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礼拝説教メッセージ音声:サムエルのはじめての預言 - エリの家への災い(1サムエル記3:11-21):右クリックで保存

主が、サムエルに初めて現れ、告げられた言葉の内容は、育ての親とも言える祭司エリの家に対する災いの預言であった。

『その時、主はサムエルに言われた、「見よ、わたしはイスラエルのうちに一つの事をする。それを聞く者はみな、耳が二つとも鳴るであろう。その日には、わたしが、かつてエリの家について話したことを、はじめから終りまでことごとく、エリに行うであろう。
わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。それゆえ、わたしはエリの家に誓う。エリの家の悪は、犠牲や供え物をもってしても、永久にあがなわれないであろう」。サムエルは朝まで寝て、主の宮の戸をあけたが、サムエルはその幻のことをエリに語るのを恐れた。』(1サムエル記3:11-15)

主のこの言葉は、サムエルに対して、ではなく、エリとその家に向けて主が発せられた、二度目の警告である。
一度目は、直接エリに対して語られたが、その”一度目”から、少年サムエルがある程度成長するくらいの、少なからぬ時が経っていた。
しかしエリはその間、子達が神を汚している事を「抑止(カーハー)」しなかった。(13節)
親は、子が罪を行った時、口先で「そんな事してはダメ」と言うだけでは、足りない。
その罪を「抑止(カーハー)」し、その罪の行動を止めさせなければ、意味が無いのだ。

『しかしエリはサムエルを呼んで言った、「わが子サムエルよ」。サムエルは言った、「はい、ここにおります」。エリは言った、「何事をお告げになったのか。隠さず話してください。もしお告げになったことを一つでも隠して、わたしに言わないならば、どうぞ神があなたを罰し、さらに重く罰せられるように」。そこでサムエルは、その事をことごとく話して、何も彼に隠さなかった。エリは言った、「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」。』(1サムエル記3:16-18)
エリはサムエルに、主からどんな言葉が与えられたのか、それを教えないなら、神が重く罰せられるように、と、かなり厳しい口調で、教えるように命じた。
この事は、サムエルにとって益だった。なぜなら、預言者たるものは、どんなに語りづらい言葉であっても、主が与えて下さった言葉は、何であれ語るべきだからであり、最初にその訓練が出来たからだ。

サムエルが全てを隠し立てせず、全て話し終わった時、エリの「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」と言った。
一見、信心深そうに見える言葉ではあるが、このような「主に食い下がらない姿勢」「主との交わりを断絶してしまうような姿勢」は、滅びる者に共通する性質である。
自分に対する、災いの言葉が与えられたなら、アブラハムやモーセ、ダビデのように、主に赦しを乞い願い、あくまで食い下がるために、主と対話を続けるべきである。(創世記18章、出エジプト記32章、詩篇51編)

エリに対する二度目の警告は、彼にとって意外な人物、彼に仕えている少年・サムエルを通して、為された。
しかし結局、彼らは「どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」と言ったきり、全く改めなかった。
それでも、彼らに「成る」と言われた災いが実現するは、もっと後である。その間、主はずっと、彼らが立ち返る事を待っておられたのだろう。

もし災いの預言が与えられたとしても、それを聞いて、悔い改めるのなら、その災いは実現しないものだ。
イスラエル史上最悪の王・アハブでさえ、預言者エリヤから、主から災いを降されるという預言を聞いた時、断食をし、荒布を着て伏し、打ちしおれてへりくだった結果、主は彼が生きている間は、災いを降さないように、主はして下さった。(1列王記21:17-29)
また、邪悪な町ニネベも、ヨナの説教によって悔い改め、上から下まで断食をし、主の前にへりくだった所、警告されていた災いは降されなかった。
主は、悪者が滅びるのを望まれず、悔い改めて悪から離れるのを待たれるお方だ。(エゼキエル18:23-32)

サムエルが、主から初めて託された言葉は、育ての親に伝えるには、厳しい内容であった。
彼はまだ少年で、祭司エリとその子達が、主の前にどんな悪いことをしたのか、実感も、理解も、出来ていなかっただろう。
しかし、自分が理解できる事であれ、できない事であれ、あるいは幸いな内容であれ、災いの内容であれ、主から与えられた言葉は、そのまま、正確に人に伝える事は、預言者として必須のたしなみである。
彼はこの最初の”預言者”としての仕事を正しく全うした結果、主はさらに彼を用いられるようになった。

『サムエルは育っていった。主が彼と共におられて、その言葉を一つも地に落ちないようにされたので、ダンからベエルシバまで、イスラエルのすべての人は、サムエルが主の預言者と定められたことを知った。主はふたたびシロで現れられた。すなわち主はシロで、主の言葉によって、サムエルに自らを現された。こうしてサムエルの言葉は、あまねくイスラエルの人々に及んだ。』(1サムエル記3:19-21)
祭司エリの時代は、神の宮シロにおいて主のまぼろしが示されるのは、まれになっていた。
サウル王の時もそうであったが、指導者が不従順であるなら、主の示しは得られなくなってしまうのだ。
しかし、主に忠実なサムエルの登場によって、再び主のことばが再び、イスラエルに示されるようになった。

そうして与えられる主の御言葉は、決して虚しく地に落ちるものではない。
必ずいのちを生み出し、主の言い送った事を必ず実現させる。(イザヤ55:10-11)
夢やまぼろしなど「見えるもの」を追い求める人は、騙されやすいが、御言葉によって養われる人は、着実にいのちを伸ばして行く。
そして御言葉によって養う人は、決して誤った導きをする事は無い。

サムエルのように、御言葉によって良く養われ、御言葉によって人を養う皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:サムエルの召命(1サムエル記3:1-10):右クリックで保存

『わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。』(1サムエル記3:1)

サムエルは少年に成長し、神と人とに愛されつつ、主の御前で仕えていたが、祭司エリには、御言葉が示される事も、主からの幻も、まれになってしまっていた。

『神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、』(1サムエル記3:3)
シロに主の箱があった当時、そこはモーセの時代の「幕屋」の形式ではなく、柱がある神殿のような所だったようである。(1:9)
神の箱も手軽に担ぎ出されたりしていたので、当時は、律法で定められた通りではなく、自己流的な神殿だったのかもしれないが、夜の間はともしびを灯す定め(出エジプト記27:21)は守られていたようである。
そこに聖所と至聖所を区切る幕があったかどうかは定かでないが、サムエルは、主の箱の近くで寝る事を常としていた。
そんなある日、彼に突然、主からお呼びがかかる。

『主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。』(1サムエル記3:4-5)
主が呼ばれたのに、サムエルはエリが呼んだと勘違いして、エリの元に走って行った。
主は、夢や幻などで現れる事もあるが、サムエルの場合、誰かが語りかける声のような形で、主からの語りかけを聞いた。
エリとしても、サムエルとしても、何か夢でも見て、勘違いしたのだろう、日常でも有り得る事だとして、この場を収めようとしたが、主は、再びサムエルを呼ばれる。
サムエルは最初と同様、エリの所へ行って、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」と言ったが、エリは「子よ、わたしは呼ばない。もう一度寝なさい」と、同じように返事をした。
お互い、少しおかしいな、くらいは思ったかもしれない。
『サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。』(1サムエル記3:7)
サムエルは、「主に仕え」ていはいた。少年でもできる雑用を働いていたかもしれないが、「主から言葉を受け、それを人に伝える」という「預言者」としての仕事は、当時、エリさえまれだったので、彼はまだ主を知らなかった。
私達も、主が語りかけておられるのに、あるいは主を知らないがゆえに、それを偶然で片付けたり、誰かが何かしたのだろうなどとして、日常の一部として片付けてしまったりする事があるかもしれない。

『主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。』(1サムエル記3:8-9)
サムエルは3度目の事なので、おかしいとは思たであろう。
しかしそれでも、声を無視する事なく、また声に声だけをもって返答するでもなく、顔と顔を合わせて話するために、エリの所へと再び行った。
これは、神の言葉を預かって人に届ける「預言者」として、重要なたしなみである。

それにしても主はなぜ、最初からサムエルに自らを明かさなかったのだろう。
モーセの時のように、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主である」と、最初から自己紹介していたなら、もっと簡単に話が進んだであろうに。
しかし、もしもそうしていたなら、サムエルはエリを何度も起こしに行く事は無かっただろうし、エリも、サムエルに主が現れた、と、強く印象づけられる事も無かっただろう。
人の目に、まわりくどいと思えるような方法を、主が取られる時には、それなりの理由があるのだ。

『主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。』(1サムエル記3:10)
サムエルは、エリに教えられた通りの正しい受け答えをた。
「しもべ」は「聞く」、この姿勢は預言者だけでなく、私達神の民全員に、とても重要な姿勢である。

ヨシュアも、城塞都市エリコを攻略しようとしていた時、一人の人が抜身の剣を持ってこちらに立っていたので、声をかけた。
「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか。」(ヨシュア記5:13)
彼は、自分が話している相手が、主の軍の将だと知った時、サムエルと同じように、正しい対応を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(ヨシュア記5:14)

「わが主は」「しもべに」何を告げようとされるのか、と、ひれ伏し拝して伺う。
そう、主こそ語る側であり、私達こそ「しもべ」、そして聞く側である。
だから、主にいのり倒して、こちらの願いを無理やり聞いてもらおうという態度は、正しいものではない。

昨今の日本も、サムエルやエリの時代のイスラエルのように、主の御声や、御言葉が、公な所で語られる事は、ほぼ無い。
そんな中において、私達キリスト者は、主のしもべとして、また、サムエルのような主の働き人の予備軍として、いつも聞く姿勢を持っていたい。
主は何も、奇跡やしるし、幻などの内でしか語られないものではなく、いつも語られている。
それは、あまりに日常な中なので、最初のサムエルやエリが取ったように、日常に有り得る事として片付けてしまっているかもしれない。
しかし主は、日常の御言葉において、また、牧師の聖書メッセージや、兄弟姉妹との御言葉を交えた分かち合いなどを通して、ひっきりなしにご自身を示しておられる。
そうした主の御声を逃す事が無く、御旨を悟ってその通りに歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エステル - 王に促されたなら敵を殲滅せよ(エステル9-10章)
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今年に入ってから、王の前に相応しく身を整え、宴会を設けるべき事をエステル記から学んでいる。
それをするなら、王がその人を祝福し、敵の面前で宴会が設けられ、勝利し、大いに栄える事を今まで学んで来たが、いよいよ運命の日が訪れる。ハマンが定めたユダヤ人を滅ぼす日、2月13日は、逆に、神の民を滅ぼそうとしていた者達が、滅ぼされた日となった。全ての人はユダヤ人を恐れ、大臣や総督など主だった人達も皆ユダヤ人側についた。なぜならモルデカイが破竹の勢いで勢力を増していたからだ。

その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、今度は王のほうからエステルに、欲しいものは何でも願え、必ず聞き届けられる、と促されて来た。私達も、キリストの御言葉に留まるなら、王なるキリストのほうから、欲しいものは何でも願いなさい、と促される。そこでエステルは、あの優美な口調で王に言う。
「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください。」(13節) 敵は既に首都スサだけでも五百人が殺され、ハマンの子達10人も死んだ。その上なお敵を根絶し、ハマンの子達の死体は木に架けて晒して下さい、と言うのは、やりすぎでは?と思うかもしれない。あの優美なエステルの言葉とは、あまり思えない。
しかし聖書には、容赦せずに、徹底的に滅ぼし尽くすべき事例を、幾つか見つけられるはずだ。
そうすべき時とは、王からの促しがあった場合、すなわち、王なる主が「せよ」と言われた場合である。
そのような時、神の民の敵に対しては、徹底して滅ぼし尽くさなくてはならない。神の民は、やられてもただニコニコ黙っている者ではなく、主に促されたなら、勇敢に戦い、滅ぼすべき相手は滅ぼし尽くすのだ。
その戦いとは、昨今行われている戦争とは全く性質が違う。ほしいままに富や利権を分捕ったり、他を力づくで自分色に塗り替えたりするものではない。実際ユダヤ人は、許されていた分捕りを、しなかった。
神に敵対し、いのちを踏みにじるサタンのわざに対しては、王なる主キリストの許しが得られ、また「滅ぼし尽くせ」と命じられたなら、徹底的に滅ぼし尽くすべきであって、決して容赦してはならないのだ。

そもそもエステルが願ったこの願い、神の民の敵の根絶は、サウル王の時に成されなくてはならなかった。
昔、サウル王が主から命じられた時、その通りにアマレク人を滅ぼし尽くしていたなら、アマレク人の末裔・アガク人ハマンも生まれる事なく、こんな好き勝手をされずに済んでいたのだ。(1サムエル15章)
私達の内から滅ぼし尽くすべき敵とは、肢体に宿る、御霊に敵対する罪や欲望である。(コロサイ3:5-6)
「何もそこまで」「ちょっとくらいは」と思って滅ぼす事を留めていたら、それはすぐに苦い根(ヘブル12:15)を出して蔓延り、サウル王のように取り返しがつかなくなる。サウル王は結局アマレク人にとどめを刺された。
主が滅ぼしなさいと言われたのに滅ぼさないなら、それが罠となり、逆にとどめを刺されてしまう。それは、ヨシュアの時代のアカンがそうだったし、ヨシュア後のイスラエル国も、ヨアシュ王の時代もそうだった。

エステルは、王の前でも敵の前でも、あくまで優美な品性を身に纏い、自分の好む事ではなく王の好む事を為し、そして、王に促しが与えられたなら、大胆に敵の滅びを求めた。私達もそれに見習うべきである。
こうしてエステルの時代、神の民の敵は一網打尽にされ、ユダヤ人は暫く安息と繁栄を享受した。
彼らは安息を得た日12月14日を祝日として定め、プリム祭として現代でも祝っている。
エステル記最後の10章は、後にアハシュエロス王はさらに強力になり、モルデカイも、王の次の位が与えられ、自分の民族のために多くの功績を残した事が記されている。ユダヤ人も安息の内に栄えた。
最後には勝利と、宴会と、永遠の栄光が待っているのだ。その栄誉を受けるための最も最短コースは、へりくだる事であり、神はそのような人を、ちょうど良い時に高くして下さる。モルデカイはまさにそうだった。
安息を得るには、敵を殲滅しなくてはならない。私達の内に住む罪や汚れ、妬みや憎む心など、滅ぼし尽くすべきものが沸き起こった時は、それをキリストにあって捕縛し、服従させなくてはならない。(2コリ10:5)
服従を着る事が、王なるキリストの前に花嫁衣装を着る事である。そして主のために宴会を設けるとは、主の喜ばれるごちそうを用意する事、すなわち「悔い改め」「主の御声に聞き」「主の御心を行う」事である。
そのようにする人には、敵の面前で油注がれ、宴を設けられ、敵が蓄えた栄誉や富を、そのまま引き渡されるのだ。そのように安息の内に栄える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
全能者の御翼の陰に避けどころを求めて(創世記1:1-5)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
不信仰な人々に我慢されるイエス様(マタイ17:14-23):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
何も包み隠さない交わりへの成熟(雅歌7章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(エステル記8章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
勝利の秘訣は、努力や能力ではなく、法則(ローマ7:14-8:2):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:エリの一族への警告(1サムエル記2:27-36):右クリックで保存

主の御前に不実だったエリとその子達に、いよいよ主から警告が通達される。

『イスラエルのすべての部族のうちからそれを選び出して、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って、香をたかせ、わたしの前でエポデを着けさせ、また、イスラエルの人々の火祭をことごとくあなたの先祖の家に与えた。それにどうしてあなたがたは、わたしが命じた犠牲と供え物をむさぼりの目をもって見るのか。またなにゆえ、わたしよりも自分の子らを尊び、わたしの民イスラエルのささげるもろもろの供え物の、最も良き部分をもって自分を肥やすのか。』(1サムエル記2:27-29)
主の使いは、エリに対し「なぜ自分を肥やすのか」と言っている。
彼の子達がした事によって、自分が肥えた部分がやはりあったのだろう。
エリは、主と、主の民よりも、自分の子達を優先させた。
エリの子達は、戒められたのに、行状を改めなかった。
それなのにエリは、彼らを祭司職にそのまま留まらせ、そうして彼らは、全イスラエルに対し、そして主に対して罪を犯させ続けた。

『それゆえイスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。』(1サムエル記2:30)
主は確かに、アロンの子孫に「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と約束をされたが、エリの家は、忠実でなかった。
私達キリスト者も、自分は罪赦されたのだ、信仰によってアブラハムの子孫となったのだ、などと言って、キリスト者としての聖なる務めをないがしろにして、主を侮ってはならない。
主は、石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事がおできになる方であり、悔い改めに相応しい実を結ばずに罪の苦い実ばかり結んでいるとするなら、もみがらのように投げ捨てられ、焼かれてしまうのだ。

ところで、エリは確かにアロンの子孫ではあるが、実は彼が大祭司職をするのは、正当ではない。
エリはアロンの四男・イタマルの子孫であるが、民数記25:10-13によると、アロンの三男エルアザルの子、ピネハスの子孫が、正当な大祭司の職を継ぐ子孫とされており、エリはそれではないのだ。
どういうわけでエリが大祭司になったのかは、定かではない。しかし主は、エルアザルの子ピネハスに与えられた約束を、ずっと後に、実現される。

『見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。あなたの家には永久に年老いた者がいなくなるであろう。・・・そしてあなたの家で生き残っている人々はみなきて、彼に一枚の銀と一個のパンを請い求め、「どうぞ、わたしを祭司の職の一つに任じ、一口のパンでも食べることができるようにしてください」と言うであろう。』(1サムエル記2:31-36)
エリの家に、明確な警告が為された。
「その日が来る」、という内容なので、これはまだ確定ではなく、警告である。
彼らは警告を与えられたのに、この後、行状を改めなかったため、その警告の通りになってしまう。

『しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。』(1サムエル記2:33-34)
この言葉の通り、エリも、彼の二人の息子ホフニとピネハスも、同じ日に死ぬ。(4章)

その死がピネハスの妻に知らされた時にちょうど生まれた子は、イカボデ(「栄光無し」の意)と名付けられ(4:19)、彼の兄であるアヒトブが、その後の祭司の務めを担う事になる。
しかし、アヒトブの子・アヒメレクは、サウル王に言いがかりをつけられ、エリの子孫達や祭司たち85人は、剣によって殺されてしまう事になる。(22章)
こうして、「あなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬ」という預言は成就する。

その時、アヒメレクの子・アビアタルだけが剣を逃れ、ダビデの所に、命からがら逃げて来て、その後、彼はダビデ王によって大祭司に任じられるのだが(22:20、23:6、30:7、1列王記2:27)、結局彼もソロモン王によって罷免され、彼の代わりに、ツァドクの家(ピネハスの子孫)が、大祭司の家系とされる。(1列王記2:35)
こうして「あなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。」「そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。」という預言も、エリの家に成就する事となる。

『わたしは自分のために、ひとりの忠実な祭司を起す。その人はわたしの心と思いとに従って行うであろう。わたしはその家を確立しよう。その人はわたしが油そそいだ者の前につねに歩むであろう。』(1サムエル記2:35)
この、ひとりの忠実な祭司、その家を永遠に確立し、油注いだ者の前を歩むその祭司とは、キリストでなくして、誰だろう。
キリスト(油注がれた者の意)にあって、私達信じる者たちも、祭司職を得ているのだ。

今回のこの箇所は、祭司とされた私達に対しての、戒めである。
祭司職を軽んじているなら、それが取り上げられ、その職は、別の者へと移ってしまうのだ。(使徒1:20)

礼拝説教メッセージ音声:祝福を積み立てるサムエルと滅びを積み立てるエリの家(1サムエル記2:18-26):右クリックで保存

『サムエルはまだ幼く、身に亜麻布のエポデを着けて、主の前に仕えていた。母は彼のために小さい上着を作り、年ごとに、夫と共にその年の犠牲をささげるために上る時、それを持ってきた。(1サムエル記2:18-19)

サムエルの父母は、息子サムエルとは年に一度、捧げ物をする時にしか会えなかったが、母はサムエルのために真心を込めて上着を作り、それを年に一度、サムエルに逢える時に着せてやり、サムエルはそれを身に帯びて御前に仕え、こうして彼は、心も体も霊も健全に育っていった。

『エリはいつもエルカナとその妻を祝福して言った、「この女が主にささげた者のかわりに、主がこの女によってあなたに子を与えられるように」。そして彼らはその家に帰るのを常とした。こうして主がハンナを顧みられたので、ハンナはみごもって、三人の男の子とふたりの女の子を産んだ。わらべサムエルは主の前で育った。』(1サムエル記2:20-21)
祭司は、「子を捧げたほうの妻」すなわちハンナを祝福したのであり、ペニンナではなかった。
ペニンナのように、礼拝という場や捧げ物を、人を煩わせる材料にするような者は、祝福から漏れてしまい、衰えていくのだ。

サムエルは、年に一度しか親に会えず、場所的には離れていたが、愛されている実感と、その愛と真心の実体である手作りの服と、そして親の祈りによって、健全に成長して行った。
それに引き換え、祭司エリの子達は、全く逆の性質を身に付けて行った。

『エリはひじょうに年をとった。そしてその子らがイスラエルの人々にしたいろいろのことを聞き、また会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝たことを聞いて、彼らに言った、「なにゆえ、そのようなことをするのか。わたしはこのすべての民から、あなたがたの悪いおこないのことを聞く。』(1サムエル記2:22-23)
エリは、息子達の悪行を、人づてに「聞いた」という事は、彼らには普段から親子の会話や交わりが無かったようである。
彼らは共に、シロの主の家で祭司の務めをしていたというのに、心は遠くはなれていたようだ。

エリの子達は、人々が主に捧げる捧げものを食い物にしたばかりでなく、会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝るという事さえした。
女たちは、主の御そば近くに居たい心・主に捧げ仕えたい心をもって、幕屋の近くで奉仕していたはずなのに、エリの子らはそれさえ食い物にし、踏みにじった。
祭司の子によるこのような悪行は、アロンの子ナダブとアビフのように、主の御前から火が降って来てもおかしくはない状況であるが、主の憐れみは、まだ注がれていた。

『わが子らよ、それはいけない。わたしの聞く、主の民の言いふらしている風説は良くない。もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」。しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである。』(1サムエル記2:24-25)
エリはこのように戒めはしたのに、子達は、全く親や権威を、そして主を恐れるという事なく、行ないも改めなかった。
大人になってからでは、厳しい言葉で戒めたり、また戒めを受け入れて行状を改めるという事が、中々難しくなってしまう。だから箴言にある通り、子の内から、しっかり御言葉によって訓戒しつつ、教育する事が大事である。
『望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起してはならない。・・・子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言19:18、23:13-)

このように、人々が主に捧げたい心を持って御前に捧げ物をする度に、罪を犯し、人々をつまづかせ、それを戒めても、行ないを改めないからには、もはや、一刻の猶予なく、彼らを祭司の座から取り除けるべきなのに、エリはそうせず、そのまま放置した。
エリは98歳になっても体が重かった(4:18)、という事は、もしかしたら彼も、息子達の持ってくる脂つきの肉に、日常的にあやかっていたのかもしれない。
とにかく彼らはこうして、ますます滅びの炭火を、自分達の頭上に積み上げていく。

『わらべサムエルは育っていき、主にも、人々にも、ますます愛せられた。』(1サムエル記2:26)
サムエルは、このような環境の中であっても、悪く染まる事が無かった。
それは、信仰の父母の御言葉に基づく愛や祈りの故だろうか。あるいは、生まれながら頭にかみそりを当てられず、他の人とは違う、聖別された者という意識ゆえだろうか。
とにかく彼は、主の御前に誠実に仕えつつ育って行った。
私達もサムエルのように、邪悪な周囲に流されず、ただ主を見上げ、自分がキリストにあって聖別された者、神の子とされた者であるという自覚を持ちつつ、自らをきよく保ち続けたい。

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