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 講解説教 ミカ書

偽りのものさしで計り続けると、呪いが離れない(ミカ6章)

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主は再び、イスラエルに訴える。
 
6:1 あなたがたは/主の言われることを聞き、立ちあがって、もろもろの山の前に訴えをのべ、もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。
6:2 もろもろの山よ、地の変ることなき基よ、主の言い争いを聞け。主はその民と言い争い、イスラエルと論争されるからである。
 
主は山々や丘々を証人に立てて、主に逆らい続けたイスラエルを訴え、討論されるが、ここでは特に「聞け」、と繰り返されている。
5:15では、「聞き従わなかった」国々への厳しいさばきが宣言された。
 
主が私達に一番求めておられる事は、「聞き従う」事である。
もし私達の頭の中が、自分のしたい事でいっぱいであるなら、相手が話している間、自分のしたい、あれやこれやを考えて、聞くことができない。
私達は、主の御前において、それら、自分の考えや自分のことばを捨て、ただ、主が仰せられることばに、耳を傾けるべきである。
 
6:3 「わが民よ、わたしはあなたに何をなしたか、何によってあなたを疲れさせたか、わたしに答えよ。
 
主はなお、「わが民」と呼びかけられた。
主は、神の民がいかに裏切ったとしても、何度でも立ち返るように呼びかけられる。
 
「わが民」と呼ばれる彼らは、なにゆえに主を軽んじ、罪を犯し、他の神々へと向かうのか。
一体彼らは、彼らの神である主の、何が気に入らないので、主を捨てたのか。
主はそれを訴求し、主がイスラエルに為されてきた恵みのわざの数々を思い起こさせる。
 
6:4 わたしはエジプトの国からあなたを導きのぼり、奴隷の家からあなたをあがない出し、モーセ、アロンおよびミリアムをつかわして、あなたに先だたせた。
 
主が真っ先に彼らに思い起こさせたのは、主は、彼らを奴隷の家から救い出された、という事だった。
十戒が与えられた際でも、主は、それを一番最初に宣言された。
 
出エジプト記20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
 
それ程、主のあがないのわざは、重要であり、それは、私達にも、同じである。
私達も、奴隷状態だった。
世の、サタンの、罪の。
私達の主イエス様は、私達を、それらの奴隷状態から救い出し、買い戻して下さった。
あの十字架の上で。
 
主は、主から離れる全ての民に、訴求される。
一体、わたしの何が気に食わないので、わたしから離れていくのか、と。
思い起こしなさい、主はあなたを、サタンの奴隷状態から、罪という監獄から、救い出され、買い戻されたではないか、と。
 
6:5 わが民よ、モアブの王バラクがたくらんだ事、ベオルの子バラムが彼に答えた事、シッテムからギルガルに至るまでに/起った事どもを思い起せ。そうすれば、あなたは主の正義のみわざを/知るであろう」。
 
モアブの王バラクは、イスラエルを呪おうと、べオルの子バラムを金で雇った。
しかし主は、逆に、ベオルの子バラムを通して、イスラエルの民を祝福させた。
 
また、ここで言われているシティムはヨルダン川の東側、ギルガルは西側である。
その「シティムからギルガル」の出来事は、ヨシュア記3−4章に記されている。
すなわち、水を湛えたヨルダン川が、祭司のかつぐ契約の箱を前にそそり立ち、そのかわいた地をイスラエルの民が渡った出来事を思い起こさせている。
「それは主の正しいみわざを知るためであった。」とある通りである。
 
主は、罪の奴隷状態にある人を解放し、死の淵から買い戻され、祝福の地、約束の地へと導かれた。
主は、訴える者の呪いを、祝福へと変え、約束の地へと渡るために、川を枯らされた。
 
主はことごとく、正しいみわざを行われた。
にもかかわらず、民は主を裏切り、軽んじ、離れて行った事を、はっきりされた。
 
6:6 「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。
6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
 
人は、いわゆる神と呼ばれるものに気に入られるために、いけにえや犠牲を捧げれば良い、と思っている。
実際、異教の神々の祭壇に、人間が捧げられた事も多々あった。
しかし、まことの神、主が求めておられるのは、そのような犠牲ではない。
主が求めておられる事を、主は、8節で明かされた。
 
6:8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
 
主が求めておられるのは、以下の3つである。すなわち、
1,公義(ミシュパット)を行ない、
2,いつくしみ(ヘセド)を愛し、
3,へりくだって、あなたの神とともに歩む(ハーラフ)こと
 
公義(ミシュパット)とは、司法的に宣告された判決や正式な命令で、特に、神様の命令、御言葉をあらわす。
いつくしみ(ヘセド)とは、よく「恵み」と訳される語で、優しさや愛、人の神様に対する敬虔さであり、イスラエルの富裕層がしていた悪事、すなわち、人から搾取したり不当に取り立てる事とは、真逆である。
そして、神と共に「歩む(ハーラフ)」事。それは、全き者の、義人の条件である。
『アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み(ハーラフ)」、全き者であれ。』(創世記17:1)
だから全き者とは、罪を犯さない完全無欠な者ではなく、全きお方・神と共に歩む者なのだ。
 
6:9 主の声が町にむかって呼ばわる――全き知恵はあなたの(主の)名を恐れることである――「部族および町の会衆よ、聞け。
 
主は叫んで言われる。
主の御名を恐れることが、すぐれた知性だ、と。
十戒でも、主の御名を、みだりに唱えてはならない、と示されている通り、主の御名に対しての、恐れ敬いを持つべきなのだ。
 
6:10 わたしは悪人の家にある不義の財宝、のろうべき不正な枡を忘れ得ようか。
6:11 不正なはかりを用い、偽りのおもしを入れた袋を用いる人を/わたしは罪なしとするだろうか。
 
偽りのはかり、ごまかしをする枡が、家の中にあるままであるなら、主は「罪なし」とする事は、できない、と言われる。
どんなに、何時間、悔い改めの祈りをしても。
 
人生を渡り歩く上で、「のろわれた枡目不足の枡」を、物事の基準としたままでは、呪いは、離れることはない。
人の「正しいと思うこと」は、気分いかんで幾らでも変わる。しかし、主の言葉は、たとえ天地が滅んでも、変わる事はない。
だから、正しいものさしである御言葉によって物事をはかり、御言葉に従って歩まない内は、呪いがつきまとう事になる。
 
6:12 あなたのうちの富める人は暴虐で満ち、あなたの住民は偽りを言い、その舌は口で欺くことをなす。
6:13 それゆえ、わたしはあなたを撃ち、あなたをその罪のために滅ぼすことを始めた。
 
彼らは何によって富んだか。
主は指摘される。それは暴虐によってであり、住民は、うそ偽りによって歩んでいる、と。
 
好んで偽る者は、天の都には入れない。外に追い出されてしまう
『犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。』(黙示録22:15)
 
好んで偽る者は、天において呪われるばかりでなく、地上においても、呪われてしまう。
どのような呪いが来るのかが、14節以降に記されている。
 
6:14 あなたは食べても、飽くことがなく、あなたの腹はいつもひもじい。あなたは移しても、救うことができない。あなたが救う者を、わたしはつるぎにわたす。
6:15 あなたは種をまいても、刈ることがなく、オリブの実を踏んでも、その身に油を塗ることがなく、ぶどうを踏んでも、その酒を飲むことがない。
 
不正によって財を為した者は、どんなに豪勢な暮らしをしても、満ち足りる事は無い。
やがては、その、不当に得た富で成り立たせている豪勢な暮らしが、そのものが、本人自身を蝕む「しみ」となる。
 
ヤコブ5:1 富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
5:2 あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、
5:3 金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。
5:4 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。
 
彼らは、財産をどんなにうまく隠蔽しても暴かれる。
また、どんなに逃げたとしても、主がその者を「剣に渡す」と、言われている。
 
その者は、たとえ畑をつくって、耕して、植えて、収穫したとしても、それらは全部奪われてしまい、苦労の実は、全て他人のものとなる。
伝道者の書2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 
6:16 あなたはオムリの定めを守り、アハブの家のすべてのわざをおこない、彼らの計りごとに従って歩んだ。これはわたしがあなたを荒し、その住民を笑い物とするためである。あなたがたは民のはずかしめを負わねばならぬ」。
 
オムリ王と、その子アハブ王は、イスラエルにとって霊的に最悪の時代をもたらした。
彼らは不正な手段によって財を成して、象牙の家まで建てて、豪勢な暮らしをしたが、彼らの終わりは悲惨なものであった。
 
以上のように、6章は、手厳しい訴がなされて来たが、預言者ミカ自身、自分の民を好き好んで訴えているわけではない。
彼自身も、痛いのである。
次章でミカは、主の真実といつくしみの完成を願う祈りをする。

詩篇 講解説教

離れた者よ、帰れ(詩篇80篇)

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詩篇80篇表題『聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせてうたわせたアサフのあかしの歌』
 
この詩篇の状況は、以下の状況が考えられる。
・バビロン捕囚の時
・北イスラエル王国がアッシリヤによって捕囚とされ、南ユダ王国が兄弟王国の回復と再統一を祈って歌われた
 
なぜなら、3、7、19節に、「私たちをもとに返し」という言葉が繰り返されているからだ。
そしてこの祈りは、神様から離れた人が、神様との交わりの回復を求める祈りでもあり、私達の祈りでもある。
 
なお、表題の「あかし」は、新共同訳では「定め」と訳されており、すなわち「教えのために作られた」ものである。
 
80:1 イスラエルの牧者よ、羊の群れのようにヨセフを導かれる者よ、耳を傾けてください。ケルビムの上に座せられる者よ、光を放ってください。
80:2 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に/あなたの力を振り起し、来て、われらをお救いください。
 
エフライム、ベニヤミン、マナセは、ラケルの子孫で、北王国を代表する。
彼らは、契約の箱の西側に宿営していた。(民数記2:17-22) 
かつては荒野において、主の契約と主の御言葉の近くで養われていた彼らだった。
そこへと戻してください、という祈りが、この詩篇である。
 
80:3 神よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
 
この内容が、7、19節にも繰り返されているが、それは、民数記6:25の祝祷に通じる。
『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』
 
ここの「恵み(ハーナン)」は、憐れむ、情けをかけるという意味であるが、具体的な行動を伴った、同情である。
 
これは、新約ギリシヤ語の「スプランギニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」に相当し、イエス様が、人の有様、飼い主のいない羊のように弱り果て倒れているあり様を見た時に感じた、深い憐れみ、同情である。
それでイエス様は、憐れみの働きを、その公生涯において実行された。
 
主が、御顔をあなたに照らし、恵まれますように。
その祝福の祈りは、主の慈愛に満ちた表情を、光のようにあなたに照らして下さるように、という祈りなのだ。
 
80:4 万軍の神、主よ、いつまで、その民の祈にむかって/お怒りになるのですか。
 
祈りは、ヘブライ語でテフィラーで、本来、ユダヤ人の祈りは、御言葉にそのまま自分の感情や願いを乗せる祈りだった。
しかし、それがいつしか、御言葉から離れた自分勝手な祈りになってしまった。
 
主の御言葉から離れ、主の御心から離れて、じぶんの良かれで生きた時代が、士師記の時代である。
それはそれは、荒んだ時代だった。
だから、主の御言葉から離れてはならないのだ。
 
80:5 あなたは涙のパンを彼らに食わせ、多くの涙を彼らに飲ませられました。
80:6 あなたはわれらを隣り人のあざけりとし、われらの敵はたがいにあざわらいました。
80:7 万軍の神よ、われらをもとに返し、われらの救われるため、み顔の光を照してください。
 
彼らは、御言葉から離れた故に、敵にあざけられ、良いようにされてしまった。
 
それで、続く8−13節で、過去の、神様の特別な扱いを思い返し、また、彼らの今の苦境を訴えている。
 
ここで特徴的な事は、自分たちを「ぶどうの木」と呼んでいる事だ。
私達にとっては、イエス様こそ、まことのぶどうの木であるが(ヨハネ15章)イエス様から離れるなら、切り離されて火の中をくぐる経験をしてしまう。
 
80:8 あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。
80:9 あなたはこれがために地を開かれたので、深く根ざして、国にはびこりました。
80:10 山々はその影でおおわれ、神の香柏はその枝でおおわれました。
80:11 これはその枝を海にまでのべ、その若枝を大川にまでのべました。
 
彼らが栄えた時代とは、彼らが主の言葉を忠実に守った時代だった。
ダビデの時代、ソロモンの時代の前半が、そうだった。
御言葉を守らなかった時代は、荒野の40年の時代、士師記、ソロモン以降の時代であり、守らなかった結果、敵に、いいようにされてしまう。
列王記・歴代誌は、御言葉を守り行った王の祝福された時代と、御言葉から離れた王の呪われた時代の歴史が記されている。
 
敵に、サタンに、いいようにされてしまう訳は、主の囲いの中で安住していれば良いものを、変な色気を出して、主の保護の外へポーンと飛び出して行くからである。
その結果が、12−13節に記されている。
 
80:12 あなたは何ゆえ、そのかきをくずして/道ゆくすべての人にその実を/摘み取らせられるのですか。
80:13 林のいのししはこれを荒し、野のすべての獣はこれを食べます。
 
石垣(ガーダル)は、包囲、壁、フェンスの意味である。
主は、その外に出て行ってしまった人を戻すため、敢えて、その人からガードを取り除かれる。
 
主こそまことに羊飼い、羊の門であり、主の御言葉の群れから離れるなら、いのししに、良いように、よってたかって食い物にされる。
イエス様の、囲いの内側にいるなら、安全である。だから、御言葉から離れてはならない。
 
80:14 万軍の神よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください。
 
ぶどうの木は、私達・神の民を象徴する。
イザヤ5章では、甘いぶどうを植えたはずなのに、酸っぱいぶどうがなってしまった。
 
主にとどまらない、御言葉から離れる、とするなら、主の喜ばれる甘いぶどうの実は結ばせず、ただ、酸っぱいぶどうしか結ばせない。
それなら、切り離され、投げ捨てられ、いのししに、よってたかって食い物にされてしまう。
 
しかし、それは、立ち返るためには、良い体験となる。
放蕩息子のように、ヨナの魚の腹での3日間のように。
 
80:15 あなたの右の手の植えられた幹と、みずからのために強くされた枝とを/かえりみてください。
 
枝は、ヘブライ語ではベン、すなわち、息子である。
新共同訳では、そのように訳している。
自分は子である、という事を思い返すべきであり、同時に、主に思い返していただく祈りを捧げるのだ。
 
放蕩息子は、父なるお方の外に出て、さんざんな目にあった末、その保護の下に戻ってきた。(ルカ15章)
 
80:16 彼らは火をもってこれを焼き、これを切り倒しました。彼らをみ顔のとがめによって滅ぼしてください。
80:17 しかしあなたの手をその右の手の人の上におき、みずからのために強くされた人の子の上に/おいてください。
 
右は、力をあらわす。
かつて、主の力の御手の内に覆われて、強くされた神の民だったのに、神から離れ、御言葉から離れてしまった。
そうすると、主の御手、また主の御顔は、「とがめ」モードになってしまう。
主の御顔は、祝福ではなく、恐ろしい、災いを降り注がせるものとなってしまう。
 
主の御手を、御顔を、「恵み(ハーナン)」モードにするためには、御言葉に戻り、御言葉の交わりに戻る事である。
 
80:18 そうすれば、われらはあなたを/離れ退くことはありません。われらを生かしてください。われらはあなたのみ名を呼びます。
80:19 万軍の神、主よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
 
彼らは、自分が主を裏切っている事がわからなかった。
御言葉を無視し、自分のよかれで生きていた事が、実は、主を裏切っていた、という事が。
 
御言葉を離れた、好き勝手な祈りを、主は、受け入れない。
主の群れから離れ、好き勝手に生きるなら、いのししに囲まれ、食い物にされてしまう事が、この詩篇に書かれてあった。
 
そのようになったら、すぐに主の御言葉へと戻り、主の御心は何であり、何が主に喜ばれ、何が主に忌み嫌われるのか、調べるべきである。
私達は、いつでも、主の保護下から離れず、主の御言葉どおりに歩み、祝福の法則で生きるべきなのだ。
 
ルツ記2:8 ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。
 
主の囲いの中で、御言葉の交わりの中から離れないなら、豊かに守られ、養われ、富む者となるのだ。

主日礼拝

父の日礼拝:父と母と子供の聖書的役割(コロサイ3:18-23)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今日は父の日、普段から一家のために働いておられる父に感謝する日である。父は大抵、母よりは無口であまり話さない傾向はあるが、父がいてこそ家は安定する。今回、聖書的な家族の役割を見ていきたい。
 
 『妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしい事である…子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれる事である。』(コロサイ3:18,20) 妻の、夫に対する責任は「仕える」、原意は「相手の権威に服する」事で、子の、両親に対する責任は「従う」、原意は、「聞いて、従う」事である。
 夫や主人を意味するヘブライ語「アードーン」は、「主」「所有者」「支配者」の意味だ。 父が家の主ではあるが、圧政的・支配的であってはならず、愛を根底するべきだ、と命じられている。『夫たる者よ、妻を「愛(アガパオー:無償の捧げ尽くす愛)」しなさい。辛く当たってはいけない…。父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心が「いじける(アスメイオー:やる気・意欲を削ぐ)」かも知れないから。』(19,21節)
 
 このように、父、また夫には、重要な責任が与えられている。家族を支え、正しく導く義務があり、また、
一家を祝福する祭司の役割が与えられている。アブラハムやダビデ、ヨブは、家族の幸せと祝福のために祈り、また、罪の赦しのために、いけにえを捧げた。パウロもまた、多くの教会・多くの兄弟姉妹たちの、
霊的な父として、主にあって産んできた霊的な子達を日夜気遣い、何日も徹夜しつつ祈ってきた。
 第2コリント11章を見ると、パウロの「父」としての苦労が、並大抵のものではなかった事が分かる。
彼はコリントの聖徒達を、キリストへと嫁がせる花嫁として主に捧げ、婚期を迎える娘の父親のような心境で、彼らの霊的清純が汚されはしまいか、と、気にかけていた(同2-3節)。それなのに、コリントの聖徒達は、
偽教師の、言葉巧みな言葉にそそのかされ、霊の父であるパウロを軽んじたり、ばかにしたりして来た。
パウロは言う。たとえ、話は巧みでないにせよ、自分は全ての点で、色々な場合に、誠実を示してきた、と。
偽教師は、外見も言葉も立派な先生に見え、それにひきかえ謙遜なパウロは弱々しく見られ、それで惑わされてしまったコリントの聖徒の目を覚ますために、パウロも敢えて「愚か」になって誇らざるを得なかった。
 パウロは何を誇ったか。彼は、最高の先生から師事を受け、最高の学校を卒業し、多くの国々に宣教し、多くの病や悪霊を追い出し、多くのいのちを救ったのに、彼は、そうした実績は、おくびにも出さなかった。
 むしろ彼が誇ったのは、彼自身が受けてきた数々の困難や迫害、そして、主にあって産んできた霊的な息子・娘達を、日夜、気遣い、何日も徹夜しつつ祈ってきた事だった(22-28節)。私達も誇るべきは、何かの実績ではなく、主にあって働く事と、養わなくてはならない人々のために日夜祈りつつ養う事である。
 父は、人知れず苦労して来た事を、滅多に家族に漏らさない。そのために誤解される事も多いが、たとえ家族に疎んじられたとしても、よほどでない限り、家族のために相変わらず働いて、養う。それは、父は本能的に、家長として、責務を全うしなければならない、という、神様が植えて下さった使命感があるからだ。
 しかし、養っている家族から、心をへし折られない訳ではない。父親にとって一番痛い事は、養っている家族が、他の者にそそのかされ、別の者を父、あるいは主人としてしまう事である(同28-29節)。
父なる神様が最も悲しまれるのが、それである。人が悪魔にそそのかされ、神なしで生きようとしたり、別の者を神としてしまうなら、神様はひどく悲しみ、ねたみ、真の父・真の神はどなたであるのか思い知らされる。
 
 父親は、仕事や使命を為すゆえに、あまり家におらず、交わる時間があまりないかもしれないが、家族を養わなくてはならないと誰より思うからこそ、仕事をするものである。男性と女性は、愛情表現の仕方が違う。
 女性は、子育てをするため、一緒にいる事や、いっぱい話す事、感情や体験を共有する事に、価値を見出すが、男性は、働いて、責務を全うし、家族に必要なものを手に入れ、持ち帰る事によって、家族を愛している証とする傾向がある。その食い違いから、誤解が生じる事も多々あるが、二人が一体となって、共に、主が与えて下さった役割をこなしつつ、家庭を築き上げ、産んで増えて地に満ちて行く事が、御心である。
 しあわせな家庭は、各々が、神様から定められた役割を正しく果たす家庭である。妻は、主にある者にふさわしく夫に従い、夫は、妻につらく当たる事をせず、むしろ主が私達を愛されたごとくに、妻を愛する。
 子供たちは、全ての事において両親に従う。そのように正しく歩む事によって、それぞれ主キリストに仕え、報いとして、御国を相続させていただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

主の息(聖霊)が来る時、枯れた骨は生き返る(エゼキエル37:1-14)

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週報/メッセージ(説教)概要

 本日、聖霊降臨祭(ペンテコステ)は、イエス様の弟子達が聖霊を受け、大胆で力強い働き人になった事を覚える日である。それまで弱かった弟子達も、聖霊を受けて以降、力強く変わった。本日、聖霊の力はどれ程偉大で、日本の福音化のためにいかに必要であるのか、エゼキエル書37章から、その極意を得たい。
 
 エゼキエルの時代は、バビロン捕囚下の時代で、かつてソロモン王が建てた豪華絢爛な神殿も、ダビデ王が建てた堅牢なエルサレム城壁も、バビロンによって破壊し尽くされ、荒れ果てた状態の時代である。
 その破壊された理由は、神の民たる聖徒が、御言葉と礼拝をおろそかにし、世の諸々に奔走し、主がしてはならないと言われていた悪い事をし続け、警告を受け続けて来たにもかかわらず、改めなかった故だ。
それで彼らは、敵にやぶれ果て、打ちのめされ尽くされた様が、この、ひどく干からびた骨々の有様である。
 この有様は、今の私達にも当てはまるかもしれない。若かりし頃の夢に破れ、もはや復帰する望みが無いまま何年も経ち、ただ枯れるに任せるしかないような状態に。あるいは、神様から離れ、好き放題にした結果、身から出た錆によって徹底的に打ちのめされ、もはや復帰の望みが絶たれてしまったような。
 この日本も、霊的には、エゼキエル37章のような、干からびた骨々のような状況である。かつて日本は、多くの人が福音を受け入れ、いのちにみなぎっていた。1549 年、フランシスコ・ザビエルによって、初めて福音がこの地に入った時、信者の数はどんどん増えて行ったが、時の指導者達が、主にある私達の兄弟姉妹を迫害し、多くの殉教の血が流され、その人達の骨々で埋め尽くされているような状況である。
 主は問われる。『「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。』(3節)
 エゼキエルは答えた。神、主よ。あなたがご存じです。と。アーメン。枯れた骨々が生き返るかどうかは、主にかかっている! この国で、干からびた骨となってしまった信仰が、よみがえって、主の大勇士軍団となる事も。また、干からびた骨となってしまったような人生が、生きかえって、力強い働き人となる事も。
それは、権力によらず、能力によらず、主の霊によって!(ゼカリヤ4:6) 聖霊によって、可能である。
 
 主はエゼキエルに、骨に対して主の言葉を語れ、と言われた。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、と。(4節)
彼が、主から命じられた通りに、御言葉を宣言すると、大きな音、大きなとどろきが起こり、骨と骨が互いにつながった。『私が見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。』(8節) 私達も、信じた御言葉をそのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。
たとえ、干からびた骨のような相手、状況、あるいは、干からびた骨のような、自分自身にも。
 しかし、その中に「息(霊)」は無かった、と書いてある。主は確かに、干からびた骨のような人、モノ、状況を、人並みの状態へと戻して下さる事はおできになるし、そのようにされたキリスト者は、大勢いる。 しかし、神の息、すなわち、聖霊が無い状態では、マネキンのように、力の無い、死んだも同然の状態なのだ。
 
 『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息(ルアッハ:霊)に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。』(9 節)
 その通りに彼が「息(霊)」に預言すると、霊が彼らの中に入り、自分の足で立ち上がった。それは、非常に多くの「集団(ハイル:軍団、勇士、厳粛な者、富んだ者)」となった(10節)。 このハイルは、有力者ボアズに、厳粛な女ルツに、勇士ギデオンに、ダビデに与えられた称号である。弱い、臆病な者は強くされ、貧しく何も無かった者は富んだ者とされ、異邦生まれの者が、栄光の王族の家系へと組み入れられた。
 私達も、主の息、すなわち、聖霊が与えられるなら、枯れた骨のような者が生かされ、ハイルとされるのだ。
  神の息、聖霊を求めるべきである。ペテロや他の弟子達は、聖霊降臨以前は、大した実を結ぶ事のできない、烏合の集団だった。しかし聖霊降臨以降、彼らは死をも恐れない、力強い神の軍団となり、全世界に出て行き、ローマ帝国を席巻し、ヨーロッパ、アジア、地の果てにまで、福音を広めて行った。
 自分は干からびた骨のようだ、と思っている人は、自分自身に御言葉を宣言すべきである。生き返れ、と 。
そして、「息」に預言すべきである。「息、四方から吹いて来い、この者に吹きつけて、生き返らせよ」と。
神の息吹のダイナマイトパワーに満たされて、干からびた骨から、神の軍団へと創り変えるられ、大胆にキリストを証して行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
 

主日礼拝

偉大な母の性質(詩篇34:12-15)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先月4月17日、米国で一人の女性が天に召され、多くの人が悲しんだ。彼女の名はヘスター・フォード、115歳だった。なぜ彼女の死が多くの人に感銘を与えたのか。それは彼女は、「偉大な母」だったからだ。
 母の日である今日、偉大な母と言われた彼女から、偉大な人生・高貴な人生のコツを得ていきたい。
 
 彼女の子供は12人、孫は68人、ひ孫は125人、玄孫は120人、計325人もの子孫と、同時代を生きた。
(なお、子孫の数があまりに多く、年齢の記録も古い為、情報元によって数字や年齢に若干の違いがある)
 彼女は1905年8月15日、アメリカ・サウスカロライナ州ランカスターで生まれ、ジョン・フォードという男性と15歳で結婚し、12人の子を産んだ。彼女は農場で働いて後、48歳からは乳母として20年以上働いた。
 1963年、彼女の夫が57歳で天に召されて後も乳母として働きつつ、教会での礼拝と奉仕を生涯捧げた。
 真に偉大な人とは、生涯、信仰生活を守り、その信仰をしっかり子々孫々へと継承し、空の星々のような、素晴らしい信仰の子々孫々を残す人である。有象無象をたくさん増やしても、何もならない。私達の使命は、信仰者である神の子達を、産んで、増えて、地に満たす事であり、全被造物もそれを待ち望んでいる。
 
 彼女は高齢になると認知症を患ったが、幾つかの聖書箇所は完璧に覚えており、112歳の誕生日には、詩篇23篇を暗唱してみせたのだ。御言葉暗唱こそ祝福と長寿の秘訣であり、生涯現役の秘訣である。ユダヤ人は健康・長寿で有名で、色々な研究が為されているが、結局、それはテフィリン(御言葉暗唱)をしている故だ。彼女は、長寿の秘訣について聞かれると、「わからない」と言っていたが、聖書に書いてある。
主は、主を愛する人を助け、御名を知る人を守られる。その人が、主の御名を呼ぶ時、主は答え、その人の悩みの時、彼と共におられ、彼を救い、彼に栄光を与え、長寿で満ち足らせる、と。(詩篇91:14-16)
 
 彼女の「人となり」は、どうだったか。彼女のひ孫であるパターソン=パウ氏は、彼女についてこう語った。
「彼女は発明家で、革新者で、地域社会や家庭内では独自の流行を生み出す先駆者だったため、1つの枠に収まる事は無かった。」「彼女は逆境に面しても揺るがず、動じない人だった。」「彼女は決して不平を言わず、敗北を示さず、同情を誘う事も無かった」と。 まさに彼女は、素晴らしいアイデアを実践する力で満ちた人で、地に住み誠実を養った人、口を制して否定的な言葉を言わせず、主にある勝利者の立場を、言葉において貫き、宣言し、実現し続けた人だった、とわかる。私達が日毎、宣言している通りである。
 彼女は、いつでも子孫に言っていたと言う。「あなたは誰かを祝福するために、ここにいるのですよ」と。
彼女は分かっていたのだろう。アブラハムの子孫である私達・信仰者は、呪いに満ちている世に、祝福をもたらすために生かされており、私達が祝福するなら、その祝福は巡り巡って、自分へと帰ってくるのだ、と。
『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。』(箴言18:20)
 だから、私達も日々、祝福を宣言し、その実を実体として得ていくべきだ。
 
 彼女は、自身の沢山の子達を育てた、のみならず、他人の子も乳母として育てた。神はいのちの神、また愛の神である。それ故、いのちを愛し、大切に育み育てる人を、神は大切にされる。偉大な人とは、いのちを大切に守り、増やし、育む人だが、いのちを軽んじ、傷つけ、殺す人は、神と人から忌み嫌われる。
 『幸いを見ようとして、いのちを慕い、ながらえる事を好む人は誰か。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたの唇をおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善を行い、やわらぎを求めて、これを努めよ。主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。』(詩篇34:12-15) 
 主にあって両親を敬い、従う人は、幸せになって地上で長生きする、と約束されている(エペソ6:1-3)。
 幸せで、祝福され、信仰の家庭を建てあげて行くためには、親は、御言葉教育を行う責任があり、子供は両親に従う、という、双方向の責任をそれぞれ全うする必要がある。それが合致した家庭は幸いである!
今日は母の日、母が日頃負っている労をねぎらい、感謝する日であるが、親に感謝する人は幸いなのだ。
 信仰を受けたなら、それをしっかり保持し、子へと、孫へと受け継がせ、地上において幸せで、長生きし、偉大な信仰者の列へと加えられていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

きよさと敬虔さによって時代を支配した信仰の先人たち(1テモテ4:8)

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週報/メッセージ(説教)概要

 私達が日々宣言するようになった「成功のための宣言文」で、最も大事なキーワードは、「イエス様にあって」である。イエスのヘブライ語「イエシュア」は、「彼は救い」という意味だ。そう、「神こそ救い」、それが聖書全体を一言で表した言葉である。皆さんは、救われたいだろうか?病気、お金、生活、人間関係、塞がれているように見える未来、などなど。目の前に立ちはだかる問題の数々から「救われたい」、と私達は願う。
 イエス様は私達を愛し、私達を罪と死の呪いから救うために、身代わりに十字架にかかって下さった。
聖書は言っている。「イエスこそ私の主である」と告白し、神がイエスを死人の中からよみがえらせたと信じるなら、救われる、信じる人は失望に終る事がない!と。主の御名を呼び求める者は、全て救われるのだ。
 主イエス様の御名を呼び求めるなら、あらゆる問題から救われる故、「イエス様にあって」が大事なのだ。
 
 この宣言文には、4人の聖書中の人物が登場する。ダビデとヨセフは男性、アビガイルとエステルは女性である。彼らに共通している事は、神様に対して敬虔である事、また、自分自身をきよく保っている事だ。
そのようにした彼らは、神様に愛され、保護され、チャンスや良い出会いに巡り合わされ、未来が拓かれ、この世において抜きん出た者となって行った。敬虔である事と、きよさを保つ事、これが祝福の源である。
 「敬虔(ユセベイア)」とは「恐れ敬う事」、日本語で親孝行の「孝」に相当する語である。肉体の鍛錬は少しは有益であるが、敬虔は、今のいのちと未来のいのちが約束されている故、全てに対して有益である。(1テモテ4:8) 敬虔であればあるほど、すなわち、神様を恐れ敬う度合いが高く、真の父である神様に”孝行”する心が強ければ強いほど、神様に愛され、あらゆる面で守られ、最善の導きで、導かれるのだ。
 
 ヨセフは、敬虔さときよさを保つ事において、当時の世界ではダントツだった。彼は、兄が悪事を行う時、それに加担せず、むしろそれを父に報告した。また、彼がポテファルの妻から毎日、性的な誘惑を仕掛けられた時、「どうしてそのような大きな悪事をして、神に罪を犯す事ができましょうか」と言って聞き入れず、彼女のそばに寝る事も、彼女と一緒にいる事もしなかった(創世記39:10)。彼は正直すぎた故に、奴隷に売られたり牢に入れられたりしたが、神は彼を引き上げ、総理大臣とし、生涯エジプトの王達の父となった。
 ダビデも若かりし頃、信仰において清さを保っていたため、敵の巨大さや強さには一切ひるまず、信仰によって勝利し、またサウル王に憑いていた悪霊を、彼の賛美によって追い出す事ができた。ダビデを殺そうと付け狙っていたサウル王を殺すチャンスが二度も与えられたが、ダビデは「主が油注がれた王を殺す事など、とんでもない」と、二度とも自分で手を降す事をしなかった。彼はイ、スラエルの誰もが尊敬する偉大な王となったが、彼は祝福されると、性的な罪と殺人を犯してしまった。それを預言者から指摘されると、彼は主を恐れ敬っていた故に、すぐに自分の罪を告白し、赦しと、きよめられる事を求めた。(詩篇51篇)
 アビガイルは、聡明で美しい女だった。ダビデは彼女と2,3の会話をしただけで、「彼女と結婚したい」と惚れさせた程の女性だ。それは、彼女の敬虔さと清さが醸し出す、真の美しさの故だ。彼女は元々、ナバルという、頑迷で、物事を破壊する男の妻だったが、そんなひどい夫でも、彼の事業を日々誠実に運営し、拡大させて行ったため、部下は彼女にアドバイスを求めるようになった。ダビデがサウル王に追われていた時、報われない事ばかり続いて心が荒んでしまっていたダビデを、彼女は彼の信仰を回復させたのだ。
ナバルは頑迷さを変えなかったため、神に打たれて死んだが、ダビデは即座に彼女に結婚を申し込んだ。
 エステルは美しい女性で、数ある美しい女性達の中から特に選ばれて、ペルシア王の王妃となったが、彼女は、数多くいる美女には無い清らかさと、敬虔から来る芯の強さがあった。彼女は夫に対してはいつも慎ましく従順であった。神が彼女を美しくし、王妃としたのは、神の民イスラエルの危機を救うためだった。
 神の民が危機に瀕した時、彼女は命の危険を顧みず王の前に進み出て、思慮深く、凛として対応し、イスラエルを救った。夫である王に対しては良き慰めとなり、神の民の敵に対しては少しもはばからなかった。
 
 私達も、この時代の彼らのようになるために、まず、きよくなる事を求め、そして主をおそれ敬う「敬虔」を身につけるのだ。汚れをもたらす習慣を止め、普段のきよさを保っていくなら、それが大きな力となって行く。
まことの父である神様に親孝行し、神様にますます愛され、この時代のダビデやヨセフ、アビガイルやエステルのようになっていく皆さんと、その子供達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

成功のための宣言文

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執筆 : 
pastor 2021-5-2 1:15

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。アーメン。
 
わたしはわたしに不正や悪を行う者に、腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養ったヨセフの模範にならいます。
なぜなら、悪や不正を行う者を、主が、たちまち、枯らしてくださるからです。
 
わたしの愛するイエス様。
わたしはイエス様にあって計画されている、わたしの将来を信じます。
 
イエス様、今日も、素晴らしい一日が始まりました。
イエス様にあって、わたしは、この素晴らしい一日を期待します。
わたしは、イエス様にある、わたしの可能性を、信じます。
わたしは、イエス様にあって、健康で幸せです。
わたしは、イエス様にあって、全ての素晴らしい事を、学ぶ事が大好きです。
わたしは、イエス様にあって、十分なほど、スマートでシャープな者です。
わたしは、イエス様にあって、素晴らしいアイデアを実践する力で満ちています。
わたしは、イエス様にあって、素晴らしい思考力で、溢れています。
わたしは、イエス様にあって、取り組んだものを完成する力で、満ち満ちています。
わたしは、イエス様にあって、愉快で、創意的な力で、いっぱいです。
わたしは、イエス様にあって、独創的で、特別な存在です。
わたしは、イエス様にあって、これから拓くわたしの未来が、すごく楽しみで、誇らしいです。
わたしの人生は、イエス様にあって、楽しみと喜びで、満ち満ちています。
わたしは、イエス様にあって創られた自分が、誇らしいです。
わたしは、イエス様にあって、いつも安全に保護されており、また、特別に愛されています。
わたしは、イエス様にあって、素晴らしい友との出会いが、約束されている事が、喜びです。
わたしは、イエス様が、日々素晴らしいチャンスに巡り合わせてくださる事を、喜びます。
わたしの夢は、イエス様にあって計画された自分が、完成する事です。
わたしは、イエス様にあって、栄光の子育てができます。
わたしの子供は、この時代のダビデやヨセフ、アビガイルやエステルのように成長する事を信じます。
わたしと出会う人は、みんな、わたしのことを喜びます。
この時代の政治、経済、文化、教育において、わたしが担うべき責任を全うする力を、イエス様が下さるから、感謝します。
 
わたしは、これらの事が実体化される事を信じ、イエス様に宣言しました。
イエス様が保証して実体化して下さるからです。
わたしのこの信仰が、神様を喜ばせている事を、信じます。
イエス様には天と地のすべての権威があり、わたしの祈りに必要なすべてのものがイエス様の御手の内にあるからです。
この祈りを、イエス様の天と地で満たして下さる事を、わたしは信じます。
 
わたしの名によって祈れ、天の御父が報いて下さる、わたしが実行する、と、約束して下さった、天と地において、誰も逆らうことの出来ない、主・イエス様のお名前によって、祈りました。
アーメン!

主日礼拝

限りない栄光の将来を勝ち取るために(ハバクク2:1-4)

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週報/メッセージ(説教)概要

 新学期が始まってから、私達は、イエス様にあって成功するための宣言文を宣言している。今回、その内容をいくつか詳細に見て、成功の確信を得ていきたい。(「祝福の御言葉」はこちら
 
 ? 宣言文は、詩篇37篇から始まる。 悪を行う者に対して腹を立てたり、不正を行う者を妬む事は、時間の無駄な使い方だと知るべきだ。なぜなら、その者に腹を立てたり、妬んだりしている間は、その者に「支配」されている事なのだから。きよい神の民である私達が、そんな者に時間泥棒されるべきではない。
むしろ、そのような者は、「草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」という御言葉を宣言し、宣言した御言葉に任せ、私達のほうはますます、有益で、生産的な事に、身と心と体を投じるべきだ。
 
 ? ヨセフはまさに、そのような者達に心を留めず、むしろ、主にあって見せられた夢だけに目を留め、主が計画された栄光の将来を仰ぎ見ながら、日々、誠実を養った。 彼は、世の人から見れば、正直過ぎるほど正直だったために、奴隷として売られ、牢にも入れられ、多くの時間を無駄に過ごしたかのように見えたが、若干30歳にして、総理大臣にまで登りつめた彼の時間を、一体、誰が「無駄」と言えるだろう?
 主が見せて下さった夢を握りしめ、その通りに生きる道は、世の人から見れば無駄のように見えるかもしれないが、実はそれは、主が用意しておられる「ぶっちぎりのトップ」へと至る、一番最短のルートなのだ。
 神様が彼に与えられた、独創的で特別なタラント、すなわち、主の夢を解き明かす賜物を、彼がフル活用できるようになったのは、彼は、主が見せてくださった夢をずっと握りしめた故だった。彼はその夢の実現に備え、自分を汚す事なく、不正を離れ、日々誠実を養った。彼が送る日々の中で、主が示して下さった夢が、人からひどく評価される事が目に見えていたとしても、彼はそれをそのまま正直に告白した。それで神様は、定められた時、用意しておられたチャンスにめぐり合わせ、彼をエジプトの総理大臣としたのだ。
 彼は、7年間の豊作の時期、穀物が穫れ過ぎて、普通なら収穫制限するような状況でも、神様が示した夢を手放さず、貯蔵庫を造ってなお貯め、計り切れなくなっても貯め続け故に、後に来た凶作の7年の時期、穀物の価格は暴騰し、あっという間に世界一富む国となった。それで彼は、パロの父とさえ呼ばれるようになった(創世記45:8)。 今、私達は、御言葉を貯めている。それは、世の中ではつまらないもののように見えても、しかし現実、御言葉を貯めた故の祝福を得ており、やがてそれが暴騰する時が必ず来るのだ。
 ヨセフは最終的に、父ヤコブや、11人の兄弟すべての面倒を見るようになり、イスラエルという家族を、一つの国家へと育て上げる土台を構築した。私達も、主が示された通りのものを、今、貯めて行くべきである。
いかに今、人数や規模が少なくても、栄光の次世代たちが、御言葉教育を受け、生んで、増えて、地を支配して行くための素晴らしいシステムの枠組みや、すばらしい施設を構築する皆さんでありますように!
 
 ? 新しく始まる一日、最初にすべき事は、まず、寝床を畳む事からである。イエス様が38年も病に臥せていた人に言われた言葉は、「よくなりたいか」、「起きて床を取り上げて歩きなさい」、だった。私達も、良くなりたいなら、まず起きて、床を取り上げ、歩くのだ。古いものをどんどん捨て、新しいものを得ていくのだ。
 2012年、ハンチングドットコムという所が、68000人の男女を対象に、起床後にどんな事をしているのか、また、人生への満足度や、収入との関連性を調べた所、自分でベッドメイキングをする人の、約71%の人が、「自分は幸せ」と答え、それをしない人の内、62%が、「自分は不幸だ」と答えたという。
 寝床という、ぬくぬくと居心地が良い、しかし、何の生産性をもたらさない「本土、親戚、父の家」は、さっさと畳んで、イエス様が用意された素晴らしい一日へと踏み出して行く。それが成功への近道である。
 
 ? 私達はイエス様にあって、無限の可能性を秘めており、イエス様にあって、健康で幸せである権利を、生まれつき持っている。なぜなら私達は神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたから。神様は、私たちが良い行ないに歩むように、と、良い行ないをあらかじめ備えられておられる(エペソ2:10)。だから、正統に受けるべきそれらの権利を、日々、主に求め、宣言し、またそれらを否定する一切の悪魔サタンのささやきを、打ち消して行くべきである!日々、真理を宣言し、主が用意して下さった、限りない栄光の将来を勝ち取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

詩篇 講解説教

主から聞かれる正しい執り成しの祈りとは(詩篇79篇)

詩篇79篇表題『アサフの歌』
 
この詩篇も、74篇と同じくアサフの作で、バビロン捕囚を思わせる災いに遭っている記述がある。
それに対するうめきと、神への訴えと、執り成しの祈りが、この詩篇に記されており、そして、どのような執り成しの祈りが、神に聞いていただける祈りであるかを、学ぶ事が出来る。
 
1-4節は、アサフによる神への訴えがあり、その訴えの内容は、特に、異邦人からそしりを受けている事についてである。
 
詩篇79:1 神よ、もろもろの異邦人はあなたの嗣業の地を侵し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを荒塚としました。
79:2 彼らはあなたのしもべのしかばねを/空の鳥に与えてえさとし、あなたの聖徒の肉を地の獣に与え、
79:3 その血をエルサレムのまわりに水のように流し、これを葬る人がありませんでした。
79:4 われらは隣り人にそしられ、まわりの人々に侮られ、あざけられる者となりました。
 
この祈りの中に「あなたの」というキーワードが頻繁に出てくるが、「あなた」とはすなわち「神」の事であり、「あなた」すなわち「神」を主体とする祈りこそ、有効な祈りである。
 
私達は祈る時、何かと「わたしの」を前面に、また全面に出しやすい。
そのような、自分主体の祈りは、中々聞かれない。
もし神様が、人間一人ひとりの願望をその通り叶えていたら、矛盾した、大変な世の中になってしまう。
 
この世は、ただ、主のご計画、主の御心が成就して行くものであり、私達はそれを手伝い、またそれが成るようにと祈るべきなのだ。
 
実際、イエス様が「このように祈りなさい」と言われた主の祈りは、御名、御国、御心を求める祈りが、最初に来る。
すなわち、「御(あなた=神)」が主体であり、その後に「我らの」必要が満たされるように祈るように、と言われている。
 
5-8節では、憐れみを求める祈りが続く。
 
詩篇79:5 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお怒りになられるのですか。あなたのねたみは火のように燃えるのですか。
 
アサフは「いつまで」と吐露している。
かなり長い間、災いを被っているようだが、何故、そのような災いが起きたのか。
この節にある2つのキーワードから、伺い知る事が出来る。
それはすなわち、神の「怒り」と「ねたみ」だ。
 
「怒り」は、相手が自分の意図通りにしなかった時に起こるものであり、実際、イスラエルは、バビロン捕囚前、神様の意図である御言葉を軽んじ、破り、主が遣わされた預言者達から、度々注意を受けても無視し、侮った。
 
「ねたみ」は、愛している相手が浮気をした時などに起きる感情だ。
そう、イスラエルは、バビロン捕囚前、まことの神を脇に置いて、異教の神々に惹き寄せられ、偶像礼拝をした故、神のねたみを引き起こしたのだ。
 
神から特別愛された者は、神の御心にかなった事を行った事への祝福が格別である。
それと同時に、神を裏切って、妬みを引き起こされた時の災いもまた、格別なのだ。
 
しかしそれに懲りて、悔い改めて、立ち返るなら、神は豊かに赦して下さる。
 
詩篇79:6 どうか、あなたを知らない異邦人と、あなたの名を呼ばない国々の上に/あなたの怒りを注いでください。
79:7 彼らはヤコブを滅ぼし、そのすみかを荒したからです。
79:8 われらの先祖たちの不義をみこころにとめられず、あわれみをもって、すみやかにわれらを/迎えてください。われらは、はなはだしく低くされたからです。
 
災いは、先祖以来、何代かに渡って、続いて来た。
それは、主がモーセの時代にあらかじめ警告しておられた事だった。
 
『あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:5-6)
 
主を憎む者には、呪いが3,4代、主を愛し戒めを守る者には、なんと、恵みが千々代(原文は複数形)及ぶのだ。
ここに、主のすさまじい恵みの足し算と、そして、憐れみの引き算が表されている。
 
9節以降は、アサフによる執り成しの祈り、願いが捧げられているが、その祈りの主体は「あなた」、すなわち、神である。
 
詩篇79:9 われらの救の神よ、み名の栄光のためにわれらを助け、み名のためにわれらを救い、われらの罪をおゆるしください。
 
彼は神を「救いの神」と呼び、「御名」の栄光、「御名」の故の助けと、救いと、赦しを求めている。
それはまさに、主の祈りと同じである。
 
主の御名を主体として祈る執り成しの祈りは、アブラハムがしたし、モーセも、ダニエルもした。
 
『アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか・・・正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」』(創世記18:23-25)
 
『モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、
あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。
それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。』(出エジプト記32:11-14)
 
『主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。
主よ、恥はわれわれのもの、われわれの王たち、君たちおよび先祖たちのものです。これはわれわれがあなたにむかって罪を犯したからです。
あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。
・・・
主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山から、あなたの怒りと憤りとを取り去ってください。これはわれわれの罪と、われわれの先祖の不義のために、エルサレムと、あなたの民が、われわれの周囲の者の物笑いとなったからです。
それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。
わが神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。
主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。』(ダニエル9:7-19)
 
以上、これら、信仰の偉人たちの執り成しは、全て、人間の側の分は一切申し出ず、ただ、主の憐れみを求めた祈りであった。
これこそ、私達が為すべき執り成しである。
 
詩篇79:10 どうして異邦人は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。あなたのしもべらの流された血の報いを/われらのまのあたりになして、異邦人に知らせてください。
 
異邦人も「神」を覚えた。
それほど、神の民に加えられた災いが、大きかったのだ。
彼らは、神の特別扱いに驚いたのだ。
 
神の民が、おのれの罪ゆえに災いに遭うとしても、彼らが遭う災いを通して、神の栄光があがめられる。
私達は、そのような、「災い」という形で、神の栄光をあらわす「ネタ」には、用いられたくないものである。
 
詩篇79:11 捕われ人の嘆きを/あなたのみ前にいたらせ、あなたの大いなる力により、死に定められた者を守りながらえさせてください。
79:12 主よ、われらの隣り人があなたをそしったそしりを/七倍にして彼らのふところに報い返してください。
 
12節の「ふところ」のヘブライ語は「ヘーク」、新改訳では「胸に」」と訳されている。
ふところは、大事な物を入れる所であるが、異邦人が神の民を侮り、神を侮ったならば、絶対に忘れることの出来ないように、神のさばきを、ふところに、胸に刻みつけ、覚えさせて下さい、という祈りであろう。
 
詩篇79:13 そうすれば、あなたの民、あなたの牧の羊は、とこしえにあなたに感謝し、世々あなたをほめたたえるでしょう。
 
終わりの節は「あなたの」が3回用いられている。
 
「あなたをほめたたえる(テヒッラー)」、これこそ、神の民が為すべき使命である。
 
残念ながら、イスラエルは、主のみおしえを軽んじ、破り、他の神々に走った故に、格別の災いを受けて、その災いのすさまじさを見た異邦人が、結果的に、神をほめたたえた。
 
私達は、そのような形で神がほめたたえられる道具として用いられるのは、こりごりである。
むしろ、主のみおしえを守り、行い、祝福されてますます神をほめ称え、その様を見た異邦人が、共々、神をほめたたえるという、一番の理想形の「ほめたたえ(テヒッラー)」が、望ましい。
 
主の御言葉どおりに生きて、大いに祝福され、そうして主の栄光がたたえられる事に大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

床を取り上げて、歩きなさい(ヨハネ5:1-9)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 競争社会と呼ばれるこの世の中を生きていく時、私達クリスチャンは、礼拝したり、祈祷会に参加したりして、その分だけ遅れを取っているかのように見えるかもしれない。世は、私達が礼拝している間に働いたり、訓練したりして、先を進んでしまっているのではないか、と。しかしクリスチャンは、世の人と同じ世界に生きておりながら、別次元の仕組みで生かされており、主が各々に定められた「断トツ」で生きる事ができる。
 世では、富や栄誉、成功を獲得するために、競争する。限られた少数の良いものを勝ち得るために努力し、鍛錬し、強引に奪ったり、騙して得ようとさえする。まさに今回の、ベテスダの状態である。(ヨハネ5:1-9)
 ベテスダの池には時々、御使いが来て水を動かし、一番先に水に入る人には、どんな病気も癒やされた。
そのためそこは水が動くのを待つ人々の競争社会と化すのだが、そこに38年ずっと負け続けた人がいた。
イエス様は、彼を見るに見かね、安息日に彼に会いに来て、彼を癒やし、38年もの呪縛を解いて下さった。
 
 主が彼に言われた言葉はたった2つ、「良くなりたいか?」と、「起きて床を取り上げて歩きなさい」である。
現代、世というベテスダには、通常の病人だけでなく、富における病人、地位における病人、成功における病人が、みんな、虎視眈々とトップを狙っている。しかし私達は、三つの条件を揃えるなら、世の誰も得られない、主から独占的に与えられた特別な地位を、獲得でき、ベテスダの呪縛から開放される事ができる。
 第一の条件は、まず、イエス様に来ていただく事。私達は人生には限りがある。38年も待つべきでない。
ヤコブのように、格闘するかのようにイエス様を求め続け、探し続け、叩き続けて、すぐにでも来て頂くのだ。
 二つ目は、「良くなりたいです」と、願う事だ。どう良くなりたいのか?ビジョンを、まぼろしを書くのだ。
私達は脳内で、「こうなればなあ」と、思い浮かんでも、そのままなら、それはやがて消えてしまい、願っていた内容すら思い出せなくなってしまう。私達は、書いて、掴んで離さず、祈り続けるべきである。
 三つ目は、「床を取り上げて歩く」事だ。どういう床を?「あそこに入れば良くなるのに」「皆に先取りされてしまった」「でも体が言う事を聞かない」「誰も助けてくれない」といった、長年臥せてきたベテスダという床を。
 私達クリスチャンは、世の人とは別次元の仕組みで、すなわち、イエス様にあって生かされている。主は、用意しておられる。あなただけに用意した特別な賜物を、あなただけが獲得できる唯一のトップの地位を。
私達は、がむしゃらに頑張って奪って獲得する者ではなく、イエス様と「すったもんだ」する民である。
 
 ヤコブは、神様から「約束の地に戻りなさい」と言われた時、既に、危険から守られる保証は、与えられていたはずだが、彼には不安があった。まだ兄に恨まれていて、殺されるのではないか、と(創世記32章)。そこで彼は、祈りに集中するために、皆を川向こうに渡らせて、主と一対一で格闘した。彼は、主を掴んで離さなかった。「もう離しなさい」と言われたのに、「祝福して下さらなければ離しません」と食い下がった。
 私達も、彼の姿勢にならうべきである!与えられた夢やビジョンに不安があるなら、もしくは、祝福の実体がはっきり見えないなら、まぼろしを書いて、食らいつくのだ。もし、ビジョンが浮かんでは消え、なんとなく過ごしているだけなら、38年はあっという間に過ぎてしまう。何年もそのままの状態を、主が見るに見かねて、癒しをして頂く、という人生を送りたいだろうか?私達は、ヤコブのように、主を掴む信仰を持つべきだ。
 
 ヤコブは度々、他人を掴む生活に戻っていた。床を取り上げよ、と言われても、中々取りあげなかった。
しかし彼は、もものつがいを打たれて逃げる足をへし折られ、もはや逃げられなくなった。それで彼は、接着剤で強制的に固定されるかのように、祝福の場から絶対に逃げられないように、主はして下さった。 今、主は、平安の主である。私達がヤコブのように求めるなら、主は、足ではなく、恐怖をへし折ってくださる!
 ヤコブは、主にしつこく掴む信仰の故に、主から「イスラエル」という新しい名を頂いて、祝福してもらった。
ヤコブの名は、「かかとを掴む」という意味であるが、イスラエルの名は、「神と粘り強く格闘(すったもんだ)する」である。彼はもはや、他人の足を掴むために、追いかけたり、出し抜いたりする必要は無くなった。
 彼は神様に完全に守られ、全てにダントツとなり、エジプトの王パロをも祝福するイスラエルの父となった。
 私達も、祝福が実体化されるまで、ヤコブのように絶対離さない信仰をもつべきである。ベテスダという床は畳んで、そこから離れ、書き記した夢やまぼろしを絶対手離さず、ヤコブのように主と「すったもんだ」し、夢や幻を完全に答えていただくに至る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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