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次から次へと助けが遣わされたダビデの性質(2サムエル記17:15-29)
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『そこでホシャイは祭司たち、ザドクとアビヤタルとに言った、「アヒトペルはアブサロムとイスラエルの長老たちのためにこういう計りごとをした。またわたしはこういう計りごとをした。それゆえ、あなたがたはすみやかに人をつかわしてダビデに告げ、『今夜、荒野の渡し場に宿らないで、必ず渡って行きなさい。さもないと王および共にいる民はみな、滅ぼされるでしょう』と言いなさい」。』(2サムエル記17:15-16)
ホシャイは速やかにダビデに報告するために、メッセンジャーを遣わした。
アブシャロムが、いつまたアヒトフェルの助言を採用してしまうか、分からないからだ。

このダビデへの二人の伝令は、アブシャロムに属する若者に見られていまい、追われる事となってしまう。
『彼らふたりは急いで去り、バホリムの、あるひとりの人の家にきた。その人の庭に井戸があって、彼らはその中に下ったので、女はおおいを取ってきて井戸の口の上にひろげ、麦をその上にまき散らした。それゆえその事は何も知れなかった。アブサロムのしもべたちはその女の家にきて言った、「アヒマアズとヨナタンはどこにいますか」。女は彼らに言った、「あの人々は小川を渡って行きました」。彼らは尋ねたが見当らなかったのでエルサレムに帰った。』(2サムエル記17:18-20)
ダビデ達を助ける人は、ここでも現れた。
ダビデは以前から、行く先々で恵みと憐れみのわざを人々にする事を常として来たため、いざという時に彼を助けてくれる人が沢山いるのだ。

例えば、ダビデがサウル王に追われていた時代、ナバルの羊飼い達と共に過ごした時でも、ダビデ達はナバルの羊飼い達のため盾となり、持ち物がなくならないように気を遣ってやった。
ナバルは、そんなダビデの恩を、仇で返したが、主はナバルを打たれ、そして夫のナバルに代わってダビデに恩を返したアビガイルは、ダビデの嫁となり後には王妃となる幸いにあずかった。
主を頼りとしている人達に良い事で返すなら、その人には良い報いが返って来るが、仇で返すなら、それ相当の報いがその人に帰ってくるのだ。
『あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。』(マタイ10:40-42)

『彼らが去った後、人々は井戸から上り、行ってダビデ王に告げた。すなわち彼らはダビデに言った、「立って、すみやかに川を渡りなさい。アヒトペルがあなたがたに対してこういう計りごとをしたからです」。そこでダビデは立って、共にいるすべての民と一緒にヨルダンを渡った。夜明けには、ヨルダンを渡らない者はひとりもなかった。』(2サムエル記17:21-22)
ダビデに伝える二人の伝令は、こうして無事、ダビデの所に情報を届ける事が出来、こうしてダビデ達は、一人も損なわれる事なく無事にヨルダンを渡る事が出来た。
悪しき者は主の民に色々と企み、次から次へと攻勢をかけてくるが、主は、主に信頼して御言葉に歩む人には、人を通じ、あるいは自然現象を通じ、時には、自然を超越した現象を起こしてでも働かれ、守られるのだ。

『アヒトペルは、自分の計りごとが行われないのを見て、ろばにくらを置き、立って自分の町に行き、その家に帰った。そして家の人に遺言してみずからくびれて死に、その父の墓に葬られた。』(2サムエル記17:23)
アヒトペルは、「神の御告げ」のような計りごとをめぐらす人だったが、その計りごとは、自分のいのちをながらえさせる事が出来なかった。
彼が自ら首をくくった理由は「自分のはかりごとが行われないのを見て」だった「自分の思い通りに行かないなら、死んだほうがましだ」という理由で自殺をするなら、ダビデは一体何度、自殺するような場面があっただろう。

イスカリオテのユダも、アヒトペルのように首をっくくって死んだが、彼も、イエス様が自分の思い通りに行かないから、というのが、裏切りの発端だった。
自分の思いや計りごとを、あくまで執着するなら、自分で自分の首を締めてしまうものだ。
しかしキリスト者は、自分の計りごとを降ろし、主の前に服従させ、そうして、誰にも出来ないような勝利を勝ち取れる人々である。
『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』(2コリント10:5-6)

ダビデには、さらに助ける人が現れる。
『ダビデがマハナイムにきた時、アンモンの人々のうちのラバのナハシの子ショビと、ロ・デバルのアンミエルの子マキル、およびロゲリムのギレアデびとバルジライは、寝床と鉢、土器、小麦、大麦、粉、いり麦、豆、レンズ豆、蜜、凝乳、羊、乾酪をダビデおよび共にいる民が食べるために持ってきた。それは彼らが、「民は荒野で飢え疲れかわいている」と思ったからである。』(2サムエル記17:27-29)

ダビデを助けた一人目は、ナハシの子ショビである。
ナハシは生前、ダビデと親しい交流があったアモン人の王であったが、その子・ハヌンは、ダビデの恩に仇で返した。(10章)
しかしショビは、ダビデの恩に恩で報いた。
ショビとハヌン。同じナハシという親から生まれたのに、一方はダビデに恩を返し、一方はダビデを辱めた。それと同じように、同じ肉の親から生まれても、一方はキリストに恩を返し、他方はキリストを辱める、という事は、あるのだ。

ダビデを助けた二人目のマキルは、サウル家のヨナタンの子・メフィボシェテを養った人である。(9章)
きっと彼は、メフィボシェテに憐れみをかけ、王の食卓で彼を養ってくれたダビデに対し、恩を報いたのだろう。
また、バルジライは19章で詳しく記されているが、彼は非常に裕福で、ダビデ達がマハナイムにとどまっている間、彼らを養った。
それでダビデが幸いを得た時、彼を祝福し、豊かに報いる。(19章)

ダビデは行く先々で、人々に平和に接し、憐れみをほどこした。
悪い事をしていないのに命を付け狙われてる事があっても、悪で返す事をせず、善で返して来た実績がある。
だからダビデは、神と人とに愛され、彼を助ける人が後を絶たなかったのだ。
『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。・・・あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。・・・平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。・・・・義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:5-10)
このように、ダビデを助ける人達が、次から次へと現れたおかげで、アブシャロム達がヨルダンを渡って来る頃には、ダビデ達は物資面でも充実し、戦いの準備もしっかり整える事が出来た。

それに引き換え、アブシャロムに従っている人は、アブシャロムの美しさや魅力、勢いの良さ、頭の良さを見て一緒になる人が多かった。
つまり、彼と一緒にいる事のほうが今後都合が良いといった「損得勘定」で彼に従う人が多かった。
もしアヒトペルが、アブシャロムを愛し慕っていたとするなら、自分の計りごとが一度採用されなかったからと言って、早急に自殺してしまうような事は、しなかっただろう。

地を相続する人とは、外見や口先の言葉が美しい人ではなく、柔和な人である。
いざという時に憐れみを受けられる人は、普段から憐れみ深い人である。
神の子と呼ばれる人は、神のお告げのような計りごとを語る人ではなく、平和をつくる人である。
天国を相続する人とは、時代のトレンドに合わせて主人や主張を変える者ではなく、迫害されても、なお義を貫く人である。

愛を伴った権威によって従わせる主(マタイ7:28-29)
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週報/メッセージ(説教)概要

『イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。』(マタイ7:28-29)
イエス様には権威があったが、律法学者には、権威は無かった。律法学者とは、律法をよく学び、蓄え、テフィリンされた人だが、人々をいのちへと導く事は出来ず、またイエス様ほどの権威も、無かった。
テフィリンされると、確かに頭脳がよくなる。律法学者も、かなり頭が良かったのであろうが、我々の印象として、律法学者といえばイエス様に逆らったり、あら探しをしたり、議論を仕掛けたりするような印象が強い。
いかにテフィリン教育されても、イエス様というお方と、その愛が伝わっていないなら、現在ユダヤ人のように、ただ頭が良く物質的に祝福されていても人々から嫌われ、叩かれやすいような人達になってしまう。
確かに私達は、子供がより頭が良くなる事を望むし、物質的に祝福された子になって欲しいと願うが、もし、子供が現代ユダヤ人のように、イエス様に逆らう方面で頭脳明晰になってしまうとするなら、恐ろしい事だ。
それを防ぐためには、子供達にまず、イエス様を教える事が先決である。
イエス様のご性質、すなわち、彼の愛を教え、彼が生きておられる事を教え、その御方を呼ぶ事を教え、その御方と出会い、会話し、交わり、共に歩む術を教えるのだ。
その為にはまず、私達自らがイエス様の愛を知り、味わい、体験しなくては、それを教えられない。
日々、賛美と祈りと御言葉によってイエス様と交わり、世と社会において、イエス様と共に歩むのだ。

律法学者の教え方は、命令と、懲らしめ、恐れによる指導であったのに対し、イエス様の教え方は、愛によって人の心を溶かし、自由にし、その自由意思で自ら仕える心を起こさせるものだ。
子供が御言葉の真理と、世における成功の枠組みを体得するために、命令と懲らしめ、恐れによる指導も、幾らかは有益であるが、それ「だけ」にしてしまうと、愛もイエス様も知らない「律法学者」が育ってしまう。
最も大切なものは、イエス様の愛である。「愛がない人」が、いくら預言しても、癒しをしても、身を切った捧げ物をしても、御言葉の深い奥義をひけらかしても、それはただのやかましい、壊れたシンバルだ。
私達は壊れたシンバルを演じていないだろうか。神は、愛である。愛は神のご性質であるため、愛の無い人は、決して神を伝えられない。 『愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。』(1ヨハネ4:18)

人は、色々な不足に嘆く。金銀がない、認められる事がない、子供が従ってくれない、と。しかし私達は何より、自分の中に、愛が無い事こそ、嘆くべきだ。愛が無いと嘆き悲しむ心が与えられたら、自分の問題を知るようになる。何より問題なのは、私達が愛の人でない事、愛を知らないで育てられてしまった事だ。
親によって律法学者のように育てられてしまったような人が、愛の人になるには、愛なる主、イエス様と出会う事だ。パウロは以前、バリバリの律法学者で、自分が「よし」と思なら、神の教会さえも迫害していた。
しかし彼は、半ば強制的にイエス様と出会わされた事により、愛の人に造り変えられた。それも、日夜兄弟姉妹のために心砕いて祈り、同胞が救われるためならば、自分が呪われた者になってもいい、と言う程に。
私達がイエス様と出会うなら、パウロのように、強制的に愛の人にさせられてしまうのだ。そのために私達も、イエス様を求めるべきである。イエス様、私と会って下さい、と。解決手段は、主イエス様を「求める」事だ。
『あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。』(エレミヤ29:12-14)

律法学者には、正しさはあったかもしれないが、愛や情けは無かった。しかしイエス様は、私達のためにいのちの犠牲を捧げて下さった事によって、愛と憐れみを示して下さった。それで私達は彼に従うのである。
『正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5:7-8)
主の愛を求めて主の愛を知るようになり、その愛を伴った権威によって、子供たちを、周りをイエス様の元へと導いていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

信仰によって世を造り変えて行く世代

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執筆 : 
pastor 2015-9-26 2:04

2015年9月24日夜祈祷会
信仰によって世を造り変えて行く世代
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2015年9月24日昼祈祷会

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執筆 : 
pastor 2015-9-26 2:02

2015年9月24日昼祈祷会
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マタイによる福音書講解説教メッセージ

わたしの兄弟姉妹にした事は、わたしにした(マタイ25:31-46)
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イザヤ書講解説教メッセージ

将来と希望の預言が成就せず災いが成就してしまうケース(イザヤ19:16-20:6)
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【概要】

本日の御言葉は、イザヤ書19章16節〜20章6節およびエレミヤ書29章11節〜12節から、エジプトをはじめとする国々に対する神の裁きと、真に主へ立ち返るなら救いと祝福が与えられるという希望のメッセージを学びます。人は偶像や人間の力に頼るとき、いずれ真実の救いを見失うが、真心から主に従えば必ず神の慈悲が現れることを示しています。

【聖書箇所】

・イザヤ書19:16-20:6

・エレミヤ書29:11-12

【戒めの言葉】

自らの誤った信仰や偶像に頼る姿勢を断ち切り、偽りに頼ることの危険性を厳しく戒め、主に立ち返る決意を促しています。

【励ましの言葉】

主に従い、悔い改めた者には、いかなる困難の中でも救いと平安、将来への希望が与えられるという確かな励ましが伝えられています。

【悔い改めの促しの言葉】

過去の誤りや罪深い行いを、深い悔い改めによって清め、心を新たに主の御名に身を委ねるよう、私たちに強く求められています。

【***詳細***】

本日私たちが頂戴する恵みの御言葉は、イザヤ書19章16節〜20章6節に記されている、エジプトに対する預言です。ここで神は、エジプトの民が自らの偽りの神々や偶像、そして霊媒や口寄せといった人間の知恵に頼り、安心感を得ようとしていたことに対し、厳しい裁きを宣告します。冒頭では「その日、エジプトの民は万軍の主が振り上げる裁きの光景を目にし、深い恐れに襲われる」と告げられ、民は恐怖に陥ります。これは、ただ単に罰を与えるためではなく、悔い改めと主への立ち返りを促すための御措置なのです。

また、イザヤ書の後半部分では、エジプトに一度は厳しい災いが予告されるものの、最終的には主に立ち返ることで真実の救いと祝福が約束されると語られています。この変転は、エジプトのみならず、私たち一人一人の生活にも深く関係しています。どんなに国や個人が自らの力や偶像に頼っても、その頼りは限りあるものであり、決して永遠の安心をもたらすものではありません。むしろ、私たちが心から救い主であるイエス・キリストに立ち返り、御言葉に従順であれば、神は必ずや慈愛深い恵みをもって私たちを救い、未来に希望ある平安を与えてくださるのです。

さらに、エレミヤ書29章11節〜12節の御言葉は、神が私たち一人一人のために、災いではなく平安と希望に満ちた計画を立てておられると明言しています。「わたしはあなた方のために立てている計画をよく知っている。それは災いではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」というこの御言葉は、現代に生きる私たちにも深い安心と励ましを与えてくれます。困難な局面に立たされるたび、また世の中の混乱や不安の中で、私たちは偶像や自己の力に頼りがちですが、本当の救いは神の御言葉に従う信仰の中にあるのだと示されています。

預言者イザヤがかつて、救いの印として自身が裸になって裸足で三年間エジプトを歩いたという行為は、単なる奇行ではなく、神から与えられた生きたメッセージでした。彼は、この行いを通して、エジプトの民に対し「真の救いは、自分自身の力や偶像に頼るのではなく、主へ立ち返ることにある」という厳粛な警告を伝えようとしました。イスラエルの民は、イザヤのその姿を目の当たりにし、真摯に心を改めるべき時が来たことを悟りました。一方で、悔い改めずに自分を信頼し続けた者たちは、いずれ神の正義の裁きに遭い、罪の代償を受ける運命にあるという戒めが込められています。

この御言葉は、単に古代のエジプトに関する預言にとどまらず、私たち現代人にとっても多くの示唆が込められています。具体的には、家庭や社会、国家において、私たちが偶像や人格主義、自己中心的な考え方に頼るならば、いずれそれらは裏切り、不完全なものとして露呈するという現実を思い起こさせます。だからこそ、私たちは常に主に立ち返り、真の救いと平安を追い求めることが大切です。神は、どのような状況にあっても、本当に心から悔い改める者を決して見放すことはありません。むしろ、そのような者に対しては、時間や状況を超えて確固たる祝福と希望をお与えになるのです。

さらに、教会という共同体において互いに励まし合い、神の御言葉に従って生活することが、私たち個々の信仰をより強固なものにしていきます。信仰を持つ仲間と共に集い、祈り、そして御言葉を学ぶことは、個々人が立ち返る勇気を持ち、日常生活で神の御導きを受け取るために非常に重要な意味を持ちます。互いの悔い改めと賛美の中で、神から与えられる希望と未来の計画が、具体的な形として現れるのです。

最後に、私たちに対する神の呼びかけは、「自らの罪を認め、心の奥底から悔い改めよ。そして、真実に主に立ち返り、御言葉に従い歩むならば、あなたの人生に真の救いと祝福が訪れる」というものです。今日の御言葉を通して、私たちは自分自身の内面を省み、どんな時も神の慈愛と導きを求める決意を新たにするべきです。たとえ一時の過ちや傲慢があったとしても、主はいつでも私たちを迎え入れ、真に救いへと導いてくださいます。

【結論】

神の計画は、私たちが自らの誤りを悔い改め、真心から主に立ち返るならば、どんな災いも救いと祝福へと変えるという普遍的な真実です。今日の御言葉を胸に刻み、日々の生活の中で主の御声に耳を傾け、謙虚な心で従順に歩むことを誓いましょう。主イエス・キリストのお名前によって、皆さんに平安と希望、そして無限の祝福が豊かに注がれますように。アーメン。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
この国のために祈り、子を産み、御言葉で教育せよ(エレミヤ29:5-14)
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金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
人生に立ちはだかる巨人や城壁に勝利するには(申命記3:1-5)
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人の知恵と賢さをむなしくされる主(2サムエル記17:1-14)
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アヒトペルは、アブシャロムにダビデのめかけ達と公然と寝るよう助言し、ダビデを大いに侮ってアブシャロムに味方する者たちの士気を大いに上げたが、彼は間髪を入れずに、次の助言をする。
『「わたしに一万二千の人を選び出させてください。わたしは立って、今夜ダビデのあとを追い、彼が疲れて手が弱くなっているところを襲って、彼をあわてさせましょう。そして彼と共にいる民がみな逃げるとき、わたしは王ひとりを撃ち取り、すべての民を花嫁がその夫のもとに帰るようにあなたに帰らせましょう。あなたが求めておられるのはただひとりの命だけですから、民はみな穏やかになるでしょう」。この言葉はアブサロムとイスラエルのすべての長老の心にかなった。』(2サムエル記17:1-4)

つまり、ダビデは今、とても意気消沈し疲れているから、この機を逃さずに急襲しましょう、今ならやすやすと攻め落とせるでしょうから、と。
これは実際、「良い計りごと」だった。(14節)
ダビデ達は実際、心も体も疲れていたし民を連れていて無防備状態である。この機に攻め込まれたなら、ひとたまりもないだろう。
しかし、全ての人のいのちを司る主は、ダビデを守る事が御心であった。
なぜなら、ダビデは主を敬い主に依り頼んでいたのに対し、アヒトペルとアブシャロムは、主と御言葉とを、軽んじていたからだ。

主は、知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを、むなしいものにされる。(1コリント1:19)
アヒトペルがせっかく”良い計りごと”をしたのに、アブシャロムは、余計な提案をする。それも、どれ程余計だったかというと、彼の生死を分けてしまう程の。

『そこでアブサロムは言った、「アルキびとホシャイをも呼びよせなさい。われわれは彼の言うことを聞きましょう」。』(2サムエル記17:5)
アブシャロムは、ホシャイにも伺おうと言って彼を呼び出すのだが、ホシャイはダビデから遣わされたスパイである。
アブシャロムの提案は、ダビデ達にとって有利な、そして自分達にとって不利な事だった。

『ホシャイがアブサロムのもとにきた時、アブサロムは彼に言った、「アヒトペルはこのように言った。われわれは彼の言葉のように行うべきか。いけないのであれば、言いなさい」。』(2サムエル記17:6)
ホシャイはアヒトペルの計りごとを聞いて慄いただろう。
もし彼の計りごとが速やかに遂行されるなら、今、無防備なダビデ達は、ひとたまりもないだろう、と。
そこでホシャイは、ダビデ達にとって有利で、なおかつ、聞く人全てを納得させるような計りごとを立てる。

『ホシャイはアブサロムに言った、「このたびアヒトペルが授けた計りごとは良くありません」。ホシャイはまた言った、「ごぞんじのように、あなたの父とその従者たちとは勇士です。その上彼らは、野で子を奪われた熊のように、ひどく怒っています。また、あなたの父はいくさびとですから、民と共に宿らないでしょう。彼は今でも穴の中か、どこかほかの所にかくれています。』(2サムエル記17:7-9a)
ホシャイは、アヒトペルとは真逆の解釈を展開する。
すなわち、ダビデは疲れて意気消沈しているのではなく、アブシャロム達が自分達をはずかしめた事によって、子を奪われた熊のように怒り心頭である、そして、戦いに熟練したダビデなら、きっとアブシャロム達の虚を突いて、少なからぬ被害が出るだろう、と。

『もし民のうちの幾人かが手始めに倒れるならば、それを聞く者はだれでも、『アブサロムに従う民のうちに戦死者があった』と言うでしょう。そうすれば、ししの心のような心のある勇ましい人であっても、恐れて消え去ってしまうでしょう。それはイスラエルのすべての人が、あなたの父の勇士であること、また彼と共にいる者が、勇ましい人々であることを知っているからです。』(2サムエル記17:9-10)
続いてフシャイは、アブシャロムの内にあるわずかな心配を、巧妙に突く。
アブシャロムは、策略家であったかもしれないが、戦いには熟練していない。
いかに今はおとなしいダビデとは言え、子はどこかしら、父の怒りに対する恐れを持っているものである。

『ところでわたしの計りごとは、イスラエルをダンからベエルシバまで、海べの砂のように多くあなたのもとに集めて、あなたみずから戦いに臨むことです。こうしてわれわれは彼の見つかる場所で彼を襲い、つゆが地におりるように彼の上に下る。そして彼および彼と共にいるすべての人をひとりも残さないでしょう。もし彼がいずれかの町に退くならば、全イスラエルはその町になわをかけ、われわれはそれを谷に引き倒して、そこに一つの小石も見られないようにするでしょう」。』(2サムエル記17:11-13)
いかに戦いに長けたダビデとは言え、圧倒的多数での物量作戦に出るなら、ひとたまりもないだろう、と。
しかも、アブシャロム自らが陣頭指揮を取って、大軍を率い勝利する。それはアブシャロム自身のプライドをくすぐる作戦でもある。

『アブサロムとイスラエルの人々はみな、「アルキびとホシャイの計りごとは、アヒトペルの計りごとよりもよい」と言った。それは主がアブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからである。』(2サムエル記17:14)
そう、本当なら、ホシャイよりもアヒトペルの計りごとのほうが、良かったのだ。
しかし、アヒトペルの計りごとを虚しいものにしたのは、主である。

「主が」アブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められた・・・。
久しぶりに、主ご自身が働かれた記述を見た。
主のわざはそれまで、人間の罪やはかりごとによって、表に出られない状態だった。
人が自分の力、自分のはかりごとを巡らしてそれを通そうとしている内は、主の力は働かれない。
『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)

主は、ダビデのたった一言の祈り、「主よ、どうぞアヒトペルの計略を愚かなものにしてください(15:31)」に応え、動き出された。
自分の力や計りごとを全て主の前に投げ出し、主に祈る事こそ、主の力を引き出す鍵である。

アブシャロムの華々しいリベンジ(2サムエル記16:15-23)
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『さてアブサロムとすべての民、イスラエルの人々はエルサレムにきた。アヒトペルもアブサロムと共にいた。』(2サムエル記16:15)
ダビデが去ったエルサレムの都に、アブシャロムが新しい王として入城した。
アブシャロムの所には、アヒトペルもいる。彼は天才的な助言をするため、ダビデにとっては脅威だ。
それでダビデは、アヒトペルの助言を無効化するため、彼の友であり相談役のホシャイを、アブシャロムに接近させる。

『ダビデの友であるアルキびとホシャイがアブサロムのもとにきた時、ホシャイはアブサロムに「王万歳、王万歳」と言った。アブサロムはホシャイに言った、「これはあなたがその友に示す真実なのか。あなたはどうしてあなたの友と一緒に行かなかったのか」。
ホシャイはアブサロムに言った、「いいえ、主とこの民とイスラエルのすべての人々が選んだ者にわたしは属し、かつその人と一緒におります。かつまたわたしはだれに仕えるべきですか。その子の前に仕えるべきではありませんか。あなたの父の前に仕えたように、わたしはあなたの前に仕えます」。』(2サムエル記16:16-19)

アブシャロムは最初、疑っていた。しかしホシャイは、知恵深く答え、彼はわずかな言葉でアブシャロムの信用を勝ち得た。
『そこでアブサロムはアヒトペルに言った、「あなたがたは、われわれがどうしたらよいのか、計りごとを述べなさい。』(2サムエル記16:20)
もしダビデだったなら、人にではなく、真っ先に主に伺うために神の宮に入って行っただろう。
しかしアブシャロムは、エルサレムにある神の箱も、主の祭司も、全く見向きせず、人のはかりごとに真っ先に聞いた。

前にも見た通り、アヒトペルはバテ・シェバの祖父、ウリヤの義理の祖父である。(23:34、11:3)
彼はダビデに対する憎しみもあったろう。なにしろ、孫娘を不倫の対象とされ、孫の一家を破壊されたのだから。
そこでアヒトペルは、性的な面でダビデを辱める行動を助言する。

『アヒトペルはアブサロムに言った、「あなたの父が家を守るために残された、めかけたちの所にはいりなさい。そうすればイスラエルは皆あなたが父上に憎まれることを聞くでしょう。そしてあなたと一緒にいる者の手は強くなるでしょう」。こうして彼らがアブサロムのために屋上に天幕を張ったので、アブサロムは全イスラエルの目の前で父のめかけたちの所にはいった。』(2サムエル記16:21-22)
こうしてダビデのめかけ達は、公然と陵辱されてしまった。
まさしく、ナタンが預言していた通りである。
『あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。』(12:10-12)

ダビデは今、まさに剣に追われており、そして、ダビデが罪を犯す発端となった、あの屋上で、今度は彼自身が性的な報復をおおっぴらな形で受ける事になってしまった。
主は、悔い改めたダビデの罪を見過ごしにし、死なないようにしては下さった。
しかし、犯した罪の報いは受けなくてはならないものであり、ダビデは今まさにそれを受けているわけである。

アブシャロムに組していた人々は、気勢を上げただろう。
特に、性的な冗談や嘲りは、世的な事柄に興味を持っている人々を、大いに盛り上がらせるものだ。

『そのころアヒトペルが授ける計りごとは人が神のみ告げを伺うようであった。アヒトペルの計りごとは皆ダビデにもアブサロムにも共にそのように思われた。』(2サムエル記16:23)
アヒトペルは、確かに天才的な計りごとをしたかもしれないが、あいにく彼は、神ではない。
彼の助言は、大いに人受けし、アブシャロムも、周りも盛り上がったかもしれない。
しかしあいにく、彼がした助言の内容は、律法に照らすなら、死に値する事だった。
『その父の妻と寝る者は、その父をはずかしめる者である。彼らはふたりとも必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。』(レビ20:11)

アヒトペルは「父の寝床にのぼる」という、主の前に死にあたる罪を、躊躇なくアブシャロムに勧め、そしてアブシャロムも、躊躇なくそれを行った。
結果的に、アヒトペルは後に自殺し、アブシャロムは木に吊るされた状態で殺されてしまう事になる。
アブシャロムの致命的な欠点は、神にではなく、神のような計りごとをする「人」に頼った事だった。

アブシャロムは若く美しく、人々の心を掴むカリスマ性もあり、性的な嘲りをして、彼の周囲は大いに盛り上がったかも知れない。人目には実に格好良く映ったろう。
対してダビデは、もはや若くなく、相手が攻めてくると、みっともなく逃げ、泣きながら落ち延びて行っている。実に、格好悪い。

しかし忘れてはならない。
アブシャロムは、主を敬う心はこれっぽっちも無いのに対し、ダビデは主にへの従順があり、嘲りや罵りさえ、主の故に甘んじて受けている。
そのような場合、全能の主が味方するのは、明らかにダビデの方だ、という事を。

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