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礼拝説教メッセージ音声:独身のあせりの時は(創世記24:1-9):右クリックで保存
イサクはリベカをめとった時、40歳(創世記25:20)、という事は、アブラハムはこの時点、およそ140歳であった。
創世記11章の系図を見ると、みんな2,30代で子を生んでいるので、40歳での結婚は、晩婚の部類に入る。
イサクはなぜその歳まで独身であったか。
それは、彼に相応しい助け手が中々見いだせなかったからであろう。
相応しい、とは、家柄の面でも、資産の面でも、ましてや美しさの面でもない。
主を恐れる信仰があるかないか、である。
彼らが住んでいたカナン地方は、偶像礼拝に満ち、不品行がはびこっており、そもそもイサクをカナンの子孫と結婚させるなど、信仰の上ではあり得なかった。
人は何かと、家柄や資産、美しさなどに惹かれ、中々結婚相手が見つからないと、手近な異性に惹かれるものだが、そうあってはならない。
アブラハムは年老いて、サラが死んで3年が過ぎ、40歳ほどになったイサクの結婚相手も、そろそろ見つけなくては、と思った事であろう。
しかし周りは、カナン人ばかり。
セムの子孫で神をおそれる女性など住んでいないし、訪ねにも来ないし、また、神の御声による具体的な指示も特に無い。
神が「○○に行きなさい」とか「○○と名づけなさい」など、具体的な導きをしたのは、イサクを捧げた場面が最後で、それ以降、神はアブラハムに直接指示する事はなく、全ての行いの決定は、アブラハムの信仰に委ねておられた。
現代、神が直接的な指示を、私達になされる事は少ない。
私達は、内におられるキリストに従い、神に喜ばれる事は何であるかを見極め、自由に選択し、御心に沿った行動をする事を、主は喜ばれる。(ガラテヤ5:13)
アブラハムは焦っただろう。このままでは、年月だけ、いたずらに過ぎていく。
そこで彼は、待ちの姿勢を止めて、信仰による攻めの姿勢に出た。
アブラハムは、最年長のしもべを呼び寄せた。
このしもべは15章に登場した、あのダマスコのエリエゼルと思われる。
エリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味、新約で言う「助け主」と同じ言葉で、彼はその名前の通りの事を今回為す。
『アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」』(24:2-4)
手を腿の間に入れての誓いは、最も厳粛な誓いである。(創世記47:29)
アブラハムが誓わせようとした内容は、普通に考えれば、困難を極めるものであった。
もしあなたが未婚女性だったなら、遠国の見ず知らずの老僕に付いて行って、800キロも向こうの、一度の言ったことのない国、一度も会ったことのない男性に、信仰によって嫁ぎに行けるだろうか?
僕は尋ねた。「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」
見ず知らずの男性に嫁ぎにくる女性は皆無であろうが、実際に目の前にいる男性となら、結婚する気が起きるかもしれない。そう考えたのであろう。
しかしアブラハムの答えは、NOであった。
彼は、ずっと昔に与えられて今でも有効な「主の約束」を信じていたからである。
「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」(創世記24:7)
主はアブラハムの今までの長い人生を、ずっと導いて下さった。
だから、普通に考えればありえないような条件でのイサクの嫁探しも、主が御使いを使わし、導いて下さるに違いない。
そう信じたからこそ、堂々と指示する事が出来たのだ。
「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。」
アブラハムは「もし・・・」と言ったものの、100%そのような事は無く、このしもべは必ずイサクに相応しい嫁を連れて戻ると信じていた事だろう。
しかし、このしもべを安心させるために敢えてそう言ったおかげ、しもべは安心して誓い、安心して行く事ができた。
「ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」
アブラハムにとって、息子をメソポタミヤ地方へ向かわせる事は、有り得なかった。
ロトがソドムに定住して、悪い価値観に染まってしまったように、イサクが異国の風土に魅了され、約束の地を離れてしまうような事があってはならない、とアブラハムは思った事だろう。
どんな人と結婚するかも、おろそかにしてはならない。
ノアの時代、神の子たちは人の女が美しいのを見て妻にして、人類全体に滅びを招いてしまったし、後の時代のソロモン王やアハブ王も、不信仰な妻によって惑わされてしまった。
ロトの娘達は、手近にいる異性は父しかいない状況で、信仰によって忍耐する事なく、父と寝るような選択をしてしまい、後々に恥を残すようになってしまった。
結婚に限らず、人生の重要な場面において、望むものが中々与えられないような時、神様からの具体的な示しが無い時は、アブラハムのように、御言葉の約束にもとづいて、信仰の行動を取り、主の守りと導きに従って、祝福を勝ち取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:寄留者として(創世記23章):右クリックで保存
「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」(創世記23:2)
アブラハム人生最大の試練、イサクを捧げる場面では、彼の感情表記は一切無かったというのに、ここでは、アブラハムは胸を打ち、嘆き悲しんだと書かれている。
彼がいかにサラを愛し、大切にしていたか、いかにこの時悲しかったかが伺える。
アブラハムは、その地に住んでいるヘテ人たちに言った。
「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」
主からは、その地を与える、と約束されているのに、彼はあえて、自分は「あなたがたのところに一時滞在する寄留者」だと言っている。
私達も、この世では寄留者である。
世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく私達のものである(1コリント3:22)けれども、あえてそれを主張せず、世においては、持たない者のように、寄留者という立場で歩むのである。
なぜなら、私達は「主のもの」であり、本籍を天に置く者達であるからだ。
アブラハムはこの地において「神に選ばれた方」(英語の聖書では「神の王子」)と言われていた。(創世記23:6)
この事から、彼は、富においても、人格者としても、そして、全能の神が彼を明らかに祝福している点においても、彼は異邦人の中にあって、一目置かれた存在であった事がわかる。
私達も、教会の中でしか通用しないクリスチャンであってはならず、世に出ていき、キリスト者としてしっかり良き評判を得る事が望ましい。
御言葉を守り行う事によって、私達は祝福を受け、それを見た人達が全能なる神に栄光を捧げるようになるからである。
『アブラハムはヘテ人にていねいにおじぎをして言った。「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。」』(創世記23:8-9)
実に、へりくだった物腰、謙遜な言い方である。
この地において祝福され、力があるのに、つけこんで傲慢にならず、彼はただ、エフロンの所有である畑地を所望した。
エフロンは彼に「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。」と応え、アブラハムは再び皆の前でおじぎをして答えた。
「私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。」
エフロンの「差し上げます」という言葉は、ずいぶん太っ腹に見えるかもしれない。
これは、当時のヘテ人(ヒッタイト人)の商取引時の慣習で、売る側は最初に「差し上げます」と言い、買う側は「いえ、代価をお支払いします」と辞退し、そこから具体的な値段交渉が始まるのが、当時の通例であった。
エフロンはアブラハムに答えて言った。
「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。」
当時の資料によると、村ひとつの値段は、百から千シェケル程だったので、一つの畑地に対して四百シェケルという値段は、かなり高額である。
四百シェケルは値段交渉の最初の一声であり、本来なら、そこから値下げ交渉が始まるはずだったのに、アブラハムは実に太っ腹で、言い値の最も高い段階で、それを成立させてしまった。
人々は、アブラハムの鷹揚さ加減に驚いたであろう。
事実、アブラハムにとって、四百シェケルは、大した事では無かった。
出費を抑える為に値段交渉は出来たであろうが、金銀など主がいくらでも備えて下さる事を知っていたアブラハムは、むしろ、仮住まいである異邦人の地で、平和に、神に祝福された者として、振る舞ったのだ。
こうしてこの畑地は、正式にアブラハムのものとなった。
彼はこのカナンの地の全体を、得た約束を主から頂いていたが、事実上、彼の人生の中で得た土地は、このわずかな畑地だけだった。
彼の富と武力をもってすれば、さらに多くの土地を得ようと思えば、得る事が出来たであろう。
にもかかわらず、彼が得たのは、墓場のみだった。
信仰の父であり、私達の父であるアブラハムが、そのようにしたからには、私達も、この世においては、いかに生きるかではなく、いかに死ぬか、という用意すべきである。
アブラハムは、自らを一時滞在する寄留者であると告白したように、私達もこの世界での歩みは、一時滞在の寄留者という立場である。
私達には、さらにすぐれた都、天の故郷がある。(ヘブル11:9-16)
そこにはアブラハムやイサクがおり、信仰の先人たちがおり、彼らは、私達が地上での信仰の歩みを全うして、やがてそちらに行くのを、待っている。
この世においては寄留者として生き、この世に煩わせられる事なく、ただ天の故郷を日々目指して歩み、この地上においてさえも、豊かに祝福されて歩んで行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:死と復活、そして永遠の祝福(創世記22:15-24):右クリックで保存
「主の山に備えあり」とよく言われている。
私達に与えられた最高の備え、最も感謝すべき備えとは、身代わりの羊である。
イサクは、身代わりの羊が備えられたお陰で、死ぬべきいのちが救われたように、イエス様が自らのいのちを投げ打ち、身代わりの羊として私達の罪を担って下さったからこそ、私達は救われたのだから。
『御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。』(創世記22:16-17)
今まで何度か主は現れ、約束を示されたが、「誓う」という言葉を用いられたのは、今回初めてである。
アブラハムが、自分のいのちよりも大切なイサクを捧げた事によって、彼への祝福の約束はここに極まり、主は誓って、確約へと至ったのだ。
人は普通、自分よりも偉大な者にかけて誓う事によって、あらゆる反論を封じる保証とするが、神は、ご自身よりも偉大な者が無いため、ご自身にかけて誓われた。
神は偽ることの無いお方であるため、元々誓う必要は無いはずだが、それでもわざわざ誓われたのは、人に錨のような安心を与えるためであり、また、励ますためである。(ヘブル6:13-19)
神は、アブラハムを豊かに「祝福」し、大いに「子孫を増やし」、その「子孫は敵の城門を勝ち取る」、という三つを誓われた。
ここに「子孫」という言葉が出てくるが、いずれも英語では「seed」、すなわち、種という意味の単数形である。
『アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。』(ガラテヤ3:16)
つまり、この単数形の子孫は、キリストの事で、天の星、海辺の砂のように増やされるのも、敵の城門を勝ち取るのも、全てキリストである。
「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ53:12)
アブラハムの、この最高の従順によって、エバ以降、人類に与えられていた救いの約束が、誓いと共に確約した。
その約束とは、創世記3章15節「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」で、すなわち、女の子孫(単数形)が与えられ、彼がサタンの頭を砕く、という約束である。
蛇はかかとを砕く、すなわち、ある程度のダメージを「子孫」に与えるが、この子孫は、サタンの頭を砕き、致命打を与え、勝利し、そして、全人類はこの御方によって祝福に入る。
この、人類を救うメシヤである単数形の子孫が、アブラハムから出てくる事が確約されたのだ。
「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫(単数)によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:18)
アブラハムがこの祝福の誓いを勝ち取る事ができたのは、彼が主の声に聞き従い、実に、自分のいのちよりも大切な、イサクを捧げたからである。
自分自身を十字架の死に明け渡す事、そして、死から復活する事。これこそ、私達キリスト者の信仰の根幹である。
私達は、主の御前に自らを降ろし、自らを十字架につける事抜きには、復活はあり得ず、祝福はあり得ない。
自らを主の御前に降ろし、自らを十字架につけるなら、3日の死の後に復活の力が働き、その力は、世の何者も、サタンも、死にさえも、打ち破られる事は無く、永遠のいのち、永遠の祝福に入るのである。
今日は教会の皆と共に富士純福音教会に行き、私達と親しくしている牧師夫婦の就任式兼離任式に参加させていただきました。
それまで、旦那さまのほうが牧師として導き、奥様は伝道師としてフォローしていたのですが、この度、旦那さまの病により、これ以上牧会をする事が難しくなったため、旦那さまは第一線を退き、奥様がこれから第一線に出て、教会を導く事となりました。
多くの困難は予想されますが、それにも増して、主は祝福を多く注いで下さると信じつつ、今まで祈って来ました。
今日、彼らにとって新しい門出となりましたが、主イエスが彼らを全てにおいて支配し、信徒一同が、キリストのからだを建て上げるための良き働き人となり、教会全体が以前にも増して祝福されるよう、引き続きお祈りしております。
礼拝説教メッセージ音声:主の山に備えあり(創世記22:9-14):右クリックで保存
アブラハムがイサクをささげる場面には、キリスト者にとって重要な様々な予表が埋め込められている。
父が、大切な一人子を捧げる。
その事に、御父なる神の、ひとり子イエスキリストを犠牲にする葛藤を見る。
アブラハムは、自分のいのちよりも大切な一人子を、刀を取ってほふろうとしたが、主が備えて下さった雄羊を身代わりとして捧げ、そうしてイサクは生かされた。
私達もまた、本来は自分の罪の故に死に処されて当然であるのに、まことの子羊・キリストが身代わりとなって罰を受けてくださったおかげで、私達はこうして、なお生かされている。
アブラハムは、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていた約束を信じ、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたため、信仰によって、イサクを死者の中から返してもらった。(ヘブル11:17-19)
それ故、イサクから出るアブラハムの子孫は、死をくぐって聖別され、その従順が神の前に義とされ、全人類を救いへと導く祭司のような民族とされたのである。
キリストもまた同様である。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブル5:7-10)
子であるイサクは、父の縄目に自ら縛られ、父によって神に捧げられてしまった。
イエス様はゲツセマネで、悲しみのあまり死ぬほどだったように、イサクも、父に縛られ刀を向けられた時、悲しんだであろう。
イエス様は「父よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、イサクも、見捨てられたと思ったかもしれない。
しかし、イサクは死から救われ、生かされ、祝福された。同様に、イエス様も、死から解き放たれ、永遠に生きるものとされた。
イサクは、父によって一方的に捧げられる事によって、祝福された者となった。
アブラハム、イサク、ヤコブの中で、最も平和でラクな生涯を送ったのは、イサクであった。
彼が種を蒔くと、百倍の実を結び、彼が土を掘ると井戸が湧き出、それを奪われても尚祝福されるので、恐れをなした異国の王は、彼に同盟を申し入れて来たほどだった。
父によって一方的に捧げられる事によって、大いに祝福される事をイサクは経験したが、イエス様もまた同様である。
「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」(イザヤ53:10-12)
「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記22:14)
私たちは「主の山に、備えあり」という言葉を、よく、物質的な必要の満たしを主は備えて下さる、というニュアンスで用いる。
しかし、主がアブラハムに備えて下さったものは、かけがえのない一人子の命を救うための身代わりという、尊いものであった。
主が私達に備えて下さった、最も良きもの、それは、私達のいのち身代わりとなる、子羊キリストである。
アブラハムは、主は備えて下さるお方である事を経験し、子孫達に伝えたであろう。
主は、死んだも同然の者からいのちを息吹かせて下さるお方であるという事、主は、死人の中からよみがえらせて下さるお方であるという事、主は、いのちを備えて下さるお方であるという事を。
私達もまた、主が成して下さった最も良きこと、すなわち、御父の贖いを、人類の身代わりとなって下さった御子を、私達を助け取り成して下さる聖霊を、世に伝えるべきである。
月曜は、朝礼拝とメッセージ配信以外はお休みですので、溜まった家事をしたり、休んだりしていました。
一昨年に山手に引っこして以来、家の付近を散策するという事をあまりしていませんでしたので、今日はちょっと自転車で回ってみました。
家の付近は『コクリコ坂から』の舞台付近みたいで、坂が多く、道は狭くて複雑ですので、自転車ではちょっときつかったですが、坂の上から見下ろす横浜の町は、実に味わい深く、夏の空気が気持ちよかったです。
唇という火の用心方法(ヤコブ3:1-12、マタイ12:33-37)
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一度焼いてしまったものは元に戻す事が出来ないように、一度唇から出た言葉は、戻す事ができない。
火は、何百年もかけて育まれてきた森を焼きつくし、何十年も働いてローンを払ってきた大切な家も、一瞬で失ってしまう怖さがある。同じように、唇から出てくることばも、何十年かけて築き上げた信用や地位、友情、大切な家庭を、一瞬にして破壊してしまう事がある。
そうして一瞬で焼き尽くしてしまったものを、再び元通りにするには、膨大な時間と労力が必要である。
舌で過ちを犯さないようにするには、一体どうすればよいか。
舌を制御する事は誰にも出来ないとヤコブ3:8 に書いてある。一体、唇を制御する方法はあるのだろうか。
主イエスは言われた。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイ12:34)
口から出る言葉の源は「心」であり、心は、日ごろ何を思いめぐらしているかによって決まる。
常日頃、人の噂や恋愛沙汰などのゴシップばかり思い巡らし、そういう話ばかりしているなら、世の全てがゴシップという土台の上で回っているかのように見えてしまうし、常日頃、あらゆる事を儲かるか損するかで考えているなら、お金にはならない尊い事、たとえば、主婦業や子育てさえ、無駄と見なしてしまう。
拒否される事をいつも恐れている人は、自身の非を戒められても「ああ拒否された、拒否された」と過度に傷つき、戒めを正しく受け入れられず同じ過ちをいつも繰り返してしまうし、性的な事をいつも思い巡らしている人は、異性と接する時、妄想が絡み付いて健全に接する事が出来ない。
人格形成において重要なのは、一週間の168時間の内、主日に礼拝で捧げる2時間よりも、むしろ、その背後にある膨大な166時間を、何に捧げ、何を思い巡らし、何を話して過ごしているかである。
対策方法は、実にシンプルである。
「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」(マタイ12:35)
と書かれてある通り、心の倉の悪いものを、良いものへと、入れ替えて行けば良いわけである。
自分のしている事が思うように行かない時や、神や人から受け入れられないのであれば、主の前に出て、その出所元が、良い物からなのか、悪いものからなのか、御言葉に照らして吟味する必要がある。
もし主の前に正しいのであれば、神と人の前に堂々と顔を上げていられるはずだが、正しくないなら、罪は戸口で慕い求めている。その都度、それを支配せねばならない。(創世記4:6-7)
家に居る時、職場にいる時、つぶやいたり人を誹謗中傷する思いなどに気づいたら、都度、キリストにあってとりこにし、捨て去り、御言葉に服従するのであれば、倉の中はどんどん良いものに入れ替えられていく。
さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させるのであれば、あらゆる心の不従順は罰せられていくのである。(2コリント10:4-6)
蔵の中を入れ替えるのは、常日頃の短調作業であり、時間と根気が必要であるが、そうやって努力して過ごす一年と、だらけて何も努力しない一年とは、人生の大きな違いとなる。
コロサイ3:15-17には、心の倉を良いものへ入れ替えて行く上での、非常に有効な対策法で満ちている。
まず、「キリストの平和が心を支配するように」する。誰かから口汚い事を言われても、キリストの血をふりかけ、キリストにある永遠の平和の土台に立つのである。また、「いつも感謝」する事によって、主が為してくださる良き事をいつも探す、という、良き思考パタンを身に付けて行くのである。
そして最も大切なのは、「キリストの言葉を豊かに住まわせ」る事。御言葉以上に良いものはこの世に無い。
自分一人では自信がない方のために、聖徒の交わりがある。消防団が「火の用心」と拍子木を鳴らすように、聖徒の交わりで「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」、互いに、唇の火の用心をし合うのである。
「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」いつも賛美を口ずさんでいるなら喜びがある。特に賛美は、悲しみの時や誘惑の時、非常に有効である。
そうして、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝」する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!