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礼拝説教メッセージ音声:エベン・エゼルを忘れるなかれ(1サムエル記7:7-17):右クリックで保存

『イスラエルの人々のミヅパに集まったことがペリシテびとに聞えたので、ペリシテびとの君たちは、イスラエルに攻め上ってきた。イスラエルの人々はそれを聞いて、ペリシテびとを恐れた。そしてイスラエルの人々はサムエルに言った、「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。そうすれば主がペリシテびとの手からわれわれを救い出されるでしょう」。』(1サムエル記7:7-8)


イスラエルは、悔い改めの集会をするためにミツパに集まったのであって、軍事的行動をしたのでは決してなかった。それなのに、ペリシテ人は攻めて来た。
それには意味がある。
神の民が、主に立ち返る事。それは、神の民の根本的な敵である悪魔サタンが、最も嫌がる行動だからだ。
現代を生きる私達・神の民も、誰かを主に立ち返らせたり、あるいは今まで悔い改めていなかった態度を悔い改めたりする時、大体このような霊的攻撃が起こり、その気を挫こうと仕掛けてくるが、それに負けてはならない。

イスラエルはこの時、今までとは違った、悔い改めに相応しい行動パターンを取った。
すなわち、力やご利益など、自分の良かれと思うやり方で、困難に対抗するのではなく、主に助けを求め、主から救いを得ようとしたのだ。
もっとも、サムエルなど霊的指導者まかせのままでいるなら、後々、同じ過ちを繰り返してしまうのだが、しかし少なくとも、神の契約の箱さえも自分都合の勝利の道具に利用しようとしたような今までとは、違った行動である。

『そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。そしてサムエルはイスラエルのために主に叫んだので、主はこれに答えられた。サムエルが燔祭をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた。しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどろかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ベテカルの下まで行った。』(1サムエル記7:9-11)
かつてイスラエルは、主を軽んじた事により主に激しく打たれ、その打たれた数は、ペリシテ人に打たれた数よりも多かった。
しかし今回、イスラエルは悔い改めて主に返り、心を尽くして主に求めたたため、主はペリシテ人に敵対し、イスラエルに勝利をもたらして下さった。

イスラエルに、ようやく勝利が与えられた。
それは、イスラエルが主の忌み嫌われるものを取り除き、自分に罪がある事を認め、悔い改め、主にのみ仕えたからに他ならない。

神の民にとって、勝ち負けは、主を重んじるか、それとも軽んじるかによりけりである。
勝利とは、自分の力や知恵で勝ち取るものではなく、主から与えられるものなのだ。
まさしくサムエルが言った通りである。「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう。」(3節)

そして、勝利の後こそ肝心だ。
『その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった。サムエルの一生の間、主の手が、ペリシテびとを防いだ。』(1サムエル記7:12)
主は今までイスラエルが犯してきた背きの罪の数々にかかわらず、今に至るまで、助けて来られた。
その事を覚えさせるため、また、勝利の秘訣は主にある事を後々に伝えるため、サムエルは、エベンエゼル(助けの岩、救いの岩という意味)という記念の岩を立てた。
私達も、主に立ち返って助けられたなら、それを忘れないように、心の内に”エベンエゼル”を建て、事あるごとに思い返し、主に感謝すべきである。

『サムエルは一生の間イスラエルをさばいた。年ごとにサムエルはベテルとギルガル、およびミヅパを巡って、その所々でイスラエルをさばき、ラマに帰った。そこに彼の家があったからである。その所でも彼はイスラエルをさばき、またそこで主に祭壇を築いた。』(1サムエル記7:15-17)
サムエルは、主への感謝と従順をキープさせるために、平和が与えられて後も、年ごとに各所を巡回し霊的指導を続けた。
せっかく手術して治っても、以前の不摂生を相変わらず続けるなら、全く意味が無いのと同じように、ひと度、主にあって勝利をしたなら、主に喜ばれる霊的健全さをキープし続けなくては、意味が無い。だからサムエルは年ごとに巡回し、それをキープさせたのだ。
そこには、戦いに勝利するような派手さは無く、地道なものであるが、これはひとつの戦いに勝利する事よりも、はるかに偉大な彼の功績である。
私達もそれを怠ってはならない。

サレプタのやもめ - 最後の粉と油による宴会(1列王17:8-15)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

私達の王であられる主イエスのために宴会を設けるなら、主が私達に敵の前で宴を設けさせ、敵の前で油を注いで下さる事が、最近特に語られている。今回は、預言者エリヤを養ったやもめから学びたい。
時は北イスラエル最悪の王・アハブの時代、彼はシドン出身の妻・イゼベルに言われるままにイスラエルに偶像礼拝を導入し、主を怒らせていたため、主は人々をご自身に立ち返らせようと、預言者エリヤを遣わし、ここ数年、彼の言葉がなければ、2,3年は雨も露も降らない事を告げた。(1列王記17:1)
実際、エリヤが預言した通り、その後一切雨が降らず、厳しい飢饉となったが、アハブ王はこの力ある神・主に立ち返る事をせず、かえってエリヤを逆恨みし、彼を探し出して捕らえるよう人々に厳命した。
エリヤは主の導きによってケリテ川のほとりに住み、そこの水と、からすが朝夕運んでくるパンと肉によって養われていたが、いよいよ川の水も枯れた時、再び主の言葉が降る。 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう。」(1列王記17:9)

彼女はシドンの一地方に、幼い息子と二人で住んでいたが、飢饉はそこにも及び、もはや彼女の持ち物は、ひと握りの粉とわずかな油だけとなって、それをもって自分と息子のために最後の食卓を整えようと、薪を集めていた所を、預言者エリヤに呼び止められる。水を少し持って来て、飲ませてください、と。
彼女は、人生最後にも思えるその仕事の手を止め、彼のために水を持って来ようとした時、さらに言われる。
「手に一口のパンを持ってきてください。」 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。
主の導きは不思議である。神がエリヤを養わせよ、と命じた女の全財産は、かめに一握りの粉と、びんに少しの油だけ。しかもこの女は、主から「預言者エリヤを養え」と命じられた記憶や自覚は、どうやら無さそうである。しかし彼女には、「あなたの神、主(エホバ)は生きておられます」と告白する信仰は、あった。
イエス様は「預言者は自分の郷里では敬われない」事の例として、このエリヤとやもめの箇所を引用されたが(ルカ4:26)、つまり、当時のイスラエルには主の預言者を敬う者は何処にもいなかった、という事なのだ。
主はあまねく全地を見渡し、心が主と一つとなっている人を探され、用いられる。(2歴代誌16:9)
また、イエス様は何度も「わたしはあなたを知っている」と言っている。(黙示録2-3章だけで7回)
彼女は自覚していようといまいと、普段から主を敬う心を主から認められており、預言者を養う素地も出来ていたため、彼女が意識している・いないに関わらず、エリヤを養うよう主から「命じられていた」のだ。
主は言われる。わたしはあなたを知っている、あなたの心も、行いも、そしてこれから為すべき働きも、と。

エリヤは「まず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。」と言った。粉はもう一握りしか無いので、3人分のパンは作れないはず。
しかし、「主が雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という御言葉の約束は、ある。
人の計算ではあり得ない事であり、人情的に見ても非道い話だが、しかし彼女は主が言われた言葉に従い、自分と息子の分の粉をエリヤのため、いや、御言葉なる主に従うために調理し、非常にささやかな「宴会」を設けたのだ。最後の、一握りの粉とわずかな油。しかしそれは主の目には尊い宴会である。
「彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」 御言葉の根拠なく非常識で過酷な要求をする「預言者」には要注意だが、十字架の死を要求する御言葉に従って従順するなら、決して尽きる事の無い祝福が与えられるのだ。
世に吹き荒れている不況という飢饉の中でも、世界に訪れる苦難の時でも、主に守られ養われる者とは、主の御名を否まず、主の言葉を守った者である。力は僅かしか無くても全く関係ない。(黙示録3:8)
天声では2010年最後にこの箇所からメッセージをし、かの一年、このやもめのように主と主の働き人に捧げた聖徒達の粉と油は尽きず、さらに祝福されている様を、主に感謝したが、その粉と油は5年目の今も尽きないどころか、さらに祝福が増し加わり、さらに清められ、豊かにされている。主はまことに真実である。
油も粉も尽きる事なく、更に主の祝福を頂く皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主に現われられる人になるには(ヨハネ14:18-27)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主にある小さき者は侮るなかれ(マタイ18:1-14):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
幼い娘を立派な花嫁に育てよ(雅歌8:8-14)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(2歴代誌20:20-26):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イスラエルとは(創世記32:22-29):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:”珍しく”悔い改めて主に立ち返るイスラエル(1サムエル記7:1-6):右クリックで保存

当初はイスラエル人にもペリシテ人にも軽んじられたような扱いをされた主の箱だが、主は、そのように軽んじた者達全てに災いを降し、誰の目にも明らかな形で主の栄光が現され、皆、恐れるようになった。
主の箱はベテ・シェメシュの住人からも恐れられ、そこからさらに移される事になる。

『キリアテ・ヤリムの人々は、きて、主の箱を携え上り、丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱は久しくキリアテ・ヤリムにとどまって、二十年を経た。イスラエルの全家は主を慕って嘆いた。』(1サムエル記7:1-2)
この時以降、ダビデ王がエルサレムへ主の箱を導き入れるまで、長らくそこに留まる事になる。(1歴代誌13章)
イスラエルは、これら一連の事を通して、主の栄光と自分達の不実とを思い知り、主を慕って嘆く心が湧き起こって来た。

災い遭う事は、実は幸いである。
それによって自分の中の正すべき事を正し、主に立ち返るからである。
『苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。』(詩篇119:71)
そこでサムエルは、全イスラエルに、悔い改めを促す。

『その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた。』(1サムエル記7:3-4)
彼らは、あれほどの目に遭っておきながら、いまだに、他の神々を持っている状況だった。
あの神もこの神も仲良くあわせて持つのに何の抵抗も感じない日本人のように、当時のイスラエルは、主の聖の基準から長らく離れていたため、何が主に喜ばれ、何が喜ばれないかを知らなかったのかもしれない。
サムエルは、全て他の神々を除き去って、ただ主にのみ仕えるよう促した。
そしてイスラエルは、素直にそれに従った。

『サムエルはまた言った、「イスラエルびとを、ことごとくミヅパに集めなさい。わたしはあなたがたのために主に祈りましょう」。人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。』(1サムエル記7:5-6)
彼らは実に「珍しい事」をしている。
それは、一つに集まり、心を主に向けて悔い改めの集会を開いた事だ。
悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というのも、情けない話である。
しかし、ヨシュアが死んで以降、イスラエルはずっとそのような霊的状態であり、また、悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というキリスト者も、実は多いのだ。
皆さんは、そのような状態に、なっていないだろうか。
災い続きではないだろうか。

主の救いと立て直しは、悔い改めて主に立ち返る所から始まり、それをするなら、主は豊かに恵みを施して下さる。
『わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。』(申命記30:1-4)

礼拝説教メッセージ音声:誰がこの聖なる主の前に立ち得よう(1サムエル記6:13-21):右クリックで保存

『時にベテシメシの人々は谷で小麦を刈り入れていたが、目をあげて、その箱を見、それを迎えて喜んだ。』(1サムエル記6:13)

神の箱は、わずか七ヶ月でイスラエルに戻って来る事となった。
この町の人達は、牛車がひとりでに運んで来たものが「神の箱」であると認知していたが、このベテ・シェメシュという町は、ナフタリ族へくじによって割り当てられた相続地であり(ヨシュア記19:38)、そして、大祭司アロンの子孫達へと放牧地が割り当てられた町でもある。(ヨシュア記21:16)
つまり、神の箱の正当な扱い方を知っていた(はずの)奉仕者たちが住む町であり、この町に神の箱が帰って来たのは、まさに導きといえる。

『ペリシテびとが、とがの供え物として、主に償いをした金の腫物は、次のとおりである。すなわちアシドドのために一つ、ガザのために一つ、アシケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。また金のねずみは、城壁をめぐらした町から城壁のない村里にいたるまで、すべて五人の君たちに属するペリシテびとの町の数にしたがって造った。主の箱をおろした所のかたわらにあった大石は、今日にいたるまで、ベテシメシびとヨシュアの畑にあって、あかしとなっている。』(1サムエル記6:17-18)
ペリシテの五つの町の内、ガザとアシュケロンには、主の災いが降った記述は無いが、もしかしたらそこにも災いが降っていたのかもしれない。
とにかくペリシテの祭司や占い師達は、ペリシテの領主の数・都市の数に従い、五つの金のはれ物の像と、五つの金のねずみの像を作らせて、それをイスラエルの神に「償い」として捧げさせた。

『車はベテシメシびとヨシュアの畑にはいって、そこにとどまった。その所に大きな石があった。人々は車の木を割り、その雌牛を燔祭として主にささげた。レビびとは主の箱と、そのかたわらの、金の作り物をおさめた箱を取りおろし、それを大石の上に置いた。そしてベテシメシの人々は、その日、主に燔祭を供え、犠牲をささげた。ペリシテびとの五人の君たちはこれを見て、その日、エクロンに帰った。』(1サムエル記6:14-16)
彼らは最初、主の箱がこのように戻って来た事を喜び、ペリシテ人もまた、災いの元凶が自分達の元から去った事に胸をなでおろした事だろう。
これで一件落着、かというと、そうではなかった。
この神の箱は、そこベテ・シェメシュの町にも、災いをもたらす事となってしまうのだ。

『ベテシメシの人々で主の箱の中を見たものがあったので、主はこれを撃たれた。すなわち民のうち七十人を撃たれた。主が民を撃って多くの者を殺されたので、民はなげき悲しんだ。』(1サムエル記6:19)
撃たれた人の数は、口語訳では「七十人」となっているが、別の訳では「五万七十人」(新改訳、KJV)、さらに別の訳では「五万のうち七十人」(新共同訳)となっている。
どうしてこんなに訳が分かれるかというと、ここのヘブライ語原典を字義通りに並べると「七十人、五十千人」、これをどのように訳出すれば良いのか分からないからだ。
いずれにせよ、ベテ・シェメシュの人達は非常に大きな痛手を受け、イスラエルの神・主への大きな恐れが沸き起こった事は確かである。

なぜこのような災いがイスラエルにも起こったのか。
それは、神の箱を正当に扱う術を知っているはずの人達がそれをせず、主の箱の中を見るような不敬を犯したからである。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。』(ガラテヤ6:7)
神はまさに聖なる神、義なる神であり、イスラエルに対してだけでなく、異邦人に対しても公平にさばきを行われる方である。

私達は、主の「親しさ」を「馴れ馴れしさ」と勘違いし、主を軽んじてはならない。
また、主があまりに憐れみ深い故に「赦され慣れ」して、自分たちはただ赦される側、何をしても良い側、そして主はただ身代わりの痛みを受けてもらう側として怠慢に陥ってはならない。
そのような事を敢えてし続けるなら、主はその者を懲らしめ、強制的に正しい立ち位置へと戻される。

『ベテシメシの人々は言った、「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか。主はわれわれを離れてだれの所へ上って行かれたらよいのか。』(1サムエル記6:20)
まさに、聖なる神・主の御前に立つ事ができる者は、誰もいない。

主は、神の箱が奪われそうになった時タイミングでペリシテ人を打つ事は出来たであろう。
あるいは、イスラエルが神の箱を縁起物でも持ち出すかのように軽々しく聖所から運び出そうとしたタイミングで打つ事も出来たであろう。
しかし主は敢えて人々の為すがままにし、この4章以降の一連の出来事を起こさせ、その上で、イスラエルにもペリシテにも、ご自身の聖を燦然と表されたのだ。
その結果、イスラエルもペリシテも、神である主は恐るべき方であり、正当に敬う事をしないなら、こんなにも恐ろしい目に遭う、という事を、徹底的に思い知らされた。

こうしてイスラエルの心は、神を正当に恐れ敬う健全な心へと、造り変えられてゆくのだ。

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