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与えられるしるしはヨナのしるしのみ(マタイ16:1-12)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2015-1-11 23:38
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
与えられるしるしはヨナのしるしのみ(マタイ16:1-12):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花嫁は閉じられた秘密の園(雅歌4:9-16):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:落ち穂を拾うルツと、ルツを拾うボアズ(ルツ記2:5-13):右クリックで保存
ボアズとルツの出会いは、はからずも、意図せずして始まった。
ルツが落ち穂を拾うために畑に入ったのは、傷心のナオミを支え養いたかったからだったが、その畑に入った事が、彼女自身の人生を大きく動かし、そればかりでなくイスラエルを、ひいては、世界史を大きく動かす事となった。
『ボアズは刈る人たちを監督しているしもべに言った、「これはだれの娘ですか」。刈る人たちを監督しているしもべは答えた、「あれはモアブの女で、モアブの地からナオミと一緒に帰ってきたのですが、彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした」。』(ルツ記2:5-7)
ルツはその畑で落ち穂を拾い始める時、偽らず、自分はモアブの娘で、ナオミと一緒に帰ってきた事を自己紹介したのだろう。
彼女を見ていた人も、彼女は朝から立ち働いている事を、ボアズに証言した。
ボアズは、親戚のナオミと一緒に来たモアブの女が、ナオミに真実を尽くした事は、あらかじめ聞いており、その彼女が実際目の前で、朝から休まず働いて来たのを見て、声をかける。
『ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。』(ルツ記2:8-9)
落ち穂拾いと言えば、ミレーの絵画の中で、婦人たちが何か畑仕事をしている、のどかな田園風景を思い出すが、あまりのどかなものではない。
「じゃまをしないように」と命じなくてはならない程、人から意地悪をされやすく、また、いじめの対象にされやすい行為である。(22節)
ボアズは、そんな彼女の成り立ちを全て心に留め、じゃまされたり、いじめられたりしないよう、便宜を図ってやり、しかも、若者たちの汲んだ水を自由に飲んで良い、とまで言ってくれた。
私達の毎日も、落ち穂を拾いに出かけて行くような日々であり、いじめられたり、邪魔されたりしながらでも、将来の自分や家族を養うために、恥ずかしさを忍びつつ、落ちている恵みを拾って行くようなものである。
しかし、全てを支配しておられる主は見ておられ、全能者の御翼の影に助けを求めて入る人に対しては、まことのボアズの所へと引き合わせて下さり、恵みの落ち穂が豊かに落ちている畑へと導かれ、そして周りの者達には「じゃましてはならない」と、きつく命じて下さるのだ。
ルツは落ち穂を拾っていた時にボアズに声をかけられたが、同じように私達も、主の恵みを拾っている内に、主によって拾われるのである。
『彼女は地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。』(ルツ記2:10)
彼女は別に、好き好んでモアブで生まれたくて生まれたわけでなかったが、自分は生まれながらにして恵みを受けるには相応しくない者とわきまえていた。
私達も、別に好き好んで、こんな罪や災いの性質を持って生まれたかった訳ではない。
しかし、主はそんな私達にも、一方的な恵みを注がせて下さったという感謝を、いつまでも忘れてはならない。
クリスチャンの親切さにいつまでもぶらさがり、恵みを施してくれて当然とばかりに、あれもこれも要求し続ける者はいるが、そのような、いつまでも悔い改めの実を結ばない者は、やがて切り落とされ、火の中に投げ込まれてしまう。私達はクリスチャンだから大丈夫だ、などと、心の中で思っていてはならない。神は、こんな石ころからでもアブラハムの子孫をお造りになる事ができるからだ。(マタイ3:7-10)
『ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。』(ルツ記2:11-12)
ボアズはすっかり聞いている。彼女が父母を離れ、偶像崇拝の国を離れて来た事を。
また、新しく入った神の家族に対し真実を尽くし、イスラエルの神を自分の神とした事を。
新しい家へと嫁ぐ条件は、まず、父母を離れる事であるが、私達も、神の国へと嫁いで行くために、古き父母を離れなくてはならない。
すなわち、今まで過ごして来た世から離れ、サタンに属する罪深い性質を、捨て去る決心をしなくてはならない。
『イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。』(ルカ18:29)
報いは、死んだ後に天国でようやく受けるものではなく、この世にあって、幾倍も受けるものである。
私達は、世とサタンから離れているだろうか。新しい神の家族に対し、真実を尽くしているだろうか。
主はすっかり見ておられ、聞いておられる。そして真実を尽くした人には、豊かに報いられるようにと祝福して下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:ボアズの家の成り立ち(ルツ記2:1-4):右クリックで保存
『さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。』(ルツ記2:1)
このボアズが、後にルツをめとり、ダビデの王族の家系を生み出して行くのだが、今回は彼の成り立ちを見ていきたい。
ボアズの父は、サルモン(名の意味は「平和を好む」)。母は、カナン人の元遊女・ラハブである。
ラハブはカナンに生まれ、悪しき価値観・悪しき習慣の中、遊女としてそれまでの人生を過ごして来た。
彼女はイスラエルのどの女性より、御言葉の知識は少ないはずであるし、子育てをするにしても、御言葉に従って正しくできる自信は無かったであろう。
士師記の荒んだ社会情勢の中、それでもこの一家は着実に栄え、ボアズは立派な信仰者、町の有力者として育って行った秘訣は、何だろうか。
それはやはり、主から多くを赦されたため、人一倍、多く主を愛したからではないだろうか。(ルカ7:41-48)
彼女は他のどのイスラエル人女性よりも律法を知らなかったし、そのような「たしなみ」を、身につけてこなかった。
しかし彼女は、こんなに罪深く汚れた自分が、こんなにも素晴らしい恵みに預かり、きよく秩序ある生活へと入れられたために、誰よりもその恵みに感動し、実感し、主に従って歩みたいと心底願う気持ちが誰よりもあったからこそ、下手なイスラエル人女性より、遥かに優れた子育てが出来たのだろう。
御言葉の知識も、たしなみも大切だが、主を愛する心のほうが、何より大事である。
『その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4)ボアズは、雇い入れている従業員との間で「主が共におられるように」「主が祝福して下さるように」という、祝福の挨拶を交わしている。
という事は、家庭の中で、この祝福の挨拶が日常的に取り交わされて、育っていたのだろう。
家庭内、あるいは従業員の間で、祝福の挨拶を取り交わす事は、有力者となる重要なコツの一つである。
逆に、文句や呪いの言葉を取り交わす事は、廃れてしまう原因となってしまう。
「人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる」からだ。(箴言18:20)
ボアズの母・ラハブは、在留異国人であった故、弱い立場の人には「憐れみのわざ」をするようにと、息子によく教えた事だろう。
実際ボアズは、在留異国人ルツに、喜んで恵みを落としている。
在留異国人や、孤児、やもめを憐れむのは、主のわざである。
「主のわざ」を「自分のわざ」とし、「主の思い」を「自分の思い」とする人は、主から祝福を受けないはずが無い。
その人が、さらにそのわざを為せるようにと、主がさらに増し加え、押入れ揺すり入れして与えられるからである。
士師記に登場する人達の荒んだ有り様に比べ、ルツ記に出てくる人々は、なんと幸いな人達だろうか。
イエス様は山上で言われた。
『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。』(マタイ5:3-9)
『モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。』(ルツ記2:2-3)
この、ルツとボアズの「はからずも(意図せず)」の邂逅は、将来、ナオミやルツにとって救いとなり、またイスラエルにとって、いや、全世界にとって救いの元となる。
その事はこの時、誰も知る由もない。
主は、人の「はからずも」を用い、人々の救いを紡ぎ出して行かれるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:マラ(苦い)になってしまったナオミ(ルツ記1:19-22):右クリックで保存
ナオミには10年ぶりの故郷ではあるが、この帰郷は、彼女にとって懐かしさよりも苦々しさに満ち満ちたものだった。
『そしてふたりは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか」。』(ルツ記1:19)
彼女たちの故に街中がこぞって騒ぎ立った、という事は、エリメレクの家はベツレヘムでも有名な、そして有力な一家だったのかもしれない。実際、エリメレクの一族に属するボアズの家も、町の中で有力者であった。
女たちは「これはナオミですか(KJVでは、Is this Naomi? )」と言っている。
それもきっと、彼女が10年前、ベツレヘムを出て行く前の状況から比べ、変わり果ててしまったのを驚いたからだろう。
『ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。』(ルツ記1:20-21)
10年前、彼女は、満ち足りて出て行った。他の人達よりも先んじていたような立場だったのに、今や彼女は、夫に先立たれ、息子達も財産も失ってしまった。
10年前、ナオミよりも乏しく、苦労していたような人達が、今や生活を持ち直し、子供達を産んで、彼らも成長しきている。
それに引き換え、今の自分は、ただ人の憐れみにすがるしかない。もはや、人と会う事もしたくない状況だっただろう。
しかし彼女は、「主がわたしを悩ました(KJVでは、「主が自分に敵対して証言している」)」と言っているので、彼女は、自分は主から敵対されるような事をされても仕方がない、という自覚があったのだ。
彼女たち一家は、神の定められた場所で主からの懲らしめを受ける事を避け、異邦の地へパンを求めて出て行ったがために、この災いが降った、と理解しているのだ。
私達も、この事から戒めを受けるべきである。
エリメレク一家が、パンを求めるがゆえに、神の定められた場所を離れ、わずか10年で人が驚く程落ちぶれてしまったのと同じように、キリスト者の中にも、教会での養いをつまらなく思ったり、金銀を求めるがゆえに、教会を離れ、10年も経たずに、落ちぶれてしまった、というような事を、周りで見ていないだろうか。
そのような事は、実に、ありうる話なのだ。
家族やパン、お金などで「満ち足りている」という快さ(ナオミ)を追求しても、それらは、いつ苦々しさ(マラ)になってもおかしくはない。
神の国を度外視して、世の金銀やパンを求めて、神の国を出て行くなら、なおさらだ。
神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされる。
それは、ただ単にその人を苦しめるためではなく、その人が懲らしめを受けて、神の国へと戻し、ついには、決して色褪せる事の無い「ナオミ」へと、その人を造り替えるためなのだ。
『見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。彼は傷つけ、また包み、/撃ち、またその手をもっていやされる。彼はあなたを六つの悩みから救い、/七つのうちでも、災はあなたに触れることがない。』(ヨブ5:17-19)
『こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。』(ルツ記1:22)
ナオミは「主はわたしをから手で帰された」と言った。
しかし主は、彼女を決して手ぶらで帰していない。彼女は実は、七人の息子にも勝る、ルツを、連れ帰っている。
その事は彼女自身も、またルツ自身も、この時には分からなかった。
しかし、主を信頼し全能者の陰に拠り所を求めて来る人というものは、いかに頼りなく、力なく見えたとしても、主の前には何よりも尊く、世のいかなる力ある者のそばにいるよりも、安全なのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
「何でも求めよ」と言われるためには(ヨハネ15:5-8):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:あなたの神はわたしの神(ルツ記1:15-18):右クリックで保存
『そこでナオミは言った、「ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい」。』(ルツ記1:15)
ルツの弟嫁・オルパが帰って行った先は、自分の民・自分の神の所であった。
モアブの神はケモシュという神であり、自分の願い事をかなえてもらうためには、自分の子を全焼のいけにえとしてささげさせるような神である。(2列王3:27)
オルパは確かに自分の生まれ故郷・モアブに帰り、イスラエルの家へ嫁ぐ以前のような、ある程度の安定した生活を得られたかもしれない。
しかし、永遠における彼女の記録は、ここでおしまいである。
『しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。』(ルツ記1:16)
ルツは、実に素晴らしい信仰告白をしている。
彼女がエリメレクの家へ嫁いで共に過ごした10年弱、イスラエルの神はナオミ達に、幸いではなく、むしろ懲らしめばかりをもたらして来たのを見て来たはずであり、こんな恐ろしい、幸いをもたらさない神は願い下げだ、と思っても仕方無かったかもしれない。
なのに彼女は、このイスラエルの神を選んだ。
主から災いと懲らしめを受けている最中であっても、神の栄光を嫁達に証するナオミの信仰は、本物である。
ナオミは、自分達が背いた結果、このような災いに遭った事を知っていた。
それだからこそ、ルツは、このイスラエルの神こそ真実なお方だと認めたのだろう。
『あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。ナオミはルツが自分と一緒に行こうと、固く決心しているのを見たので、そのうえ言うことをやめた。』(ルツ記1:17-18)
この「もし・・・ならば、主が幾重にも罰して下さるように」という言い回しは、イスラエル独特の強調表現であり、ルツはナオミがそのように言うのを何度も聞いて、まねしたのだろう。
ルツは、このイスラエル人の家に嫁いで以来、ケモシュの神よりも遥かに真実で力強い神に触れ、モアブでは見たこのと無い素晴らしい風習と、その神を信じているナオミの人柄に捕らえられ、この民へと入っていく決意をしたのだろう。
私達も、この真実な神にあって新しく生まれ変わりたいのであるなら、ルツのように、自分の家で信じて来た宗教、家の神、神抜きでやりくりして来た思考パターンなどを、捨て去る決意をしなくてはならない。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)
ルツは、生来の家、国、神を捨て、全く新しい、イスラエルの神の国へと入っていく決意をした。
主は、真実な神である。
主に信頼して御元に来る人は、決して失望させられる事は無い。
エステル - 王の喜びのために宴会を整えよ(エステル5:1-5)
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イスラエル民族が訴えられ、民族が皆殺しにされてしまうかもしれない危機の時、王妃エステルは、王に直訴するために、イスラエル全民族から断食して祈られ、そして彼女自身も、三日三晩の断食と祈りをして整えて、王妃の衣装を身に帯びて、王の御前に出た。通常なら、王の許し無く御前に出るなら、死刑であるのに、彼女は王の好意を受けて、笏が差し伸べられた。
多くの人々に祈られ、命がけで王の前に出たのは、イスラエルの救いを訴えるためだった筈なのに、彼女が王の好意を得、「何でも願い求めよ」とまで言われて、真っ先に願った事は、王のために宴会を設けるので来て下さい、という事だった。しかも、あのイスラエルを訴える者・ハマンも一緒に。(エステル5:3-4)
彼女が最も優先させた事は、願いをくどくど訴える事ではなく、イスラエルの救いという大義名分でもなく、まして、自分達を訴える者を訴え返す事でもなかった。ただ、王の喜びとなる事だった。
今年最初の主日にあたり、どのように歩むべきかを求めた所、エステルのように、王なるキリストの御前に出るに相応しく、まずはキリストの花嫁としての衣装をしっかり身にまとい、そして、王なるキリストの喜びとなる宴会を彼のために設けよ、という事だった。
昨年は、一人ひとりの御言葉の領域が格段に広がった一年であり、ノアにオリーブの若枝を届けたの鳩のように、色々な地域へと御言葉というオリーブを届けるべく、羽ばたいて行った一年であった。
御言葉(ロゴス)に信仰を混ぜ、宣言したことばは「いのち」となり、そのいのちが進み入る所では、死がいのちへと塗りつぶされて行く事を多く見たが、今年は、それをさらに成熟させて行く年であろう。
主は、御言葉に留まるなら何でも欲しいものを求めなさい、と、確かに言われた。(ヨハネ15:7)
私達は欲しいものを求めなさいと言われたなら、何かと、あれを下さい、敵を退けて下さい、などと求めがちだが、ここはエステルに習い、まずは私達の側が、王なるキリストの喜びとなる事を求めるべきである。
エステルは最初、王妃の衣装を身に帯びたように、私達も「キリストの花嫁」という正確なアイデンティティをまず身に帯びる所から始めるのである。その花嫁衣装とは、聖徒たちの正しい行ないである。(黙19:8)
私達は日々、キリストと共に歩んで行く事によってのみ、「正しい行い」を積み立てる事が出来、その一歩一歩が「花嫁衣装」を、一織り一織り紡いで行くことになる。
エステルが王の好意を得、王妃とされたのは、女達の監督官・ヘガイのアドバイスに従い、彼が勧めたものの他は、何一つ求めなかったからであり、それによって彼女は全ての人から好意を受けた。(エス2:15)
私達も日々、聖霊の導きとアドバイスに従い、ただキリストの好まれる飾りを身に帯びるのだ。
その飾りとは、「柔和で穏やかな霊という隠れた人柄」であり、これこそ御前に価値あるものだ。(1ペテ3:4)
エステルは三十日間、王に呼び出されていなかった所を行ったが、私達も、主から忘れられてしまっているように感じる時、正しい行いを身にまとい、柔和で穏やかな霊を飾りとして身に帯びる所から始めるのだ。
そうして王の喜びとなる宴席を用意するのだが、主の喜ばれるごちそうは、御父の御心を行いその御業を成し遂げる事である。(ヨハ4:34)主は、主の御声に聞き従う事ほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれない。御声に聞き従う事、耳を傾ける事こそ、何にも勝る主のごちそうである。(1サム15:22)
主はベタニアの家に好んで行かれたが、主が好まれたのは、マリヤの「御元に座って話に聞き入る事」であって、マルタの忙しい給仕ではなかった(ルカ10:41)。また、主がザアカイの宴席で最も喜ばれたのは、彼が悔い改め、財産の半分を貧しい人達に施し、だまし取った物を四倍にして返す告白をした時だった。
私達という教会を、主をお招きするための「宴会場」とするためには、「主の御声に聞く」という食物を用意し、「悔い改め」、「主の御心を行う」というごちそうを用意する事である。そのようにするなら、主がベタニアの家を好まれ、ザアカイの家に泊まる事に決められたように、主は好んでその教会の「宴会」に来て下さる。
エステルがハマンも宴会に招いたように、その宴会には、私達を訴える者も、同席しているかもしれない。
しかしそのようなハマンを気にしてはならず、ただ王なるキリストに喜んでいただく事を求めるなら、主は荒野に、そして、敵の前で宴を設けて下さる。(イザヤ25:6、詩篇23:5)
主の好まれる宴を設け、そうして主から、荒野で、そして敵の前で宴を設けられる一年でありますように!
礼拝説教メッセージ音声:ナオミの信仰と人柄(ルツ記1:8-14):右クリックで保存
ナオミ達3人は、モアブの野を出立し、100キロ離れたベツレヘムへの帰途にあったが、進み行くにつれ、ナオミの心に重くのしかかってくるものがあった。
義理の娘達とは別れなくない。
しかし、このままこの若き未亡人たちを見ず知らずの土地へ連れて行っても、彼女たちの幸せは、全然見えて来ない。
『ナオミはふたりの嫁に言った、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家に帰って行きなさい。あなたがたが、死んだふたりの子とわたしに親切をつくしたように、どうぞ、主があなたがたに、いつくしみを賜わりますよう。どうぞ、主があなたがたに夫を与え、夫の家で、それぞれ身の落ち着き所を得させられるように」。こう言って、ふたりの嫁に口づけしたので、彼らは声をあげて泣き、ナオミに言った、「いいえ、わたしたちは一緒にあなたの民のところへ帰ります」。』(ルツ記1:8-10)
彼女たちは、ナオミからの別れの促しを、泣きながら断っているので、恐らく彼女たちは、自ら進んでナオミと一緒にイスラエルへ行こうとしたのだろう。
なんと麗しい嫁姑関係だろうか。
普通、嫁と姑の関係は、悪くなる事のほうが多く、しかも、義理の娘たちが外国の女であるなら、尚更のはずなのに。
ナオミは、よほどの人格者だったのだろう。
彼女のその人格の秘訣は、どこにあるのだろうか。
それはやはり、主への信仰にあると思われる。
サムソンは、苦しくなった時になってやっと「主(エホバ)」を呼び求めたものだが、ナオミはそれとは大違いで、「主(エホバ)がいつくしみを賜りますように」「主(エホバ)が落ち着き所を得させられるように」と、主(エホバ)の御名を何度も用いて、嫁達を祝福している。
彼女自身、この10年に起きた事を見ると、大切な人を取り上げてられてばかりで、むしろ主からの災いのほうが多いのに、主を悪く言う事も、恨む事も、決してしておらず、むしろ、「主の御手がわたしに臨んだ」と告白しているため、彼女は、悪いのは神の国を離れた自分達の側であり、主のさばきこそ正しいと認めているのだ。
主は、そのような信仰者を、決して悪いままにはしておかれない。
『しかしナオミは言った、「娘たちよ、帰って行きなさい。どうして、わたしと一緒に行こうというのですか。あなたがたの夫となる子がまだわたしの胎内にいると思うのですか。
娘たちよ、帰って行きなさい。わたしは年をとっているので、夫をもつことはできません。たとい、わたしが今夜、夫をもち、また子を産む望みがあるとしても、そのためにあなたがたは、子どもの成長するまで待っているつもりなのですか。あなたがたは、そのために夫をもたずにいるつもりなのですか。娘たちよ、それはいけません。主の手がわたしに臨み、わたしを責められたことで、あなたがたのために、わたしは非常に心を痛めているのです」。』(ルツ記1:11-13)
嫁たちは、ナオミの人柄に感銘を受け、イスラエルにはナオミのような人がたくさんいると思ったのかもしれない。
しかし律法では、モアブの者は、たとえ10代後の子孫でも、主の会衆に加わってはならない、と書いてあるし(申命記23:3)、このまま娘たちがイスラエルへ来るとしたなら、そこで幸いを得る望みは乏しい。
だから、彼女たちの幸いを思うなら、このままモアブへ戻した方が良いとナオミは思ったのだ。
『彼らはまた声をあげて泣いた。そしてオルパはそのしゅうとめに口づけしたが、ルツはしゅうとめを離れなかった。』(ルツ記1:14)
こうしてオルパは分かれて行ったが、ルツはすがりついて離れなかった。
主は、主の民の最も小さな者、弱い者のうちの一人にした事は、わたしにした事である、と言われる。(マタイ25:34-40)
その報いに漏れる事は、無い。
士師記の荒んだ時代の中、ひときわ輝く珠玉のような信仰者たちは、弱く、無名で、人から見ればつまらない者達だったかもしれない。
しかし主は、そのような彼女達をしっかりと見ておられ、主は彼女たちを通して、イスラエルの王を、ひいては、全世界の救い主を立てられる事に用いられるのだ。