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礼拝説教メッセージ音声:芽を出したアロンの杖(民数記17:1-11):右クリックで保存

古今東西、人々の上に立つ人は、どんなに完璧であっても、謙遜であっても、人々からの攻撃が絶えないものであるが、主は、アロンこそ、主が立てた大祭司である事を誰も反論できないように「しるし」を与えられた。

『「イスラエルの人々に告げて、彼らのうちから、おのおのの父祖の家にしたがって、つえ一本ずつを取りなさい。すなわち、そのすべてのつかさたちから、父祖の家にしたがって、つえ十二本を取り、その人々の名を、おのおのそのつえに書きしるし、レビのつえにはアロンの名を書きしるしなさい。父祖の家のかしらは、おのおののつえ一本を出すのだからである。そして、これらのつえを、わたしがあなたがたに会う会見の幕屋の中の、あかしの箱の前に置きなさい。
わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。こうして、わたしはイスラエルの人々が、あなたがたにむかって、つぶやくのをやめさせるであろう」。』(民数記17:2-5)

生物の「木」としてのいのちは死んでいる「杖」から、いのちが吹き出す。
この「死からの復活」を「しるし」とし、アロンこそ、神が直接任命した大祭司である事を人々に示すのだ。

死からの復活を、神の権威のしるしとする。
そのしるしは、創世記から黙示録に至るまで、聖書の随所にある。

神は、生物的には死んだも同然のアブラハムから、いのちを起こされた。
百歳の男と、九十歳の女との間から、いのちが生まれる。それはまさしく、神が働かれたとしか思えない。
この、死の中から生まれ出たイスラエル民族こそ、神の選ばれた民であると、人類は知るのだ。

イスラエル民族は、幾度も、他民族の虐待によって滅亡の危機に陥った。古くはエジプトにはじまり、バビロン捕囚やユダヤ戦争、近年のホロコーストなど、民族滅亡の危機が幾度も訪れたが、それでも生き残っている。これは他の民族では、考えられない。
全能なる神が働いて、守っているとしか、考えられない。

『その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどう(アーモンド)の実を結んでいた。』(民数記17:8)
果たして、モーセとアロンが一晩掛けて、精巧にアーモンドそっくりの模造品をこしらえたのだろうか?
いや、現代の技術をもってしても、本物の命と見まごうような物を作り出す事は出来ない。
偽物の命であったら、すぐに分かってしまうものだ。

人は、いのちを造り出す事も、模造する事さえも出来ないし、まして人は、死んだいのちをよみがえらせる事など、できない。
人類は古くからそれを願い、努力し求めて来たが、未だにそれには至っていない。
いのち。それは神にしか出来ない作品であり、死からの復活こそ、神のあかしである。

『主はモーセに言われた、「アロンのつえを、あかしの箱の前に持ち帰り、そこに保存して、そむく者どものために、しるしとしなさい。こうして、彼らのわたしに対するつぶやきをやめさせ、彼らの死ぬのをまぬかれさせなければならない」。』(民数記17:10)
人々は、この新しく息吹いたいのちを見て、アロンこそ、神が選ばれた祭司だと、認めざるを得なかった。
それでも逆らう民はいたが、神が「死と復活」のしるしを示し、認定された以上、それに逆らうとしたら、もはや弁解の余地は無く、その者は、死を免れる事は無い。

死と復活。これこそ、神が選んだ事のしるしであり、神が最も顕著に示した「死と復活のしるし」は、イエス・キリストの十字架である。
神は、杖という木からいのちが芽吹く事によって、アロンこそ、神が認定された祭司である事を示された。
同じように、十字架という木の死から復活したキリストこそ、唯一まことの大祭司であると、神は示されたのであり、それを否定する者には弁解の余地なく、滅びが待っている。

主は、いのちが息吹かれたアロンの杖を、あかしの箱の前に持ち帰りなさい、と言われた。
あかしの箱の中には、次の三点のものがある。すなわち、マナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板である。(ヘブル9:4)
これら三種は皆、神ご自身の手による、人々への「あかし」である。
契約の石板は、神の指によって記された、神から人への言葉、御言葉であり、マナのはいっている金のつぼは、天から与えられた神からの食物、神からのいのちの養いであり、芽を出したアロンのつえは、神が公認した祭司のしるし、それも、死と復活による祭司のしるしである。

これら”三種の神器”は、全て、キリストをあかししている。
契約の石板は、天から降った御言葉であるキリストをあかしし(ヨハネ1:1-14)、マナのはいっている金のつぼは、天から降ったまことの食物であるキリストをあかしし(ヨハネ6:47-51)、芽を出したアロンのつえは、神が公認した祭司、それも、死と復活を経た大祭司であるキリストをあかししている(ヘブル5:1-10)。
復活のいのち。それこそ、神のあかしである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様も乗った小舟で(マルコ4:35-41):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主を求める人が密かに味わう宇宙規模の不思議(マタイ2:1-12):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
女と竜と男の子(黙示録12章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:つぶやき - 一万四千七百人が倒れた災いの元凶(民数記16:41-50):右クリックで保存

『 その翌日、イスラエルの人々の会衆は、みなモーセとアロンとにつぶやいて言った、「あなたがたは主の民を殺しました」。』(民数記16:41)

前回、あれだけの主の恐ろしさを垣間見ながら、また、主が立てられた権威者であるモーセとアロンに逆らった者に対する、あれだけの恐ろしい罰を見ながら、なんと、翌日から早速つぶやきはじめている。
しかも、彼らはみなモーセとアロンが殺した、と言っているのだ。
一体、モーセとアロンが大地を裂けさせて逆らう者達を突き落としたとでも言うのだろうか。一体、モーセとアロンが火炎放射器のようなものでで250名を焼き殺したとでも言うのだろうか?
あれだけ明確に「主が為された」のに、民はなお主を見ず、主を無視し、モーセとアロンに言い逆らう。
主の警告と主の存在を無視したような、度重なる民の不従順を、主はそのまま見過ごしにはされない。

『会衆が集まって、モーセとアロンとに逆らったとき、会見の幕屋を望み見ると、雲がこれをおおい、主の栄光が現れていた。モーセとアロンとが、会見の幕屋の前に行くと、主はモーセに言われた、「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼそう」。そこで彼らふたりは、ひれ伏した。』(民数記16:42-44)

民が主を怒らせ、主が民を滅ぼそうとし、そのたびに、モーセとアロンがひれ伏して取り成す。
もう幾度、このパターンを見ているだろうか。
それ程に、民の愚かさは根強く、それ程にモーセとアロンの取り成す心は深い。

『モーセはアロンに言った、「あなたは火ざらを取って、それに祭壇から取った火を入れ、その上に薫香を盛り、急いでそれを会衆のもとに持って行って、彼らのために罪のあがないをしなさい。主が怒りを発せられ、疫病がすでに始まったからです」。』(民数記16:46)

今までのパターンなら、主が「滅ぼす」言っても、モーセがすぐに執り成し、主はそれで災いを留められていたが、今回、モーセが執り成す間も無く、すぐに災いが始まっている。
このままでは、民全体はじきに滅ぼされてしまう。
そこでモーセは、アロンに命じたのだ。

『そこで、アロンはモーセの言ったように、それを取って会衆の中に走って行ったが、疫病はすでに民のうちに始まっていたので、薫香をたいて、民のために罪のあがないをし、すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立つと、疫病はやんだ。』(民数記16:47-48)

大祭司アロンは、祈りの香、宥めの香りを持って、走って行った。
アロン自身を悪しざまに罵った、当の本人達を、救うために。
自分も疫病に打たれてしまうかもしれないリスクを顧みず、執り成しに行くために、死んだ者と生きている者との間へと走っていった。

この大祭司アロンの行動は、私達の大祭司である主イエス・キリストの有り様を示している。
主は、そむいた私達を救うために、天から降りて来られ、罪とがの中でもがいている私達の中に飛び込んで来られ、死んだ者と生きている者との間に立ち、父なる神に執り成しておられる。

主は、私達にも、祭司として執り成し祈る事を求めておられ、罪とがの故に滅ぼされていく人々の間に立ち、祈りの香を立ち上らせる事を求めておらる。
もし、執り成し祈る人がいないとしたら、主はその所を滅ぼしてしまう。
『わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。それゆえ、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、わが憤りの火をもって彼らを滅ぼし、彼らのおこないを、そのこうべに報いたと、主なる神は言われる」。』(エゼキエル22:30-31)
それ故、キリストにあって祭司として任命された私達も、国のために、置かれている会社や環境のために祈るべきであり、それによって、私達が遣わされている所は清められ、守られるのである。

『コラの事によって死んだ者のほかに、この疫病によって死んだ者は一万四千七百人であった。アロンは会見の幕屋の入口にいるモーセのもとに帰った。こうして疫病はやんだ。』(民数記16:49)
イスラエルの全会衆が六十万ほどであるから、今回の災いで、およそ四十人に一人が死んだ割合になる。
民はなんと頑なで、聞かず屋であろうか。
私達はこれらの事に戒めを受け、頑なになったり、つぶやいたりして滅ぼされる事の無いように気を付けるべきである。

『彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。・・・
また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:5-12)

礼拝説教メッセージ音声:悪い意味での記念の物(民数記16:36-40):右クリックで保存

『「あなたは祭司アロンの子エレアザルに告げて、その燃える火の中から、かの火ざらを取り出させ、その中の火を遠く広くまき散らさせなさい。それらの火ざらは聖となったから、罪を犯して命を失った人々の、これらの火ざらを、広い延べ板として、祭壇のおおいとしなさい。これは主の前にささげられて、聖となったからである。こうして、これはイスラエルの人々に、しるしとなるであろう」。』(民数記16:38)

エルアザルにとって、この命令は、かなり強烈なものであったろう。
焼き滅ぼされた250人の死体が、まだそこここでくすぶっている所に入って行き、彼らが手にしていた火皿を250個、取り集めよ、というのだから。
彼は二人の兄も、同じように亡くしている。
きっと彼は、子に、孫に、くれぐれも主の前に分を超えて思い上がってはならない、と、きつく教育しただろう。
実際、エルアザルの子ピネハスは、素晴らしい信仰の行いをした。(民数記25章)

『そこで祭司エレアザルは、かの焼き殺された人々が供えた青銅の火ざらを取り、これを広く打ち延ばして、祭壇のおおいとし、これをイスラエルの人々の記念の物とした。これはアロンの子孫でないほかの人が、主の前に近づいて、薫香をたくことのないようにするため、またその人がコラ、およびその仲間のようにならないためである。すなわち、主がモーセによってエレアザルに言われたとおりである。』(民数記16:39-40)

いかに反逆した者達が捧げたものとはいえ、彼らが捧げたものは聖となり、それらはイスラエルの記念として、祭壇のおおいとして用いられた。
イスラエルの人達は代々、何百年も、その祭壇のおおいを見ては「これがコラと共に主の権威に逆らった、あの250人の火皿か」と、恐れおののいただろう。

しかし、後の時代には、祭司でないのに不遜にも香を捧げようとした王がいた。ウジヤ王である。
彼は最初は、主を敬う良い王だった。
それで祝福され、周辺諸国との戦争に勝ち、内政を充実させ、その名声は大いに広がった。
『ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。』(2歴代誌26:16)

それを祭司アザリヤに「主に香をたくことはあなたのなすべきことではなく、ただアロンの子孫で、香をたくために清められた祭司たちのすることです。すぐ聖所から出なさい。あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄えを得ることはできません。」と戒められると、ウジヤは激しく怒り、香炉を手にとって香をたこうとしたが、そのとたん、らい病(ツァラアト)が彼のひたいに現れた。
『ウジヤ王は、死ぬ日までらい病人であった。彼はらい病人であったので、離れ殿に住んだ。主の宮から断たれたからである。』(同21節)

ウジヤ王も、コラも、共通している事は、主の御前に自分の分ではない礼拝を捧げようとし、それをひと度戒められ、正しい道の何であるかを示されたのに、戒めに対して怒り、あざけり、無視し、あくまで自分を押し通そうとしたとたん、主のさばきが降った事だ。
『わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。』(ローマ12:3)

コラやウジヤ王のように、悪い意味で記念となり、その名が永遠に記される者もいるのだ、という事を、忘れてはならない。
イエス様の葬りの整えのために、高価なナルドを捧げたベタニアのマリヤは、その行いが永遠の記念とされたが、彼女のように、従順の行動が主の御前に覚えられ、永遠の記念として残る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:生きながらにして地の底に落とされる者の性質(民数記16:25-35):右クリックで保存
(音声データは後程アップします)

『モーセは会衆に言った、「どうぞ、あなたがたはこれらの悪い人々の天幕を離れてください。彼らのものには何にも触れてはならない。彼らのもろもろの罪によって、あなたがたも滅ぼされてはいけないから」。そこで人々はコラとダタンとアビラムのすまいの周囲を離れ去った。そして、ダタンとアビラムとは、妻、子、および幼児と一緒に出て、天幕の入口に立った。』(民数記16:26)

モーセはイスラエルの民を、分派を促して反逆させる者どもから、離れさせた。
彼らと同じさばきに遭わせないためである。
キリスト教は、赦しの宗教だとよく言われるが、聖書が教えている所は、『分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。』であり(テトス3:10)、戒めても聞かず、悔い改めないような者からは「離れる」事も、その人自身にとって、そしてその周りの人にとって益である。

『モーセは言った、「あなたがたは主がこれらのすべての事をさせるために、わたしをつかわされたこと、またわたしが、これを自分の心にしたがって行うものでないことを、次のことによって知るであろう。すなわち、もしこれらの人々が、普通の死に方で死に、普通の運命に会うのであれば、主がわたしをつかわされたのではない。
しかし、主が新しい事をされ、地が口を開いて、これらの人々と、それに属する者とを、ことごとくのみつくして、生きながら陰府に下らせられるならば、あなたがたはこれらの人々が、主を侮ったのであることを知らなければならない」。』(民数記16:28-30)

あまりに悪辣な事を止めず、神を怒らせ続けて来た人が、ある日突然、普通でない死に方をした、というような事が、確かにある。
その時、人は、義なる神が確かに生きておられ、自身が介入されたのだ、と、誰もが思うのである。

『モーセが、これらのすべての言葉を述べ終ったとき、彼らの下の土地が裂け、地は口を開いて、彼らとその家族、ならびにコラに属するすべての人々と、すべての所有物をのみつくした。すなわち、彼らと、彼らに属するものは、皆生きながら陰府に下り、地はその上を閉じふさいで、彼らは会衆のうちから、断ち滅ぼされた。
この時、その周囲にいたイスラエルの人々は、みな彼らの叫びを聞いて逃げ去り、「恐らく地はわたしたちをも、のみつくすであろう」と言った。また主のもとから火が出て、薫香を供える二百五十人をも焼きつくした。』(民数記16:31-35)

地がぱっくりと口を開いて、人々を飲み込み、生きながら陰府(よみ)に降ってしまう。
実に恐ろしい出来事であるが、聖書には、生きたまま陰府に投げ落とされるような者達が他にも登場するが、そんな彼らには共通した性質がある。

『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:12-15)

この「黎明の子、明けの明星」は、堕天使ルシファー、すなわちサタンの事である。
彼もコラ達のように、陰府に落され、穴の奥底に入れられるが、共通しているのは、自ら高みにのぼり、人々の上に立ち、神のようになろうとする「高ぶり」の性質である。
そして、暗闇で謀略を巡らし、相共に集って、神の権威に反逆する者も、生きながらに地獄に投げ落とされる。

『なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。』(黙示録19:19-20)

この「にせ預言者」は多くの人々を惑わし、神とその民に対して戦いを挑む者だが、それはまさにコラと同じ性質である。
コラに惑わされた250名の有力者達は、神の元から火が降ってきて焼き滅ぼされたが、欲望におびき寄せられて惑わされ、神の立てた権威に歯向かう者達に、主が用意されているのは、焼きつくす火である。

『そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:8-10)

惑わされる人には、必ず、惑わされるための”とっかかり”があり、そのとっかかりには、その人の欲や怒り、ねたみ、高ぶりなど、色々な要素がある。
『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』(ヤコブ1:14-15)
私達は、惑わされないために、そのとっかかりである「欲」や「怒り」、「ねたみ」、「高ぶり」などを、主イエスの血潮によって捨て去り、清めていただく必要がある。

地が口を開けて生きたまま飲み込まれるさばきも、火が降ってきて焼き滅ぼされるさばきも、いずれも恐ろしいものであるが、それは、主の敵に対して用意されているものであり、主に従順し服従している私達には、届かないものである。
不従順を続けて滅ぼされる者ではなく、モーセのように、そのような者どもから主に弁護される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:差し伸べられた憐れみを踏みにじる者達(民数記16:12-24):右クリックで保存

モーセはコラに穏やかに諭したように、ダタンとアビラムを呼んで、彼らも同じように諭そうとしたのであろう。
しかし彼らは、モーセの呼びかけを無視し、対話を拒絶したばかりでなく、悪辣な言葉を返して来た。

『モーセは人をやって、エリアブの子ダタンとアビラムとを呼ばせたが、彼らは言った、「わたしたちは参りません。あなたは乳と蜜の流れる地から、わたしたちを導き出して、荒野でわたしたちを殺そうとしている。これは小さいことでしょうか。その上、あなたはわたしたちに君臨しようとしている。
かつまた、あなたはわたしたちを、乳と蜜の流れる地に導いて行かず、畑と、ぶどう畑とを嗣業として与えもしない。これらの人々の目をくらまそうとするのですか。わたしたちは参りません」。』(民数記16:12-14)

彼らはなんと、エジプトを「乳と蜜の流れる地」と呼び、モーセはそこから人々を導き出して、荒野で殺そうとしている、と言っている。
おそらく、モーセがよく口にする「乳と蜜の流れる地」という言葉を嘲って言ったのだろうが、主を恐れぬ、極めて悪どい言葉である。
彼らはまた、「あなたはわたしたちを、乳と蜜の流れる地に導いて行かず、畑と、ぶどう畑とを嗣業として与えもしない。」と言っているが、そもそも、乳と蜜の流れる地に、すんなりと入れなくしてしまったのは、ダタンたちルベン族の代表をも含めた10人の斥候たちだったのではなかったか。

モーセはこの悪辣な返事に激しく怒り、「彼らの供え物を顧みないでください。わたしは彼らから、ろば一頭をも取ったことなく、また彼らのひとりをも害したことはありません。」と、主に申し立てている。(民数記16:15)
ダタンとアビラムは、自らモーセとの対話を拒否し、モーセの執り成しの心を踏みにじったのである。

モーセは、誰が主に選ばれた者であるかは、主に聞こうではないか、と、次のように申し出ている。
『あなたとあなたの仲間はみなアロンと一緒に、あす、主の前に出なさい。あなたがたは、おのおの火ざらを取って、それに薫香を盛り、おのおのその火ざらを主の前に携えて行きなさい。その火ざらは会わせて二百五十。あなたとアロンも、おのおの火ざらを携えて行きなさい。』(民数記16:16-17)

コラは、ダタンとアビラムと違い、モーセのさとしを聞いただけ、まだましだった。
この時点でモーセの言うとおりにして、主が示された結果に、素直に従順していれば、まだ穏便に済まされていたかもしれない。
しかし、彼が取った次の行動で、コラの裁きも確定してしまう。

『彼らは、おのおの火ざらを取り、火をその中に入れ、それに薫香を盛り、モーセとアロンも共に、会見の幕屋の入口に立った。そのとき、コラは会衆を、ことごとく会見の幕屋の入口に集めて、彼らふたりに逆らわせようとしたが、主の栄光は全会衆に現れた。』(民数記16:18-19)
彼らは、祈りの香を手にして、主の御前に出ているにもかかわらず、なんと、会衆のほうに向き直り、モーセとアロンに逆らわせようと扇動したのである。
こうしてコラも、モーセの親身な諭しを、踏みにじった事になる。
主に祈りの香を捧げるべき献身者が、主から顔を背け、人々の栄誉を受けようと向き直り、祈りを捧げるべき聖なる場所で、汚れた動機をもって神のしもべに争いを仕掛ける事は、とんでもない災いをもたらす行為である。

『「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼすであろう」。彼らふたりは、ひれ伏して言った、「神よ、すべての肉なる者の命の神よ、このひとりの人が、罪を犯したからといって、あなたは全会衆に対して怒られるのですか」。
主はモーセに言われた、「あなたは会衆に告げて、コラとダタンとアビラムのすまいの周囲を去れと言いなさい」。』(民数記16:21-24)

モーセは今回の反逆で、かなり面目を貶められ、今までになく怒ったが、それでもなお、執り成すためにひれ伏した。
それで会衆一同は滅ぼされずに済んだが、しかし、コラとダタン、アビラムへの裁きは、確定してしまった。
彼らは、最後まで神が立てられた権威に逆らい、主を無視して、人々からの栄誉を求めたからだ。

彼らも、出エジプト以来の長い間、主の栄光と素晴らしさ、そして恐ろしさを、幾度も見てきたであろうに。
また、そんな事をすれば恐ろしい裁きが待っている事は、今までの経緯を見て、いい加減学習していても良さそうなものだろうに、と思うかもしれない。
しかし、頭の中が、自分のやりたい事でいっぱいだと、そこまで物事が見えなくなってしまうものである。
私達は、災いに遭わないために、思いの中ではいつも自分を降ろし、主の御心に聞く「ゆとり」を、いつでも持っているべきである。

栄光の家系の女達 – ルツ3 驚くばかりの恵み(ルツ記2章)
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第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ルツが飛び込んだ畑は、はからずも、彼女の家を絶やさぬ責任のある親族の一人、ボアズの畑だった。
ボアズは、私達を買い取ってくださるイエス・キリストの雛型であり、そのボアズの畑は、主イエスキリストが支配される神の王国の特徴そのものである。私達も、イエス様を主とし、神様を中心とした新しい生き方へと飛び込むなら、神のものとされ、王族の息子や娘のように、主からの特別扱いを受けるようになるのだ。
私達は主から、どのような特別扱いを受けられるのか。それは、ボアズがルツに為した通りである。
今回、主イエスを信じ神の国に飛び込んだ私達は、どれ程の特別待遇を受けられるのか、見て行きたい。

ボアズの畑には豊かに恵みの落ち穂が落ちており、祝福の挨拶が交わされている。(4節) しかし、ボアズの畑以外に入っても、そこは落ち穂は残っていなかったり、たとい落ち穂が落ちていたとしても、そこの人にいじめられたり、刺々しい雰囲気だったりする。主を除外して渡る世間は、鬼ばかりである。
私達のボアズである主イエス様は、私達に、他の所に行ったりせず、主の元にいる娘たちと共にいなさいと語りかけられ(8節)、主の働き人たちが、いのちの刈り取りの働きをしている後について行って、そのおこぼれに与りなさい、と言われる。私達は、そのいのちの恵みと祝福のおこぼれに、十分与かれるばかりでなく、私達が恵みを拾う事の邪魔をしないよう、主は周りにきつく命じて下さり、渇いたなら、主のしもべが汲んでくれた水から、存分に飲んで良いと言って下さる。(9節、イザヤ55:1、ヨハネ7:37)
ルツはボアズの優しい言葉に驚いたが、私達が主から頂く恵みは、本当に、驚くばかりである。
主はなぜ、恵みを受けるに値しないような私達に、そこまでの恵みを注いで下さるのか。
『ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れ、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。』(11節)
ボアズが言ったように、主は、私達が主の聖徒達にした事を、すっかり見聞きしておられる。主の弟子だという事で、たとい、小さな子どもの一人に水一杯でも与えるなら、その報いからこぼれ落ちる事は無い。
もし私達が今まで生きてきた世の価値観から離れ、主を頼り、主の元に来るなら、私達のボアズである主は次のように祝福して下さる。「どうぞ主があなたのしたことに報いられるように。どうぞイスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。」(12節)

ルツはボアズに、実に謙虚な感謝をしたが、それでボアズは、さらなる恵みの命令を、しもべ達に命じる。
私達も、主が下さった恵みに感謝し、謙虚に喜ぶなら、主はさらなる恵みを命じて下さる。しかし、与えられた恵みを当たり前のように受け、何の感動も礼もなく、傲慢に振る舞うなら、恵みはそこでストップしてしまう。
ボアズは、ルツに炒り麦をたっぷり与え、ルツは食べ残した余りをナオミに持って帰るほどに満たしたが、主も、私達の渇いた心を満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされる。(詩篇107:9)
『ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」』(15,16節)
私達も、ルツのようにへりくだるなら、主は私達にさらなる恵みの深きへと導いて下さり、しかも、本来なら主の倉に入るべきものさえ、抜き取って、私達が拾えるように、わざと落として下さる。
主は、私達がそれを拾う事に、何の咎めも無いようにし、そうして私達は、大胆に恵みの座に近づき、折にかなった助けを、存分に得る事を許されるのだ。(ヘブル4:15-16)

ボアズの畑に入ったルツは、その日だけでも、二十三リットルもの大麦と、ボアズ自身から頂いた炒り麦を、ナオミの元に持ち帰り、主から見放されたような気持ちだったナオミに、主の恵み深さを再び気付かせた。
ナオミは、ボアズが「わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人」であると言った。(20節)
新共同訳で「家を絶やさないようにする責任のある人」と訳された言葉はヘブル語で「ゴエル」、「買い戻す責任と権利のある人」とも「最も近い親戚」とも訳す事の出来る言葉であるが、主イエス様こそ、私達の家を絶やさぬ責任のあるお方である。主は、私達の人生を、いのちへと買い戻してくださるお方である。
ボアズの特徴こそ、私達の主の特徴であり、主は私達の仕事を祝福して下さるだけでなく、家族をも満ち足らせて下さり、「こんなに恵まれて良いのだろうか」と、逆にこわくなってしまう程に、恵んで下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主から与えられた「分」に応じて(民数記16:5-11):右クリックで保存

『やがて彼はコラと、そのすべての仲間とに言った、「あす、主は、主につくものはだれ、聖なる者はだれであるかを示して、その人をみもとに近づけられるであろう。すなわち、その選んだ人を、みもとに近づけられるであろう。それで、次のようにしなさい。コラとそのすべての仲間とは、火ざらを取り、その中に火を入れ、それに薫香を盛って、あす、主の前に出なさい。その時、主が選ばれる人は聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたこそ、分を越えている」。』(民数記16:5-7)

モーセは別に、人の上に立ちたくて、イスラエルの民を導いているわけではない。
神の山ホレブで主が現れ、一方的に選ばれ、「いやだ」と言っているのに、アロンに助けを得て行け、と言われたから、それに従っているだけなのだ。
コラは、人々から人望を集めて、政治的に上にのし上がろうとしたのに対し、モーセは、人を上に立てるのは主であり、人間ではない事を示した。
パウロも言っている。
『自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。』(2コリント10:18)

神の国の奉仕者は、主が選び任命して下さるものであり、人望を集める事に奔走して、奉仕者になってはならない。
私達も、神の御言葉を守るよりも、人間受けする事を追求する罠に陥りやすく、教会も、人を集めたいがために、御言葉とは関係の無いイベントを連発して、とんちんかんな方向へ行ってしまうケースも多々あるが、主と主の言葉から離れた所に、主の助けは無い。

大切なのは、自分で努力して何かをする事ではなく、神に選ばれキリストにあって清められた事を自覚し、与えられた神の子たる身分にしっかり留まり、神に愛された者として、与えられた奉仕を忠実に為す事である。
『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、”キリストにあってわたしたちを選び”、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)

『モーセはまたコラに言った、「レビの子たちよ、聞きなさい。』(民数記16:8)
欽定訳を見ると、モーセは「Hear, I pray you,」と呼びかけている。
自分と同族であるケハテ族のコラに対し、父親が子を諭すように諭しているのだ。
モーセは、あなた達には素晴らしい務めが任されている、せっかく主がそのような栄誉に預からせてくださったのに、それを不足だと思うとしたら、あなた達は「分」を超えているよ、と。
その尊い立場を「不足」とし、祭司の立場をさらに求めるのか、と。(民数記16:9-11)

実際、彼らは、祭司としての責任と立場を、わきまえていない。
もしわきまえていたとしたら、神の怒りを引き起こすような、こんな恐ろしい反逆など思い浮かばないはずだ。

コラ達は、イスラエルの会衆全体が聖なる者であると言ったが、祭司に要求される「聖なる者」としての基準は、一般のイスラエルの民より、はるかに高度である。(レビ記21章 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1497 )
大祭司アロンの一族は、至聖所のつとめを少しでも誤ったら、火で焼かれてしまうし、いかに自分の肉親が死んだとしても、神のつとめのほうを優先させなくてはならないのである。(レビ記10章 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1440 )
祭司という名誉ある職に就くからには、それなりの重大な責任も要求されるのだ。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。』(ヤコブ3:1)

私達は傲慢にならず、与えられた「分」を超えず、神が与えて下さったタラントに応じ、与えられている環境で、忠実に歩むべきである。

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