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ダビデに仕えた勇士たち - 登録された三十勇士と除外されたヨアブ(2サムエル記23:18-39)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
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- pastor 2015-11-19 21:41
ダビデに仕えた勇士たち - 登録された三十勇士と除外されたヨアブ(2サムエル記23:18-39)
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前回に続き、ダビデに仕えた勇士たちが名を連ねている。
『ゼルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイは三十人の長であった。彼は三百人に向かって、やりをふるい、それを殺した。そして、彼は三人と共に名を得た。彼は三十人のうち最も尊ばれた者で、彼らの長となった。しかし、かの三人には及ばなかった。』(2サムエル記23:18-19)
ヨアブの兄弟・アビシャイは、ダビデがサウルに追われていた時から頻繁に活躍している。
直近では、ダビデが老いて戦いに疲れ、危険にさらされた時、ダビデを救ったのも、彼であった。
アビシャイは、かの三人よりも力の面では及ばなかったものの、おそらく、政治力や統率力など他の面で秀でていたために、三十人の長として用いられたのだろう。
『エホヤダの子ベナヤはカブジエル出身の勇士であって、多くのてがらを立てた。彼はモアブのアリエルのふたりの子を撃ち殺した。彼はまた雪の日に下っていって、穴の中でししを撃ち殺した。彼はまた姿のうるわしいエジプトびとを撃ち殺した。そのエジプトびとは手にやりを持っていたが、ベナヤはつえをとってその所に下っていき、エジプトびとの手からやりをもぎとって、そのやりをもって殺した。・・・彼は三十人のうちに有名であったが、かの三人には及ばなかった。ダビデは彼を侍衛の長とした。』(2サムエル記23:20-22)
ベナヤは祭司エホヤダの子で、ヨアブの元では、外国の雇用兵の長であった。(2サムエル記20:23)
後に王権がソロモンの代になると、彼は、ソロモンの命によってヨアブを殺し、ヨアブに代わって軍団長の座に着く事になる。(後述)
24節から、39節までは、ダビデの三十勇士のリストとなる。
『三十人のうちにあったのは、ヨアブの兄弟アサヘル。ベツレヘム出身のドドの子エルハナン。・・(中略)・・ヘテびとウリヤ。合わせて三十七人である。』(2サムエル記23:24-39)
この節中に登場する名前を数えると、32人となる。
その内、ヨアブの兄弟アサエル(24節)は、サウル王の将軍だったアブネルによって殺されてしまい、また、ヘテ人ウリヤ(39節)も、ダビデによって謀殺されてしまった。
その2人の補充として2名が加えられ、そうして合計32人が記されたのだろう。
さらに、8節から23節までに名を連ねている5人を加えると、「三十七人」となる。
この勇士たちの中に「ギロ出身のアヒトペルの子エリアム」(34節)が名を連ねているが、アヒトフェルは、アブシャロムの謀反に加わってダビデを裏切ったものの、彼の立てたはかりごとが採用してもらえず、自殺してしまった。(2サムエル記17:23)
そして、エリアムの娘は、ヘテ人ウリヤの妻バテ・シェバである。
ダビデは、このバテ・シェバと姦淫を犯し、ウリヤを謀殺したのだ。
このように、ダビデの勇士の中には、色々な国籍や生い立ち、バックグラウンドを持った人達がいる。
主君のために大いに忠誠を尽くした人もおれば、主君が犯した罪の犠牲となってしまった人もいる。
それでも彼らは、三十七人のリストから抜かれる事なく、神の国イスラエルの建て上げに貢献した者として、しっかり名が記録されている。
ところで、サムエル記全体を通じて、軍事的な面でもっとも活躍した人といえば、間違いなくヨアブであろう。しかし、彼の名がここのリストに「登録されていない」事も、注目すべきである。
ヨアブは、ダビデに対して度々の命令違反を犯し、ダビデを軽んじていたばかりでなく、後のダビデの後継者争いでアドニヤのほうを支持してたため、ソロモン王の指示により、エホヤダの子ベナヤの手で殺される事になってしまう。(1列王記2:29−35)
どんなに活躍しても、主君を軽んじて不従順を重ね、主の御旨でない者を担ぎ上げてしまうなら、特別な地位から降ろされ、抹殺され、王国の勇士達のリストから除外されてしまうのだ。
現代の教会にも、色々なバックグラウンドを持った人達が集まっているが、私達・教会は、ダビデの勇士たちと同じように、信仰の戦士たちである。
私達の戦いは、身体的なものではなく、霊的なものであり、身に付ける武具も、物理的なものではなく、霊的なものである。
そして、戦うべき相手は、目に見える人間ではなく、主権、力、暗闇の世界の支配者である。(エペソ6章)
『それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。』(エペソ6:13-18)
私達も、まことのダビデであるキリストに従順し、主が与えて下さるこの霊的武具をよく駆使し、悪しき者に対抗し、よく戦うべきなのだ。
主君を軽んじ、従順しないで、身勝手な王を立てるなら、いかに「出来る人」であったとしても、ヨアブのように立場を追われ、除外されてしまう。
まことのダビデであり、私達の主君である主イエス・キリストに従順し、彼のために信仰の戦いを闘いぬき、多くを勝利し、分捕り、多くの聖徒達に良きものを受け継がせて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデに仕えた勇士たち - 三十人の長の三勇士(2サムエル記23:8-17)
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- pastor 2015-11-18 23:50
ダビデに仕えた勇士たち - 三十人の長の三勇士(2サムエル記23:8-17)
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ダビデは、自分は偉大な王にはなったけれども、そのすべてはただ主から与えられた、主が自分を立ててイスラエルを治める者としてくださった事を、最後の言葉で告白した。
この23章8節以降は、ダビデに仕えた勇士たちの名前が記されている。
『ダビデの勇士たちの名は次のとおりである。』(2サムエル記23:8)
ダビデ記とも言えるこの第二サムエル記の最後に、彼に仕えた勇士たちの名が記されている事には、意義がある。
イスラエルの栄光建て上げは、何も、ダビデ一人のわざではなく、その背後に王に仕え、神に仕えた勇士たちがいる事を、しっかり記録している。
『タクモンびとヨセブ・バッセベテはかの三人のうちの長であったが、彼はいちじに八百人に向かって、やりをふるい、それを殺した。彼の次はアホアびとドドの子エレアザルであって、三勇士のひとりである。
彼は、戦おうとしてそこに集まったペリシテびとに向かって戦いをいどみ、イスラエルの人々が退いた時、ダビデと共にいたが、立ってペリシテびとを撃ち、ついに手が疲れ、手がつるぎに着いて離れないほどになった。その日、主は大いなる勝利を与えられた。民は彼のあとに帰ってきて、ただ殺された者をはぎ取るばかりであった。』(2サムエル記23:8-10)
ダビデの三勇士の長は、たった一人で、八百人の敵を打ち倒した。
まさに、信仰による一人の人は千を打ち、ふたりは万を打つのだ。(申命記32:30)
第二の人・エレアザルもまた、みんなが後退した時でも一人で戦い、剣が手と一体化するまでに孤軍奮闘したが、「その日、主(エホバ)は大いなる勝利を与えられた。」。
信仰の人が、一人でも残って戦うなら、主がその人の信仰を汲み取って働いて下さり、全体を勝利へと導くのである。(1サムエル記14章)
私たちも、この日本という国の中において、祈りで戦う信仰の戦士達たち(エペソ6章)がいないような状況であっても、御言葉の剣を手放さず、御言葉の剣が、自分自身と一体化するまでに戦い続けるなら、主は、そのような人を通して、ご自身を表され勝利して下さり、そして勝利して得た多くの分捕りを、他の兄弟姉妹たちにも分け与える事が出来るのだ。
『彼の次はハラルびとアゲの子シャンマであった。ある時、ペリシテびとはレヒに集まった。そこに一面にレンズ豆を作った地所があった。民はペリシテびとの前から逃げたが、彼はその地所の中に立って、これを防ぎ、ペリシテびとを殺した。そして主は大いなる救を与えられた。』(2サムエル記23:11-12)
この三人に共通している事は、たとえ一人になったとしても決して後退せずに戦い、そして、主が彼らに勝利をもたらして下さった事だ。
彼らは単に力強さや戦いのスキルがあったばかりでない。彼らには、ダビデに対する忠誠と愛が大きかった事が、次の記事で分かる。
『三十人の長たちのうちの三人は下って行って刈入れのころに、アドラムのほら穴にいるダビデのもとにきた。』(2サムエル記23:13)
ダビデがアドラムのほら穴にいた時は、ちょうど、ダビデがサウルに追われて逃避行が始まった頃で、彼が一人で逃げていた所を、虐げられている人や負債がある人々、苦い魂を持った人達が、彼を慕い求めて集まりだした時だった。
そんなダビデがアドラムのほら穴にいた時に、この三人はダビデと行動を共にするようになったのだろう。
『時にペリシテびとの一隊はレパイムの谷に陣を取っていた。その時ダビデは要害におり、ペリシテびとの先陣はベツレヘムにあったが、ダビデは、せつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。そこでその三人の勇士たちはペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水を汲み取って、ダビデのもとに携えてきた。』(2サムエル記23:13-16)
たった3人で敵の陣営を突き抜け、敵陣まっただ中の井戸から水を汲み、その水をこぼさないようにして、持ち帰る。
彼らが飛び抜けて力強くあったばかりでなく、忠誠心においても飛び抜けていた事が分かる。
彼らは、ダビデはとても喜んでその水を飲んでくれるだろう、と思っていたであろう。
しかしダビデは、その水が彼の前に差し出された時、意外な事をする。
『ダビデはそれを飲もうとはせず、主の前にそれを注いで、言った、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。こうして彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士はこれらのことを行った。』(2サムエル記23:16)
ダビデに飲んでもらおうと、命がけで取って来たその水を、ダビデは飲む事をせず、主の前に「注ぎの供え物」としてささげた行動は、人によっては不可解な行動に見えるかもしれない。
ただ前回の箇所から分かる事は、自分は本当に何者でもなく、主の憐れみが無ければ、全く取るに足らない者だと認識していた事だ。
ダビデは、自分はとうてい、水一杯を飲むために、素晴らしい貴重な勇士たちが、命がけで水を汲んで来てもらえるような資格など、主の御前において断じて無い、と、認識していたのだ。
だから彼は、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」と言って、主に捧げたのだ。
きっとこの三人の勇士達は、本当はダビデに飲んで欲しかったであろう。
ただ、もし、ダビデがこの時飲んでいたら、その水はダビデの腹に降って、いくばくかの渇きが癒され、その時の感謝と満足でおしまいだったであろう。
しかしダビデは、そんな事を望まなかった。
つまり彼はこの三人をないがしろにして飲まなかったのではなく、その真逆で、大切に思ったからこそ飲む事ができず、ダビデの最も大切なお方である主に捧げたのだ。
これは主にささげられた事によって、この三人が成した忠誠と勇気のすべてが、永遠の記念として昇華されたのだ。
世の中には、色々な王様や指導者がいる。
おいしい水一杯を飲むために、いのちがけで汲みに行けと平気で命令するような者も中にはいるが、ダビデは彼らとは一切違い、自分の私腹を肥やすためでなく、ただ主のために生き、主のためにささげる人生を全うした。
そんなダビデのありさまを、部下たちは見て、自分達は本当に優れた王のために、そして神のため、永遠のために戦っているのだ、と誇りを持つことが出来、安心して戦い働く事が出来ただろう。
第二サムエル記の終わりに、このような記事がある事は、非常に意義である。
神の国の事柄は、ダビデなど誰か特別なヒーローの肩だけに乗っかっているものではなく、背後の多くの働き人たちの献身によって成り立っている事を、この記事は思い起こさせてくれる。
私達一人一人も、神の国の一旦を担う信仰の勇士である事を、決して忘れてはならない。
ダビデの最後の言葉(2サムエル記23:1-7)
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『これはダビデの最後の言葉である。』(2サムエル記23:1)
22章はダビデの人生を象徴的に表す詩だったが、今回はダビデが後世へと残した遺言である。
信仰の偉人・ヤコブやモーセ、ヨシュアが残した最後の言葉に比べれば、非常に短くシンプルである。
『エッサイの子ダビデの託宣、/すなわち高く挙げられた人、/ヤコブの神に油を注がれた人、/イスラエルの良き歌びとの託宣。』(2サムエル記23:1)
ダビデはまず、自分を「エッサイの子」「高く挙げられた人」「ヤコブの神に油を注がれた人」「イスラエルの良き歌びと」と、あたかも、誰か第三者がダビデを説明しているかのような「3人称」の表現をしている。
確かに彼は、主によって高く挙げられた人で、神に油注がれ、良き歌びとではあるのだが、ダビデは何も、自分の人生自慢を最後にしたかったのではない。
彼は人生を終えるにあたり、後世の人々に、とても大事な言葉を遺したいがために、そのような強調をして、これから自分が語る言葉は、主に油注がれ、高くされた人生を歩んで来た者の、実績のある言葉であるから、心して聞くように、と、注意を促したのだ。
ダビデはまず、自分は「エッサイの子」と言っている。
自分はかつて、ベツレヘムの無名な羊飼いの末っ子で、父の家では最初は数にも数えてもらえなかった。
そんな自分を、主は高く「挙げられ」、ヤコブの神は自分に油を「注がれた」、と、彼は受身形で全て主に「してもらった」事を強調している。
自分がここまでになったのは、自分の能力や知恵でなったのでは、決してなかった。
自分は元々、無名の弱い低い者だったのに、ただ、神によって一方的に高く上げられた、王権さえも、神からのもらいものである、と表明している。
この「自分は小さき者」「主こそ偉大なお方」という人生評価こそ、真に主とともに歩んだ信仰者の、人生評価である。
パウロもヤコブも、そうだった。
自分は罪人のかしらで、小さき者、ただ、主の憐れみによって、神の国建設の働きの一端を担わせて頂いている、自分は先人達にはとうてい足元にも及ばない、と評価した。
だから、自分は偉大だなどと評価する人は、実は、知らなくてはならない事も知っていないのだ。
『主の霊はわたしによって語る、/その言葉はわたしの舌の上にある。』(2サムエル記23:2)
ダビデは、主の霊によって動かされる人だった。
彼は、聖霊の感動によって詩篇を編纂し、そして聖霊が教えて下さるままにキリストを預言した。(マタイ22:43、マルコ12:36、使徒2:25-31)
それで、彼がこれから語る言葉も、自分のものではなく主の霊によって語るものだ、と注意を促している。
以上はいわば前振りになるが、わずか7節で終わってしまうダビデ最後の言葉のうち、3節を割いてまで、前置きをしたのは、次の、重要な事を伝えるためだ。
『人を正しく治める者、/神を恐れて、治める者は、朝の光のように、/雲のない朝に、輝きでる太陽のように、/地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む。』(2サムエル記23:4)
ダビデが伝えたい重要な事は、すなわち、「治める者」は御前でどのようにあるべきか、という事である。
つまりダビデは、自分の後に生まれてくる「王たる者」「治める者」は、人を正しく治め、神を恐れなさい、と強調したかったのであり、そのように治める人は、民草にとっては朝の光のように、雨の後の太陽のように人を潤し、人を養い育て、栄えさせるのだ。
『まことに、わが家はそのように、/神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かな/とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。どうして彼はわたしの救と願いを、/皆なしとげられぬことがあろうか。』(2サムエル記23:5)
そしてダビデは、神は自分の家門と永遠の契約を結び、とこしえに続く家を建てて下さると、定めて下さったではないか、と言っている。
だから恐れる事は一切ない、この神に依り頼んで生きるべだと、後代に伝えている。
このように、ダビデが後世の王となるべき人に残した内容は、とてもわずかで、シンプルだった。
にもかかわらず、ソロモン以降のダビデ王家は、ダビデの残した言葉どおりに生きなかった。
彼らは、栄えると高ぶって主を軽んじるようになり、主の忌み嫌う偶像礼拝をするようになって、そうして主の御守りが彼らから離れて行ってしまった。
ダビデは「よこしまな者」がどのようになるかについても、はっきりと言い残している。
『しかし、よこしまな人(ベリヤアル:無価値な者、邪悪な者)は、いばらのようで、/手をもって取ることができないゆえ、/みな共に捨てられるであろう。これに触れようとする人は/鉄や、やりの柄をもって武装する、/彼らはことごとく火で焼かれるであろう」。』(2サムエル記23:6-7)
ダビデの敵となった異国の異教徒達は、確かにいばらのように投げ捨てられ倒れていったが、「よこしまな人」とは何も、異邦人に限ったことではない。
いかに神の民イスラエルであっても、主を軽んじ、主の御言葉を捨てるなら、価値なき邪悪な者になってしまい、いばらのようにやりの柄で掻き集められ、焼かれてしまうのだ。
パウロも言っている。
『兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。』(1コリント4:6-7)
ダビデは、全て主にしていただいた事を表明した。同じように、パウロも表明している。
私達も、今こうしてあるのは、全て、主のおかげであるという感謝の心を忘れてはならない。
それを忘れて、傲慢になってしまうと、ダビデの子孫たちと言えども、滅ぼされてしまったように、私達も主を軽んじる事を止めないなら、いばらのように投げ捨てられてしまう。
ダビデのように、人生の終わりに至るまでいつも主に感謝し、主を褒め称え、それを後代へと伝えて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
収穫感謝礼拝 肉に蒔く人と霊に蒔く人の子孫比較(ガラテヤ6:7-9)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
本日、収穫感謝祭は、主が与えて下さった大地の実りを感謝し、主を喜び祝う日である。
主は実に、色々な種類の実りを結ぶ木や草を創って下さり、それぞれには独特の性質や味、効能がある。
おりに叶った時期と場所に、見合った種類の種を蒔き、水をやり、よく手入れするなら、豊かな、良い実を結び、適切な時に収穫するなら、良き収穫物が手に入るが、あさってな時と場所に、見合わない種を蒔いても、また、水やりや手入れを怠っても、良い実りは結ばない。そして、適切な時期に収穫しないなら、せっかく結んだ良い実も、だめになってしまう。
私達は「神の畑」である、と聖書に書いてある。(1コリント3:9) 農夫たちは畑という限られた領域の中で、いかに有用な実を多く結ばせるかを考え、種を蒔き、水をやり、実ば結ぶまで日々努力し骨折っているのと同様に、私達も、この人生という限られた時間・領域・能力の中で、いかに有用な実りを結ばせるべきか、そのために、どこに何の種を蒔いてほねおるべきかをよく考え、そして実をむすぶまで努力べきである。
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)
「肉」とは、神を除外した人間生来の考えや力、罪に傾く性質全般で、肉体が死ねば滅びる。
「霊」とは、神を知覚し交わる事の出来るいのちであり、それは肉体が死んでも存続する永遠のものである。
私達は肉に蒔くか、霊に蒔くか、そのいずれかに蒔いたものの実りは、自分自身が食べる事になる。
そればかりではない。私達が蒔いた種の実りは、周りの人達や、そして自分の子々孫々も食べる事になる。
何気なく蒔いた種が、実は後々の歴史に、雪だるま式に大きな影響を及ぼすものである。
今回、肉に蒔くか、それとも霊に蒔くか、その違いによっていかに大きな違いを後世に生み出したか、二人の人物の歩んだ人生と、その後の子孫達の有様から見て行きたい。
アメリカ・ニューヨークの社会学者が、父親が子どもと後の世代にどのような影響を及ぼすかを調査するために、二人の人物を選び、その子孫達がどうなって行ったかを追跡調査した。
調査対象に選んだのは、18世紀に生きた「マックス・デューク」、もう一人は「ジョナサン・エドワーズ」である。
マックスは、オランダからの移民で、大酒飲みの乱暴者で、妻ともども人生に主義主張のない人物だった。
もう一人、ジョナサンのほうはイギリスからの移民で、牧師で神学者であり、彼は同じ信仰を持った女性・サラと結婚し、二人は力を合わせ信仰生活を営んで行った。彼らはそれぞれの人生を歩み、子孫を生んで、それぞれの人生を全うした。年月が経って、彼らの8代目の子孫を調査した所、実に興味深い結果が出た。
マックス・デュークスの子孫は、計、1240人になった。彼らを調査すると、住所不定者が310名、窃盗常習者が63名、受刑者が130名、乳児死亡した子が300名、先天的異常者が400名、そして貧窮者が30名いたという事である。
一方、牧師として信仰生活を送ったジョナサンの子孫は、マックスの子孫とは全く異なっていた。
彼の子孫を男子に限って調査した所、8代で730人の男子がいた。マックスに比べるなら少ないかもしれないが、その内、大学総長になった人が16名、医者になった人が60名、大学教授が160名、裁判官が30名、軍人が76名、牧師・宣教師になった人は、300名、文学者になった人は60名、連邦議会の議員になった人が3名、弁護士になった人が110名、そして副大統領になった人が一人、という事である。
主は言われる。『わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:5-6)
マックスの子孫は、いかに多くなっても、彼らが主に憎まれる歩みをするなら、その呪いが子に、三、四代に及んでしまう。しかしジョナサンのように、御言葉に歩み信仰に歩むなら、子孫は祝福されるのだ。
人は、「神の畑」である。人の目では、どうしてもその人一代の人生しか見られないが、主は、人が何に種を蒔き、その子、孫、ひ孫へと、枝分かれ分化して行く様を見ておられる。
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)ジョナサンのように、御霊に蒔き、子供たちを信仰と御言葉で教育し、子々孫々栄えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
三位一体の神が共同で働かれた最初の場面 - イエスのバプテスマ(マタイ3:13-17)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2015-11-14 17:41
偽りに満ちた裁判で死刑を押し着せられたイエス(マタイ26:57-68)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2015-11-14 17:40
ツロの富は積み立てられず、主の前に住む人々へ渡る(イザヤ23:10-18)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-11-14 17:38
主、褒め讃えるべきお方(2サムエル記22:47-51)
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ダビデの人生を象徴的に表す詩の、最終部分である。
ダビデは詩の最後で、彼をずっと守り、全てを良いほうへ導いて下さった主を褒め称えている。
『主は生きておられる。わが岩はほむべきかな。わが神、わが救の岩はあがむべきかな。
(NKJV: "The Lord lives! Blessed be my Rock! Let God be exalted, The Rock of my salvation!")』(2サムエル記22:47)
主は、まさに生きておられる。
ダビデの時代のみならず、今も生きておられ、そしてダビデのみならず私達を、すなわち、主を「救いの岩」とするすべての人達に対し、生き生きと働いておられる。
この素晴らしいお方を知れば知る程、褒め讃えずにはおられないのである。
『この神はわたしのために、あだを報い、/もろもろの民をわたしの下に置かれた。』(2サムエル記22:48)
ダビデの時代、かつてなかったほどに多くの国々をダビデは平定し、諸々の国民はダビデを恐れ、そしてダビデの背後におられるイスラエルの神・主への恐れが湧き起こり、多くの異邦人たちがダビデの信じる主に立ち返った。
ダビデは、改心した異邦人に対しては隔てをもうけず、彼の周りには、彼を慕って集まる異邦人たちも多かった。(2サムエル記15:18-22)
それで、多くの異邦人達もダビデを助け、ダビデのために戦い、ダビデと共に礼拝し、共に主を賛美し喜び踊ったのだ。
『またわたしを敵から救い出し、/あだの上にわたしをあげ、/暴虐の人々からわたしを救い出された。』(2サムエル記22:49)
主は、主に信頼するすべての人を、敵の手から、ことに「暴虐の人々」から救い出し、彼らの地位を、敵よりも上げさせてくださるのだ。
エレミヤも同じ事を言っている。
『わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。』(エレミヤ15:20)
ここの「敵」とは、預言者エレミヤが主の警告を伝えても主の言葉を軽んじ、かえって彼を迫害する同国人たちの事だ。
同国民であろうと、外国人だろうと、主はいかなる「敵」からも守り、救い出して下さる。
エレミヤもダビデと同じく、主と主の言葉は自分にとって喜びである事を告白した。
『わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって/となえられている者です。』(エレミヤ15:16)
私達は、御言葉を「喜びの食物」として、進んで摂り入れているだろうか。
そうであるなら、主もまた私達を喜びとし、進んで守り、養い育てて下さる。
私達は、自分自身をきよく保つために、主をないがしろにする人達とは一線を画す事も、また大事である。
『わたしは笑いさざめく人のつどいに/すわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもって/わたしを満たされたからです。・・・それゆえ主はこう仰せられる、「もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。』(エレミヤ15:17-19)
主がここで言っているように、世の享楽にうつつを抜かして主を敬わない人々に、私達が合わせたり、彼らに混じりに行く必要は、無い。
つまらない言葉を止め、主の貴い御言葉を口に上らせるなら、その口は「わたしの口のようになる」と、主は言われる。
だから、主に召しだされた私達は、世の人や世の価値観に媚びたり卑屈になったりしてはならない。
むしろ、世のほうを、御国の価値観に染めさせ、御国の救いへと入れさせるべきだ。
そのようにして自らを清く保ち、信仰を貫く人々を、主は、次のように扱って下さる。
『わたしはあなたを、この民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。』(エレミヤ15:20)
ダビデはこの詩の最後も、主への賞賛で満たしている。
『それゆえ、主よ、わたしはもろもろの国民の中で、/あなたをたたえ、/あなたの、み名をほめ歌うであろう。主はその王に大いなる勝利を与え、/油を注がれた者に、ダビデとその子孫とに、/とこしえに、いつくしみを施される」。』(2サムエル記22:50-51)
彼は主に守られ、異邦人はそんな彼を恐れ、そして彼は、そんな異邦人に主を伝えた。
そして彼は、さらに国々の民の中で、主を讃え、主の御名を褒め歌った。
異邦人が主に立ち返り、主を褒め称えるようになるのは、御心に叶った事である事を、パウロも、聖書の色々な箇所を引用して証明している。
『わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、/「それゆえ、わたしは、異邦人の中で/あなたにさんびをささげ、/また、御名をほめ歌う」/と書いてあるとおりである。
また、こう言っている、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。また、/「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
またイザヤは言っている、/「エッサイの根から芽が出て、/異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。』(ローマ15:8-13)
福音はついに、東の果てに住む異邦の国、この日本にも届いた。
私達も、ダビデのように主に望みを置き、大いに主を喜び、共に賛美する特権が与えられたのだ。
ダビデのように、この素晴らしい主をほめ讃え、賛美し、大いに主からの守りと祝福を豊かにいただく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
