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罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-8-28 23:40
罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
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ダビデは自分の罪を主に認めたゆえ、主は彼の罪を見過ごしにして下さったため、彼は主に打たれて死ぬ事や聖霊が取り上げられたりする事からは免れたが、彼の犯した罪の報いは、彼自身が刈り取る事になる。
『さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。』(2サムエル記12:15-17)
主がダビデに言われた通り、その子に、死の兆候が現れる。
生まれたばかりの自分の子が、死の苦しみに遭っている様を見るのはとても辛い事であるが、ダビデはそれ以上に辛い事情がある。
本来、死の苦しみを受けるべきは、罪を犯した「自分」のはずなのに、その自分はぴんぴんしていて、その代わりに何もしていない自分の子が死の苦しみを味わっているのだ。
ダビデの辛さは、どれ程だっただろう。
彼は、自分が犯した罪の大きさを思い知り、苦しんだだろう。
それで彼は、必死に主のあわれみにすがり求めたのだが、結局祈りは聞かれず、その子は七日後、死んでしまった。
『罪の支払う報酬は死である。』(ローマ6:23前半)
姦淫の罪の報いは死であり(申命記22:24)、また、目には目、歯には歯、という事は、ダビデが無実の人を剣で殺したからには、剣によって撃たれるのが正当だ。
主の敵・サタンが大いにあなどり、ダビデを訴えるとするなら、残念ながら、サタンの訴えは理にかなってしまっている。
かと言って、主がこのダビデの罪をそのまま過ごしにするなら、主の「義」が立たなくなってしまう。
一体どうして、ダビデは生かされるのだろうか。
それは、罪なき命の、身代わりの死によって、である。
私達もそうだ。
本来、私達が犯した罪の刑罰を受け、死ななくてはならない罪人のはずである。
しかし、その私達が罪赦され生かされるとするなら、それは、神の一方的な贈り物の故だ。
その「贈り物」とは、すなわち、罪なきお方・生ける神の御子イエス・キリストである。
彼の身代わりの死によって、私達は生かされた。
そういう訳で、以下のように書かれてある。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)
『七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。』(2サムエル記12:18-19)
家来たちは、思っただろう。
7日も断食して祈り続ける程、熱情的に懇願していたのに、それが叶わずに、子が死んでしまった。彼はその熱情を一体どこに持っていくだろう?
悲しみのあまり後を追っおうとするだろうか。それとも「神様ひどい」とばかりに自暴自棄になるだろうか。色々思い巡らしたかもしれない。
しかしダビデは、彼らの想像を超えた行動を取った。
『そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。』(2サムエル記12:20)
彼は、それまでの熱情的な祈りと断食を一切止めた。
そして真っ先にした事は、身をきれいにし、主の家に入って、礼拝した事だった。
もし、子が死んだと悟ったとたん、何日ぶりかで身体を洗えるとか、何日ぶりかで食べられるといった事に、真っ先に飛びついたとしたら、彼は本当は冷酷で、子を愛していたのではなく、ただのパフォーマンスで断食や祈りをしていたに過ぎない。
また、もしダビデが「こんな事をした主はひどい」と言って主を恨んでいたなら、彼は身を清めて礼拝するなど、しなかっただろう。
しかしそうではない。
彼は真っ先に、主の前に出て、礼拝したのだ。
彼は、自分のした悪と、それに対して主がなさった事を100%受け入れ、同意したからこそ、主の御前に身を清め、礼拝を捧げ、もはや自分の願いや執着は捨て去ったのだ。
これこそ、神の民が取るべき主への従順である。
イエス様も、ゲツセマネの園で、「この杯(十字架)を過ぎ去らせて下さい」と血の汗を流す程、必死に祈った。
しかし、御父の御旨はイエス様が十字架に架かられる事だと示された時、イエス様はそれを100%受け入れ、堂々と十字架へと歩んで行った。
私達もダビデやイエス様にならい、主の御心が示されたなら、それがどんな道であれ、従順して歩むべきなのだ。
イエス様は私達の身代わりになって死んで下さった。そして、よみがえって下さった。
それ故、私達もダビデのように、主のなさる事に同意し、全て自分の願いや執着を主の前に捨て、身を清めて礼拝し、正しく食事をとり、イエス様に生かされた命を感謝しつつ、正当に生て行くべきなのだ。
犯してしまった罪の刈り取り(2サムエル記12:7-14)
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『ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、』(2サムエル記12:7)
ダビデは、主に見放されたサウル王がどんな悲惨な軌跡を辿ったのかを見ていたので、預言者から「あなたがその人です」と言われた時、冷水を浴びせられたようにぞっとしただろう。
主がどのようなお方であるかを理解しているならしている程、主の怒りを買う事がいかに恐ろしいかを知っており、自分がそのような状態にある時、心落ち着かないものだ。
主に扱っていただくべき罪や弱さ、至らなさを、いつまでも放置して呻いたまま何ヶ月も何年も過ごすのは、不健康であり、速やかに御前に出て取り扱っていただくべきだ。
『どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。』(2サムエル記12:9)
もし御言葉に記されている事(例えば、姦淫をしてはならない、殺してはならないという記述)を知りながら、それでもそれを犯すとするなら、御言葉なる主を軽んじ、御言葉なる主の目の前で悪を行っているものである。
警察官を目の前にするなら、誰も万引きはしないであろうが、そのようなレベルの問題ではなく、主のことばによって造られたこの世界の中で、主のことばによって造られた私達は、決して、神の臨在から離れる事は出来ないのものであり、例えば、アダムとエバがいちじくの葉で腰を覆ったり木陰に隠れたりする事は、全く無意味な事なのだ。
『あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。』(2サムエル記12:9-10)
ダビデは「剣」を用いて罪なき人の血を流した。
それ故今後、剣による災いに悩まされる事になる。
事実、ダビデから生まれた子の内、3人は剣で殺されてしまう。またダビデ自身、将来、剣から逃れなくてはならなくなってしまう。
『主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。』(2サムエル記12:11-12)
ダビデはもうひとつ、姦淫という罪を犯した。
それ故、彼は姦淫で「はずかしめられる側」となり、事実この言葉の通り、ダビデの娘タマルは異母兄弟によって辱められ、ダビデの側女もダビデの子アブシャロムによって、白昼公然と辱められてしまう。
『ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。』(2サムエル記12:13)
ダビデはこの時、王の権威をふるって、耳に痛い事を言う預言者を殺す事もできたであろうが(実際、歴代の王達は預言者を迫害し殺した者も多くいた)、ダビデはそれをせず、正直に罪を認めた。
主は確かにダビデの罪を見過ごして下さった。
しかし、犯罪を犯した人は相応の服役をしなくてはならないように、彼が行った事の報いは、彼自身が受けなくてははらない。
『しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル記12:14)
ダビデが犯した「姦淫」は、いのちの誕生への冒涜行為であり、剣によって罪なき人を殺害するという罪もした。
それ故、ダビデ自身は報いを受けなかったが、彼が産んだいのちが、その報いを受ける事になってしまった。
ダビデは、自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなくなった。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。
懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレ31:18-22)
あなたがその男です(2サムエル記12:1-7a)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
前章では、ダビデが今までして来た素晴らしい功績や栄誉を、まるでひっくり返してしまうような、罪深い有り様を見た。
ダビデがした悪は、うまく隠しおおせたかのように見えたが、主は全てを見ておられ、その指摘と報いとをされる。
『主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。』(2サムエル記12:1)
預言者ナタンはかつて、ダビデに永遠に続く家を建てる、という主の言葉を伝えたが、今回、ダビデの隠れた罪を指摘しに来た。
『「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。』(2サムエル記12:1-3)
この話中に出てくる富んでいる人は、ダビデの事を指し、貧しい人とその羊は、ヘテ人ウリヤとその妻バテ・シェバを指している。
この話中の、貧しい人の有り様から、バテ・シェバはウリヤと結婚して以来、彼と一緒の器から食物を食べ、一緒の器から飲み、彼の懐で寝て、とても慕わしく過ごしていた様子が伺える。
ウリヤは元々、イスラエルが忌むべき異邦の民・カナンのヘテ人であったのに、まことの神・主に立ち返り、イスラエルの民に加えられ、彼の純粋な信仰と誠実さと、そして、戦士としての有能さの故に、ダビデの三十勇士の一人に数えられた。
以前は暗闇の民であったのに、今は神の民とされ、与えられた恵みの日々に喜びつつ、愛する妻と共に日々を送っていただろう。
しかし、その幸いな日々は、ダビデ王によってある日突然奪われてしまう。
『時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた「人(イシュ:男)」のために調理した」。』(2サムエル記12:4)
ここで「旅人」と訳されているヘブライ語は「ヘイレフ」、流れる、あるいは旅人の意味であり、また、話中ではこの旅人は「男性」である。
ダビデに流れ来た「男の性欲」という旅人を満足させるため、ダビデは、自分の所に大勢いる妻からは取らず、誠実なウリヤが唯一大切にしている妻、バテ・シェバを取って、ダビデの「男の性欲」を満足させた。
ダビデは、この事を隠れて行ったが、覆われているもので露わにされないものは無い。(ルカ12:2-3)
『ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。』(2サムエル記12:5-6)
ダビデは話中の金持ちに、激しく怒り、死刑宣告をし、なおかつ、四倍にして償いをしなくてはならないと宣告した。
律法には、羊一頭を盗んだ場合、四倍にして償うよう記されてはいるが、死刑にせよ、とまでは書いていない。(出エジプト記22:1)
ダビデは、この喩えが自分に向けて語られた事に気付いていなかったように、人はそれ程、自分が神と人との前に犯してきた罪の数々を覚えておらず、それでいて、他人の犯した罪をよく覚えており、その裁きを、主の基準よりも厳しくし、そうして自分自身を罪に定めてしまうのだ。
『だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。』(ローマ2:1-3)
人はなぜか、なんとなく思っている。
「自分は、さばきを免れる」と。
それでいて他人の罪はありありと覚えていて、「さばき主」の立場に立ち、相手への仕返しや報いは、大げさに増し加えようとするものだ。
『それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。』(ローマ2:4-6)
主は、私達が罪を告白し、悔い改め、主に立ち返って救われる事を願っておられる。
悔い改めるなら、神の豊かな慈愛と寛容によって赦してもらえる。
しかし、主に罪を指摘されても悔い改めず、サウル王のように言い訳したり、力づくで自分の罪を覆い隠そうとしたり、あるいは歴代の王たちがしたように、神から遣わされた預言者を迫害したり、抹殺するなら、その人はさばきの厳しさを増し加えるための燃料を、さらに積み上げているのだ。
ダビデに預言者ナタンが遣わされた時、ダビデは悔い改めた。
だから、彼は今も偉大な王として、その栄誉が語り継がれているのだ。
私達にも、罪が指摘された時、悔い改めの道と、自分の好き勝手な道を貫き通す事と、どちらを選ぶだろうか。
不信仰なわたしをお助けください(マルコ9:14-29)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要
テフィリン教育を真っ先に取り入れ実践しているトォビッ教会の先生や働き人に、テフィリン教育で大切な事は何かと尋ねた所、子供たちに御言葉を暗唱させる事は確かに大事だが、それ以前に、まず親が真理の御言葉によって教育されている事こそ大事だ、と言う事だった。
子供を教育するには、まずは父と母が、子供に提供できる正しい「教えと訓戒」を取り入れる所からである。
今日は、主にあって子育てする親は、どのように問題を克服し、どのように変えられるべきかを学びたい。
『さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。』(マルコ9:14) イエス様が山から降りて来られた時、イエス様の弟子達が一人の悪霊につかれた子供を癒やせなかった事で、律法学者と議論し、群集に囲まれている場面に出会った。
『イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。』
イエス様が嘆かれた真っ先の事は「不信仰」だ。後で分かるが、この子の父親は主の全能である事を信じていなかったし、弟子達にも、祈りが無かった。彼らは、子供の良くない様や悪霊の力は見ていても、主に対する信仰も、祈るというたしなみも無く、ただ議論をしていたのだ。
イエス様は言われる。「その子をわたしに連れて来なさい」と。
『霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。』(マルコ9:22-23)
イエス様はまっすぐ父親に向かった。この、父親の今までの心意気こそが問題だと、見抜いたからだ。
自分自身とイエス様の関係を抜きにして、人に任せっぱなしの状態では、何も起きない。子供の問題、病や悪霊の問題、経済や健康の問題などを主の弟子達や教会に「できるものなら」と丸投げし、それで解決されないなら議論したり人のせいにして、そうして本人自身の信仰は全く放ったらかしにされているからだ。
トォビッ教会でも、テフィリンと出会う前から子供教育に力を入れ、色々な試みをして来たが、やはり壁となったのは「親の信仰」の問題だったという。子供を教会の幼稚園に預かって御言葉に沿った教育をすると、確かに子供達は良い方に変わるのだが、ある子は、家に帰ると悪い状態に戻ってしまい、その悪い状態で戻って来た子が、他の子達にも悪い影響を与え、全体的に悪い方に平均化されてしまうのだ。
そこで親子同時教育をするために、親と子を毎日教会に集め「共同育児」の試みもしたが、今度は教会が色々やってくれるから、教会に任せておけばいい、という雰囲気になってしまった。そこで親の御言葉で教育する事に重点を置き、教会に頻繁に集わせず、自分の子は自分の家でしっかり面倒見るようにさせた。
そうした試行錯誤の中、テフィリンに出会ったという。私達は、この教会の貴重な経験に学ぶべきだ。
『その子の父親はすぐ(KJV:涙と共に)叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』
父は悟った。子供が助けられる以前に、不信仰な自分こそ、何より先ず助けられる必要があったのだ、と。
私達も、涙と共に、主に心から叫ぶべきである。親として、長として足りていない自分を救って下さい、自分からイエス様と関係を持たずに来て、何もかも誰かに丸投げにしていた、不信仰な私をお救い下さい、と。
イエス様に「救って下さい」と叫ぶ時、諸々の問題が解決する下地が整えられる。
『すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。』 本当に良くなる直前、悪霊やサタンは最後の打撃を与え、最悪の状態になったと絶望させるが、イエス様が手を取って起こしてやったように、私達も手を差し伸べるなら起きるのだ。
マタイの並行箇所(17:21)や、KJVでは、この類は「祈りと断食」が必要だと記している。
自分の好む事を止め(断食)、それと引き換えに、ただ神様に向き合う「祈り」に入る事。それが必要だ。
まずは自分自身が御言葉によって整えられ、自分から主に向き合い、自分で祈り、そうして問題を主と主の言葉に持っていくなら、主の素晴らしい栄光を見るのだ。
イザヤ書講解説教メッセージ
モアブに対する宣告:親族を救う事へのうめき(イザヤ15章)
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【概要】
イザヤ書15章を通して、モアブに対する神の裁きと哀れみについて語られています。
【聖書箇所】
イザヤ書15章1-9節
【戒めの言葉】
神の恵みから離れることは、人を残虐にし、最終的には滅びに至らせます。
【悔い改めの促しの言葉】
神様は長く忍耐されますが、悔い改めないなら最後には裁きが来ます。
【***詳細***】
今日の箇所はイザヤ書15章です。1節から9節までありますが、まず1節を読みます。
「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び果てた。」
この章は、イスラエルの南東に位置するモアブの国に対する神の警告の言葉です。前回までのアッシリアやバビロンに対する裁きの宣告とは異なり、モアブに対する神の言葉には悲しみが満ちています。神の哀れみと愛を感じさせる内容となっています。
モアブの起源を振り返ると、モアブはロトの子孫です。ロトはアブラハムの甥であり、ソドムとゴモラから逃れた後、自分の娘たちとの関係から生まれた子がモアブとアンモンの先祖となりました。つまり、モアブはアブラハムの親戚関係にあたります。
しかし、モアブは偶像崇拝に陥り、ケモシュという偶像を拝み、子供を焼いて捧げるような残虐な宗教を行っていました。イスラエルとモアブの関係は、まるで私たちクリスチャンが少数派である日本で、偶像礼拝をする親戚がいるような状況に似ています。
皆さんも、もし偶像礼拝をする親戚や家族がいたら、その人たちが救われることを願うでしょう。どんなに長い間嫌がらせをされても、blood関係の人が救われることを祈り続けるものです。
しかし、何度も悔い改めを促しても悔い改めず、主の御言葉を伝えても受け入れず、イエス様の憐れみを示しても受け取らないなら、やがて主の時が来てしまいます。
モアブは何度も何度も神のイスラエルを攻撃し、嫌がらせを続けました。ついに、アッシリアによってモアブの町々は短期間のうちに滅ぼされてしまいます。
2節を見ると、「モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために登る。ネボとメデバのことでモアブは泣き喚く。頭は皆丸くなり、ひげは皆切り取られる。」
様々な地名が出てきますが、これらはモアブの主要な町々です。歴史的には、アッシリアによってこれらの町々はたちまちに飲み込まれるように滅ぼされてしまいます。
モアブの人々は、自分たちの偶像の神々に助けを求めますが、それらは何の力も持ちません。たとえ自分の子供を犠牲として捧げても意味がありません。人が作った神は、絶対に応答しないのです。
主は、このモアブのために叫ぶと言っています。神はもともとアブラハムの親族として救われることを望んでいました。アブラハムもロトのために取り次ぎの祈りをしました。しかし、モアブは立ち返ることをせず、ついに滅ぼされるべき時が来てしまったのです。
人は働くと給料をもらいますが、同様に悪いことをすれば、その報いとして災いを受けることになります。ロトはアブラハムと共に出発しましたが、アブラハムから離れて罪の地に住み、ソドムとゴモラから救い出されても、アブラハムのもとに戻ることなく、自分の好きなところに住み、罪の子孫を産みました。
アブラハムから離れれば離れるほど、ロトの子孫は悪くなっていきました。最終的には、自分の欲を満たすために子供まで焼いてしまうほどになってしまいました。これは恐ろしいことです。神の恵みから遠ざかると、人は残虐になっていくのです。
神の恵みを一度味わって、その後恵みから離れた者は、その時間が長ければ長いほど、神に反逆し、残虐な人間になります。モアブがまさにそうでした。
ロトがソドムとゴモラから逃げるとき、神の使いは山、つまりアブラハムの住んでいる方向に逃げるよう指示しました。しかし、ロトは低地の方向に逃げました。これが運命の分かれ道となったのです。
アブラハムと共にいれば、このようなことは起こらなかったでしょう。私たちは、信仰を貫く人々がいるところに自分の身を置くべきです。ロトは助かりましたが、信仰がない場所に行き、そこで罪を犯し、モアブとアンモンという民族が生まれました。その結果、後には自分の子供を焼いて偶像に捧げるまでに堕落していったのです。
5節には、「わたしの心はモアブのために叫ぶ。逃げる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまで行く。ルヒトの坂を泣きながら登り、ホロナイムの道で破滅を嘆き叫ぶ。」とあります。
モアブの北から南まで、全土にわたって嘆き叫ぶ声が聞こえてくると預言しています。
神は好んでモアブ人を殺すわけではありません。この15章には何度も「ああ」という言葉が出てきます。神の深いうめきを感じさせる章です。
罪から来る報酬は死です。人が自由意志を持って罪とその報酬である死を選び続ける限り、神にはどうすることもできません。
私たちも、神を知らない人々、伝道しても神を敬わない人々がいるなら、福音を伝え、取り次ぎの祈りをすべきです。モアブはイスラエルを呪いましたが、神の民を呪うことは、神を呪うのと同じです。
モアブに対して神の憐れみがあったのは、アブラハムの取り次ぎの祈りがあったからです。長い間、アブラハムの祈りのおかげで、モアブには猶予期間が与えられていました。取り次ぎの祈りは本当に大切です。
【結論】
私たちは、家族や親族、友人たちのために取り次ぎの祈りを続け、福音を伝え続けるべきです。神の恵みから離れないよう気をつけ、悔い改めて主の御前に立ち返ることが大切です。救いのために祈り、伝道に励む者となりましょう。