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つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
主は大いなる事をなされた(詩篇126編)
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火曜早天祈祷会

立ち上がって下さい。この事はあなたの肩にかかっています。(エズラ記10:1-5)
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周到な反逆の企みをするアブシャロム(2サムエル記15:1-6)
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アブシャロムは、それまで願っていた父との面会がようやく叶ったのだが、それは非常に儀礼的なもので、アブシャロムは逆に憎しみを募らせるものとなってしまい、彼はこの会合以降、父ダビデの気を引こうとして来たそれまでの心を反転させ、ダビデ王に反旗を翻しクーデターを引き起こす準備を始めてしまう。
『アブサロムは早く起きて門の道のかたわらに立つのを常とした。人が訴えがあって王に裁判を求めに来ると、アブサロムはその人を呼んで言った、「あなたはどの町の者ですか」。その人が「しもべはイスラエルのこれこれの部族のものです」と言うと、アブサロムはその人に言った、「見よ、あなたの要求は良く、また正しい。しかしあなたのことを聞くべき人は王がまだ立てていない」。
アブサロムはまた言った、「ああ、わたしがこの地のさばきびとであったならばよいのに。そうすれば訴え、または申立てのあるものは、皆わたしの所にきて、わたしはこれに公平なさばきを行うことができるのだが」。』(2サムエル記15:2-4)

アブシャロムが父ダビデ王に反逆するためにまず行った事は、人の心を地道に掴んで行く事だった。
通りに毎日立ち、ダビデ王に裁判してもらおうとする人を待ち伏せして、親しげに声をかけ、その人の訴えに耳を傾け同情し、王はあなたの望み通りに動いてくれないが、もし自分なら正しくさばきが出来る、と吹き込んで行く。
こうして、ダビデ王に対する良くない思いと、またアブシャロムに対する好感を植え付けて行く。

人々がダビデ王にさばいてもらいたいと持ち寄る案件は全て、地方の長老では対処できないような難解なものであるはずである。
だから当然、訴えをした人の思い通りには行かない事もあるだろうし、また裁判が長引く事もあるだろう。
そのように、ダビデに訴えるさばきは、ある程度の不自由さを我慢しなくてはならないものであるのだが、アブシャロムは、そこを突いたのだ。

『そして人が彼に敬礼しようとして近づくと、彼は手を伸べ、その人を抱きかかえて口づけした。アブサロムは王にさばきを求めて来るすべてのイスラエルびとにこのようにした。こうしてアブサロムはイスラエルの人々の心を自分のものとした。』(2サムエル記15:4-6)
アブシャロムは、王子という高貴な身分であり、比類なき美貌の持ち主である。その彼が自分から人に手を差し伸べ、抱きかかえて口づけする。
当然、人々は感動し、そして噂するだろう。
あの美しいという噂の王子様・アブシャロムを、私は見た、そればかりでなく、こんな私に自ら近づいて来て、抱き寄せて口づけして下さった。
親しげに声をかけ、わたしの訴えに同情して下さった。
それに引き換えダビデ王は、対応が遅くて随分待たされた挙句、自分の思う通り裁きをしてくれなかった、など。
このように、人々の間では、アブシャロムの美しさと優しさ、有能さが、そして、ダビデの「無能さ」が、広まって行っただろう。

この地道な活動は、ボディブローのように徐々に、そして着実に効いて行く。
アブシャロムは、持て余した時間を、ただ人々に取り入って同調し、ダビデの悪い噂話を流す事に使えるが、ダビデ王は日々、人々のさばきを実際に考え、たとえ訴えに来る人が望まない結果であろうとも公平なさばきをしなくてはならないし、それだけでなく、色々な仕事も同時に抱え持っており、日々その対応に追われている。

会社や教会などの集団の中で、具体的に何か仕事をするわけでもなく、暇を持て余し、ただ上の権威の良くないうわさ話を撒き散らしつつ、自分の所に人々を引き寄せようとする人を放置させておくなら、彼の言葉はがんのように広まって、その組織をどんどん腐らせて行く。
パウロはローマの聖徒たちに、そのような人々について警告している。
『さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。』(ローマ16:17-18)

このように、アブシャロムは周到なはかりごとを巡らし、彼自身の美貌や知恵、能力を駆使して、確実にダビデを貶めようと、また、自分が王になろうと、謀った。
ダビデは、アブシャロムが何をしようと企んでいたのか、感づいていたのかどうかは分からないが、ダビデが取った対応は、やはり「放置」だった。

いずれにせよ、イスラエルという「神の領域」において王となるのは、人の能力やはかりごとに拠るものではなく、ただ神によってなるものである。
アブシャロムは、生まれ持った美貌や手練手管、知恵と能力を駆使して王になろうとした。
しかしダビデが全イスラエルの王になったのは、主が王として下さるという約束に信頼して、一切自分の手練手管を用いず、ただ主がなされるがままに委ねて、そうして王となった。
人々は、アブシャロムのような人の方が、頼りがいがありそうだ、王としてふさわしい、と考えがちだが、最終的には、ダビデのように主に信頼して自分のはかりごとを捨てる人の方が主に守られ、生き残るのである。
人々は、外見の良さや甘言に騙されやすいもので、そのように外見や甘い言葉につられてしまう人の歩みは安定に欠いている。
しかし、人間の悪だくみやはかりごとに関わらず、ただ主に信頼する人の歩みは、決して揺るがされる事はない。

主は大いなる事をなされた(詩篇126編)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

『主がシオンの「繁栄(原文:囚われ人)」を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。 』(1節)
イスラエルは神を軽んじた故に、捕囚の憂き目に遭った。主が私達を荒野へと導くのは結局は幸いを与えるためである事を前回学んだが、私達の人生も、敢えて荒野を通らされたり、捕囚の憂き目に遭う事がある。
それは私達の罪が原因である事もあるが、主が敢えて私達を鍛えるために、そのようにされる事もある。
そこで強制的に主と主の言葉に向き合わされ、主でないものに頼る事がいかに愚かで、そして主の支配がいかに素晴らしいかを思い知らされ、結局永遠の幸いへと導くためだ。イスラエルに捕囚先から帰って良いと法令を発布したのは、ペルシヤのクロス王であるが、結局は「主が」した事だと1節にある。
主は素晴らしい事をして下さった!主は私達をも罪の捕縛から開放し、自由にして下さった。とても望めなかった事を、主は奇跡的にして下さった。こんな幸せ、こんな素晴らしい事を、自分は受け取ってもいいのだろうか。主を待ち望む人に備えられている喜びは、そんな「夢みる者」のような、うっとりした幸いなのだ。

『その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主(エホバ)は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。』(2節)
主に信頼し続けるなら、私達神の民は夢をみているかのような喜び笑いで満ち溢れ、そしてその有様を見た、神を知らない人々も「主は大いなる事をされた」と言って主の存在を信じ、主の栄光を褒め称える。
だから私達は普段から、神の民として、キリストを明かしして歩むべきだ。「自分は主にあって歩む者です」と普段から証しているなら主は喜んでと栄光をあらわし恵んで下さるが、そうでない人には現わされない。

『主よ、どうか、われらの「繁栄(原文:囚われ人)」を、ネゲブの川のように回復してください。』(4節)
当時帰って来た捕囚の民は4万人程(エズラ記)、囚われ人はまだまだ残っていた。70年という歳月を捕囚先で過ごし、ある程度の生活が進んでいる。それをいきなり止め、イスラエルに戻るのは大変だろう。
だから祈るのだ。ネゲブの流れ(普段は水が無いが雨季には怒涛の流れになる)のように、捕囚先に残っている彼らを帰らせてください、と。私達も、今まさに捕囚と訓練の中にいる人達の為に、祈るべきだ。
捕囚先から解放され、戻ってきても、やるべき事は尚多く、問題も山積みの状態である。当時帰って来た人々も、エルサレムの城壁は崩されたままで、帰ってきた人々も、いつ以前の邪悪な生活に戻るか分からない霊的状態だった。そこを、ネヘミヤが城壁を再建し、エズラが霊的立て直しを実行した。私達自身、壊されてしまった心や体、家、経済の城壁を、助け主・慰め主なる聖霊が立て直して下さるよう、祈るのだ。

人々は戻って来ても、暫くの間、貧困にあえいでいた。種を蒔いても乏しい収穫にしかあずかれず、穴の空いた財布に入れるような状況だった事が、ハガイ書に記されている。なぜそうだったか。それは、真っ先に建てるべき神の宮をおろそかにしたまま、自分の生活のために奔走していたからだ。(ハガイ1:1-11)
イスラエルの民が戻った当初、確かに笑いで満たされ、国々も、大いなる事をされたと言って、主の栄光を誉めたたえた。しかし、それで終わりではない。肝心なのは、その後、何を優先して立て直すかである。
主の民は、主の国に帰ってきたからには、しっかり主を敬い、礼拝しつつ歩んで行くべきだが、主を礼拝すべき土台を建てずに奔走しても、種を蒔いてもあまり収穫は無く、穴の空いた袋に入れるような状況だ。
『あなたがたはこの日より後、・・・主の宮の基をすえた日から後の事を心にとめるがよい。・・・わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(ハガイ2:18-19)

『涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。』(5-6節) 喜びの刈り取りをするために、どこへ種を蒔くべきかが肝心だ。
私達は、世の事柄より、神の国の事柄のほうに優先して蒔くべきである。『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。』(ガラテヤ6:8-9)
御霊に、御言葉に、主イエスに種をまき、天と地と海と陸とが揺り動かされ、祝福の雨そそがれて、豊かに刈り取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
ことばが癒されるには、まず耳から(マルコ7:32-35)
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つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
奴隷の地と祝福の地との中間地帯・荒野(出エジプト記16:1-5)
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子が親のものに火を放つ時(2サムエル記14:18-33)
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『そこで王はヨアブに言った、「この事を許す。行って、若者アブサロムを連れ帰るがよい」。ヨアブは地にひれ伏して拝し、王を祝福した。そしてヨアブは言った、「わが主、王よ、王がしもべの願いを許されたので、きょうしもべは、あなたの前に恵みを得たことを知りました」。そこでヨアブは立ってゲシュルに行き、アブサロムをエルサレムに連れてきた。』(2サムエル記14:21-23)
ダビデは、ヨアブに遣わされた知恵深い女によって、息子アブシャロムが放置されたままの状態にあるのは、良くない、という事を諭された。
ダビデはそれを受け入れ、アブシャロムをエルサレムに連れて来る事を許すのだが、『王は言った、「彼を自分の家に引きこもらせるがよい。わたしの顔を見てはならない」。こうしてアブサロムは自分の家に引きこもり、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:24)
アブシャロムと会っていない3年の間、ダビデの心はアブシャロムへと向いていた(14:1)、はずなのに、彼をエルサレムへ呼び寄せた途端、ダビデはそれとは裏腹の行動を取っている。

『さて全イスラエルのうちにアブサロムのように、美しさのためほめられた人はなかった。その足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった。アブサロムがその頭を刈る時、その髪の毛をはかったが、王のはかりで二百シケルあった。毎年の終りにそれを刈るのを常とした。それが重くなると、彼はそれを刈ったのである。アブサロムに三人のむすこと、タマルという名のひとりの娘が生れた。タマルは美しい女であった。』(2サムエル記14:25-27)
アブシャロムは、類を見ない魅力的な人物だった。
「足の裏から頭の頂まで」非の打ちどころが無く、また髪も豊富で、美しい娘も生まれている。

彼は外見が魅力的だけではなく、非常に有能な人物で、人の心を掴む事に長けており、正しい事を断行する勇気も、決断力も、それを実現させるための知恵も、忍耐力も、全て兼ね備えている。
そのような面を見るなら、彼は、次に王となるに申し分無い器として、人々の目に映っていたかもしれない。
ただ一点、ダビデの長男を謀殺した、という点を除くなら。

『こうしてアブサロムは満二年の間エルサレムに住んだが、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:28)
アブシャロムは父の近くに呼び寄せられたものの、さらに2年、放置されてしまった形になる。
ダビデがどのような心境で、どのように判断して、そのようにしたのかは記されていないため、聖書学者の間でも色々な憶測が為されているが、父親が息子を敢えて放置するなら、息子がどのように出るのか、それは容易に想像できる。

『そこでアブサロムはヨアブを王のもとにつかわそうとして、ヨアブの所に人をつかわしたが、ヨアブは彼の所にこようとはしなかった。彼は再び人をつかわしたがヨアブはこようとはしなかった。そこでアブサロムはその家来に言った、「ヨアブの畑はわたしの畑の隣にあって、そこに大麦がある。行ってそれに火を放ちなさい」。アブサロムの家来たちはその畑に火を放った。ヨアブは立ってアブサロムの家にきて彼に言った、「どうしてあなたの家来たちはわたしの畑に火を放ったのですか」。』(2サムエル記14:29-31)
ヨアブは、アブシャロムをエルサレムに引き寄せるよう取り計らった張本人であるが、どういう訳か、彼までも、アブシャロムの2度の呼びかけを放置し、彼がかつてした事とは裏腹の行動を取っている。

アブシャロムに対しては、ダビデも、ヨアブも、なぜか裏腹の行動を取る。
一体何が問題で、アブシャロムはこのようにされてしまうのか。
彼はあまりに有能過ぎる故、危険と判断されたのか、あるいは単に、父ダビデの弱さ故なのか、あるいはもっと他に理由があるのか、それらは分からない。
一つ確かな事は、親はあまりにも子を放置するなら、子から何かの形で火をつけられてしまう、という事だ。

『アブサロムはヨアブに言った、「わたしはあなたに人をつかわして、ここへ来るようにと言ったのです。あなたを王のもとにつかわし、『なんのためにわたしはゲシュルからきたのですか。なおあそこにいたならば良かったでしょうに』と言わせようとしたのです。それゆえ今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください」。』(2サムエル記14:32)
ここに、アブシャロムの心の叫びが垣間見える。
アブシャロムは、ずっと父ダビデに会うことも赦されず、何のコミュニケーションも許されず、かといって何の処断も下されず、右に行っていいのか左に行っていいのか分からない状態のまま、ずっと放置されていた。
もし処罰されるべきなら、はっきり処罰してほしい、それがたとえ死刑でもかわない、とにかく、うやむやなまま放置される事だけは、我慢ならない。
それが、子供の本心である。

『むちと戒めとは知恵を与える、「わがまま(シャラーハ:追い遣る、放任する)」にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
子供と正面から向き合わず、子供が望ましくない事をしても、それに対して何も処断を下さず、ただ放置しておくとするなら、子はやがて、親に火をつけるようになってしまうのだ。

『そこでヨアブは王のもとへ行って告げたので、王はアブサロムを召しよせた。彼は王のもとにきて、王の前に地にひれ伏して拝した。王はアブサロムに口づけした。』(2サムエル記14:33)
こうして、父と子の何年ぶりかの再会が実現したというに、ただ儀礼的な挨拶をした以外は、特に記されていない。
アブシャロムが切望して来た、何年ぶりかの父との再会。
それなのにアブシャロムは、「子」として「父」とコミュニケーションが出来なかった。
妹が陵辱されて以来、感じてきた悔しさ、忍耐して来た辛さ、やってしまった事のうしろめたさ、一人放置されていた事の寂しさ、人々に理解されない事の苦しさ、そうした事を打ち明ける事が出来なかった。
あまりにも親子関係の「親しさ」が無い、ただ上下関係だけが強調された、儀礼的な挨拶だけの再会に、アブシャロムはどんなに失望しただろう。

アブシャロムはこの再会の後、父ダビデ王になんとか会って話しあおうとして来た努力の方向性を反転させ、父・ダビデに反逆し、クーデターを起こす準備をするようになってしまう。

この第二サムエル記14章は、ダビデも、ヨアブも、アブシャロムに対して、裏腹な行動ばかりを取ってきた。
人の心も営みも、移ろいゆくものであり、時に裏腹の行動を取り、時に反転するものである。

第二サムエル記13章と14章で、主は全く沈黙しており、主が何かを語られたとか、何かされたといった記事は、一切無い。
ただ人の思い図りと、裏腹さだけが記されている。それらはなんの益ももたらさず、ただ崩壊へと向かうのみである。
『人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。』(1ペテロ1:24-25)

早天祈祷会

旅はまだ遠いのだから(1列王記19:1-8)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ

主人の時、主人の心に合わせた賢い花嫁(マタイ25:1-13)
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イザヤ書講解説教メッセージ

クシュに対する宣告 - 神に伺い出る異邦人への憐れみ(イザヤ18章)
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【概要】

本日の説教は、イザヤ書18章の預言を中心に、異邦の国々に対する神の愛と裁き、そして混沌の時代にあっても主に信頼し歩む大切さを示しています。神はどんな状況下にあっても、心から祈る者に変わらぬ恵みと救いを与えてくださいます。

【聖書箇所】

・イザヤ18:2-7

・(また、九州やエチオピアへの預言の背景を示す文脈として)イザヤ20章の預言の一部も参照

【慰めの言葉】

主は、灼熱の太陽の下に現れる濃い雲のように、激しい日々の中でも心に涼やかな慰めと安心を与えてくださいます。

【励ましの言葉】

どれほど混乱した世の中であっても、神は常に私たちの傍におられ、信仰を持って祈り続けるならば、その恵みと導きが必ず実を結ぶと励まされています。

【戒めの言葉】

世俗の喧騒や祭りの騒ぎに流されることなく、常に神の声に耳を傾け、自らの心を清めることが求められています。もし神から離れてしまえば、かつてイスラエルや周囲の国々に見られたように、厳しい懲罰が訪れる恐れがあります。

【勧めの言葉】

家庭や教会での礼拝、祈り、賛美を通して、常に神の御顔に触れ、その恵みを受け入れる生活を大切にし、互いに助け合うことが強く勧められています。

【悔い改めの促しの言葉】

もし私たちの心が誤った道に迷い、神から疎遠になっていると感じるならば、深く悔い改め、真摯な心で主の元へ立ち返るよう促されています。

【***詳細***】

本日の御言葉は、まずイザヤ書18章2節から7節の預言の朗読から始まりました。この箇所では、遠い異邦の国―その国は古代において大国として恐れられ、背が高く肌の滑らかな民が住む国―に対して、迅速な使者がパピルスの船に乗り、神の命令を伝える様子が描かれています。ここでの言葉は、ただ単に遠い昔の歴史的事象を記述するのではなく、現代における私たちへの重要な示唆として伝えられているのです。

この異邦の国、後にエチオピアとして呼ばれる国は、その国力の強さと多くの川が流れる肥沃な土地として知られていました。しかしその一方で、周囲を取り巻く強大な国々、特にアッシリアの脅威に晒される中で、神は自らの御計画に従って、この国に特別な役割と祝福を備えられたと預言されています。預言者は、この国の民へ、迅速な使者を送り、神のお告げと共に、彼らが悔い改めと内省、そして徹底した信仰の歩みを進めるよう促しています。

また、預言の中には、激しい太陽が照りつける中で突然現れる濃い雲の比喩が登場します。この比喩は、暑い日に現れる日陰と梅雨のような恵みの雨を想起させ、極めて過酷な環境下でも神がその民に慰めと潤いを与えてくださるという希望を示しています。つまり、どんなに不安定な時代や環境であっても、主は私たちの上に常に御顔を輝かせ、必要とされる恵みを注いで下さるという確固たる保証なのです。

さらに、聖書の中では、エチオピアとユダヤ人以外の民との交わりが強調されています。新約聖書においては、エチオピアの宦官がイエス・キリストの御名に預かり、洗礼を受けた出来事が記されており、これは異邦人に対しても神の御恵みが満ち溢れていることの表れです。エチオピアという遠い国が、古代より神の御心に従い、その歴史の中で祝福を受けたことは、私たちにとっても大きな励ましです。国境や人種、文化の違いを超えて、神の愛と救いは普遍的に与えられているという真理がここにあります。

一方で、預言は厳しい戒めも伴っています。たとえば、かつてイスラエルやその周辺の国々が、神への不従順と誇りによって災いを招いた歴史を思い起こさせます。もし私たちが、家庭や教会での祈りを疎かにし、世俗の誘惑に流されるならば、神の厳しい裁きや懲罰が下される可能性があるのです。これは決して罰としてではなく、真に神との正しい関係を保つための必要な戒めとして示されています。私たちは、日常のあらゆる瞬間において、神の御言葉を心に刻み、互いに励まし合いながら歩むことが求められているのです。

現代においても、世界は依然として戦争や政治的不安、異常気象など多くの試練にさらされています。こうした混乱の中で、私たちは一層、主に信頼し、その御顔を仰ぎ見る必要があります。たとえ外の世界が騒然としていても、家庭や教会という聖なる共同体の中では、神の御恵みと平安が豊かに流れ出しています。私たちが真摯な祈りと賛美に励むならば、どんな苦難も乗り越えることができると、聖書は私たちに教えてくれています。

また、エチオピアやセバの女王が遠い南から知恵を求め、またエチオピアの宦官が信仰によって新たな命を得た出来事は、神が歴史の中でいかに広く恵みを注いできたかを示す象徴です。これにより、私たちも自分自身の立場や背景に関係なく、主の計画に従って歩むことができるという希望を抱かされます。神は常に「悔い改めに立ち返る者」に対して、恵みと祝福を惜しみなく与えてくださるお方であり、それは今を生きる私たちにとっても変わることのない真理です。

そして、説教の終盤に差し掛かるにつれ、私たちは主の祈り―「天にまします我らの父よ…」―の深遠な意味に思いをはせるように促されます。この祈りは、単なる形式的な言葉ではなく、私たち一人ひとりが神との親密な交わりを実感し、絶えず心を新たにするための道しるべとなるものです。祈りを通して、日々の生活の中に神の御顔の光を迎え入れるとき、私たちは確固たる信仰によってその混乱や恐れを打ち破る力を得るのです。

また、教会における礼拝や家庭での小さな祈りの時間が、私たちの心だけでなく、共同体全体に神の恩寵を呼び起こすことを強調されています。互いに励まし合い、助け合うことの大切さは、単に個々の信仰の力を高めるだけでなく、全体としての霊的な強さへと結びついていきます。神が常に私たちに向けられるその慈愛の光を絶やさずに、困難や試練の中でも前向きに歩むことこそ、真に祝福された生き方であると説かれているのです。

最後に、私たちはこの説教から、混沌とする現代の中でも神の御言葉に従い、悔い改めと祈りを通して心を清め、主の御顔に近づくことの重要性を再認識することが求められていると理解します。たとえ外の世界がいかに荒れ狂っていても、神は眠ることなく、常に私たち一人ひとりの上に御顔を照らし、その愛と恵みを注いでくださいます。私たちが真摯な態度で主に仕え、互いに励ましながら日々を送るならば、その祝福は決して尽きることはありません。どうか、私たちがこの御言葉に導かれ、確かな信仰を持って歩む日々を重ねることができますように。

【結論】

結局のところ、私たちは混乱と不安に満ちた時代の中でも、神の御言葉に従い、心から悔い改め、祈りと信頼をもって主の恵みを受けることが最も大切です。エチオピアへの預言とその歴史的証しは、国境や時代を超えて神の愛が広がっていることを示しています。常に主の御顔に近づき、その恵みの中で歩む決意を新たにし、平和と希望を抱いて生きていきましょう。

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