分の好む道に、行きたがった。
ちょうど、ナバルのように(1サムエル記25章)。
ナバルは、頑なさを捨てず、自分が進みたい愚かな道を貫き通した、ゆえに、彼の心臓は石になって、死んでしまった。
1Sa 25:37  his heart died within him, and he became as a stone. (KJV)
主の言葉に聞かず、従わず、自分の道に進む事を頑として止めない頑なな心の行き着く先は、石のように固くなって、滅びる事だ。
 
主は、人の自由意志を徹底して尊重しておられ、それを手出しする事はなさらない。
どこまで尊重されたか。
それは、神の御子キリストを、殺す自由意思さえも、尊重されたほどだった。
 
しかし、その与えられた自由を用いて、神の御子を受け入れ、自分の主とする人は、永遠のいのちが与えられる。
逆に、その自由意志を用いて、神の御子を突き刺すような人は、永遠の滅びに定められる。
 
ただ主は、人が滅びの道、負け組の道に歩む事を、嘆かれる。
主の意図としては、彼らをすぐにでも助けたいのに、意図して主の言葉を捨てるようでは、助けようがないからだ。
 
詩篇81:13 わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
 
主が願っておられる事、それは、主の言葉に聞き従う事、主の道を歩む事である。
礼拝をして、教会から一歩外に出たとたん、心から主のことばをポーンと投げ去って、主と共に歩まないなら、その行く所々で、敵に、良いように打ち負かされてしまう。
 
詩篇81:14 わたしはすみやかに彼らの敵を従え、わが手を彼らのあだに向けよう。
詩篇81:15 主を憎む者も彼らに恐れ従い、彼らの時はとこしえに続くであろう。
 
主に従うなら、主はすみやかに、敵の手から救い出してくださる。
私達は、敵に、負かされ続けたりして、いないだろうか。罪という敵、欲望という敵に。
「負け続け」「負け組」になっている根拠は、聞き従わず、主とともに歩まない事であることが、本日の節から分かる。
 
なお、14節の 「わたしはすみやかに彼らの敵を”従え(カーナー)”」とあるが、「カーナー」は、ひざをつく、謙遜になる、という意味である。
だから、私達が主の御言葉に聞き従い、主と共に歩むなら、主は速やかに、敵のひざをつかせ、謙遜にさせて下さる。
のみならず、主は、良いものを食べさせてくださるのだ。
 
詩篇81:16 わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い、岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう」。
 
主に聞き従い、岩であられるキリストから流れ滴る御言葉の蜜で満ち足りて、最上のもので満ち溢れた、皆さんの人生でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデとアビガイルから見る祝福を受け継ぐ性質(1サムエル記25章)

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主日礼拝

主が仕込まれた布石として用いられる人(イザヤ45:1-3)

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週報/メッセージ(説教)概要

 聖書には、主が御旨を成就するために据えた「布石」が、あちこち散りばめられている。布石とは、囲碁の序盤、より多くの陣地を獲得するために、先を読んで要所要所に石を配置する事であるが、私達は、主が置かれた布石を、聖書から見出す事ができる。その主の置かれた布石が有効に発動するために、御言葉を元に「霊的先読み」をし、私達の将来の計画を立てて行くべきである。今回、クロス王という歴史の人物から、時間と空間を支配しておられる主の布石の完璧さ・美しさを学び、私達も用いられるコツを得たい。
 
 BC539年、クロス王(キュロス2世)がバビロンへ進軍した時、彼は最初、その城塞を見て弱気になった。
その強大な城壁や、青銅の扉、鉄の閂に。また、大きな船さえ行き来できる巨大な堀、そして、ふんだんに蓄えられた食料を前にして。「これほど巨大で、これほど高い防壁に囲まれた都市を強襲して陥落させる事など、誰にできよう。」(キュロスの教育7章7節) ところがバビロンは、彼によって、たった一晩で陥落し、バビロンの王は殺害され、各地の要塞の兵達は、翌朝、クロスに投降した(キュロスの教育7章33節)。
 実は、バビロンが陥落する様は、その200年前、預言者イザヤを通して正確に預言されていた。クロスが取った戦法は、その城塞の堀に流れ込む川々を干上がらせ、乾いた川底を通って城内に侵入する、というものだったが、その手段は、イザヤ書44:26-28に正確に預言されていたのだ。そのような戦法は危険極まりないのに、その晩だけ、バビロンの見張り達は酔って眠りこけていた。それも、預言者エレミヤによって60年前に預言されていた。『わたしはその君達と知者達、長達、司達、および勇士達を酔わせる。彼らは、ながい眠りにいり、目をさます事はない。万軍の主と呼ばれる王がこれを言わせる。』(エレミヤ51:57) 
 その晩、バビロンの王ベルシャツァルの宮殿内で何があったのか。ダニエル5章に詳細に記されている。
その日、バビロンの王は、不遜にもイスラエル神殿の聖なる器を敢えて用いて、酒を飲み、上から下まで大宴会を開いていたのだ。彼の父ネブカデネザル王は、イスラエルの神が為された事に思い知り、神を畏れ敬っていたのに、ベルシャツァルはそれを知りながら、不遜な事をしたのだ。彼が酒を飲みながら、偶像の神々を賛美しているその時、ベルシャツァルの前に、突如、人間の手の指が現れ、壁に文字を書き出した。
 王は大いに恐れ、「この文字を解き明かす者は、この国の第三の権力を持たせよう。」と言ったが、バビロンの智者には、誰も読めなかった。しかしダニエルは、その文字を解き明かす。その文字は『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』、意味は、「神はあなたの治世を数えて終わらせた。あなたは量られ足りない事がわかった。あなたの国は分割され、メディヤとペルシヤとに与えられる。」である。それでダニエルは第三の権力が与えられたが、その直後、クロスの軍隊がバビロン内に侵入し、ベルシャツァル王は殺された。。。
 預言者エレミヤは、その60年前に預言していた。『バビロンの勇士達は戦いをやめて、砦の中に座り込み、彼らの力も干からびて、女のようになる。その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。』(エレミヤ51:30)
 クロスは、このバビロンという強大な城塞都市を、あまりにたやすく制圧できて、町々も財宝も、人々も、その繁栄も、一切戦争で破壊される事なく、きれいな状態で、そのまま自分のものとなった事に驚いただろう。
 そして、ダニエルから聞かされたであろう、イザヤやエレミヤの預言を聞いて、もっと驚愕しただろう。なにしろ、200年も前に、クロスという自分の名が名指しされ、バビロンを攻め落とすために取った戦法も、その時のバビロンの様子も、そのまま預言されていたのだから。そこでクロスは、翌年、BC538年に勅令を出す。
 天の神、主は、地のすべての王国を自分に賜わり、エルサレムに、ご自分のために宮を建てる事を私に委ねられた。それ故、主の民はエルサレムに戻って、主の宮を再建するようにせよ、と。(エズラ1:2-3)
 
 私達は知るべきだ。私達の神は全能で、時間(タイム)と空間(スペース)を完璧に配剤されるお方である。
クロス王は、労せずに栄光や富が与えられたが、その理由は、破壊された礼拝を、再建するためだった。
どんなに悪が増大し、主を冒涜する者達が権力を得ても、主は、その日数を数えておられる。そして、主の御旨を成し、御国を来たらせようと意欲のある人を用い、富も、栄光も、町々も、そっくりそのまま渡し、礼拝再建のために用いるようにされる。だからもし、主が、物事をうまく行かせ、富や権威、栄光が与えられたなら、それは欲しいままに用いるのではなく、主の御旨を成すために用いるべきだ。主はそういう人に、ますます、仕込んでおかれた布石を発動されるからだ。この時代、破壊された礼拝を復興し、散らされた神の民を集め、御言葉教育を再建する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 
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