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礼拝説教メッセージ音声:ダン族の「見える所によって歩む」不信仰(士師記18:1-10):右クリックで保存
『そのころイスラエルには王がなかった。そのころダンびとの部族はイスラエルの部族のうちにあって、その日までまだ嗣業の地を得なかったので自分たちの住むべき嗣業の地を求めていた。それでダンの人々は自分の部族の総勢のうちから、勇者五人をゾラとエシタオルからつかわして土地をうかがい探らせた。すなわち彼らに言った、「行って土地を探ってきなさい」。彼らはエフライムの山地に行き、ミカの家に着いて、そこに宿ろうとした。』(士師記18:1-2)
ダン族には「その日までまだ嗣業の地を得なかった」とあるが、そんな事は無いはずである。
ヨシュア記を読むと、彼らにはヨシュアのくじによって、確かに相続地が割り当てられている。(ヨシュア記19:40-46)
しかしダン族は、情けない事に、原住民によってそこから追い出されてしまったのだ。(士師記1章)
他の部族は原住民を制圧し、完全には追い出し尽くさなかったものの、苦役に復させたりしたのに、ダン族に限っては、その原住民に圧倒されてしまっているのだ。
ようするに、彼らが信仰に立って動こうとしない「霊的怠慢」の結果、彼らは追い出され、定住地を得ずに放浪していたのだ。
『彼らがミカの家に近づいたとき、レビびとである若者の声を聞きわけたので、身をめぐらしてそこにはいって彼に言った、「だれがあなたをここに連れてきたのですか。あなたはここで何をしているのですか。ここになんの用があるのですか」。若者は彼らに言った、「ミカが、かようかようにしてわたしを雇ったので、わたしはその祭司となったのです」。』(士師記18:3-4)
ダン族の斥候たちは、レビびとの「声を聞き分け」たので、色々と質問している。
誰に連れて来られ、ここで何をしていて、何の用があるのか、と。
このレビ人は一見、祭司風の格好をして、礼拝風の事をしているのだから、別に、根掘り葉掘り聞く程でもないであろうに、そこまで彼に興味を持ったのは、彼の言葉の内容、あるいは、その礼拝形式が、彼らにとって普通ではなかったのだろう。
もしかしたら彼の礼拝形式が、何か斬新で、いかにもご利益ありげに見えたのかもしれない。
『彼らは言った、「どうぞ、神に伺って、われわれが行く道にしあわせがあるかどうかを知らせてください」。その祭司は彼らに言った、「安心して行きなさい。あなたがたが行く道は主が見守っておられます」。』(士師記18:5-6)
このレビ人は「主が」と言って、エホバの御名を出しているが、それにしても随分と素早い返答である。
正当な神の預言者であるなら、まず主に伺うはずである。
モーセは、過越祭をやむを得ない理由で祝えなかった人々から質問された時、『しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう。』(民数記9:8)と言ったし、エレミヤも、主の御心を求められた時は、10日間主の御前に出て御心を求めた。(エレミヤ42章)
御言葉の根拠も無しに、あるいは主に伺いもせずに、幸いな言葉を即答したり、幸いな預言を乱発するような人は、要注意である。
『そこで五人の者は去ってライシに行き、そこにいる民を見ると、彼らは安らかに住まい、その穏やかで安らかなことシドンびとのようであって、この国には一つとして欠けたものがなく、富を持ち、またシドンびとと遠く離れており、ほかの民と交わることがなかった。』(士師記18:7)
このライシという場所(後にダンの名が付される)は、聖書地図を確認すると、イスラエルの領土の中でも北のはずれに位置する。
それで、「ダンからベエル・シェバまで」という言葉が、イスラエルの領土の最北端から最南端までのイスラエル全領土を意味する言葉となった。
彼らは、どういうわけで、その地に目を留めたのか。
『かくて彼らがゾラとエシタオルにおる兄弟たちのもとに帰ってくると、兄弟たちは彼らに言った、「いかがでしたか」。彼らは言った、「立って彼らのところに攻め上りましょう。われわれはかの地を見たが、非常に豊かです。あなたがたはなぜじっとしているのですか。ためらわずに進んで行って、かの地を取りなさい。あなたがたが行けば、安らかにおる民の所に行くでしょう。その地は広く、神はそれをあなたがたの手に賜わるのです。そこには地にあるもの一つとして欠けているものはありません」。』(士師記18:8-10)
彼らが、そこに攻め上ろう、と言った根拠は、その地の人々は弱そうで、孤立しており、たやすく攻め落せそうだというのが理由だ。
彼らは取って付けたように「神はそれをあなたがたの手に賜わる」と言っているが、そこは主がヨシュアを通して示された地ではなかったはずだ。
かつて、ヨシュアとカレブは、いかに敵が巨体であろうと、城壁を持っていようとも、主が共におられるのだから、必ず攻め落とせる、と、信仰によって攻撃を仕掛け、そして実際に攻め落とした。
しかしダン族の考えは、その全く逆である。
その地は相続地として示されていないし、しかも、相手が弱そうだから攻めていこう、と言うのである。
随分情けない。
信仰者の歩みは、見える所によってではなく、御言葉に信頼し、まだ見ていない主の祝福を勝ち取って行くものである。
私達はダン族のようでなく、ヨシュアやカレブのように、御言葉の約束を信じ、積極的に祝福を勝ち取っていくものでありたい。
ヘロデ大王 - 希望の星が輝き登る前の大きな闇(イザヤ9:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
本日より待降節が始まる。この時期、主イエスのご降誕にまつわる人物達を見て行きたい。
主のご降誕のしるしが現れたのは、ヘロデ大王が支配している時代だった。その時代のイスラエルは縄目に縛られたような暗い時代であった。今回は、このヘロデ大王に至るまでの時代背景を学びたい。
旧約聖書の最後が記されてから主イエス様がお生まれになるまでを「中間時代」と呼び、その間、主からの預言が一切無かったため、「空白の四百年」とも呼ばれている。バビロン捕囚後のイスラエルは主の憐れみを受け、ペルシヤ王クロスの勅令の元、イスラエル人はエルサレムに帰還し、神殿を建て、礼拝する事が許され、霊が奮い立たされた人達によって、礼拝が回復した。(エズラ1章)
ペルシャ支配下の200年程の時期は、比較的平和な時代であったが、アレクサンドロス大王がペルシア帝国を打ち破り(BC334)、ユダヤはその属州とされ、ギリシャ文化(ヘレニズム文化)を普及させられた。
しかし彼は32歳余の若さで病没し、その後4人の王が台頭した。これらの出来事は、実はダニエルがBC550頃に預言している。(ダニエル8:8-12) この4人の王は4本の角として示され、その内の一本は麗しの国(イスラエル)に向かって高ぶり、常供のささげ物は取り上げ、礼拝が汚される事も預言されている。
その礼拝を汚す「一本の角」はシリヤの王アンティオコス・エピファネス(BC175-164年)と思われる。
彼はエルサレムを占領すると、ユダヤを強制的にギリシヤ化しようとし、律法を焼き捨て、神殿はゼウス神を祭る所とし、豚や不浄な動物が捧げられ、娼婦が戯れる場とされた。彼の命令に背いた者は死刑に処せられ、多くの祭司やイスラエル人は、御言葉に背くよりは死を選んだ。(外典 1マカベヤ書1-6章)
そこで人々は祭司マッタティヤを指導者としてマカベアの反乱を起こした。エピファネスは彼らの反乱を抑える事が出来ず、ついにBC165年、エルサレムを取り戻し、3年中断されていた礼拝が再開できた。
これを記念する「宮きよめの祭(ハヌカーの祭)」(ヨハネ10:22)は、今日まで続いている。
この時代、マッタティアの息子たちが次々と指導者となり、ユダヤは独立国となって「ハスモン王朝」(BC142-63)が成立したが、その子孫達は兄弟同士の骨肉の争いをするようになり、漁夫の利を得たローマ帝国によって占領され(BC63年)、約80年間の短いユダヤ独立の時代は終った。ちなみにその反対勢力として、律法と多くの言い伝えを敬虔に守ろうとする「パリサイ派」が起こったのも、この時期とされている。
こういった混乱の中、ローマの権力を背景にして頭角を表して来たのが、イドマヤ人(エドム人)・ヘロデ大王(BC37-4)だった。彼の政治手腕、特に、保身・立身の感覚は天才的で、ローマやユダヤの権力抗争で様々な危機はあったものの、いつも的確に身をこなし、有利な地位を得て行った。
権力を得た彼は、特に建設事業に力を入れ、ユダヤ人の機嫌を取るために建造したエルサレム神殿は壮大で美麗を極めた。パリサイ人はヘロデに反発したが、神殿建設は評価し、彼らが記したユダヤ人の伝承・タルムードには「ヘロデの神殿を見るまでは美しいものを見たと言うなかれ」と記されている程である。
しかし彼は猜疑心が深く、自分の権力を脅かす者は愛妻であろうと息子であろうと殺害するような者である。
主の預言が途絶えて久しく、その間受けてきた他国からの虐げと、自国内部から沸き起こる罪の故に、イスラエルは疲弊し、こうして人々の心にダビデの末裔として来られるメシヤを待望する心が深まって行った。
次の賛美は、実にその心境を表しているだろう。「久しく待ちにし主よ、とく来たりて、み民のなわめを解き放ちたまえ。あしたの星なる主よ、とく来たりて、お暗きこの世にみ光をたまえ。ダビデの裔なる主よ、とく来たりて、平和の花咲く国をたてたまえ。主よ、主よ、み民を救わせたまえや。 」
東方の博士達が、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を見た時、どれ程、心踊ったであろうか。
だから彼らは、遠い旅を厭わず、宝物を携え、礼拝に行くのだ。彼らはエルサレムのヘロデ大王の所に行った時、悪に染まった彼とその取り巻きしか見いだせず、メシヤは見つけられなかったが、神は主を慕う礼拝者のために、星を動かしてでも便宜を図り、そしてヘロデのような邪悪な者から回避させ守って下さる。
ダニエルに預言された暗き時代の後に、希望の星が現れたように、現代のこの暗き時代の後に、キリストは必ず再び来られる。待降節のこの時、主の現れを心して待ち望みたい。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
目をえぐり出す(箴言30:17):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存
人の言い伝えによって御言葉を空文にする者(マタイ15:1-9)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-11-29 1:58
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人の言い伝えによって御言葉を空文にする者(マタイ15:1-9):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愛らしい鳩よ、出ておいで(雅歌2:8-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花婿の元へ導かれる花嫁(創世記24:62-67):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主不在の礼拝ごっこ(士師記17:7-13):右クリックで保存
ミカの家には、刻んだ像と鋳た像と、自前の神殿とがあったが、祭司がいなかったため、息子の一人を祭司として立てていた。
そんな彼の所に、ユダのベツレヘム出身の一人のレビ人が訪れる。このレビ人は、18章30節によると、モーセの孫ゲルショムの子、ヨナタンである。
『ミカは彼に言った、「あなたはどこからおいでになりましたか」。彼は言った、「わたしはユダのベツレヘムのレビびとですが、住むべきところを尋ねて旅をしているのです」。ミカは言った、「わたしと一緒にいて、わたしのために父とも祭司ともなってください。そうすれば年に銀十枚と衣服ひとそろいと食物とをさしあげましょう」レビびとはついにその人と一緒に住むことを承諾した。そしてその若者は彼の子のひとりのようになった。』(士師記17:9-11)
ミカとしては「レビ人」という霊的地位の高い人を家の祭司に招き入れる事が出来、また、このレビ人にしても、安定した職場と住居が与えられ、互いの利害が一致してめでたしめでたし、と言えるように思えるかもしれないが、これもまた、主の御心から離れた宗教的自己満足である。
そもそも、家に自前の神殿がある事や、銀二百枚程度で作った偶像を天地を創られた主に置き換える事自体、間違いであるのだが、祭司として主の前に立てるのは、モーセの子孫のレビ人ではなく、大祭司アロンの子孫であるはずだ。(民数記3:10)
『ミカはレビびとであるこの若者を立てて自分の祭司としたので、彼はミカの家にいた。それでミカは言った、「今わたしはレビびとを祭司に持つようになったので、主がわたしをお恵みくださることがわかりました」。』(士師記17:12-13)
彼は、主(エホバ)がわたしに恵みをくださると言っているが、それは自分の望み通りの礼拝王国が完成した事の喜びであって、主の御心が成った事を喜んでいるのではない。
そして、このレビ人も、そこそこ良い条件の所に就職できた事に満足しているのであり、主の御心が成る事を気にも留めていない。
現に彼は、後に、より条件の良い就職先が出来れば、そちらのほうへホイホイと行ってしまうのだ。
現代でも、同じことがキリスト教会で行われないように注意しなければならない。
ある程度満足の行く働き場に”就職”して、主の御心を全く求めないミニスターと、ちょっとした霊的先生を自分の所に迎えた事に満足し、御言葉や御旨には一切無関心な信徒集団。
その両者の利害関係が一致して、主の御旨を外した礼拝ごっこで盛り上がる。
そこには、人間的な盛り上がりはあっても、主の臨在も、導きも、霊的満たしも、何も無い。
ミカは、レビ人を迎えた事を喜んだ。これで、全ての役者とアイテムが揃った、と。
私達キリスト者は、誰か「人」を迎えた事や、自分の望むアイテムが揃った事を喜ぶ者ではなく、キリストが私達に素晴らしい事をして下さった事、罪深い自分自身の罪が主の血潮によって清められ、天に私達の名が記され、永遠のいのちを獲得できた事をこそ喜び、そして、これからの道もキリストにあって最善へと導かれ、生かされて行ける事を喜ぶべきである。
私達はキリストの花嫁として、キリストの喜びとなるべく、日々自分自身を素晴らしいお方の花嫁として相応しく整えて行くべきだ。
キリストの名を大いに使って、キリスト不在の「礼拝ごっこ」というどんちゃん騒ぎをする人は、いつの時代にもいる。
私達は、御言葉のともしびに照らされて御旨に適った歩みをし、主の喜ばれる霊とまことによる礼拝をするものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:誤った知識を元に歩む時代(士師記17:1-6):右クリックで保存
『ここにエフライムの山地の人で、名をミカと呼ぶものがあった。』(士師記17:1)
17-18章では、ミカという人物を中心に、ダン族の取った行動が記されている。
ミカの名の意味は「主に近い者は誰か?」であるが、彼周辺の人々を見ていると、一体、主に近い者は誰かいるのだろうか、と思えて来る。
ミカは、母の銀を盗んだ。
『彼は母に言った、「あなたはかつて銀千百枚を取られたので、それをのろい、わたしにも話されましたが、その銀はわたしが持っています。わたしがそれを取ったのです」。母は言った、「どうぞ主がわが子を祝福されますように」。』(士師記17:2)
銀千百枚といえば、デリラにサムソンを陥れさせる為にペリシテ人の領主ひとりが彼女に贈ったのと同じ額で、それはかなりの額である。
彼は自分のした事を正直に告白したが、それは、母がかわいそうと思ったからでもなく、自分が悪いことをして後悔したからでもなく、母が呪ったのが怖かったからだ。
彼の特徴は、どうでもいい所で信心深く、かんじんな所を外している所である。
母は、息子が正直に告白した事を良しとし、何の懲らしめも無いまま、祝福している。
現代日本では美談のように見えるが、律法に照らすなら、意図的に人のものをかすめる事で”主に”不正をなした場合、そのかすめたものの全部、プラス、その五分の一を、罪過のためのいけにえを捧げる日に返さなくてはならない。(レビ記5章)
しかし母は、息子を懲らしめる事も無しに、呪いを取り下げて祝福している。それは神の民の性質ではない。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:8)
続いて彼らは、以下のやり取りをしているのだが、どう思うだろうか。
『そして彼が銀千百枚を母に返したので、母は言った、「わたしはわたしの子のために一つの刻んだ像と、一つの鋳た像を造るためにその銀をわたしの手から主に献納します。それで今それをあなたに返しましょう」。ミカがその銀を母に返したので、母はその銀二百枚をとって、それを銀細工人に与え、一つの刻んだ像と、一つの鋳た像を造らせた。その像はミカの家にあった。このミカという人は神の宮をもち、エポデとテラピムを造り、その子のひとりを立てて、自分の祭司とした。』(士師記17:3-5)
一見、信心深そうな家族に見えるかもしれない。
しかし、モーセ五書を学んできた方なら、いくつも問題点がある事に気づくだろう。
母は「主に奉献します」と言った。しかし、主に奉献するものの内訳は、刻んだ像と鋳た像である。
そのような像は、主の最も忌み嫌われるものである。
『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:4-6)
彼らは「こうすれば主に喜ばれる事だ」と根拠なく定め、それを実行し、しかし実の所、それを行う事によって主を怒らせているのだ。
それに彼らは、自分の家に神の宮を持っているが、それも違反である。
神の宮は、主が定めた場所でなくてはならず(申命記12章)、それ以外の場所に祭壇を築く事は、主への反逆に等しい行為である。
当初のイスラエルは、相手がたとえ一緒に戦ってきた兄弟であったとしても、それを犯すとするなら、徹底抗戦をも辞さない姿勢があった。(ヨシュア記22章)
また、ミカは彼の子の一人を祭司に任命しているが、それも違反である。
祭司は、アロンの子孫のみに許されているものであり、誰も彼もがなって良いものではない。
『あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう」。 』(民数記3:10)
これを犯したイスラエルの王・ヤロブアムは、わずか2代で滅びてしまった。(1列王記13:33-34)
また、今回の個所だけでも、十戒をいくつも破っている。(ほかの神々があってはならない、偶像を造ってはならない、父と母を敬え、盗んではならない)
それなのに、彼らは自分で「信仰深い」と思っているようだ。
『そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。』(士師記17:6)
この個所は、士師記を一言で表す言葉であり、災い多き荒んだ時代に入る元凶である。
私達は、御心を外した所でいくら頑張っても、苦労しても、無駄で、逆に主を怒らせるだけである。
知識が無く、勝手に決め付けてしまう人は、このような過ちに陥ってしまう。
『わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。』(ローマ10:2-3)
御言葉による正しい知識に基づいて、的を射た歩みをして行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:サムソンの最後(士師記16:23-31):右クリックで保存
デリラに力の秘密を明かして、髪を剃られてしまったサムソンは、力を失い、目を抉られ、足かせに繋がれて、臼ひきをさせられるという、屈辱の日々を味わっていた。
『さてペリシテびとの君たちは、彼らの神ダゴンに大いなる犠牲をささげて祝をしようと、共に集まって言った、「われわれの神は、敵サムソンをわれわれの手にわたされた」。民はサムソンを見て、自分たちの神をほめたたえて言った、「われわれの神は、われわれの国を荒し、われわれを多く殺した敵をわれわれの手にわたされた」。』(士師記16:23-24)
彼らは、自分達が拝む偶像の神・ダゴンがサムソンに勝った、と言っている。
しかし真相は、サムソンは、偶像の神に勝てなかったのではなく、女の誘惑に勝てなかったのであり、サムソンのイスラエルの神である主に対する不実が原因で、彼から主の力が取り上げられたのである。
神に仕えるはずの者が、不実を犯す事によって、神の御名が貶められてしまう、という事は、大いに起こりうる事だ。
『彼らはまた心に喜んで言った、「サムソンを呼んで、われわれのために戯れ事をさせよう」。彼らは獄屋からサムソンを呼び出して、彼らの前に戯れ事をさせた。彼らがサムソンを柱のあいだに立たせると、サムソンは自分の手をひいている若者に言った、「わたしの手を放して、この家をささえている柱をさぐらせ、それに寄りかからせてください」。その家には男女が満ち、ペリシテびとの君たちも皆そこにいた。また屋根の上には三千人ばかりの男女がいて、サムソンの戯れ事をするのを見ていた。』(士師記16:25-27)
その建物は、屋根の上にも三千人ばかりを収容できたのだから、おそらく、万単位の人が入れる劇場的な施設だったのだろう。
サムソンは、大勢の人々の前で戯れ事をさせられ、笑われ、屈辱を受けているというのに、彼は、自分の手をひく若者一人を振りほどく事さえ出来ずにいた。
主の力抜きの彼は、それほど、力が弱かったのである。
『サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。』(士師記16:28)
サムソンが主に呼びかけたのは、聖書の記述上では、これが二回目である。
一度目は、ろばのあご骨で千人を撃ち殺し、死にそうになった時だった。
普段は主を呼びもせず、与えられている主の力は、自分の肉欲を満たすためにだけ用いて来た彼だが、その、わずかな呼びかけに主は答えてくださる。
まことに主の真実は大きく、主の憐れみは尽きない。
『主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。』(哀歌3:22-33)
彼は、主への不従順を重ねたあげく、決して手放してはならぬものを手放してしまった。
それ故、この哀歌の言葉の通り、彼はくびきを負わされ、強制的に口をちりにつけざるを得ない状況に落とされ、髪が伸びるまで、打つ者にほおを向けざるを得ない状況に陥れられた。
そうして彼は学んだ。自分がして来た事がいかに愚かであったかを。
『子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。』(箴言5:7-14)
彼は、主の戒めを軽んじ、父母の訓戒も無視して、異邦の女をいだいて離れなかった。
それでこの箴言の言葉どおり、無慈悲な者に渡され、その力という資産は奪われ、他国の者の家に引きずり出されて行ったが、もうこの時は、彼を戒めた父・マノアは他界していた。
自分はなんという愚かな、取り返しの付かない事をしてしまったのだろう、と、嘆いたに違いない。
『そしてサムソンは、その家をささえている二つの中柱の一つを右の手に、一つを左の手にかかえて、身をそれに寄せ、「わたしはペリシテびとと共に死のう」と言って、力をこめて身をかがめると、家はその中にいた君たちと、すべての民の上に倒れた。こうしてサムソンが死ぬときに殺したものは、生きているときに殺したものよりも多かった。』(士師記16:29-30)
生まれる以前から、士師として選ばれ、ナジル人として特別な任務を受けた彼であったのに、なんと悲しい最後であろう。
いかに主から選ばれた人であれ、身勝手な罪の内を歩むなら、このようになってしまうのだ。
それでも彼は士師として数えられており、そして彼が最後の士師だった。
『やがて彼の身内の人たちおよび父の家族の者がみな下ってきて、彼を引き取り、携え上って、ゾラとエシタオルの間にある父マノアの墓に葬った。サムソンがイスラエルをさばいたのは二十年であった。』(士師記16:31)
士師記の時代は、まだまだ続く。
そして、主の御教えから離れ続けているイスラエルは、さらにさらに悪い方へ落ち込んでいく。
礼拝説教メッセージ音声:奪われてしまった力(士師記16:18-22):右クリックで保存
『デリラはサムソンがその心をことごとく打ち明けたのを見、人をつかわしてペリシテびとの君たちを呼んで言った、「サムソンはその心をことごとくわたしに打ち明けましたから、今度こそ上っておいでなさい」。そこでペリシテびとの君たちは、銀を携えて女のもとに上ってきた。』(士師記16:18)
今まで彼女は、サムソンを起こす時、ペリシテ人は奥の部屋に隠して、安全を図っていた。つまり彼女は今まで、サムソンを完全には信用していなかったのだ。
しかし今回、彼女はペリシテ人の領主達を呼び寄せ、領主たちもまた銀を持って来た。彼が本心を打ち明けたと、それほど確信したのだ。
サムソンが本心を打ち明けるやいなや、銀を求める。それが彼女の本性だった。
彼女は最初からサムソンを愛してなどいなかったし、サムソンにあれだけの力を与えて下さった主を恐れる心も無かったし、そんな事よりも、目先に入る大金のほうが大事だったのだ。
同じように、滅ぼす者、サタンに属する者は、皆そのようなもので、はじめから人に何の益ももたらそうとはしないものだ。
『女は自分のひざの上にサムソンを眠らせ、人を呼んで髪の毛、七ふさをそり落させ、彼を苦しめ始めたが、その力は彼を去っていた。』(士師記16:19)
サムソンは、女の膝枕で眠らされている間に、力の源を削ぎ落とされてしまった。
私達も、罪の誘惑の中に眠らされてしまう時、大切なものを奪われてしまう。
サムソンは、自ら髪を剃ったのではなく、眠らされている間に他人に剃られてしまったように、私達もたとえ心は燃えていても、罪や誘惑に眠らされてしまうなら、いつの間にか他人に奪われてしまうのだ。
『わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。』(箴言5:20)
『子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。』(箴言5:7-10)
彼は、大切な尊厳を、無慈悲な者に渡してしまい、その資産は奪われてしまった。
遊女に限らず、あらゆる誘惑から自分自身を守るには、そこに近づかない事、身を遠くする事に限る。
『そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。』(士師記16:20)
彼は「いつものように」出来ると思っていた。
彼は、彼女は秘密を誰にも打ち明けないと思っていたのだろうか。あるいは、たとえ髪を剃られてしまっても、この力は奪われないのではないか、今までどおりではないか、と思っていたのだろうか。
現実は、力は去ってしまった。
罪を犯し続けても、いつまでも罰せられない、と思っているだろうか。
いや、罪の秤目が満ちた時、必ず報いを受けてしまうのだ。
『そこでペリシテびとは彼を捕えて、両眼をえぐり、ガザに引いて行って、青銅の足かせをかけて彼をつないだ。こうしてサムソンは獄屋の中で、うすをひいていたが、その髪の毛はそり落された後、ふたたび伸び始めた。』(士師記16:21)
目をえぐられ、足かせをつけられ、臼を引くという女の仕事をさせられている。それは実に屈辱的な事である。
バビロン捕囚直前のユダの王・ゼデキヤも、全く同じように、家臣たちには逃げられ、子供たちは目の前で殺され、彼自身は目をえぐられ、青銅の足かせをかけられて、バビロンへ引いて行かれた。(2列王記25:1-7)
ゼデキヤにもサムソンにも共通している事は、罪に罪を重ね、両親や預言者の諭す言葉を聞いても無視し、主の言葉をないがしろにし続けた事であり、その末路は、目を見えなくされ、捕縛され、無慈悲な者達の只中へ連行され、辱めを受ける事である。
『それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。・・・公平を望んでも、きたらず、救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。』(イザヤ59:9-12)
しかし、主のあわれみは尽きない。
バビロン捕囚には70年が定められていたように、サムソンにも、再び髪の毛が生えて来るのだ。