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礼拝説教メッセージ音声:主の霊が激しく降って預言をした、後(1サムエル記10:1-13):右クリックで保存

『その時サムエルは油のびんを取って、サウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った、「主はあなたに油を注いで、その民イスラエルの君とされたではありませんか。あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わなければならない。主があなたに油を注いで、その嗣業の君とされたことの、しるしは次のとおりです。』(1サムエル記10:1)


サウルに王としての任職の油が注がれ、ついに、イスラエルに王が誕生した。
サムエルはサウルに、この事は主から出た事である事を明確に示すため、かなり具体的に、これから彼に起こるしるしを告げる。

『あなたがきょう、わたしを離れて、去って行くとき、ベニヤミンの領地のゼルザにあるラケルの墓のかたわらで、ふたりの人に会うでしょう。そして彼らはあなたに言います、『あなたが捜しに行かれたろばは見つかりました。いま父上は、ろばよりもあなたがたの事を心配して、「わが子のことは、どうしよう」と言っておられます』。
あなたが、そこからなお進んで、タボルのかしの木の所へ行くと、そこでベテルに上って神を拝もうとする三人の者に会うでしょう。ひとりは三頭の子やぎを連れ、ひとりは三つのパンを携え、ひとりは、ぶどう酒のはいった皮袋一つを携えている。彼らはあなたにあいさつし、二つのパンをくれるでしょう。あなたはそれを、その手から受けなければならない。』(1サムエル記10:2-4)

これほどまでに具体的かつ事細かに示されるのは、聖書の中でも珍しい。
しかしそこまでサウルに示されたのは、彼に王としての油が注がれたのは、確かに全能の主から来た事であり、主は未来の事も完全に知り、全てを支配しておられる事を彼に教えるためだ。

『その後、あなたは神のギベアへ行く。そこはペリシテびとの守備兵のいる所である。あなたはその所へ行って、町にはいる時、立琴、手鼓、笛、琴を執る人々を先に行かせて、預言しながら高き所から降りてくる一群の預言者に会うでしょう。その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って「新しい(アカー:別の、違った)」人となるでしょう。』(1サムエル記10:5)
主の霊が激しく降ると、それまでとは違った、新しい人になる。
私達も同じように、主キリストにあって、新しく造り変えられた者だ。
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(ガラテヤ5:17)

ただし、武器を買ってもそれを装備しなければ効力を発揮出来ないように、「キリストのうちに」あり続けないなら、新しく造られた者としての効力は一切発揮されない。
サウルは、王としての任職の油が注がれたからには、その特権を正しく行使する責任も与えられたのであり、それをしないなら、せっかく主から任職の油が与えられても全く無益どころか、逆に害なすものとなってしまう。
私達も、王として、祭司として、聖なる国民としての特権が与えられている。その理由は、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった方の御業を、語り伝えるためである。(1ペテロ2:9)

だから、与えられた特権を活用し、主の栄光のため・神の国の働きのために用いるなら、その人自身も、その働きも、どんどん祝福されていく。
しかしその特権を乱用し、古き罪深い生き方をし続けるなら、不信者よりも格別きびしいさばきを受けてしまう。
『主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。』(ルカ12:47-48)

聖霊が激しく自分に降る事を求めるキリスト者は、たくさんいる。
しかし結局大事なのは、それが与えられた後の、御言葉への従順である。
サムエルは続けて言う。
『これらのしるしが、あなたの身に起ったならば、あなたは手当りしだいになんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです。あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:7)

手当たり次第、何でもしなさい。
ここを直訳するなら「あなたの手に来た事は何でもしなさい」であり、つまり、何も起きていない所から自ら何かを考え出して実行する、という事ではなく、何か事が起きたなら、それに対して何とでも対処しなさい、という事である。
主の霊に導かれる人は、自分から何か思いついた事をするのではなく、主の霊の導きに従って行動するものなのだ。

当面、サウルが従順すべき事は、彼は先にギルガルに行くべき事、そして、そこで七日の間、サムエルを待つ事だと言われた。
忍耐して待つ事が七という完全数に満ちた時、サムエルが来て燔祭と酬恩祭をささげ、その後彼が為すべき事が示されるというのだ。
しかし、結論から言うと、サムエルが来る前にサウルが勝手に燔祭と酬恩祭をささげてしまったため、その後サウルに示されるべき道は、結局分からずじまいとなってしまった。

『サウルが背をかえしてサムエルを離れたとき、神は彼に新しい心を与えられた。これらのしるしは皆その日に起った。彼らはギベアにきた時、預言者の一群に出会った。そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、彼は彼らのうちにいて預言した。もとからサウルを知っていた人々はみな、サウルが預言者たちと共に預言するのを見て互に言った、「キシの子に何事が起ったのか。サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」。(1サムエル記10:9-11)
サウルは実際に預言し、「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」という言葉が、ことわざのようになった。

預言したり、聖霊が激しく降る事を望むキリスト者は多い。
しかし、聖霊に満たされる事や、預言が言えるようになる事が、キリスト者のゴールではない。
主が約束された永遠の御国に入る事こそ、ゴールであるべきだ。

モーセの時代、主の霊が与えられて預言したイスラエルの七十人の長老たちは、果たして約束の国に入れただろうか?
彼らは不従順の故に、約束の地に入れず、荒野で死んでいった。
サムソンは、主の霊が激しく降って、すさまじい力を発揮し大活躍したがその最後はどうだっただろうか。
彼は不従順を重ねた故に、壮絶な最後を遂げた。
サウルも同じである。
いかに主の霊が激しく降り、預言したとしても、不従順を重ね続けるなら、預言も夢も幻も取り上げられ、悲惨な最後となってしまうのだ。

今は終わりの時代であり、主の霊は、しもべにもはしためにも注がれている。(ヨエル2:28-32)
そして私達キリスト者は、王として、祭司として、聖なる国民として、主に立てられており、御言葉に従順となって、与えられている特権を正しく活かす事が求められている。
それを正しく行使するなら、永遠の栄光が待っている。
しかし不従順を重ねるなら、サウルのように、かの七十人の長老達のように、約束の地に入れないまま、荒野をさまよい続けるしか無いのだ。

サレプタのやもめ - 死をも超えた宴会(1列王17:17-24)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

前回、最後のパンを預言者エリヤに渡したサレプタのやもめの行ないを見た。
困難の時代、主は、信仰者エリヤ一人だけを養う事で完結するのでなく、やもめの信仰をも用い、それぞれ分に応じた信仰が、この一同を養った。故に神の国の事柄は、主と、信仰者「たち」との共同作業であり、それによって主の共同体全体が潤い、主の恵みと栄光が満ち満ちて行き、喜びが溢れるものなのだ。
困難の時代でも一同の粉と油は尽きる事なく、長い間彼らを養ったが、”主の宴会”はそれに終わらない。

主に守られ養われていたはずの一同だが、やもめの息子は病気になって、それが元で死んでしまった。
『彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』(1列王記17:18)
彼女は、災いが起きた原因を、誰か他の人や世情から見出そうとするのではなく、自分の内から見出そうという性質があった。そのように自分の罪や弱さを認める人は、救いから遠くはない。
主が私達に現れたのは、罪を思い知らせて、愛する人を取り上げ死なせるためではないはずであり、日毎主に養われてはいても、望ましくない死が訪れる事はある。主に養われ、救われたはずなのに、なぜそのような死が来るのか。『イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」』(ヨハネ11:4)

エリヤは祈った。『「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。』(21-22節) エリヤは、長らく雨が降らない事を預言した後、その通りなるよう祈り、また、後に雨が降ると預言した後も、言葉どおり成るよう祈ったようだ。(ヤコブ5:13-20)
主から預かった言葉を発したなら、それでそのまま終わり、ではなく、エリヤのようにそれについて祈るべきである。そして親しい人に災いが下ったり、あるいは罪に陥ったなら、それも真心から祈るべきだ。
神の国は、聖徒と神との対話の内に成って行くものである。主にあきらめて対話しない姿勢、主との交わりを断絶してしまうような姿勢は、滅びる者に共通する性質である。御言葉(ロゴス)に自身の信仰や感情、呻きを混ぜて発するなら、それは実体となり、人にいのちを与え、神の栄光が現れて行くのだ。

『主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。・・・「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました。」』(22-24節)
義人の信仰による祈りは、病む人を回復させ、主はその人を立たせて下さり、またその人が罪を犯していたならその罪は赦される。(ヤコブ5:15) エリヤは私達と同じような人である。しかし彼が雨が降らないように祈ると三年六か月の間雨が降らず、また祈ると雨を降らせ、地はその実を実らせた。(同17-18)
だから、心折れる事なく、いつも祈るべきである。それにしても、なぜこれらの事が起きたのだろう。主はエリヤの世話をしたやもめの子を死なせずにおく事も当然できたはずだが、なぜそのようにされたのだろうか。
イエス様は、彼の愛されたラザロが病気である事を聞いても、敢えて2日留まり、ラザロの所に到着した時には、もう死んで4日経過していた。イエス様はなぜすぐに行かなかったのだろう。
それは「死ぬより大事」な事を人々に教えるためである。病が癒されるとか、死人が生き返るとか以上に重要な事がある。その大事な事とは、イエス様こそよみがえりであり、いのちであり、彼を信じている者は、死んでも生きる事だ。イエス様こそ、生死を超えたいのちの君である事だ。
もしイエス様が、エリヤが、インスタントに癒していたなら、その大事な事を人々は知らないままだっただろう。
やもめはこの事を通して、主の言葉が真実である事を知ったし、ラザロをよみがえらせてもらった人々もイエス様こそいのちの君である事を知った。主を恐れ愛する人には、死をも超えた宴会が待っているのだ。
パウロもペテロも、祈ったら死人がよみがえったが、誰が癒され誰が癒されないか、誰が蘇らされ誰がされないか、なぜあの人には奇跡が起こり、この人には起きないのか、とった議論は、実は無意味である。
いのちは主のものであり、人がいつまで生き、いつ死ぬかは、いのちの君でイエス様が計っておられる。
私達キリスト者は、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのみである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
何度あなたを翼の下に集めようとした事か(マタイ23:37-39)(ダブルメッセージ):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
二人または三人の集いの元に(マタイ18:15-20):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言者とは(イザヤ1:1-9)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書1章1-17節を基に、預言者の役割と真の預言の本質について解説するメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書1:1-17

【戒めの言葉】

真の預言者は耳障りの良いことだけでなく、主の怒りや戒めも正確に伝えなければならない。

【勧めの言葉】

預言を受ける側も、それを真剣に受け止め、悔い改めて従う必要がある。

【悔い改めの促しの言葉】

イスラエルの民への悔い改めの呼びかけを通して、私たちも罪を悔い改め、主に立ち返るよう促される。

【***詳細***】

本日の御言葉はイザヤ書1章1節から17節です。イザヤ書は旧約聖書の大預言書の一つであり、ユダ王国の王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍した預言者イザヤの預言が記されています。

まず、預言という言葉の本質について考えてみましょう。預言とは、ただ単に未来のことを当てることではありません。預言の漢字は「預かる言葉」と書きます。つまり、神様から言葉を預かって、それを人々に伝えることが預言なのです。

「預言の霊はイエスの証しです」(ヨハネの黙示録19:10)

と聖書にあるように、真の預言は必ずイエス・キリストを指し示すものでなければなりません。

預言者の役割は非常に重要であり、同時に危険を伴うものでした。偽りの預言をすることは、旧約時代には死罪に値するほど重大な罪とされていました。なぜなら、神の権威ある言葉を偽って伝えることは、多くの人々を誤った道に導くことになるからです。

イエス様もこう警告されています:

「しかし、この小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましです。」(マタイ18:6)

真の預言者は、人々の耳に心地よいことだけを語るのではありません。時には王や民衆の怒りを買うような厳しい言葉も語らなければなりません。そのため、多くの預言者が迫害され、殺されてきました。

イザヤ書1章の冒頭で、主は預言者イザヤを通して、イスラエルの民に対する怒りと嘆きを表明されています:

「ああ、罪を犯す国、とがの重い民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」(イザヤ1:4)

主は、イスラエルを大切に育てた子どものようだと言われます。しかし、その子どもたちは主に逆らいました。牛でさえ飼い主を知っているのに、イスラエルは主を知ろうとしません。これは、私たち人間の姿を映し出しているようです。私たちも時として、神様の恵みを忘れ、自分勝手な道を歩もうとしてしまいます。

主は、イスラエルの民の罪深さを厳しく指摘されます:

「頭はことごとく病み、心はことごとく弱っている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。」(イザヤ1:5-6)

これは、罪に染まったイスラエルの惨めな姿を表現しています。罪は私たちの全身、全人格を蝕んでいきます。そして、その傷は自分たちの力では癒すことができないのです。

しかし、主は完全に見捨てることはされません:

「もし万軍の主が、私たちに少しの生き残りを残されなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていただろう。」(イザヤ1:9)

ここに主の憐れみが示されています。たとえ多くの者が罪を犯しても、主は必ず残りの者を残されます。これは、私たちに対する主の変わらぬ愛と忍耐を表しています。

預言者の役割は、親が子どもを正しく導くのに似ています。子どもが間違ったことをしたとき、親は厳しく叱ります。しかし、それは子どもを傷つけるためではなく、正しい道に立ち返らせるためです。同様に、預言者の厳しい言葉の裏には、神の深い愛があるのです。

私たちは、この御言葉を通して何を学ぶべきでしょうか。

  1. 神の言葉を軽んじず、真剣に受け止めること。

  2. 自分の罪を認め、悔い改めること。

  3. 周りの人々の悪い行いに同調せず、神の道を歩むこと。

  4. 神の愛と憐れみを覚え、感謝すること。

私たちも、この世で「預言者」としての役割を果たすよう召されています。つまり、神の言葉を正しく理解し、それを周りの人々に伝える責任があるのです。時には耳障りな言葉であっても、愛をもって真理を語る勇気が必要です。

同時に、自分自身も神の言葉に従順であることが求められます。神の戒めを守り、罪を悔い改め、日々主との関係を深めていくことが大切です。

【結論】

イザヤ書1章の御言葉は、私たちに悔い改めと神への立ち返りを促しています。神の愛と憐れみを覚えつつ、同時に神の聖さと正義を忘れずに歩む者となりましょう。そして、私たちも現代の「預言者」として、神の真理を周りの人々に伝える者となれますように。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(1列王記17:8-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
あなたの宝はどこにあるのか(ルカ12:31-34):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:突然の貴賓扱いを受けたサウル、と私達(1サムエル記9:17-27):右クリックで保存

『そのときサウルは、門の中でサムエルに近づいて言った、「先見者の家はどこですか。どうか教えてください」。サムエルはサウルに答えた、「わたしがその先見者です。わたしの前に行って、高き所に上りなさい。あなたがたは、きょう、わたしと一緒に食事しなさい。わたしはあすの朝あなたを帰らせ、あなたの心にあることをみな示しましょう。

三日前に、いなくなったあなたのろばは、もはや見つかったので心にかけなくてもよろしい。しかしイスラエルのすべての望ましきものはだれのものですか。それはあなたのもの、あなたの父の家のすべての人のものではありませんか」。』(1サムエル記9:18-20)

サウルは先見者サムエルとこの時初対面のはずが、なんと彼は、きょう、あなたと一緒に食事をすることになっている、と意外な事を言った。
そればかりでなく、サウルが父のろばを三日前から探し歩いていた事も、そして既にそれは見つかっているという、サウルさえ知らない事さえも、知っていたのだ。
さらに驚くことに、イスラエル全体は、あなたを望んでいる、と言うのだ。
サウルは面食らっただろう。
聖なる方の助言をちょっと伺おう、といったつもりで来たのに、相手は自分の何もかもを、それも自分の知らない事までも知っており、しかも、一緒に食事をすることになっている、というのだから。

この状況は、私達と主との出会いにも似ている。
取税人ザアカイは、聖なるお方イエスをひと目見ようと木に登ったのに、イエス様のほうから近づいて来られ、自分の名前を呼び、「今日はあなたの家に泊まる事になっている」と声をかけられた。
ザアカイは自分の名前で声をかけられた時、悟ったのだろう。
自分がしてきた、あらゆる悪事も。それ故人々から憎まれ、蔑まれている事も。そして、そのような状況から自分は救われたいと、密かに願っていたその事も。
この聖なる方は、そんな自分を全部知っており、しかもその上で「今日はあなたの家に泊まる事になっている」とまで言われた。
それでザアカイは、一瞬にしてこのお方に心を捕えられ、それまでの行いを悔い改め、新しい聖なる生き方をすると決心したのだ。

私達も人生のある時、サウルのように、ザアカイのように、聖なるお方に呼び止められたのではなかろうか。
自分の事を何もかも知り尽くし、その上で、わたしはあなたと食事を共にしたい、あなたの内に宿りたい、と、誘われたのではなかろうか。
そして主から、あなたはこれから全く違った歩みをしなさい、王族の祭司として、聖なる国民として、相応しく歩みなさい、と、勧められたのではなかろうか。

『サウルは答えた、「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって、わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか。どうしてあなたは、そのようなことをわたしに言われるのですか」。』(1サムエル記9:21)
サウルとしては、晴天の霹靂だったろう。
自分はイスラエルという集団の中では、もっとも弱い、小さい、つまらない者なのに、なぜそのように言うのですか、と。
私達もまったく同じだ。
イエス様、なぜ、こんな弱い、小さい罪人に呼びかけて下さったのですか、と。
主の選びは、そのようである。
主は、この世の力ある者・知恵ある者をはずかしめるため、あえて弱く無に等しい人を、選ばれるのだ。(1コリント1章)

『サムエルはサウルとそのしもべを導いて、へやにはいり、招かれた三十人ほどのうちの上座にすわらせた。そしてサムエルは料理人に言った、「あなたに渡して、取りのけておくようにと言っておいた分を持ってきなさい」。料理人は、ももとその上の部分を取り上げて、それをサウルの前に置いた。そしてサムエルは言った、「ごらんなさい。取っておいた物が、あなたの前に置かれています。召しあがってください。あなたが客人たちと一緒に食事ができるように、この時まで、あなたのために取っておいたものです」。こうしてサウルはその日サムエルと一緒に食事をした。
そして彼らが高き所を下って町にはいった時、サウルのために屋上に床が設けられ、彼はその上に身を横たえて寝た。』(1サムエル記9:22-25)

サウル達は、この突然の貴賓扱いに、とまどっただろう。
聖なる方から宴会に招かれ、上座へと導かれ、最上のごちそうを頂いて貴賓扱いを受けたのだから。
私達もまさしく、イエス様から最上のごちそうを用意された宴会に招かれ、王侯に属するような貴賓扱いを受けたようなものだ。

父なる神は、御子イエス・キリストを、和解のいけにえとしてほふり、共にこの食卓に与からせようと、私達を招いておられる。その事を、王子の結婚の披露宴を設けた王のたとえ(マタイ22:1-14)で示された。
『そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。』(マタイ22:8-10)
今や、この天の大宴会には、良い人も悪い人も、あまねく招かれ、その招待に応じる人は、だれでも宴会場に入る特権があるのだ。

しかし、礼服を身に着けずに宴会場に入った者が、外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりしてしまう事もまた、書いてある。
せっかくキリストが命を裂いてまで与えて下さった贖いの衣を、敢えて身につけず、天の宴会のごちそうだけ頂こうとするような者は、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。
サウルは後に、せっかく与えられた特権を軽んじ続けたため、王族から追い出されてしまう事となる。

『そして夜明けになって、サムエルは屋上のサウルに呼ばわって言った、「起きなさい。あなたをお送りします」。サウルは起き上がった。そしてサウルとサムエルのふたりは、共に外に出た。彼らが町はずれに下った時、サムエルはサウルに言った、「あなたのしもべに先に行くように言いなさい。しもべが先に行ったら、あなたは、しばらくここに立ちとどまってください。神の言葉を知らせましょう」。』(1サムエル記9:26-27)
サウルとしては、ろばが見つかったのなら、もうここには用なしのはずであるが、予見者サムエルのほうが、サウルに用があるというのだ。

私達も、主に何か願い事を叶えて頂いたなら、もう用済み、ではない。
主イエス様の側が、いつでも、私達に用があるのだ。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)
主は私達に、いつも、この与えられた特権に相応しく歩みなさい、と言われているのだ。

 礼拝説教メッセージ音声:サウルの成り立ち(1サムエル記9:1-16):右クリックで保存

イスラエルは主の御心に反して王を求めたが、主は、彼らが求めるがままに、イスラエルに王を与える。

『さて、ベニヤミンの人で、キシという名の裕福な人があった。キシはアビエルの子、アビエルはゼロルの子、ゼロルはベコラテの子、ベコラテはアピヤの子、アピヤはベニヤミンびとである。キシにはサウルという名の子があった。若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高かった。』(1サムエル記9:1)
このサウルが、主が定めたイスラエルの最初の王である。
 
サウルの名は「尋ねられる」「面会を求められる」という意味である。
彼は「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高」かった、ばかりでなく、裕福な家出身であり、場の空気をよく読む、思いやりのある人だった。
まさに、人々から「求められる」という名前の通りの者であった。
人を思いやるのは良いことであるが、神よりも人を思いやるとしたら、災いの性質であり、それが後の彼にとって罠となってしまう。
 
『サウルの父キシの数頭のろばがいなくなった。そこでキシは、その子サウルに言った、「しもべをひとり連れて、立って行き、ろばを捜してきなさい」。そこでふたりはエフライムの山地を通りすぎ、シャリシャの地を通り過ぎたけれども見当らず、シャリムの地を通り過ぎたけれどもおらず、ベニヤミンの地を通り過ぎたけれども見当らなかった。彼らがツフの地にきた時、サウルは連れてきたしもべに言った、「さあ、帰ろう。父は、ろばのことよりも、われわれのことを心配するだろう」。』(1サムエル記9:3-5)
彼がベニヤミンの地を出て、サムエルの所へ行ったのは、王として任職を受ける気があったからでは毛頭無く、ただ、父のろばがいなくなったので、探しに行くよう頼まれたからだった。
彼は一人のしもべと一緒に遠くまで探しに来たのだが、なかなか見つからず、あまり手間取って父を心配させるのも悪いので、帰ろうと言い出す。
『ところが、しもべは言った、「この町には神の人がおられます。尊い人で、その言われることはみなそのとおりになります。その所へ行きましょう。われわれの出てきた旅のことについて何か示されるでしょう」。』(1サムエル記9:6)
 
この町に神の人がいる、という事をサウルは知らなかったのか、それとも、知っていても伺おうという気が起きなかったのか、分からないが、とにかく、自分の問題を神に伺おうと提案したのは、サウルではなく、名も無きしもべのほうだった。
この、主に聞くという事が、頭の中から抜け落ちているような性質は、私達も改めなくてはならないものであり、人を導く王であるなら、なおさらである。
しかしサウルはその後、部下に勧められて初めて御心を求めるような性質を改めず、また、御心を超えて勝手に行動してしまったりした。(1サムエル記13章、15章)
彼のそのような性質を取り除かない事は、せっかく与えられた王権が剥奪されてしまう元となってしまう。
 
このように、神の導きを求める事を、自分からせず、人に勧めれれてから、はじめてするような信仰者は、自立していない信仰者である。
人から勧められない限りは、自分からは礼拝には行かない、自分からは祈らない、自分からは賛美しない、勧める人がいなくなると、しなくなる。
初心の時ならいざ知らず、いつまでもそのようなキリスト者であるなら、災いが絶えないものだ。
 
『サウルはしもべに言った、「しかし行くのであれば、その人に何を贈ろうか。袋のパンはもはや、なくなり、神の人に持っていく贈り物がない。何かありますか」。しもべは、またサウルに答えた、「わたしの手に四分の一シケルの銀があります。わたしはこれを、神の人に与えて、われわれの道を示してもらいましょう」。・・・サウルはそのしもべに言った、「それは良い。さあ、行こう」。こうして彼らは、神の人のいるその町へ行った。』(1サムエル記9:7-10)
サウルは、御心を伺うときに贈り物をする事を気にした。
人を思いやる事、神の働き人を敬うのは良いことであるが、神よりも、人を思いやる事を優先させるとしたら、順番違いである。
 
『こうして彼らは町に上っていった。そして町の中に、はいろうとした時、サムエルは高き所に上るため彼らのほうに向かって出てきた。さてサウルが来る一日前に、主はサムエルの耳に告げて言われた、「あすの今ごろ、あなたの所に、ベニヤミンの地から、ひとりの人をつかわすであろう。あなたはその人に油を注いで、わたしの民イスラエルの君としなさい。彼はわたしの民をペリシテびとの手から救い出すであろう。わたしの民の叫びがわたしに届き、わたしがその悩みを顧みるからである」。』(1サムエル記9:14-)
 
サムエルには主からあらかじめベニヤミン人と出会う事、そして、その者に油をそそいで王とすべき事が命じられていた。
この時点、サウルはこれから王となり、イスラエルを正しく治めペリシテ人から救い、サウルの家は王家として確立されていく、はずだった。
ところが聖書で記されている後の歴史は、違う。
彼の家は王家としては続かず、王権は剥奪されてダビデの家へと移ってしまう。
なぜなら彼は、神よりも人を恐れ、御言葉よりも自分のよかれを押し通す性質を、手放さなかったからだ。
 
私達の内に、サウルの性質は無いだろうか。
人に勧められなければ礼拝に行かない、人に見られていなければ祈りをしない、人に促されなければ賛美しない、というようなサウルの性質は早急に手放し、自ら進んで喜んで礼拝を捧げ、王として栄えていくダビデの性質を身に着けていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 

礼拝説教メッセージ音声:王なる主を退けるイスラエル(1サムエル記8:1-22):右クリックで保存

『サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。』(1サムエル記8:1-3)

父が素晴らしい信仰者だからと言って、子も自動的にそうなるとは限らない。
信仰は結局、本人の意志決断に依るのものだが、親の愛情と祈りは、それを養うのに大きな力がある。
実際、サムエルは年に一度しか親と会う事ができない状況だったのにも関わらず、母の愛と祈りによって、良き信仰者として成長した。

そこで人々は、サムエルに、「ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」と願い出た。
『彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。』(1サムエル記8:6-8)

彼らが王を求めた事は、サムエルの機嫌を損ね、主もまた、「わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにした。」とまで言われた。
王を求める事。
一般的に見るなら、何ら問題もなさそうなこの事が、一体なぜこんなにも主を怒らせ、サムエルの機嫌を損ねたのか。
それは、王を求める事も偶像礼拝も、「主を捨てる」という一点においては、なんら変わり無いからである。

『「今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない。」サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、言った』(1サムエル記8:9-11)
主は、もしイスラエルが王を立てるとするなら、いかなる事になるのかを説いて聞かせた。
すなわち、王は息子娘達を徴用して使い、畑の産物や家畜を徴用し、望まぬ事をさせられ、人々は、奴隷のようになってしまうという事を。
『「そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。』(1サムエル記8:18-22)

彼らは、「われわれも他の国々のようになり」と言ったが、要するに、彼らには他の国々への妙なあこがれがあるのだ。
はたして、神が直接導かれるイスラエルのほうが劣っていて、人間の王が導く他の国のほうが優れている、というのだろうか?とんでもない!
ところが、彼らには、そう見えたのだ。
神が王として自分達を治め、導いておられる事が、どんなに素晴らしく特権的であるのかを、彼らは知らないのだ。

彼らは「われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである。」と言ったが、果たして今まで主は正当にさばいてくださっていなかったのだろうか。
主は、ペリシテ人に対し、そして背いたイスラエルに対しても、先頭に先んじて戦っておられたではないか。
イスラエルは、あんなにも不従順ゆえに神を怒らせていたにも関わらず、主はここまで守って下さったという「エベン・エゼル」の幸いを、早速忘れてしまったのだ。
まさに、彼らは主を捨てたのだ。

『ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。』(ヨハネ19:14-16)
まことの王なる主を差し置いて、別のものを王としてあこがれる時、王なる主を「除け」と叫び、十字架につけようとしているようなものである。
もし、主を王座から退けてしまい、主とは別物の、例えばお金や権力、自分自身を「王」と据えるなら、その「王」によって、散々な目に遭ってしまうのだ。
イスラエルはイエス様を王から除き、カイザルを王としたその結果、すぐ後にローマによって亡ぼされ、1900年もの離散生活を送らなくてはならなかった。

主は敢えて、主以外のものを王として据える事を許される。王なる主を十字架につける自由さえ与えられたのだ。
私達は、主イエスキリストを王とし、そこからぶれる事なく、違った別物を王とする者が受けるような災いから遠ざかる歩みをしたい。

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