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鳩の性質とカラスの性質(創世記8:1-12)
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第二礼拝・礼拝説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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今日は、年が改まってから最初の主日礼拝である。当教会では、昨年の終わりの時間は、古き年の罪を洗い流すために悔い改めの祈りで過ごし、新年が開けたと同時に礼拝で始め、心も思いも霊も一新した。
この世界もかつて、古く罪深い世界を水で洗い流され、新しく改まった事があった。それはノアの時代である。ノアは主に命じられて箱舟を造り、洪水が来た時、雄と雌の一つがいの動物たちと共に箱舟の中で過ごし、古き時代から、新しい時代へと、いのちを繋いだ。
その動物たちの中で、ノアよりも、誰よりも早く、新天新地で住まいを得た動物は、鳩である。
今回は、誰よりも先んじて、新天新地の住まいを得る幸いにあずかった鳩の性質と、それとは反対のカラスの性質について、見て行きたい。
『神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。』(創世記8:1) その時、全地は、見渡すばかりの、水、水、水で、その膨大なさばきと死の水の中、ただ箱舟だけが、ぽつんと浮かんでいた。主は、その箱舟にこそ心に留められ、その中にいるわずかな生き物たちのために、地に「風(ルアッハ:息吹、主の霊)」を吹き巡らせ、徐々に水は引いてゆき、山々の頂もあらわれ始めた。
『四十日たって、ノアはその造った箱舟の窓を開いて、からすを放ったところ、からすは地の上から水がかわききるまで、あちらこちらへ飛びまわった(原文:行った、行った、戻った)。』(創世記8:6-7)
カラスは賢い鳥であるが、ノアや箱舟の生き物に対し何の益ももたらさなかった。
主人であるノアの手の中に戻らず、ノアが望んだように遠くへ行って何か情報を持ち帰るでもなく、ただ気ままに、箱舟の周辺を行ったり戻ったりを繰り返すだけで、そんな身勝手を、水が引く時までやっていた。
キリスト者の中にも、このカラスのように、何か問題が解決されたら、気ままに教会と世を行ったり来たりを繰り返し、主イエスの御腕の中に戻らず、教会にも主イエスにも、何の益をもたらさないような人がいる。
カラスは何の役にも断たないので、ノアは次に鳩を放った。鳩は、小さな羽を羽ばたかせ、力の限り飛んで行き、ノアの意を汲んで陸地を探したが、飛べども飛べども水ばかりだった。この第一回目の飛行では何も収穫は無く、鳩は箱舟のノアの手の中に帰って来て、箱舟の中で、次の働きに備えて休んだ。
鳩の二回目の働きの時、とても小さなおみやげを、くちばしにくわえて戻ってきた。その小さなおみやげは、ノアと、箱舟の中の生き物達とに、希望をもたらした。『はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。』(創世記8:11 )
そして三回目に放った所、鳩は戻って来なかった。一新して改まった世界で、最初に住処を得たのである。
後に、カラスは汚れた動物として扱われ、鳩は、貧しい人が主に捧げるいけにえとなり(レビ記1,5,12章)、かわいらしく愛される象徴となり(雅歌1,2,4章)、イエス様が生まれて八日目に割礼を施された時にも捧げられ、そして、イエス様が水のバプテスマを受け、水から上がられた時、聖霊が鳩のように降った。
鳩は、カラスより力も知恵も無いが、カラスよりも有用な働きをした。
カラスは鳩よりも力強く飛べるのにそれをせず、手近な所を行き来して、身勝手に屍肉をついばんだり、その汚れを箱舟に持ち込んだりしたが、鳩はカラスよりも遠くへ行き、希望の良き知らせを口にして、ノアの手の中に戻り、箱舟の中で休みを得て、そしてカラスに先んじて、新天新地に住まいを得た。
鳩の性質、それは素直(マタイ10:16)である。主は、カラスの知恵や力より、鳩の素直さを喜ばれる。
従わないことは偶像礼拝の罪であり、御言葉に素直に聞き従う人は、雅歌書の女のように主から愛される。
そして、鳩のように柔和な性質こそ、地を相続する性質である。(マタイ5:5)
ノアや動物たちが、やがて箱舟から去り、新天新地に行って住まいを設けたように、私達もやがて、この地上を去り、永遠の住まいへと入植する時が来る。
この地上にとどまっている間、鳩のように素直に主イエス様の用を果たし、働きから戻ってきた時には、主の御手の中へと飛び込んで行き、次なる働きの時まで、教会の中で養いを受け、新天新地においては、真っ先に住まいを得、主に捧げられる者とされ、主イエス様の元に留まる皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:最も大切ないましめ(申命記6:1-9):右クリックで保存
今回の箇所は、イスラエルに与えられた戒めの中でも、最も重要な掟である。
『これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。』(申命記6:1)
この重要な一連の命令の中で、繰り返し命じられている事は、「聞きなさい」「子孫達に教えなさい」「守り行いなさい」である。
この、聞く事、子に信仰を受け継がせる事、守り行う事は、今日のクリスチャンにとっても大切な教えであり、それを守り行うなら、以下に記されている御言葉の通り、幸いを得、長く命を保つ事が出来、乳と蜜の流れる地で、大いに増え広がっていく事が出来る。
『これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。』(申命記6:2-3)
「乳と蜜の流れる地」は、モーセ五書では良く聞く言葉だが、乳は、聖書の他の箇所では御言葉をあらわし(1ペテロ2:2)、蜜もまた、御言葉をあらわす。(エゼキエル3:3、詩篇119:103、黙示録10:10)
御言葉に親しめば親しむ程、それは蜜のように甘く、乳のように滋養に富んだものである事が分かり、ますます豊かな養いを得て行く事になる。
それ故、私達・神の民にとって大切な事は、御言葉に聞き従い、甘く味わい、喜び、御言葉を教え継がせて行く事である。
『イスラエルよ聞け(ヘブライ語:シェマー・イスラエル)。われわれの神、主は唯一の主である。』
この、申命記6章4節の言葉は、ユダヤ教の朝夕の祈りの中心的言葉であり、ユダヤ人にとって最後に言う言葉、両親が子供に夜寝る前の言葉として教えるという伝統がある。
『あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。』(申命記6:4)
続くこの言葉も、福音書に何度か出てくる言葉で、イエス様も「律法の中で最も重要な戒め」とした。(マタイ22:37、マルコ12:30、ルカ10:27)
それ程、聖書の中で重要な言葉である。
私達もそれを忘れる事なく、誰かから「聖書の中で最も大事な戒めは何か」と聞かれた時は、すぐにこの言葉を答えられるよう、心がけているべきであり、またキリスト者であるなら、それを日々、実際的に守っていくべきである。
『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。』(申命記6:6-7)
御言葉を子供に教える事、これも大切な事である。
今の日本では、子供の信仰については親は関与しなかったり、また、子供を生みたがらない親さえ多いが、それは聖書的ではない。
聖書の示している「子育て」の中で、最も優先すべき事は、御言葉を教えることであり、御言葉を寝ても覚めても、家の中でも家の外でも口ずさむ事である。
皆さんは、子供に習い事をさせたり、受験させたりする事以上に、御言葉を教える事に心砕いて来ただろうか。
御言葉を昼も夜も口ずさみ、守り行わせるのであれば、学業も自然と祝福され、優秀になって行く。
実際、ユダヤ人は世界の人口の0.25%しかいないのに、そのユダヤ人がノーベル賞の20%を獲得しているのは、小さいころから御言葉を昼も夜も口ずさませているからだ。
『わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります。わたしはあなたのさとしを守るので、老いた者にまさって事をわきまえます。
わたしはみ言葉を守るために、わが足をとどめて、すべての悪い道に行かせません。あなたがわたしを教えられたので、わたしはあなたのおきてを離れません。あなたのみ言葉はいかにわがあごに/甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。わたしはあなたのさとしによって知恵を得ました。』(詩篇119:99-104)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
鳩の性質とカラスの性質(創世記8:6-12):右クリックで保存
山上の説教 - 人に見せるための施しや祈り(マタイ6:1-8)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-1-4 13:46
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 人に見せるための施しや祈り(マタイ6:1-8):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花嫁衣装を紡ぐ地上の日々(黙示録19:1-10):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:御言葉の先にある分かれ道(申命記5:22-33):右クリックで保存
主が、大きな火の中から十戒を授けられた時、民は恐れ、モーセに言った。
『およそ肉なる者のうち、だれが、火の中から語られる生ける神の声を、われわれのように聞いてなお生きている者がありましょうか。あなたはどうぞ近く進んで行って、われわれの神、主が言われることをみな聞き、われわれの神、主があなたにお告げになることをすべてわれわれに告げてください。われわれは聞いて行います。』(申命記5:26-27)
主が圧倒的な臨在の中から御言葉を語られる様は、とても恐ろしく、人は無事に立ちおおせるものではない。
預言者イザヤも、エゼキエルも、ダニエルも、使徒ヨハネも、その圧倒的「聖」を前にして倒れ、死人のようになった。
人がそのままで主の御前に立つなら、主のあまりにも「聖」なる有り様に打たれて死んでしまうのだ。
しかし、いずれの聖徒も、死ぬことはなかった。
むしろその時、主は「恐れるな」と言って、立ち上がらせて下さり、御言葉の深みへとさらに導いて下さった。
モーセも民に「恐れるな」と言った。しかし民は恐れ、近づこうとはしなかった。(出エジプト記20:18-21)
モーセも「わたしは震える」と言った程、恐ろしかったのだが、それでもモーセは、民を残し、一人、主の御元に近づいて行った結果、彼は死ぬ事なく、誰よりも主と親しく交わり、主から直接の御言葉の養いを受けた。
イスラエルの民のように、直接主に近づこうとせず、モーセなど霊的指導者に「あなたが代わりに行って下さい、わたしは聞き従いますから」と言うような人の信仰には、やはり、脆弱さがある。
その証拠に、イスラエル民はその後、わずか40日後に、早速偶像を作って、その前で座しては食い飲みし、立っては戯れた。
主があれだけはっきりと、圧倒的な臨在の中から「わたしの他に神があってはならない」「偶像を作ってはならない」と戒められたというのに。
しるしや現象ばかりを追求し、いかに多くそれらを経験しても、御言葉に直接向き合おうとしない者は、すぐ御言葉を忘れ、主を怒らせる事をしてしまうものなのだ。
御言葉の剣が立った時、私達には、二つの道しか無い。
聞き従って、いのちを得るか。それとも、従わずに死へ向かうか。
御言葉を元に祝福と呪いの道を示したのに、どちらを取るとも言わず、5分も10分もただ沈黙してやり過ごそうとする人達を見て来たが、そういう人は、御言葉に聞き従う事は嫌、でも、聞き従わない結果の災いも受けたくない、という、どっちつかずの人だ。
そのように「御言葉に沈黙する人」が刈り取ってしまう実は、「手足を縛られ、外の暗闇に追い出され泣いて歯ぎしりする」という実である。(マタイ22:12)
主の願いは、人が常に、主に対する恐れと敬意を持ち、御言葉を守り、そして、子々孫々と永遠に幸いを得る事である。
『ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、彼らもその子孫も永久にさいわいを得るにいたることである。』(申命記5:29)
私達は「守り行え」と言われる時、ある種の窮屈さを覚えるかもしれない。
しかし、主の御言葉を守り行った先には、必ず幸いがあるのだ。
『それゆえ、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、慎んで行わなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。』(申命記5:32-33)
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第十戒(申命記5:21):右クリックで保存
十戒の第十戒は、『あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない。』(申命記5:21)である。
ここの箇所も、出エジプト記の記述と若干違っている。
見比べてみると、出エジプト記では、主は「隣人の”家”をむさぼってはならない。」と始まるのに対し、申命記では、「隣人の”妻”をむさぼってはならない。」と始まる。
モーセが四十年、イスラエルを指導したり観察し続けて来た結果、「隣人の家」より「隣人の妻」を気をつけるべきだと気付き、そこを強調したのかもしれない。
現代日本でも、浮気、というと、そんなに珍しいものではなくなっているが、それ程に、人が陥りやすい罠である。
隣人の妻、それは、手を出してはならない禁断の実であり、それに手を出したら、両者の家族を、もろとも破滅へ突き落としてしまうものだ。
この箇所の「むさぼる」あるいは「欲しがる」と訳されたヘブライ語「カゥマド」は「好ましく思う」、「あこがれる」等の意味がある。
殺すな、盗むな、という法律は、大抵の国にあるだろうが、隣人のものを欲しがったり、あこがれたりしてはならない、という法律は、とても珍しい部類に入るかもしれない。
しかし、この「他の人のものを欲しがったりあこがれたりする心」こそ、自分の身ばかりでなく、自分の周り全体をも滅びへと導いてしまう根源である。
この「カゥマド」という言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節である。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには「好ましい(カゥマド)」と思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
エバが禁断の木に手を伸ばして、人類全部に罪と死を導入してしまった背景に、この、「好ましい(カゥマド)」があったのだ。
もう一つ、多くの人を滅びへと導いた事例の中に、ヨシュア記のアカンがいる。
『アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、「ほしくなり(カゥマド)」、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。』(ヨシュア記7:20-21)
彼は、手に入れてはならぬ「聖絶すべきもの」を欲しがり、それを自分の中に導入した結果、イスラエル宿営全体を「聖絶すべきもの」としてしまい、それが明るみに出された暁には、彼自身だけでなく、彼の家族をも滅びへと導いてしまった。
この、自分の分ではないものを、欲しがったり、あこがれたりする心こそ、自分だけでなく、自分の家族をも滅びへと導いてしまう根源である。
なお、聖書の他の箇所を見ると、カゥマドする事が、大いに推奨されるべきものもある。
『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも「慕わしく(カゥマド)」、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。』(詩篇19:7-11)
主のおきて、主のあかし、主のさとし、主の戒め、主へのおそれ、主のさばき。それらは、大いにあこがれ求めて良いものである。
それらの良さ、麗しさが分かると、ますますそれらを純金よりも慕わしく、蜜よりも甘く慕わしいものとなり、ますます祝福され、大きな報いを受けるようになるのだ。
また、もう一つ、慕い求めて良いものがある。
『わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな「喜び(カゥマド)」をもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。』(雅歌2:3-4)
皆さんの伴侶も、慕わしく求めて然るべきものである。
そして私達にとって、慕い求めるべきまことの主人は、キリストである。
自分の領分に入れてはならない禁断のものは、手に入れてしまうと、自分だけでなく、周囲をも滅びへ突き落とす。
私達はそうではなく、御言葉を、伴侶を、そして真の主人であるキリストをこそ、慕い求めるべきなのだ。
新年のご挨拶を申し上げます。
今年も20名ほどの聖徒達と共に、31日夜よりニューイヤーズ・イブ礼拝を行い、カウントダウンして、新年が開けたと同時に、世界で最も早い(?)新年の礼拝を行いました。
ニューイヤーズ・イブ礼拝音声:右クリックで保存
今は10名ほどの聖徒達は朝まで残り、そのまま早天礼拝に突入します。
なお、天声では、元旦より通常通り各祈祷会や礼拝を行います。(元旦は水曜ですので、昼、夜にも水曜祈祷会があります。)
本年もまた、主イエスにあって、よろしくお願い申し上げます。
皆さんの上にも主の祝福が豊かにある一年でありますように!
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第八、第九戒(申命記5:19-20):右クリックで保存
十戒の第八戒は、『あなたは盗んではならない。』(申命記5:19)である。
盗むとは、勝手に他人の領域に侵犯し、他人の所有物を自分のものとする事であるが、これこそ、サタンの性質である。
神は、私達人間を、神の子として召されたのだから、私達はサタンの性質を帯びてはならない。
サタンは元々、神をたたえる天使であったのに、自分のおるべき所をよしとせず、神の栄光を盗もうとして、神の領域である栄光の座に侵入して来た。
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)
このように、自分のおるべき領分を守らず、侵犯し、他人のものを奪うサタンのような者を主はさばき、地の底へと落とす。
『主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ6節)
主のご性質は、盗人や強盗とは真逆である。
『よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:7-11)
盗人は、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする。それに対し、主は私達にいのちを得させ、それも、豊かに得るようにさせて下さる。
そしてよき羊飼いであられる主は、私達羊のために、いのちを捨てて下さった。
サタンはいのちを奪い、主は、いのちを与える。
だから私達は、盗むという性質を捨て去るべきである。
十戒の第九戒は、『あなたは隣人について、偽証してはならない。』(申命記5:20)である。
「隣人に」とあるが、それでは隣人ではない人には偽証しても罪にならないのだろうか?
答えは否である。神は真実な御方であり、神の性質に「偽り」なるものは無い。
偽りは、サタンのアイデンティティとも言える性質であり、その性質は私達の内から滅ぼし尽くすべきものだ。
『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
ここは「人が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら、彼の父もまたうそつきだからです」とも訳せる。
悪魔の欲望は殺す事であり、偽りがその本性である。
私達は誰に対しても、「偽り」というサタンの性質に染まってはならない。
神は、善人にも悪人にも太陽を上らせ雨を降らせて下さる真実な御方であるが、同じように、神の子とされた私達も、全ての人に対して真実であるべきなのだ。
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第五〜第七戒(申命記5:16-18):右クリックで保存
十戒の第四戒までは神と人との関わりについての戒めであったが、第五戒からは、人と人との関わりについての戒めとなる。
その人間関係における第一の戒めは、以下である。
『あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。』(申命記5:16)
この世のあらゆる関係は、権威構造によって成り立っているが、立てられている権威に服さないと、権威構造で成り立つ世界・全てに敵対してしまう事になる。
例えば、罪を犯した指名手配犯は、警察や人の目から逃げるようにして生きなくてはならず、心落ち着かず、国や世間からの恩恵にも預かれないが、それと同じように、神の権威に服さない人は、神からの恩恵に預かれないまま、神の処罰を恐れて生きなくてはならず、平安も無く生きなくてはならない。
しかし主イエス様は、そんな私達の身代わりとして罪の処罰を受けて下さった。
私達は彼を信じる事によって、神との和解をいただき、神からの恩恵にも預かって生きるようになったばかりでなく、神の国の市民としての特権をも得るようになったのだ。
父と母、それは、最も身近で根本的な「権威」である。
その最も身近な権威である父母に服すなら、目に見えない神との正しい関係も容易に構築しやすい。
しかし、最も身近な権威である父母にさえ服す事が出来ないなら、ましてや、この世の社会や、目に見えない神に服す事は、いかに難しいだろうか。
だから、父母という、目に見える、最も身近な権威に服す事が、人間関係における第一優先あり、それは「長く命を保ち、さいわいを得ることのできる」祝福の約束を伴ったものである。
ただし権威には順序がある。
『子たる者よ。「主にあって」両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
ここで忘れてはならない事は、「主にあって」両親に従う事である。
主を度外視した世の権威への服従は、たといその相手が両親であっても、過ちの元である。
十戒の第1〜第4に示されていた通り、権威の第一は、両親よりも、主である。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
このように、主に反する事以外であれば、父母は敬い服従すべきものである。それによって幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
第六戒は『あなたは殺してはならない。』(申命記5:17)である。
聖書には、人がいかに尊い存在であるのかが、書いてある。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
人は、神の息吹が吹き込まれた「神の似姿」であり、本来、全ての生き物を治めるものとして創造され、生んで増えて地に満ちる祝福された存在である。
人が神に不従順して罪と死を導入し、神の怒りを受けるべき存在となっても、なお、神はひとり子を賜ったほどに世を愛し、御子を人の身代わりとして差し出したほどに、人は神に愛され、神から大切にされた存在である。
それほどまでに尊ばれた人のいのちを奪う事は、どれほどに神を冒涜する事だろう。
第七戒は『あなたは姦淫してはならない。』(申命記5:18)である。
姦淫とは、妻や夫など、唯一愛すべき相手がいるにもかかわらず、それ以外の者と愛の関係を結ぶ事である。
なぜそれがいけないのか。
姦淫は、性的な罪であり、性的な事柄とは、いのちを生み出し家庭を築き上げて行く事柄であり、父あるいは母たる人が、姦淫を犯すなら、その家庭は崩壊してしまうからである。
主は人を、創造のはじめから男と女とに創られた。
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。』(創世記2:23)
ここには「ふたりは一体である」と書かれてある。
ソロモンには妻と妾があわせて千人いたが、神は、ご自分のかたちに人を創造され、男と女とに創造されたのは、千対一ではなく、一対一なのだ。
アブラハムにもヤコブにもダビデも妻は複数いたが、いずれの妻も、子供も、それによって災いが起きて不幸になっている。
主の御心は、夫と妻との関係は「一対一」で、排他的なものである。
以上の三つの戒めには、従うべき権威と、自分がおるべき立場、保つべき立ち位置が示されている。
それは創造の秩序であり、主が立てられた権威を守ることが、人間にとって最も幸せへの近道なのである。