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土地から吐き出される者と、歓迎される者(エゼキエル36:1-15)
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- pastor 2021-8-18 8:00
講解説教
土地から吐き出される者と、歓迎される者(エゼキエル36:1-15)
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今回の箇所は、イスラエルの人々に対して、ではなく、イスラエルの山々や丘々、谷川や谷、荒れ果てた廃墟、見捨てられた町々に、である。
つまり、あちらこちらに動く人間に対して宣言されたのではなく、不動の土地に対して、である。
イスラエルの土地は、悪い人々によって荒廃してしまった。
その土地にとっては、悲むべき状況であったが、そこに、本来住むべき、神を畏れ敬う民が戻ってきて、再び、イスラエルの土地は礼拝によって回復される事が、示されている。
このような、イスラエルの山々に向けての預言は、6章にもあった。
6章の時点では、まだバビロン捕囚前、災が降る前だったが、そこを見れば、なぜイスラエルの山々が荒廃してしまったのかが、良くわかる。
エゼキエル6:1 主の言葉が、わたしに臨んで言った、
6:2 「人の子よ、あなたの顔をイスラエルの山々に向け、預言して、
6:3 言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は山と丘と、谷と川に向かって、こう言われる、見よ、わたしはつるぎをあなたがたに送り、あなたがたの高き所を滅ぼす。
6:4 あなたがたの祭壇は荒され、あなたがたの香の祭壇はこわされる。わたしはあなたがたの偶像の前に、あなたがたの殺された者を投げ出す。
ここを見ると、イスラエルの山々において、偶像礼拝が行われ、主のねたみを起こしていた事がわかる。
主は度々、預言者を遣わして警告して来たが、民は、止めなかった。
警告を与えても、止めないなら、主は、強制的に、偶像礼拝が出来ないように、破壊しにかかられる。
それは、これに懲りて、二度と偶像礼拝をしないように、ただ、主だけをを礼拝するようにするために、である。
私達も、あまりに、主に忌み嫌われる事を止めないなら、あるいは、隠れてそれを行って誰も注意する人がいないなら、主ご自身が、それができないように、強制的に働きかけられる。
6:5 わたしはイスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、骨をあなたがたの祭壇のまわりに散らす。
6:6 すべてあなたがたの住む所で町々は滅ぼされ、高き所は荒される。こうしてあなたがたの祭壇はこわし荒され、あなたがたの偶像は砕かれて滅び、あなたがたの香の祭壇は倒され、あなたがたのわざは消し去られる。
6:7 また殺された者はあなたがたのうちに倒れる。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。
受けた災いの原因は、特に、偶像礼拝であった事が示されている。
偶像礼拝は、十戒の第二戒にある程、重要な禁止事項であるが、偶像とは、何も、神社仏閣に限ったものではない。
偶像礼拝とは、神ならぬものを、神以上に、神とする事だ。
つまり、お金や誰か人間、特定のイデオロギーなどを、神様以上に優先させているなら、それが、偶像礼拝状態である。
コロサイ3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
神ならぬものを、神以上に頼る時、主のねたみを引き起こす。
神様と私達の関係は、結婚関係と同じである。
それが、以下の節で分かる。
6:8 わたしは、あなたがたのある者を生かしておく。あなたがたが、つるぎをのがれて国々の中におり、国々に散らされる時、
6:9 あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す。これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである。そして彼らはそのもろもろの憎むべきことと、その犯した悪のために、みずからをいとうようになる。
6:10 そして彼らはわたしが主であることを知る。この災を彼らに対して下すと、わたしが言ったのは決してむなしい事ではない」。
主から離れるのは、姦淫の心であり、偶像を慕う目は、姦淫の目である事が、ここで示されている。
結婚とは、自分自身を結婚相手に対し、唯一・排他的な”異性”として、コミットする事である。
つまり、女性であるなら、相手の男性にとって唯一・専属的な「女」となり、男性であるなら、相手の女性にとって、唯一・専属的な「男」となる事である。
それ以外の相手に対し、自分を「男」「女」とするなら、それは、ねたみを引き起こす。
それと同じく、神様との契約関係は、自分自身を神様に対し唯一専属的な「民」とし、そして、神様を自分にとって、唯一専属的な「神」とするものである。
だから、偶像礼拝は、許されないのだ。
バビロン捕囚の前、神様はすぐには災いを下さず、預言者を通して何度も警告し、わたしに戻れ、戻れ、と言った。
しかし彼らは、霊的姦淫を止めなかった。
それでついに、時が満ちて、その災いの預言が実現してしまった。
それで彼らが、捕囚先で悔い改め、主に立ち返った時、幸いの預言が発せられる。
それが、36章である。
36:1 人の子よ、イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ、主の言葉を聞け。
36:2 主なる神はこう言われる、敵はあなたがたについて言う、『ああ、昔の高き所が、われわれのものとなった』と。
日本語には訳されていないが、英語の聖書では、2節の主の言葉は because(ヘブライ語ではヤアン、すなわち、「***なので」)で始まり、それを受けて、3-7節は全部、「それゆえ(ケン)」で始まっている。
つまり、2節を受けての、3-7節なのだが、それだけ、イスラエルをあざけって荒廃させた国々への「ねたみと憤り」(6節)の激しさを、主は示しておられる。
36:3 それゆえ、あなたは預言して言え。主なる神はこう言われる、彼らはあなたがたを荒し、四方からあなたがたを打ち滅ぼしたので、あなたがたは他の国民の所有となり、また民の悪いうわさとなった。
36:4 それゆえ、イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と、丘と、くぼ地と、谷と、滅びた荒れ跡と、人の捨てた町々、すなわちその周囲にある諸国民の残った者にかすめられ、あざけられるようになったものに、こう言われる。
イスラエルは、徹底的な災いを受けて、民の語りぐさとなり、そしりとなった事が、書かれてある。
神の民が、災いのサンプルとして、語り草になる…。
そう、いかに、神の民といえども、神様以外のものを神とし、神のねたみを引き起こさせ、戒められても止めないなら、徹底的に打ちのめされ、語り草となってしまうのだ。
それは、私達にはあってはならない。
36:5 主なる神はこう言われる、わたしはねたみの炎をもって、他の国民とエドム全国とに対して言う、彼らは心ゆくまで喜び、心に誇ってわが地を自分の所有とし、これを奪い、かすめた者である。
36:6 それゆえ、あなたはイスラエルの地の事を預言し、山と、丘と、くぼ地と、谷とに言え。主なる神はこう言われる、見よ、あなたがたは諸国民のはずかしめを受けたので、わたしはねたみと怒りとをもって語る。
36:7 それゆえ、主なる神はこう言われる、わたしは誓って言う、あなたがたの周囲の諸国民は必ずはずかしめを受ける。
ここから、神様の燃えるねたみと憤りは、神の民をあざけり強奪した国々へと移行する。
神様は、確かに、神の民を打った。
しかしそれは、喜んでではなく、悲しみつつであった。
ちょうど、親が、子を懲らしめる時のように。
イスラエルが、神様から打たれているのを見て、調子に乗って、さらにボコボコにするなら、今度は、神のねたみと憤りは、その者達へと向けられる。
そしてイスラエルには、その土地の回復が宣言される。
36:8 しかしイスラエルの山々よ、あなたがたは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。この事の成るのは近い。
36:9 見よ、わたしはあなたがたに臨み、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種をまかれる。
土地は、再び、本来そこに住むべき神の民が、帰って来て、住むようになる。
今までは、異邦の民に、蹂躙されていた。
なぜなら、本来、神様を礼拝すべき民が、礼拝せず、偶像礼拝に耽り、行いが悪かったからだ。
そういう時、土地は、その者を吐き出して、土地は、安息を得る。
36:10 わたしはあなたがたの上に人をふやす。これはことごとくイスラエルの家の者となり、町々には人が住み、荒れ跡は建て直される。
36:11 わたしはあなたがたの上に人と獣とをふやす。彼らはふえて、子を生む。わたしはあなたがたの上に、昔のように人を住ませ、初めの時よりも、まさる恵みをあなたがたに施す。その時あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
土地の繁栄は、豊かな実りは、主の契約に基づく。
偶像は、強制的に打ち捨てられ、もはや偶像礼拝ができなくなり、ただ、主を敬う事、礼拝する事が帰るなら、契約の祝福が来る。
レビ記26章に記されているとおりである。
26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
26:3 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、
26:4 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。
26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。
ここを見て明らかなように、祝福の基本は、2節にある通り、主を敬い、主を礼拝する事だが、それ以前に、真っ先に、偶像を礼拝してはならない事が、1節で示されている。
主の御言葉に聞き従い、それを守り行うなら、主は、豊かな実りを、大地に命じて下さる。
36:12 わたしはわが民イスラエルの人々をあなたがたの上に歩ませる。彼らはあなたがたを所有し、あなたがたはその嗣業となり、あなたがたは重ねて彼らに子のない嘆きをさせない。
36:13 主なる神はこう言われる、彼らはあなたがたに向かって、『あなたは人を食い、あなたの民に子のない嘆きをさせる』と言う。
土地が、人を食らう、と言われてしまうようになったのは、なぜか。
それは偶像礼拝の故であり、契約を破った事の、のろいによる。(レビ26:16,20, 申命記28:38-40)
この状態がなくなる事が、14節以降に示されている。
36:14 あなたはもはや人を食わない。あなたの民に重ねて子のない嘆きをさせることはないと、主なる神は言われる。
36:15 わたしは重ねて諸国民のはずかしめをあなたに聞かせない。あなたは重ねて、もろもろの民のはずかしめを受けることはなく、あなたの民を重ねてつまずかせることはないと、主なる神は言われる」。
土地は、そこに住む人々が神を畏れ敬うなら、土地は喜んで作物を出すが、もし、そこに住む人々が汚れた事を行うなら、やがて土地は、その者達を吐き出して、そうして安息を得る。
被造物は、神の子のあらわれを待ち望んでいる。
もし私達が、イエス様を信じ、御言葉の通りに生きるなら、行く先々の被造物からウエルカムされる者となる。
私達は、神の子としてふさわしく歩み、そうして、あらゆる被造物から歓迎される者となるべきである。
エゼキエル書 講解説教
呪われてしまうエドムの性質を取り除け(エゼキエル35章)
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35:1 次のような主のことばが私にあった。
35:2 「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、
35:3 言え。神である主はこう仰せられる。セイルの山よ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえにわたしは手を伸ばし、おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。
35:4 わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。
エゼキエル書は、33章から、39章まで、イスラエルの回復の預言が続いているが、それに先立って、回復の前に、イスラエルを虐げた者達へのさばきが予告される。
もっとも、イスラエルが虐げられていたのは、いわば、身から出た錆であった。
私達も、主を軽んじて歩んでいたなら、主は敵を起こし、敵を用いて苦しい目にあわせるかもしれない。
しかしそれは、主に立ち返らせるため、祝福を受ける性質へと、戻すためである。
そうして神の民が主に立ち帰る時、その回復とともに、神の民を不当に虐げた敵たちには、さばきが下される。
この章で示されているセイルは、エドム人の事であり、この章ではエドムに対するさばきが預言されている。
エドムは、ヤコブの兄エサウにつけられた別名であり、すなわちエドムは元々、イスラエルの兄弟の国である。
なぜ、神の民の兄弟・エドムがさばかれなくてはならないのか?
まずは、エドムの性質について見たい。
エドムの元々の名、エサウの名の意味は、「赤い」である。
ヤコブすなわちイスラエルと、エサウが、共に父の家に住んでいた頃、エサウは、獲物を追いかける事に夢中になりすぎて、死にそうになるまで、狩りを続けた。
父イサクの家は、別に食料に困っていなかったので、エサウは狩りをする必要は無く、狩りは純粋に、趣味としてやっていたのだ。しかも、寝食を忘れる程に。
自分に害を及ぼさない、殺す必要の無い動物を、わざわざ探し出し、追いかけ、狩る事が、彼にとって、三度の飯よりも好きな事だったのだ。
そうして、疲れ果て、死にそうになって帰って来た時、弟ヤコブは、レンズ豆の煮物を煮ていた。
『エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの(アドム)、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。』(創世記25:30-31)
ヤコブは、普段から長子の権利を奪おうと狙っていたので、このように迫ったのだが、エサウとしては、大した事として思っていなかった。
それで軽く口約束する。
25:32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
25:33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。
25:34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。
以上の事をした事から、エドムの性質は、俗悪である、と言われている。
ヘブル12:16 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
12:17 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。(NKJV: for he found no place for repentance, though he sought it diligently with tears.)
エサウは、後で祝福が奪われた時、滝のように涙を流したかもしれない。
しかし彼の心の中は、「悔い改め」という場所が、これっぽっちも、無かったのである。
悔い改めとは方向転換であり、自分のした事を悔い、止めるべき事を止め、するべき事をする事、のはずである。
その気持が無い、とするなら、いかに滝のように涙を流して「祝福を返してください」、と、何時間かけて願ったとしても、一切が無駄である。
父イサクは、エサウを愛していたので、本当に、エサウを祝福したかっただろう。
またエサウも、父イサクのやさしさや、子供を愛する思いにつけこんで、涙ながらに訴えた。
しかし、悔い改めの余地がこれっぽっちも無い彼に対して、イサクの口からつい出た言葉は、呪いの言葉だった。
つまり、主が、祝福してはならない、と意図している者は、どうしても祝福はできず、また、主が祝福する、と決めておられる人は、どうしても呪う事ができないのだ。(民数記23-24章)
とはいえ、エドムは当初、ヤコブよりも栄えた。
ヤコブの子孫が、エジプトで奴隷になっている間、エドムは、どんどん力を増して行った。(創世記36章)
そうして、俗悪な子々孫々を産んで行き、それが「エドム人」となった。
エドムはどう俗悪であるのか、オバデヤ書に詳しく記されている。
エドムは、兄弟の国が、バビロンによって攻められた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、逃げるイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)
モーセの時代も、平和の内に領土を通らせて欲しい、と言うイスラエルに対し、武力をちらつかせて、通せんぼした。(民数記20:14-21)
彼らが、バビロン捕囚の時にイスラエルにした事を、詩篇137篇の作者は、訴えている。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』(7節)
以上、エドム人の特徴は以下である。
・寝食を忘れるほどに獲物を探し、追いかけ、狩る事が、趣味。
・目先の肉欲を満たす事とひきかえに、祝福の相続権、という、大事なものを売ってしまう。
・悔い改めの余地が、心の中に「これっぽっち」も無い。
・兄弟が困っている時に助けず、むしろ、敵の側に立って一緒になっていじめる。
これは、サタンの性質だ。
サタン(サタナス)の意味は「敵」、また、悪魔(ディアボロス)の意味は「訴求者」「中傷者」である。
私達の中に、エドムの性質があるとするなら、本当に取り扱わなくてはならない。
イスラエルが、バビロンによって苦しめられたのは、確かに、イスラエルの身から出た錆だが、だからと言って、兄弟が散々な目に遭っている時、敵(サタン)の側に立って、一緒に誹謗・中傷し、攻め立てるなら、主は悪魔に敵対されるのと同様に、その者と敵対される。
もし、その責め立てられている兄弟姉妹が、悔い改めて、主に向かって叫ぶなら、主はその叫びを聞いてくださり、かえって、誹謗・中傷している者を裁かれる。
私達にも、もしかしたら、エドムのように、困っているの兄弟を、逆に苦しめ誹謗・中傷し、傷を上塗りするような身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを、必ず守られる。
35:5 おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。
35:6 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。
35:7 わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。
35:8 わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。
35:9 わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。
実際、ここに預言された通り、今、エドム人(イドマヤ人)は、この地上から滅ぼされてしまっている。
エドム人は、バビロン捕囚の時までは栄えていたが、イエス様の時代になると、少なくなり、最終的には民族としては歴史から姿を消してしまった。
35:10 おまえは、『これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう。』と言ったが、そこに主がおられた。
二つの民、二つの国とは、イスラエル王国と、南ユダ王国である。
彼らがそこに侵入しようとした時、「そこに主がおられた」と書かれてある。
主は、二人でも三人でも主の民がいる集いのただ中におられ、また、神の民の家に、職場に、教会におられるのだ。
35:11 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。
神の民に対してした事は、主に対してしたとして数えられている事に注目したい。
実際、サウロ(後のパウロ)が、教会を迫害した時、主は「なぜ”わたしを”迫害するのか」と言われた。
35:12 おまえはイスラエルの山々に向かって、『これは荒れ果てて、われわれのえじきとなる。』と言って、侮辱したが、主であるわたしがこれをみな聞いたことを、おまえは知るようになる。
35:13 おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。
主は、部屋の中で、ひそかに言った事も、聞いておられる。
エドムがイスラエルに対してした侮辱と高ぶりは、主ご自身に対するものとして、見なされた。
35:14 神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。
35:15 おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。
実際、歴史は、そのとおりになってしまった。
エドムは、父イサクから言われたとおり、弟ヤコブを前に、その身を低くしていれば、十分に存続できたはずである。
事実、彼らは、イスラエルに何も害していなかった時は、栄えた。
それなのに彼らは、わざわざイスラエルをいじめ、害して、災いを被った。
私達は、エサウの性質にこそ、気をつけるべきである。
私達には、獲物を探し、追いかけ、狩る性質が、無いだろうか。
目先の肉欲を満たすためには、神の民としての誇りを売ってしまうような性質は、無いだろうか。
それは、エサウのように呪われてしまう性質である。
むしろ、何かあったら、すぐに主に悔い改め、兄弟が困っているのを見たら、惜しみなく助ける幸いな性質を身につけて、いつも祝福がつきまとう皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
羊の間をもさばく、まことの羊飼いであられる主(エゼキエル34:17-31)
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エゼキエル書 講解説教
羊の間をもさばく、まことの羊飼いであられる主(エゼキエル34:17-31)
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前回の箇所は、悪辣な羊飼いに対するさばきについて、記されていた。
悪辣な羊飼いとは、主から託された、養うべき弱い羊を養わず、心に留めず、むしろ、主から託された大切な羊たちを、食い物にするような者達だ。
主はそのような者をさばかれるが、彼らの悪辣なやり方に見習って、悪辣なやり方を仕出かす羊も、群れの中に出て来る。
主は、そのような悪辣な羊をもさばく事を、今回の箇所で示している。
エゼキエル34:17 主なる神はこう言われる、あなたがた、わが群れよ、見よ、わたしは羊と羊との間、雄羊と雄やぎとの間をさばく。
ここに、やぎが出てくる。羊ならぬ、やぎが。
やぎの性質は、18-19節に示されている。
エゼキエル34:18 あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、これは、あまりのことではないか。
34:19 わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、あなたがたの足で濁したものを、飲まなければならないのか。
ここに記されているやぎは、主が導いてくださった、良き牧場で、普通に草をたべて安息するだけでは飽き足らず、自分が食べて満腹したら、残りを足で踏みつける、というような事をする。
憩いの水のほとりで、羊も、やぎも、飲む。
しかしやぎは、自分が飲んだら、水の残りの澄んでいる所を足でにごし、羊たちはその濁った水を飲まなくてはならない。
それは100%、悪意でしかない。
教会における聖徒の交わりや礼拝は、イエス様に導かれた羊たちが、良い牧場で良いものを食べているような、うるわしいものであるが、それを敢えて汚し、にごし、まぜものをするような者を、主が裁かれる。
今回のオリンピックのマラソン競技で、フランスの代表モラ・アンドゥニ選手は、給水所のペットボトルを全部なぎ倒し、他の選手が水を飲めないようにして、自分だけは飲んで行った事が議論になった。
自分が飲んだら、他の競争相手には飲ませないようにして、自分に有利に、相手を不利に陥れる。
そのような蹴落とし競争が、世では普通にまかり通っているが、聖なる教会の交わりの中で、そういう事をする者は、主が裁かれる。
エゼキエル34:20 それゆえ、主なる神はこう彼らに言われる、見よ、わたしは肥えた羊と、やせた羊との間をさばく。
34:21 あなたがたは、わきと肩とをもって押し、角をもって、すべて弱い者を突き、ついに彼らを外に追い散らした。
34:22 それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず、羊と羊との間をさばく。
主の牧場には、乏しい者がいないはずなのに、ここには、肥えた羊だけでなく、痩せた羊もいる。
なぜ、痩せた羊がいるのか。
それは、力ある羊が、おなかのすいた羊を押しのけて、自分だけが食べて、それを残さないからだ。
パウロは、そのような事をする者がいるコリント教会に、警告を与えている。(1コリント11章)
コリント教会の中には、主の愛さんを食べに来ている人の中で、われ先に食べて他に残さない者がいた事が、記されている。
当時の教会は、奴隷階級の聖徒もおれば、自由階級の聖徒もいた。
奴隷階級の人は、主人のために働いて、全部終えてからやっと教会の交わりに戻ってくるのに、自由階級のある人は、ひまをもてあまして教会に入り浸り、誰か、聖徒が食事をふるまうと、それを残らず飲み食いし、酔っ払っているのに、後からようやく入って来た聖徒たちには、何も残っていない、という有様が続いていたのを、パウロは責めている。
1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
この箇所の直後、パウロは、有名な聖餐の制定を記している。(23-31節)
そこで命じているのは、食べるにしても、飲むにしても、主を覚えて、主を記念して、これを行いなさい、という事である。
教会における礼拝も、飲み食いも、主を覚え、主を記念すべきものである。
なぜなら教会は、「キリストの体」であるからだ。
それをわきまえないで、単に飲み食いをむさぼるために来る者は、その、飲み食いによって、自分にさばきを招く、とパウロは警告する。
そのさばきとは、弱い者になったり、病人になったり、また、眠った(死んだ)りと、実に恐ろしいものである(29-30節)。
事実、教会の主であらるキリストを一切覚えず、心を留めず、単に、飲み食いや話し相手求めに教会に来ている者は、弱い者になったり、病人になったりする。
聖餐式でよく勘違いされる事は、聖餐にあずかるのにふさわしいか、ふさわしくないかは、主のみからだをわきまえているか、いないかであって、決して、自分が罪を犯したか、犯していないか、ではないのだ。
もし、罪を犯した、という自覚があるなら、なおのこと、罪をきよめるイエス様の血潮を「おぼえて」、断然、聖餐にあずかるべきなのだ。
むしろ「ふさわしくない者」とは、教会がキリストのみからだである事をわきまえず、単に飲み食いのために、あるいは、単におしゃべりのために教会を利用して、礼拝の御言葉のパンを汚したり、聖徒の交わりという飲み水を足で濁したりするような者の事である。
もちろん、弱さや無知の故に、意図せず、そうした事をしてしまう人もいる。
そういう人は、「よくなりたい」という意図をもって教会に集い、主に助けを求めるなら、主はその人を見捨てたりせず、大いに助けの御手を差し伸べてくださる。
しかし、意図して礼拝や聖徒の交わりを汚すような悪辣な者については、たとえ、聖徒は見抜けなくても、主ご自身が見抜いておられ、その者を、そこから取り除いてくださる。
さらに続く節には、真の牧者が現れて、その群れを正しく統治し、群れが祝福に入る様が記されている。
エゼキエル34:23 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
34:24 主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。
主は、ひとりの牧者を、すなわち、「しもべダビデ」を立てられる。
ダビデは、主から認められる良い羊飼いであったが、良い羊飼いとは、人格が良いとか、統率力があるとか、思いやりがある、といった評価基準ではない。
良い羊飼いの条件は、「しもべ」であるかどうかである。
主の意向を外した者は、どんなに人格が良くても、統率力があっても、良い羊飼いではない。
「しもべ(エベド)」とは、主人の意向をそのまま行う人の事であり、主の意向をそのまま行う「しもべ」こそ、神の国における良いリーダーなのである。
イエス様は、父なる神様の意向を、そのまま行ったゆえ、父なる神様から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われた。
そして、しもべダビデが、すなわち、イエス様が来て、平和の統治がなされる様が、25-31節に記されている。
エゼキエル34:25 わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。
34:26 わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。
34:27 野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。
ここに、とても素晴らしい祝福が約束されているが、それは無条件に与えられるものではない。
ここに記されている祝福が与えられる条件は、25節に示されている「契約」を守り行う事である。
現在、私達が守り行う契約とは、私達が持っている旧新契約聖書の内容である。
私達は主の前に誠実であるべきなのだ。そうするなら、さらなる祝福の実態があらわれ、もはや、他からかすめられる事も、はずかしめられる事もなく、主がまことの牧者となって、安らかに導かれるようになる。
エゼキエル34:28 彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない。
34:29 わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。
34:30 彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる。
34:31 あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。
エゼキエル書 講解説教
悪い羊飼いの性質とその末路(エゼキエル34:1-16)
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イエス様は言われた。わたしの羊を飼いなさい、と。
主は私達に、多かれ少なかれ、羊を託してくださった。
そうであるからには、私達も、「羊飼い力」を身につけるべきである。
ダビデは、社会でつまはじきにされた人や、お金の管理ができなくて破産してしまったような人、心に苦味をもっている人達、合計600人を、見事、勇士に育て上げた。
しかも、サウルから逃げながら、日々、必要な食料を調達しながら。
私達も、ダビデのような「羊飼い力」を求め、身につけるべきであるが、今回のエゼキエル34章には、良い羊飼いの逆、悪い羊飼いを糾弾している。
主が糾弾されるのは、「羊飼い力」を持っていない人の事ではない。
勇士のような勇気が無い事を責めておられるのでもなく、経済力や指導力の無さを、責めておられるのでもない。
そういったものが無かったとしても、主は、主の御言葉に聞き従う誠実な人には、いくらでも、そうした力を与えて下さる。
主が糾弾されるのは、主の御言葉に聞き従わない不誠実な者である。
エゼキエル34:1 主の言葉がわたしに臨んだ、
34:2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。
そう、羊飼いは本来、羊を養わなければならないものだが、彼らはどうだったか。
エゼキエル34:3 ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。
34:4 あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。
詩篇1篇には、幸いな人の性質である、”3つの「ず」”が記されている。
すなわち、悪者のはかりごとに歩ま「ず」、罪人の道に立た「ず」、あざける者の座に着か「ず」。
そのような人は、幸せを得るが、しかしここでは、悪い牧者の性質の”5つの「ず」”が示されている。
すなわち、
弱った羊を強め「ず」、
病気のものをいやさ「ず」、
傷ついたものを包ま「ず」、
迷い出たものを連れ戻さ「ず」、
失われたものを捜さ「ず」。
かえって、力ずくと暴力で彼らを支配する。
このような性質を、持っていないだろうか?
これが、悪い羊飼いの性質で、主はそれに敵対される。
当時のイスラエルの指導者は、まさに悪い牧者で、彼らは民から搾取して、自ら、私腹を肥やした。
その結果、羊たちは、すなわち、イスラエルの民は、5-6節の状態に陥ってしまった。
エゼキエル34:5 彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。
34:6 わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。
真の羊飼いが不在だ、と、主は言われた。
当時のイスラエルは、まさに、その状態だった。
それで、イスラエルという群れは、散らされて、世界各地へと捕囚にされて行ってしまった。
私達の主・イエス様は、まことの牧者である。
ヨハネ10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
良い牧者は、羊のために、いのちを捨てる。
ダビデも、羊のためにいのちを捨てる意気込みだった。
ライオンが羊を咥えて行った時も、熊が羊を咥えて行った時も、ひるまずに追いかけて取り戻した。
それだから、彼がまだ、羊飼いの少年だった時、主から「エッサイの子の中に、イスラエルの王を見つけた」として、見いだされたのだ。
牧者たるものは、まことの羊飼いであられる主から、羊を養い育てるように、と、その権利を託された者である。
それなのに、羊を養わず、かえって羊を喰いものにしているなら、やがて主は、さばきを語られる。
エゼキエル34:7 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。
34:8 主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。
34:9 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。
34:10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。
そこで主は、真の牧者を彼らに備える約束をされる。
真の牧者は、主ご自身である。
ここで、牧者の役割が強調されている。それは、傷ついて、弱り果てている羊を、捜し求めて,養う事だ。
エゼキエル34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
主はまことに、現代の私達にとっての真の牧者である。
私達キリスト者は、元々、罪に迷い出ている所を、主に見いだされ、探し出され、羊のおりへと抱えられ戻された者だ。
エゼキエル34:12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。
34:13 わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。
34:14 わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。
34:15 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
主はやがて、全世界に散らされているイスラエルを、世界の隅々から集め、ふたたび一つの地へと連れ戻される。
エゼキエル34:16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。
ここに4節とは真逆の事が書かれてあり、これが、真の良き羊飼いの性質である。
当時のイスラエルは、リーダーたる者が、主に任された羊たちを誠実に養わず、その主権が奪われ、散らされてしまった。
私達に羊が任されたとするなら、主に「羊飼い力」を求め、誠実に養うべきである。
ヨハネ21:15 イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
講解説教 ミカ書
呪いを祝福へと転換させる執り成しの祈り(ミカ7章)
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ミカ書最終章は、ミカの嘆きで始まる。
その嘆きの理由は、神の民と呼ばれるイスラエルから、正しい人が途絶えてしまったからだ。
7:1 わざわいなるかな、わたしは夏のくだものを集める時のように、ぶどうの収穫の残りを集める時のようになった。食らうべきぶどうはなく、わが心の好む初なりのいちじくもない。
7:2 神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。みな血を流そうと待ち伏せし、おのおの網をもってその兄弟を捕える。
主の御前において、食べられるくだもののような、甘い実りを実らせる人は、いなくなってしまった。
いかに神の民といえども、主の御言葉から離れ、主とともに歩む事を止めると、とたんに、このような悪らつな者となってしまう。
どこまで悪い者になってしまったのか。
3節以降に書かれてある。
7:3 両手は悪い事をしようと努めてやまない。つかさと裁判官はまいないを求め、大いなる人はその心の悪い欲望を言いあらわし、こうして彼らはその悪を仕組む。
7:4 彼らの最もよい者もいばらのごとく、最も正しい者もいばらのいけがきのようだ。彼らの見張びとの日、すなわち彼らの刑罰の日が来る。いまや彼らの混乱が近い。
ここを見ると、中国共産党の特徴そのままである。
今まさに、彼らは刑罰を受け、混乱している。
しかし致命的なのは、神の民と言われているイスラエルが、そのような、神なしとしている共産主義国家のようになってしまった事だ。
共産主義国家の特徴は、5節以降にある通り、誰も信用できなくなってしまう事だ。
7:5 あなたがたは隣り人を信じてはならない。友人をたのんではならない。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。
7:6 むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、嫁はそのしゅうとめにそむく。人の敵はその家の者である。
互いが互いを「ダメ出し」していると、どんどん先細りしてしまう。
ガラテヤ5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
5:15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
そこでミカは、「しかし」と言う。
7:7 しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。
そう、私達も告白すべきである。
それでも私は、主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる、と。
以下に続く節は、ミカの代表祈祷である。
代表祈祷とは、人々を代表し、人々を「わたし」に置き換えて祈る祈りである。
そして、このミカの祈りが、すなわち、イスラエルの民を自分自身に置き換えた、罪の告白の祈りが転機となる。
7:8 わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。
7:9 主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。
ミカは9節において、「わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。」と、正直に告白した。
イエス様の十字架の場面で、イエス様と共につけられている強盗のひとりが、その告白をした。
そして、主に「わたしを思い出して下さい」と祈った。
たったそれだけで、彼がそれまでしてきた数々の悪行が、あたかも拭い去られたかのように、見做された。
『イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。』(ルカ23:43)
自分の罪を認める事、そして、「主に思い出して下さい」と祈る事こそ、地獄から天国への転機となる。
あたかも、それまでの悪行の数々は、無かったかのように神から見做されるのである。
7:10 その時「あなたの神、主はどこにいるか」と/わたしに言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、わが目は彼を見てあざ笑う。彼は街路の泥のように踏みつけられる。
転機は、まず、この地上の生活から始まる。
それまで虐げてきた側は恥をこうむり、街路の泥のように踏みつけられる側となる。
7:11 あなたの城壁を築く日が来る。その日には国境が遠く広がる。
<新共同訳:あなたの城壁を再建する日/それは、国境の広げられる日だ。>
7:12 その日にはアッスリヤからエジプトまで、エジプトからユフラテ川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたに来る。
7:13 しかしかの地はその住民のゆえに、そのおこないの実によって荒れはてる。
そこに書いてある通り、主に立ち返るその時から、その人の地境がどんどん広がっていく。
それまで、「AかBかC」しか、生きる場所が無かった人、しかも、AもBもCも虐げるものとなって、行き場が無くなり自殺を考えるようになってしまった人さえ、その地境を広げ、主は、AもBもCも癒やすのみならず、EもFもGの場所も与え、さらにはHもIもJも場所を与え、そのように地境を広げて下さるのだ。
そしてミカは、主に、そのような羊飼いとなって下さい、と祈る。
7:14 どうか、あなたのつえをもってあなたの民、すなわち園の中の林にひとりおる/あなたの嗣業の羊を牧し、いにしえの日のようにバシャンとギレアデで、彼らを養ってください。
バシャンもギレアデも、ヨルダン川の東側で、2021年現在、そこはイスラエルの領土として回復されていない。
ミカは、2600年も前から、その回復を祈っていたのだ。
その祈りに対し、15節が、神様の側の回答である。
7:15 あなたがエジプトの国を出た時のように、わたしはもろもろの不思議な事を彼らに示す。
そう、主がして下さるのは出エジプト、奴隷状態からの解放であり、そのために主は、もろもろの不思議な事を示してくださる。
その結果、虐げていた異邦の民は、恥を見るようになる。
7:16 国々の民は見て、そのすべての力を恥じ、その手を口にあて、その耳は聞えぬ耳となる。
7:17 彼らはへびのように、地に這うもののようにちりをなめ、震えながらその城から出、おののきつつ、われわれの神、主に近づいてきて、あなたのために恐れる。
7:18 だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために/とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、
7:19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を/海の深みに投げ入れ、
7:20 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。
ミカ書の最後は、ミカの感謝と賛美で終わる。
なお、ミカとは「誰が主に似た者であるのか」、という意味であり、18節にそれがあらわれている。
ミカが特に強調しているのは、主は、赦しと憐れみの主である、という事である。
主は不義を赦し、咎をなかった事にされるお方、いつまでも怒っておらず、むしろ憐れみ、いつくしまれるお方。
私達の不義を、主は、足で踏みつけ、諸々の罪を、海の深みへと投げ入れるお方である。
このような主であられる故に、どんな罪びとにも、主にあって希望がある。
呪いが祝福へと変わるための転機は、あの十字架上の強盗のように、主の御前で自分の罪を認める事、告白し、主とのかかわりを求める事だった。
ミカのように、家族や友人のために、そして、救いたいと思っているあの人のために執りなし、そして、国家のために執り成し祈って、この地に、主の慰めをもたらす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
講解説教 ミカ書
偽りのものさしで計り続けると、呪いが離れない(ミカ6章)
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主は再び、イスラエルに訴える。
6:1 あなたがたは/主の言われることを聞き、立ちあがって、もろもろの山の前に訴えをのべ、もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。
6:2 もろもろの山よ、地の変ることなき基よ、主の言い争いを聞け。主はその民と言い争い、イスラエルと論争されるからである。
主は山々や丘々を証人に立てて、主に逆らい続けたイスラエルを訴え、討論されるが、ここでは特に「聞け」、と繰り返されている。
5:15では、「聞き従わなかった」国々への厳しいさばきが宣言された。
主が私達に一番求めておられる事は、「聞き従う」事である。
もし私達の頭の中が、自分のしたい事でいっぱいであるなら、相手が話している間、自分のしたい、あれやこれやを考えて、聞くことができない。
私達は、主の御前において、それら、自分の考えや自分のことばを捨て、ただ、主が仰せられることばに、耳を傾けるべきである。
6:3 「わが民よ、わたしはあなたに何をなしたか、何によってあなたを疲れさせたか、わたしに答えよ。
主はなお、「わが民」と呼びかけられた。
主は、神の民がいかに裏切ったとしても、何度でも立ち返るように呼びかけられる。
「わが民」と呼ばれる彼らは、なにゆえに主を軽んじ、罪を犯し、他の神々へと向かうのか。
一体彼らは、彼らの神である主の、何が気に入らないので、主を捨てたのか。
主はそれを訴求し、主がイスラエルに為されてきた恵みのわざの数々を思い起こさせる。
6:4 わたしはエジプトの国からあなたを導きのぼり、奴隷の家からあなたをあがない出し、モーセ、アロンおよびミリアムをつかわして、あなたに先だたせた。
主が真っ先に彼らに思い起こさせたのは、主は、彼らを奴隷の家から救い出された、という事だった。
十戒が与えられた際でも、主は、それを一番最初に宣言された。
出エジプト記20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
それ程、主のあがないのわざは、重要であり、それは、私達にも、同じである。
私達も、奴隷状態だった。
世の、サタンの、罪の。
私達の主イエス様は、私達を、それらの奴隷状態から救い出し、買い戻して下さった。
あの十字架の上で。
主は、主から離れる全ての民に、訴求される。
一体、わたしの何が気に食わないので、わたしから離れていくのか、と。
思い起こしなさい、主はあなたを、サタンの奴隷状態から、罪という監獄から、救い出され、買い戻されたではないか、と。
6:5 わが民よ、モアブの王バラクがたくらんだ事、ベオルの子バラムが彼に答えた事、シッテムからギルガルに至るまでに/起った事どもを思い起せ。そうすれば、あなたは主の正義のみわざを/知るであろう」。
モアブの王バラクは、イスラエルを呪おうと、べオルの子バラムを金で雇った。
しかし主は、逆に、ベオルの子バラムを通して、イスラエルの民を祝福させた。
また、ここで言われているシティムはヨルダン川の東側、ギルガルは西側である。
その「シティムからギルガル」の出来事は、ヨシュア記3−4章に記されている。
すなわち、水を湛えたヨルダン川が、祭司のかつぐ契約の箱を前にそそり立ち、そのかわいた地をイスラエルの民が渡った出来事を思い起こさせている。
「それは主の正しいみわざを知るためであった。」とある通りである。
主は、罪の奴隷状態にある人を解放し、死の淵から買い戻され、祝福の地、約束の地へと導かれた。
主は、訴える者の呪いを、祝福へと変え、約束の地へと渡るために、川を枯らされた。
主はことごとく、正しいみわざを行われた。
にもかかわらず、民は主を裏切り、軽んじ、離れて行った事を、はっきりされた。
6:6 「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。
6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
人は、いわゆる神と呼ばれるものに気に入られるために、いけにえや犠牲を捧げれば良い、と思っている。
実際、異教の神々の祭壇に、人間が捧げられた事も多々あった。
しかし、まことの神、主が求めておられるのは、そのような犠牲ではない。
主が求めておられる事を、主は、8節で明かされた。
6:8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
主が求めておられるのは、以下の3つである。すなわち、
1,公義(ミシュパット)を行ない、
2,いつくしみ(ヘセド)を愛し、
3,へりくだって、あなたの神とともに歩む(ハーラフ)こと
公義(ミシュパット)とは、司法的に宣告された判決や正式な命令で、特に、神様の命令、御言葉をあらわす。
いつくしみ(ヘセド)とは、よく「恵み」と訳される語で、優しさや愛、人の神様に対する敬虔さであり、イスラエルの富裕層がしていた悪事、すなわち、人から搾取したり不当に取り立てる事とは、真逆である。
そして、神と共に「歩む(ハーラフ)」事。それは、全き者の、義人の条件である。
『アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み(ハーラフ)」、全き者であれ。』(創世記17:1)
だから全き者とは、罪を犯さない完全無欠な者ではなく、全きお方・神と共に歩む者なのだ。
6:9 主の声が町にむかって呼ばわる――全き知恵はあなたの(主の)名を恐れることである――「部族および町の会衆よ、聞け。
主は叫んで言われる。
主の御名を恐れることが、すぐれた知性だ、と。
十戒でも、主の御名を、みだりに唱えてはならない、と示されている通り、主の御名に対しての、恐れ敬いを持つべきなのだ。
6:10 わたしは悪人の家にある不義の財宝、のろうべき不正な枡を忘れ得ようか。
6:11 不正なはかりを用い、偽りのおもしを入れた袋を用いる人を/わたしは罪なしとするだろうか。
偽りのはかり、ごまかしをする枡が、家の中にあるままであるなら、主は「罪なし」とする事は、できない、と言われる。
どんなに、何時間、悔い改めの祈りをしても。
人生を渡り歩く上で、「のろわれた枡目不足の枡」を、物事の基準としたままでは、呪いは、離れることはない。
人の「正しいと思うこと」は、気分いかんで幾らでも変わる。しかし、主の言葉は、たとえ天地が滅んでも、変わる事はない。
だから、正しいものさしである御言葉によって物事をはかり、御言葉に従って歩まない内は、呪いがつきまとう事になる。
6:12 あなたのうちの富める人は暴虐で満ち、あなたの住民は偽りを言い、その舌は口で欺くことをなす。
6:13 それゆえ、わたしはあなたを撃ち、あなたをその罪のために滅ぼすことを始めた。
彼らは何によって富んだか。
主は指摘される。それは暴虐によってであり、住民は、うそ偽りによって歩んでいる、と。
好んで偽る者は、天の都には入れない。外に追い出されてしまう
『犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。』(黙示録22:15)
好んで偽る者は、天において呪われるばかりでなく、地上においても、呪われてしまう。
どのような呪いが来るのかが、14節以降に記されている。
6:14 あなたは食べても、飽くことがなく、あなたの腹はいつもひもじい。あなたは移しても、救うことができない。あなたが救う者を、わたしはつるぎにわたす。
6:15 あなたは種をまいても、刈ることがなく、オリブの実を踏んでも、その身に油を塗ることがなく、ぶどうを踏んでも、その酒を飲むことがない。
不正によって財を為した者は、どんなに豪勢な暮らしをしても、満ち足りる事は無い。
やがては、その、不当に得た富で成り立たせている豪勢な暮らしが、そのものが、本人自身を蝕む「しみ」となる。
ヤコブ5:1 富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
5:2 あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、
5:3 金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。
5:4 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。
彼らは、財産をどんなにうまく隠蔽しても暴かれる。
また、どんなに逃げたとしても、主がその者を「剣に渡す」と、言われている。
その者は、たとえ畑をつくって、耕して、植えて、収穫したとしても、それらは全部奪われてしまい、苦労の実は、全て他人のものとなる。
伝道者の書2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
6:16 あなたはオムリの定めを守り、アハブの家のすべてのわざをおこない、彼らの計りごとに従って歩んだ。これはわたしがあなたを荒し、その住民を笑い物とするためである。あなたがたは民のはずかしめを負わねばならぬ」。
オムリ王と、その子アハブ王は、イスラエルにとって霊的に最悪の時代をもたらした。
彼らは不正な手段によって財を成して、象牙の家まで建てて、豪勢な暮らしをしたが、彼らの終わりは悲惨なものであった。
以上のように、6章は、手厳しい訴がなされて来たが、預言者ミカ自身、自分の民を好き好んで訴えているわけではない。
彼自身も、痛いのである。
次章でミカは、主の真実といつくしみの完成を願う祈りをする。
詩篇 講解説教
離れた者よ、帰れ(詩篇80篇)
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詩篇80篇表題『聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせてうたわせたアサフのあかしの歌』
この詩篇の状況は、以下の状況が考えられる。
・バビロン捕囚の時
・北イスラエル王国がアッシリヤによって捕囚とされ、南ユダ王国が兄弟王国の回復と再統一を祈って歌われた
なぜなら、3、7、19節に、「私たちをもとに返し」という言葉が繰り返されているからだ。
そしてこの祈りは、神様から離れた人が、神様との交わりの回復を求める祈りでもあり、私達の祈りでもある。
なお、表題の「あかし」は、新共同訳では「定め」と訳されており、すなわち「教えのために作られた」ものである。
80:1 イスラエルの牧者よ、羊の群れのようにヨセフを導かれる者よ、耳を傾けてください。ケルビムの上に座せられる者よ、光を放ってください。
80:2 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に/あなたの力を振り起し、来て、われらをお救いください。
エフライム、ベニヤミン、マナセは、ラケルの子孫で、北王国を代表する。
彼らは、契約の箱の西側に宿営していた。(民数記2:17-22)
かつては荒野において、主の契約と主の御言葉の近くで養われていた彼らだった。
そこへと戻してください、という祈りが、この詩篇である。
80:3 神よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
この内容が、7、19節にも繰り返されているが、それは、民数記6:25の祝祷に通じる。
『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』
ここの「恵み(ハーナン)」は、憐れむ、情けをかけるという意味であるが、具体的な行動を伴った、同情である。
これは、新約ギリシヤ語の「スプランギニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」に相当し、イエス様が、人の有様、飼い主のいない羊のように弱り果て倒れているあり様を見た時に感じた、深い憐れみ、同情である。
それでイエス様は、憐れみの働きを、その公生涯において実行された。
主が、御顔をあなたに照らし、恵まれますように。
その祝福の祈りは、主の慈愛に満ちた表情を、光のようにあなたに照らして下さるように、という祈りなのだ。
80:4 万軍の神、主よ、いつまで、その民の祈にむかって/お怒りになるのですか。
祈りは、ヘブライ語でテフィラーで、本来、ユダヤ人の祈りは、御言葉にそのまま自分の感情や願いを乗せる祈りだった。
しかし、それがいつしか、御言葉から離れた自分勝手な祈りになってしまった。
主の御言葉から離れ、主の御心から離れて、じぶんの良かれで生きた時代が、士師記の時代である。
それはそれは、荒んだ時代だった。
だから、主の御言葉から離れてはならないのだ。
80:5 あなたは涙のパンを彼らに食わせ、多くの涙を彼らに飲ませられました。
80:6 あなたはわれらを隣り人のあざけりとし、われらの敵はたがいにあざわらいました。
80:7 万軍の神よ、われらをもとに返し、われらの救われるため、み顔の光を照してください。
彼らは、御言葉から離れた故に、敵にあざけられ、良いようにされてしまった。
それで、続く8−13節で、過去の、神様の特別な扱いを思い返し、また、彼らの今の苦境を訴えている。
ここで特徴的な事は、自分たちを「ぶどうの木」と呼んでいる事だ。
私達にとっては、イエス様こそ、まことのぶどうの木であるが(ヨハネ15章)イエス様から離れるなら、切り離されて火の中をくぐる経験をしてしまう。
80:8 あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。
80:9 あなたはこれがために地を開かれたので、深く根ざして、国にはびこりました。
80:10 山々はその影でおおわれ、神の香柏はその枝でおおわれました。
80:11 これはその枝を海にまでのべ、その若枝を大川にまでのべました。
彼らが栄えた時代とは、彼らが主の言葉を忠実に守った時代だった。
ダビデの時代、ソロモンの時代の前半が、そうだった。
御言葉を守らなかった時代は、荒野の40年の時代、士師記、ソロモン以降の時代であり、守らなかった結果、敵に、いいようにされてしまう。
列王記・歴代誌は、御言葉を守り行った王の祝福された時代と、御言葉から離れた王の呪われた時代の歴史が記されている。
敵に、サタンに、いいようにされてしまう訳は、主の囲いの中で安住していれば良いものを、変な色気を出して、主の保護の外へポーンと飛び出して行くからである。
その結果が、12−13節に記されている。
80:12 あなたは何ゆえ、そのかきをくずして/道ゆくすべての人にその実を/摘み取らせられるのですか。
80:13 林のいのししはこれを荒し、野のすべての獣はこれを食べます。
石垣(ガーダル)は、包囲、壁、フェンスの意味である。
主は、その外に出て行ってしまった人を戻すため、敢えて、その人からガードを取り除かれる。
主こそまことに羊飼い、羊の門であり、主の御言葉の群れから離れるなら、いのししに、良いように、よってたかって食い物にされる。
イエス様の、囲いの内側にいるなら、安全である。だから、御言葉から離れてはならない。
80:14 万軍の神よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください。
ぶどうの木は、私達・神の民を象徴する。
イザヤ5章では、甘いぶどうを植えたはずなのに、酸っぱいぶどうがなってしまった。
主にとどまらない、御言葉から離れる、とするなら、主の喜ばれる甘いぶどうの実は結ばせず、ただ、酸っぱいぶどうしか結ばせない。
それなら、切り離され、投げ捨てられ、いのししに、よってたかって食い物にされてしまう。
しかし、それは、立ち返るためには、良い体験となる。
放蕩息子のように、ヨナの魚の腹での3日間のように。
80:15 あなたの右の手の植えられた幹と、みずからのために強くされた枝とを/かえりみてください。
枝は、ヘブライ語ではベン、すなわち、息子である。
新共同訳では、そのように訳している。
自分は子である、という事を思い返すべきであり、同時に、主に思い返していただく祈りを捧げるのだ。
放蕩息子は、父なるお方の外に出て、さんざんな目にあった末、その保護の下に戻ってきた。(ルカ15章)
80:16 彼らは火をもってこれを焼き、これを切り倒しました。彼らをみ顔のとがめによって滅ぼしてください。
80:17 しかしあなたの手をその右の手の人の上におき、みずからのために強くされた人の子の上に/おいてください。
右は、力をあらわす。
かつて、主の力の御手の内に覆われて、強くされた神の民だったのに、神から離れ、御言葉から離れてしまった。
そうすると、主の御手、また主の御顔は、「とがめ」モードになってしまう。
主の御顔は、祝福ではなく、恐ろしい、災いを降り注がせるものとなってしまう。
主の御手を、御顔を、「恵み(ハーナン)」モードにするためには、御言葉に戻り、御言葉の交わりに戻る事である。
80:18 そうすれば、われらはあなたを/離れ退くことはありません。われらを生かしてください。われらはあなたのみ名を呼びます。
80:19 万軍の神、主よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
彼らは、自分が主を裏切っている事がわからなかった。
御言葉を無視し、自分のよかれで生きていた事が、実は、主を裏切っていた、という事が。
御言葉を離れた、好き勝手な祈りを、主は、受け入れない。
主の群れから離れ、好き勝手に生きるなら、いのししに囲まれ、食い物にされてしまう事が、この詩篇に書かれてあった。
そのようになったら、すぐに主の御言葉へと戻り、主の御心は何であり、何が主に喜ばれ、何が主に忌み嫌われるのか、調べるべきである。
私達は、いつでも、主の保護下から離れず、主の御言葉どおりに歩み、祝福の法則で生きるべきなのだ。
ルツ記2:8 ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。
主の囲いの中で、御言葉の交わりの中から離れないなら、豊かに守られ、養われ、富む者となるのだ。
主日礼拝
父の日礼拝:父と母と子供の聖書的役割(コロサイ3:18-23)
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週報/メッセージ(説教)概要
今日は父の日、普段から一家のために働いておられる父に感謝する日である。父は大抵、母よりは無口であまり話さない傾向はあるが、父がいてこそ家は安定する。今回、聖書的な家族の役割を見ていきたい。
『妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしい事である…子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれる事である。』(コロサイ3:18,20) 妻の、夫に対する責任は「仕える」、原意は「相手の権威に服する」事で、子の、両親に対する責任は「従う」、原意は、「聞いて、従う」事である。
夫や主人を意味するヘブライ語「アードーン」は、「主」「所有者」「支配者」の意味だ。 父が家の主ではあるが、圧政的・支配的であってはならず、愛を根底するべきだ、と命じられている。『夫たる者よ、妻を「愛(アガパオー:無償の捧げ尽くす愛)」しなさい。辛く当たってはいけない…。父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心が「いじける(アスメイオー:やる気・意欲を削ぐ)」かも知れないから。』(19,21節)
このように、父、また夫には、重要な責任が与えられている。家族を支え、正しく導く義務があり、また、
一家を祝福する祭司の役割が与えられている。アブラハムやダビデ、ヨブは、家族の幸せと祝福のために祈り、また、罪の赦しのために、いけにえを捧げた。パウロもまた、多くの教会・多くの兄弟姉妹たちの、
霊的な父として、主にあって産んできた霊的な子達を日夜気遣い、何日も徹夜しつつ祈ってきた。
第2コリント11章を見ると、パウロの「父」としての苦労が、並大抵のものではなかった事が分かる。
彼はコリントの聖徒達を、キリストへと嫁がせる花嫁として主に捧げ、婚期を迎える娘の父親のような心境で、彼らの霊的清純が汚されはしまいか、と、気にかけていた(同2-3節)。それなのに、コリントの聖徒達は、
偽教師の、言葉巧みな言葉にそそのかされ、霊の父であるパウロを軽んじたり、ばかにしたりして来た。
パウロは言う。たとえ、話は巧みでないにせよ、自分は全ての点で、色々な場合に、誠実を示してきた、と。
偽教師は、外見も言葉も立派な先生に見え、それにひきかえ謙遜なパウロは弱々しく見られ、それで惑わされてしまったコリントの聖徒の目を覚ますために、パウロも敢えて「愚か」になって誇らざるを得なかった。
パウロは何を誇ったか。彼は、最高の先生から師事を受け、最高の学校を卒業し、多くの国々に宣教し、多くの病や悪霊を追い出し、多くのいのちを救ったのに、彼は、そうした実績は、おくびにも出さなかった。
むしろ彼が誇ったのは、彼自身が受けてきた数々の困難や迫害、そして、主にあって産んできた霊的な息子・娘達を、日夜、気遣い、何日も徹夜しつつ祈ってきた事だった(22-28節)。私達も誇るべきは、何かの実績ではなく、主にあって働く事と、養わなくてはならない人々のために日夜祈りつつ養う事である。
父は、人知れず苦労して来た事を、滅多に家族に漏らさない。そのために誤解される事も多いが、たとえ家族に疎んじられたとしても、よほどでない限り、家族のために相変わらず働いて、養う。それは、父は本能的に、家長として、責務を全うしなければならない、という、神様が植えて下さった使命感があるからだ。
しかし、養っている家族から、心をへし折られない訳ではない。父親にとって一番痛い事は、養っている家族が、他の者にそそのかされ、別の者を父、あるいは主人としてしまう事である(同28-29節)。
父なる神様が最も悲しまれるのが、それである。人が悪魔にそそのかされ、神なしで生きようとしたり、別の者を神としてしまうなら、神様はひどく悲しみ、ねたみ、真の父・真の神はどなたであるのか思い知らされる。
父親は、仕事や使命を為すゆえに、あまり家におらず、交わる時間があまりないかもしれないが、家族を養わなくてはならないと誰より思うからこそ、仕事をするものである。男性と女性は、愛情表現の仕方が違う。
女性は、子育てをするため、一緒にいる事や、いっぱい話す事、感情や体験を共有する事に、価値を見出すが、男性は、働いて、責務を全うし、家族に必要なものを手に入れ、持ち帰る事によって、家族を愛している証とする傾向がある。その食い違いから、誤解が生じる事も多々あるが、二人が一体となって、共に、主が与えて下さった役割をこなしつつ、家庭を築き上げ、産んで増えて地に満ちて行く事が、御心である。
しあわせな家庭は、各々が、神様から定められた役割を正しく果たす家庭である。妻は、主にある者にふさわしく夫に従い、夫は、妻につらく当たる事をせず、むしろ主が私達を愛されたごとくに、妻を愛する。
子供たちは、全ての事において両親に従う。そのように正しく歩む事によって、それぞれ主キリストに仕え、報いとして、御国を相続させていただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主の息(聖霊)が来る時、枯れた骨は生き返る(エゼキエル37:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日、聖霊降臨祭(ペンテコステ)は、イエス様の弟子達が聖霊を受け、大胆で力強い働き人になった事を覚える日である。それまで弱かった弟子達も、聖霊を受けて以降、力強く変わった。本日、聖霊の力はどれ程偉大で、日本の福音化のためにいかに必要であるのか、エゼキエル書37章から、その極意を得たい。
エゼキエルの時代は、バビロン捕囚下の時代で、かつてソロモン王が建てた豪華絢爛な神殿も、ダビデ王が建てた堅牢なエルサレム城壁も、バビロンによって破壊し尽くされ、荒れ果てた状態の時代である。
その破壊された理由は、神の民たる聖徒が、御言葉と礼拝をおろそかにし、世の諸々に奔走し、主がしてはならないと言われていた悪い事をし続け、警告を受け続けて来たにもかかわらず、改めなかった故だ。
それで彼らは、敵にやぶれ果て、打ちのめされ尽くされた様が、この、ひどく干からびた骨々の有様である。
この有様は、今の私達にも当てはまるかもしれない。若かりし頃の夢に破れ、もはや復帰する望みが無いまま何年も経ち、ただ枯れるに任せるしかないような状態に。あるいは、神様から離れ、好き放題にした結果、身から出た錆によって徹底的に打ちのめされ、もはや復帰の望みが絶たれてしまったような。
この日本も、霊的には、エゼキエル37章のような、干からびた骨々のような状況である。かつて日本は、多くの人が福音を受け入れ、いのちにみなぎっていた。1549 年、フランシスコ・ザビエルによって、初めて福音がこの地に入った時、信者の数はどんどん増えて行ったが、時の指導者達が、主にある私達の兄弟姉妹を迫害し、多くの殉教の血が流され、その人達の骨々で埋め尽くされているような状況である。
主は問われる。『「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。』(3節)
エゼキエルは答えた。神、主よ。あなたがご存じです。と。アーメン。枯れた骨々が生き返るかどうかは、主にかかっている! この国で、干からびた骨となってしまった信仰が、よみがえって、主の大勇士軍団となる事も。また、干からびた骨となってしまったような人生が、生きかえって、力強い働き人となる事も。
それは、権力によらず、能力によらず、主の霊によって!(ゼカリヤ4:6) 聖霊によって、可能である。
主はエゼキエルに、骨に対して主の言葉を語れ、と言われた。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、と。(4節)
彼が、主から命じられた通りに、御言葉を宣言すると、大きな音、大きなとどろきが起こり、骨と骨が互いにつながった。『私が見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。』(8節) 私達も、信じた御言葉をそのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。
たとえ、干からびた骨のような相手、状況、あるいは、干からびた骨のような、自分自身にも。
しかし、その中に「息(霊)」は無かった、と書いてある。主は確かに、干からびた骨のような人、モノ、状況を、人並みの状態へと戻して下さる事はおできになるし、そのようにされたキリスト者は、大勢いる。 しかし、神の息、すなわち、聖霊が無い状態では、マネキンのように、力の無い、死んだも同然の状態なのだ。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息(ルアッハ:霊)に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。』(9 節)
その通りに彼が「息(霊)」に預言すると、霊が彼らの中に入り、自分の足で立ち上がった。それは、非常に多くの「集団(ハイル:軍団、勇士、厳粛な者、富んだ者)」となった(10節)。 このハイルは、有力者ボアズに、厳粛な女ルツに、勇士ギデオンに、ダビデに与えられた称号である。弱い、臆病な者は強くされ、貧しく何も無かった者は富んだ者とされ、異邦生まれの者が、栄光の王族の家系へと組み入れられた。
私達も、主の息、すなわち、聖霊が与えられるなら、枯れた骨のような者が生かされ、ハイルとされるのだ。
神の息、聖霊を求めるべきである。ペテロや他の弟子達は、聖霊降臨以前は、大した実を結ぶ事のできない、烏合の集団だった。しかし聖霊降臨以降、彼らは死をも恐れない、力強い神の軍団となり、全世界に出て行き、ローマ帝国を席巻し、ヨーロッパ、アジア、地の果てにまで、福音を広めて行った。
自分は干からびた骨のようだ、と思っている人は、自分自身に御言葉を宣言すべきである。生き返れ、と 。
そして、「息」に預言すべきである。「息、四方から吹いて来い、この者に吹きつけて、生き返らせよ」と。
神の息吹のダイナマイトパワーに満たされて、干からびた骨から、神の軍団へと創り変えるられ、大胆にキリストを証して行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
主日礼拝
偉大な母の性質(詩篇34:12-15)
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先月4月17日、米国で一人の女性が天に召され、多くの人が悲しんだ。彼女の名はヘスター・フォード、115歳だった。なぜ彼女の死が多くの人に感銘を与えたのか。それは彼女は、「偉大な母」だったからだ。
母の日である今日、偉大な母と言われた彼女から、偉大な人生・高貴な人生のコツを得ていきたい。
彼女の子供は12人、孫は68人、ひ孫は125人、玄孫は120人、計325人もの子孫と、同時代を生きた。
(なお、子孫の数があまりに多く、年齢の記録も古い為、情報元によって数字や年齢に若干の違いがある)
彼女は1905年8月15日、アメリカ・サウスカロライナ州ランカスターで生まれ、ジョン・フォードという男性と15歳で結婚し、12人の子を産んだ。彼女は農場で働いて後、48歳からは乳母として20年以上働いた。
1963年、彼女の夫が57歳で天に召されて後も乳母として働きつつ、教会での礼拝と奉仕を生涯捧げた。
真に偉大な人とは、生涯、信仰生活を守り、その信仰をしっかり子々孫々へと継承し、空の星々のような、素晴らしい信仰の子々孫々を残す人である。有象無象をたくさん増やしても、何もならない。私達の使命は、信仰者である神の子達を、産んで、増えて、地に満たす事であり、全被造物もそれを待ち望んでいる。
彼女は高齢になると認知症を患ったが、幾つかの聖書箇所は完璧に覚えており、112歳の誕生日には、詩篇23篇を暗唱してみせたのだ。御言葉暗唱こそ祝福と長寿の秘訣であり、生涯現役の秘訣である。ユダヤ人は健康・長寿で有名で、色々な研究が為されているが、結局、それはテフィリン(御言葉暗唱)をしている故だ。彼女は、長寿の秘訣について聞かれると、「わからない」と言っていたが、聖書に書いてある。
主は、主を愛する人を助け、御名を知る人を守られる。その人が、主の御名を呼ぶ時、主は答え、その人の悩みの時、彼と共におられ、彼を救い、彼に栄光を与え、長寿で満ち足らせる、と。(詩篇91:14-16)
彼女の「人となり」は、どうだったか。彼女のひ孫であるパターソン=パウ氏は、彼女についてこう語った。
「彼女は発明家で、革新者で、地域社会や家庭内では独自の流行を生み出す先駆者だったため、1つの枠に収まる事は無かった。」「彼女は逆境に面しても揺るがず、動じない人だった。」「彼女は決して不平を言わず、敗北を示さず、同情を誘う事も無かった」と。 まさに彼女は、素晴らしいアイデアを実践する力で満ちた人で、地に住み誠実を養った人、口を制して否定的な言葉を言わせず、主にある勝利者の立場を、言葉において貫き、宣言し、実現し続けた人だった、とわかる。私達が日毎、宣言している通りである。
彼女は、いつでも子孫に言っていたと言う。「あなたは誰かを祝福するために、ここにいるのですよ」と。
彼女は分かっていたのだろう。アブラハムの子孫である私達・信仰者は、呪いに満ちている世に、祝福をもたらすために生かされており、私達が祝福するなら、その祝福は巡り巡って、自分へと帰ってくるのだ、と。
『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。』(箴言18:20)
だから、私達も日々、祝福を宣言し、その実を実体として得ていくべきだ。
彼女は、自身の沢山の子達を育てた、のみならず、他人の子も乳母として育てた。神はいのちの神、また愛の神である。それ故、いのちを愛し、大切に育み育てる人を、神は大切にされる。偉大な人とは、いのちを大切に守り、増やし、育む人だが、いのちを軽んじ、傷つけ、殺す人は、神と人から忌み嫌われる。
『幸いを見ようとして、いのちを慕い、ながらえる事を好む人は誰か。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたの唇をおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善を行い、やわらぎを求めて、これを努めよ。主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。』(詩篇34:12-15)
主にあって両親を敬い、従う人は、幸せになって地上で長生きする、と約束されている(エペソ6:1-3)。
幸せで、祝福され、信仰の家庭を建てあげて行くためには、親は、御言葉教育を行う責任があり、子供は両親に従う、という、双方向の責任をそれぞれ全うする必要がある。それが合致した家庭は幸いである!
今日は母の日、母が日頃負っている労をねぎらい、感謝する日であるが、親に感謝する人は幸いなのだ。
信仰を受けたなら、それをしっかり保持し、子へと、孫へと受け継がせ、地上において幸せで、長生きし、偉大な信仰者の列へと加えられていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!





