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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(エステル記5:6-14):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(エステル記5:1-5):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人の悪に目を留める時、御前に獣のようになる(詩篇73:1-20):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:ルツの大胆な行動の根拠(ルツ記3:6-11):右クリックで保存

ルツは、義理の母に言われた通り、身を洗って油を塗り、晴れ着をまとって、そうしてボアズの所へ行った。

ルツはこれから、ボアズに重大な訴えをしに行く。
このまま夫もなく何の実りも結ばないまま枯れていってしまう自分と、自分の家・エリメレクの家とを、買い戻して下さい、と。

重要な訴えをしに行くのなら、まず、外側を整えるべきである。
エステルも、雅歌の女もその身を飾って、王であり夫である方の前に進み出た。
私達も、キリストという、王であり夫であり、家を絶やさぬ責任のある方の前に進み出る時は、身なりを整える心持ちが必要である。

『夜中になって、その人は驚き(原意:震えて)、起きかえって見ると、ひとりの女が足のところに寝ていたので、「あなたはだれですか」と言うと、彼女は答えた。「わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは「最も近い親戚(ゴエル)」です」。』(ルツ記3:8-9)
ルツは、心を尽くし、思いを尽くし、全てを賭けてボアズに訴えた。
自分はあなたのはしためである、あなたの衣の裾でわたしを覆って下さい、あなたはゴエル、すなわち、わたしの家を絶やさぬ責任のあるお方です、と。

私達はルツが、何と大胆な事をしたものだろう、と思うかもしれない。
彼女は最初、ボアズから恵みをいただいた時、こんなイスラエルからは蔑まれているモアブ人である自分に、どうしてそんなに見合わぬ恵みを下さるのですか、と、驚いた。
そんな彼女が、どうしてこんなにも大胆にボアズの前に進み出られたのだろう。
それは、彼女がボアズと結ばれる事は、律法に適っているから、むしろ律法によるなら、ルツが結婚しなくてはならない相手は、ゴエル以外には無いからだ。

『ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。』(ルツ記3:10)
ボアズは、彼女の行動を褒め、祝福した。
なぜなら、彼女が示したこの”親切”は、さきに示した”親切”に勝っているからだと言う。

先に示した親切とは、ルツがナオミの夫エリメレクが死んで以来、ナオミのために世話をし、見ず知らずの国イスラエルへと入って行き、イスラエルの神・主を頼りにして来た事だ。
そして後に示した親切とは、そのエリメレクの家を買い戻すために、好き勝手な相手を見つけて結婚する道を捨て、その身を捧げて、ゴエルであるボアズの所に来た事だ。
彼女とボアズとは、かなり歳が離れていただろう。
どうせ結婚するなら、年齡に見合った、若い人と結婚したい所であろうが、彼女は若い人の所に行く事をせず、ナオミのため、エリメレクの家ため、そして、神の律法に従うために、ボアズの所へ来た。だからボアズはその”親切”を褒めたのだ。

私達も、律法、御言葉に適っている願いを持って主の御前に進み出るなら、主は叶えてくださる。
私達の罪深さや不完全さを見るに、そんな大それた恵みをいただくには相応しくない、と思えるかもしれない。
しかし主は言っている。
わたしが贖い主である、わたしの所に来なさい、と。
『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者(ゴエル)はイスラエルの聖なる者。』(イザヤ41:13-14)
『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖った(ゴエル)のだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』(イザヤ43:1)

そうであるからには、私達はその主のご好意にあずかって、御前に進み出るべきであり、それこそ主の目に真実な行動である。
むしろ、「自分は相応しくない」などと言って御前から遠ざかる事こそ、神の御子キリストがいのちを投げ出してまでを成し遂げて下さったその尊い「買い戻し」を、ないがしろにする事である。

私達はただ、「あなたは買い戻しの権利のある方です」と言いつつ、大胆に、恵みの御座に近づいて、おりにかなった助けを受けるのみである。

礼拝説教メッセージ音声:真の落ち着き所へ入るための整え(ルツ記3:1-5):右クリックで保存

『時にしゅうとめナオミは彼女に言った、「娘よ、わたしはあなたの”落ち着き所(原意:家庭、憩いの場所、休みの場所)”を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。』(ルツ記3:1)

女性にとって落ち着き所、憩いの場所は、男性の左腕の下(雅歌2:6)、脇腹の所(創世記2:21-22)である。
当時、女性の落ち着き所である男性へと導く事は、親や、霊的指導者など、信仰的にしっかりしている人に任せるのが通例だった。

現代のいわゆる”婚活”は、いかに自分好みの、いかに条件の良い相手を見つけ、そのような人との結婚へといかに持っていくかという、自分主体な駆け引き的なものがあるが、”神の国の婚活”は、その真逆である。
神の国の婚活は、イサクの結婚のように、自分の意図や駆け引きは一切なく、霊的指導者や親に一任し、そして何より、主の御心を求めて行うものである。(創世記24章)
自分の好みや、目の慕わしさに従って結婚相手を選ぶとしたら、聖書では、大体良くない結末となってしまうからだ。(創世記6章、士師記14:3)
だから、自分よりも霊的見地が優れた親や指導者がいるなら、その指示を仰いだほうが良い。

『あなたが一緒に働いた女たちの主人ボアズはわたしたちの親戚ではありませんか。彼は今夜、打ち場で大麦をあおぎ分けます。それであなたは身を洗って油をぬり、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。ただ、あなたはその人が飲み食いを終るまで、その人に知られてはなりません。そしてその人が寝る時、その寝る場所を見定め、はいって行って、その足の所をまくって、そこに寝なさい。彼はあなたのすべきことを知らせるでしょう」。』(ルツ記3:2-4)
独身の女性が、男性の寝ている所をまくって、そこに入って寝る。
それは神の民である私達が聞くなら、眉をひそめるような事と思われるが、どういう事だろうか。

ナオミが指示したのは「足の所をまくってそこに寝なさい」「そうすれば、後に為すべき事を彼から教えてもらえる」であり、決して体で誘惑しなさい、というような事ではなかった。
ナオミは知っていたのだ。ボアズは分別を失うような男性ではない、むしろ、律法にかなった事を求めたルツに、その後彼女が為すべき事を、きっと教えてくれるだろう、と。
そして律法においては、ルツが、買い戻しの権利のある男性・以外の所へ行くほうが、不真実なのだ。

クリスチャンである私達には、積極的に飛び込んでいくべき「買い戻しの権利のある御方」がいる。それは、キリストである。
私達も、キリストが寝ている所に、すなわち、十字架の死の眠りについているキリストへと寄り添い、彼の死と一体化するべきだ。
そうするなら、キリストの復活と共に、私達も復活するのだ。(ローマ6:5)

ルツはナオミから「身を洗って」「油をぬり」、「晴れ着をまとって」、買い戻しの権利のある人・ボアズの所へ行くようにと指示したが、私達も、キリストという真の買い戻しの権利のあるお方の御前に出るために、「身を洗って」「油をぬり」、「晴れ着をまとって」行くべきである。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)
私達は御言葉の水によって心と霊とを洗い清め、そして聖霊の油を塗り、キリストが与えて下さった贖いの衣、すなわち、キリストの裂かれた体を身にまとって、キリストの元へと行くのだ。
ヤコブが父イサクから祝福を受ける時、兄のふりをして、動物の毛衣をまとったように、また、エステルが王の元へ行く時、王妃の衣装を身にまとったように。
身に何もまとわないで、そのまま行くとしたら、外の暗闇に放り出されてしまう。(マタイ22:11-13)

『ルツはしゅうとめに言った、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」』(ルツ記3:5)
ルツは、霊的指導者であるナオミの言う事に従った。
それで彼女は、ますます幸いを得ていく。

礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの権利のあるお方(ルツ記2:19-23):右クリックで保存

ナオミは、ルツが持ってきた23リットルという分量の大麦と、彼女が持って来た炒り麦とを見て、驚いた。

このようなものは、誰の助けも借りずに得られるものではない。
『しゅうとめは彼女に言った、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように」。そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」。』(ルツ記2:19-20)

ナオミは一見、何も人の役に立てない一老婦人に見えるかもしれない。
しかし彼女は、ルツ記中、最も偉大なものを多くの人々に惜しみなく与えた事に、気づいているだろうか。
その偉大なものとは「祝福」である。
実際ルツもボアズも、貧しく弱々しい時のナオミが祝福したその祝福の言葉通りになっている。

ナオミは、1章8-9節で、嫁達に「主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と祝福した通りに、ルツはその後、ボアズという素晴らしい夫を得て、平和な暮らしができるようになった。
またナオミは、今回の箇所でもボアズを2度祝福したが、ボアズはその子孫からダビデ王が生まれ、王族の家系となり、さらに後には、キリストという偉大な王さえ生まれ出た。

ナオミが祝福した、その言葉どおりに嫁もボアズも祝福され、その祝福の恩恵の内にナオミは後生を過ごした。
いかに何も出来ないかのように見えても、また何も持っていないかのように見えても、そのくちびるから祝福の言葉を惜しみなく出すなら、その言葉どおりにその人自身が祝福されるのだ。
私達もぜひ、祝福の挨拶を自分のものとしたいものである。

『ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚(原文:ゴエル)のひとりです」。モアブの女ルツは言った、「その人はまたわたしに『あなたはわたしのところの刈入れが全部終るまで、わたしのしもべたちのそばについていなさい』と言いました」。』(ルツ記2:20b-21)
このゴエルというヘブライ語は、「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」とも訳す事が出来る言葉である。
律法では、身代を持ち崩してしまった人、落ちぶれてしまった人などを救うために、近親者が「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」となって、救わなければならない事が定められている。(レビ記25:23-34)

この、「買い戻し(あるいは「贖い」)」というキーワードは、ルツ記だけでなく、聖書全体を通じて非常に重要なキーワードであり、現代を生きる私達一人ひとりにも関わってくる、重要な言葉である。
現代の私達をも「買い戻して」くださるお方がおられる。
『あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたを”あがなわれる者(ゴエル)”は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。・・・あふれる憤りをもって、しばしわが顔を隠したけれども、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ」とあなたを”あがなわれる(ゴエル)”主は言われる。』(イザヤ54:5,8)

主が律法で、買い戻しを律法で制定されたように、主は、全世界すべての人々の買い戻しをも、ご自身で定められた。
全世界すべての人々は、一体何から買い戻されなくてはならないのか。
それは、全人類重くのしかかっている「罪」と「死」という負債からである。
主は一体、何を代価として買い戻しをされるのか。
それは、神の御子・キリストの尊い命によって、すなわち、彼の十字架上の身代わりの死によって、である。

主キリストこそ、まことに私達を「あがなわれる者」であり、私達の家を絶やさぬ責任のある方、買い戻しの権利のある方である。

礼拝説教メッセージ音声:恵みの深みへと立ち入らせてくれるボアズ(ルツ記2:14-18):右クリックで保存

ルツはボアズに謙虚な返事をし、その好意にあずかりたいと求めて来たため、ボアズはさらにねんごろに(親密に)、彼女を食事に招く。

『「ここへきて、パンを食べ、あなたの食べる物を酢に浸しなさい」。彼女が刈る人々のかたわらにすわったので、ボアズは焼麦を彼女に与えた。彼女は飽きるほど食べて残した。』(ルツ記2:14)

パンに酢を浸して渡す行為は、特別な親しみ・親愛の情を示す表現である。
イエス様は最後の晩餐の席で、裏切り者は誰かと弟子達に問われた時、それは自分がパン切れを浸して渡す人だと言ってから、イスカリオテのユダにパンを渡した。
状況的に、ユダが裏切り者だと示しているのは明白なはずなのに、弟子達はなぜか「祭りに必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人に何か施すように」とか、ユダに言われたのだと思った。(ヨハネ13章)
きっとその時のイエス様の所作は、裏切り者を示す行為だとは到底思えない程、ユダへの親愛の情に満ちていたからであろう。

ボアズはルツに、パンだけでなく、炒り麦もたくさん与えた。
その量は食べきれない程だったため、彼女はその残りをナオミのために取っておいた。
私達もルツのように、まことのボアズである主の御前に、謙虚でいるなら、主は更にねんごろに語りかけ、食事を共にし(黙示録3:20)、家族も養えるようにと、押入れ揺すり入れして与えてくださるのだ。

『そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」。』(ルツ記2:15-16)
穂束が積まれている所は、落ち穂がたくさん落ちているが、他人にはあまり立ち入らせたくない領域である。
しかしボアズは、彼女をそこへ立ち入らせる事をゆるしたばかりでなく、わざと穂を落として、彼女が拾えるようにしてやった。

まことのボアズである私達の主も、謙虚でいる人には、さらに恵みが落ちている領域へと入らせて下さる。
そして、天の御蔵に入っている諸々の良きもを、わざと抜き取って、私達のために落として下さるのだ。
なぜこんなにも、恵みを下さるのだろうか。

ボアズ自身、異邦人としての苦労を、沢山味わってきただろう。
彼は、ルツの境遇の労苦をよく知っていたため、母のために頑張って働いている彼女のために、進んで便宜を計ってやりたかったのだろう。

ボアズがルツのそばに来て、ねんごろに語りかけ、良くしてくれたように、私達の主も、人となって私達の所に降りて来られ、人の弱さを知り、理解しておられる。
『この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。』(ヘブル4:15-16)
主はボアズのように、恵みの御座へと大胆に入ってきていいよ、そして時にかなった助けを受けに来なさい、と、招いて下さるのだ。

『こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾った。そして拾った穂を打つと、大麦は一エパほどあった。彼女はそれを携えて町にはいり、しゅうとめにその拾ったものを見せ、かつ食べ飽きて、残して持ちかえったものを取り出して与えた。』(ルツ記2:17-18)
大麦1エパは、23リットルである。ナオミは驚いただろう。
ナオミは、自分は何もかも失って、何も残っていない、と思ったかもしれない。
しかし彼女が異邦の地で生み出した信仰の娘は、7人の息子にも勝るものなのである。

エステル - 言葉をつぐむべき時と言うべき時(エステル5:6-14)
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今年最初のメッセージとして、私達の礼拝や日常の場が王なるキリストの喜ばれる「宴会」となるために、それに相応しく、身支度を整える事、すなわち、キリストの花嫁というアイデンティティをしっかり身にまとい、「悔い改め」「主の御声に聞き」「主の御心を行う」という、主の喜ばれる「ごちそう」を用意して備えるべき事を、学んだ。そのようにするなら、どんな結果が待っているのか。エステル記から続けて学びたい。

エステルは、ハマンのユダヤ人虐殺の企てからイスラエルを救うために、多くの人々に祈られつつ、命がけで王の前に進み出た。王はそんな彼女に金の笏を伸べ、願い事は何でも叶えるとまで言った。
しかし彼女の願いは意外にも、王のために宴会を設けるのでハマンと一緒に来て下さい、というものだった。
王はその宴会の席上で、再び「願い事は何か、王国の半分でも叶えられる」と彼女に問いかけるのだが、エステルは、大事な願いごとを言う事なく、またしても、「自分の願いは、明日再び宴会を設けますので、そこにハマンと一緒に来て下さい、その時、おっしゃった通りにします」と言った。
彼女はイスラエルの存亡に関わる大事な申し立てをしようとしているのであり、その成否は、彼女の立ち居振る舞いにかかっていた。だから、軽々しく言動する事を控えたのだろう。

言葉には、言うべき時と、言ってはならぬ時とがある。人は何かと、言いたい事が言えなかった時は、それをぐるぐると思い巡らし、その「思い巡らし」を熟成させた挙句、相応しくない時に、とんちんかんな言葉を発して恥をかき、そして、それが何度も続くなら、変人扱いされ、誰にも相手にされなくなってしまうものだ。
エステルは、またもあのハマンが調子づいて何も言えなかった、訴えたい重要な事を伝える時機を逃してしまった、と、焦りはあったかもしれない。しかし私達は、主が言うべき時を備えて下さるのを、待つべきだ。
実際、一日先延ばしになったおかげで、その夜、とても大事な二つの出来事が起こる。それは、イスラエルを訴える者・ハマンが決定的に失脚するため、また、モルデカイが大昇進するために必要な出来事だった。

エステルはハマンに対し心中穏やかではなかった筈だ。しかし怒りや訴えはまだ言う時ではないとし、あくまで王妃として優雅に、しとやかに王とハマンに接し、宴会へ誘った。それでハマンは上機嫌になった。
そしてその帰り、ハマンはまたもモルデカイと会う。モルデカイが彼を見ても敬礼せず、少しも恐れていない様を見て、憤りに満たされた。彼は、王の権威を自由に行使できる程、昇進しており、輝かしい富を持ち、子供も多く、沢山祝福されているのに、たった一人、モルデカイの故に、その全てがかすんでしまった。
私達も、主から多くの幸いを頂いているというのに、たった一人の言動によって、それら全てがかすんでしまい、怒りで居ても立ってもいられない事もあるが、それは、ハマンに似た、滅ぼされるべき性質である。
私達もモルデカイのように、義を行って動じないなら、彼の存在そのものが、悪人には滅びの元となり、いかに悪人が子宝や昇進に恵まれ、幸いが100あっても、義人の1の義の行いに飲み込まれてしまうのだ。
彼の妻ゼレシュや友人たちは、22mの柱を立て、その上にモルデカイをかけさせる事を、王に進言してみてはと勧め、ハマンはそれを大いに気に入る。
それでハマンは、早速、この事を進言しに、王の所へ出て行く。普通の人が寝ている、深夜だと言うのに。
悪者は憎しみを露わにし、憎い相手の滅びを思い立ったら時をわきまえずにそれをしに訴えに行くものだ。

以上が、ハマンが貶められ、モルデカイが引き上げられるために重要な、一つ目の出来事である。
この出来事だけで見るなら、モルデカイがますます危機に陥り、ハマンはますます栄えているかのように見える。しかし実は、それが主による重要な布石だったのである。
詩篇73編にある通り、一見、悪人はいつまでも栄え、弱い人達はいつまでも虐げられているかのように見えるが、私達が悪人の所業を思い巡らす事を止め、神の聖所に入る時(同17節)、彼らの最後を悟る。
人間の悪のはびこりや悪人の所業を思いめぐらす時、苦痛で、主の御前で獣のようになってしまう(22節)。
しかし、神の聖所に入り、心をただ主に向ける時、世の何にも勝る神の平安に満たされ、主のご計画を知る事が出来るのだ。ハマンのように悪を思い巡らす事を止め、エステルやモルデカイのように善をもって悪に打ち勝ち、悪人の地位に取って代わる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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