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肉体が衰えても全く問題がない人になるために(2サムエル記21:15-22)
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『ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。』(2サムエル記21:15)
ペリシテ人はまたしても巨人を動員してイスラエルに戦争を仕掛けて来たので、ダビデは部下を引き連れて戦いに出た。

ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。

『時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。』(2サムエル記21:16-17)
ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。

ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。

私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。

『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。

ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。

サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。

私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。
キリスト教は、伝道はする事は頑張っても、信仰を子々孫々へと継承して行く事をおろそかにして来てしまったため、せっかくリバイバルが起きたとしても、残念ながら次世代へと中々つながらないケースが、世界各地に見られる。

それに引き換え、ユダヤ人は、離散してから2000年経っても決して信仰は廃れず、およそ二千年ぶりに失った国土を回復するまでになったのは、ひとえに主から頂いた御言葉を大切にし、信仰を子々孫々に継承する事を徹底して守り行って来たからだ。
『イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(申命記6:4-9)

私達の戦いは、血肉によるものではない。御言葉や信仰を武具とした、霊の戦いである。
ダビデの体が老いて行ったように、私達の体も、日々衰えるが、主に信頼する者は、力を得、鷲のように登っていく事が出来、内なる人は日々、新たにされて行く。
パウロは最後まで「わたしにならう者となってください」と言って、彼について行った弟子たちに立派な”背中”を見せつつ、信仰の道を走り通し、義の栄冠を勝ち取った。
私達もパウロのように、生涯現役の信仰の勇士として信仰の戦いを果敢に戦い、子々孫々に信仰を継承して行く者でありたい。

十字架を嫌々ながらでも負う事でもたらされる祝福(マタイ27:32)
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週報/メッセージ(説教)概要

この度も、コーヘン神学大学から多くの有益な学びを得た。今、主にある働き人達が世界でいかに福音を伝え、主ご自身がいかに世界各地で働かれておられるか、同時に、悪魔がいかに最後の悪あがきをしているかを知ることが出来た。そして、ヘブル思考による聖書の直接的学びからは、特に「行いを伴った信仰」の重要性を、マタイの福音書やハバクク書、ヤコブ書から学んだ。ルター達の宗教改革以来の500年、教会は信仰義認を全面的に出し、行いを伴った信仰と、それによる祝福を、ないがしろにして来た。
この、「信仰だけで救われる」という教えの無力さに行き詰まりを覚えているクリスチャンは多く、また、行いを軽んじて来たヨーロッパ教会の凋落ぶりも、激しくなって来ている。今回コーヘンで学んだ行いの信仰」の中から、特に、クレネ人シモンの行い、それも、嫌々ながらであっても十字架を負う事の祝福を学びたい。

『彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を「無理に:アンガレオー(徴用する、強制的に使役する。蛇足:韓国語でアンガレヨは「行きたくない」)」負わせた。 』(マタイ27:32)
イエス様は、ゴルゴダの丘の十字架刑場まで、最後まで十字架を負って行く事ができず倒れてしまった。彼は前の晩から、ピラトの前で、釘や石が仕込まれた鞭を打たれ、既に大量の血を流していたからである。
そこを、たまたま通りがかったクレネ人シモンが、ローマ兵の目にとまり、徴用(アンガレオー)されたわけである。彼は、田舎から出てきた(マルコ15:21)、黒人(使徒13:1)であったため、強靭そうに目えたのだろう。
シモンは突然、罪人の死刑道具である十字架を負わされ、彼の妻も、息子・アレキサンデルとルポスも、父そして夫が突然、このような事になってしまったのを見て、どうなるのかと泣きながらついて行った。
しかし、シモンの嫌々ながらのこの徴用(アンガレオー)は、彼と彼の家族に、多くの祝福をもたらした。

彼としては、誰とも知れない死刑囚の十字架を突然、無理矢理負わされ、とんだとばっちりだ、私は違います、一緒に行きたくない、と思ったかもしれない。しかし、この十字架を負っていたイエスという人と同行する内に、この人の趣きは、死刑に当たるような人ではない事に、むしろ、彼の聖なる品性に、気づいて行く。
彼には、大勢の女達が泣きながらついて来ている。イエス様の弟子達は一人残らず逃げてしまった為、無力な女だけが残って、十字架の後を従って来ていたのだ。そんな彼女達は、シモンに声をかけたであろう。
「本当に、ありがとう。」「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。」「でも、力が無いので出来なかった。」「イエス様の十字架を一緒に負ってくれて、本当にありがとう。」
ゴルゴダの刑場に至った時、シモンは十字架を降ろした。もはや即刻、家族と家に帰っても良かったはずだったが、彼も、彼の家族も、イエス様の十字架上の成り行きに釘付けになり、最後まで見守った。
群衆の罵声の中、彼らはイエス様の十字架上の7つの言葉を聞き、そして、彼が息を引き取った時に起こった色々な天と地のしるし(マタイ27:51-54)を見た。その時、百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と言ったが、この時、シモンも、彼の家族も全員、イエス様を信じるようになった。
そしてイエス様の復活以降、彼らは家には帰らず、弟子達と共に120人の集い(使徒1:15)の中でペンテコステを迎え、共に聖霊を受けた。それから彼らは、主と共に生きようと決心し、家に帰って全ての財産を整理して、主のために生きよう、と、パウロと一緒にアンテオケに行く。使徒13:1を見ると、ニゲル(黒人)と呼ばれるシモンが、アンテオケ教会の指導的立場として、礼拝を導いている様が記されており、そして、シモンの息子・アレキサンデルは、クレネの牧会者になり、後の、使徒パウロの後任者になったそうである。
シモンがあの十字架を負ってから30年後、シモンの妻と子のルポスは、ローマ教会の指導者となっている。
シモンの妻は、パウロから「お母さん」とも呼ばれるようになった。 ロマ書16章13節で、パウロは記している。「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」パウロに「母」と言わしめるからには、彼女はどれ程、パウロを祈り、パウロの応援者として霊肉共に支えて来た事だろう。
さらには、歴史家ヨセフスによると、彼の11代目の孫は、ローマ帝国においてキリスト教を自由にした、コンスタンティヌス皇帝であるとされている。これが、無理矢理に十字架を背負わされた祝福である。
今、嫌々ながらでも主の仕事をしている時、この内容を思い出すべきだ。たとえ強制的にであっても、後にはこんなにも大きな栄光があるのだ、と。シモンのように、今背負っている十字架によって、自分自身や家族に、子や孫に、大きな恵みをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

汚れた思いを吹き込んでくる根源を攻撃する方法(2コリント10:4-6)
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週報/メッセージ(説教)概要

前回、悪魔サタンはどのような存在であるかを学んだ。暫く、この悪魔やサタンなどの敵について学びたい。
悪魔(ディアボロス)は、訴える者、告発し、誹謗中傷する者で、サタンは「敵」であるが、私達キリスト者と、これに類する者共とは権威的上下関係にあり、私達のほうが圧倒的に格上、悪魔サタンは格下である。
もし悪魔がキリスト者を操るとするなら、それは「偽り」をキリスト者に信じこませる事によってである。
だから、私達の戦いの領域は、自分の「思い」の中にこそある。サタンは、思いの中に偽りを吹き込んで、人を操るが、今回特に、この「思い」の領域に仕掛けて来るサタンの攻撃に対抗する方法を学びたい。

思いの中に悪魔が踏み込む足場を作ってしまった人に、悪魔はそこを足がかりとして火矢を飛ばして来る。
サタンは、ダビデにイスラエルの兵力を数えさせようという思いを吹き込み、ダビデはそれに乗ってしまってイスラエルに災いをもたらした(1歴21:1)。これはダビデの「高慢」にサタンが足場を得たケースである。
マリリン・モンローは、人々の注意をひきたいという願望が悪魔につけこまれ、礼拝で賛美が流れる度に、着ているものをみんな脱ぎ捨て、礼拝中、神と人とに裸を見せたい、という衝動に駆られたそうである。
彼女は、受け入れられる、という事が無かったため、白日夢によって自分を元気づけていたと回顧している。
つまり、普段から「思い」の中で悪魔と会話していた、という事だ。だから、寂しさを紛らわすために独り言が多かったり、誰もいないのに会話したり、突然笑い出したりするような「くせ」がある人は、注意した方がいい。
空中には邪悪な者がおり(エペソ2:2)、独り言を言うと、空中にいる者がそれを聞いていて、寂しさなら寂しさの霊を、怒りなら怒りの霊を、淫乱なら淫乱の霊を引き寄せ、そのような邪悪な色(思い)に染められた霊と交わり、一つとなり、支配されてしまう足がかりを作ってしまうからだ。
彼女の場合、恐らく「人々の注意を引きたい」という願望を、夢(霊)と会話する内に告白してしまい、そこに悪魔が足がかりを得、聖なるものを汚す形で発散させたい衝動を吹き入れられ、彼女はそれを自分由来と思って、ますます、自分は聖なる者に対抗する淫らな者だ、と自己認識を強化して行ったのだろう。
騙されてはならない。汚れた思いは、自分に由来するものではなく、悪しき者の由来である。

思いの中に汚れ事を吹き込んで来る悪魔に対抗する方法がある。『私達は様々な「議論(新共同訳:「理屈(イマジネーション)」 )を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる「障害物(新共同訳:高慢)」を打ちこわし、すべての「思い(新共同訳:思惑(考え))」を「とりこ(逮捕)」にしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリ10:4-6)
つまり、この「思い」の中に仕掛けてくる議論、理屈、イマジネーション、あらゆる障害物や高慢が来た時は、それを「逮捕」してキリストの所に持って行き、そして、私達自身はキリスト(御言葉)に服従する事だ。
この服従が完全になる時、全ての不従順な者が処罰される用意が、整うのである。
すなわち勝利の方法とは、私達自身を御言葉なるキリストに服従させ、御言葉の前に身を委ねる事である。
『神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』(ヘブル4:12)

敵は、目に見える兄弟姉妹ではなく、目に見えないサタンである。
サタンは、物陰から矢を射掛けて人を攻撃しては隠れ、攻撃を受けた人は振り向いた時たまたまそこにいた人を攻撃し、攻撃された人はわけも分からずに、攻撃されたのでやり返す・・・といった、本質から逸れた空回りの内紛を、私達兄弟姉妹の間に起こさせる。空中の権威も、暗闇の支配も、悪の諸霊も見る事はできないが、私達が戦うべき相手は血肉(人間)ではなく、これら、見えない闇の存在なのだ。(エペソ6:12)
もし今、誰か具体的に兄弟姉妹へ憎しみを募らせているなら、あるいは、穢れた思いに囚われているなら、目に見える兄弟姉妹ではなく、あるいは自分自身のせいにするのでもなく、攻撃の大元である物陰から矢を射掛けて来た悪しき者を、御言葉のサーチライトで照らし、御言葉の剣によって攻撃するべきである。
攻撃の矢を防ぐ事ができるのが、救いのかぶとや義の胸当て、信仰の大盾であるが、ただ、防いで耐えるだけでは能が無い。御言葉の剣を取り、囚われている自分を、兄弟姉妹を解放し、勝利の道を歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
主の器を運ぶ働き人の心得(イザヤ52:11-15)
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早天祈祷会

過越の4つの杯(出エジプト記13:1-10)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ

ゲツセマネの祈り - 杯とは(マタイ26:36-46)
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イザヤ書講解説教メッセージ

執事シェブナと宮内長官エルヤキム(イザヤ22:15-25)
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【概要】

本日のお言葉は、イザヤ書22章15節から25節を中心に、神に完全に信頼する生き方と、世の力に頼ることの儚さを伝えています。神の戒めと慰めの中で、私たち自身の選択が未来を決定するという重いメッセージです。

【聖書箇所】

・イザヤ22:15-25

・イザヤ30:1-3

・イザヤ36:3

・黙示録3:7

【慰めの言葉】

神は、苦難と混乱の中にあっても、心を寄せる者を決して見捨てず、助けと慰めを与えてくださいます。絶望の時にも、その愛は変わらず、私たちを包み込みます。

【励ましの言葉】

どんなに困難な状況でも、主に信頼し歩む者には、希望と力が与えられます。自分の力だけに頼らず、神の助けを受け入れることで、真の安らぎと成長が実現されるのです。

【戒めの言葉】

誇り高く、現実的な力に頼ろうとする者は、神の御前に厳しい戒めを受けます。神のご意志を無視し、自己の利益や人間の知恵だけを信じる行いは、最終的に混乱と破滅を招くことを忘れてはなりません。

【勧めの言葉】

この御言葉は、私たち一人ひとりに、主の道を選び、謙虚に神に頼る生き方を勧めています。世の誇る力に目を奪われるのではなく、日々の信仰生活の中で神の導きを求める大切さを示しています。

【悔い改めの促しの言葉】

もし今まで、己の力や世の知恵に頼って生きてきたなら、今一度、心から悔い改め、主に寄り頼む決意を新たにしてください。神は常に、真に心を改める者に新しい恵みと再生の道を開かれます。

【***詳細***】

本日の説教では、まずイザヤ書22章15節から25節に記された、イスラエルの高官シェブナに対する神の宣告について語られました。神はその誇りに満ちた生き方を厳しく戒め、彼が自分のために高い墓を掘り、自己の地位や権威に誇りを抱いたことを非難されました。神はシェブナに対して、誇り高い行いが全く無意味であり、むしろそれが家の恥と堕落につながると告げます。ここには、どんなに豪勢な建築物や人間の力があっても、神の御心に逆らうならば、結局はその力は打ち砕かれるという厳然たる現実が示されています。

また、説教の中盤では、同じくイザヤ書30章の1節から3節を引用し、エジプトや他の国の力に頼ろうとする者たちへの戒めが語られました。イスラエルの民は、現実的な軍備や人間の知恵を頼りにしようとした結果、真の救いから遠ざかってしまう危険性を持っていることが指摘されました。神は、いかなる強大な世の力にも代えがたい、ただ主に対する信仰こそが確かな救いであると強調されました。実際に、イスラエルはその時代において、エジプトやアシリアといった外敵に頼るよりも、主に心を向けることで救いを得た歴史があるのです。

さらに、イザヤ書36章3節に記されるように、勇敢な士官たちであっても、神の前ではその傲慢さが打ち砕かれる運命にあるという点が示されました。具体的には、シェブナと対照的に、ヒルキヤの子であるエリアキムが神に従い、信仰によって国を支えた姿が描かれています。説教者は、エリアキムの謙虚な態度と、神の命令に忠実な姿勢が、たとえ小さな力でも大いなる結果をもたらすことの象徴だと説きました。

なお、説教の後半では、黙示録3章7節の御言葉が引用され、ダビデの家の鍵の権威についても触れられました。「彼が開くと閉じるものはなく、閉じると開くものはない」という約束は、真に信仰のある者には神の祝福が与えられ、また不信仰に陥れば王国失墜の危機があるという、重大な真理を示しています。ここで語られる「釘」の例えは、どれほど堅固に打ち付けられたものでも、信仰が腐ればそれ自体が脆くなり、支えていた全てのものが崩れてしまうという教訓として、私たちに深く語りかけています。

この説教全体を通しての核となるメッセージは、信仰によって生きることの大切さです。偉大な権威や豊かな物質的安全を誇示しても、もし主への信頼が欠けていれば、その基盤はいつか必ず壊れてしまいます。実際、イスラエルの歴史は、偽りの安全や人間の知恵だけに頼った結果、悲劇や捕囚を経験してきました。対照的に、真に主に信頼する者は、どんな困難な状況にあっても、神の守りと恵みによって守られ、永遠の祝福が約束されるのです。

説教者は、具体例として、古代イスラエルの高官シェブナとエリアキムの対比を取り上げました。シェブナは自らの有り余る権威と豊かな財産に安心を抱いていましたが、その結果、神の怒りを買い、家の栄光を失いました。一方でエリアキムは、たとえ小さな役職であっても、心から主に従い、その従順な信仰により神の恵みを受け、イスラエルの未来に希望を与える存在となったのです。この点は、私たち一人ひとりにも当てはまります。たとえ地上的には小さな立場であっても、主に心を寄せ、その導きに従うならば、真の意味での繁栄と祝福が与えられるのです。

また、説教では現代における「地下シェルター」や「迅速な逃走」といった比喩を用い、私たちが直面する現実の災厄や不安定な状況に対して、物質的な安全策ではなく、信仰に基づく心構えが最も重要であるという教えが説かれました。どれだけ最新の安全設備や防衛力があっても、人間の力に頼る限り、永続的な安心は得られません。むしろ、主にすがり、毎日の祈りと悔い改めを通して神との交わりを深めることこそが、真の守りとなるのです。

最後に、この御言葉は私たちに自由な選択を迫っています。世の中の誇る権力や知恵にとらわれるか、あるいは謙虚に神に従う道を選ぶか。その選択が、私たち自身の未来はもちろん、永遠の行く末をも決定付けるのです。説教者は、集まった皆さんに対し、「私たちは今、この瞬間に、心から神に従う選択をし、主の御名によって生きる決意を新たにしましょう」という強いメッセージを送っています。そして、主の祈りを通して、一人一人が新たな信仰の力を体験し、自らの生活の中で具体的に主の御旨を実現していくことを励ましています。

【結論】

この御言葉は、私たちに誇り高い現実の力に頼るのではなく、謙虚に主に従って生きることの大切さを教えています。シェブナの失墜とエリアキムの栄光を通して、どんな小さな信仰でも主により頼むならば、真の祝福と守りが約束されるのです。私たち一人ひとりが、この真実を心に刻み、日々の生活の中で主の道を選び取るよう、改めて祈り求めましょう。

火曜早天祈祷会

訴えるサタンを訴え返し、弁護して下さる主(ゼカリヤ3:1-5)
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飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
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サウル王は民族意識が昂じて平穏に信仰生活していたギブオン人を虐げた結果、ダビデの治世に飢饉がもたらされ、しかも、その罪がなだめられるためには、サウル自身の子孫七人が、主の前で木にかけられ、晒し者にされなくてはならなくなってしまった。

主の約束を軽んじ、ふにゃふにゃの民族意識を昂じさせ、手前勝手な熱心を振り回して善良に暮らしている民族を弾圧する者は、その累が自身の子孫へと及んでしまうのだ。

『しかし王はサウルの子ヨナタンの子であるメピボセテを惜しんだ。彼らの間、すなわちダビデとサウルの子ヨナタンとの間に、主をさして立てた誓いがあったからである。』(2サムエル記21:7)
ダビデはヨナタンに、彼の子孫には恵みを施す誓いを、主の前でしていたため、ヨナタンの子・メフィボシェテを守るために、別のサウルの子孫達を選別した。
『王はアヤの娘リヅパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメピボセテ、およびサウルの娘メラブがメホラびとバルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、彼らをギベオンびとの手に引き渡したので、ギベオンびとは彼らを山で主の前に木にかけた。彼ら七人は共に倒れた。彼らは刈入れの初めの日、すなわち大麦刈りの初めに殺された。』(2サムエル記21:8-9)

アヤの娘・リツパは、元々サウル王のそばめで、サウル王に二人の子・アルモニとメフィボシェテを産んでいた。
サウル王の死後、サウル王家の実権を握った将軍アブネルは、彼女をめとる事によって、自分に実権があるという事を全イスラエルにアピールしたが、アブネルも程なくヨアブによって殺されてしまった。(2サムエル3章)
そんなリツパにとって、この二人の子は、生きがいであっただろう。
しかし彼女の子達は、大麦の刈り入れの始め頃(過越祭の時期)、山の上で木に掛けられ殺されてしまった。

『アヤの娘リヅパは荒布をとって、それを自分のために岩の上に敷き、刈入れの初めから、その人々の死体の上に天から雨が降るまで、昼は空の鳥が死体の上にこないようにし、夜は野の獣を近寄らせなかった。』(21:10)
彼女は、息子たちが木にかけられた日以来、神が天からの雨を降らせる時まで、そこを離れず、猛禽や獣から息子たちの遺体を守り続けたのだ。

ここまで徹底した愛、子が死体となって晒されても、なお守ろうとする「母の愛」。
これ以上の愛は、人には無い。
子がぐれて悪くなり、皆からは「死人」のように見なされても、それでもその子をいつも想い、守り、執り成す。
母とは、そういうものである。

しかし、それよりももっとすごい愛が、この世に存在する。
それは、神の愛である。
『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。 』(イザヤ49:15-16)

世の中には、自分が産んだ子をあわれまないような母親は、滅多にない。
しかし、たとえ母が子を忘れるような事があっても、それでもなお私達をいつも気にかけ、「言いようもない深いうめき」によって執り成して下さる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。
たとい私達が、罪にまみれ、汚れに陥り、死人のようになったとしても、それでもなお深く憐れみ、弁護し、主の御前に正しく立てるまで、執り成しておられる。

『アヤの娘でサウルのめかけであったリヅパのしたことがダビデに聞えたので、ダビデは行ってサウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシギレアデの人々の所から取ってきた。これはペリシテびとがサウルをギルボアで殺した日に、木にかけたベテシャンの広場から、彼らが盗んでいたものである。ダビデはそこからサウルの骨と、その子ヨナタンの骨を携えて上った。また人々はそのかけられた者どもの骨を集めた。』(2サムエル記21:11-13)
リツパのその行動は、ダビデ王の心を動かした。

『こうして彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のゼラにあるその父キシの墓に葬り、すべて王の命じたようにした。この後、神はその地のために、祈を聞かれた。』(2サムエル記21:14)
長年の間、忘れ去られていたサウルとヨナタンの骨も、また、この度主の前で犠牲となったサウルの子孫達の骨も全て、彼らの故郷・父キシュの墓へと葬るように、ダビデはさせた。

リツパが若い時にサウル王のために産んだ子供たちは、父の罪の故に、犠牲にされてしまった。
しかし、彼女がその遺体を守り続けた事によって、ギブオン人はなだめられ、神はなだめられ、日照りと乾燥の中ずっと遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ぶりの、恵みの雨が降り注いだのだ。
その雨は全イスラエルを潤し、イスラエルの多くの民にパンをもたらした。

私達もまた、父アダムの罪の故に、呪いが定められてしまっていたが、キリストもまた大麦の刈り入れの頃、母マリヤに見守られている中、木にかけられ、呪われた者とされ、神と人との前で晒しものとされた事によって、父なる神はなだめられ、彼を通して、全人類に恵みと慰めの雨が降り注いだのだ。
大きな愛は、人の罪と弱さを覆い、人を回復させ建て上げ、多くの人を潤し、恵みへと導く。
このキリストの愛に浸され、潤され、さらに多くの愛を触発しつつ、福音は今に至って広まりつつあるのである。

ギブオン人の故の呪い(2サムエル記21:1-6)
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2サムエル記は、一章から八章までは、サウルの死から、ダビデ王国の全盛に至るまでの記録が記されており、九章以降はダビデの罪とその刈り取りの災いの記録が記されている。

この災いは、クーデターを起こした息子アブシャロムの死によって、一旦収束を迎えた。それが前回・二十章までの所である。
そして、2サムエル記の二十一章以降は、ダビデ治世で起きた付録的な事が記されている。

『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである」。そこで王はギベオンびとを召しよせた。ギベオンびとはイスラエルの子孫ではなく、アモリびとの残りであって、イスラエルの人々は彼らと誓いを立てて、その命を助けた。ところがサウルはイスラエルとユダの人々のために熱心であったので、彼らを殺そうとしたのである。』(2サムエル記21:1-2)
ここに登場するギブオン人は、本来、聖絶されるべきカナン人であった。
彼らは、ヨシュアがカナンに攻め込んできた時、他のカナン人達が徹底抗戦の構えを見せる中、ギブオン人だけはイスラエルとの和平工作を画策し、彼らはあたかも遠い国から来たかのように変装してイスラエルをだまし、和平の不可侵条約を結ぼうとした。

彼らはヨシュア(イエシュア)に、直接交渉している。
『「われわれはあなたのしもべです」。ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたはだれですか。どこからきたのですか」。彼らはヨシュアに言った、「しもべどもはあなたの神、「主(エホバ)」の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。』(ヨシュア記9:8-10)

ギブオン人は屈強な戦士で、その町も大きく堅固であった(ヨシュア記10:2)にもかかわらず、彼らは主の民イスラエルと戦おうとはせず、武具ではなく、ぼろぼろの服を身につけ、主と主の民の前に低くなった。
彼らがそのように自らを低くしたからこそ、主は彼らを救わせたのではないだろうか。(詩篇96:7-10)

結局、イスラエルはだまされた形でギブオン人と和平条約を結び、イスラエルの人々は三日後、それに気づいた。
欺かれたとはいえ、イスラエルは彼らに手を出さない、と、主の御前に誓いを立ててしまった以上、彼らはギブオン人に手出しできなくなった。
『そこでヨシュアは、彼らにそのようにし、彼らをイスラエルの人々の手から救って殺させなかった。しかし、ヨシュアは、その日、彼らを、会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で、たきぎを切り、水をくむ者とした。これは今日までつづいている。」(26-27節)

彼らは確かに「うそ」によってイスラエルの中に入ってきたが、イスラエルに入ってきて以降、彼らは以前カナンで行っていた偶像礼拝や暴虐、不品行などは捨て去り、主の祭壇や主の会衆のために、たきぎを切ったり、水を汲んだりして奉仕して行く内に、清められて行ったのだろう。
もし、彼らがそのまま邪悪な生活を続けていたとしたなら、和平条約など関係なくイスラエルから即刻絶たれるはずであり、イスラエルの中で生き残る事は出来なかっただろう。
彼らは日々、神の家のために、イスラエルの会衆のために奉仕をし続けて行く内に、以前の邪悪な行いは捨て去り、悔い改め、主を愛する心が芽生えて行った、にもかかわらず、サウルは誤った熱心によって彼らを殺し、追い払おうとしたのだ。

『それでダビデはギベオンびとに言った、「わたしはあなたがたのために、何をすればよいのですか。どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」。』(2サムエル記21:3)
ダビデは、どう償えばあなた達ギブオン人は快くイスラエルを「祝福」してくれるのか、と聞いている。
つまりダビデ王は、ギブオン人の「イスラエルを呪いいたい心境」を恐れ、なんとかそれを「祝福したい心境」へと持って行きたいと思っているのだ。
なぜならこの事は、先代王のサウルがギブオン人の血を流し、イスラエルから根絶しようとしたのが原因だと、主が明らかにされたからだ。
私達も、兄弟姉妹から呪われるような事をしているなら、彼らが陰で呪ったその言葉によって主から呪いを受け、そして祝福されるような事をしているなら、彼らが陰で祝福したその言葉によって、主から祝福をもらえるのだ。

それにしても、なぜサウルの代に災いが起きるのではなく、ダビデの代に起きたのだろう。
サウルは他にも色々な罪を犯したが、その報いは彼自身が受け、死をもって刈り取った。
しかし、後の代になってから、主がわざわざ飢饉を起こされた、という事は、もしかすると、サウルの代でイスラエル人に埋め込まれたギブオン人への差別と偏見が根強く残り、ギブオン人のうめきがいよいよ切になって、祈りが天に届いたのかもしれない。

神の国の中においても、色々な成り立ちで、救いへと入ってきた人達がいる。
その中にはギブオン人のように、「うそ」が取っ掛かりとなって教会の集いに入って来た人達も、もしかしたらいるかもしれない。外面的には信仰を装っておきながら、実は、教会の中の女性が目当てだとか、善良な彼らをだまして何かするため、等など。
しかし、最初の動機がどうあれ、教会のため聖徒のために奉仕をしていく内に、ギブオン人のように清い性質へと造り変えられ、真に救われて行く人も、また多い。
重要なのは、以前どうであったかではなく、今、主の交わりの中においてどうであるかである。

以前、どんな性質の人であったとしても、もはや悔い改めて邪悪な性質を捨て去っており、神のために奉仕に勤しんでいるのなら、同じ主にある兄弟姉妹として、平和に接するべきである。
それをサウルは、身勝手な民族意識を振りかざしてギブオン人を殺し、そうしてギブオン人に、イスラエルを呪うような気持ちにさせてしまった。
私達は、このサウルの道を歩んではならない。

『ギベオンびとは彼に言った、「これはわれわれと、サウルまたはその家との間の金銀の問題ではありません。またイスラエルのうちのひとりでも、われわれが殺そうというのでもありません」。ダビデは言った、「わたしがあなたがたのために何をすればよいと言うのですか」。
かれらは王に言った、「われわれを滅ぼした人、われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人、その人の子孫七人を引き渡してください。われわれは主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」。王は言った、「引き渡しましょう」。』(2サムエル記21:4-6)

世の中には、ちょっとした被害を”ねた”として、過度な金銭を求めたり、過度な暴力で仕返しをする人は多い。
それなのに、ギブオン人は”ちょっとした”どころではない被害なのに一切求める事は無く、この問題はむしろ、主・エホバの問題であると言った。
それ程までに彼らの信仰は純粋となっていたのだ。

彼らはサウルを、「われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人」と言った。
主を愛する人にとって、神を礼拝する場所から追い出される事や、神の臨在の領域から閉めだされる事は、何にも代えられない苦痛である。
その人が主に訴えるなら、主は、神の家全体を飢餓に陥れてでも、その訴えを聞き届けられる。

現代、神の家である私達・教会は、よくよく気をつけるべきだ。
以前がいかなる状態であったとしても、またいかに「うそ」によって救いに入って来たとしても、ギブオン人のように、罪深い行いを止め、悔い改め、新しく主に仕える聖なる生活をするなら、主から弁護される。
しかし、そのように悔い改めた彼らを、サウルのように、誤った熱心で虐げるなら、その人が主に叫ぶ時、主から呪われてしまう。

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