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「わたしの」主(2サムエル記22:1-9)
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詩篇書講解説教
主と論じあおうという意欲ある人に救いを下さる主(詩篇85篇)
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「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌」
この詩篇の状況は、バビロン捕囚から帰還して、それ程経っていない時期と考えられる。
イスラエルが、バビロンに捕囚された事は、確かに、身から出た錆であった。
彼らは御言葉に背き続け、預言者を通しての主からの警告も聞かずに、罪と欲の道を邁進した結果、バビロン捕囚という憂き目に遭ったのだ。
しかしその70年の後、主の恵みと憐れみの故に、彼らは再び祖国に帰る事ができた。
確かに、バビロンという「刑務所」から出所できた喜びはあるけれど、しかし、帰って来ても、住む家が残っていたわけではなく、礼拝する神殿が残っていたわけでもない。
それらは相変わらず崩壊したままで、これから、建て直さなくてはならない。
国は相変わらず荒廃したままで、強力な敵や、嘲る者がのさばっているままであった。
それで主に向かって回復を祈り求めているのが、この詩篇である。
私達ももし、生活が乏しいままでひもじい思いをしている、とするなら、この詩篇の祈りを自分自身に当てはめて、主に呼び求めるのだ。
詩篇85:1 主よ、あなたはみ国にめぐみを示し、ヤコブの繁栄を回復されました。
詩篇85:2 あなたはその民の不義をゆるし、彼らの罪をことごとくおおわれました。〔セラ
私達が神様に対して犯した罪は、到底、償いきれるものではない。
それで主は、罪の「赦し」と、罪を「覆うこと」を、私達のほうに提唱しに来られる。
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
雪が大地を覆えば、どんなに地が汚い状態であったとしても、全部覆われて、一面、銀世界になる事ができる。
しかし、ただ単に覆われただけでは、もとの状態が変わるわけではない。
雪が溶けてしまえば、再び汚い大地が現れるだけである。
そこで、本質が変わる必要がある。
「たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる・・・。」
主は、根本的に変える事ができるお方である。
そうなるための条件は、18節にある通り、主と論じあう事。
自分の足で主を探し、主の元へと行って、主と論じあうのだ。
イザヤ1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
主と論じあったなら、主のことばに、喜んで聞き従う。
そうするなら、具体的な、物理的な祝福が帰って来て、地の良き物を食べることができる。
しかし、主と論じ合う事を拒み、また、聞いても背いたままであるなら、剣が待っている事が書かれてある。
続く4-7節には、不安と混乱の中にある神の民に、主の憐れみが注がれるように、祈り求めている。
主に祈り求めるための根拠は、聖書の御言葉である。
主が約束された回復の御言葉を楯にして、祈り求めるのだ。
詩篇85:4 われらの救の神よ、われらを回復し、われらに対するあなたの憤りをおやめください。
詩篇85:5 あなたはとこしえにわれらを怒り、よろずよまで、あなたの怒りを延ばされるのですか。
詩篇85:6 あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。
主が生き返らせて下さる約束の預言は、エゼキエル書37章にもある。
エゼキエル37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
主は、枯れた骨さえも生き返らせる事ができるお方。
しかし、主がそれを成して下さるかどうかは、エゼキエルが言った通り、「主こそご存知」なのである。
私達がするべきは、ただ、主の約束の御言葉を信じて、祈り求める事だ。
詩篇85:7 主よ、あなたのいつくしみ(ヘセド)をわれらに示し、あなたの救(イエシャー)をわれらに与えてください。
ここの「救い」はヘブライ語でイエシャー、イエス様の御名イエシュア(彼は救い)と親類である。
救いは、ただ一方的な恵みであり、それは、主イエス様から来る。
詩篇85:8 わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。
詩篇85:9 まことに、その救は神を恐れる者に近く、その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。
この詩篇の作者は、「神の仰せを聞こう」と願っていた。(8節)
彼には、主に対する恐れと、主への敬いがあり、主と論じあおうという意欲がある。
主の「救い」は、このように主と関わり合おうと「心意気」のある人に対して近く、救いの御手を伸ばして下さる。
主は、人格ある御方である。
異邦人が、祈り文句を何度も繰り返すのは、彼らにとっての「神」が、人格があるとは思っておらず、ただ呪文的に、同じ言葉を念じれば、超能力のようにそれが成る、と思っているのだ。
しかし私達は、生きておられる主と論じ合い、語り合おうとする心意気を、主に見せるべきだ。
詩篇85:10 いつくしみ(ヘセド)と、まこと(エメット)とは共に会い、義(ツェデク)と平和(シャローム)とは互に口づけし、
詩篇85:11 まこと(エメット)は地からはえ、義(ツェデク)は天から見おろすでしょう。
ヘセドは「良いこと」「誠実」「いつくしみ」の意味があり、エメットには「真理」「確かさ」「信頼できること」の意味がある。
私達には元々、真理(エメット)は無い。
義(ツェデク)も無い。
ただ裁かれると滅びる以外に無い、罪ある存在であった。
しかしイエシュア、すなわち、その名が「救い」というイエス様が、罪ある私達の身代わりに、十字架にかかってくださり、ヘセド(いつくしみ)をほどこしてくださった。
それ故、私達はイエス様にあって義(ツェデク)とされ、神との和解(シャローム)がもたらされた。
ヘセド(恵み)とエメット(心理)を出会わせ、ツェデク(義)とシャローム(平和)を互いに口づけさせて下さったお方が、イエス・キリストである。
そして、イエス様を信じて、神様と和解する結果、地は、良いものが生じるようになる。
詩篇85:12 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。
詩篇85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。
御言葉であられる主は、生きておられ、人格ある御方である。
この主と積極的に論じ合い、語り合おうと心意気ある人、すなわち、「イエシュア(彼は救い)という名前のイエス」の名によって求める事こそが、救いと祝福の最短ルートなのだ。
主日礼拝
祭司となって祈るべき祝福祈祷(民数記6:24-26)
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週報/メッセージ(説教)概要
今回の民数記6:24-26は、祭司はこのように祝福しなさい、と言われた、祝福祈祷文である。私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、王族の祭司とされた(1ペテロ2:9)。それ故、積極的にこの祈りで家族や職場、自分の人生を祝福したい所である。しかし祝福をするに相応しい者となるため、全ての悪意やごまかし、色々の偽善やねたみ、悪口を捨て、生まれたばかりの乳飲み子のように純粋な御言葉の乳を慕い求める必要がある(同1-2節)。そうするとキリストを通じて生ける石として霊の家に築き上げられ、聖なる祭司として、霊のいけにえが捧げられる、と書いてある(同3-5節)。そういう人の祝福には、力がある。
今回の、この有名な、私達も積極的に宣言すべき祝福祈祷文は、どのような意味と力があるのだろうか。
この祝祷の最初は、「祝福する(バーラフ)」という動詞の、PIEL態(強意、断じて**する)で始まる。「主が断じてあなたを祝福して下さいますように!」という強意が込められているのだ。しかし、何よりもまず私達は、御言葉の乳を慕い求め、御言葉のバリケードを張り巡らす事をするべきだ。なぜなら、せっかく祝福してもらっても、また宣言しても、罪と呪いのパターンを持っているなら、祝福は逃げて行ってしまうからだ。
祝福(バーラフ)の最初は、「守られますように(シャマール)」である。シャマールの元々の意味は、羊飼いが羊を石垣で囲い、その上に、棘つきの植物を乗せて「厳重に守る」事である。だから、この宣言は、主が厳重にバリケードを張って、諸々の災いや、悪しき勢力から守って下さいますように、という宣言で始まる。
25節の「恵まれますように」のヘブライ語「ハーナン」は、目下の存在に対して、「親切にする」「好意を持つ、」「与える」といった意味があり、そこから、「恵む」「憐れむ」「情けをかける」と訳されている。
私たちは、神様からの、一方的な「ハーナン(恵み)」によって生かされている。空気や水、太陽、食べ物、健康など、全て生存に必要なものは、一方的に与えられた「恵み」である。それら、生きるのに必要な全ての恩恵を、主が、御顔を照らす事によって満たして下さいますように、と祈る事が、二番目の祝福なのだ。
26節は、主が、その御顔を私たちに「向け(ナーサー)」、「平安(シャローム)」を与えられますように、という祝福で、「向けて」と訳されたヘブライ語「ナーサー」は、上げる、運ぶ、持っていく、などの意味がある。
いと高き神が、地に住む低く卑しい「人」に向かって、御顔を「上げる」「運ぶ」とは、一体どういう事だろう。
それはちょうど、母親が、赤ちゃんを顔の近くに抱き上げ、顔を合わせ、見つめ、安心させる様に似ている。
人は基本的に「楽」である事を求めるが、シャロームの平安は、それよりも遥かに大きな意味を持っている。
人々は「楽」である事を追求する故に、お金を稼ぎ、色々な労をするが、サタンはそれらをエサに人を釣ろうとする。その目的は、人生を破壊し、死に至らしめるためである。 人は、サタンからどんなに高い地位や栄誉、富を得たとしても、真の安らぎは無い。なぜなら、それを得る過程で、犯してきた罪の数々が、彼らを追いかけ、ついには滅びに至る事を、彼らは何となく知っているからだ。しかし、神が下さるシャロームの平安は、そうした恐れが一切無い。それは、「楽な状態であるか・否か」を超越した、揺るがない平安である。
赤ちゃんは、お金や地位、名誉が無い、と言って泣く事は無い。赤ちゃんは、お金や地位をどう使って良いかも、その価値も、知らないからだ。ただ、お父さん・お母さんの顔が見れないと、泣く。なぜなら赤ちゃんは、何の疑いも無く信じているからだ。お父さんお母さんが、無条件に自分を愛し、全て守り、必要を備えてくれる事を。だから、その顔が見れないと泣き、顔の近くへと抱き上げられ、見つめられると、喜ぶのだ。
神様の平安、シャロームを味わい、体験して行けば行くほど、私達も、神様に対して「赤ちゃん」のようになって行き、今どういう状況にあるのか、とか、何を持っている・持っていない、といった事を心配しなくなる。
ただ、神様が御顔を照らし、御顔を向けて下さるかどうか、それだけが、何よりも大事になって行くのだ。
私達は、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な御言葉の乳を慕い求めるべきである。それによって、祝福に追いかけられる側となり、また、祝福を祈るその祝福が、力を帯びるようになって、「祭司」として整えられて行くからだ(1ペテロ2:1-9)。さらに、御言葉を帯びる事によって、世とサタンに対して、ますます圧倒的に勝利する勇士となって行くのだ。今日も、主が御顔を向けて下さり、シャロームを与えて下さるために、純粋な御言葉の乳を慕い求め、キリストのことばを心に豊かに住まわせる事において最善を尽くし、政治、経済、文化、教育界を支配して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ただ言いつけられるだけの報われないしもべと、主人の食卓の喜びに共にあずかれるしもべの違い(ルカ17:1-10)
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- pastor 2021-10-27 8:40
夫婦関係、親子関係、ビジネス関係成功の秘訣は、仲睦まじさ(箴言15:16-17)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2021-10-26 8:40
夫婦関係、親子関係、ビジネス関係成功の秘訣は、仲睦まじさ(箴言15:16-17)
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主が定められた祝福祈祷(民数記6:24-26)
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今回の箇所は、大祭司が神の民イスラエルを、このように祝福しなさい、という、祝福祈祷文です。
キリスト教の礼拝では、両手を上げて祝祷しますが、イスラエルの祭司の祝祷の姿勢は、それとは違います。
まずヘブライ語の「ש」(シン)の文字を作り出し、そのようにした状態で、両手の親指・人差し指同士を合わせて、輪をつくり、ヘブライ語の「ס」(サメク)の文字を作り出して、それを空に向けます。
それでこの祝福祈祷文は、「サメク本文」とも呼ばれています。
ヘブライ語のシンは「聖である」という意味があり、同時に、「滅ぼす」という意味もあります。
つまり、神様が彼らを聖別し、彼らを蝕もうとするサタンの勢力を打ち滅ぼして下さるように、と、表現します。
そして両手を天に向けて「サメク」の語を作って宣布する事によって、神様が彼らを囲い、守って下さるように、と、象徴的に表しています。
民数記6:24 「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。
まずサメク本文は、「祝福する(バーラフבָּרַךְ)」という動詞の、PIEL態(能動・強意、断じて**する)で始まります。
主が、断じて、あなたを祝福して下さいますように!
という、強意が込められているのです。
「祝福(バーラフ)」の元来の意味は、「ひざをかがめる」、そこから「ひざまずく、あがめる、祝福する、賛美する、誉め称える」の意味となりました。
あたかも、親が、膝をついて子供の目線に合わせ、
よく食べなさい、健康になりなさい、と、愛の眼差しで目を向けてくれるかのように、
主がお一人一人を特別扱いし、特別保護対象にして下さいますように、という、素晴らしい願いが込められているかのようです。
私達も自分自身の守りのために祈る事は重要ですが、何より、私達自身が、テフィリン(御言葉暗唱)をする事によって、神様の言葉というバリケードを、私達自身に張り巡らす事が、何にも増して、有効です。
なぜなら、せっかく祝福を祈ってもらっても、本人自身が、祝福の囲いから出るような性質、つまり、罪や呪いの言動をする思考パターンがあるとするなら、たとえ祝福を受けても、たちまち祝福がその人から逃げてしまうからです。
祝福は、受けるにふさわしい人にとどまり、受けるにふさわしくない人から逃げていくものです。
テフィリンをして、昼も夜も御言葉を口ずさみ、思いと心に御言葉のバリケードを張った状態にしている人は、呪いをみずから招いてしまうような罪の性質が、どんどん消え去って行きます。
キリストとベリヤルは共存できないからです。
そして、ここにおける「祝福」の内訳は、「シャーマル」(שָׁמַר)、すなわち、「守られますように」です。
シャマールとは、羊飼いが羊を石垣で囲って、その垣の上にさらに棘つきの植物を乗せてバリケードを張る、というのが元々の意味で、そこから、厳重に守る、という意味になりました。
ですからこの宣言は、主が、あのサメクの字のように、囲いを設け、厳重にバリケードを張って、諸々の災いや、あらゆる悪しき勢力から、守って下さいますように、という宣言です。
民数記6:25 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。
「恵まれるように」のヘブライ語「ハーナンחָנַן」は、元々、目下の存在に、親切にする、身をかがめる、好意を持つ、与える、などの意味があり、そこから「恵む」「憐れむ」「情けをかける」と、よく訳されます。
知っていたでしょうか?
私たちは、実は、神様の一方的な「ハーナン(恵み)」によって、生かされている事を。
私たちが生命を維持していく上で必要なもの、例えば空気や水、太陽、食べ物など、これらは全部、神様が一方的に与えて下さった恵みです。
そして、私達の「健康」も、神様から与えられている贈り物であるという事を、忘れてはなりません。
もし心臓が突然、正常に活動しなくなったなら、数分も、生きながらえる事はできません。
そうした事を意識せずに生きている人が、残念ながら大部分です。
その 私達の生存において、全ての必要が満たされるように、と、サメク本文の二番目の祝福として、「恵まれますように」が示されています。
その恩恵を、主が「御顔を照らす」事によって、私達に施してくださいます。
詩篇80篇では、『神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。』という祈りが、3回も繰り返されております。(3,7,19節)
つまり、主が、ご自身の御顔をわたしに照らして下さるならば、神様との破壊された関係は、修復されます、もとの祝福された状態に戻ることができます、主が、ご自身の御顔をわたしに照らして下さるならば、破壊された生活が、建て直され、もとの、祝福の生活に戻ることができます、という祈りです。
主が、御顔を照らして下さるなら、そのような回復が可能である、と確信して祈るのが、詩篇80篇です。
ですから、主の御顔の光が向けられ、神様との関係や、生活が、回復されるために、まことの光であり、御言葉であられるイエス・キリストに帰るべきなのです。
民数記6:26 願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように
サメク本文・三番目の祝福は、主なる神様が、その御顔を私たちに「向けて(ナーサーנָשָׂא)」、平安(シャロームשָׁלוֹם)を与えられますように、という祝福です。
ここで、「向けて」と訳されたヘブライ語・ナーサーは、上げる、運ぶ、持っていく、などの意味があります。
いと高き神が、地に住む、低く卑しい人に向かって、御顔を「上げる」「運ぶ」とは、一体どういう事でしょうか。
それはちょうど、泣いている赤ちゃんを、母親が手で高く上げ、顔の近くへ運んで行き、顔と顔とを合わせ、じっと見つめ、赤ちゃんを安心させるような、様です。
平安と訳された「シャローム」というヘブライ語は、よく「平安」「安息」と訳されます。
基本的に、人は、安楽である事を求めますが、シャロームの平安は、その「楽」である事よりも、遥かに大きな意味を持っています。
この世の人々は、楽な状態を追求するために、お金を稼ぎ、楽な仕事を好み、楽な状態を目標として、生きます。
時には汚い手を使ってでも、「楽」を手に入れようともします。
しかし、そのようにして「楽」を追求する人々は、実は、神様の「シャローム」の平安を見い出す事は難しいのです。
サタンは、この世の富や地位、栄誉が由来の「安楽さ」をエサにして、人々を釣りますが、その目的は、人を揺さぶり、破壊し、死に至らしめる事です。
人は、サタンから、どんなに高い地位や栄誉、また富を得たとしても、真の安らぎは、得られません。
どれほどお金や地位を得たとしても、それを得るために犯してきた罪の数々が、彼らを追いかけ、ついには滅びへと導く、という事を、彼らは何となく知っているからです。
神様が下さるシャロームの平安は、そうした恐れが一切無い、世の何物にもまさる平安です。
それは、「楽」な状態であるか・ないかを超越した、揺るがない平安なのです。
主が与えて下さるシャロームは、たとえ、肉体的に、あるいは、金銭的に、どんなに苦しい状況であったとしても、心が100%「大丈夫だ」と、安息しているのです。
赤ちゃんは、お金や地位、名誉が無い、という理由では、泣きません。
ただ、お母さんやお父さんの顔が見れないと、泣きます。
そして、顔近くへと抱き上げられて、じっと見つめられると、安心して喜びます。
赤ちゃんには、そもそも、お金や地位といった、余計な知識は、ありません。
ただ自分を愛し、大切にし、守ってくれて、そして、全ての必要を備えてくれる、お父さんとお母さんこそ、かけがえの無い存在だと、生まれながら知っているからです。
また、お父さんやお母さんが、どんなに今の生活や将来や、お金の心配をしたからといって、子供は心配しません。
なぜなら子供は、お父さんやお母さんなら、なんとかしてくれる、と、信じて疑わないからです。
だから私達もまた、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な御言葉の乳を慕い求めるべきです。
『今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。』(1ペテロ2:2)
赤ちゃんのように主の御顔を慕い求め、そしてサタンに対しては、御言葉で完全武装した兵士となるのです。
今日も、神様が御顔を向け、シャロームを与えて下さるために、純粋な御言葉の乳を慕い求め、キリストのことばを心に豊かに住まわせる事に、最善を尽くしましょう。





