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礼拝説教メッセージ音声:主にあって動かざること山の如し(2サムエル記2:1-11):右クリックで保存

『この後、ダビデは主に問うて言った、「わたしはユダの一つの町に上るべきでしょうか」。主は彼に言われた、「上りなさい」。ダビデは言った、「どこへ上るべきでしょうか」。主は言われた、「ヘブロンへ」。』(2サムエル記2:1)

ダビデは王としての油を注がれたのだから、そのままイスラエルに行って、王を名乗っても良かったはずなのに、彼は勝手には動かなかった。
「ユダの一つの町に上るべきでしょうか」という、実に小さな所から主の御心を求めた。
まだサウル家が全滅した訳でなく、自分が勝手に王である事を表明するべき時ではないからだ。
サウルは主の御言葉を乗り越え、心の赴くままにさっさと仕出かし、失敗したのに対し、ダビデは、実に小さな事から主に導きを求め、示された導きの通りに行動した。

第二サムエル記に入ってから、ダビデが全イスラエルの王となるまでの間、ダビデの行動パターンは、一言で言えば「受け身」である。
ダビデが自分から積極的に行動したといえば、この、ペリシテの地からヘブロンへと移った事くらいで、それについても主に御心を伺い、主のゴーサインがあってから行動した。
以降、ダビデは特に自分から進んで行動する事はなく、ダビデの計り知れぬ所で周りの状況が自ら動き、その動いた状況に対してダビデは何らかの表明をする、というパターンが続いてゆき、そうして彼は「半自動的に」王になって行く。

たとえば、1章でも、サウルの死の知らせがダビデの所に舞い込んで来た時、ダビデはそれに対し「サウルを殺した」と言った若者を殺し、サウル家のために哀歌をつくり、自分はサウルの死を喜んではいない、むしろ、サウル家に対する尊敬と悲しみを、表明した。
また3章でも、アブネルの申し出には平和裏に応じ、そして部下が勝手にアブネルを殺した時も、自分はそれを認知せず関わっていなかった事を表明し、アブネルの死については、痛みと悲しみを表現して哀歌をつくって断食した。
4章でも、サウルの子・イシュ・ボシェテが殺された時も、その殺した者をダビデは殺し、自分には、サウル家を害するような意図は一切無かった事を表明した。

もし何かのたくらみや流血ごとが起きたなら、それに対して、自分は潔白である事、また、その事に対し自分はいのちと御言葉に即する立場である事を、はっきり表明する必要がある。
その事は、ミニストリーや団体が大きくなればなる程、また、有名になればなる程、そのような「表明」や「対応」は必須となって来る。

もしダビデが「自分は何の関係も無い」「だから何の対応も必要ない」と言って、何の行動も対応もせず、何の見解も述べないなら、人々はダビデを疑っただろう。
サウル家に次々と起こるこの流血ごとは、もしかしたらダビデが裏で糸を引いていたのではないか、優しそうな素振りをして、実は恐ろしい男なのでは、もし彼が王になるなら、どんなに恐ろしい事が待っているだろう、といった噂が立って、人々のダビデに対する心象は悪くなって行った事だろう。
だから私達は、自分がしたのではないけれど、何か事件が起こった時、自分の潔白といのちに立った見解を表明するべきであり、それは有名になればなるほど、また、事業が、ミニストリーが拡大すればする程、その対応が必要になって来る。

『そこでダビデはその所へ上った。彼のふたりの妻、エズレルの女アヒノアムと、カルメルびとナバルの妻であったアビガイルも上った。ダビデはまた自分と共にいた人々を、皆その家族と共に連れて上った。そして彼らはヘブロンの町々に住んだ。時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。』(2サムエル記2:2-4a)
ダビデ達は、主から示された地・ヘブロンへと上り、そこに定住して地歩を得、子供達を産み、力を養って行った。
ヘブロン。その名の意味は「連合」「結合すること」であり、アブラハムやカレブなど信仰の先人たちが仮住まいした地である。
ダビデがこれから色々の人と連合し、イスラエル各部族と結合して行き、イスラエルの王とされるまで、その地で一時的に養われる。それに相応しい地と言える。

『人々がダビデに告げて、「サウルを葬ったのはヤベシ・ギレアデの人々である」と言ったので、ダビデは使者をヤベシ・ギレアデの人々につかわして彼らに言った、「あなたがたは、主君サウルにこの忠誠をあらわして彼を葬った。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。どうぞ主がいまあなたがたに、いつくしみと真実を示されるように。あなたがたが、この事をしたので、わたしもまたあなたがたに好意を示すであろう。
今あなたがたは手を強くし、雄々しくあれ。あなたがたの主君サウルは死に、ユダの家がわたしに油を注いで、彼らの王としたからである」。』(2サムエル記2:4b-7)

ダビデは、ヤベシ・ギレアデの人々がサウル家にした忠誠の行為が伝えられた時、それに対する見解を「表明」する事を忘れなかった。
人々は、それまで思っていたかもしれない。
ダビデはサウルの生前、サウルに命を狙われていた、だから彼はサウルの死を喜んでいて、サウルに味方していた者達を、これから非道い目にあわせていくのではないか、と。

しかし、この度のダビデの表明を見て、それまでサウルに仕えていた人々は、安心しただろう。
ダビデはサウルのように、力でねじ伏せたり、恐怖政治で統率して行くのではなく、平和に穏健に統治して行く人だ、と。
これもまた、主イエス・キリストのご性質と同じである。

私達も、主の働きを展開して行く上で、このような、御言葉にかなった平和的な表明は、大切である。
お世話になった人に対して、しっかりお礼をし、良き事をした人には祝福し、そして、真実でない事が起きた時には、明確にNOの意思表示をする。
そのような行動は、平和の内に栄えていく人のたしなみである。

『さてサウルの軍の長、ネルの子アブネルは、さきにサウルの子イシボセテを取り、マハナイムに連れて渡り、彼をギレアデ、アシュルびと、エズレル、エフライム、ベニヤミンおよび全イスラエルの王とした。サウルの子イシボセテはイスラエルの王となった時、四十歳であって、二年の間、世を治めたが、ユダの家はダビデに従った。ダビデがヘブロンにいてユダの家の王であった日数は七年と六か月であった。』(2サムエル記2:8-11)
アブネルは、サウルの有能な将軍である。
彼は、かのペリシテの戦いでも生き残っていた。
彼は、サウルの子、イシュ・ボシェテを王として擁立し、以後、アブネルがサウル家の、そしてイスラエルの実質的な支配者となって行く。

それに対しダビデは、ヘブロンでの7年半の間、着実に力をつけて行く。それも、待ちの姿勢によって。
「動かざること山の如し」は、武田信玄の言葉だが、私達もダビデのように、「主にあって動かざること山の如し」を通し、火の粉が降りかかって来た時には、しっかり振り払い、平和と命の見解を表明して行くなら、主にあって着実に養われ、力を得て行く。

『主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。』(詩篇37:3)

礼拝説教メッセージ音声:ダビデがサウル家に捧げた哀歌(2サムエル記1:13-27):右クリックで保存

『ダビデは自分と話していた若者に言った、「あなたはどこの人ですか」。彼は言った、「アマレクびとで、寄留の他国人の子です」。ダビデはまた彼に言った、「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」。ダビデはひとりの若者を呼び、「近寄って彼を撃て」と言った。そこで彼を撃ったので死んだ。』(2サムエル記1:13-15)

このアマレクの若者としては、自分は良い知らせをもたらした、と思い込んでいた。(2サムエル記4:10)
きっと、サウル達に追われていたダビデ達に褒美をもらえるだろう、と、浅はかな心をもって「自分がサウル殺した」と言ったのであろうが、彼が刈り取ったのは、死であった。

『ダビデは彼に言った、「あなたの流した血の責めはあなたに帰する。あなたが自分の口から、『わたしは主の油を注がれた者を殺した』と言って、自身にむかって証拠を立てたからである」。』(2サムエル記1:16)
アマレクの若者は、彼の口から出たことばによって、すなわち、『わたしは主の油を注がれた者を殺した』という証言のゆえに、死をもたらされたが、実はこの事は、現代を生きる全ての人々にも、同じく適用される事である。
それはどういう事か。

「主に油注がれた方」は、ヘブル語ではメシヤ、ギリシア語ではキリストである。
現代、多くの人々はキリストを軽んじ、いい気になってキリストをばかにし、敢えて冒涜する言葉や歌を豪語している者が多いが、そのような者達は全て、自分が発した「ことば」について申開きしなくてはならず、それによって裁かれるのである。(ローマ14:12、1ペテロ4:5)
今は恵みの時、憐れみの時である。
悔い改めの機会が与えられている今の内に、救い主キリストに立ち返るべきであり、その「恵みの時」を使い果たしてしまった時、このアマレクの若者のように、死という刈り取りをしなければならなくなる。

『ダビデはこの悲しみの歌をもって、サウルとその子ヨナタンのために哀悼した。これは、ユダの人々に教えるための弓の歌で、ヤシャルの書にしるされている。』(2サムエル記1:17)
ダビデは、サウルやヨナタン達が悪者として歴史に葬られないよう、彼らの良い所、称えられるべき所を追悼の歌にのせ、それを人々に歌わせた。
ダビデのそのような高貴な性質こそ、神の国において尊い事に用いられる器である人の性質である。

『「イスラエルよ、あなたの栄光は、/あなたの高き所で殺された。ああ、勇士たちは、ついに倒れた。ガテにこの事を告げてはいけない。アシケロンのちまたに伝えてはならない。おそらくはペリシテびとの娘たちが喜び、/割礼なき者の娘たちが勝ちほこるであろう。』(2サムエル記1:19)
歌の出だしは、サウル達をイスラエルの「栄光(ツェビー:美しさ、栄光)」とし、彼らを勇士として称える所から始まる。

『ギルボアの山よ、/露はおまえの上におりるな。死の野よ、/雨もおまえの上に降るな。その所に勇士たちの盾は捨てられ、/サウルの盾は油を塗らずに捨てられた。』(2サムエル記1:21)
ギルボア山は、サウル達が倒された所だが、ダビデがこのように”呪って”以来、ギルボア山の片面はぎこちなく禿げ上がってしまい、近年のイスラエル政府による緑化政策でも植物が育たなかった、と言われる。

『殺した者の血を飲まずには、/ヨナタンの弓は退かず、/勇士の脂肪を食べないでは、/サウルのつるぎは、むなしくは帰らなかった。サウルとヨナタンとは、愛され、かつ喜ばれた。彼らは生きるにも、死ぬにも離れず、/わしよりも早く、/ししよりも強かった。イスラエルの娘たちよ、サウルのために泣け。彼は緋色の着物をもって、/はなやかにあなたがたを装い、/あなたがたの着物に金の飾りをつけた。』(2サムエル記1:22-24)
イスラエルの娘たちは、サウルは千を打ちダビデは万を打った、と歌って、サウルが小さく、ダビデを大きくしているが、ダビデ自身は、サウルがイスラエルの娘たちに良くしてくれた事を、思い起こさせている。

『ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンは、あなたの高き所で殺された。わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、/女の愛にもまさっていた。』(2サムエル記1:25-26)
同性愛者達はよく、この「女の愛にもまさっていた。」を引用して、ダビデも同性愛だったのだ、と言っているが、あいにくダビデは「わが兄弟(韓国語では「兄上」と訳している)ヨナタンよ」と呼びかけており、「主にある信仰の兄弟の優れた「兄弟愛」を称えているのであって、その兄弟愛の強さは、世の恋愛感情に遥かに勝るものであったから、ダビデは「あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく」とうたったのだ。
主を信じる信仰者同士の「兄弟愛」は、家族の愛より、男女の愛よりも強く優れている事を、信仰者の友を持つ聖徒であるなら、誰もが経験している所だろう。
そもそも、聖書は同性愛を至る個所で禁じており(ローマ1:26-28, レビ18:22-30, 1テモテ1:9-10, 1コリント6:9-10, ユダ1:7)、この個所をもって神は同性愛を養護している、と主張するのは、早計もいい所である。

『ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた」。』(2サムエル記1:27)
ダビデはこのように、自分達のいのちを付け狙った相手を悪く言わず、「勇士たち」として追悼した。
世の王は、気に食わない人を抹殺し、死人に口なしとばかりに好き勝手な悪名をその人に着せ、歴史をでっち上げようとする事が多いが、ダビデは、その逆だった。
人のした悪を思わず、良い所を、人々に見出させようとする性質を持ち合わせていた。
それはキリストの性質であり、私達もそのようなたしなみを身につけるべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:サウルの死に際とダビデの反応(2サムエル記1:2-12):右クリックで保存

ダビデ達は、アマレクから妻子も家財も全てを奪い返し、家族ともに無事だった事を喜び、お世話になった町々や人々に贈り物を届け、一息ついた所だった。

そんな彼らの所に、一人の若者から、ある知らせが来た。
『三日目となって、ひとりの人が、その着物を裂き、頭に土をかぶって、サウルの陣営からきた。そしてダビデのもとにきて、地に伏して拝した。ダビデは彼に言った、「あなたはどこからきたのか」。彼はダビデに言った、「わたしはイスラエルの陣営から、のがれてきたのです」。』(2サムエル記1:2-3)

着物を裂いて土をかぶるのは、イスラエル流の悲しみの表現である。
イスラエルの陣営から逃れて来た、と言う彼が、着物を裂いて土をかぶっている。
何かよからぬ事がイスラエルの陣営に起きたのだ、と、誰もが思っただろう。
『ダビデは彼に言った、「様子はどうであったか話しなさい」。彼は答えた、「民は戦いから逃げ、民の多くは倒れて死に、サウルとその子ヨナタンもまた死にました」。』(2サムエル記1:4)

あのサウルが、死んだ。
サウルに命を付け狙われ、国外にまで逃げて来た彼らには、衝撃的な知らせだった事に違いはないであろうが、見も知らぬ若者の言葉をそのまま受け入れるのは、早計である。
ダビデは詳細を聞いた。

『彼に話している若者は言った、「わたしは、はからずも、ギルボア山にいましたが、サウルはそのやりによりかかっており、戦車と騎兵とが彼に攻め寄ろうとしていました。その時、彼はうしろを振り向いてわたしを見、わたしを呼びましたので、『ここにいます』とわたしは答えました。彼は『おまえはだれか』と言いましたので、『アマレクびとです』と答えました。』(2サムエル記1:6-8)
普通、戦が真っ最中の戦場には、余程の事情でもない限り、人は近づきたがらないものである。
イスラエル人でもペリシテ人でもない、このアマレクの若者は、なぜ「はからずも」イスラエルとペリシテが戦っている戦場にいたのだろう。

アマレクの性質は、弱いものを襲撃して分捕る事である。
ダビデ達もつい先日、女子供しかいない留守中をアマレクに攻めこまれ、妻子や財産を奪われて、それを取り返したばかりだった。
また、アマレクは出エジプトしたイスラエルの会衆のうち、疲れて弱っている後方の人達を狙い撃ちにして襲った。
このアマレク人もおそらく、戦死者や傷ついて弱っている人から貴重品を掠め奪うために、敢えて、この危険な戦場に居たのではなかろうか。

そのような性質だから、主はアマレクを聖絶するようにモーセに命じ(出エジプト記17:8-16、申命記25:17-19)、サウルの時代、それを実行するようサウルに命じられたのだが(1サムエル記15:1-3)、サウルはそれをしなかった。
それ故サウルは、この事の刈り取りをする事になる。

『彼はまたわたしに言いました、『そばにきて殺してください。わたしは苦しみに耐えない。まだ命があるからです』。そこで、わたしはそのそばにいって彼を殺しました。彼がすでに倒れて、生きることのできないのを知ったからです。そしてわたしは彼の頭にあった冠と、腕につけていた腕輪とを取って、それをわが主のもとに携えてきたのです」。』(2サムエル記1:9-10)
アマレクの若者は、サウルの死んだ時の様をこのように証言し、その証拠として、サウルが身につけていた王冠と腕輪とを取って、ダビデ達に見せた。
ダビデ達は、その物証によって、サウルの死を確実なものとして知った。

サウルが最後にアマレク人に願った言葉は、KJVでは次のように記されている。
『I pray thee, upon me, and slay me: for anguish is come upon me, because my life is yet whole in me. (お願いだ、そばに来て私を殺してくれ、苦痛が来ているのに、私の命は今だに「満ちている(kole:完全な状態)」から。)』
ペリシテの矢を受けても死なず、自分で自分を刺しても、死ねない。
ものすごく痛くて苦しくて、すぐにでも死にたいのに、なぜか死ねずにいた、その所に、たまたまアマレク人が来て、彼に願って殺してもらった。
主の御声に背いてアマレクを生かしておいたサウルに、相応しい最後とも言える。

ところで、アマレク人が証言したこのサウルの最後の様子は、第一サムエル記31章のそれとは違う。
第一サムエル記では、サウルは矢傷を受けて敵が迫っているのに、従者に介錯してもらえず、やむなく、自ら自害した、というものだった。
このアマレク人が褒美欲しさに偽りを言ったのか、それとも本当を言ったのか、断定はできないが、いずれにせよ、サウルの死にアマレク人が関わった事は確かであり、サウルの王冠と腕輪はアマレク人に奪われ、それはダビデへと渡されたのだ。

将来サウルに取って代わって王となる、と言われていたダビデは、アマレクの手から王冠を受け取った時、どのような心境だっただろう。
ダビデ達としては、自分達を長年追っていたサウルが死んだ、という「意味」においては、「良い知らせ」だったかもしれない。
実際、アマレクの若者も、自分では「良い知らせ」を持ってきた、と思っていた。(2サムエル記4:10)
しかし、ダビデの反応はどうだったか。

『そのときダビデは自分の着物をつかんでそれを裂き、彼と共にいた人々も皆同じようにした。彼らはサウルのため、またその子ヨナタンのため、また主の民のため、またイスラエルの家のために悲しみ泣いて、夕暮まで食を断った。それは彼らがつるぎに倒れたからである。』(2サムエル記1:11-12)
ダビデの反応は、これだった。

果たして彼は、実は両手放しで喜びたい所を、ぐっとこらえたのだろうか?
サウルが死んで喜ぶ姿を皆に見せるのは良くない、むしろ悲しむ素振りをした方が、これからの身の振り上、よろしいだろう、そのような事を一瞬で思いついて一瞬で行動に移したのだろうか。
いや、彼は心底、サウルが、ヨナタンが、そして神の民イスラエルが多くが倒れた事に、ショックを受け、心乱され、悲しんだのではなかろうか。

私達も、自分たちに悪いことをし続けたクリスチャンの兄弟姉妹が、一族郎党、悲惨な死に方をした、という知らせ聞いたとするなら、果たして両手放しで喜べるだろうか。
むしろ、主にある兄弟姉妹がそのような死に方をした事を悲しみ、主の峻厳さを恐れるのではなかろうか。

ダビデ達がイスラエルを離れていたばかりに、イスラエルの多くの人達が倒れ、そして主に油注がれたサウルさえ倒れた。
しかも彼らは、あわや、ペリシテ軍の一員として神の民の血を流す側として、サウル達イスラエルに刃を向け、殺めていた所だったのだ。
ダビデは、一歩間違えれば、自分たちこそサウルのようになってしまっていた、と、震えおののいただろう。

ダビデはこの後、色々の失敗も犯すが、彼はその都度、すぐに自分の罪を告白して悔い改める性質を身につけ、主に滅ぼされる事なく、安泰の内にその生涯を全うする。
彼はこの時の経験を戒めとして受け取り、いつも主を恐れ、サウルの二の鉄を踏まないように、気をつけたのだろう。

ダビデは、知っていた。
自分がいかに罪にまみれているかを。
『神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。』(詩篇51:1-4)
それなのに、彼は赦され、むしろ自分には到底相応しくない栄誉と成功が与えられた。
この主の憐れみと赦しを、彼はどれ程、感謝した事だろう。

私達も、自分の犯してきた罪や過ちから勘案するなら、到底相応しからぬ栄誉と祝福を得ている。
その事を、ダビデのように感謝しているだろうか。罪に走らないよう常日頃気をつけているだろうか。
私達もこの第二サムエル記から、ダビデにならい、王としてのたしなみを学び身に着けて行きたい。

礼拝説教メッセージ音声:第二サムエル記概要(2サムエル記1:1):右クリックで保存

『サウルが死んだ後、ダビデはアマレクびとを撃って帰り、ふつかの間チクラグにとどまっていた』(2サムエル記1:1)

第二サムエル記は、サウルの死と、ダビデの勝利で始まる。
第一サムエル記の終盤、サウルも、ダビデも、それぞれ危機的状況にあったが、サウルは乗り越えられず死に、ダビデは信仰によって乗り越えて大逆転した。

サウルは結局、主に求め続けるという事を、最後までしなかった。
彼は人生最大の危機に面した時、久しぶりに主に伺おうとて、夢やウリム、預言者に御心を求めたが主の応えは無く、それでさっさと口寄せへと導きを求めてしまった。
結局、彼の長い”信仰生活”はずっと外見的なままで、彼の心は主から離れていた事が明確にされたのだ。

ダビデも、妻子や財産全てを失い、あわや部下に殺されてしまう、という危機にあったが、彼は信仰を奮い立たせて主に伺い、主の導きに従って追いかけ、全てを取り戻しただけでなく、それ以上を分捕って、このチクラグという所で喜びを噛み締めつつ、お世話になった人達に贈り物を届けた所だった。
第二サムエル記は、このサウル王の悲惨な死とダビデの戦勝の盛りの場面で始まる。

第二サムエル記は、ダビデ王の治世の記録である。
ダビデは第一サムエル記でも登場していたが、そこではあくまでサウル王の下での活躍であった。
この第二サムエル記は、そのサウルの死で初まり、ダビデがますます盛んになり、サウル家がますます没落して行く様が、一章から四章で記されている。
ダビデ自身からは何も仕掛けていないのに、周りの状況があれよあれよと動いて、彼は結局、ほぼ自動的に全イスラエルの王となって行く。

五章以降は、ダビデの王国がさらに確立されて行く様が記されている。
彼はイスラエルの首都をダビデの町・エルサレムと定め、そこに主の契約の箱を運び入れ、そして主から、ダビデの家は永遠に続くという約束をいただく事になる。
事実、彼の王国の永遠は今も続いている。
私達クリスチャンは全て、彼の王国の支配、すなわち、ダビデの子・キリストの王国の支配下にある。

八章は、周辺諸国を平定したダビデ治世の最盛期が記されているが、九章以降、ダビデの失敗も、残らず記録されている。
ダビデは全てがうまく行って最高潮の時、気が緩み、戦争に出ている部下の妻を見初め、身ごもらせ、その夫を戦争の激戦区へ送って殺させる事で、主の御心を損ねてしまった。
この時以降、彼の子供達は次々と血なまぐさい事件を起こして行く。
それが九章以降、二十章までずっと続く。

ダビデといえ、色々の罪や失敗を犯す。
特に、子育ての面で失敗し、気が緩んだ時に間違いを犯す傾向があった。
しかし彼が滅ぼされる事なく、永遠の王権が奪われたなかったのは、彼は事あるごとに主に立ち返り、主に求め、罪を指摘された時は、間髪をいれず悔い改めたからだった。
ダビデとサウルの違いは、日頃主に依り頼むか頼まないか、罪が指摘された時に悔い改めるか悔い改めないか、である。
そのシンプルな違いで、明暗が分かれるのだ。

なお、二十一章から最後の二十四章まではダビデ治世の付録的な記事が記されている。
二十三章にダビデの最後のメッセージが記されているが、二十四章にはダビデのもう一つの失敗・人口調査の過ちが記されていて、必ずしも年代順に記されているわけではない。

第一サムエル記では、神の国における「王」となるための、優良な「帝王学」を学ぶ事が出来た。
この第二サムエル記では、いかに誤りなく「王」としての立ち位置をキープし続けるべきかを学ぶ事が出来る。
私達はキリストにあって、王族の祭司とされた。
主イエスにあって王とされた者として在るべきたしなみを、また、成功と失敗の法則を、そして、万一失敗してしまった場合、いかに信仰者として立ち返るべきかを、この書から学んでいきたい。

人となられたことば、そこに込められた愛といのち(ヨハネ1:9-14)
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御言葉をたくわえる人は頭脳明晰になり健康になる事を前回見たが、御言葉は単に覚えるよりも、その「ことば」の中に込められた神様の愛を知り、じっくりと味わう時、喜びといのちが沸き上がって来る。
言葉は、その内容が理解できない人から見れば、単なる文字の羅列、「あいうえお」の組み合わせに過ぎないが、言葉の中に込められている愛を知り、感じ、その愛が自分に対して開かれている事をさとる時、喜びといのちが、沸き上がってくる。
神のことば、すなわち御言葉は、知恵であり法則であるが、何より「愛」がふんだんに込められている。
だから、同じ御言葉でも、ある人が読む時、ますます顔が輝き、幸福を感じ、健やかになるのに、別の人が読むと、全く分からず、退屈で、さっさと別のことがしたくなる、という事が起きるのだ。
だから御言葉を読む時、愛であられる神の御子キリストを信じる信仰がその人になければ、無意味である。

キリストは「ことば」なるお方であり、そのことばには、究極の愛が練りこまれ、充満している。
そして全宇宙そのものと、その中に満ちているものは、全て、神のことばによって創られた。
だから人は、自然の中にいる時、安息を得るのだ。人はなぜわざわざ、ハイキングや山登りなどをするのか。
建物から外に出て、新鮮な空気を吸い、鳥の声や木々が風になびく音を聞く時、海のさざなみや雨の音を聞く時、あの夕日や月を見る時、なぜ心が落ち着くのか。それは、自然界は愛であられる神のことばによって創られたものであり、その中に、「私達のために」と、練りこまれた神の愛を、何となく感じるからだ。

創世記を見ると、神は混沌の暗闇の中から、まず光を創り、大空を造り、海と陸を分け、陸地に植物を生じさせ、そこに動物や鳥を、また、食物となる草木を生えさせた。
人は、宇宙の最果てや、深い海の底、地底の真っ暗な所に不安を覚え、むしろ光の中、安定した大地の上に安心感を覚える。それは、神はそこに「人が住むように」と、愛を持って定められたからだ。
人は、神が置かれた所、ここに住むように、と言われた所にいるべきで、そこを離れては安息は無いのだ。
親は、愛する子のために住む所、衣服、食物を用意してくれるように、神は愛をもって私達のために光を創られ、海と陸を分け、陸のかわいた所に家畜や獣、そして人を住まわせ、食物となる植物を生えさせた。
だから、神様が「あなたのために」と言って創られた光や木々、動物と接する時、人は安息を得るのだ。
人は罪あるものとなり、人は、人に失望し疲れるものである。その時、無意識・本能的に一人になって、自然のものと向きあおうとするが、それは人は被造物の内に現れている神の栄光と向き合いたいという衝動を本能的に持っているからだ。『神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。』(ローマ1:20)

世はキリストによって創造されたのに、世の人はこのお方を受け入れなかった。(ヨハネ1:11-13)
自分が神でいたい人は、神の存在を否定するが、このお方を信じた人、すなわち、御言葉を信仰をもって受け入れ、御言葉を自分自身と混ぜあわせた人には、全く新しい、神の子としてのいのちが与えられる。
『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(ヨハネ1:14)
どうして神と人とがひとつになる事が出来るのだろう。それは、ことばによってである。
人は、言葉という種を入れる袋のようなもので、どの言葉によって満たすかで人格が決まり、そしてどのような種を自分の人生や環境に対して蒔くかによって、どんな実を刈り取るかが決まる。
皆さんは自分自身の中に、どんな言葉を蓄えようとしているだろう。そして、自分の人生に対してどんな言葉を蒔いているだろうか。
神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきだ。
神は「光よあれ」と宣言して、その通りに光が出来、「区別されよ」と宣言して、混沌から秩序が生じたように、私達も主イエスにあって神の子であるので、信仰を持って主イエスの名によって「なれ」と命じる事ができる。
大いに御言葉を蓄え、至る所、あらゆる機会を用いて、御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちを、たっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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エッサイの根株から新芽が生え(イザヤ11:1-16)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

エッサイの根株から生えた新芽であるイエス・キリストを通じて、主の霊が全世界に満ちる時代が来ることを預言するイザヤ書11章の解説。

【聖書箇所】

イザヤ書11章

【慰めの言葉】

主の霊が満ちる時、敵対関係が解消され、平和が訪れる。

【励ましの言葉】

主を恐れ敬う霊に満たされるなら、どんな困難も乗り越えられる。

【戒めの言葉】

高ぶりや獣のような性質は主によって切り倒される。

【勧めの言葉】

主を知る知識と主を恐れる霊に満たされるよう努めるべき。

【悔い改めの促しの言葉】

自らの罪を認識し、古い自分を切り捨てて主に立ち返るべき。

【***詳細***】

今日、私たちが恵みを頂く御言葉は、イザヤ書11章です。まず、1節と2節を読みます。

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。」(イザヤ11:1-2)

この箇所は、クリスマスの時期によく引用される言葉ですが、ここでは深い意味が込められています。イスラエルの歴史を振り返ると、アッシリア、バビロン、メドペルシア、ギリシャ、ローマと、様々な帝国によって低くされ、切り倒されてきました。しかし、その根株から新しい芽として、イエス・キリストが生まれてきたのです。

この若枝の上に、主の霊が留まります。2節後半から3節には、その霊の性質が記されています。

知恵と悟りの霊、深慮と勇気の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び」(イザヤ11:2-3)

特に注目したいのは、「主を知る知識と主を恐れる霊」です。この世の知恵ある者たちは、人間の脳が機能しなくなれば人は死ぬと考えます。しかし、死を知る真の知識は主から与えられるものです。また、死を恐れる霊を持つことで、人は悪を避け、倫理にかなった生き方をするようになります。

この方が統治される世界がどのようなものかを、3節から5節で描写しています。

その目に見えるところによって裁かず、その耳に聞こえるところによって判断せず、正義をもって寄るべのない者を裁き、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、唇の息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」(イザヤ11:3-5)

この方の裁きは、外見や噂によるものではなく、真に正しいものです。そして、その統治の基盤となるのが、主を恐れることなのです。

6節から9節では、この主の霊が満ちる世界の姿が描かれています。

狼は子羊と共に宿り、ひょうは子山羊と共に伏す。子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子供がこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏す。獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。」(イザヤ11:6-9)

これは、創造の始めの状態、罪が入る前の世界の姿を思わせます。獣たちは肉食ではなく、草食でした。主の霊が満ちるところでは、殺したい、傷つけたいという本能さえも抑えられ、平和な状態が実現するのです。

私たちの中にも、ライオンのような、クマのような性質があります。怒りがこみ上げてきたり、相手を傷つけたくなったりする衝動です。しかし、死を知る知識と死を恐れる霊が満たされるところでは、そういった性質さえも抑えられるのです。

10節から13節では、エッサイの根、すなわちイエス・キリストが国々の旗印となり、散らされた民が集められる様子が描かれています。

その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこうところは栄光に輝く。」(イザヤ11:10)

これは、イエス・キリストを信じる者たちが世界中から集められることを預言しています。実際に、現代では多くの人々がイエスを信じています。また、イスラエルの民も1900年ぶりに自分たちの国を回復しました。

さらに、13節では内部の対立も解消されることが預言されています。

エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。」(イザヤ11:13)

これは、北イスラエル王国と南ユダ王国の対立が解消されることを示しています。

14節以降では、イスラエルを苦しめてきた国々に対する裁きが描かれています。イスラエルが主を恐れる霊に満たされるとき、状況は逆転し、かつての敵対国々を従わせることになるのです。

最後に、16節では出エジプトの出来事が再び起こることが預言されています。

その残される民のために、アッシリアからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」(イザヤ11:16)

かつて主が海を分け、イスラエルの民をエジプトから救い出したように、再び主は道を備えられるのです。これは、私たちが主を恐れ敬うならば、今も同じように主が働かれることを示しています。

【結論】

イザヤ書11章は、エッサイの根株から生えた新芽であるイエス・キリストを通じて、主の霊が全世界に満ちる時代が来ることを預言しています。私たちは、主を知る知識と主を恐れる霊に満たされることを求め、自らの内にある獣のような性質を主に委ねて切り倒してもらう必要があります。そうすることで、私たちも主の平和な統治の中に生きることができるのです。主の霊が満ちる世界の実現を待ち望みつつ、今日から私たちも変えられていく決意をしましょう。

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