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権力者によって流されて来た血と涙とを覚えておられる主(2サムエル記11:16-27)
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- pastor 2015-8-21 23:50
権力者によって流されて来た血と涙とを覚えておられる主(2サムエル記11:16-27)
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ヨアブが「ウリヤを謀殺せよ」というダビデの手紙を受けた時、彼は特に詮索したり戒めたりする事なく、命令をそのまま実行する。
ヨアブもかつてアブネルを剣で謀殺したので、そのようなはかりごとに対する拒否反応は無かったのだろう。
『ヨアブは町を囲んでいたので、勇士たちがいると知っていた場所にウリヤを置いた。町の人々が出てきてヨアブと戦ったので、民のうち、ダビデの家来たちにも、倒れるものがあり、ヘテびとウリヤも死んだ。』(2サムエル記11:16-17)
あの罪なき誠実な戦士・ウリヤは、死んでしまった。
ウリヤだけでなく、ダビデの家来達の中からも、何名か倒れる者があった。
直接手をかけたのはアモン人であるが、ダビデが指示し、敵の手を利用して、殺させたのだ。
剣を用いる者には剣がつきまとい、罠を張る者は、やがて、自らが張った罠にかかってしまう。
『ヨアブはその使者に命じて言った、「あなたが戦いのことをつぶさに王に語り終ったとき、もし王が怒りを起して、『あなたがたはなぜ戦おうとしてそんなに町に近づいたのか。彼らが城壁の上から射るのを知らなかったのか。』(2サムエル記11:19-20)
ヨアブは、あらかじめダビデが言いそうな事に対してアドバイスをしている。
イスラエルの軍は、敵の城壁に接近し過ぎる事は、禁じ手だった。
その理由は、以下の事があったからだ。
『エルベセテの子アビメレクを撃ったのはだれか。ひとりの女が城壁の上から石うすの上石を投げて彼をテベツで殺したのではなかったか。あなたがたはなぜそんなに城壁に近づいたのか』と言われたならば、その時あなたは、『あなたのしもべ、ヘテびとウリヤもまた死にました』と言いなさい」。』(2サムエル記11:21)
これは士師の時代、エルベセテ(=エルバアル=ギデオン)の子・アビメレクが、敵の城壁に近づいて火をつけている所を、一人の女が彼に石臼を投げ落として頭蓋を割り、それで殺された事に由来する。(士師記9章)
ダビデ自身、戦士であり、聖書にも通じていたので、聖書の記述やイスラエルの歴史を元に、戦いの時はこうしなさい、これはしてはいけない、と、常々指示していたのだろう。
それで、「城壁に近づき過ぎると危険だ」という戦訓は、全兵士が知っている基本中の基本だったのだろう。
聖書の記述を元にして、普段から戦訓や教訓を部下に徹底させる点、ダビデは偉大であるが、今回彼がした事は、決して偉大とは言えない。
『こうして使者は行き、ダビデのもとにきて、ヨアブが言いつかわしたことをことごとく告げた。使者はダビデに言った、「敵はわれわれよりも有利な位置を占め、出てきてわれわれを野で攻めましたが、われわれは町の入口まで彼らを追い返しました。その時、射手どもは城壁からあなたの家来たちを射ましたので、王の家来のある者は死に、また、あなたの家来ヘテびとウリヤも死にました」。』(2サムエル記11:22-24)
この報告から、ウリヤが死んだ時の様子を伺う事ができる。
敵は、城壁の町から出て来て野に出てきた所を、ヨアブたちは迎え打ち、そこで敵が後退して城壁の中に入ろうとした時、ヨアブはウリヤに追い打ちをかけるよう命令し、彼らが城門に近づいた所を、弓で射掛けられてしまい、それでウリヤは討ち死にして、こうして全て、ヨアブの手はず通りに運んだのだろう。
ヨアブは、このようなはかりごとを巡らす点においてはとても聡いが、そのような彼の死に際は、決して平和なものではない。(1列王記2章)
『ダビデは使者に言った、「あなたはヨアブにこう言いなさい、『この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである。強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい』と。そしてヨアブを励ましなさい」。』(2サムエル記11:25)
ダビデは、ヨアブが予期した通りに責める事はせしなかった。かえって、「励ましなさい」と伝えた。
ダビデは、ウリヤの死を聞いて、ほっとしただろうか。
自分のした悪が公になる事を防げて、ほっとした気持ちもあっただろう。
しかし、それ以上に、罪の責め苦の嵐が吹き荒れていたのではないだろうか。
なぜなら、彼の罪が全て明らかにされた時、彼は『わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。』(詩篇51:3) と、後になって告白している。
また彼は、詩篇32編で次のように書いている。
『わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。
わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。』(詩篇32:3-5)
ダビデは、罪を犯した事を黙っていた時、苦しみ、うめいたようである。
罪を隠し黙っている時、主の御手が重くのりかかり、骨が疲れ果てるような、夏の日照りで渇ききるような変調を、心にも、そして体にも来らせてしまうのだ。
しかし、主に罪を認めそれを告白する時、罪の代価は支払わねばならないが、それらの責め苦からは解き放たれ楽になるのだ。
『ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。』(2サムエル記11:26-28)
ダビデは一時、面目を保てたかもしれない。
その罪はうまく隠しおおせて、これから後、覚えられる事は無いと思ったかもしれない。
しかし主は、一人の義人の不当に流された血を覚えておられ、また、それによって流された全ての涙も、覚えておられる。
主は、ウリヤの死とその妻の涙が忘却の闇へと葬り去られて行く事を、許さない。
主は、不当に虐げられ助けを求める人達には救いであるが、彼らを不当に虐げる側にとっては、恐ろしい主である。
ウリヤ。それは、主の光という名である。
主の光がダビデの闇をあばき、そしてこの事は容赦なく明るみに出され、永遠の書物に記され、新約聖書の最初の章・イエス・キリストの系図には堂々と「ウリヤの妻」の表記が記されている。
王が人妻と寝て、その夫を謀殺する。
それは世では決して珍しい事ではなく、あたかも当たり前のように公然と行われ、それで幾多の人々の命と涙が、闇の中へと葬り去られているかのように見えるが、主は、それら一つ一つの流されてきた血潮と、涙とを、覚えておられる。
さばきは、神の家から始まる。だからダビデは、他のどの王も当然しているかのような事でも、真っ先に光を当てられ、「さばかれた」のだ。
そして実は、王や権力者がその力を利用して強奪するあらゆる搾取についても、ただ、さばきが遅らされているだけで、やがては主の正当な主のさばきが行使されるのだ。
ウリヤという主の光に照らされて(2サムエル記11:6-15)
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ウリヤの妻と寝たダビデは、その後、彼女を身ごもらせたという事を聞いた。彼はそれを隠蔽する工作に出る。
『そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。そしてダビデはウリヤに言った、「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。』(2サムエル記11:6-8)
ダビデがウリヤを呼び寄せたのは、彼を、妻が待っている家に帰らせて「妻と寝る」事をさせるためである。
そうすれば、妻が身ごもっている事のつじつまがあい、ダビデとウリヤの妻の情事を、闇に葬る事が出来るからだ。
ウリヤ以外の兵士たちにとって、ダビデがウリヤを呼び出した事は、うらやましがられる事だったろう。
危険な戦線を離れ、王に直接戦況報告をする栄誉が与えられ、そして、妻が待っている家に帰って一緒の時を楽しめるのだから。
戦いの現場から久しぶりに妻の所へ帰った兵士は、当然、妻と愛の交わりをするだろう、、、ダビデはそう目論んだのだが、なんとウリヤは、それをしなかった。
『ウリヤはダビデに言った、「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません」。』(2サムエル記11:11)
彼はなんと誠実な人だろうか!
同志達も上官も、そして、イスラエルの神・主も、戦いに出て野営している。
それなのに、自分だけ家に帰って妻と楽しむ事など、イスラエルの王であるあなたの前には、決してできない、と言うのだ。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろうか。快適な王宮で昼寝をするにおいても、女と情事を楽しむにおいても、ウリヤとは全く逆の事をしていたではないか。
ダビデは、ウリヤ(主の光)が、眩しくて仕方なかったに違いない。
『ダビデはウリヤに言った、「きょうも、ここにとどまりなさい。わたしはあす、あなたを去らせましょう」。そこでウリヤはその日と次の日エルサレムにとどまった。ダビデは彼を招いて自分の前で食い飲みさせ、彼を酔わせた。夕暮になって彼は出ていって、その床に、主君の家来たちと共に寝た。そして自分の家には下って行かなかった。』(2サムエル記11:12-13)
ダビデは今度は、ウリヤを、ダビデの目の前で飲ませ、酔わせた。
もしかすると、”綺麗事”を言っている彼も、酒に酔ったなら、我慢する心を手放して、家に帰り、妻と寝るかもしれない、と思ったのであろう。
しかしウリヤは、酒を飲まされても、主と主君とに対する忠誠を失わなかった。
ダビデはますます主の光に照らされ、さぞ眩しかっただろう。そして、恐れも生じただろう。
主と共に歩んでいる人は、本人にはその気は無くとも、うしろ暗い闇を抱えている人が見るなら、眩しくて、恐れを抱かせるものだ。
もはや、自分の罪を隠す手立てを、失ってしまったダビデ。
全てを告白して赦しを乞うか、それとも、あらゆる力を駆使し、あくまで「光」を覆い隠そうとするかの、二者択一が迫られたが、ダビデは非常に残念な決断をしてしまう。
『朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。』(2サムエル記11:14-15)
以前のダビデを知っている私達には、到底信じられないような事を、彼はするようになってしまった。
王としての権威を用い、この、有能で誠実な部下を謀殺する指示を、彼自身に持たせてヨアブに届けさせたのだ。
第一サムエル記のダビデ登場から、第二サムエル記の10章までだけを読むなら、ダビデは偉大な王だった。
しかし、この11章1節からの、たった15節を読むだけで、ダビデがそれまでして来た素晴らしい信仰の実績は、全て色あせてしまう。
人は罪と肉に心を許し、その方面に意図して歩むなら、いとも簡単に、なし崩し的に転落してしまう事を、私達キリスト者は、心して気をつけるべきである。
あたかも、仕事から離れてリゾート地で羽を伸ばしたいと切に願うかのように、正しい義の歩み・御霊にある歩みを離れて、肉欲のリゾートで罪の羽を伸ばしたい、と、日々心で願望している人は、ダビデのように、いつ積み上げて来た信頼や名声を失墜してしまっても、おかしくはない。
肉欲の発散はバケーションなどではなく、罪と死に追い使われる過酷で苦々しい奴隷生活の発端である事、そして、御霊にある歩みこそ、罪と死の束縛から開放された真のバケーションである事を、私達キリスト者は真に知るべきだ。
肉欲発散という誤った選択をし続ける事の恐ろしい罠(2サムエル記11:1-5)
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- pastor 2015-8-19 23:00
肉欲発散という誤った選択をし続ける事の恐ろしい罠(2サムエル記11:1-5)
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『春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。』(2サムエル記11:1)
ダビデは、強力なシリヤとの戦いには、自ら全軍を率いて戦い、打ち破って平定したが、残すアンモンとの戦いには自分は行かず、部下たちに任せ、エルサレムの王宮に留まっていた。
ダビデには、少しの「なまけ」が始まっているが、なまけを放置するなら、諸々の良くない物事を呼び寄せてしまう。
『なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。』(箴言6:9-11)
『さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、 王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。』(2サムエル記11:2)
部下たちが命の危険を冒して戦っているのに、ダビデは、日中に寝、夕暮れに起きる、という事をしている。
ダビデの「なまけ」がさらに成長している事がわかる。
さて、ここはダビデが”たまたま”屋上を歩いていると、”たまたま”女が身体を洗っている姿が見えた、と、日本語では受け止められるが、原語を見ると、そういうわけではないようだ。
この「歩く(ハーラフ)」には、ヒットパエル態が使われており、すなわち、彼は「自分から、自覚的に、自発的に」屋上を歩いたのであり、また、美しい女が体を洗っているのを「見た」という言葉は「ラアー」であり、すなわち、ダビデは「心して、楽しみつつ、見た」のである。
ユダヤでは、夕暮れに屋上で水浴びをする、という事は多々ある。
なぜなら律法上の「汚れ」を受ける事は頻繁にあり、その汚れを清めるためには、日が沈むまでに体を洗って清くするべき事が、律法で命じられているからである。
つまり、ダビデが”敢えて”夕暮れ時に、眺めのいい王宮の屋上に出て歩いたのは、もしかしたら、そのような「のぞき」をする意図があった事も、十分考えられる。
あの偉大な王ダビデが、部下たちが皆戦いに出ている時期、昼に寝て、夕暮れ時に起き出し、意図的に宮殿の屋上に登り、女が水を浴びているのを楽しみながら見る。
あのダビデが、そんな事を、と驚くかもしれない。
しかし、昨日まで清く正しく歩んでいた人が、今日、信じられないような不祥事を犯してしまう、という事は、ニュースでは頻繁に流れている。
なぜなら、御霊にある正しい歩みと、肉にある罪の歩みは、日々の瞬間瞬間の決断と選択に依るものであるため、たとえ100日間、御霊にある歩みをしていても、101日目には霊的に怠けて、肉欲の赴くままに罪を犯してしまう、という事は、十分あり得るからだ。
あたかも、仕事という「オンタイム」から離れて、「オフタイム」にリゾート地で羽を伸ばすように、正しい義の歩み・聖なる御霊の歩みを何やら”勤め事”のような「オンタイム」とし、余裕が出来た時には、肉欲のリゾートで罪の「羽伸ばし」を満喫したい、という価値観・世界観で生きているとしたなら、いつ、今まで積み上げてきた信頼や名声を一気に失ってしまう大転落をしても、おかしくはない。
あまたの有名な先生や、偉人聖人と言われている人々が奈落へと転落して行った「夕暮れ時」を、私達も心して取り組まなくてはならない。
人は、肉の体をまとっているため、意識して御霊の歩みをしないなら、自動的に肉の歩みをするものである。そのほうが肉の体はラクだからだ。
日々を御霊にあって歩み続けているなら、その方向性が習慣づけられ、半自動的に御霊の選択と歩むが出来るのだが、ひと度油断し、昔歩んでいた肉の歩みをなつかしんで、そちらに思いを馳せて、実行してしまうなら、そちらの方へと、のめり込んで行ってしまうものであり、やがては、主の介入なしには抜け出し不可能となってしまう。
『ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありません か」。』(2サムエル記11:3)
ダビデは「見る」だけで終わるではなく、その女について調べさせ、素性を突き止めさせるという、また一歩「誤った方向への選択」をした。
その女は、エリアム(名の意:神の民)の娘であり、ヘテ人ウリヤ(名の意:主の光)を夫に持つ、人妻であった。
エリアムも、ウリヤも、共にダビデ30勇士の一人であり(2サムエル記23章)、ダビデとイスラエルに尽くしている有能な部下である。
『そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。』(2サムエル記11:4)
なんとダビデ、ついに、「人妻と寝る」という、律法では死罪に当たる罪(レビ20:10)を、選択してしまった。
ダビデは、彼女は神の民(エリアム)の娘、主の光(ウリヤ)の妻であると聞いておりながら、彼女を寝とってしまった。
ひと度、肉欲の暴走に自ら火をつけるなら、歯止めは効かないものだ。
『女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、「わたしは子をはらみました」。』(2サムエル記11:5)
ダビデ達は、一夜かぎりのこの逢瀬によって、子を宿す。
日本では、身ごもる事は「おめでた」と言うが、当の男女にとって「めでたくない」身ごもりは、全て、罪の結果だ。
ダビデはこの章で、「聖」か「罪」かを選択する場面で、ことごとく、罪のほうを選択して行った。
最初、夕暮れ時に屋上を自ら進んで歩いたのは、ちょっとしたいたずら心や、ふざけ心の類からだったかもしれない。
しかし、意図して罪の選択をし続けるなら、だんだんその道から離れられなくなり、ついには、王たる者、偉大なものに相応しくない行動へと発展してしまう。
私達はそれを治めなくてはならない。
罪を治める事は、可能である。
どのようにしてか。それは、法則に乗る事によって、である。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。
全ての人は、重力の法則に縛られ、地上から離れられない。しかし、飛行機に乗るなら、地上を離れる事が出来る。
同じように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るなら、罪と死の法則から離れる事が出来るのだ。
飛行機に乗って飛ぶ事には自分の能力や頑張りは関係無いように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗る事も、自分の能力や頑張りは関係無い。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?
それは「継続的な選択」の問題であり、肉によらず聖霊によって歩み続ける「選択」を日々、し続ける事によって、である。
肉に委ねるのではなく、聖霊に委ねて生きる時、きよい生き方をする事に霊は安息を覚え、罪の生き方をする事に苦しさを覚えるものである。
聖霊にゆだねて生きる時、罪を犯す事や、肉欲を満足させる事はもはや「リゾート」ではなくなり、御霊にあって歩む生き方こそ「リゾート」となって、ますますその方面を生きるようになって行く。
ダビデは早い段階で、肉に生きる選択を止め、御霊にある選択をするべきだった。
それをしなかったため、どんどん、戻る事が困難になってしまったのだ。
御霊にあって歩み、罪や恥、したくない悪から開放された「バケーション」を楽しむ皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
勝利につぐ勝利を進むダビデ(2サムエル記10章)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
前章ダビデは、サウル王の子孫・メフィボシェテに恵みを施したが、今回はアンモンという隣国にも恵みを施そうとする。
『この後アンモンの人々の王が死んで、その子ハヌンがこれに代って王となった。そのときダビデは言った、「わたしはナハシの子ハヌンに、その父がわたしに恵みを施したように、恵みを施そう」。そしてダビデは彼を、その父のゆえに慰めようと、しもべをつかわした。』(2サムエル記10:1-2a)
この、アンモン人ナハシの名は、1サムエル記11章で登場する。
当時、サウルがまだ王になりたての時、ナハシはイスラエルを痛めつける者として攻め寄せ、ヤベシュ・ギルアデの住人に対し、片目を抉りだす事を条件に和睦に応じよう、と、傲慢に振る舞っていたが、主によって奮い立たされたサウルに返り討ちにあって、退散した。
それをきっかけにサウルは名実ともに王として立ったが、その後ナハシがどうなったのかは記述が無い。
その後、どのような成り行きがあったのかはわからないが、アンモン人ナハシは、ダビデに対して真実を尽くすようになったようである。
実際、ナハシの息子ショビは、後にダビデがアブシャロムにクーデターを起こされた時、ダビデを助けてやった。(2サムエル記17:27)
そのナハシが死んだ、という事で、ダビデは代わって王になった息子・ハヌンにも、恵みを施そうとする。
ところが彼は、ダビデに、恩を仇で返す。
『ダビデのしもべたちはアンモンの人々の地に行ったが、アンモンの人々のつかさたちはその主君ハヌンに言った、「ダビデが慰める者をあなたのもとにつかわしたのは彼があなたの父を尊ぶためだと思われますか。ダビデがあなたのもとに、しもべたちをつかわしたのは、この町をうかがい、それを探って、滅ぼすためではありませんか」。そこでハヌンはダビデのしもべたちを捕え、おのおの、ひげの半ばをそり落し、その着物を中ほどから断ち切り腰の所までにして、彼らを帰らせた。』(2サムエル記10:2b-4)
当時、「ひげ」という部位は、男性にとって栄光をあらわす部位であり、ひげを抜かれる事は非常な恥辱であった。
それも、中途半端に半分に切り落とし、また、服も半分に切り取られ、隠し所をあらわにした状態で帰させたのだから、相当の侮蔑である。
『人々がこれをダビデに告げたので、ダビデは人をつかわして彼らを迎えさせた。その人々はひじょうに恥じたからである。そこで王は言った、「ひげがのびるまでエリコにとどまって、その後、帰りなさい」。』(2サムエル記10:5)
ダビデは、このような侮辱を受けた使者を思いやった。しかしすぐさまアンモンを攻撃しに行くという事はしなかった。
この、ダビデとアンモンのやりとりから、イエス様と人間とのやり取りを写し見る事ができる。
アンモンは、ダビデから差し伸べられた恵みの使者を、恥辱と侮蔑で返したように、私達人間も、偉大な王キリストから福音を告げ知らせに使わされた人に、恥辱を与え、一方的に与えられた尊い恵みに汚物を塗るような、恩を仇で返すような事をして来た。
そして、そういう事をしてもすぐに裁かれないのをいい事に、さらに図に乗って失礼な事をするのである。
『アンモンの人々は自分たちがダビデに憎まれていることがわかったので、人をつかわして、ベテ・レホブのスリヤびととゾバのスリヤびととの歩兵二万人およびマアカの王とその一千人、トブの人一万二千人を雇い入れた。ダビデはそれを聞いて、ヨアブと勇士の全軍をつかわしたので、アンモンの人々は出て、門の入口に戦いの備えをした。』(2サムエル記10:6-8)
アンモン人は、一方的にダビデの使者に恥辱を与えたばかりでなく、戦闘態勢も一方的整え、他国と連合してダビデの国に反逆した。
それでダビデは、迎え撃つために、将軍ヨアブを送り出す。
『ヨアブは戦いが前後から自分に迫ってくるのを見て、イスラエルのえり抜きの兵士のうちから選んで、これをスリヤびとに対して備え、そのほかの民を自分の兄弟アビシャイの手にわたして、アンモンの人々に対して備えさせ、そして言った、「もしスリヤびとがわたしに手ごわいときは、わたしを助けてください。もしアンモンの人々があなたに手ごわいときは、行ってあなたを助けましょう。
勇ましくしてください。われわれの民のため、われわれの神の町々のため、勇ましくしましょう。どうぞ主が良いと思われることをされるように」。』(2サムエル記10:9-12)
ヨアブの言葉からは、固い意志と結束がにじみ出ている。
互いに不足を補い合って、神の民のため、その町々のため、戦おう、と。
彼は「どうぞ主(エホバ)が良いと思われることをされるように」と言って、この強力な敵と戦う根拠は、主(エホバ)にあると宣言した。
現代の私達も、主のため、教会のため、兄弟姉妹のために罪や誘惑と、そしてサタンと戦うべきであり、互いの不足分や弱い部分を補いあうべきである。
そのように、私達が主に根拠を置き、教会のため、兄弟姉妹のために敵と相対する時、主は勝利を与えて下さる。
『ヨアブが自分と一緒にいる民と共に、スリヤびとに向かって戦おうとして近づいたとき、スリヤびとは彼の前から逃げた。アンモンの人々はスリヤびとが逃げるのを見て、彼らもまたアビシャイの前から逃げて町にはいった。そこでヨアブはアンモンの人々を撃つことをやめてエルサレムに帰った。』(2サムエル記10:13-14)
敵がいかに強力であっても、主にあって正当に立ち向かうなら、敵の側は恐怖に支配され、逃げ惑うのだ。
いかに相手のほうが多勢で強くても。
ギデオンの時は、三百人が十二万以上を打ち破ったし、ヨナタンの時は、たった2人で、何万もの敵を恐れさせた。
いかに相手が強く、また自分が弱く見えようとも、主にあって立ち向かうなら、主が勝利を得させて下さるのだ。
『しかしスリヤびとは自分たちのイスラエルに打ち敗られたのを見て、共に集まった。そしてハダデゼルは人をつかわし、ユフラテ川の向こう側にいるスリヤびとを率いてヘラムにこさせた。ハダデゼルの軍の長ショバクがこれを率いた。』(2サムエル記10:15-16)
次は、シリヤが形勢を立てなおそうとして援軍を呼びかけ、イスラエルに対抗しようとした。
しかし今度は、ダビデ自らが戦いに入った。
『この事がダビデに聞えたので、彼はイスラエルをことごとく集め、ヨルダンを渡ってヘラムにきた。スリヤびとはダビデに向かって備えをして彼と戦った。しかしスリヤびとがイスラエルの前から逃げたので、ダビデはスリヤびとの戦車の兵七百、騎兵四万を殺し、またその軍の長ショバクを撃ったので、彼はその所で死んだ。』(2サムエル記10:15-19)
戦車七百に騎兵四万を打ち倒す。素晴らしい戦果である。
どんな敵にも主に信頼して恐れず、信仰をもって戦いに向かうなら、主は勝利を与えて下さるのである。
『ハダデゼルの家来であった王たちはみな、自分たちがイスラエルに打ち敗られたのを見て、イスラエルと和を講じ、これに仕えた。こうしてスリヤびとは恐れて再びアンモンの人々を助けることをしなかった。』(2サムエル記10:19)
このようにダビデは、勝利につぐ勝利を得て、とんとん拍子に栄えて行った。
この10章までは、ダビデは勝利と繁栄の光の下で栄えて行ったが、しかし、次章を境に、その栄えは陰に入る。
それは、ダビデは勝利と成功によって慢心し、サタンにつけ込まれる隙を作ってしまうからだ。
いのちと死の二者択一とは(ガラテヤ3:9-14)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要
私達の毎日は選択の連続であり、その都度、罪と死の法則は降ろし、いのちの御霊の法則を選び続けるなら、パウロのように永遠において充実した歩みができる事を前回学んだが、「いのち」と「死」の選択についてもう少し詳しく見てみたい。
『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。』(創世記2:15)
主は、私達を住むべき領域に置き、そこを耕し守り、管理するようにと、私達をその場所に置かれている。
私達は主が置いて下さった場をしっかり耕し守り管理するべきで、正しくそれをするならそこはエデンという喜びの楽園となるのだが、主が置かれた生活ステージには、無視できない「二種類の木」がある。
『園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。』(創世記2:8-9)
人類、誰もが必ず通る「二者択一」がある。それは、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。これは人類創造以来、全ての人が避けて通れない究極の選択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすいが、そうではない。聖書が提示する究極の選択は、まさに「いのちか、善悪判断か」であり、「善悪判断」こそ、選択してはならぬ「死に至る選択」である。
善悪を知る事とは、すなわち、神のようになる事である(創世記3:5,22)。人は神のようになろうという誘惑によって善悪の実を取って食べ、また、サタンも、神のようになろうとして地に落とされた。(イザヤ14:14)
神の命令を”敢えて”超え、神から独立した善悪判断をする道は、死へと導かれてしまう道である。
善悪の実を食べた時、真っ先に人に起こった事は、目が開かれた事(創世記3:7)、こうしてある意味、人は神のようになった。その”神のようになった”彼らが、最初に気づいた事は、自分達は実は裸であった事だ。
そして、彼らが最初に働かせた善悪判断は、恥ずかしい所をいちじくの葉で隠そうという「取り繕い」だった。
このように、神のような開かれた目で周りの状況や人間をじっと見、善悪判断する事は、自らに死を招く。
神から離れ、神との関わりが絶たれた人間は、所詮裸であり、弱い者であり、罪深く何も出来ない者である。
自分の弱さや裸を覆うために、人は力や知識を向上させ、技術を発展させ、自活して生きるようになったが、その生き方こそ、アダム以来の「呪いの生き方」の本性である。
あれをして良いのか悪いのか、あそこに行っていいのか悪いのか、それをひっきりなしに伺いたがる人がいるが、そのように「善悪を知る木の下で支配される生き方」そのものこそ、呪いの生き方だったわけである。
律法は善悪の集大成であり、律法の行いの内にある人は、全て、呪いの中にある。(ガラテヤ3:10-12)
しかし、キリストは呪いの木にかけられ、私たちを、その律法の呪いから贖い出して下さった。
それは、信仰によって義とされるアブラハムの祝福が私達にも及び、私達も信仰によって約束の御霊を受けるためである。(同13-14節) イエス様を信じる人には、聖霊が与えられ、もはや「善いか、悪いか」という善悪判断の呪いの中ではなく、聖霊が教えて下さる導きに従って歩むのだ。(ヨハネ14:26)
今、私達が選ぶべき「いのちの木」は十字架であり、「いのちの実」は、まことの食物・イエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)
キリストは十字架上で自分の一切の善悪判断を捨てられ、ただ、御父のみこころに委ねられた。
今私達も彼のように自分の全てを降ろし御心に委ねるべきであり、その委ねるべき御心とは御言葉である。
『知恵(御言葉)は、これを捕える者には命の木である、これをしっかり捕える人は幸いである。』(箴言3:18)
だから、御言葉をしっかりたくわえ捉える人、そこに記されている事を心に留めている人ほど、命の実をたくさん得ており、それを守り行う人ほど、いのちの実をたくさん食べているわけである。
「自分は今何を考え、何を感じ、何を判断しているのか」を採用し続けるなら、死へと導かれてしまう。
御言葉には何と書かれてあるか、そちらを採用し、自分の善悪判断を下ろすなら、命を得るのである。
もはや「神のような開かれた目」で、善悪判断する生き方は止め、呪いの木に架って下さったキリストといういのちの実を食べ、ますます命を得て行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
滅んだバビロン・アッシリア・ペリシテ、残ったイスラエル(イザヤ14:16-32)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-8-15 11:32
イザヤ書講解説教メッセージ
滅んだバビロン・アッシリア・ペリシテ、残ったイスラエル(イザヤ14:16-32)
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【概要】
神の民に敵対する勢力としてのバビロンの滅びと、主の民イスラエルの存続についての説教。
【聖書箇所】
イザヤ書14章16-32節
【戒めの言葉】
神の民を迫害し、高慢になる者は必ず滅ぼされる。
【励ましの言葉】
主に身を避ける者は、どんな困難にあっても必ず生き残り、栄える。
【***詳細***】
今日の箇所は、イザヤ書14章16節から32節です。この箇所は、バビロンに対する神の裁きと、神の民イスラエルの存続について預言しています。
まず、バビロンについて見ていきましょう。バビロンは、聖書において神の民に敵対する勢力の象徴として描かれています。黙示録でも一時期は栄えますが、最終的には滅ぼされるべき神の敵として描かれています。
イザヤ書14章では、バビロンの滅びが生々しく描かれています。18-19節には、**「おのおの自分の墓で尊ばれて眠っている。しかしあなたは忌み嫌われる若枝のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に下る者で覆われ、踏みつけられる。」**とあります。
ここでの「若枝」は、本来新緑や子孫を表す言葉ですが、ここではバビロンが「忌み嫌われる若枝」として描かれています。つまり、生命力は強くても、人々を踏みにじり、高ぶる存在は神に忌み嫌われ、投げ捨てられるのです。
さらに22節では、**「私は彼らに向かって立ち上がる。万軍の主の御告げ。私はバビロンから、その名と残りの者、及び後に生まれる子孫とを断ち滅ぼす。」**と宣言されています。神の民に逆らい、神に反逆して高ぶる者は、たとえ生命力が強くても、子孫が繁栄しても、神がそれを許さず、徹底的に滅ぼされるのです。
次に、アッシリアについても触れられています。当時、アッシリアは世界の超大国でした。誰もこの国に歯向かうことができませんでした。しかし、24-26節で、神はアッシリアも必ず打ち破られると預言しています。
「これが全地に対して立てられた計り事。これが万国に対して伸ばされた手。万軍の主が計画を立てられた。だれがそれを破ることができよう。その御手が伸ばされている。だれがそれを引き戻すことができよう。」(26-27節)
ここで重要なのは、世界の歴史が神の経営のもとにあるということです。人間の目には偶然のように見える国々の興亡も、すべて神の計画の中にあるのです。
特に、イスラエルについて神は特別な計画を持っておられます。イスラエルは神の長子として選ばれた国です。時にイスラエルが神に背くことがあっても、神は父親のように懲らしめ、導きます。しかし、他の国々がイスラエルをいじめることは許されません。
このことは、私たちにも当てはまります。神の子どもとなった私たちは、たとえ失敗しても、悔い改めれば常に赦されます。これが父と子の契約なのです。一方、神に敵対する勢力は、最終的には滅ぼされてしまいます。
実際、歴史を見ると、バビロン、アッシリア、ペリシテなど、かつてイスラエルをいじめた国々は滅んでしまいました。しかし、イスラエルは今も存続しています。これは神の約束の成就です。
最後に、32節でこう言われています。「主はシオンの基を据えられた。主の民の悩む者たちはこれに身を寄せる。」
これが私たちへの励ましです。私たちがどんなに弱くても、主という岩の上に人生の基礎を据えて生きるなら、どんな困難にも勝利し、生き残ることができるのです。
【結論】
私たちは、主を礎として人生を建てるべきです。たとえ今、困難な状況にあっても、主に頼り続けるなら、必ず守られ、勝利に導かれます。バビロンやアッシリアのような強大な敵に脅かされているように感じても、主の約束を信じ、揺るがない信仰を持ち続けましょう。
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
遣わされる働き人の心得(出エジプト記3−4章)
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恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-8-14 23:50
恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
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『時にダビデは言った、「サウルの家の人で、なお残っている者があるか。わたしはヨナタンのために、その人に恵みを施そう」。』(2サムエル記9:1)
ダビデは周囲の敵を平定し、主から多くの祝福を受けた。それで彼は、恵みを施すおおらかさが生まれた。
なにしろダビデは、この章だけで3度も「恵みを施そう」と言っている。(1,3,7節)
恵みとは、本来それを受けるに値しない者が、ただ一方的に「いただく」ものである。
恵みを受ける人に少しでも主を恐れ敬う心がある人なら、大きな恵みをいただいた時、ゆとりや満足が生まれるばかりでなく、同時に恐れも生じ、自分も誰かに恵みを施さなくては、という気持ちになる。
そのような人は、ますます主への恐れ敬いが生まれ、喜んで分け与えるようになり、ますます祝福されて行くというサイクルに乗り、周りの多くの人に恵みを施して行くようになって行くが、恵みを受けても感謝が無く主を敬わない人は、ただ小さな恵みを受けたっきりで終わってしまう。
『王は言った、「サウルの家の人がまだ残っていませんか。わたしはその人に神の恵みを施そうと思う」。ヂバは王に言った、「ヨナタンの子がまだおります。あしなえです」。王は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。ヂバは王に言った、「彼はロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におります」。このサウルの孫、ヨナタンの子は、ロ・デバルに住んでいた。』(2サムエル記9:3-4)
このロ・デバルの地名の意味は「牧草地なし」「言葉なし」。ヨルダン川東側、ヤボク川の北に位置したと考えられている。
かのサウル家の生き残り、ヨナタンの子は、そんなへんぴな土地で、マキルという人の家を間借りし、ひっそり住んでいた。
おそらく、ダビデを恐れていたからだろう。
なにしろサウルはダビデを悪くあしらったし、また当時、新しく王になった場合は、前の王の一家一族を絶やして謀反を防ぐのが通例だったからである
しかしダビデは、そんな世の通例とは真逆の行動をする。
『ダビデ王は人をつかわして、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から、彼を連れてこさせた。サウルの子ヨナタンの子であるメピボセテはダビデのもとにきて、ひれ伏して拝した。ダビデが、「メピボセテよ」と言ったので、彼は、「しもべは、ここにおります」と答えた。ダビデは彼に言った、「恐れることはない。わたしはかならずあなたの父ヨナタンのためにあなたに恵みを施しましょう。あなたの父サウルの地をみなあなたに返します。またあなたは常にわたしの食卓で食事をしなさい」。』(9:5-7)
ダビデはまず「恐る事はない」と、声をかけた。
きっとメピボセテは、震えおののいていたのだろう。
しかしダビデは、自分はあなたに恵みを施すつもりであなたを探し、自分の所に住まわすために呼んだのだ、と、言葉をかけてやった。
しかも、祖父サウルの領地を返し、ダビデの子達と共にいつもダビデの食卓にあずかれる者とした。
ダビデ、なんと太っ腹でおおらかなのだろう。
イエス・キリストの恵みも、そのとおりである。
私達もメピボセテのように、本来は殺されて同然の者だった。
暗黒の地でひっそりと神の目を避けて、ただ、さばきを恐れて暮らしているような者だった所を、王の王であられる主は探し、呼び出してくださり、父祖や自分自身が犯して来た罪は一切、免除してくださり、神の子達と共に天の食卓にあずかる者とされた。
『彼は拝して言った、「あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか」。』(2サムエル記9:8)
少し前にも聞いた言葉である。
そう、ダビデも7章18節で、主に申し上げている。
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。・・・。」(2サムエル記7:18-20)
ダビデは、神様から驚くばかりの恵みを受けたから、大いにゆとりが生まれ、恵みを施したくて施したくて仕方のない程のおおらかさを身につけたのだ。
私達も、誰かに恵みを施すとするなら、まず、私達自身が神様からの恵みを既に受けていると、充分に知り、感じ、感謝しなくては出来ない。
また、ダビデやメフィボシェテが告白したように、自分自身がいかに取るにたりないかを覚えていなくてはならない。
そうでないと、恵みを受ける事を当然のものとして高慢で恩知らずになり、振り出されてしまうからだ。
『ヂバは王に言った、「すべて王わが主君がしもべに命じられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてメピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした。・・・メピボセテはエルサレムに住んだ。彼がいつも王の食卓で食事をしたからである。彼は両足ともに、なえていた。』(2サムエル記9:11-13)
私達もキリストにあって、本来そういう者ではないのに、天の御国の食卓に連なる者とされた。
主から大きな恵みを受けた私達は、ダビデのように、さらに他の人達にも施すべきだ。
そうするなら、ますます主に祝福されるサイクルに乗り、さらに周りの多くの人に恵みを施せるようになって行くからだ。