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内外の敵に対する正しい対処(2サムエル記5:17-25)

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全イスラエルの王とされ、堅固な都エルサレムに王宮を建てて住み、さらに妻をめとり多くの子を産んで行くダビデ。
成功の道をまっしぐらに進んでいるかのようなダビデだが、神に属する人が栄えると、それを妬んで攻撃して来る者も現れる。

『さてペリシテびとは、ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞き、みな上ってきてダビデを捜したが、ダビデはそれを聞いて要害に下って行った。ペリシテびとはきて、レパイムの谷に広がっていた。』(2サムエル記5:17-18)
ペリシテが集結したレパイムの谷は、エルサレムのすぐ近く、ほんの数キロほど南である。
ダビデの町の喉元まで迫ってきたのだ。

サウルは、ペリシテが攻めて来た時、その軍勢を見て恐れ、わなないたが、今回もかなりの数と装備で攻め寄せて来たと思われる。
ダビデはどうしたか。
『ダビデは主に問うて言った、「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手に渡されるでしょうか」。主はダビデに言われた、「上るがよい。わたしはかならずペリシテびとをあなたの手に渡すであろう」。』(2サムエル記5:19)

かつてダビデは、サウルから逃れるために、主に御心を求めずにペリシテの地へ行き、世の中的な生存競争の泥沼に陥った挙句、妻子や財産全てを奪われ、部下たちに殺されそうにまでなったが、その時、彼は主に伺って奮い立ち、見事全てを取り返した。(1サムエル記27章)
この事があってだろうか、彼は以後、何事に対しても主に伺うようになった。
私達もダビデのように、何事についても主の守りと祝福を、そして導きを求めて祈るなら、平和と尊厳の内に人生を全うできる。

『そこでダビデはバアル・ペラジムへ行って、彼らをその所で撃ち破り、そして言った、「主は、破り出る水のように、敵をわたしの前に破られた」。それゆえにその所の名はバアル・ペラジムと呼ばれている。』(2サムエル記5:20)
「バアル・ペラジム」の名は、神は突破口を開いて下さる、という意味である。
人は、自分の考えや経験に基づいた行動によって突破口を開こうとするが、それは最善ではなく、多かれ少なかれ自分や他人を傷つけるものである。
しかしダビデのように主に伺うなら、主はどんな問題であっても、最善かつ完璧な突破口を開いて下さる。

『ペリシテびとはその所に彼らの偶像を捨てて行ったので、ダビデとその従者たちはそれを運び去った。』(2サムエル記5:21)
ダビデは、敵の残して行った偶像を、しっかり除去したが、これは大事な事である。
カナンの偶像は、性的・肉的情欲をそそる表現が、あからさまに施されていたり、また、肉欲の逸脱的な発散行為が「礼拝」とされているような地であった。
エルサレム近くの谷に置き去りにされた偶像を片付けさせた事は、言うならば、純粋な青少年男子をかかえている親が、性的不健全な本やビデオが近所に散乱しているのを、すぐ片付けさせたようなものか。

目に見える偶像に従うのは、肉的には、非常にラクだ。
それに対し、見えない神に信頼し、書かれてある御言葉に信頼して歩む道は、肉的には困難を覚える。
その事は、信仰者である皆さんは日々、実感している事であろう。

だから主は、特に偶像を警戒させたのだ。
『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである。』(申命記7:25-26)
実際、列王記や歴代誌を見ると、ダビデの子孫である王達で、偶像が堕落のきっかけとなってしまった事例を、多く見る事が出来る。
だから、偶像をしっかり除去させたダビデは、その点素晴らしいのだ。

ペリシテ人は、懲りずにまた攻めてきた。
『ペリシテびとが、ふたたび上ってきて、レパイムの谷に広がったので、ダビデは主に問うたが、主は言われた、「上ってはならない。彼らのうしろに回り、バルサムの木の前から彼らを襲いなさい。バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは奮い立たなければならない。その時、主があなたの前に出て、ペリシテびとの軍勢を撃たれるからである」。』(2サムエル記5:22-24)

ダビデは再び、主に伺った。
人は特に、一度勝利したり成功したりすると、その経験や成功パターンに飛びついて主に伺う事を止めてしまう事が多い。
しかし彼は、そうではなかった。
ダビデが今回取るべき「主の戦法」は「登って行くな」であったが、もし主に伺わずに行っていたら、どうなっていただろう。
ヨシュアの時代、城塞都市エリコに大勝利した直後、アイという小さな町を攻略する上で、彼らは「今回も楽勝だろう」と考え、主に伺わずに出て行った結果、負けてしまった。
彼らの中には聖絶すべきものがあったため、どんな小さな相手にさえも勝てない状態に陥っていたのだが、主に伺っていなかったため、それに気付けなかった。

『ダビデは、主が命じられたようにして、ペリシテびとを撃ち、ゲバからゲゼルに及んだ。』(2サムエル記5:25)
以上のように、ダビデは、聖絶すべきものを徹底して除去する事についても、主に伺うという事においても、ぬかりはなかった。
そのため、ダビデは至る時、至る所で大勝利し、結構な北方まで領地を奪回した。
私達もダビデのように、滅ぼし尽くすべきものにおいて、また、主に伺う事において抜かり無くして、祝福を逃さないものでありたい。
そのような皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

花婿を迎え入れた花嫁 - ダビデを迎え入れたエルサレム(2サムエル記5:6-16)

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いよいよ今回、エルサレムにダビデ王が入城し、この都はイスラエルのものとなる。
エルサレム。
この都は今後、聖書に何度も登場する重要な都である。

『王とその従者たちとはエルサレムへ行って、その地の住民エブスびとを攻めた。エブスびとはダビデに言った、「あなたはけっして、ここに攻め入ることはできない。かえって、めしいや足なえでも、あなたを追い払うであろう」。彼らが「ダビデはここに攻め入ることはできない」と思ったからである。』(2サムエル記5:6)
ダビデが入る前、エルサレムは「エブス」という町で、エブス人が住んでいた。
ヨシュアの時代、そこはベニヤミン族のものとして割り当てられていたが(ヨシュア18:21-28)、ベニヤミン人はそこを自分のものとせず、ずっと放置してエブスが住むままにしていた。

この都、エルサレムの成り立ちは、私達キリスト者の成り立ちと、よく共通している。

エルサレムが最初に聖書に登場するのは、いつだろうか。
それは実は、かなり早い段階で、イスラエルの父祖アブラハムの時代である。
『その時、「サレム」の王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った・・・。』(創世記14:18-20)
この「サレム」が、エルサレムの初期の名である。
そして、そこを支配していた王は、あのアブラハムを祝福した偉大な祭司・義の王であるメルキゼデクだった。

しかし、いつしかエブスという邪悪なカナン人が、この都を占拠し、支配するようになってしまった。
「エブス」の名の意味は「踏み潰す」、「エルサレム」の名の意味は「平和という土台」である。
元々は義の王が支配していた「平和の土台」という都は、やがて、「踏み潰す」者たちに占拠されてしまった。
これは人間の成り立ちにも、非常によく似ている。

人間は元々、神の似姿として創造され、永遠に、神と共に平和に生きるはずだったが、人はいつしか、邪悪な者に踏みにじられてしまった。
人を不当に踏みにじった者、それはサタンである。
それ以来、人の内側は不法で満ち溢れ、罪によって占拠されてしまった。

時代が降り、ヨシュアの時代、「エブス」となっていたエルサレムの町は、ヨシュアのくじによって、ベニヤミンの地とされたが、ベニヤミン族はその町をずっと放置したままにした。
一時、ユダ族がその町を攻め取ったものの(士師記1:8)、その後もエブス人が住み続けていた、という事は、ベニヤミンはせっかく邪悪な者どもをユダ族に追い払ってもらったのに、そこを神の民で満たす事をせず、空き家のままに放置したのだろう。
それで再びエブス人が来て住むようになって、以前よりももっと攻め落としづらくなってしまった。

人も同じように、悪しきものが内側から追い出されたとしても、そこを良きもので満たしていないなら、もっとたちの悪い七つの悪霊が来て住みつくようになってしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまうのだ。(マタイ12:43-45)

長らく続いた邪悪な者による占拠状態から、ようやくエルサレムを救ったのが、ダビデだった。
『ところがダビデはシオンの要害を取った。これがダビデの町である。・・・ダビデはその要害に住んで、これをダビデの町と名づけた。またダビデはミロから内の周囲に城壁を築いた。こうしてダビデはますます大いなる者となり、かつ万軍の神、主が彼と共におられた。』(2サムエル記5:7-10)
偉大な王・ダビデがエルサレムに介入して入り、邪悪な者達をなぎ払い、神の民が住む都とした。
こうしてこの都は、偉大な王・ダビデが名を置く所となり、さらに強固に建て直され、やがては、聖なる神殿がその中に構築されて行く。

私達キリスト者も、同じ事を経験している。
罪の奴隷状態として、邪悪な感情や思いの占拠状態であったこの心と身体に、まことのダビデであるイエス様が介入して入って来られ、罪や汚れをなぎ払い、神のものとして、私達を邪悪な者サタンから分捕り返して下さった。
さらには、私達を聖霊の住まわれる宮とされ、偉大な王・イエス・キリストが住まわれる「神殿」とされた。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)

しかし後に、エルサレムの都は、主を敬わない身勝手な王達によって、不法をはびこらせてしまう。
主が預言者を遣わし、それを戒めても、彼らはそれを無視し続け、ついにはバビロンという破壊者によって破壊されてしまう。
『ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。』(マタイ23:37-39)

私達も、まことのダビデであるイエス様を軽んじ、身勝手な思いに身を委ね、戒めを無視し続けるなら、破壊されてしまう。
しかし、イスラエルが後に憐れみを受けたように、私達も悔い改めて立ち返るなら、主は豊かに赦し、回復させて下さるのだ。

エルサレムは2015年現在、神殿の丘にはイスラムのモスクが建っており、未だ、不純なものが混在している状態である。
だが将来、主の時に必ず完全で純粋なものへとつくり変えられる。
『また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』(黙示録21:2)
その時、エルサレムは完全で清いものとなり、キリストの花嫁として、永遠にキリストのものとされる。

エルサレムがまだその途上であるように、今、私達も完成される途上にある。
私達のこの肢体には、相変わらず罪と義が混在状態になっていて、この身体を着ている間、しばし、うめかなくてはならないが、しかし私達がまことのダビデであるキリストを王として迎え入れる時、私達はこの地上の束縛から解放され、天に属するものとして、聖なる栄光の歩みをして行く事が出来、そして、来るべきキリストの花嫁として、ますます整えられて行くのである。

王とされたダビデ(2サムエル記5:1-5)

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『イスラエルのすべての部族はヘブロンにいるダビデのもとにきて言った、「われわれは、あなたの骨肉です。先にサウルがわれわれの王であった時にも、あなたはイスラエルを率いて出入りされました。そして主はあなたに、『あなたはわたしの民イスラエルを牧するであろう。またあなたはイスラエルの君となるであろう』と言われました」。
このようにイスラエルの長老たちが皆、ヘブロンにいる王のもとにきたので、ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。』(2サムエル記5:3)

いよいよダビデは、全イスラエルの王となった。
聖書中の最重要人物の一人、イエス・キリストが生まれる家系の父となりイスラエル王族の大元となった「ダビデ王」。
彼が王となった成り立ちは、自分のはかりごとや力に一切依らず、ただ、主の約束を信じる「待ちの姿勢」を貫いた結果、半自動的に王とされた。
神の国で高められる人の性質は、自分の力や知恵によらず、ただ主に依り頼む人である。

『ダビデは王となったとき三十歳で、四十年の間、世を治めた。すなわちヘブロンで七年六か月ユダを治め、またエルサレムで三十三年、全イスラエルとユダを治めた。』(2サムエル記5:4-5)
ダビデの統治した期間は40年。
イスラエル全体の歴史からすればとても僅かであり、その間、ダビデ自身の罪や不完全さによって、人々の生活が不安定となった時もあった。
しかし、来るべきダビデの子・イエス・キリストの統治は、永遠であり、完全である。
『わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。』(エゼキエル34:23-24)

王の中の王として有名なダビデ。
彼はなぜ、神と人とに愛され、そこまで偉大な王となれたのか。
それは、ダビデは事あるごとに主に主に求め、罪を指摘された時は、間髪を入れず悔い改め、すぐ主に立ち返る性質だったからだ。
ダビデとサウルの違いは、日頃主に依り頼むか、頼まないか。
罪が指摘された時、悔い改めるか、悔い改めないか。
その違いはシンプルだが、それは実に、永遠の明暗を分ける違いである。

私達も、救い主・イエスキリストにあって「王族の祭司」とされた。(1ペテロ2:9)
「王」であるからには、私達にも統べ治めるべき領域がある。
自分自身の人生、すなわち、自分の時間や身体を正しく治めるものであるし、子供や家庭を、また事業や仕事などを正当に治めるべき「王」である。
今、私達に任されているその王としての統治領域は僅かかもしれない。
しかし私達は、その小さな領域を、忠実に支配していくべきだ。

ダビデはいつ、全能の主から「王」として見出されただろうか。
それは彼がまだ紅顔の少年だった時に、すなわち、エッサイ一家の末っ子として皆に軽んじられ、サムエルの食事会にも招かれず、羊の番をさせられていた時から、であった。

その時から彼は、羊飼いとして与えられた小さな仕事を軽んじる事なく、任された羊達を、ライオンや熊からも命がけで守った。
彼は普通の毎日の中で、主に聞き従い、主の主権の中で忠実である事を、しっかり培ったからこそ、人間の誰にも見向きもされない時期から、主に目を留められ、油注がれたのだ。
そうして彼は、イスラエルの徴兵にもされない弱冠の歳にして、イスラエルの大人たちが誰も出来なかった事、すなわち、ゴリアテを倒したのだ。
それは、彼の能力や知恵によらず、はかりごとによらず、ただ、主に信頼して進み出た事によって、だった。

私達もダビデのように、日々、遣わされている仕事場や家庭などの先々で、主と主のことばに忠実に仕える事をしっかり養い、守るべき「羊」達を守るべきだ。
日々の小さな事に忠実であるなら、ダビデのように主に見出され、さらに多くを任せられる。
日ごと忠実に歩み、ダビデのように多くを任され、多くの主の仕事が出来る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イシュ・ボシェテ殺害に対するダビデの表明(2サムエル記4:1-12)

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『サウルの子イシボセテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、その力を失い、イスラエルは皆あわてた。』(2サムエル記4:1)
平和のうちに物事が進んでいたのに、突然、血なまぐさい事が起き、上から下まで大騒ぎになる。
2015年7月現在の日本も、まさにその状況だ。
衆議院で、安全保障関連法案が強行採決されてしまい、今までに無かったようあ大騒ぎである。
このような激動の時、これを機に「のし上がってやろう」と、良からぬ事を企む者も出てくるものだ。

『サウルの子イシボセテにはふたりの略奪隊の隊長があった。ひとりの名はバアナ、他のひとりの名はレカブといって、ベニヤミンの子孫であるベロテびとリンモンの子たちであった。(それはベロテもまたベニヤミンのうちに数えられているからである。ベロテびとはギッタイムに逃げていって、今日までその所に寄留している)。』(2サムエル記4:2-3)
この二人の「略奪隊の隊長」であるベロテびとは、ベロテから逃げざるを得ない、何かしらの不穏な事情があって、ギッタイムに来た、という経緯がある。

『ベロテびとリンモンの子たち、レカブとバアナとは出立して、日の暑いころイシボセテの家にきたが、イシボセテは昼寝をしていた。家の門を守る女は麦をあおぎ分けていたが、眠くなって寝てしまった。そこでレカブとその兄弟バアナは、ひそかに中にはいった。
彼らが家にはいった時、イシボセテは寝室で床の上に寝ていたので、彼らはそれを撃って殺し、その首をはね、その首を取って、よもすがらアラバの道を行き、イシボセテの首をヘブロンにいるダビデのもとに携えて行って王に言った、「あなたの命を求めたあなたの敵サウルの子イシボセテの首です。主はきょう、わが君、王のためにサウルとそのすえとに報復されました」。』(2サムエル記4:5-8)

二人は、サウルの子・イスラエルで王たる者を、寝込みの無防備な時に、密かに命を奪って、その首をダビデの元に持って行くという、これまた卑劣な行為を行った。
しかも彼らは「主(エホバ)」の名を用い、あたかも、自分達が大義名分を果たしたかのような言い草で、のうのうと「主は報復されました」とダビデに報告している。
このような者たちは、血なまぐさい平和ならざる事をしてしまって後、後付け的に、大義名分を付け加えるものだ。

彼らは、義なる方・平和の君である「主」への尊敬も怖れも無く、単に、自分がしでかした事に正当性を付与したいがために、「主の御名」をその道具として使っただけである。
主は言われる。
『主よ、主よ』と言う者が御国に入るには非ず、御父の御心を行う者だけが入る、と。
その日いかに『主よ、主よ、私達はあなたの名によって何々したではありませんか』と言っても、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』と言う、と。(マタイ7:21-23)

かの二人のような「略奪者」の観点では、敵将の首を取り、持って行くのは、褒美がもられる「良い事」に見えたかもしれない。
しかしあいにく、神の国の価値観は、略奪の価値観とは違い、主は「真実」な方、「平和の君」である。
サウルは、「勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた」が(1サムエル記14:52)、隊長に任ずる採用基準に、霊的モラルのある無しは、あまり関係無かったようだ。
その”つけ”が、サウル家にまわって来てしまった。
私達も、力だけを求めて、御国の基準を後回しにすると、そのつけが後で回って来るものなのだ。

『ダビデはベロテびとリンモンの子レカブとその兄弟バアナに答えた、「わたしの命を、もろもろの苦難から救われた主は生きておられる。わたしはかつて、人がわたしに告げて、『見よ、サウルは死んだ』と言って、みずから良いおとずれを伝える者と思っていた者を捕えてチクラグで殺し、そのおとずれに報いたのだ。悪人が正しい人をその家の床の上で殺したときは、なおさらのことだ。今わたしが、彼の血を流した罪を報い、あなたがたを、この地から絶ち滅ぼさないでおくであろうか」。』(2サムエル記4:9-11)
ダビデは、サウルが無防備だった時も、寝込みを襲えたような時も、決して手をかけなかった。
また、サウルが殺された時も、「自分が殺した」と言って来たアマレク人に、「油注がれた者」に手をかけた罪に報いた。
そんな、真実な彼の行動パターンを見ていれば、分かりそうなものを、かの二人は、空気が読めなかったというか、自分の価値観に凝り固まっていたというか、自らダビデの元に、自らを滅ぼす愚かさを、晒しに行ったのである。

『そしてダビデは若者たちに命じたので、若者たちは彼らを殺し、その手足を切り離し、ヘブロンの池のほとりで木に掛けた。人々はイシボセテの首を持って行って、ヘブロンにあるアブネルの墓に葬った。』(2サムエル記4:12)
ダビデは、アブネルにしたのと同じく、イシボセテをヘブロンに葬って敬意を表し、ここにおいても、神と人との前に義と平和を表明した。

ダビデは、平和の君・キリストのひな形である。
平和の君とは、隠れて血を流すような卑劣な者を、そのまま許すような方ではなく、悪に対しては、きっちりけじめをつける、義なるお方だ。

こうしてダビデは、サウル家の誰にも手をかける事なく、かつて彼が宣言した通りになった。
『主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。』(1サムエル記26:10-11)
このダビデの有様、すなわち、決して自分で動くのではなく、主に伺い、主が何もかも為して下さった様を見て、私達に繰り返し語られている、次の御言葉を身に付けるべきである。
『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。・・・平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。』(マタイ5:5-9)

ユダヤ人的御言葉作法(ネヘミヤ8:5-6)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ユダヤ民族は実に不思議な民族である。BC586年、バビロンによってイスラエルという「国」は破壊された時以来、全イスラエル民族は全世界へと離散してしまった。彼らは色々な国に散らばってしまったが、およそ2500年後の1948年、数千年前の過去に先祖達が住んでいたその土地に、数千年前の国名で、数千年前の言語で、奇跡の復活が与えられた。通常、国が破壊されて100年も過ぎれば、その国は歴史から消えてしまうのが常だが、なんとイスラエルは、数千年の時を経て復活したのである。イスラエルという国の存在自体、イスラエルの神、主が生きておられる、という事の証明であるとしか、言いようがない。
今学んでいるコーエン大学から譲って頂いた資料を翻訳しつつ、ユダヤ人はなぜ奇跡的に復活したのか、また世界中に離散している時、どのように過ごし、子々孫々に御言葉と神の民としての生き方と誇りを受け継いで来たのか、その優れたユダヤ的教育方法を現在学んでいるが、それを順次お分かちして行きたい。

本日学ぶのは、ユダヤ人的な御言葉に対する「お作法」である。
『エズラはすべての民の前にその書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。』(ネヘミヤ8:5-6)
ここは、「聖書的アーメン」の節である。エズラは大祭司の子孫で律法に精通した学者であり、彼はバビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民を前に、御言葉を朗読し、その意味を解き明かした。(8節)

ユダヤ式の御言葉への作法の第一は、まず、起立から始まる。彼が聖書を開いた時、会衆は起立した。
起立するという行動は、相手(開かれた御言葉)に対し尊敬を表す行為である。起立するためには、足に力を入れて立つという、少しの体力を使う行動だが、御言葉に対し、「聞く」においても、「朗読する」においても、「反応する」においても、身体を使うのが「ユダヤ式」である。
御言葉を読む時、座ってラクして、目で追って口に出さず、「黙読」するでは、中々自分の中に入らない。
御言葉はイエス・キリストそのお方である。私達も御言葉に相対する時、それなりの敬意を表すならば、敬意を表したイエス様から、相応の反応、相応の恵みを頂く事が出来る。
エズラが主をほめたたえた時、民は皆その手をあげて、「アーメン」を2回、繰り返した。
身体を使う2番目の礼拝行為は、御言葉や賛美に対して「アーメン」と応答する時、「手を挙げる」事である。
アーメンには7つの意味がある。「1,そのようになりますように!」「2,信じます」「3,確信します」「4,同意します」「5,それは真実です、真理です」「6,それは、わたしの始まりであり、」「7,わたしの終わりです」。
キリスト教会では「伝統的に」口頭でアーメンしているが、エズラ以来、ユダヤ的には起立し、両手を上げて「アーメン、アーメン」と応答する。このように御言葉に対しアーメンすると、心が開かれ、口が、耳が、そして天が開き、そこに同席している人にも、聖霊の働きが移って行く。
3番目の身体を使った行動は、ひれ伏す行為である。具体的には、正座したままひれ伏し、手の指先から腰まで真っ直ぐの姿勢で、膝の間に顔をうずめる。完全なる主に対する服従の姿勢である。このように彼らは「主を誉めたたえ」「手を揚げてアーメン、アーメン」し、最後に、「地に顔をうずめて誉めたたえた」。

ユダヤ人はこのように、主ご自身であられる御言葉に対して身体全体を用いて、敬意を表す。
そうすると、御言葉なる主が、脳に、身体に、そして魂に、霊に、刻み込まれ、脳も身体も活性化される。
実際、御言葉の1節を、1週間かけてもどうしても覚えられなかった夫婦が、この方法を用いた所、ものの三十分で覚え、しかも脳も生き生きして「楽しい」と言って、自主的・意欲的に御言葉を覚えるようになった。
この、反復して繰り返し教える方法をハカダ(Haggadah)と言い、ヘブル教育の根本は「出来るようになるまで繰り返す」事、ハカダする事だ。今、何人かの聖徒達に、箴言の御言葉をハカダして暗唱するための音声を配っているが、箴言のおよそ千節を英語で覚えるなら、ハーバード大に入れるだけの実力になる。
二千節を覚えたある子は、親が車事故に遭った時、相手のナンバーや色、発言内容の全てを録画したかのように記憶していた。五千節覚えるなら、手で触ったもの、足で踏んだ所は自分のものになると言う。御言葉をハカダし、日本を、世界を造り変える皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
自分からイエス様の所に行けない人を連れていく働き人(ルカ5:17-26):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
天が「偉大」と評価する基準とは(マタイ23:1-12):右クリックで保存

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
バビロンの性質とそれに対する預言(イザヤ13:1-22)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書13章のバビロンに対する預言について、現代に生きる私たちへの警告として解説。

【聖書箇所】

イザヤ書13章

【警告の言葉】

バビロンの罪から離れ、神の警告に従うよう促す。

【励ましの言葉】

神の言葉に従順であれば、祝福されたイスラエルとして扱われる。

【***詳細***】

イザヤ書13章は、バビロンに対する預言を記しています。この預言は、当時のバビロンだけでなく、霊的なバビロン、すなわち神に逆らう者たちに対する警告としても解釈できます。

まず、「ハゲ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声を上げ、手を振って彼らを貴族の門に入らせよ。」(イザヤ13:2)という言葉から始まります。これは、神の裁きが迫っていることを示す警告のシグナルです。

「私は怒りを晴らすために、私に聖別された者たちに命じ、また私の勇士、私の勝利を誇る者たちを呼び集めた。」(イザヤ13:3)ここで、神は裁きを執行する者たちを召集しています。

重要なのは、この預言が単に古代バビロンに対するものだけでなく、「主の日」に関する預言でもあるということです。「泣き喚け。主の日は近い。全能者から破壊が来る。」(イザヤ13:6)この「主の日」は、最終的な裁きの日を指しています。

バビロンの滅びは、非常に激しいものとして描かれています。「彼らはおじまどい、産む女が身もだえするように、苦しみとひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。」(イザヤ13:8)これは、神の裁きの恐ろしさを表現しています。

さらに、「見よ、主の日が来る。残酷で、憤りと激しい怒りの日。地を荒廃させ、そこから罪人を絶滅させるために。」(イザヤ13:9)ここでは、裁きが単にバビロンだけでなく、すべての罪人に及ぶことが示されています。

この預言は、バビロンの滅びだけでなく、宇宙的な変動も予告しています。「天の星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても暗く、月も光を放たない。」(イザヤ13:10)これは、終末の時の出来事を描写しているとも解釈できます。

バビロンの人口は激減し、「私は人間を純金よりも稀に、人をオフィルの金よりも少なくする。」(イザヤ13:12)と預言されています。これは、神の裁きの厳しさを示しています。

具体的な裁きの執行者として、「見よ、私はメディア人を奮い立たせる。」(イザヤ13:17)と述べられています。歴史的には、メディア人とペルシア人の連合軍がバビロンを滅ぼしました。

最終的に、バビロンは完全に廃墟となり、「バビロンは二度と人の住むところとならず、代々にわたって人の住まないところとなる。アラビア人もそこに天幕を張らず、羊飼いもそこに群れを伏させない。」(イザヤ13:20)と預言されています。

この預言は、歴史的に成就しましたが、同時に私たちへの警告でもあります。「霊的なバビロン」、すなわち神に逆らう生き方から離れるよう促しているのです。

私たちは、神の警告を真剣に受け止め、罪から離れ、神に従順な生活を送るべきです。そうすることで、「バビロン」ではなく「イスラエル」、つまり神に祝福された者として生きることができるのです。

神の言葉に従うか従わないかは、私たちの選択です。しかし、その選択の結果は重大です。神の警告を無視し続けると、最終的には**「悪霊どもが住む場所」**となってしまう可能性があります。これは、人との正常な関係が失われ、霊的に荒廃した状態を意味します。

したがって、私たちは常に自分の生き方を吟味し、神の言葉に照らして正しい方向に進んでいるかを確認する必要があります。神の警告を受けたら、速やかに悔い改め、正しい道に立ち返るべきです。

【結論】

イザヤ書13章のバビロンに対する預言は、単なる歴史的な出来事の予告ではなく、私たち一人一人への警告でもあります。神に逆らう生き方(霊的なバビロン)から離れ、神の言葉に従順に生きることで、神の祝福を受けるイスラエルとなることができます。日々の生活の中で、神の警告に敏感になり、常に悔い改めと立ち返りを実践していく必要があります。

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