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礼拝説教メッセージ音声:見えるものによらず、御言葉によって(申命記4:9-19):右クリックで保存
モーセは、民がホレブで見た事を思い起こさせている。
イスラエルの民は、そこで大いなる光景を見た。
『あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう。」そこであなたがたは近づいて、山のふもとに立ったが、山は火で焼けて、その炎は中天に達し、暗黒と雲と濃い雲とがあった。』(申命記4:10-11)
モーセは、あのホレブで見たことを忘れるな、その事を子や孫に教えよ、と言っている。(申命記4:9)
あの時、火が山の上にあって、炎は中天に達し、山全体は黒雲に包まれて震え動き、雷鳴と角笛の響きが高く鳴り響く中で、主は降りて来られたのだが、その大いなる現象の中で、モーセが最も強調している事は、主はその中に見える形では見い出せなかった事だ。
「主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。」(12節)
後の時代の預言者エリヤも、同じ場所で、同じ体験をしている。(1列王記19:11-13)
イスラエルの民と、エリヤの二者が共通して体験した事は、主は大いなる現象を起こされたものの、主を見る事は出来なかった事、そして、主が御声をもって語られた、その内容のほうが、現象よりも重要である事だ。
『主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。その時、主はわたしに命じて、あなたがたに定めと、おきてとを教えさせられた。あなたがたが渡って行って自分のものとする地で、行わせるためであった。』(申命記4:13-14)
人々は何かと、主から石版をもらったとか、大いなる現象を見て体験したとか、そういった事を誇りやすい。
しかし大切なのは、その石板に記されている中身であり、その内容を、自分達の生活ステージのただ中で実行する事である。
いかに牧師が奇跡を行ったり感動的なメッセージをしたとしても、集っていた人達が、その与えられた御言葉を自分の生活の場に持ち帰り、それを守り行わないとしたら、何の益も無いのだ。
『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。』(申命記4:15)
主はここで再度、主について「なんの形も見なかった」と繰り返している。
私達も、目に見えるものにではなく、目で見えない御言葉にこそ、目を留めるべきなのだ。
『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:18)
そして主は、神といわれるものに関して、目に見える像を作る事を禁じている。(申命記4:16-19)
すなわち、自然界で目に見えるものは何でも、それが男であれ女であれ、動物であれ、天体であり、自分のためにそうした像を作って、それを拝んだりする事を禁じている。
『あなたはまた目を上げて天を望み、日、月、星すなわちすべて天の万象を見、誘惑されてそれを拝み、それに仕えてはならない。それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。』(申命記4:16-19)
昔の人は、地球が全ての中心で、太陽や月、星々は地球の周りを回っていると思っていたが、実のところ、それら星々のほうが、地球よりもはるかに大きかったのだ。
宇宙は、私達の目(地球から観測できる光)の届く範囲だけでも、137億光年もの広さがあり、そのさらに先はもっともっと広大な宇宙が広がっていると言われている。
その広大な宇宙に点在している星々も、太陽も月も、なんと、「それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。」
あの宇宙に浮かぶ巨大な星々は、このちっぽけな地球に住む万民に分け与えられたものなのだ!その事は、人の想像できる範囲を、遥かに超えている。
それ程に、主は、人の小さな頭では収まりきらないお方なのだ。
だから私達は、神に似せて何物も偶像(イメージ)を作ってはならない。
それはあまりにも愚かな事だ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪魔 - 日夜兄弟姉妹を訴える者(ゼカリヤ3:1-5):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 誓いについて(マタイ5:33-37):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
贅沢三昧の都の最後(黙示録18:14-24):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主の言葉に対して取るべき姿勢(申命記4:1-8):右クリックで保存
『イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを「聞いて」、これを「行い」なさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。』(申命記4:1)
主の御言葉を「聞いて」「行う」事、これはキリスト者がいつでも保つべき重要な姿勢である。
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようである。(ヤコブ1:23)
御言葉を聞いて行うなら、その人は、その行いによって祝福され、主が与えて下さる「良き地」で長く生き、生涯、良きもので満たされるのだ。
『完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:25) と、記されている通りである。
また、御言葉の権威に対し、人がつけ加えたり、減らしたりしてはならない。
『わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。』(申命記4:2)
黙示録にも、同じことが記されている。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)
御言葉を聞いたなら、それをそのままいただく事、それが、御言葉に対する正しい対応である。
しかしパリサイ人は、純粋な御言葉に多くの人間的解釈という「混ぜ物」を加えた事によって、自分自身だけでなく、多くの人々も、がんじがらめにして神の国から遠ざけてしまった。
御言葉は、主の息吹(霊)が込められており、主のご性質そのものが現れている。
そして御言葉は、世が滅んでも決して滅びる事なく、永遠に残る、決して変わらぬ真実である。
それを人間ごときが、自分の好き勝手によって加えたり減らしたりはできない。
もし、人が「御言葉を超える真理を編み出した」と思っても、その人はやがて消えていくだけである。
主は何のために、イスラエルに定めとおきてとを与えられたか。
それは、イスラエルの民が、その生活ステージのただ中で、「守って」「行う」ためである。
『しかし、あなたがたの神、主につき従ったあなたがたは皆、きょう、生きながらえている。わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。あなたがたは、これを「守」って「行」わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。』(申命記4:4-6)
この、御言葉を「守る」事と「行う」事、これもキリスト者がいつも目を留めておくべき重要なキーワードである。
もし私達が、御言葉を守り、行うなら、主が力強き御手でもって働かれ、それを見た周囲の人々は驚き、主の栄光は大いに広がるのである。
『われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。』(申命記4:7-8)
主は、インマヌエルなるお方、すなわち、共におられる神。
私達が寝ている時も、起きている時も、家にいる時も、仕事場にいても、また、若い時も、年老いた時でも、主は、主を恐れ敬う聖徒といつも共におられる神である。
白髪頭になっても、主は私達をおぶって運んで下さる。(イザヤ46:4)
この主にあって、私達はまさに特権階級である。
地上においても、永遠においても、主にあって幸いと祝福を得ていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:断られてしまったモーセの願い(申命記3:23-29):右クリックで保存
モーセは、荒野放浪の最後の年に犯してしまったあのメリバでの過ちの故に、約束の地には入れないと宣告されていた。(民数記20章)
あれだけの実績を残したモーセが、なぜ、ただ一度の失敗の故に、約束の地に入れなくなってしまったのか。
それは、荒野で40年もイスラエルと共に歩んできた「岩なるキリスト」に、尊敬と信頼をもって「語りかけ」、水を出していただくべきだった所を、民を怒る怒りに身を任せ、御言葉を無視し、岩なるキリストを二度「打って」しまったからだ。
「打つ」のヘブル語「ナーカー」には、他にも「罰する」「殺す」などの意味がある。十字架上で一度打たれ罰されたキリストを、二度も打つような事は、いかにモーセのような実績を残した人と言えども、許されないのだ。
(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1649&cid=35 )
彼らが約束の地に近づくにつれ、主は次々と輝かしい勝利をイスラエルに与えて下さっている様を見たモーセは、ああ、やっぱり自分も約束の地に入りたい、と思ったのだろう。
彼は「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしてみたが、主の返事は、とてもつれなかった。
『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。しかし、おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう。』(申命記3:26-28)
私はかつて、この箇所を読んだ時、すごい切なさを覚えた。
それは、長い間ある事を主に願い求めて来たのに、主からは何の返事も無く、また与えられる兆候も無く、ただ延々と断られ続けているかのように感じていた時だった。
イスラエルを約束の地に入れようと、長い年月、多くの苦労をしながら、主のために働いて来たあのモーセが願ったのに、主がすげなく断ってしまう様を見て、やるせない気持ちになったものだが、後になって思い返すと、あの時の私は、モーセと自分を連ねるなど、全くもっておこがましく自分勝手な状態だった事に気づいた。
モーセの場合は、主が示された約束の地に入れなくて切ない思いをしている、というのに、あの時の私は、全く逆だった。
つまり私は、神の国の事よりも、世の幸いや栄えを求めていて、それが与えられないからと悲しんでいたのだ。
私はずっと主にあって世から守られ、神の国の中で主と共にいたというのに、そんな素晴らしい状態に気づかず、むしろ、世のスタンダードに従って生きようとし、世間的に「幸せ」とされている事が満たされるほうを、願い求めていたのだ。
それまで、自分はまっとうなクリスチャンとして歩み、主が約束された国を望み見て歩むヨシュアとカレブの側の生活をしていた、と、思っていたら、実は全く逆で、むしろ世(エジプト)をなつかしみ、荒野でマナしか無い事を「みじめだ」と言って嘆いている、あの、荒野で滅ぼされてしまったイスラエル人のパターンに陥っていたのだ。
私は今や、主にとても感謝している。
主が私に計画されていた事は、世間一般の人たちが得ている普通の楽しみより遥かにまさる者として召しだされ、人々を永遠のいのちへと導き救うようにと、永遠の栄光をもたらす務めに任じられており、御言葉という、決して変わらぬ愛の法則を伝える栄光にあずかっているのだから。
よくぞ主は、私を世の中に安住する事を留め、自分で思っても見なかった程の栄光と幸いを与えて下さった、と、本当に感謝している。
皆さんも、かつての私のように、神の国の事ではなく、世の栄えや世の楽しみが与えられない事で、切なくなっていないだろうか。
私達が目指し、近づいているのは、世の栄華よりはるかに優れた、天の故郷である。
『また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。・・・
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。』(ヘブル12:16-25)
礼拝説教メッセージ音声:戦いも報酬も共に受ける(申命記3:12-22):右クリックで保存
続いてモーセは、ヨルダン川の東側で既に獲得した土地の分与をする。
『その時われわれは、この地を獲た。そしてわたしはアルノン川のほとりのアロエルから始まる地と、ギレアデの山地の半ばと、その町々とは、ルベンびとと、ガドびととに与えた。わたしはまたギレアデの残りの地と、オグの国であったバシャンの全地とは、マナセの半部族に与えた。すなわちアルゴブの全地方である。(そのバシャンの全地はレパイムの国と唱えられる。』(申命記3:12-13)
民数記32章を見ると、ヨルダン川の東側の領土を下さい、と、モーセに願い出たのは、ルベン族とガド族からだった。
彼らの当初の願いは、「もし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:4)という、自己中心的なものだったが、モーセに咎められ、要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地を先に受ける代わりに、他の部族が戦いに出る時は、一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)
主からの幸いを、ある兄弟姉妹は先に、ある兄弟姉妹は後に与えられる事がある。
その時、先に与えられた兄弟姉妹は、そこに安住し、まだ与えられていない兄弟姉妹をないがしろにしてはならない。
ルベン・ガド族、マナセの半部族は、先に領地が与えられたが、モーセは、イスラエルの全部族が領地を勝ち取る時まで、彼らは共に戦わなくてはならない、と命じた。(申命記3:18-20)
これはキリスト者全員にも言える事である。
他の兄弟姉妹が皆、一致して信仰の戦いをしているのに、自分達が先に幸いを得たからと言って、戦いを降りて安住するのは、神の民のする事ではない。
なぜなら、主にある兄弟姉妹は皆、キリストの体の各器官であり、互いが互いを助け合い、いたわり合い、共に喜び、共に悲しみ、そうしてキリストにある「一つ」を実現するように、召されているからである。
『それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。』(1コリント12:25-27)
だから、もし他の兄弟姉妹より先に幸いを得たとするならば、まだ得ていない兄弟姉妹が得る時まで、一緒になって戦うべきである。
『マナセの子ヤイルは、アルゴブの全地方を取って、ゲシュルびとと、マアカびとの境にまで達し、自分の名にしたがって、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけた。この名は今日にまでおよんでいる。)またわたしはマキルにはギレアデを与えた。』(申命記3:14-15)
民数記を見ると、当初、ヨルダン川の東側の領土を下さいとモーセに願い出たのは、ルベン族とガド族だけだったはずだが、途中からマナセの半部族も、それに加わっている。
もしかしたら、ルベン、ガドの申し出が通ったのを見て、「自分も」と進み出たのかもしれない。
しかも、マナセ族は積極的にエモリ人を攻撃し、勝ち得た土地に堂々と自分達の名をつけている。(民数記32:39-42)
このように、ある人が幸いを先取りして与えられたのを見て、信仰を奮い立たせ、積極的に進み出て大胆に勝ち取っていく兄弟姉妹もいるのだ。
またモーセは、次期イスラエルの指導者となるヨシュアに、特別に教えた。
『あなたの目はあなたがたの神、主がこのふたりの王に行われたすべてのことを見た。主はまたあなたが渡って行くもろもろの国にも、同じように行われるであろう。彼らを恐れてはならない。あなたがたの神、主があなたがたのために戦われるからである。』(申命記3:21-22)
ヨシュアは、主が戦われ、主が圧倒的に勝利を与えて下さるのを、モーセの近くでつぶさに見、神が活き活きと働かれるのを体験した。
そしてモーセ亡き後も、主は必ず同じように働かれ、共に戦って下さる、だから、恐れるな、とモーセは力づけた。
私達も、主からいただいた恵みを数えて見ると良い。
人生のあの時もこの時も、主があのように働いて下さった、だから今目の前に起きているこの問題も、必ず主と共に乗り越えて行ける、と、勇気が湧いてくるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:巨人をも打ち倒す(申命記3:1-11):右クリックで保存
主はシホンに続き、オグの治めるバシャンと戦うように命じられた。
『そしてわれわれは身をめぐらして、バシャンの道を上って行ったが、バシャンの王オグは、われわれを迎え撃とうとして、その民をことごとく率い、出てきてエデレイで戦った。時に主はわたしに言われた、『彼を恐れてはならない。わたしは彼と、そのすべての民と、その地をおまえの手に渡している。おまえはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように、彼にするであろう』。』(申命記3:1-2)
今回の敵は、さらに強敵である。
城壁のある町が六十あり、城壁のない町もまた数多くある。
城壁の町がそれだけ多い、という事は、この地方には争いが多くあり、野蛮な性質で戦い慣れしている、という事だ。
もしかしたらイスラエルには、バシャンの国に対する恐れがあったのかもしれない。
しかし主は、恐れるな、と言われた。
四十年前、彼らの親の世代のイスラエルは、城壁の町々や先住民に恐れをなして不信仰に陥り、主に逆らったが、主はその不信仰な世代を荒野で滅ぼし、子の世代の信仰を荒野で徐々に鍛えられた。
そして彼らは、実際に主の命令どおり進んで行き、勝利した。
『こうしてわれわれの神、主はバシャンの王オグと、そのすべての民を、われわれの手に渡されたので、われわれはこれを撃ち殺して、ひとりをも残さなかった。その時、われわれは彼の町々を、ことごとく取った。われわれが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十。アルゴブの全地方であって、バシャンにおけるオグの国である。これらは皆、高い石がきがあり、門があり、貫の木のある堅固な町であった。このほかに石がきのない町は、非常に多かった。』(申命記3:3-5)
これは、実に圧倒的な、そして、あっけない勝利だった。
ヘシュボンやバシャンの平定は、出エジプトから第40年目の、わずか一年以内に行われたはずである。
その一年以内で、このバシャンの戦いだけでも城壁の堅固な町を六十も攻め落としたのだから、戦績としては素晴らし過ぎるものがある。
それが、主が共におられ、主が戦われる時の戦績である。
『バシャンの王オグはレパイムのただひとりの生存者であった。彼の寝台は鉄の寝台であった。これは今なおアンモンびとのラバにあるではないか。これは普通のキュビト尺で、長さ九キュビト、幅四キュビトである。』(申命記3:11)
つまり、長さ4メートル、幅180センチ程である。その大きさから察するに、バシャンの王オグは、3メートルを超す巨体だったのだろう。
親の世代はたじろいだが、しかし今やイスラエルは、主にあって、彼らを打ち負かした。
この巨大な鉄のベッドは、主に信頼し主の御心に叶った戦いをするなら、こんな巨大な敵さえ打ち破る事が出来る、という、自信につながる記念品となった事だろう。
およそ40年前、ヨシュアとカレブは、知っていた。
敵がいかに強大であっても、主が共にいるなら、簡単に打ち破る事が出来る事を。
『ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」』(民数記14:6-9)
たといヨシュアとカレブのような、見ないでも信じられる信仰の持ち主でなくても、主は徐々に、耐えられるように、信仰を鍛えさせて下さる。
『あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。』(1コリント10:13)
今、皆さんが進むべき未来の前に、勝ち得ていくべき土地の前に、邪魔な巨人が立ちはだかっているだろうか。
もし皆さんが、主の御言葉に聞き従ってその通りに行うなら、相手が人間であれ、霊的存在であれ、何か制度的な問題であれ、主が祝福を約束され、いかに巨大な敵であろうと、主にあってあっけなく勝利できるのだ。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。・・・あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。 』(レビ記26:3-8)
栄光の家系の女達 - マリヤ3 マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)
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『わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救主なる神を「たたえ(大いに喜び)」ます。 この卑しい女をさえ心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしを幸いな女と言うでしょう。』(ルカ1:46-48)
ルカ1:46〜55の箇所は「マリヤの賛歌」と呼ばれる有名な歌である。マリヤは自分を、「どの時代の人々もうらやむ幸いな女」と言う程、喜びに喜んだ。彼女のように大いなる幸いを得るための秘訣を探りたい。
彼女が主を「あがめる」と言った言葉は、ギリシャ語で「メガリュオー」、「大きくする」という意味であり、また「卑しい(タペイノシス)」と自分を呼んだ言葉は、「低い」「陽のあたらない」等の意味がある。
つまり、マリヤの魂は主を大きくし、自分を低く、卑しくしたのだ。
バプテスマのヨハネも、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったように、主を大きくし、自分を小さくする姿勢こそ、聖書で成功している聖徒達の性質であり、私達もならうべき姿勢であり、そして、世の何者にも勝る平安と喜びに満たされるコツである。
逆に、神を「小さく」して、自分を「大きく」する事、それは神の力を自ら制限する事に他ならない。
私達が心配したり、自分の事で頭がいっぱいになっている時、神を小さくし、働けなくしてしまっているが、自分を下ろし、神を大きくするなら、無限なる神が主体性を持って働かれ、大きな事を為して下さる。
私達は、主に対しては清純な乙女として低くへりくだるべきであるが、世に対しては、王族の祭司として主イエスの名によって大胆に神の子としての主権を行使し、サタンに対しては、イエスの名によって強く雄々しく立ち向かい、大いに勝利し分捕るべきである。
マリヤは続いて、傲慢な者がたどる道についても歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いの奢り高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』
自分を大きくし、主たるお方を小さくするのは、聖書では失敗する典型であり、強制的に低くされてしまう。
例えば、アブラハムの妻・サラの女奴隷であったハガルは、自分が身篭ったのを知ると、アブラハムの家の「はしため」である地位を忘れ、傲慢になり、女主人であるサラを軽んじるようになった。(創世記16章)
マリヤは、神の子を身篭った事を聞いた時、自分を卑しく低くしたが、ハガルはその全く逆だった。
それ故ハガルは追い出され、道を行く途中、主の使いに声をかけられた。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」 主の使いはハガルの本来の立場である「サライの女奴隷」と呼び、彼女はそれに対し、自分は「”女主人”サライのもとから逃げているところです」と答えた。
彼女がもし「自分はアブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張していたら、どうなっていただろうか?それは、アダムやエバ、カインが自己主張した結果を見れば、大体想像できる。
彼女が正しい立ち位置を宣言したので、主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と、本来あるべき姿、あるべき所へ帰るよう諭し、そして、「あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束も与えられた。主従関係において、正しい立ち位置に戻るなら、主は祝福を戻して下さるのである。
キリストは、神であられるのに自分を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
このように、神の力強い御手の下にへりくだるなら、神はちょうど良い時に高くして下さるのだ。(1ペテ5:6)
マリヤは、霊においては「救い主」なる神を、大いに喜び楽しんだ(47節)。
皆さんは、若い花嫁が花婿を喜び楽しむように、主を喜び楽しんでいるだろうか?
私達を再建して下さる主もまた、私達を喜びとされる。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
マリヤが大いに喜んだ根拠は「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったから」だった。
万物はキリストのために存在し、キリストにあって成り立っている。その偉大な主が、私達の所に下りて来られ、私達と実際に関わり、しかも、私達の内に宿って下さる。それはどんなに莫大な喜びであろうか。
「そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」(ルカ1:49-50)
マリヤに与えられた、途方も無い幸いと祝福は、主を大きくし、自分を低くする人のものなのだ。
万物の存在の根拠なる主を喜び楽しみ、そして、その主からも喜び楽しまれる皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
新しくなるために(イザヤ43:16-21):右クリックで保存
キリスト教会 説教メッセージ
【概要】
キリストにある者は新しく造り変えられた存在であり、古い性質は過ぎ去り、すべてが新しくされる。神は荒野に道を、荒地に川を設け、神の民を新しく造り変えて、神の栄光を宣べ伝える者としてくださる。
【聖書箇所】
-
イザヤ43:16-21
-
2コリント5:16-19
-
コロサイ3:1-11
【励ましの言葉】
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キリストのうちにあるなら、誰でも新しく造り変えられる
-
古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなる
-
主は荒野に水を湧き出させ、荒地に川を流してくださる
-
私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されている
【勧めの言葉】
-
キリストのうちに留まり続けなさい
-
先のことども、昔のことどもを思い出さず、主の新しいわざに目を向けなさい
-
肉的な標準ではなく、キリストを中心に考えるように造り変えられなさい
-
真理によって思いを塗り替え、神の子らしく歩みなさい
【戒めの言葉】
-
偽りに騙されてはいけない
-
以前の古い欲に戻ろうとする誘惑に負けてはいけない
-
地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい
【AIによる文字起こし】
【第1部】(冒頭〜「先のことどもを思い出すな」の勧めまで)
今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書43章16節から21節です。
イザヤ43:16-21
「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主は、こう仰せられる。彼らはみな倒れて起き上がれず、灯心のように消える。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ、わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。
確かにわたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルやダチョウもわたしを崇める。わたしが荒野に水を湧き出させ、荒れ地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
アーメン。
主は、造り替えの主であられます。私たちの古い性質を過ぎ去らせ、終わりとし、神の子として、まったく新しく造り替えてくださるお方です。罪の性質を取り除き、神の子にふさわしい性質を新しく形づくり、ジャッカルやダチョウにたとえられるようなあり方をも取り除いて、私たちを聖なる者として新しくしてくださる主です。
「福音」とは、良い知らせです。では、何がそれほど良い知らせなのでしょうか。なぜ私たちはイエス・キリストを慕い、なぜ教会へ集うのでしょうか。
教会に食べ物があるから、ということではありません。私たちは御言葉を聞くために来るのです。御言葉によって、私たちは整えられ、日々新しく造り替えられていきます。かつてはダチョウのような性質を抱えていたとしても、御言葉を聞き、受け取る者へと、主は造り替えてくださいます。
実際に、「ダチョウのような性質も神を崇める」という御言葉を信じて祈り続けるうちに、かつての性質が取り除かれ、驚くほど穏やかで品位ある人へと造り替えられていく姿を、私たちは目の当たりにすることがあります。
福音が良い知らせである理由の一つは、まさにここにあります。古いものが過ぎ去り、すべてが新しくされる――その秘訣が御言葉の中にあり、イエス・キリストのうちにあるからです。だから私たちは教会に集い、御言葉に耳を傾けるのです。
主は、イザヤ書43章で「先のことどもを思い出すな。昔のことどもを考えるな」と仰せになります。礼拝の中に、なお「先のことども」「昔のことども」、あるいは、さきほどまで心を占めていた思い煩いや不安を持ち込んだままでいるなら、ここで受け取るべき恵みを受け損ねてしまいます。
ですから今、私たちの思いを主の御前で静め、主に向け直しましょう。先のことども、思い煩いを、今この時、主の手にお委ねしましょう。
【第2部】(造り替えの確かさと「目的」〜2コリント5:16-17まで)
皆さんはキリストにあって、確かに造り替えられます。たとえ私たちがしつこく過去を思い返し、古い性質に引き戻されそうになったとしても、主はなお私たちに働きかけてくださいます。私たちが主に立ち返るなら、それでよいのです。
ただし、この恵みの招きには、私たちが軽んじてはならない厳粛さもあります。私たちが「立ち返るべき時」を先延ばしにしてよいのではありません。主に立ち返るなら、造り替えは確かに起こります。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。
なぜ、私たちは造り替えられるのでしょうか。そこには神の目的があります。20節が語るとおり、主を崇める者となるためです。
「ジャッカルやダチョウもわたしを崇める」とあるのは、主が荒れ地に川を流し、主の民、選ばれた者に飲ませてくださるからです。どれほど荒れた者であっても、どれほど愚かさを抱えていたとしても、主はその人を潤し、主を崇める者へと導かれます。
さて、この造り替えには、聖書がはっきり示す要点があります。御言葉は「無条件に、だれでも自動的に新しくなる」と語っているのではありません。鍵となるのは、**「キリストのうちにあるなら」**ということです。キリストのうちにあるなら新しくされます。キリストのうちにとどまらないなら、造り替えは実を結びません。
そのことを、第二コリント5章は明確に語ります。
2コリント5:16-17
「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
アーメン。
キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。私たちが教会に集うのは、ただ何かを享受するためではなく、御言葉を受け、キリストのうちにとどまり、造り替えにあずかるためです。キリストのうちにあるなら、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなります。
教会においては、かつて「人間的な標準」、すなわち肉的な物差しで物事を見ていた者が、その枠を越え、キリストを中心にして考え、歩む者へと変えられていきます。
この「人間的な標準」とは、直訳すれば「肉によって」という意味合いです。かつては肉的な考え方でキリストを理解していたとしても、今はもはや、そのような知り方はしません。
世の多くの人は、キリストを、過去の偉人の一人のように捉え、聖書を昔話のように扱うことがあります。残念ながら、教会の中にも、そのような伝え方にとどまってしまうところがあるかもしれません。しかし私たちは、肉的な標準でキリストを知ろうとはしません。キリストのうちにあるなら、造り替えが起こるからです。それは昔も今も変わりません。使徒パウロの時代と同じ造り替えが、今日を生きる私たちにも起こり得るのです。
【第3部】(ペテロとユダの対比〜「和解の務め」まで)
ペテロは、イエス様を知らないと三度言いました。しかし彼は造り替えられました。なぜなら、倒れながらも、なおキリストのもとにとどまったからです。
一方、イスカリオテのユダは、最後まで自分の価値観に固執し、キリストのもとに立ち返る道を選びませんでした。自分の歩みを自分で結論づけ、そこで終わらせてしまいました。
しかしペテロは、自分の誇りを脱ぎ捨てました。「もはや自分は何者でもない。ただキリストにすがるしかない。」その姿が、復活の主と再会したときに表れます。ペテロは上着をまとい直し、そして水に飛び込み、主のもとへと向かったのです。裏切りの痛みを抱えながらも、なお主を手放さなかったのです。
私たちも、自分の弱さや罪に打ちひしがれることがあるでしょう。しかしそのときこそ、何もかも抱えたままで、キリストのもとへと走り寄るのです。そうするなら、造り替えは起こります。ペテロは大胆な証人へと造り替えられ、多くの人々の前で、イエス・キリストを証しする者となりました。キリストのうちにあるなら、だれでも造り替えられるのです。古いものは過ぎ去り、新しくされます。
ただし、これらは、私たちを単に心地よくさせるための出来事ではありません。私たちが新しくされるのは、「神から出ている」からです。造り替えは神の御業であり、神の目的に結びついています。
第二コリント5章18節から19節は、その目的を語ります。
2コリント5:18-19
「これらのことはすべて神から出ているのです。神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」
私たちには「務め」があります。これは働き(ミニストリー)です。主が私たちを造り替えるのは、私たちがこの職務――和解の務めを担うためです。神とこの世とを和解へ導くための務めです。
イエス様は今、地上において肉体をもっておられる形ではおられません。しかし私たちは肉体をもっています。キリストは、私たちを通して、和解の務めを進められます。神がこの務めを地上でなされるとき、神は私たちを用いられるのです。
私たちは「自分に務めが果たせるのか」と恐れを覚えるでしょう。しかし主は、私たちにその務めを託されました。だからこそ、私たちは新しく造り替えられた者とされたのです。肉的な思考に支配される歩みを脱ぎ捨て、神の御心のために整えられていくのです。以前のものは過ぎ去ります。
【第4部】(コロサイ3章〜たとえ〜コロサイ3:5-11〜結び)
それゆえ、私たちはもはや、以前の「肉的な標準」によって動くのではありません。肉的な思考パターン、肉的な衝動に導かれる歩みから、主は私たちを解放し、神の和解の務めのために整えてくださいます。以前のものは過ぎ去ります。
そして、そうであるならば、聖書ははっきりと語ります。もはや以前のものは、「死んだ」のです。過去形で記されています。そのことが、コロサイ人への手紙3章に書かれています。
コロサイ3:1-4
「こういうわけで、もしあなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。
あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現れると、そのとき、あなたがたもキリストとともに栄光のうちに現れます。」
アーメン。
ここには、「あなたがたはすでに死んでおり」と明確に書かれています。そして、「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されてある」とあります。つまり、真理の上では、すでに「古い人」は終わり、私たちはキリストとともに死に、そして新しい命に生かされているのです。これは事実です。
ところが、私たちがなお「死んでいないかのように」、あたかも古い人のままで生きているかのように振る舞ってしまうことがあります。それは、頭の中に残っている古い思考パターン、古い記憶、古い思い込みが、なお強く私たちを引きずるからです。真理の上では新しくされたのに、古い考え方で動いてしまうと、結果として「古い自分」であるかのように生きてしまうのです。
ここで、たとえ話をいたします。もし仮に、「イエス・キリストを信じた犬が人間になる」という法則があるとしましょう。犬は四本足で歩きますね。ところが、その犬が信じて、すでに人間に造り替えられたにもかかわらず、なお四本足で歩き続けているなら、それは以前の行動パターンが染みついたままだからです。
しかし神の目から見れば、また周囲の客観的な目から見れば、その存在はすでに「犬」ではなく「人間」になっています。けれども本人の内側だけが、「自分は犬だ」という古い認識のまま生きてしまっている――そういう状態に似ています。
だからこそ必要なのは、頭の中に残る古いパターン、古い思い込みを捨てて、真理を適用することです。「自分はキリストにあって新しく造り替えられた。古い命は終わった。新しい命が与えられた。」この真理をもって、自分の思いを塗り替えていくのです。
真理によって思いを塗り替えていくとき、私たちはますます神の子らしく整えられていきます。たとえ話の中でも、もし「自分はもう犬ではない。人として生かされているのだ」と理解するなら、以前の習慣を改め、ふさわしい歩みに向かっていくでしょう。もちろんこれは比喩ですが、言いたいことは明確です。私たちもまた、「古い自分はすでに終わった」という真理を、御言葉によって思いに刻み、日々塗り替えていく必要があるのです。
コロサイ3章3節を、改めて味わいましょう。
コロサイ3:3
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されてあるからです。」
アーメン。
この御言葉を、どうか思いの深いところに塗り込んでください。
そうするなら、古い生活パターン、古い罪の思考、古い反応は、御言葉によって少しずつ塗り替えられていきます。そして、神の子としての実態を、ますます身にまとっていくようになります。神の子としての栄光が、生活に現れてくるのです。造り替えが進んでいきます。
続いて、コロサイ3章5節以降を読みます。
コロサイ3:5-11
「ですから、地上の体の諸部分、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。
このようなことのために神の怒りが下るのです。あなたがたも以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
しかし今は、あなたがたもすべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至るのです。
そこには、ギリシア人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スキタイ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」
アーメン。
ここで9節は、「互いに偽りを言ってはいけません」と語ります。これは、互いに対してだけではなく、自分自身に対しても、また敵のささやきに対しても、真理を守りなさいということでもあります。私たちは騙されてはなりません。
サタンはしばしば、「以前のほうがよかっただろう」「その欲に戻れば楽になる」と、偽りを吹き込んできます。しかし、騙されてはなりません。私たちはすでにキリストにあって、新しい人を着たのです。古いものは過ぎ去りました。
「新しい人は、造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至る」とあります。つまり、造り替えは一度きりの出来事で終わるのではなく、主の御手の中で、さらに進み続けていきます。
ですから、怒り、憤り、悪意、そしり、貪り、恥ずべきことば――そうしたものに引きずられないようにしましょう。
私たちのアイデンティティは「神の子」です。古い人は過ぎ去り、古い命は終わり、キリストにあって新しい命が与えられました。これが私たちの真理であり、立つべき土台です。
たとえ話のように、もし私たちがなお古い歩み方に戻ろうとするなら、それは「古い認識」に引きずられているからです。しかし、御言葉の真理をもって思いを塗り替えるなら、私たちは新しい命にふさわしく歩むことができます。神の子として、ますますキリストの似姿へと造り替えられていきます。
どうか皆さんが、古いものに縛られず、キリストにあって新しい命を大胆に生き、ますます新しくされていきますように。主が私たちを造り替えてくださることを信じ、真理のうちに立ち続ける者となれますように。
主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者であり、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった。私たちはすでにキリストとともに死んでおり、私たちのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。肉的な思考パターンや古い行動パターンを真理によって塗り替え、神の子としてのアイデンティティをしっかりと持って、神の和解の務めを果たすために、キリストの似姿へとますます造り変えられていく歩みを続けよう。
