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礼拝説教メッセージ音声:約束の地で最初に勝ち取った領土(民数記21:10-35):右クリックで保存

荒野の放浪も、終盤に差し掛かってきている。
『イスラエルの人々は道を進んでオボテに宿営した。またオボテから進んで東の方、モアブの前にある荒野において、イエアバリムに宿営した。またそこから進んでゼレデの谷に宿営し、さらにそこから進んでアルノン川のかなたに宿営した。アルノン川はアモリびとの境から延び広がる荒野を流れるもので、モアブとアモリびととの間にあって、モアブの境をなしていた。』(民数記21:10-13)

彼らはエドムの地を迂回するため、死海の東岸の方へ向かい、ゼレデの谷(死海南端から南東方面へ続く谷)からモアブの地を北上した。
主はそこで、井戸を与えて下さり、イスラエルの民は主の恵みに喜びの歌を作って歌っている。(17-18節)
民のそのような自主的な賛美も、今まで見られなかった事であり、荒野の生活で心が整えられて行った事が分かる。

『そして彼らは荒野からマッタナに進み、マッタナからナハリエルに、ナハリエルからバモテに、バモテからモアブの野にある谷に行き、荒野を見おろすピスガの頂に着いた。』(21:18-20)
死海北端の東には海抜約八百メートルのネボ山があり、そのエリコに面した頂上は、「ピスガの頂」と呼ばれている。
そこからは、ヨルダン川の向こう側の「約束の地」を一望することができるが、モーセは主に逆らったため、ヨルダン川を超えて約束の地に入る事は許されていない。

『ここでイスラエルはアモリびとの王シホンに使者をつかわして言わせた、「わたしにあなたの国を通らせてください。わたしたちは畑にもぶどう畑にも、はいりません。また井戸の水も飲みません。わたしたちはあなたの領地を通り過ぎるまで、ただ王の大路を通ります」。しかし、シホンはイスラエルに自分の領地を通ることを許さなかった。そしてシホンは民をことごとく集め、荒野に出て、イスラエルを攻めようとし、ヤハズにきてイスラエルと戦った。』(民数記21:21-23)

イスラエルは、エドムの時と同様、通行許可を求め、平和の内に通過しようとするも、アモリ人シホンはそれを許さず、武力で向かってきた。
その時、それは災いに見えたかもしれない。しかし結果から見れば、それは幸いであった。
イスラエルの民はその戦いで勝利し、シホンの方面を制圧し、後にはその地方は、ルベン族、ガド族の相続地となった。

『モーセはまた人をつかわしてヤゼルを探らせ、ついにその村々を取って、そこにいたアモリびとを追い出し、転じてバシャンの道に上って行ったが、バシャンの王オグは、その民をことごとく率い、エデレイで戦おうとして出迎えた。主はモーセに言われた、「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその民とその地とを、ことごとくあなたの手にわたす。あなたはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように彼にもするであろう」。そこで彼とその子とすべての民とを、ひとり残らず撃ち殺して、その地を占領した。』(民数記21:32)

彼らはさらに北上したが、そこでも、バシャンの王オグは迎撃に会ったが、イスラエルは返り討ちにし、そうして、ガリラヤ湖南岸付近に至るまでのヨルダン川東側地域を占領した。そこは後にマナセ半部族の相続地となる所である。
このようにして、イスラエルは、約束の地で勝ち取った初の領土を得た。
そのきっかけは、いずれも、敵の攻撃であった。

神の民にとっては、ただ災いで終わるものは何一つ無い。
主イエスにあって対処するなら、いかに災いに見えるような事でも、全ての事は、益とされるための布石となるのだ。

主により頼んでいる私達は、時には敵の側から攻撃を受ける事がある。それは一見すると、災いであるかのように見えるかもしれない。
しかし御言葉と信仰をもって前進するなら、その方面を平定し、支配し、もはやその方面からは一切の攻撃を受けなくなるための、チャンスとなるのだ。

『あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。』(ヘブル10:35-39)

栄光の家系の女達 - ウリヤの妻 忠実なヘテ人ウリヤ(2サムエル記11:1-13)
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

栄光の家系の女達の第四人目は、ウリヤの妻、バテ・シェバである。
彼女は、それまでの3人とは、色々な面において異なっている。今までの3人は、何かしらの信仰の行動を起こして、栄光の家系へと加えられたが、彼女は、特に何か行動を起こしたわけでもない。
彼女はただ為されるがままである。体を洗っている裸を、ダビデ王に勝手に覗かれ、一方的に王に召しだされ、王の姦淫の相手とされ、そして一方的に王の子をみごもり、後には、一方的に夫・ウリヤは謀殺され、彼女はダビデ王の妻として迎えられ、そして、生まれて来た子は、王の罪の故に、主に打たれてしまった。
マタイの福音書には、バテ・シェバという名は記されず、「ウリヤの妻」として記されている。だから彼女を見る時、「ウリヤの妻」として見る必要があり、そしてウリヤがどのような人であったかを、まず知る必要がある。

ウリヤはヘテ人である。つまり、イスラエルが忌み嫌っているカナン人の末裔ではあるが、ウリヤという名前は「主(ヤハウェ)の光」という意味があり、また、ダビデの三十勇士の一人に数えられていたため(2サムエル記23:39)、恐らく彼も、ルツのように、イスラエルの神を慕い求めて来た異邦人の改宗者だったのだろう。
彼は、バテ・シェバという美しい妻を迎えた。彼女は、ダビデの三十勇士の一人エリアム(2サムエル23:34  名前の意味:神の民)の娘で、きっとエリアムは、ウリヤのその純粋な信仰と、誠実な人柄のゆえ、また、戦士としてのその有能さのゆえ、彼がヘテ人であるにもかかわらず、自分の娘を嫁がせたのだろう。
彼は、偉大な王ダビデに仕える戦士とされた事と、美しい神の民の娘を妻として迎えた事、そして、イスラエルの神に仕える者とされた事を喜びつつ、忠実に責務を果たす日々を送っていたのだろう。

その日もウリヤは、アモン人との戦争のために、イスラエルの全軍と共に遠征していた。
しかしダビデ王は、イスラエルの全軍が遠征に出かけていたのに、彼だけはエルサレムに留まっていた。
『ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、一人の女が体を洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。ダビデは人をつかわしてその女の事を探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。』(2サム11:2)
律法によると、人妻と通じる者は死刑であるのに(レビ記20:10)、ダビデは、ヘテ人の妻なら何しても良いと思ったのだろうか、彼は使いをやって彼女を召し入れ、彼女と寝た。
しかし、タマルの時と同じように、この、たった一度の逢瀬により、彼女はみごもる事になる。

ダビデ王は、彼女がみごもった事を聞いて、自分の罪を隠そうと、一計を案じる。
彼は、ウリヤを自分の所に送るように命じ、彼から適当に戦いの状況をたずねてから、家に帰るよう命じた。
ウリヤからすれば、あの尊敬する神の民・イスラエルの王・ダビデのお墨付きで、しかも贈り物つきである。
普通なら、喜んで美しい妻の待っている家に帰り、久しぶりに妻と一緒の時を楽しむ所だが、そうではない。
「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野の表に陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。」(11節)
彼はなんと忠実な人だろうか!主御自身も、イスラエルも、主人ヨアブも、戦いに出て野営している、それに引き換え自分だけ家に帰り、妻といい思いをする事など、できない、と言うのである。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろう。主も、部下も、戦いに出て野営しているというのに、彼だけ王宮に留まり、しかも夕方に起きだして屋上を散歩し、人妻を見て欲情し、姦淫する。
ダビデ王は、ヘテ人のこの忠実な一兵士の言葉を聞いて、悔い改めるべきだったが、そうはせず、かえってますます罪を隠そうとし、ついには、この忠実なしもべを殺そうとたくらむまでになってしまう。
ダビデ王と言えば、誰もが認める偉大な王である。ちょっとくらい、人妻と寝ても良いのでは、と思われる。かもしれないが、主の光に照らされる時、むしろ王だからこそ、そのような事は、許されないのだ。
福音書の系図に、なぜ「ウリヤの妻」として記されたか、それは、忠実なウリヤというヘテ人がいた事が記録され、多くの人に知られるためではないだろうか。主は、ウリヤのように、一外国人であっても、主と主君に忠実な人が陰謀によって殺され、人知れず暗闇の中に葬り去られる事など、決してゆるさないのだ。
その主のご性質は、弱き人にとっては慰めであり、強き人にとっては、戒めとして覚えておくべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人の怒り(ヤコブ1:19-27):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:荒野で蛇を上げる(民数記21:1-9):右クリックで保存

三十八年、荒野での養いを受けた民は、着実に変わってきている。

『時にネゲブに住んでいたカナンびとアラデの王は、イスラエルがアタリムの道をとおって来ると聞いて、イスラエルを攻撃し、そのうちの数人を捕虜にした。そこでイスラエルは主に誓いを立てて言った、「もし、あなたがこの民をわたしの手にわたしてくださるならば、わたしはその町々をことごとく滅ぼしましょう。」主はイスラエルの言葉を聞きいれ、カナンびとをわたされたので、イスラエルはそのカナンびとと、その町々とをことごとく滅ぼした。それでその所の名はホルマと呼ばれた。』(民数記21:1-3)

イスラエルの民が、今までにない事をした事に、皆さんは気づかれただろうか。
今までイスラエルの民は、信仰な事は全部、モーセにおんぶにだっこ状態で、時には逆らってさえいた。
しかし今回の問題が起きた時、彼らは自主的に主に誓いを立て、信仰をもって戦いへと進み出て、そして、勝利したのだ。

実は彼らがいる場所、ホルマは、38年前にも来た事があった。
それは、あの十二人の斥候の報告で民が不信仰に陥り、荒野での三十八年の放浪が決定してしまった時である。
彼らはその時、御心に逆らい、身勝手にカナンへ攻め込んで行こうとして、逆に返り討ちに遭い、ホルマまで敗走して来たのだ。(民数記14:39-45)

三十八年前、イスラエルの民は、不信仰と不従順の故に行って、ホルマでカナン人に滅ぼされた。しかし今や、彼らは信仰によって主に誓願し、信仰によって戦いに出て、同じ場所で見事、リベンジを果たしたのだ。
しかし、彼らはその直後、またもやつぶやきに陥ってしまう。

『民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。』(民数記21:4-6)
「火のへび」は「(燃えるような)激しいへび」とも訳す事ができる。
パレスチナの荒野には、このような危険な動物が他にも潜んでいるものだが、イスラエルが正しく主に導かれている限り、主は、彼らをそのような危険な動物から守っておられた。

彼らは、前章でもつぶやいているのに、主はその時は罰する事はせず、岩に命じて水を出すようモーセに指示している。
なぜ今回、主は民をは罰したのか。それは、今回彼らは主が与えて下さる恵みの食物・マナを、「粗悪な食物」呼ばわりしているからだ。
主は人に必要なものは与えてくださるが、主が与えてくださった恵みを侮る事は、許されない。

『民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。』(民数記21:7)
彼らは、ここでも、今までにない事をしている。
すなわち、自分たちが主に対し、モーセに対し、罪を犯した事を、はっきりと告白し、そして災いが取り去られるように、祈りを要請している事だ。

信じられない事かもしれないが、荒野の旅が始まった民数記9章以来、民が罪を犯し災いが与えられた時に、自分の罪を告白してモーセに執り成しを要請した記事は、残念ながら一つも見いだせない。
民数記14:40では、「自分たちが罪を犯した」と言っているものの従順は一切見られず、さっさと身勝手な事をし出したし、また、他の災いに遭った箇所でも、ただ「わめいた」とか、「何人が倒れた」とか、災いが災いのまま終わっているだけである。

今回、彼らは自分の側に過ちがあり、神とモーセに逆らった事を告白して認め、そして、祈ってくれるように要請する、という、斬新(?)な事をした。
私達も、不従順の故に災いを受け、その受けた災いを、ただそのまま、にしていないだろうか。
私達は自分の罪を、はっきりと主の前に(誰かに損害を与えたなら、その人に対しても)告白し、悔い改め、御言葉に従順する、という過程を経なければ、災いをただ受けっぱなしの状態を、続けてしまうのである。荒野の民は、三十八年も、ずっとそうだった。

今回主は、民が悔い改めた事を受け、救いの方法を示して下さった。
『そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。』(民数記21:8-9)

木の上に掛けられた、青銅の蛇を仰ぎ見ると、へびに噛まれた者も、その毒が無効化されて、生きる。
これは、イエス・キリストの十字架を表している。
イエス様はニコデモに言った。
『モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。』(ヨハネ3:14)

荒野の民が、木に掛けられた蛇を仰ぎ見て救われたように、全人類は、十字架の木に掛けられたキリストを仰ぎ見、信じるなら、救われて命を得るのである。
蛇はサタンの象徴であり、サタンは全人類に罪という毒を導入し、その影響を受けているアダムの子孫は、死ぬしかない存在となった。

木にかけられた者は、呪われた者となる(申命記21:23、ガラテヤ3:13)が、サタンの象徴である蛇は、荒野で木にかけられ、呪われた者となり、それを仰ぎ見た荒野の民の蛇の毒は、無効化された。
同じように、全人類は、「罪そのもの」(2コリント5:21)とされて罰されたキリストを仰ぎ見、信じる事によって、罪という毒は無効化され、いのちを得るのである。
キリストの十字架を仰ぎ見て信じる以外に、救いはない。

『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。』(ヨハネ3:15-18)

礼拝説教メッセージ音声:大祭司アロンの死(民数記20:22-29):右クリックで保存

イスラエルがエジプトを脱出する以前から、ずっとモーセと共に働いて来た、あの大祭司アロンが、いよいよ死ぬ時が来た。
『主はエドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンに言われた、「アロンはその民に連ならなければならない。彼はわたしがイスラエルの人々に与えた地に、はいることができない。これはメリバの水で、あなたがたがわたしの言葉にそむいたからである。あなたはアロンとその子エレアザルを連れてホル山に登り、アロンに衣服を脱がせて、それをその子エレアザルに着せなさい。アロンはそのところで死んで、その民に連なるであろう」。』(民数記20:23-26)

イスラエルがエジプトを出て、四十年目の一月には、ミリアムが死に、第五の月一日にアロンが死に、そして、同じ年の内に、モーセも同様に先祖の民の元へと集められる事になる。
走るべき道のりを走り終えて、定められたいのちを全うした人は、「連なるべき所」へと集められ、古きは過ぎ去って行き、そうして世代は新しくなって行く。
この事を見る時、虚しさや悲しさを覚えるかもしれないが、彼ら神の民が行く先は、どういう所か。

この「先祖の民に連なる(口語訳)」「先祖の列に加えられる(新共同訳)」「shall be gathered unto his people (KJV)」という独特の言葉は、アブラハムやイサク、ヤコブ、ヨセフが死ぬ時も用いられている。
神の民が連なる先、そこには、アブラハムがおり、イサクも、ヤコブもいる所、天の大祝会であり、私達の主・イエス様が、その祝会の主人である。
『あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。』(ヘブル12:22-24)

出エジプトの民が目指す約束の地は、確かに、乳と蜜の流れる良き地ではあるが、それは天の影、天の模型であり、完全なる桃源郷ではない。
事実、ヨシュアとその世代は、主に従順した故にその地で栄えたが、後の世代は、主に逆らったため、モーセやアロンが切望したこの地に居ながらにして、そこを呪いの地、災いを受ける地としてしまった。

ヨシュアはイスラエルの民を、真に安息の地に入らせたわけではない。
真の安息の地は、別にあるのだ。
『もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル4:8-9)
真の安息の地は、天にあり、そしてそこは、キリストを信じる私達が入るために残されているのである。

『モーセは主が命じられたとおりにし、連れだって全会衆の目の前でホル山に登った。そしてモーセはアロンに衣服を脱がせ、それをその子エレアザルに着せた。アロンはその山の頂で死んだ。そしてモーセとエレアザルは山から下ったが、全会衆がアロンの死んだのを見たとき、イスラエルの全家は三十日の間アロンのために泣いた。』(民数記20:27-29)

人間の祭司は、完全につとめを果たし続ける事は出来ない。
食事や睡眠などのために中断しなくてはならないし、また、アロンが度々罪あやまちを犯したように、人には「罪」があるため、完全な勤めは出来ず、そして、「死」という事があるため、永遠に勤め上げられない。
だから人には、完全なる祭司・キリストが必要なのである。

『イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:22-28)

結局、人間が出来る最上の執り成しは、人を真の大祭司なるイエス様の元へと導く事である。

礼拝説教メッセージ音声:兄弟からの拒絶(民数記20:14-21):右クリックで保存

イスラエルが、約束の地へと歩を進めて行く上で、エドムの地を通過するために、モーセはエドムの王に通行許可を求めている。
『あなたの兄弟、イスラエルはこう申します、『あなたはわたしたちが遭遇したすべての患難をご存じです。わたしたちが主に呼ばわったとき、主はわたしたちの声を聞き、ひとりの天の使をつかわして、わたしたちをエジプトから導き出されました。わたしたちは今あなたの領地の端にあるカデシの町におります。どうぞ、わたしたちにあなたの国を通らせてください。わたしたちは畑もぶどう畑も通りません。また井戸の水も飲みません。ただ王の大路を通り、あなたの領地を過ぎるまでは右にも左にも曲りません。』(民数記20:15-17)

エドム人の祖先はエサウで、イスラエル人はその弟・ヤコブの子孫であるため、イスラエル人とエドム人は、兄弟である。
その兄弟であるイスラエル民族が、今までどんなにに苦労して来たかを知っている筈なのに、エドム人はイスラエル民族を邪魔しにかかる。

『しかし、エドムはモーセに言った、「あなたはわたしの領地をとおってはなりません。さもないと、わたしはつるぎをもって出て、あなたに立ちむかうでしょう」。
イスラエルの人々はエドムに言った、「わたしたちは大路を通ります。もしわたしたちとわたしたちの家畜とが、あなたの水を飲むことがあれば、その価を払います。わたしは徒歩で通るだけですから何事もないでしょう」。しかし、エドムは「あなたは通ることはなりません」と言って、多くの民と強い軍勢とを率い、出て、これに立ちむかってきた。』(民数記20:18-20)

兄弟である民族が、ここまで良心的に再三通して下さいと願っているのに、エドム人は頑として通そうとはせず、最後には、武力行使までしようとしてきた。
彼らが自国内を通過する時に、畑からの産物や、水が奪われてしまうと思ったのか、あるいは、単純なる悪意からなのかは、分からない。

エドム人もまた、アブラハムの子孫ゆえ、栄えている。(創世記36章)
イスラエル民族が、エジプトで奴隷生活を送っている間も、着実に地歩を伸ばし、セイルの先住民であるホリ人を制圧し(創世記36:20-30)、首長も多く輩出し、(同15-19、40-43節)、イスラエルに王が出る遥か前から、王たちも多く出た。(同31-39節)
そして、この民数記が記された時点でも、エサウの子孫の方が、ヤコブの子孫よりも、富においても力においても勝っていたようだ。

しかし今、歴史を見ると、イドマヤ人(エドム人)は、1世紀頃に滅んでいる。
他方、イスラエル民族は、幾度も滅亡の危機に遭いながらも、今この二一世紀に至るまで、なお生きながらえている。
それは、神がイスラエルの祖先・アブラハムを特別に選び、この子孫を祝福する者を祝福し、のろう者を主は呪う約束をされたからである。
エサウは、同じアブラハムの子孫であったにもかかわらず、長男の権利を軽んじ、一杯の食物と交換し、その子孫であるエドム人も、選びの民であるイスラエルに、いつも敵対し、長きに渡って良くない事を計って来たため、ついには主に滅ぼされてしまったのだ。

それ故、私達はエドムのように、主の兄弟姉妹が困っている時に、心を閉ざしてはならない。
『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。・・・世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。』(1ヨハネ3:15-18)

傍目から見れば、この時点でイスラエルとエドムが戦争した場合、イスラエルのほうが遥かに分が悪いと見えただろう。
なにしろイスラエル民族は、エジプトでの400年の奴隷生活という出遅れがある上、荒野で40年も放浪して来ているので、戦闘訓練はあまり受けていないだろうし、装備も貧弱であっただろう。
それに、彼らは荒野で、女子供だけでなく、家畜も共に宿営しているのだ。

ではもし、イスラエルとエドムが戦っていたとしら、どちらが勝っただろうか?
それはもちろん、イスラエルである。万軍の主が、イスラエルと共におられるからだ。
しかし、イスラエルは兄からの武力によって、武力を返さず、兄からの怒りに対して、怒りを返さず、敢えて遠回りの迂回ルートを取った。

私達ももしかしたら、困っている時に、兄弟姉妹からの心無い拒絶に遭うかもしれない。
そのような時は、敢えて争おうとはせず、遠くに迂回して、成り行きを一切、主に委ねるのである。
実際、この後、カナン人がイスラエルに戦いを仕掛け、モアブ人も策略を用いてイスラエルを陥れようとするのだが、イスラエルの神、主は、彼らをことごとく守り、祝福へと導いて下さった。

『さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。
主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。』(詩篇34:12-22)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悔い改めにふさわしい実(マタイ3:1-10):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
666(黙示録13:11-18):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:モーセとアロンの致命的な失敗(民数記20:1-13):右クリックで保存
(音声データは後程アップします)

今回の箇所には、出エジプトの偉大な功労者である、あのモーセとアロンが、約束の地に入れなくなってしまうという、決定的な出来事が記されている。
この章の後半には、アロンの死が記されているが、民数記33:38によると、アロンが死んだ日は、イスラエル人がエジプトを出て四十年目の第五月の一日、とあるので、民数記の19章と20章の間には、三十八年もの隔たりが存在している事になる。

民はこの時も、水が無いと言って、モーセと争っている。(3-5節)
モーセとアロンは、またいつものように、主の御前に行ってひれ伏し、御心を伺った。
『主はモーセに言われた、「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。』(民数記20:7-9)

四十年ほど前、彼らがエジプトを出たばかりの時も、民は「水が無い」と言って争った事があった。(出エジプト記17章)
それから四十年、荒野の岩砂漠地帯を旅して来たというのに、「水がない」というクレームが上がった事が無く、むしろ、肉が無いとか、モーセが気に食わないとか、生存の危機からは遠いようなクレームばかりしか上がってこなかった、という事は、彼らは四十年、水には事欠かなかった、という事だろう。

今回の主の命令は、四十年前のあの時の命令とは、違う。
以前は「ナイル川を打った杖」で岩を「打った」が、今回は、主の前にある杖、すなわち、あの芽を出した「アロンの杖」を取って、岩に「命じなさい(語りなさい)」と言われている。それをするなら、岩から水が豊かに流れ出てくる、と言うのだ。

『モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。』(民数記20:10)
この言葉からは、モーセの、かなりの怒りが読み取れる。
あの謙遜なモーセが「そむく人たちよ、聞け」と、威圧的で支配的な言葉を使っており、われわれがあなたがたに何々してやらなければならないのか、という、投げやりな口調である。

『モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。』(民数記20:11-12)

モーセとアロンは、40年ほど前と同じように、岩を二度、打った。
しかし、それで、モーセとアロンは約束の地に入れない事が確定してしまったのだ。
なぜ? と、我々は思う。
この二人が今まで為してきた功績、耐え忍んで来た苦労を思い量るに、真っ先に約束の地に入れてあげたい気もするのだが。

しかし、いかに功績が大きくても、パラシュート無しに飛行機から飛び降りれば、地面に無残に叩きつけられてしまうのと同じように、いかに功績の大きいモーセとアロンと言えども、法則に即しないのであれば、約束の地に入れないのだ、という、主の法則の峻厳さを学ばなければならない。
一体、この事の何がいけなかったのだろうか。
聖書を読み解くには、聖書の他の箇所から、である。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。』(1コリント10:1)
なんと、荒野で四十年、イスラエルの民に豊かな水を提供する「岩」が、彼らについて来ていたのだ。そしてその岩は、キリストに他ならない。
モーセ自身も、荒野でひとりの御使いがついてきて、民を導いて来た事を意識している。(民数記20:16)

この度、主は、エジプトを打った懲らしめの杖を用いるのではなく、いのちを芽吹いた大祭司アロンの杖を手に取って、「岩に向かって命じなさい(原意:語りかけなさい)」と言われている。
語りかける、という行為は、人格を持った相手に為す事である。
モーセは今回、主に命じられた御言葉を信じ、岩なるキリストに、尊敬と信頼をもって「語りかけ」るべきだったのだ。
しかしモーセは御言葉を無視し、何十年前に行ったあのパフォーマンス、岩を打って水を出させたあの奇跡を起こすために、二度、岩を打ってしまった。
「打つ」というヘブル語「ナーカー」は、他にも「罰する」「殺す」という意味もある強い言葉である。
つまりモーセは、今回、キリストに信仰を持って告白するのではなく、怒りに身を任せ、キリストを二度「打って(罰して、殺して)」しまったのだ。

キリストは、ただ一度、十字架上で打たれ、その傷からは、水と血が流れ出てきた。
それによって私達は救われ、いのちを得た。
モーセは、かつて40年前、奴隷の国エジプトから脱出したばかりの時、主の命令により、岩を打って水を流し出したが、キリストが打たれるのはただ一度、人が罪の奴隷から開放する時だけで、十分である。

モーセはそのような間違いを犯したが、これは、牧師や教職者も陥りやすい過ちである。
民は時に、生きるために必要な水が無いが故に、語気荒くつぶやいてしまうような時も、あるだろう。
しかし、そのような時、牧師や教職者は「またか」と言って、怒りに身を任せて、御言葉に反する事をしてはならない。

民数記20:10-11を、現代風に言葉を置き換えると、次のようになる。
『牧師と教職者は、会衆をキリストの前に集めて、彼らに言った。「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのために、このキリストから水を出さなければならないのであろうか。」牧師は手をあげ、杖でキリストを二度「打つ(罰する、殺す)」と、水がたくさんわき出たので、会衆はともに飲んだ。』

こう読み替えると、とてもひどい事をしている事が分かり、そして同時に、教職者が陥りやすい罠でもある事が分かる。
教職者は、怒りにまかせて御言葉を無視してはならない。また、何年も前に成功したあのパフォーマンスを、何度も繰り返そうとしてはならない。

キリストはただ一度、罪を処罰するために打たれた。
私達は、キリストをもう一度罰するようなまねは、してはならない。
信仰をもって、岩なる主キリストに「語る」なら、キリストはその通りにて下さり、そして生ける水を、川々として流し出して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:人間の死体の汚れ(民数記19:11-22):右クリックで保存

『すべて人の死体に触れる者は、七日のあいだ汚れる。』(民数記19:11)
レビ記11章によると、どんなに汚れた動物や忌むべき動物の死体に触れたとしても、身を洗い清めたなら、夕方には清くなるというのに、なんと、人間の死体に限っては、触れれば七日も汚れるというのだ。
もし、衛生概念的な理由だけから考えるなら、七日という日数は、ちょっとやりすぎの感がある。
しかし、主がそう定められた以上、それが真理である。
つまりそれだけ、人間という生き物は、汚れているという事だ。
コラは、イスラエルの会衆残らず聖なるものだと主張したが、とんでもないのだ。

死体はなぜ汚れるのか。
それは、死は、人の「罪」が結んだ実の、最終形態だからである。(ヤコブ1:15)
人間の腐乱死体の臭いは、どの動物の腐乱死体よりもひどい臭いだと、聞いた事がある。
それはきっと、人が生きている時に、罪を飲み食いしたためであろう。

元々、被造物は何の罪も犯してはいなかった。しかし、人間が「罪」を犯したが故に、全被造物が呪いを受けてしまった。
人の罪の故に、土地は呪われ、いばらとあざみを生えさせるようになり(創世記3章)、全被造物は深いうめきの内に入り、神の子達のあらわれを切実に待ち望んでいる。(ローマ8:19)
イスラエルの民が、動物の死体を運んだり、人の死体を運んだりした時、汚れからのきよめの期間を過ごす度に、人間の罪汚れの深さを、思い知った事だろう。

『その人は三日目と七日目とに、この灰の水をもって身を清めなければならない。そうすれば清くなるであろう。しかし、もし三日目と七日目とに、身を清めないならば、清くならないであろう。』(民数記19:12)
三日目と七日目とに、という所が興味深い。

三日は、復活までの期間である。
イエス様が復活されたのは三日目であるし、ホセア書にも「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。」と書かれてある。(ホセア6:1-2)
また、七は完成の数字、安息の数字である。
主は、六日の間に創造のみわざを完成し、七日目に休まれ安息された故に、主は第七の日を聖とされた。(創世記2:1-3)

私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、既に罪に対して死んでおり、全く新しいキリストの復活のいのちが息吹かれた。
つまり私達は、キリストにあって、三日目の復活を経たのだ。
しかし、罪のとげが刺さっている肉体をまとっている以上、罪を犯さざるをえないこの体にうめきつつ、完全に贖われる日、すなわち、第七の日を待ち望んでおり、私達は、この望みによって救われているのだ。(ローマ8:19-24)

『しかし、汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。汚れを清める水がその身に注ぎかけられないゆえ、その人は汚れているからである。これは彼らの永久に守るべき定めとしなければならない。すなわち汚れを清める水をふりかけた者は衣服を洗わなければならない。また汚れを清める水に触れた者も夕まで汚れるであろう。』(民数記19:20)
その身を汚しておいて、ことさら、清めに与ろうとしない人は、神の民から断たれなければならないと、主は命じている。
その人は、主の聖所を汚す者であるから、というのがその理由だ。

キリスト者の中にも、罪の汚れに身を投じておきながら、自らを清めようともせずに、平気でいる人がいるが、それは、主の会衆を汚し、教会を汚しても平気な人である。
主はそのような人を、忌み嫌われる。
私達は、罪の汚れを受けたなら、率先して清めに与ろうとしなくてはならない。

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