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栄光の家系の女達 - ルツ5 買い戻して下さる方(ルツ記4章)
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ルツやナオミの家を買い取る人が、ボアズとなるかどうかは、第三者の判断次第となり、この問題は一旦、ルツやナオミの手を離れて、全能なる主の采配に委ねるしかなくなった。
ナオミはルツに、この事がどうなるか分かるまで、落ち着いて信頼するように言い、さらに、「あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう」(ルツ3:18) とも言った。
あの人は、きょう、その事を決定する・・・。彼女達は確かにこの問題をどうする事も出来ない。しかし「あの人」が、この問題の解決のために、動いて手続きしてくれる。
私達も、ルツのように、信仰の先輩に言われた通りに主イエス様の元に行き、自分が主のはしためである事を告白し、主の救いの衣の内に入らせて下さいと願うなら、主はそれを喜んで下さり、私達が納まるべき所へと納まるまで、全ての算段を整えて働いて下さるのだ。
ボアズは早速、正式に手続きするために、その親類の人と、さらに町の長老10人を呼び寄せた。
かの親類は、畑の買い戻しは自分がする、とは言ったものの、ルツと結婚しなくてはならない事も聞くと、それは出来ないと拒んだ。そもそも、買戻しの話は、買戻す側にとって、デメリットしか無いような話である。
ヨベルの年までの年数に従ったレートでその畑を買い戻すのだが、その畑は、自分のものとはならない。
生まれてくる最初の男の子に、死んでしまった親類の名を継がせ、その畑は、その子のものとなるのだ。
『そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだ』(7節)
主は、アブラハムやヨシュアに「あなたの足の裏で踏む所は、ことごとく与えた」と言ったが、靴を脱いで相手に渡す事は、その土地を踏み歩く権利を、相手に渡した事を象徴するものであり、イスラエルにおいては、買戻しの権利を譲渡する事の、正式な証明方法である。
だから、妻とすべき女性をめとる事を嫌がって「くつを脱がされた者の家」(申命記25:10)と烙印を押される事は、イスラエルの土地を踏み歩く権利を脱がされた者として、かなりの恥辱となる。
実際ルツ記は、オルパという脇役女性の名さえ記されているのに、この親類の名は、一切記されていない。
栄光の家系を受け継ぐ人とは、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する人である。
飢えた人にパンを分け与え、貧しい人々を家に入れ、裸の人に着せ、肉親の世話をするなら、暁のように光がさし出で、傷はすみやかに癒され、絶えず主に導かれ、焼けつく土地でも、思いは満たされ、骨は強くされ、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(イザヤ58:6-12)
「わたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。」(ルツ記4:10)
ボアズがルツを買った事、それは、私達のボアズであるイエス様が、私達を買って下さる事を表している。
世の何者も、私達を買い取る事は無い。私達を買い取るメリットなど無く、ただ重荷にしかならないからだ。
しかしイエス様は、私達を買い取って下さった。何のメリットも無いのに。それどころか、自分のいのちを投げ出さねばならぬという「究極のデメリット」しか無いのに。それは、ただ、大きな愛の故である。
こうしてボアズは、神と人とに祝福されつつ、正式にルツをめとり、主は、ルツに男の子を授けて下さった。
律法によるなら、本来、この子の名はマフロンとなるはずだが(申命記25:6)、なぜか女たちはその子を「オベデ」と呼んだ。(ルツ記4:17)
ルツの亡夫「マフロン」の名には「大きな欠点」「病弱」という意味があるが(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」という名には「仕える」「僕」という意味がある。
私達の家を絶やさない責任のある人に、大きな欠点があったり、病弱であってりするなら、困るだろう。
あいにく、世の人は、罪という病の故に欠点があったり弱かったりして、その責任は果たせないが、父なる神の忠実なるしもべであるイエス様は、その責任を、完全に果たす事がおできになる。
ルツの子オベデは、ナオミの老後を養う者となり、その子孫から、偉大な王ダビデが、そしてキリストが出た。
同じように私達も、信仰によってイエス様を内に宿し、信仰によって生んだ霊的な子孫たちは、後に私達を養い、キリストの花嫁として、神の教会(エクレシア:召し出された者達)として、共に完成されて行くのだ。
礼拝説教メッセージ音声:赤い雌牛(民数記19:1-10):右クリックで保存
民数記19章は、汚れを清める水の作り方が、主から示されている。
『主の命じられた律法の定めは次のとおりである。すなわち、イスラエルの人々に告げて、完全で、傷がなく、まだくびきを負ったことのない赤い雌牛を、あなたのもとに引いてこさせ、これを祭司エレアザルにわたして、宿営の外にひき出させ、彼の前でこれをほふらせなければならない。そして祭司エレアザルは、指をもってその血を取り、会見の幕屋の表に向かって、その血を七たびふりかけなければならない。ついでその雌牛を自分の目の前で焼かせ、その皮と肉と血とは、その汚物と共に焼かなければならない。』(民数記19:2-5)
この規定は、レビ記でも示されていなかった規定で、この赤い雌牛は、レビ記でよく見られる捧げものとも、色々な点で異なる。
まず、これは主に捧げる”いけにえ”ではなく、汚れを清める水を造るためのものである。
他のいけにえのように、聖所でほふられるのではなく、宿営の外に引き出されてほふられ、そして、アロンではなくエルアザルに渡され、それも、彼の目の前でほふられ、焼かれる。
エルアザル、彼は実に、色々な人たちが焼かれるのを、見てきた。
彼の兄ナダブとアビフは、異なった火をささげた事によって主の御前から火が出て焼かれ、コラと共にモーセとアロンに逆らった250名も、主の前から火が出て焼きつくされ、エルアザルはその彼らの遺体から火皿を取って来た。そして、今回の赤い雌牛である。
それだからエルアザルは、子に、孫に、くれぐれも主に逆らわぬよう、くれぐれも、主の戒めに背かぬようにと、教育した事だろう。
この赤い雌牛は、今までの規定に比べると、色々と目新しく見えるが、これもまた、罪を洗い清めるイエスキリストを表している。
イエスキリストも、完全で、傷がなく、また、罪のくびきを負ったことのないお方であり、その赤い血潮によって、人の罪を清める。
ここで使われるのは雌牛、すなわち、いのちを産み出すものであり、イエスキリストも多くの永遠のいのちを生み出すお方である。
赤い雌牛は、宿営の外に引き出されてほふられ、焼かれるが、キリストも、エルサレムという宿営の外に追い出されて、そこでほふられ、「わたしは渇く」と言われた言葉の通り、焼き尽くされる思いをされた。
赤い雌牛の焼かれた灰を湧き水の中に入れて、それを汚れた人にふりかけて清めのわざを為すが、イエス様も十字架上で刺し貫かれ、脇腹から血と水が流れ出し、それによって、私達はきよめられる。
「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイ26:28)
『そして祭司は香柏の木と、ヒソプと、緋の糸とを取って雌牛の燃えているなかに投げ入れなければならない。』(民数記19:6)
木は十字架を、ヒソプは汚れからの清めを、緋の糸は、どす黒い赤の血潮を予表している。
この赤い雌牛は、きよめの役割を果たすものだが、完全ではない。
人が一度、きよめられても、彼が再び汚れに陥るなら、その都度、きよめのわざを行わなくてはならないからだ。
それに対し、キリストの血は、完全なきよめの働きをする。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)
この赤い雌牛もまた、キリストへと導く養育係の一つである。(ガラテヤ3:24)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
最も雄弁なただずまい(エステル記5:1-5):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:レビ人が受ける分(民数記18:21-32):右クリックで保存
続いて主は、レビ人が受ける分についても定められた。
『わたしはレビの子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一を嗣業として与え、その働き、すなわち、会見の幕屋の働きに報いる。』(民数記18:21)
レビ人も祭司同様、会見の幕屋の働きに報いとして、イスラエル人から受け取る分がある。
すなわち、一般のイスラエルの民が主に捧げる十分の一が、彼らの受け取る分である。
これを、良く出来た祭儀制度だと言う人もいるが、ここに記されている事は、私達にとって、遠い異国の昔の風習ではなく、今も、生き生きとして、私達に関係している永遠の定めである。
私達・キリスト者が捧げる献金も、教会の維持経費のためだとか、誰か教職者への謝礼とかいう意味よりも、神様への個人的な「捧げもの」である事を忘れてはならない。
『イスラエルの人々は、かさねて会見の幕屋に近づいてはならない。罪を得て死なないためである。レビびとだけが会見の幕屋の働きをしなければならない。彼らがその罪を負うであろう。彼らがイスラエルの人々のうちに、嗣業の地を持たないことをもって、あなたがたの代々ながく守るべき定めとしなければならない。』(民数記18:22-23)
幕屋での働きは、ただ、レビ人に限られ、そして働き人への報酬として「十分の一」にあずかる特権があるが、だからと言って、レビ人は主に何かを捧げる事に対して「免除」されているかというと、そうではない。
一般の民が、作物の十分の一を捧げるのと同じように、レビ人も、民が捧げた十分の一の中から、その十分の一を捧げるべき事が定められており(民数記18:26-29)、そのレビ人が捧げた十分の一は、祭司アロンの一族のものとなる。
そして大祭司アロンの一族も、実は、主に十分の一を捧げている。
それは、彼らの祖先であり、私達の信仰の祖先でもあるアブラハムが、メルキゼデクに十分の一を捧げた事による。
メルキゼデクは、いと高き神の祭司としてアブラハムを祝福したが、アブラハムでさえ十分の一を捧げた彼は、一体何者なのだろうか。
彼は、サレムの王であり、いと高き神の祭司としてアブラハムをパンとぶどう酒を持って出迎え、アブラハムを祝福した。義の王であり、平和の君であり、父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりも無いお方。(ヘブル7:2-4)
そのお方とは、キリストでなくして、一体誰であろう。
いと高き神の祭司・メルギゼデクが与えたパンとぶどう酒は、単なる食料の差し入れではない。
パンは、イエス様の裂かれた体、ぶどう酒は、イエス様の流された血潮を意味する。
メルキゼデクはこれを持って「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」(19-20)と言って、アブラムを祝福された。
レビ人も、大祭司アロンの一族さえも、アブラハムの腰の中にいた時、メルキゼデクに、すなわち、キリストに、十分の一を捧げた。
結局、全ての人は、まことの大祭司・キリストに捧げるべきであり、そしてアブラハムがメルキゼデクからパンとぶどう酒を得たように、私達も、キリストの血潮と裂かれた肉をいただくのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
滅ぼされる悪と守られる聖徒(マタイ2:13-23):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
海から上がってきた獣(黙示録13:1-10):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:永遠の塩の契約(民数記18:19-20):右クリックで保存
『イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である。』(民数記18:19)
主は、人々が主に捧げる供え物を、祭司が受け取る分として永遠に定められ、祭司の養いは永遠に絶える事がない、というこの約束を、「塩の契約」と言われた。
では、塩は、聖書の他の箇所で、どのように用いられているだろうか。
『あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。』(レビ記2:13)
主に捧げる素祭の穀物は、一粒一粒がよく砕かれた粉末でなくてはならず、蜜などで人工的に甘くしたり、パン種などで人工的に膨らましたりする事もせず、シンプルに、塩で味付けなければならないと命じられている。
現代を生きる私達・キリスト者の交わりも、塩を添えて捧げられた素祭のようであるべきだ。
すなわち、私達一人ひとりが主の御前によく砕かれ、交わりの中には、人工的な甘ったるさを交えてはならず、教会を大きくしようとして不純物を混ぜ膨張させてもならない。
むしろシンプルに、塩気でもって、互いに和合すべきである。
『ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:8)
塩は、食物の味を引き立て、長持ちさせ、きよめの働きをする。この実にシンプルな味と性質は、永遠に変わらない。
祭司は、神の共同体という「パン生地」の中では、「塩」のような役割とも言える。
共同体全体の、味を引き立て、長持ちさせ、きよめの働きをするからである。
祭司には、永遠に受ける分として「塩の契約」が定められているが、実は、一般の民なら普通に受け継ぐ事は出来ても、祭司に限っては、受け継ぐ事が許されていないものがある。
『主はまたアロンに言われた、「あなたはイスラエルの人々の地のうちに、嗣業をもってはならない。また彼らのうちに、何の分をも持ってはならない。彼らのうちにあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である。』(民数記18:20)
祭司がゆずり受けてはならないもの、それは、相続地である。祭司にとって、主御自身がゆずりの地であり、地上の相続地を得てはならない。
それ故、私達キリスト者も、この地上には、永遠のゆずりは無いと知るべきである。
私達のゆずり、それは、主ご自身であり、永遠に変わらぬ天の王国にこそ、私達のゆずりがあるのである。
だから、この地上に宝を蓄える努力は止め、天に宝を積み立てる努力をすべきである。
神の国を追い求めつつ、同時に、地上の宝も手放さないような人は、十分な予算審議もしないままに、邸宅を建設しようとして、結局土台しか建てられなかった、と、あざ笑われてしまう人のようである。
『あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。・・・それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
「塩」は良いものだ。しかし、「塩」もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。』(ルカ14:28-35)
だから私達は、神の国とその義とを、まず第一に求めるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:祭司が与れる食物(民数記18:8-18):右クリックで保存
前回は、祭司の役割と責任が主から示されていたが、責任ある務めには報いがある。
この、祭司が受け取るべき報いは「永久に受くべき分」として、今も有効である。
『主はまたアロンに言われた、「わたしはイスラエルの人々の、すべての聖なる供え物で、わたしにささげる物の一部をあなたに与える。すなわち、わたしはこれをあなたと、あなたの子たちに、その分け前として与え、永久に受くべき分とする。』(民数記18:8)
この中で、「素祭」、「罪祭」、「愆祭」は、男子だけが与かる事ができ(民数記18:9-10)、新鮮な油や、新しいぶどう酒、初物の穀物など、民が主に捧げる「初物」は、祭司の家族も、それにあずかる事ができる。(民数記18:11-13)
しかし、11,13節にある通り、それには「きよい者」だけが与かる事が出来る、とあるため、いかに祭司の一族であっても、きよくない状態であれば、それにあずかる事は許されないのだ。
その事は、レビ記にも記されている。
『あなたがたの代々の子孫のうち、だれでも、イスラエルの人々が主にささげる聖なる物に、汚れた身をもって近づく者があれば、その人はわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。
アロンの子孫のうち、だれでも、らい病の者、また流出ある者は清くなるまで、聖なる物を食べてはならない。また、すべて死体によって汚れた物に触れた者、精を漏らした者、または、すべて人を汚す這うものに触れた者、または、どのような汚れにせよ、人を汚れさせる人に触れた者、このようなものに触れた人は夕まで汚れるであろう。彼はその身を水にすすがないならば、聖なる物を食べてはならない。』(レビ記22:3-6)
私達キリスト者は、キリストにあって祭司とされたが、キリスト者であれば誰でも「御言葉」という聖なる食物にあずかれるか、というと、そうではない。
キリスト者であっても、聖なる食物に共にあずかれない人がいる。それは、汚れた人である。
例えば、主の恵みと祝福はいただきたいけれど、同時に、世的な罪深い欲望を手放す事もしたくないような人や、教会には一応通ってはいても、御言葉よりも世の通念のほうを優先している人などは、そうである。
彼らが、恵みの食卓で共に食べられないのは、誰かが禁止するからではない。
むしろ彼ら自身に、恵みに預かる感性が無いというか、聖なる食物を食べる「専用の口」が、無いのだ。
教会の皆が「イエス様は素晴らしいね」「御言葉はこんなに凄いのか」「恵まれるね」と楽しそうに盛り上がっているのに、その人だけは退屈そうで、何を机上の空論で盛り上がっているのだろう、などと思えて、キリストのいのちが、さっぱり理解できないのである。
だから私達は、霊的感性が開かれるよう、祈るべきである。
礼拝説教メッセージ音声:お門違いの恐怖(民数記17:12-18:7):右クリックで保存
『イスラエルの人々は、モーセに言った、「ああ、わたしたちは死ぬ。破滅です、全滅です。主の幕屋に近づく者が、みな死ぬのであれば、わたしたちは死に絶えるではありませんか」。』(民数記17:12)
彼らが言っている事は、ある部分は正しいが、重要な「しかし」を抜かしている。
この直前に起きた恐ろしい事件、コラのさばきと、民のつぶやきによって14700人が死んだ事件の、直後であるがら、御言葉を正しく理解していない民は、必要なき恐怖に陥って、混乱していたのかもしれない。
私達も、神は厳しく裁かれるお方だ、恐ろしい方だ、など、神を正しく理解していないが故の、必要なき恐怖に陥ってしまう事がある。
私達はそのような霊的な無駄足を踏まぬためにも、聖書を正しく理解したい。
確かに、人はみな罪咎を持っており、そのまま主に近づくなら、皆、死ぬ他無い。
ここに、重要な「しかし」がある。
主は人が罪を持っている事は百も承知で、憐れみ深い主は、そんな人間を罪と死の束縛から開放するために、大祭司を立ててくださったのだ。
『そこで、主はアロンに言われた、「あなたとあなたの子たち、およびあなたの父祖の家の者は、聖所に関する罪を負わなければならない。また、あなたとあなたの子たちとは、祭司職に関する罪を負わなければならない。』(民数記18:1)
これは、別段新しい命令ではない。主は、混乱している民に、正しい知識を再び思い起こさせるために仰せられたのだ。
アロンとその父祖の家のもの、すなわち、大祭司の一族とレビ族は、共に聖所に関する「罪を負い」、大祭司の一族は、祭司職に関する「罪を負う」のだが、では「罪を負う」とはどういうことか。
主は出エジプト記にて以下のように言っている。
『あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。』(出エジプト記28:36-38)
すなわち、祭司とは、一般の人々の罪を代表して背負い、神と人との間に立って、罪の身代わりとしてのいけにえを捧げ、和解の務めをなす者である。
それ故、この時の民の恐れは、執り成してくれる祭司の存在を忘れた、お門違いの恐れである。
私達も、まことの大祭司キリストを忘れた、お門違いの恐れに憑かれていないだろうか。
キリストは、私達の罪咎を背負い、自らがいけにえとなって捧げられ、それによって、私達を神と和解させて下さった。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)
そういう訳で、私達の大祭司キリストのゆえに、私達の罪咎は主の御前に覚えられず、罪と死の束縛から開放され、永遠のいのちを得たのだ。
栄光の家系の女達 - ルツ4 栄光の家系の婚活(ルツ記3章)
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ルツ記3章は、ルツの結婚のための「婚活」と言える。
世の中の”婚活”は、いかに自分好みの、いかに条件の良い相手を見つけて、いかにやりくりしてそのような人との結婚へ持っていくか、というイメージがあり、その相手選びの判断基準は「自分中心」である。
しかし、神の民の婚活は、その真逆である。神の民の婚活は、イサクの結婚の時のように、自分の好みや意志は一切関係なく、霊的指導者や親に一任し、主の御心を求めて行うものである。
聖書では、自分の好みや目に慕わしい、という価値観で結婚相手を選ぶとしたら、それは身を滅ぼす元である。(創世記6章、士師記14:3)
それで、ルツの霊的指導者であるナオミは、ルツの「落ち着き所」へと導くため、一働きする。
『娘よ、わたしはあなたの「落ち着き所(原意:家庭、憩いの場所、休みの場所)」を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。』(ルツ記3:1)
女性にとって落ち着き所、憩いの場所は、男性の左腕の下(雅歌2:6)、脇腹の所(創世記2:21-22)である。
ナオミはルツに、ボアズの所に行って、「その足の所をまくって、そこに寝なさい」、と指示するが、ルツはナオミの言葉に、とまどったかもしれない。しかし、ルツがボアズと結婚する事、そして、ルツがボアズに言った言葉は、確かに御言葉に叶った事であった。(申命記25:5)
ルツは、自分の判断は一切捨て、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう』(5節)と言って服従した。
ルツはナオミからの言いつけ通り、身を洗って、油をぬり、晴れ着をまとって、ボアズの所へ行った。
私達もキリストの所に行く時は、そのまま行くのではなく、御言葉の洗いによって身を洗い清め、聖霊の油を塗り、キリストが与えて下さった贖いの衣を身にまとって行くべきである。
そして言われた通り、ボアズの衣をまくって中に入り、そこに寝た。
『 「お前は誰だ」とボアズが言うとルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です』(3:9新共同訳)
女性が男性に積極的に求婚する事は、イスラエルではかなり例外的な事であり、ましてや、未婚女性が寝ている男性のすそをまくって、その中に入るなど、もっての外である。
しかし、彼女がした事は、「真実な事」である。私達は全て、キリストに対しては女であり、私達の家を絶やさぬ責任のある方・キリストの御衣の下に自ら飛びこんで行く事は、御心に叶った事である。
ボアズは、彼女がした事は、ナオミにした親切よりも勝っている、と褒めた。なぜならルツは「自分の選び」によって若い人の所へ走らず、御言葉に服従し、買戻しの権利のあるボアズの所に来たからである。
御言葉を大切にするボアズとしては、御言葉に叶った彼女の願いを、蹴る訳にはいかない。
私達も、まことのボアズであるキリストに、「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは罪と死から、いのちへと買い取って下さる方です。」と願い出るべきである。
私達の真の落ち着き所、憩いの場所、戻るべき家は、キリストの御衣の内、キリストの脇腹の所であり、私達の上に翻るあの方の旗じるしは、愛である。(雅歌2:4)
御言葉そのものであるキリストは、御言葉を盾にとって願い出るなら、それを拒む訳にはいかない。
ボアズは言う。「たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。」
ルツをめとるべき責任がボアズよりも大きい親類が、他にいたのだ。
ボアズは、彼を差し置いて結婚に急ぐ事は道理に叶わぬ事とし、その事をないがしろにしなかった。
こうして、ボアズとルツの結婚は、その人の意志次第となり、ボアズにとっても、ルツにとっても、ナオミにとっても、結婚は一旦、神の元に手放された事になる。
ナオミはルツに言った。『娘よ、この事がどうなるかわかるまで「お待ちなさい(ヤーシャブ)」。あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう』(ルツ3:18)
ヤーシャブは「住む、とどまる、座る」という意味がある。じっと座っている事、落ち着いて静かにしている事。
主の御前に手放したものは、落ち着いて信頼していれば、あとは主が、全ての手続きをして下さるのだ。