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主は私達の羊飼い(詩篇23篇)
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いよいよ今年最後の礼拝である。今までを振り返るに、まことに主が羊飼いとなって導いて下さった。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいこと(欠乏)がありません。」(詩篇23:1 )
羊は弱く愚かな動物で、もし羊飼いたる人がいなかったら、とうの昔に絶滅していただろうと言われている。
同じようにこの教会も、主イエス・キリストを羊飼いとしていなかったなら、とうの昔に滅んでいただろう。
ダビデ王も、主が、自分の羊飼いである事を告白した。
彼自身、元々羊飼いだった。羊を緑の牧場や水のほとりへ導いた事もあるし、羊を守るためライオンや熊と戦った事もある。それで彼は、羊の弱く愚かな性質を、守り養わなければならない事を、よく知っている。
彼は、自分は弱く愚かな羊のような存在である事を認め、そして、主を羊飼いとした。その結果、彼はこの詩を詠んだ日に至るまで一切の欠乏は無かったし、これからも決して無い、と、告白している。
私達も、主を羊飼いとするなら、一切の欠乏は無い。
「いや、自分は主を羊飼いとして来たけれど、欠乏ばかりだった」と言う人は、自分が望んでも与えられなかったもの、というのは、実は有害なもので、むしろ主が羊飼いとして、それらに毒されぬよう、今まで守っておられた事を、そして、自分はそれさえ見えなかった、無知な羊であった事を、悟るべきである。
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(2-3節)
羊は目が悪いため、自分で食べ物や飲み物を探しに行けない。同じように、私達も未来は分からず、この先に何が待ち受けているかを知らない。だから未来も最善も全てを見通す主を羊飼いとする必要がある。
主は、導く。義の道へと。主は、伴われる。緑の牧場と、憩いの水のほとりへと。人にとって、真のたましいの潤いは、主から来る。私達が主の導きに従って歩むのであれば、私達は決して飢える事も渇く事も無い。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわい(悪)を恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(4節)
私達はできれば死の陰の谷は歩みたくないものだが、しかし主は、敢えてそこを通らせる事もある。
この一年、ある聖徒にとっては、死の陰の谷を通らされたような状況もあったし、今まさに通っている最中の聖徒もいる。しかし主は、無意味に、死の陰の谷を通らせる訳ではない。その向こうに最善があるからだ。
「あなたがたが、色々な試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」(ヤコブ1:2)
主がわざわざそこを通らせているという事は、想像もつかないスペシャルな未来がその先にあるという事だ。
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(5-6節)
私達が主を羊飼いとしているなら、主は敵の面前で私達に宴席を設けて下さり、頭に油を注いで下さる。
主を羊飼いとしているなら、恵みと慈しみとの方が、私達を追いかけて来る。しかし、主を羊飼いとしていないなら、敵の前で逆に冷や水を浴びせられ、恵みと慈しみを追いかけても追いかけても、それは逃げてしまって、決して追いつく事はない。
主イエスの元にこそ、恵みといつくしみが豊かにあり、他には無いのだ。(1歴代16:34、詩篇86:5、118:1)
ヨハネ10章には、良き羊飼いなる主イエス様と、私達・羊との間の正しい関係がある。(ヨハ10:1-6)
羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出して先頭を歩き、羊は、羊飼いの声を聞き分け、ついて行く。
その逆は無いのだ。羊は、目が悪い。だから羊は目に頼らず、耳に頼る。
同じように私達も、主の御声であられる御言葉によく耳を傾け、ついて行くなら、乏しい事も、飢える事も渇く事も決して無く、死の陰の谷のさなかでも安全に導かれ、やがては、いこいの水のほとりへ、緑の牧場へと導かれ、敵の目前で宴席が設けられ、頭に油が注がれる。そして、恵みと慈しみとが、ついてまわる。
来る2014年は、何が起きるのか私達には分からないが、ひとつ確かな事、それは、主を羊飼いとして私達がついて行くなら、この詩篇23篇の祝福が、私達のほうを追いかけて来るという事だ。今までのように。
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第三と第四(申命記5:11-15):右クリックで保存
十戒で三番目に重要な事は、主の御名をみだりに唱えてはならない、という事である。
『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰しないではおかないであろう。』(申命記5:11)
主の御名を乱発すると同時に、不誠実な行いも乱発して、主を貶めている人は確かにいるが、主はそのような者に言われる。
『お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」』(詩篇50:16-23)
御言葉をたくさん口にする人が主に愛される訳ではない。
サタンでさえ御言葉を引用し、主イエスを誘惑しようとした。
御言葉を口にする人が主に愛されるのではない。御言葉を心に留め、それを行う人こそ、主に愛されるのであって、守る気も無いのに、みだりに御言葉を連発したり、恐れ気もなく主の御名をみだりに連発する者を、主は罰せずにはおかない。
そして第四戒は、安息日の遵守である。
『安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。』(申命記5:12-14)
ここ、申命記の第四戒の記述は、出エジプト記での記述と、若干違う。
出エジプト記では、以下のように続いた。
「六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(出エジプト記20:8-11)
すなわち、主が六日かかって創世した後、第七の日に安息されたから、この第七の日を聖として覚えよ、というのが出エジプト記での趣旨である。
それに対し、申命記では、モーセはイスラエルがかつてエジプトで奴隷であった事を思い起こさせ、他国人や固持、寡婦などの弱者に「安息」を与えさせる事に重点を置いる。
実際、出エジプト記では単に「家畜」と記されている所が、申命記では「牛、ろば、もろもろの家畜」とされ、「こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。」と、家畜も男奴隷も女奴隷もひとしく主の安息に預からせるように命じている。
『あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。』(申命記5:15)
このように、モーセは弱者を休ませるために安息を守らせる事を、特に強調している。
実際、申命記の他の箇所でも、モーセがイスラエルがかつてエジプトで奴隷だった事を思い起こさせている場面が多い。(15:15, 16:12,24:18-22)
人は、権力を持ちはじめると、従業員や奴隷を休まずフル稼働で働かせて利益をむさぼる罪に陥りやすい。
実際、ネヘミヤの時代、イスラエルはバビロンから帰って来たばかりだというのに、早速同国人を奴隷にこき使って主の戒めに反する事をし出した。
安息の主は、人が安息する事を大切にされた。
それ故、私達はしっかり安息を守り、七日ごと安息の主を覚え、礼拝を守るべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
知識も無く摂理を暗くする者(ヨブ記38:1-15):右クリックで保存
山上の説教 - 右の頬を打たれたら左の頬も(マタイの福音書5:38-48)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2013-12-28 4:23
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 右の頬を打たれたら左の頬も(マタイの福音書5:38-48):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神から離れた文明の行き先(黙示録18:21-24):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第一と第二(申命記5:5b-10):右クリックで保存
イスラエルが守るべき「おきて」のうち、モーセが真っ先に提示したものは、主がシナイ山で与えて下さった十戒だった。
出エジプト記20章に記されている十戒は、主が直接語られた内容であるが、この申命記に記されている内容は、モーセが民にメッセージしたもので、内容的には同じであるものの、表現は同じではない。
モーセが、特にここを強調したい、という点があったからであろうと思われる。
『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。』(申命記5:6)
神は真っ先に、イスラエルに何をして下さったかを、明らかにしている。
それはまず、奴隷の家・エジプトからの開放である。
皆さんにとって、主はどういう御方だろうか。主は、皆さんに、何をして下さっただろうか。それをすぐに表明出来るだろうか。
主は私達を、世の奴隷から、サタンの奴隷から、罪の奴隷から、そして、死の奴隷から開放して下さり、永遠のいのちへと、主イエス・キリストの愛の支配へと導き入れて下さった主である。
十戒の第一戒、主が真っ先に命じた最も重要な戒めは、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。」(申命記5:7)である。
日本では「神(カミ)」と呼ばれるものが多くあり、あちらのカミ、こちらのカミと、カミが取り替え可能なような感覚のある日本人には、理解しずらいかもしれない。
しかし、天地を創造し、私達を創り、変わらぬ愛で私達を愛して下さる「神」、私達がおそれ敬うべき「神」は、ただ一つであり、その私達の「主」という座に、神以外の別物を入れてはならない。
『あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。それを拝んではならない。またそれに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には恵みを施して千代に至るであろう。』(申命記5:8-10)
十戒の第二戒、二番目に重要な事は、偶像礼拝の禁止である。
日本は偶像礼拝をしている家庭が多く、周りも皆当たり前のようにそれをしていて、その中で育っていると、自分達が実は呪いと災いの中にあった事に気づかないものである。
少し前までは、日本は世界で一番働く民族だと言われていたが、いくら働いても働いても、知恵を働かせても、そうしてお金をたくさん得ても、幸せになれない人が多い、その大きな原因が、神意外のものを神とする「偶像崇拝」にある事は間違いないだろう。
偶像礼拝とは、神社仏閣にある像を拝む事に留まらず、まことの神以外の何かをより大事にし優先させる事を意味する。
例えば、自分の望む何かを、自分のものに出来ないなら、神様なんか信じない、と言う時は、その自分の望む何かが「神」となっており、偶像礼拝である。
まことの神である主を知り、そのすばらしい御業を体験しておきながら、自分の欲望におびき寄せられ、偶像礼拝に戻ってしまう人の樣子が、エゼキエル書に記されている。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。』(エゼキエル書8:5)
ここでは、主を礼拝すべき神殿の出入り口に、主のねたみを引き起こさせる偶像が置かれてあった。
今、キリストにあって、私達が神殿であり(1コリント3:16-17)、私達の心の出入り口に、神のねたみを引き起こさせるものが置かれてある事を、主は忌み嫌われる。
『そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。
そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。』(エゼキエル書8:7-11)
ここでは、イスラエルの指導者達が、隠れた暗い所で、主の忌み嫌われるあらゆるものに香を焚いて礼拝している様が、露わにされている。
表向きはきれいでも、内側があらゆる汚れて満ちている状態、表面を白く塗った墓のような状態である時、私達も時に、そのように陥ってしまう事があるが、主は何もかもお見通しである。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。』(エゼキエル書8:12)
このように、主は自分達を見ない、と隠れた所で思う事は、主が無力である事の告白であり、主への冒涜である。
『そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。』(エゼキエル書8:14)
ここでは女が偶像の神のために泣いている。
自分の好む事のために泣くことはしても、主のためには心動かされず泣きもしない事は、霊的な姦淫である。
『彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。』(エゼキエル書8:16)
太陽は恩恵をもたらすものであるが、それを創られた主には背をそむけ、自分に恩恵をもたらすものに拝する事も、主の忌み嫌われる偶像礼拝である。
十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものであった。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
主を憤らせるのではなく、妬ませるのではなく、主を第一とし、主に愛される私達でありますように!
礼拝説教メッセージ音声:聞き、学び、守って行え(申命記4:41-5:5a):右クリックで保存
申命記4章までの所で、モーセは、イスラエルが荒野で放浪してきた年月の労苦と災いを思い起こさせ、今後そのようにならぬよう、こんこんと教えて来た。
荒野の放浪に陥らないコツは、御言葉に聞き従い、守り、行っていくべき事だった。
そして5章以降で、モーセは、イスラエルが守るべき「おきて」と「定め」を、具体的に教え始める。
『さてモーセはイスラエルのすべての人を召し寄せて言った、「イスラエルよ、きょう、わたしがあなたがたの耳に語る定めと、おきてを聞き、これを学び、これを守って行え。』(申命記5:1)
モーセはこの命令を、再び、「聞きなさい」で始めている。
「信仰は、聞くことから始まり、聞くことは主の御言葉による」(ローマ10:17) と言われているように、御言葉に聞く事は、聖書の中で重要な命令である。
イスラエルが約束の地へと行くのに、本来なら、わずか11日で行ける道のりを、38年もかかってしまったのは、実に、御言葉に聞き従わず、自分の好き勝手にしたい、という思いによって、主が与えて下さった約束を上塗りしてしまったためだ。
サムエルも、サウル王に言っている。
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた。」(1サムエル15:22-23)
また、聞くだけでなく、聞いた御言葉を「行う事」も忘れてはならない。
主の兄弟ヤコブは言っている。
『そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:22-25)
聞いた御言葉を聞いただけでは、何も起きない。しかし、それを信仰によって守り行うなら、その行いによって祝福されるのだ。
私達は、聞いた御言葉を、3歩歩いたら忘れてしまうような、霊的鳥頭になってはいけない。
そうならないためにこそ、私達は聖徒の交わりを保ち、互いが互いを清く保ち続けるために、御言葉によって、互いに教え、戒め遭うべきである。
『キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。』(コロサイ3:16-17)
シモン・ペテロは主を裏切ったが、主の交わりから離れなかった故に、立ち直った。
しかし、交わりから離れてしまったイスカリオテのユダは、自分勝手な美意識に殉じて、滅んでしまった。
いかに失敗しても、いかに恥ずかしくても、主にある兄弟姉妹の交わりから決して離れず、互いに教え、訓戒し、霊的に磨き合いつつ、ますます整えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:主の命令を守る事の報い(申命記4:32-40):右クリックで保存
モーセは、神がいかに大いなることをして下さったか思い起こさせている。
神は火の中から語られ、大きなしるしと不思議を、イスラエルの面前でなされた。
『試みにあなたの前に過ぎ去った日について問え。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの端から、かの端までに、かつてこのように大いなる事があったであろうか。このようなことを聞いたことがあったであろうか。火の中から語られる神の声をあなたが聞いたように、聞いてなお生きていた民がかつてあったであろうか。』(申命記4:32-33)
ただ、私達にとって大切な事は、大いなる「体験」をした事よりも、その体験を通して主が語られた御言葉の内容である。
主がイスラエルに大いなる事をして下さった理由は、主こそ神であって、ほかに神のないことをイスラエルに、そして多くの国々に知らせるためであった。
『あるいはまた、あなたがたの神、主がエジプトにおいて、あなたがたの目の前に、あなたがたのためにもろもろの事をなされたように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、強い手と、伸ばした腕と、大いなる恐るべき事とをもって臨み、一つの国民を他の国民のうちから引き出して、自分の民とされた神が、かつてあったであろうか。あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった。』(申命記4:34)
多くの国々がある中、神がイスラエルを特別に扱われ、大きな力によってエジプトの虐げから救い出されたのは、神の気まぐれではない。
先祖アブラハムの信仰のゆえにである。
アブラハムは、主の言われたことばを信じ、それで彼は、義と認められたが、同じように、現代を生きる私達も、「信じる事」によって救われ、そして神はご自身を信じる人々を、特別扱いして下さるのだ。
『あなたを訓練するために、主は天からその声を聞かせ、地上では、またその大いなる火を示された。あなたはその言葉が火の中から出るのを聞いた。主はあなたの先祖たちを愛されたので、その後の子孫を選び、大いなる力をもって、みずからあなたをエジプトから導き出し、あなたよりも大きく、かつ強いもろもろの国民を、あなたの前から追い払い、あなたをその地に導き入れて、これを嗣業としてあなたに与えようとされること、今日見るとおりである。』(申命記4:36)
現代を生きる私達も、主イエスを救い主として信じるなら、主がかつてイスラエルにして下さったように、私達を愛され、訓練し、大いなる力によって虐げる者から救い出し、奴隷状態となっている所から導き出し、自分達よりも大きく強い敵を追い払い、さらに良い地へと導き入れて、そこを受け継がせて下さるのだ。
『それゆえ、あなたは、きょう知って、心にとめなければならない。上は天、下は地において、主こそ神にいまし、ほかに神のないことを。あなたは、きょう、わたしが命じる主の定めと命令とを守らなければならない。そうすれば、あなたとあなたの後の子孫はさいわいを得、あなたの神、主が永久にあなたに賜わる地において、長く命を保つことができるであろう」。』(申命記4:39-40)
主が「聞きなさい」「定めと命令を守らなければならない」と言われたのは、無意味に私達を束縛したり窮屈な支配を強いたりするためではない。
かえって、私達がしあわせになり、長く生きるためである。
人は「**しなさい」「守り行いなさい」という命令を、堅苦しい教えだと思うかもしれない。
確かに、誰か人間がそのように言う時には窮屈さを覚えるかもしれないが、主がそのように命じられる時には、必ず意味があり、祝福の約束が伴っている。
もし私達が、主の御言葉を昼も夜も思い、記されている事をことごとく守り行い、右にも左にもそれずに歩むなら、行く所行く所どこおいても勝利し、私達の道は栄えるのである。(ヨシュア記1:7-8)
クリスマスイブ礼拝(音声のみ):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祝福の地が呪いの地となってしまう条件(申命記4:20-31):右クリックで保存
『主はあなたがたを取って、鉄の炉すなわちエジプトから導き出し、自分の所有の民とされた。きょう、見るとおりである。ところで主はあなたがたのゆえに、わたしを怒り、わたしがヨルダンを渡って行くことができないことと、あなたの神、主が嗣業としてあなたに賜わる良い地にはいることができないこととを誓われた。わたしはこの地で死ぬ。ヨルダンを渡って行くことはできない。しかしあなたがたは渡って行って、あの良い地を獲るであろう。』(申命記4:20-22)
イスラエルの民がこれから入ろうとしている土地は「良い地」であると言われているが、その土地は、そこに入る人なら誰でも100%良きものばかりをもたらすかというと、そうではない。
その地が、良き事をその人にもたらすかどうかは、その人に依りけりである。
主の御教えに従順する人に対しては、そこはとことん「良い地」となりえるが、逆に、その地がとことん災いばかりもたらすようになってしまう可能性もあり、モーセはその条件を以下に述べている。
『あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。』(申命記4:23-24)
主は、偶像を忌み嫌われる。
そして主は、自らを「焼きつくす火(英語:コンシューミング・ファイアー)」であると言われた。
最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは「お客様」「消費者」であり、サービス業は、コンシューマーを主体としたビジネス展開こそ成功に欠かせないが、あるクリスチャンは、教会をサービス提供者か何かのように思い、自分達をコンシューマのように思い違いしているが、真逆である。
キリスト者にとって、主こそコンシューマーであり、私達は主にサービス(礼拝)を捧げる側である。
だから、コンシューマである主との契約をないがしろにして、契約違反するならば、主は「妬む神」となってその人を焼きつくしてしまう。
主は、妬む神である。
妬む、という事は、深く熱い愛情によって愛しておられる、という事だ。
相手を愛していれば、愛している程、相手が浮気したならその時の修羅場の度合いが酷くなるが、同じように、私達の神・主も、私達をねたむ程に愛しておられるのである。
『あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。』(申命記4:25)
偶像崇拝、それは「良き地」がたちまち「滅びの地」に早変わりしてしまう条件である。
主に対し不従順であったり、主の怒りを引き起こす事を、敢えて行い続ける者は、どんなに祝福の地のただ中にいても、そこを滅びの地としてしまうのだ。
それは現代の教会においても同じである。
実際、アナニヤとサッピラは、聖霊を欺いた故に、教会のただ中で滅ぼされた。
『主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。』(申命記4:27)
実際、イスラエルの歴史の中で、イスラエルが不従順と偶像崇拝の罪を犯し続けた故に、アッシリヤやバビロンに攻撃され、異国に散らされ、モーセの時代には六十万もいたイスラエル人は、エズラの時代には四万人ほどしか戻ってこなかった。
しかし、たとい人が不従順を犯したとしても、主は人を滅ぼしつくすという事はしない。
『その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。』(申命記4:28-29)
イスラエルの民は、捕囚先で、人が手で作った見ることも聞くことも出来ない味気のない偶像に仕え、そこで思い知った。
主に対して不従順である事がいかに罪深いか。
そして、偶像がいかに味気なく、主がいかに麗しく良きお方であるかを。
私達も、主を捨てて世俗に下る時、同じような体験をする。
主の支配から抜け出して来て、人間の作った味気ない決まり事を強要され、不公平で不完全なシステムに仕える時、人間の罪深さ、不完全さ、そして、一部の特権階級だけが甘い汁を吸うような、自己中心的な有り様に、嫌気がさしてくるのだ。
そして、つくづく思い知るのである。
世に仕えるよりも、主に仕えていた方が良かった、と。
『後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。』(申命記4:30-31)
主は、慈しみ深い。
私達を愛しておられる。そして、愛しておられるからこそ、時に厳しく懲らしめる事もある。
しかし主は、放蕩息子の帰りを待ちわびるように、離れている聖徒が主のもとに戻るのを、今か今かと待ち望み、そして帰ってきた時には、大きな喜びをもって迎えて下さるのである。(ルカ15章)