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「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」に陥る人(申命記28:36-48)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 申命記
- 執筆 :
- pastor 2014-4-9 21:45
礼拝説教メッセージ音声:「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」に陥る人(申命記28:36-48):右クリックで保存
御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者が受けるべき「のろい」の数々が示されているが、それらを受けても、なお自分の道を曲げず、主に立ち返らない人へののろいは、さらにひどくなって行く。
『主はあなたとあなたが立てた王とを携えて、あなたもあなたの先祖も知らない国に移されるであろう。あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう。あなたは主があなたを追いやられるもろもろの民のなかで驚きとなり、ことわざとなり、笑い草となるであろう。』(申命記28:36-37)
こののろいは、何百年も後に現実のものとなってしまった。有名なバビロン捕囚である。
詩篇137篇は、一人のユダヤ人が、バビロンで余興のネタにされ、笑い草にされている様が、示されている。
モーセは、もし主の民が、主の御声に聞き従わない事を続けているなら、このようになってしまう事を、何百年も前から警告していたのに、人々はきっと、それらの御言葉を、何か大げさなおどしだとか、誰かが気まぐれに書いたものだとか、思っていたのかもしれない。実際、聖書をそのように評価している人は、いる。
しかし、そのように御言葉を軽んじている人には、実際に、これらののろいが振りかかってしまうのだ。
『あなたが多くの種を畑に携えて出ても、その収穫は少ないであろう。いなごがそれを食いつくすからである。あなたがぶどう畑を作り、それにつちかっても、そのぶどう酒を飲むことができず、その実を集めることもないであろう。虫がそれを食べるからである。あなたの国にはあまねくオリブの木があるであろう。しかし、あなたはその油を身に塗ることができないであろう。その実がみな落ちてしまうからである。
むすこや、娘があなたに生れても、あなたのものにならないであろう。彼らは捕えられて行くからである。あなたのもろもろの木、および地の産物は、いなごが取って食べるであろう。』(申命記28:38-42)
御声を無視し御言葉に反する人は、ますます収入が少なくなる。なぜなら、彼らが稼いだ労役の実は、全て、虫や他人に持って行かれてしまったり、立ち消えしてしまうからだ。
まさに、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」状態である。
ちなみに、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」の歌を作った石川啄木は、曹洞宗住職の家の生まれである。
働いても一向に暮らしは楽にならず、お金を借りる事はあっても、貸す事は無く、病弱で、早死にし、子を産んでも三代続かずに家が絶えてしまった彼の家は、残念ながら、偶像礼拝をしている人はこのようになる、という聖書の法則が、まさしく実体化してしまった形だ。
多くの日本人は、彼のこの歌に共感を覚える。働いても働いても楽にならない事が多いからだが、残念ながら、偶像礼拝をしている限り、聖書が示す呪いの法則から逃れる術は、ない。
唯一救われる道が、悔い改めてイエス様を信じる事だ。
私達はこの偶像崇拝の多い日本という国に使わされている者としてうめき、祭司として執り成し祈るべきだ。
『あなたのうちに寄留する他国人は、ますます高くなり、あなたの上に出て、あなたはますます低くなるであろう。彼はあなたに貸し、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となるであろう。』(申命記28:43-45)
これは12-13節の逆である。
主に聞き従わず、あくまで自分の好む道に固執するなら、人に借りるばかりで返す事が出来ず、いつも下っ端で、いつまでも上に上がる事はできないのだ。
なぜ、これらののろいが降りかかるか。
その理由は、既に何度も聞かされている通り、主の声に聞き従わず、主から命じられた戒めと定めとを守らなかったからである。(申命記28:15,45)
『あなたがすべての物に豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えないので、あなたは飢え、かわき、裸になり、すべての物に乏しくなって、主があなたにつかわされる敵に仕えるであろう。敵は鉄のくびきをあなたのくびにかけ、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:47-48)
物が豊かになる事を、祈り求める人は、多い。
しかし、たとえその祈りが聞かれて、物が豊かに与えられたとしても、その人に、主への感謝が無く、主を喜ぶ感性が無いなら、何もならない。
主は逆に、そのような人を、飢えさせ、渇かせ、裸にし、すべての物に乏しくし、敵に仕えるようになり、ついには滅ぼされる。
なぜなら、私達にとって重要な人生の目的は、持ち物が豊かになる事ではなく、全ての祝福の源であり、全てのいのちの源であられる主と、愛と喜びの関係を築く事だからである。
礼拝説教メッセージ音声:皮膚病、錯乱、負け続け、奪われ続ける呪い(申命記28:25-35):右クリックで保存
御胸に逆らって歩む者、すなわち、御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者の受けるべき「のろい」は、実に惨憺たるものばかりだった。
しかし、それらを受けても、なお自分の道を曲げず、主に立ち返らない人に対するのろいは、まだまだ続く。
『主はあなたを敵の前で敗れさせられるであろう。あなたは一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去るであろう。そしてあなたは地のもろもろの国に恐るべき見せしめとなるであろう。またあなたの死体は空のもろもろの鳥と、地の獣とのえじきとなり、しかもそれを追い払う者はないであろう。』(申命記28:25)
これは7節「彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去る」の、真逆である。
主の御言葉に逆らう人は、敵に勝つ事は出来ない。
それも、「一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去る」と、実に”派手”な負けっぷりをし、その死体はさらされ、野の獣や猛禽類についばまれてしまう。
列王記や歴代誌を見ると、実際にイスラエルの歴史で、この事は何度もあった事が分かる。
『主はエジプトの腫物と潰瘍と壊血病とひぜんとをもってあなたを撃たれ、あなたはいやされることはないであろう。』(申命記28:27)
主が病で体を打つ時、皮膚に疾患を現す事が、多い。
その人の外見や皮膚にありありと現れる症状を、人が見る時、この人はやはり、その強情を捨てなかった報いを、主から受けたのだな、と、分かるのである。
実際、ミリヤムやウジヤ王は、主が立てた権威や指導者に逆らった時に、すぐにツァラアト(らい病)が現れ、それを見た人達にとって戒めとなった。
もちろん、これらの症状が出た人イコール御言葉に反した人とは限らないが、御言葉を軽んじ、主に逆らい続ける人には、100%、何かしらののろいの兆候が現れる事は間違いない。
そういう人は、外見的な疾患だけでなく、心の疾患にも侵される。
『また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう。あなたは盲人が暗やみに手探りするように、真昼にも手探りするであろう。』(申命記28:28-29)
彼らは、真理に対して目が見えなくなるため、本質を外した歩みに陥り、何をしても、とんちんかんであり、常に何かに怯えている。
サウル王は、頑なな道を改めなかったため、主からの悪い霊にいつも怯え、狂ったような行いをした。
御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者は、いかに物持ちであったとしても、ただただ人にかすめ奪われるのみである。
具体的には、自分の愛する異性や伴侶が奪われ、自分の住まいが奪われ、仕事場が奪われ、また、働いて蓄えた資産が奪われ、そして、自分の愛する息子や娘が、目の前でどんどん他人に奪われていくのに、それをただ見ているだけで、どうする事もできず、ついには、それらを慕い求めて狂うまでになる、と書かれてある。(申命記28:29-34)
『主はあなたのひざと、はぎとに悪い、いやし得ない腫物を生じさせて、足の裏から頭の頂にまで及ぼされるであろう。』(申命記28:35)
足の先から頭のてっぺんまで、癒しがたい腫物のために、特に、膝や脚が打たれるのだ。
もし、これらの疾患や災いが続き、栄える事なく、負け続け、ただ奪われているサイクルに陥っているなら、今一度、御言葉に照らし合わせ、御声に聞き従わない所が無かったか、御言葉を守り行わなかった所は無かったか、自分自身を省みるべきである。
主日の礼拝や、主への捧げ物、聖徒の交わりを、軽視していなかったか。
主を敬うと言いつつも、周囲に妥協し、偶像や占いの類を自分の所に持ち込んでいないか。
父や母を軽んじていないか。憎んでいないか。
性的な罪なや、盗む事、うそをつく事などが、日常的になっていないか。
兄弟姉妹を赦さず、執拗に憎しみを握りしめていなかったか。
あるいは、かつて主から「この道を行け」と示されていたのに、それを嫌がって、自分のしたい道に歩んだままではなかったか。
自分は祝福と呪いのどちらを受けているか、という問がある時、呪いのほうを受けている、と思い当たる人は、今一度、御言葉に照らすべきである。
主に対する姿勢が正しいか、御心にかなった道を正しく歩んでいるかをチェックし、思い当たる御言葉が示されたなら、すぐにでも、主の怒りを引き起こすものを捨て去り、道を改めるアクションを起こすべきである。
礼拝説教メッセージ音声:のろいの条件(申命記28:15-24):右クリックで保存
『しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。』(申命記28:15)
申命記28章の15節以降、68節までは、御胸に逆らって歩む者が受ける「のろい」の明細が、こと細かに記されている。
祝福されるための条件は、実にシンプルだったが、その逆の、呪われるための条件も、実にシンプルで、それは、御声に聞き従わない事、御言葉を守り行わない事である。
『あなたは町のうちでものろわれ、畑でものろわれ、あなたのかごも、こねばちものろわれ、あなたの身から生れるもの、地に産する物、牛の子、羊の子ものろわれるであろう。あなたは、はいるにものろわれ、出るにものろわれるであろう。』(申命記28:16-19)
御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない人は、都会に住んでも、田舎に戻って住んでも、栄える事なく、自分や家族、家畜のいのちにおいて、何かしらの支障があり、また、台所事情においても、出入りにおいても、栄える事が無い。
『主はあなたが手をくだすすべての働きにのろいと、混乱と、懲らしめとを送られ、あなたはついに滅び、すみやかにうせ果てるであろう。これはあなたが悪をおこなってわたしを捨てたからである。』(申命記28:20)
呪われている人の、大きな特徴の一つは、混乱している事である。
そのような人は、何かととんちんかんな言動をして、的を射ず、その働きも、労多くして益少ない。それでいて、何で自分がいつもそうなのか、わかっていないのである。
『主は疫病をあなたの身につかせ、あなたが行って取る地から、ついにあなたを断ち滅ぼされるであろう。主はまた肺病と熱病と炎症と間けつ熱と、かんばつと、立ち枯れと、腐り穂とをもってあなたを撃たれるであろう。これらのものはあなたを追い、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:21-22)
呪われている人の特徴の、もう一つは、病や災いにつきまとわれる事である。
災いや病が、ストーカーのように追いかけて来るので、一難去っても、また一難が連続する人生である。
いつまでのろいが追いかけて来るか。それは、打たれて滅ぼされるまで、と22節に書いてある。
それらからの、唯一の脱出方法は、のろいの条件の逆を行う事、すなわち、主に立ち返って御声に聞き従い、御言葉を守り行うしか無い。
『あなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となるであろう。主はあなたの地の雨を、ちりと、ほこりに変らせ、それが天からあなたの上にくだって、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:23-24)
イスラエルが、民族的に主から離れ去っていた時は、大体、かんばつや飢饉に悩まされた。
現代でも、頑なになって主の御声に聞き従わない人に対しては、その人にとっての天も、地も、頑なになって、恵みを降らせず、いのちを生じさせないのだ。
それでも主に立ち返らない人に与えられる呪いの明細は、まだまだ続く。
ここまでさんざんな目に遭うとしたら、さっさと頑なさを捨て去って、主に立ち返るほうが得だ、と思うであろうが、頑なな人は、それでもまだ懲りず、自分のしたいように生きたいものである。
エノク – 邪悪な世で死を免れた預言者(創世記5:19-24)
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カインの子孫は、城を建てて集結し、文明を発達させ、やられたら何倍にもして仕返しする性質によって勢力を伸ばして行った。そのような者達が増え栄えて行くと、地は堕落し、暴虐に満ちて行ってしまう。
そんな彼らを、神はすぐに裁く事はせず、神に従う子孫、すなわち、主の御名を呼び求め祈る子孫達を備え、彼らを通して全世界の人々に御言葉を伝え、平和の内に、人々を神に立ち返らせようとした。
主のその方法は、昔も今も全く同じである。主は、裁きよりも憐れみを、滅びよりも救いを望まれるからだ。
今回はそのように、主の預言者として用いられ、愛され、死を見なかった人・エノクについて見て行きたい。
エノクが他の人達と違う所は、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」点である。エノクは、信仰によって、神に喜ばれていた。(ヘブル11:5)『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(同6節)
エノクのように、裁きの日の前に、神に取られ、天に引き上げられ、死を見る事が無い人は、確かにいる。
イエス・キリストを信じる人は、決して滅びる事がなく、永遠のいのちを持つ。(ヨハネ6:50、11:26)
エノクは、その型である。すなわち、信仰によって永遠のいのちへと移される人の型なのだ。
彼のもう一つの性質は”預言者”であり、不信心な世代に対し警鐘を鳴らした。『アダムから七代目のエノクも、”彼ら”について預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」』(ユダ14,15節)
エノクは、当時のカイン系列の不信心な”彼ら”に、そのように預言した。その”彼ら”とは、どういう性質か。
『彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。』(同16節)
私達も、ぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者、自分の欲望のままに歩む者、大きなことを言う者、利益のためにへつらって人をほめる者には、御言葉を宣言して戒めるのだ。それ以上の事は、するべきではない。
カインの子孫のような者達を見る時、怒ったり、思い煩ったり、悩んだり、苦しんだりしがちだが、そのようにして、心と思いを汚してはならない。
聖なる御言葉を宣言し、跡の裁きは、主に委ね、自分はただ、聖なる御言葉に心と思いを向けるべきだ。
ユダ書に共通して示されている事は、裁きは主がなさる事、その主に委ねよ、自分で何かを行うな、である。
主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日の裁きのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められた。(6節) また、ソドムとゴモラのように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた者達を、永遠の火の刑罰を受けさせ、みせしめにした。(7節)
また、御使いのかしらミカエルは、悪魔と論じ言い争った時、相手を罵り裁くような事はせず、「主があなたを戒めてくださるように」とだけ言って、後の裁きは主に委ねた。ミカエルは悪魔より強いにもかかわらず、主の裁きの時でないなら、自分の力を行使しなかった。そして、エノクも、「主は裁かれる」と言った。
私達聖徒が身につけるべきたしなみは、ユダ書17節以降に記されている。
私達は、主に愛された者として、いつも御言葉を思い出すべきである。
今の終わりの時、不自然な欲望のままに振舞う”あざける者”が現われる。彼らは御霊を持たず、分裂を起こす”肉の人”であるが、私達は、聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、主イエス・キリストのあわれみを待ち望むべきである。(17-21節)
疑いを抱く「人々」は、あわれむべきであって、憎むべきではない。彼らを火の中から掴み出して救い、それでいて、肉によって汚された「行い」は、徹底して忌み嫌うのだ。(22-23節)
この邪悪な時代にあって、カインのような者には、御言葉をただ宣言し、そして自身は、聖なる御言葉に浸され、清められ、愛の内に命を養われる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:祝福の明細(申命記28:7-14):右クリックで保存
主の御言葉に聞き従い、守り行ったなら、どんな祝福があるのか。今回の箇所には、その明細が記されている。
『敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。』(申命記28:7)
まずは、勝利の祝福である。この勝利の約束は、聖書の他の至る所にある。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、・・・あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:3-8)
実際聖書は、少数主に忠実な信仰の精鋭たちが、強大な敵に立ち向かい、大勝利した記録が多い。(創世記14章、民数記31章、士師記7章、1サムエル14章、2歴代誌20章、他多数)
主の御心に反している軍がいかに強大であろうと、主の御心に適っている軍がいかに弱小に見えようとも、両者が戦うとしたら、必ず後者が勝つ。
主の民にとって、戦いは、人数や知恵、力よりも、御言葉に聞き、守り行っているかどうかが遥かに大事なのだ。
また主は、主の民の周りの被造物に対し祝福を「命じ」られる。
『主は”命じて”祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。』(申命記28:8)
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは”命じて”六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ記25:20-22)
主は「光よあれ」と命じられて光を創造し、光だけでなく、御口から出る言葉によって全てのものを創造し、完成されたお方である。
だから私達は、主の命令に従って歩むなら、この全被造物の中を歩む全行程において、全てが追い風、全てが順風満帆となる。しかし、主の命令に逆らうなら、この被造物世界において、全てが向かい風、波乱万丈、四面楚歌、踏んだりけったりなのである。
『もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。』(申命記28:9-10)
私達が主の御言葉を守り行うなら、主の名が記された民として、全ての人々に知られる。
自分の所有物に、自分の名を記したなら、他人はおいそれと手出し出来ないし、それを盗んだり破損したりするなら、賠償請求したり訴えたり堂々と出来て当然である。
だから、主の名が記された私達に、もしサタンが勝手に病や貧しさ、災いなどを振りかけるのは、不当であり、主イエスの御名によって堂々と訴え、賠償請求できるのは当然だ。
主イエスの名によって、主の名がつけられている私達に、病や貧しさ、災いなどは、相応しくない。なぜなら主は完全で健やかな方であり、富んでおられ、祝福の源であられるお方だからだ。
私達が主の御言葉に留まるなら、主の名を用いて、欲しいものはなんでも求める事が出来るのである。(ヨハネ15:7)
『主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。』(申命記28:11-12)
既に何度も言われている通り、主に聞き従い、命令を守り行うなら、いのちも、大地の実りも、豊かに祝福され、それも、春の収穫物の脱穀が秋まで続き、秋の収穫物の取り入れが、穀物の種まきの時期まで、ずっと続く程の収穫で満たされ、穀物倉が空になる事はあり得ず、新しい収穫物が入る頃には、倉庫に余った古い収穫物は捨てるほどまでの祝福である。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。・・・あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:3-10)
そういう訳で、主の御言葉に聞き従い、それを守り行う事は、まさしく「至れり尽くせり」「良いことづくし」である。
『主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。』(申命記28:13-14)
主を軽んじ、主の御声に聞き従わず、主の命令を守り行わないなら、「至れり尽くせり」の逆、ふんだり蹴ったりの呪いが下る。それは次回以降、詳細に見て行きたい。
どうして私達は、主の御言葉に聞き従わないような、主の命令を守り行わないような「愚か」を、「損」を、演じ続けられようか。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
あなたの旅程を書き記せ(民数記33章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愚かさを敢えて身につける愚かさ(伝道者の書2:1-11):右クリックで保存
【概要】
今日のメッセージは、伝道者の書2章1節から11節を通して、快楽の虚しさと神に従うことの重要性について考えます。
【聖書箇所】
伝道者の書2章1節から11節
【戒めの言葉】
快楽を追求することは虚しいものであり、神から離れることは愚かさに繋がります。
【勧めの言葉】
神を主とし、神の導きに従うことで、永遠の喜びと平安を得ることができます。
【***詳細***】
伝道者の書2章1節から11節には、ソロモンが快楽を追求した結果、すべてが虚しいと感じたことが記されています。彼は心の中で「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」と考えましたが、結局それも虚しいことだと悟りました。ソロモンは知恵によって導かれていたにもかかわらず、葡萄酒で体を元気づけ、愚かさを身につけようとしました。
彼は事業を拡張し、邸宅を建て、葡萄畑を設け、庭と園を作り、あらゆる快楽を追求しました。しかし、彼が手に入れたものは虚しさだけでした。ソロモンは「私の目の欲するものは何でも拒まず、心の赴くままにあらゆる楽しみをした」と言っていますが、最終的には「すべてが虚しいことよ。風を追うようなものだ。」と結論づけています。
この箇所から学べることは、神から離れた快楽の追求は虚しいものであり、最終的には何も残らないということです。ソロモンは知恵を持ちながらも、愚かさを選び、快楽に溺れました。その結果、彼は虚しさを感じ、神の前に戻ることの重要性を悟りました。
詩編16編11節には「あなたは私に命の道を知らせてください。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみが常しえにあります。」とあります。神の御前には永遠の喜びと楽しみがあります。世の快楽は一時的であり、神の与える喜びとは比べ物になりません。
私たちは、ソロモンのように愚かさを選ぶのではなく、ダビデのように神を主とし、神の導きに従うべきです。ダビデは「私はいつも私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私は揺るぐことがない。」と告白しています。神を前に置くことで、私たちは揺るぐことなく、永遠の喜びを得ることができます。
【結論】
快楽を追求することは虚しいものであり、神から離れることは愚かさに繋がります。私たちは神を主とし、神の導きに従うことで、永遠の喜びと平安を得ることができます。ソロモンのように愚かさに溺れることなく、ダビデのように神を前に置き、神の道を歩むことを選びましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様に信仰を褒められた百人隊長(マタイ8:5-13):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祝福される条件とその範囲(申命記28:1-6):右クリックで保存
この申命記28章は、受けるべき祝福と呪いの、それぞれの具体的な内容が、68節という長きに渡って、詳細に記されている。
祝福を受ける条件は、実にシンプルだ。
『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。』(申命記28:1-2)
主の声によく聞き従い、主の命令を守り行う事。
この祝福の条件は、既に、申命記に入ってからは何度も聞かされている。
『あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう。あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、羊の子を増されるであろう。あなたは万民にまさって祝福されるであろう。あなたのうち、男も女も子のないものはなく、またあなたの家畜にも子のないものはないであろう。』(申命記7:12-14)
つまり、御声に聞き従って御言葉を守り行う事は、いのちの祝福の約束があり、生んで、増えて、地に満ちていくという、創造本来の祝福の命令が実体化するものである。
エジプトは、イスラエル民族がおびただしく増えていくので恐れ、虐待し、男子をナイルに投げ込みさえしたが、主が祝福されたいのちが増え広がって行くは、止められなかった。
主は、いのちの主であり、主にあって、死は、いのちに飲み込まれて行くのである。
また、『あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。』(申命記28:3) とある通り、その人は、街に住んでも、田舎に住んでも栄えるのだ。
ヤコブの子ヨセフは、奴隷としてエジプトに売られて行ったが、彼は、神を知らぬエジプトの中でも、主にあって真実に生きる道を貫き通したため、あらゆる面で祝福を受けた。
ヨセフのように、主に聞き従う生き方を貫き通すなら、たとえ奴隷として売られても、牢屋にいても、栄えるのである。
そればかりでなく、『あなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。』(申命記28:5) とある通り、家の奥の台所事情も祝福されるのである。
イスラエルを虐待したエジプトに対する主の災いの中に、かえるの災いがあったが、その時、かえるは、かごにもこね鉢にも侵入して来た。
私達のかごやこね鉢に、祝福が入るか、それともかえるが入るかは、御言葉に聞き従うか否かであり、主の民を虐待する者は、台所の隅々にさえ汚れが侵入して来るのだ。
『あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。』(申命記28:6)
主を助けとし、御声に聞き従い、御言葉を行う人は、仕事先でも学校でも、家を守るにしても、出るにも入るにも祝福される。
詩篇121編に記されている通りである。
『わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。』
礼拝説教メッセージ音声:律法は呪いの宣言しか出来ない(申命記27:9-26):右クリックで保存
イスラエルがヨルダンを渡った時、まずは、御言葉を記した石をエバル山に建てる事が命じられていたが、もう一つ、為すべき事がある。
それは、祝福と呪いの宣言である。
『その日またモーセは民に命じて言った、「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。』(申命記27:14)
祝福するためにゲリジム山に立つ組と、のろいのためにエバル山に立つ組とに分かれ、そして、以下の通りにレビ人が大声でイスラエルのすべての人々に向かって宣言し、それに呼応して、一般のイスラエル人が応答する。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:15-26)
宣言する内容は、十戒の内容もあるし、律法の細則的な内容もあるが、興味深い事に、「祝福と呪いの宣言をせよ」と言っておきながら、ここで宣言する内容には「何々する者は祝福される」という祝福の宣言が、一つも無い。
また、前回の箇所で学んだ通り、御言葉を刻む記念の石を建てるのは、呪いを宣言するエバル山である。
これらの事は、実は、律法の性質について、非常に象徴的な意味を含んでいる。
モーセに与えられた律法の務め、すなわち、石に刻まれた「文字に仕える務め」は、罪を宣告し、呪いを宣告する「死の務め」である。
『文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。・・・
いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。』(ガラテヤ3:6-11)
しかしキリストは、そんな呪いの内に束縛されている私たちを解放するため、自らが十字架上で呪われた者となって下さり、いのちを差し出して、私たちを買い戻して下さった。
『キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(ガラテヤ3:13)。
このように、イエス様を信じる私たちには、律法の呪いからの解放と自由が与えられるのである。
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫である。
文字は殺すのみであり、善悪の羅列は、ただ私達に死を宣告するのみである。なぜなら、私達の肉の内には、律法を守り通せるような性質は無いからだ。
だから、律法には、「いのち」を与える事は出来ないという、致命的な欠陥がある。(ガラテヤ3:21)
しかし主は、律法とは別の救いの道、すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による救いの道を開いて下さった。
この信仰の務めは、死の務めではなく、いのちの務めであり、モーセに与えられた栄光よりも、はるかに優れた、永遠の栄光の務めである。
私達はキリストにあって、それに与っているのである。